古賀達也一覧

古田史学の会代表古賀達也です。

第3597話 2026/02/20

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (12)

 写真左上円内の人物、「菊池九郎」説

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)に見える写真左上円内の人物を秋田重季氏晩年の写真とするアイデアを「洛中洛外日記」3587話(2026/02/02)〝「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (11) ―写真裏書「和田長三(郎)」への疑義―〟で披露しました。しかしながら、わたしはこのアイデアにあまり自信がありませんでした。その理由は次のようなことでした。

(ⅰ)秋田重季氏が晩年になって、若き日の弘前市の温泉旅館での、女将や芸妓と手を繋いだプライベートな写真を記念写真として作成・配布するものだろうか。むしろ、貴族院子爵議員の記念写真には相応しくないと思われる。〈論理的疑義〉
(ⅱ)左上円内の人物と前列中央の秋田重季氏とでは、頭髪の分け目が左右逆。目や眉毛も異なっており、別人と断定できるほどではないものの、同一人物とできるほど似ているわけでもない。〈実証的疑義〉

 こうした迷いがあり、筆が止まっていたところ、意外な仮説が菊池哲子さん(福岡県久留米市)より届きました。菊池さんは久留米大学公開講座でのわたしの講演会に毎年参加されており、和田家文書や地元の歴史について造詣が深い方です。最近ではわたしが主宰している「古田史学リモート勉強会」(毎月、第二土曜の夜7~9時にリモートで開催)にもご参加いただいている研究者仲間です。

 その菊池さんから届いたメールには、写真左上円内の謎の人物を初代弘前市長の菊池九郎氏(1847・弘化4年~1926・大正15年)ではないかとありました。このメールにわたしは驚愕しました。(つづく)

〖写真の説明〗秋田重季氏らの集合写真。菊池九郎氏・左上円内の人物・前列中央の秋田重季氏。


第3596話 2026/02/20

辞書出版各社からの返答〔岩波書店編〕

 『角川外来語辞典』第二版(1977年)は、〝カメ〟について次のように説明しています。

 カメ【英 Come here!】(原義:来い)日本語では“洋犬”。それは、英米人が犬に向かって“来い、来い”と言ったのを、犬の意味に誤解したのに基づく。(以下、出典などが明記されている。)

 この語釈は誤りとする論文(注)コピーと手紙を角川書店、岩波書店、小学館、三省堂、新潮社の各社に出しましたが、角川書店からは同封した論文の「持ち込み原稿」扱いされ、送り返されました。次いで、岩波書店「広辞苑」編集部から返信が届きました。ちなみに『広辞苑』第三版には次のように記されています。

カメ(幕末・明治初期、英米人が、come here(こっちへ来い)といって犬を呼んだことからという)洋犬のこと。西洋道中膝栗毛「異人館の洋犬(カメ)」。〔『広辞苑』第三版、1988年〕

【岩波書店からの返信】
拝啓 晩秋の候、古賀様におかれましては、ますますご健勝のこととお慶び申し上げます。また、日頃より広辞苑をご愛用いただき、感謝いたします。
さて、今回は「カメ」についての論文をお送りいただき、ありがとうございました。たいへん興味深く拝読いたしました。御説の中には、「なるほど」と思う部分がいくつもございました。

 やや言い訳がましくなりますが、ご存じの通り、広辞苑では「カメ(幕末・明治初期、英米人が、come here といって犬を呼んだことからいう)洋犬のこと。」と解説しています。このうち語源説の部分については「〜という」で終えており、断定的な言い回しをしておりません。また、「メリケン・カメ」の栞(注②)につきましても「『カメや』と勘違いしたのだとか。」と「〜とか。」で終えています。

 論文の中で触れられていますように、「カメ」が「come here」から転じたものであるとする語源説は、古くから広く流布しております。広辞苑としては、「その語源説について断定するだけの確証はないが、広く流布している語源説として紹介する」という立場から、現在のような解説を付しています。

 御説について、軽々に判断することはできませんが、たいへん貴重なご意見と存じます。次版の改訂作業における課題として、「カメ」についての過去の論考とあわせて検討させていただきたく存じます。今後とも、お気付きの点がございましたら、ご指導くださいますようお願い申し上げます。
取り急ぎ要件のみにて失礼いたします。どうぞこれからも広辞苑をご愛用くださいませ。最後になりましたが、時節柄ご自愛くださいますようお願い申し上げます。

敬具
一九九七年一一月二〇日
岩波書店辞典部 広辞苑編集部
【転載おわり】

 さすがは日本を代表する中型国語辞典『広辞苑』の編集部。見事な返答にますます広辞苑が好きになりました。拙論に賛意を表しながらも、しっかりと編集方針の釈明も行い、検討を約束する。そして、引続き広辞苑の愛用を促すといった営業的視点と礼儀を兼ね備えた返信です。この岩波からの返答のおかげで、角川による私の不機嫌が一気に吹き飛んでしまいました。次に来たのが小学館。こちらはもっと感動的な文面でした。(つづく)

