古賀達也一覧

古田史学の会代表古賀達也です。

第3542話 2025/10/12

興国の津軽大津波伝承の理化学的証明(4)

 理化学的年代測定により「興国の大津波」があったとする報告書「津軽十三湖及び周辺湖沼の成り立ち」(1990年、注①)を「洛中洛外日記」3534話〝興国の津軽大津波伝承の理化学的証明(3)〟で紹介しましたが、その論文などを根拠とした文部科学省地震調査研究推進本部地震調査委員会(2003年)の報告が出されています。そこには次のように記されています。

〝表5 日本海東縁部における主な地震に関する文献での評価結果など
1341年10月31日
『東日流(つがる)外三郡誌』によれば、朝地震とともに約9mの津波が津軽半島の十三湊を襲い26,000名が溺死したとある。(渡辺、1985)。同歴史文書の信憑性について疑問視する人もおり、第二版の渡邉(1998)からは同地震の記述が削除されている。
然るに、十三湖水戸口に周辺での試錐調査からは、この時期巨大津波の襲来によるものと思われる海岸環境の劇的な改変が示唆される(箕輪・中谷、1990)。
本報告では、これらに中嶋・金井(1995)によるタービダイトの解析結果も加えて比較検討し、歴史記録からは信憑性に欠けるものの、この時期に巨大津波を伴う地震が青森県西方沖で発生したものと判断する。〟(注②) ※古賀注 1341年は興国二年。

 このように「この時期に巨大津波を伴う地震が青森県西方沖で発生したものと判断する。」と文科省の地震調査委員会は判断しており、『東日流外三郡誌』偽作キャンペーンで偽作の根拠とされた「興国の大津波」和田喜八郎偽作説が、科学的根拠に基づいて事実上否定されていることがうかがえます。
とは言え、「歴史記録からは信憑性に欠ける」という一文は非論理的で意味不明です。理化学的調査に基づき、「この時期に巨大津波を伴う地震が青森県西方沖で発生したものと判断」したのであれば、『東日流外三郡誌』など現地伝承史料に遺された「興国の大津波」記事は歴史事実の反映であり、その信憑性は高まったとするべきでしょう。文科省の地震調査委員会はいったい誰に忖度し、何を畏れたのでしょうか。歴史研究者が恐れなければならないのは歴史の真実であり、科学者であれば科学的エビデンスと科学の真理ではないでしょうか。(おわり)

(注)
①箕浦幸治・中谷 周「津軽十三湖及び周辺湖沼の成り立ち」『地質学論集』第36号、1990年。
https://dl.ndl.go.jp/pid/10809879
②『日本海東縁部の地震活動の長期評価』文部科学省地震調査研究推進本部 地震調査委員会、2003年。本報告の存在を竹田侑子さん(秋田孝季集史研究会・会長、弘前市)に教えていただいた。
https://www.jishin.go.jp/main/choukihyoka/03jun_nihonkai/s01.pdf


第3541話 2025/10/08

『東日流外三郡誌の逆襲』

八幡書店トークイベントのご案内

 『東日流外三郡誌の逆襲』(古賀達也編)の版元、八幡書店が同書出版記念イベントとして、10月25日(土)に東京でトークショーを開催します。わたしも参加することになりましたので、同社ブログより案内を転載します。定員50名とのことです。『東日流外三郡誌』にご興味のある方はご参加下さい。
その翌日の26日(日)午後には文京区民センターで、「古田史学の会」主催の『列島の古代と風土記』出版記念講演会を開催します。こちらにも是非ご参加下さい。

《以下、八幡書店ブログより転載》
トークイベント「壁の外に歴史はあった!」 (2025年10月25日)
【壁の外に歴史はあった!】
『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念トークイベント
トーク:古賀達也・武田崇元・黒川柚月

 古代史最大のタブー『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』に真正面から挑んだ衝撃の書籍『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店刊)。
本書の登場により、「偽書」VS「正史」という単純な構図は崩れ、逆に問われるのは近代日本の“歴史認識”そのもの。
既成の壁を越えた「もうひとつの歴史」を求めて、あなたもこの知的冒険に加わってみませんか?
「逆襲」の編著者 古賀達也(古田史学の会・代表)、和田喜八郎と交流のあった弊社社主武田崇元、そしてゲストとして登壇する黒川柚月が、それぞれの視点からタブーの核心に斬り込む。三者三様に『東日流外三郡誌』に対しては温度差があるだけに面白い。
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【トークの見どころ(一部)】
●古賀達也による冷静かつ鋭利な文献批判と、新たな資料的価値の提示!
●武田崇元が語る、和田喜八郎との邂逅と『東日流』の伝承と霊的背景!
●黒川柚月が明かす!麻賀多神社~平将門~東日流文書をつなぐミッシングリンクとは?
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●日時:2025年10月25日(土) 13時~17時(途中休憩あり)
※それぞれ、開始15分前から受付開始します。
●場所:ゼン・ハーモニック(ZEN-HARMONIC)
5階 セミナールーム
●アクセス:
東京メトロ有楽町線 「麹町駅」 徒歩1分
東京メトロ半蔵門線 「半蔵門駅」 徒歩6分
JR 中央・総武線 「四ツ谷駅」 徒歩10分
※「麹町駅」からの行き方:
4番出口から左に出て、(株)ニップン(NIPPN)の角の信号を左折。

50mほど歩いて左に見える白い「高善ビル」のエレベーターで上がります。
●トーク:古賀達也・武田崇元・黒川柚月
●募集人数:50名様限定
●参加費:5,000円+税=5,500円
【早割:9月30日までにご予約の方は4,500円+税】
※終了後、懇親会あり(別料金当日精算。後日ご案内します)
●お申し込み方法
下記サイトにてお申し込み下さい。
八幡書店ANNEX
https://hachiman2.stores.jp/
電話でのお申し込みも受け付けております。03-3785-0881

https://hachiman2.stores.jp/items/68a8e44d0f090cc7e038fc40


第3540話 2025/10/07

津軽に多い「山神宮」

 弘前市立図書館で津軽藩内の神社や社司の調査記録「安政二年 神社微細社司由緒調書上帳」(写本)を読んだところ、津軽各地に「山神宮」という神社が多いことに気づきました。いずれもそれほど大きな神社ではないように見えましたが、以前の調査「洛中洛外日記」〝東北地方に濃密分布する「山神社」〟(注①)で、東北地方に「山神社」が濃密分布していることを報告し、なぜか青森県には少ないとしました。次の通りです。

 〝福岡県出身で京都に五十年住んでいるわたしには、「山神社」という聞き慣れない名称が気になり、ネットで調べてみました。各県神社庁のホームページによれば、山神社は東北地方に濃密分布しており、中でも宮城県と山形県が最濃密地域のようでした。秋田県や岩手県にも分布が見られますが、なぜか青森県には分布を見いだすことが、今のところできていません。〟

 しかし、弘前市立図書館で読んだ「神社微細社司由緒調書上帳」には、「山神宮」という神社名が各地に散見されました。ご祭神は記されておらず、津軽の「山神宮」で祀られている神様の調査はまだできていません。「山神宮」の訓みについても、「さんじんぐう」なのか「やまがみのみや」なのかも未調査です。当地の方に聞いてみたいと思います。

 次に問題なのが、「山神宮」の「山」とは何なのかということです。一般的には mountain のことと思われますが、「山」一般を神様とする信仰にも違和感があります。やはり、津軽で「山」と言えば岩木山のことではないでしょうか。たとえば、わたしの調査によれば東海地方にも「山神社」が濃密分布しており(注②)、こちらの「山」は富士山のことと思います。山梨県の富士山の周囲に「山神社」が分布していることも(注③)、この理解を支持しているように思われます。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3519話 2025/08/20〝東北地方に濃密分布する「山神社」〟
②Wikipediaには愛知県の次の山神社が紹介されている。
山神社 – 愛知県名古屋市千種区田代町:旧村社
山神社 – 愛知県名古屋市中区松原:旧村社
山神社 – 愛知県名古屋市北区安井
山神社 – 愛知県刈谷市一里山町
山神社 – 愛知県名古屋市港区知多:旧村社
山神社 – 愛知県名古屋市緑区大高町:旧村社
山神社 – 愛知県尾張旭市瀬戸川町
山之神社 – 愛知県半田市山ノ神町
山神社 – 愛知県半田市天王町
山神社 – 愛知県半田市岩滑東町
山ノ神社 – 愛知県知多郡武豊町山ノ神
③Wikipediaには山梨県の次の山神社が紹介されている。
新屋山神社 – 山梨県富士吉田市新屋:山神社
山神社 – 山梨県中央市大鳥居

《写真解説》五所川原市金木町の山神宮。ブログ「神社探訪・狛犬見聞録」より転載させていただきました。


第3539話 2025/10/06

津軽にいた阿倍比羅夫の御子孫

 弘前市立図書館では、キリシタン禁圧文書の他に、津軽藩内の神社や社司の調査記録「安政二年 神社微細社司由緒調書上帳」(写本)を閲覧しました。同書は安政二年(1855)に編纂されたもので、原本は弘前市の最勝院が蔵しています。そのため、弘前市立図書館にある八木橋文庫の同書写本(注①)のコピー版を閲覧しました。

 「神社微細社司由緒調書上帳」はかなり大部の史料のため、精査は無理でしたが、5時間ほどかけて二~三度目を通したところ、面白い記事が目にとまりました。それは『日本書紀』斉明紀に見える大将軍、阿倍比羅夫(あべのひらぶ)の御子孫についての記録です。弘前にある熊野神社の神主、長利(おさり)家の祖を阿倍比羅夫とする記事が「神主由緒書」の冒頭に次のように記されています。

 「神主由緒書
一神代 二津石 又、比羅賀□王より*号す。
右は阿倍比羅夫の子孫。(中略)

二二代 長利麿
(以下略)」
※古賀による訳文。□は一字不明。「*号」は偏が「号」、旁が「逓」の中の字か。

 長利家は津軽の著名な社家ですが、その祖先を阿倍比羅夫とする伝承が津軽藩による公的な調査資料に記されていることから、長利家自身がそのように自家の系譜を認識していたと考えられます。東北の蝦夷討伐で活躍し、更に北方の粛慎とも戦ったと『日本書紀』に記された阿倍比羅夫を祖先とするのですから、それは誇るべき事ではありますが、津軽には滅ぼされた側(蝦夷国)の末裔が多数住んでいるのですから、長利家は古代においては複雑な立場に置かれたのではないでしょうか。

 なお、阿倍比羅夫を祖先とする家系は他にもありますが(注②)、津軽(旧蝦夷国)にその後裔がいたことに、歴史の秘密が隠されているように思います。もしかすると、阿倍比羅夫は津軽に逃れた安日彦(あびひこ)の子孫ではないでしょうか。これからの研究課題です。(つづく)

(注)
①中村良之進(北門)書写『津軽史料』「安政二年 神社微細社司由緒調書上帳」。
②阿倍仲麻呂は阿倍比羅夫の子孫と伝えられている。

《写真解説》クマと戦う阿倍比羅夫。その孫と伝えられている阿倍仲麻呂。


第3538話 2025/10/03

弘前市立図書館で

  キリシタン禁圧書状を閲覧

 昨日は朝から弘前市立図書館に行き、9時30分の開館を待って、史料調査室で夕刻まで江戸期成立の津軽藩文書など10数点を閲覧しました。最初に、キリシタン禁圧に関する報告書(藩への報告書)数点を拝見しました。江戸時代の津軽藩でのキリシタン禁圧史は、島原での弾圧ほど有名ではありませんが、とても興味深いもので、和田家文書にも少数ですが関連記事が見えます。

 今回、閲覧したのは弘前市立図書館に所蔵されている「津軽家古文書」にある次の書状です。

〔津軽きりしたんの者共死罪之儀御奉書〕TK190-3
津軽土佐守(信義)宛 写(原本)1通
註:阿部豊後守忠秋 松平伊豆守信綱 酒井讃岐守忠勝 土井大炊頭利勝より

〔南蛮伴天連いるまん等白状之趣に就き御奉書〕TK190-9
津軽土佐守(信義)宛 写(原本)1通
註:阿部対馬守重次 阿部豊後守忠秋より

〔森元功白状・伴天運市左衛門白状〕TK190-11
写(原本)2通

『東日流外三郡誌』(八幡書店版4巻、696頁)に「イルマン訴人」(津軽犯科帳)の記事があり、その年代(寛永12年・1635)も「津軽家古文書」に対応しているようですので、「南蛮伴天連いるまん等」との関係性を確認するために閲覧したものです。ここでの「いるまん」とはクリスチャンとしての信仰上の「兄弟」や「修道士」を意味しているようです。

 しかし、わたしの関心事は文書の内容だけではなく、使用された紙にもありました。天井の蛍光灯にそれら文書を透かしながら見るのですが、図書館の方からは変な閲覧者と思われたかも知れません。

 思っていたよりも厚手の手漉き和紙が使用されおり、これには驚きました。当時の津軽藩で、このような和紙が公文書に使用されていることを知り、勉強になりました。「東日流外三郡誌」明治写本に使用された機械漉の和紙よりもかなり分厚く、ページ数が多くなる書籍用と一枚の報告書(手紙)とで紙を使い分けているのかも知れません。(つづく)

 

《写真解説》弘前市立図書館旧館と新館


第3537話 2025/10/02

津軽の政治家の皆さんとの一夕

 ―興国の大津波は歴史事実―

 昨晩は弘前市議・青森県議の有志(超党派)の皆さんに、「東日流外三郡誌」に記された興国の大津波が歴史事実であることを証明した地質学論文、箕浦幸治・中谷 周「津軽十三湖及び周辺湖沼の成り立ち」『地質学論集』第36号(1990年)について説明し、「十三湖水戸口に周辺での試錐調査からは、この時期巨大津波の襲来によるものと思われる海岸環境の劇的な改変が示唆される。」「この時期に巨大津波を伴う地震が青森県西方沖で発生したものと判断する」と結論した文部科学省地震調査委員会による次の報告書を紹介しました。

「1341年10月31日  (1341年は興国二年。興国は南朝の年号:古賀注)
『東日流(つがる)外三郡誌』によれば、朝地震とともに約9mの津波が津軽半島の十三湊を襲い26,000名が溺死したとある。(渡辺、1985)。同歴史文書の信憑性について疑問視する人もおり、第二版の渡邉(1998)からは同地震の記述が削除されている。
然るに、十三湖水戸口に周辺での試錐調査からは、この時期巨大津波の襲来によるものと思われる海岸環境の劇的な改変が示唆される(箕輪・中谷、1990)。
本報告では、これらに中嶋・金井(1995)によるタービダイト(海底堆積物:古賀注)の解析結果も加えて比較検討し、歴史記録からは信憑性に欠けるものの、この時期に巨大津波を伴う地震が青森県西方沖で発生したものと判断する。」『日本海東縁部の地震活動の長期評価』『日本海東縁部の地震活動の長期評価』文部科学省地震調査研究推進本部 地震調査委員会、2003年。

 そして最後に、「歴史地震学、文献史学、地質学のそれぞれの研究者がそれぞれの理由に基づいて、興国の大津波を歴史事実とする判断に至っています。貴重な現地伝承を無視することなく、数百年に一度の大地震や大津波に、政治の力で備えていただきたい。津軽の先人が伝えた興国の大津波伝承を現代を生きる津軽の人々に知らせていただきたい。」と訴え、話を締めくくりました。

 その後も参加者から請われて、わたしの専門分野の化学にまで話題は広がり(PET樹脂〔ポリエチレンテレフタレート〕リサイクルにおける再生エネルギー効率について・白色LED光成分による活性酸素発生メカニズムの人体への影響について・福島原発爆発時の原研OBから聞いた逸話・他)、議員の皆さんとの宴は夜の10時過ぎまで続きました。それは、青森県の若い政治家の皆さんとの、とても楽しく有意義な一夕でした。素敵な出会いの場を作っていただいた石岡千鶴子さん(弘前市議、秋田孝季集史研究会・副会長)に深く感謝します。


第3536話 2025/10/01

陸奧新報に出版記念講演会の記事

 弘前市に来て六日目です。昨日は宮下宗一郎青森県知事を表敬訪問し、短時間でしたが有意義な懇談ができました。若さと行動力が魅力的な知事さんでした。知事との懇談後、青森県の文化財保護課で石塔山関連遺跡の調査などについて相談しました。

 9月27日に開催された『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念講演会の記事が、今朝の陸奧新報にカラー写真付きで掲載されました。講演会当日は、ご来場いただいた方々へのご挨拶や記念写真撮影、著書へのサインなどで忙しく、新聞記者さんにはご挨拶できないままでした。記事にしていただき、ありがとうございます。

 また、ご多忙にもかかわらず講演会でご挨拶いただいた衆議院議員の岡田華子さん(立憲民主党・青森三区)には改めて御礼申し上げます。ちなみに岡田さんは『東日流外三郡誌』を持っておられるとのこと。お祖父様から頂いたものとか。不思議なご縁でした。

 今日の夕方からは、弘前市議・青森県議・弘前市立図書館の方々に「東日流外三郡誌」を紹介することになりました。こちらは超党派の方々とのこと。当初の予定にはなかったイベントですので、議員さん向けのテーマに変更したパワポ資料をホテルに籠もって作成しました。タイトルは「和田家文書と興国の大津波」です。大地震や大津波に備えるためにも、「東日流外三郡誌」を初め津軽の先人が伝えた現地伝承〝興国元年・二年(1340・1341)の大津波〟が歴史事実であること、〝興国の津波は史実ではなく和田喜八郎氏による偽作〟とする「東日流外三郡誌」偽作キャンペーンが否であることを説明します。


第3535話 2025/09/26

盛岡と岡山は言語的には姉妹都市か

 今日は新幹線で青森県に向かっています。東京駅で東北新幹線はやぶさに乗り換え、車中でこの「洛中洛外日記」を書いています。明日、弘前市で開催される『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念講演会(秋田孝季集史研究会主催)で講演します。

 現役時代は出張で東北新幹線や山形新幹線をよく利用していましたので、車窓から見える東北地方の山々の風景は懐かしいものです。西日本のなだらかな稜線とは異なり、東北や四国の山々には〝ぼた山〟のようにボコボコと盛り上がった形状の山が目につきますが、これは火山地帯特有の風景ではないでしょうか。

 ちなみに、東北や四国では、山(ヤマ)のことをモリ(森、盛)と称する例が少なくなく、この「○○モリ」という山名(動詞の「盛る」の名詞形か)はかなり古い時代(恐らく縄文時代)まで遡る言葉と思われます。青森県の最高峰、岩木山(1625m)も「阿蘇部(アソベ)の森」と呼ばれており、これは「阿蘇部山」と同義であり、共に火山である九州の阿蘇山との関係も興味深いものです。ちなみに、北海道には「○○モリ」という山名は見えません。沖縄には少しあるようです。
ここまで書いたら仙台駅を通過していました。「次は盛岡です」と車内アナウンスがあって気づいたのですが、この地名の盛岡の「盛(もり)」も「山」のことではないでしょうか。もしそうであれば、盛岡とは〝山と丘〟のこととなります。岡山県の岡山は〝丘と山〟のことでしょうから、盛岡市と岡山市は言語的には姉妹都市と言えそうです。

 この論理を突き詰めると、青森も「青山」であり、決して〝青い森(Blue Forest)〟のことではないことになります。そうすると、青森市付近に〝あおもり〟と呼ばれる(呼ばれた)山があるはずです。ご存じの方があればご教示下さい。なお、当地に〝青い森(Blue Forest)〟があったので、それを地名にしたという、後から取って付けたような説があることは知っていますが、わたしは納得していません。なぜなら、〝青い森〟のような林や森は青森市内に限らず全国各地にありますが、だからといって全国各地に「青森」という地名があるわけではないからです。おそらく、「青(あお)」もBlue の意味ではないと思います。言語本来の意味を解明する「言語考古学」の重要なテーマの一つと考えています(注)。

(注)古賀達也「『言語考古学』の成立(序説) ―「山」と「森」について―」『古田史学会報』22号、1997年。


第3534話 2025/09/25

興国の津軽大津波伝承の理化学的証明(3)

 国立歴史民俗博物館の報告書「十三湊遺跡北部地区の発掘調査」(1995年)によれば、江戸期成立文献に見える「興国の大津波」伝承は史実ではないとされていますが、理化学的年代測定により「興国の大津波」があったとする報告書があります。『地質学論集』第36号に掲載された箕浦幸治・中谷周「津軽十三湖及び周辺湖沼の成り立ち」(1990年、注①)です。それには次のように報告されています。

 「1983年5月、日本海北東部で発生した日本海中部地震津波は、青森県から秋田県の海岸域に押し寄せ、これらの地域に多大な被害をもたらした。遡上した海水は、海岸湖沼や跡背湿地に流入し、一時的に水系の環境を大きく変えた(箕浦・中谷、1989)。寛保元年(西暦1741年)、渡島半島西方沖で発生した大津波は、津軽半島にも襲来し、十三湖に近い小泊で7mに達する波高を記録した(渡辺、1985)。その時の様子を、橘南谿が自著「東遊記」に克明に記録している。十三湖周辺の海岸地形は、この津波によって少なからず変容したことが推定されている(箕浦・中谷、1989)。十三往生記或は東日流外三郡誌(小館・藤本、1986)によれば、興国二年(西暦1341年)日本海北東縁に大津波が発生して津軽半島に波及し、多数の犠牲者を出すとともに、津軽の覇者安東氏の本拠であった十三浦(十三湖)を襲ってこれを壊滅させたという。」(71頁)

 「海側の砂丘の出現と砂丘間水路の閉塞の年代は、鉛同位体法により各々640年±20年前(西暦1340年±20年)及び240年±20年前(西暦1748年±20年)と推定される。

 既に述べたように、今から遡ること約650年前津軽の海岸に大津波が押し寄せたという記録或は伝承(佐藤・箕浦、1987)が、不正確ながら今日に残されている。砂丘間湖沼を出現させた海側の砂丘の発達は、その推定年代値(西暦1340年前後)から、この時の津波(興国の大津波)の襲来によって作られた可能性が大いに考えられる。十三湖の堆積物中には堆積相の急変部が認められず、従って、この津波は湖に直接及ばなかったと思われる。恐らく、海岸での急激な堆積物の移動と海岸砂丘の形成に終始し、津波による当時の港湾施設の破壊の言伝え(小館・藤本、1986)は後の誇張によるものであろう。或は、砂丘の出現による湖口部の閉鎖が水上交易を阻害し、中世十三浦の支配者たる津軽安東氏(桜井、1981)は、これ以降急速に衰退の一途を辿ったとも解釈できよう。水路の閉鎖による砂丘間湖沼の誕生は、既に報告されているように(箕浦ほか、1985)、寛保元年(西暦1741年)北海道渡島大島沖に発生した大津波によってもたらされた。」(85頁)

 この報告の要点は次の通りです。

❶海側の砂丘の出現と砂丘間水路の閉塞の年代は、鉛同位体法により640年±20年前(西暦1340年±20年)及び240年±20年前(西暦1748年±20年)と推定される。※数値はママ。
❷寛保元年(西暦1741年)、渡島半島西方沖で発生した大津波により十三湖周辺の海岸地形は少なからず変容したことが推定されている(箕浦・中谷、1989)。その時の様子を橘南谿が「東遊記」に克明に記録している。
❸海側の砂丘の出現と砂丘間水路の閉塞は640年±20年前(西暦1340年±20年)と考えられ、これは興国元年(1340)・二年(1341)の大津波伝承に対応している。
❹従って、砂丘間湖沼を出現させた海側の砂丘の発達は、その推定年代値(西暦1340年前後)から、この時の津波(興国の大津波)の襲来によって作られた可能性が大いに考えられる。
❺十三湖の堆積物中には堆積相の急変部が認められず、従って、興国の大津波は湖に直接及ばなかったと思われる。恐らく、海岸での急激な堆積物の移動と海岸砂丘の形成に終始している。
❻津波による当時の港湾施設の破壊の言伝え(『東日流外三郡誌』)は後の誇張によるものであろう。或は、砂丘の出現による湖口部の閉鎖が水上交易を阻害し、中世十三浦の支配者たる津軽安東氏は、これ以降急速に衰退の一途を辿ったとも解釈できよう。

 ❶~❹で示されているように、鉛同位体比年代測定により明らかとなった十三湊が閉塞された年代が、興国の大津波伝承と一致することは重要です。すなわち、理化学的年代測定値と現地伝承史料の年代が一致するという当報告は、『東日流外三郡誌』偽書説に対する強力な反証となります。少なくとも、〝『東日流外三郡誌』にしかない興国の大津波伝承は考古学調査で否定されており、従って『東日流外三郡誌』は偽書である〟というレベルの偽作キャンペーンが全く成立しないことは明白です。

 なお、『地質学論集』第36号掲載の報告書「津軽十三湖及び周辺湖沼の成り立ち」の存在を、わたしはブログ「釜石の日々」の記事(注②)で知りました。同ブログ編集者に感謝します。(つづく)

《追記》明日、弘前市に向かいます。明後日の『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念講演会(秋田孝季集史研究会主催)で講演し、その後は現地調査などを行う予定です。

(注)
①箕浦幸治・中谷 周「津軽十三湖及び周辺湖沼の成り立ち」『地質学論集』第36号、1990年。
https://dl.ndl.go.jp/pid/10809879
箕浦幸治(?-?) 東北大学理学部地質学古生物学教室
中谷 周(?-1992.08) 弘前大学理学部地球科学教室
②ブログ「釜石の日々」〝津軽十三湊の興国の大津波〟2016-09-08 19:13:23 | 歴史
https://blog.goo.ne.jp/orangeone_2008/e/260cd259cee059990c7e8c1be68426c1

《写真》「東日流外三郡誌」に描かれた〝興国二年の大津波〟

 


第3533話 2025/09/22

「34年遡り」説で

 天武紀の一切経・放生会記事を解明

 一昨日、「古田史学の会」関西例会が東成区民センターで開催されました。リモート参加は4名でした。10月例会の会場は豊中倶楽部自治会館です。

 わたしからは、「和田家文書の真実 ―『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念―」を発表しました。9月27日(土)、青森県弘前市で開催される『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念講演会(秋田孝季集史研究会主催)のリハーサルを兼ねて発表したもので、9/05・リモート古代史研究会(多元的古代研究会主催)、9/13・和田家文書研究会(東京古田会主催)に次いで3回目のリハーサルです。様々なご意見をいただき、本番に向けての準備はほぼ完了しました。貴重なご意見を賜り、ありがとうございました。

 弘前市講演会には、新聞各社や地元選出議員の参加も予定されているようです。『東日流外三郡誌』は偽書ではなく、江戸時代における当地の歴史伝承が採録された貴重な史料であること、和田家文書以外にも津軽の民間で成立した江戸期の伝承史料が青森県には数多く遺っていることなどを紹介する予定です。

 今回の例会で最も注目したのが正木裕さんの発表「繰り下げられた利歌彌多弗利の事績」でした。『日本書紀』天武紀には不自然な記事がありました。例えば、天武二年(673)の初めての一切経書写記事、天武四年(675)の殺生・肉食禁止記事、天武五年(676)の放生会記事などです。唐突に記されたこれら一連の記事は、本来は九州王朝によるものであり、それらが三十四年後の天武紀に転用されたとする仮説です。これは正木さんにより提起されてきた「34年遡り」説の適用であり、この方法と理解により、『二中歴』年代歴の九州年号細注記事などと整合することを明らかにしました。
この正木説によれば、『日本書紀』編纂時の九州王朝記事の概要を推定できそうですし、それは九州王朝史復元研究に貢献できます。正木説の検証や展開が期待されます。

 9月例会では下記の発表がありました。発表希望者は上田さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。
なお、古田史学の会・会員は関西例会にリモート参加(聴講)ができますので、参加希望される会員はメールアドレスを本会までお知らせ下さい。

〔9月度関西例会の内容〕
①蘇我馬子と聖徳太子 ―俀国と兄弟統治を解明する― (姫路市・野田利郎)
②一つ目の人面付き甲冑埴輪の謎 (大山崎町・大原重雄)
③東日流外三郡誌の後出しジャンケンの六本柱復元絵図 (大山崎町・大原重雄)
④中国史書の方位表記の検討 (京都市・二宮廣志)
⑤和田家文書の真実 ―『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念― (京都市・古賀達也)
⑥多元的九州王朝論のすすめ (茨木市・満田正賢)
⑦消された「詔」と遷された事績(後編) (東大阪市・萩野秀公)
⑧『古事記』『日本書紀』の成立事情 (八尾市・服部静尚)
⑨繰り下げられた利歌彌多弗利の事績 (川西市・正木裕)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
10/18(土) 10:00~17:00 会場:豊中倶楽部自治会館

参考

古代大和史研究会(80) 2025年9月23日(火)正木裕

於:奈良県立図書情報館

聖徳法皇 利歌彌多弗利 から 常色の天子 伊勢王へ

https://youtu.be/Rld4hVpxYrw


古代大和史研究会(79) 2025年8月26日(火)正木裕

於:奈良県立図書情報館

利歌彌多弗利— 法隆寺にいたもうひとりの聖徳太子

https://youtu.be/6VQCi1e8B-I


 


第3532話 2025/09/20

興国の津軽大津波伝承の理化学的証明(2)

 長谷川成一氏(弘前大学文学部教授)が「近世十三湊に関する基礎的考察」(1995年、注①)で紹介した国立歴史民俗博物館の報告書「福島城・十三湊遺跡 1991年度調査概要」(1993年、注②)には、十三湊(とさみなと)遺跡から出土した遺物(陶器・漆器・他)の点数が年代別に表記されています。次の「表6」(319頁)です。

 表6 遺物年代別個体数(十三湊遺跡で年代を判定できた資料)
(1991年度分布調査分)
破片数  口縁部
12世紀 1 0.1
13世紀 4 0
14世紀 19 0.7
15世紀 21 0.7
16世紀 0 0

 津軽の「興国の大津波」は興国元年(1340)・二年(1341)と伝承されていますから、14世紀の事件となります。伝承ではこの大津波で十三湊は壊滅したとされますが、採取遺物の編年によれば14~15世紀の遺物が増加しており、興国の大津波が十三湊を襲ったとは思われません。むしろ16世紀に遺物が激減しており、十三湊の活動停止時期がこの頃であることを示しているようです。また、津波の痕跡についての報告も同報告書には見えません。

 津軽十三湊の遺構に津波の痕跡が無かったことをはっきりと記した報告は、国立歴史民俗博物館の報告書「十三湊遺跡北部地区の発掘調査」(1995年、注③)に見えます。それには次の発掘調査所見と意味深な「付言」が記されています。

〝 5 十三湊遺跡北部地区の発掘調査
ここでは十三湊遺跡の土塁以北の調査について記述する。対象となるのは92年度調査第1地区および93年度調査第1地区である。
《中略》
B 93年度第1地区
(1)位置と層序
93年度調査区は92年度調査の成果を受けて、土塁北側地区でもっとも中心的な施設が存在すると推測した十三小学校周辺で、面的な調査が可能であった地点として選択された。
《中略》

 また、この調査では茶褐色砂質土中に厚さ1cm~5cm程度の薄い黄褐色のきめ細かな砂層がまばらに形成されている様子が観察された。この層は水性堆積によって、十三湖岸の砂がもち込まれたことで生み出されたと評価され、この地域が十三湊の活動期から何度かの水害に悩まされていたことを裏付ける。

 しかし、このことは巷間に広く伝えられているように、大規模な水害によって十三湊が最終段階に壊滅的な被害を受けたという伝説を考古学的に認めるものではない。逆に水害の後、砂で埋まった道路側溝などの諸施設が速やかに修復されている様子がはっきりと確認できることから、十三湊の直接の廃絶の原因を大規模な水害とする可能性はなくなったと言える。そして、十三湊の成立と廃絶は安藤氏権力の消長とともに、日本海・北方交易の展開、北部日本の政治構造の変化を見据えた中で位置づけられ、評価していかなければならない。

 なお、ひとこと付言すれば、二次的な編纂物と考古学的な調査成果との整合性を云々するのも、生産性のない議論であることは言うまでもない。(千田)〟『国立歴史民俗博物館研究報告』第64集(1995)

 このように、十三小学校周辺には水害の痕跡はあるものの、大規模な水害(大津波)で廃絶したとする可能性を否定しています。そして、「二次的な編纂物と考古学的な調査成果との整合性を云々するのも、生産性のない議論であることは言うまでもない。」との付言で締めくくられています。ここでの「二次的な編纂物」とは『東日流外三郡誌』や津軽藩系の系譜の「興国の大津波」記事のことと思われますが、文献と考古学的出土物の関係や整合性を論じることを、「生産性のない議論であることは言うまでもない。」と切り捨てるのはいかがなものでしょうか。こうした論法が許されるのなら、倭人伝や『日本書紀』の記述と考古学的出土物の整合性を論じるのも「生産性のない議論」となりかねず、学問や歴史研究を志すものとしては到底首肯できるものではありません。(つづく)

(注)
①長谷川成一「近世十三湊に関する基礎的考察」『国立歴史民俗博物館区研究報告』第64集、237頁、1995年。
②千田嘉博・小島道裕・宇野隆夫・前川要「福島城・十三湊遺跡 1991年度調査概報」『国立歴史民俗博物館研究報告』第48集、1993年。
③千田嘉博・高橋照彦・榊原滋隆「十三湊遺跡北部地区の発掘調査」『国立歴史民俗博物館研究報告』第64集、88~112頁、1995年。


第3531話 2025/09/17

興国の津輕大津波伝承の理化学的証明(1)

 三十年ほど前に突然始まった『東日流外三郡誌』偽作キャンペーンは、同文書の所蔵者である和田喜八郎氏を偽作者、古田先生を偽作の協力者として、学問的批判の域を超えた誹謗中傷・名誉毀損の限りを尽くしたものでした。その一端をこの度上梓した『東日流外三郡誌の逆襲』で紹介し、反証を行いました。残念ながら偽作説への全ての反論を掲載できなかったので、残りは同書続編に委ねますが、良い機会でもありますので、偽作キャンペーンのテーマになった「興国の津軽大津波伝承」についての偽作説への反証を紹介します。

 偽作キャンペーン誌『季刊 邪馬台国』53号(1994年)に掲載された長谷川成一氏(弘前大学文学部教授・当時)の「津軽十三津波伝承の成立とその性格 ―「興国元年の大海嘯」伝承を中心に―」には、文献史学の立場から次のように述べています。

〝すなわち、「興国元年の大海嘯」はそれを記す何本かの十三藤原氏系図の内容それ自体が荒唐無稽であって、歴史的な事実を記したものとはとうてい考えられない。したがって文献史料からは、その存在を確認するのは不可能であり、大津波は興国元年になかった可能性が非常に高い、と言わざるを得ないのである。(中略)したがって、現段階においては、文献史学の分野からの、これ以上の十三津波へのアプローチはできないし、またその意味もないと思われ、自然科学の分野における解明を期待して擱筆することにしたい。〟(216頁)

 長谷川氏は『東日流外三郡誌』などに記された「十三藤原氏系図の内容それ自体が荒唐無稽」と全否定したため、「文献史学の分野からの、これ以上の十三津波へのアプローチはできないし、またその意味もないと思われ、自然科学の分野における解明を期待して擱筆することにしたい。」と言わざるを得なくなっているわけです。そしてこの論稿の翌年(1995年)に発表した「近世十三湊に関する基礎的考察」(注①)でも同様の所見が見えます。

 〝近年の国立歴史民俗博物館を中心とした、十三湊の本格的な発掘による貴重な成果が、千田嘉博・小島道裕・宇野隆夫・前川要「福島城・十三湊遺跡 1991年度調査概報」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第48集 1993年 所収)として発表され、従来の文献史料を主とした研究に大きな影響を与えた。
(中略)

 自然科学的に津波が存在したか否かは、人文科学系の研究者にとってとうてい解明できる問題ではないが、このたびの中世の十三湊遺跡の発掘調査においては、津波の痕跡は検出されておらず、歴史考古学の立場から津波の存在は否定されたと見て支障なかろう。〟

 このように、長谷川氏は文献史学では興国年間(1340~1345)の津軽大津波伝承の史実性を確認できないとして、考古学的出土報告の所見に従って、『東日流外三郡誌』などに記された興国二年(1341年)あるいは興国元年(1340年)に十三湊を大津波が襲ったとする当地の伝承は歴史事実ではないとするわけです。このような見解は文献史学としても不適切とわたしは考えており、「洛中洛外日記」などで次のように指摘しました(注②)。

 〝江戸時代に「興国の大津波」が伝承されていたことを考えても、「起きもしなかった〝興国の大津波〟を諸史料に造作する、しかも興国年間(元年、二年)と具体的年次まで記して造作する必要などない」と言わざるを得ません。

 これは法隆寺再建論争で、「燃えてもいない寺院を、燃えて無くなったなどと、『日本書紀』編者が書く必要はない」と喝破した喜田貞吉の再建論が正しかったことを想起させます。いずれも、史料事実に基づく論証という文献史学の学問の方法に導かれた考察です。いずれは、発掘調査という考古学的出土事実に基づく実証によっても、証明されるものと確信しています。〟

 こうした視点こそ、文献史学の文献史学たる由縁ではないでしょうか。それでは、長谷川氏が「従来の文献史料を主とした研究に大きな影響を与えた」とする国立歴史民俗博物館の発掘調査報告を見てみることにします。(つづく)

(注)
①長谷川成一「近世十三湊に関する基礎的考察」『国立歴史民俗博物館区研究報告』第64集、1995年。
②古賀達也「洛中洛外日記」3111話(2023/09/12)〝興国の大津波の伝承史料「津軽古系譜類聚」〟
同「興国の津軽大津波伝承の考察 ―地震学者・羽鳥徳太郎の慧眼―」『東京古田会ニュース』215号、2024年。