(注)
①古賀達也「〝カメ(犬)〟は「外来語」か」『北奥文化』18号、北奥文化研究会、1997年。
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou47/koga471.html
②岩波文庫に挟んである栞に、カメ外来語語源説を紹介したものがあった。

〖写真の説明〗岩波書店広辞苑編集部からの返信。広辞苑第七版の販売風景。NHKドラマ「舟を編む」のワンシーンに登場した広辞苑。


第3595話 2026/02/18

辞書出版各社からの返答〔角川書店編〕

 「洛中洛外日記」第3593話〝池田エライザ主演『舟を編む ~私、辞書つくります~』〟で、30年ほど前に辞書の誤りを見つけ、そのことを論文発表し(注)、辞書出版社に訂正を提案したことを紹介しました。

 辞書の誤りとは、〝犬のことを「かめ」という地域がある。明治時代に来日した西洋人が、犬をcome hear (カムヒア・カメヤ)と呼ぶのを聞いた日本人が誤解して、犬のことをカメと言うようになった。〟とする説明のことです。この語釈は誤りで、江戸時代以前から犬をカメと言う地域があったことを証明した同論文コピーを辞書出版社に送付し、次のような趣旨の手紙を出しました。

(1) カメ外来語語源説は、同封の論文に示しているように、成立困難であること。
(2) 御社の辞典には、「外来語説」に立った説明がなされているので、拙論を検討していただきたい。
(3) できれば、拙論に対する批判や感想をいただきたい。

 こうした手紙と論文コピーを角川書店、岩波書店、小学館、三省堂、新潮社の各社に出しましたが、出版各社の対応は大きく異なりました。
最初に届いたのは、『外来語辞典』を出版している角川書店からの次の返信でした。

【角川書店からの返信】
時下ますますご清栄のことと存じます。
とり急ぎお便りいたします。
当社におきましては、(依頼原稿以外の)お持ち込み原稿等の出版・雑誌掲載ならびに、批評等を行っておりません。ご期待に添えず申し訳ございませんが諒解のほどお願いいたします。
要件のみでございますが、ご健勝を念じます。 草々
角川書店 書籍第一編集部
【転載おわり】

 どうやら、「持込み原稿」として扱われたようでした。しかもご丁寧に『北奥文化』コピーも送り返されてきました。そこで、「持込み原稿」ではない旨記して、同社の「辞典編集部」宛に送付しましたが、返事はありませんでした。角川書店には読者の意見を聞く制度(態度)はないのかもしれません。やはり世間はこんなものかと、少々おち込んでいたら、岩波書店「広辞苑」編集部から返信が届きました。(つづく)

(注)古賀達也「〝カメ(犬)〟は「外来語」か」『北奥文化』18号、北奥文化研究会、1997年。
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou47/koga471.html

〖写真の説明〗角川書店からの返信。NHKドラマ『舟を編む ~私、辞書つくります~』のワンシーン。


第3594話 2026/02/17

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (4)

 ―『孟子』の東夷と西夷―

 『春秋左氏伝』の精読と併行して、より孔子の時代と成立が近い『孟子』を久しぶりに読んでいます。儒教の経典で、わたしが『論語』に次いで好きなのが『孟子』です。孟子(孟軻、前372~前290)は周代戦国期の人物で、孔子(前552~前479)の孫弟子くらいに当たります(注①)。その孟子の言葉や著述に基づいて、孟子没後(周代戦国期)に編纂されたものとされ、孔子の時代に近い人々の用語や認識を探ることができます。

 ちなみに、わたしが『論語』『孟子』を好きな理由ですが、その内容はもとより、わたしの名前「達也」の出典が『論語』顔淵第十二(注②)にあることを古田先生の著作(注③)で知ったこと、青年の頃『孟子』離婁篇にある「誠は天の道なり、誠は人の道なり。至誠にして動かされざる者は、未だこれ有らざるなり。」という言葉に惹かれたことによります。

 また、これも余談ですが、中小路俊逸先生(追手門学院大学文学部教授・故人)から、書名の『孟子』と人名の孟子を区別するため、『孟子』(もうじ)・孟子(もうし)と読み分けることを教えていただきました。学会や講義ではこのように読み分けるが、これは聞く人が勘違いしないようにするためとのことでした。古代史学において、わたしは二人の善き師に恵まれました。

 『春秋左氏伝』を読んでいて、「蠻夷戎狄」のうち、虫偏や獣偏の字が使用されている「蠻狄」、武器や軍事の意味を持つ「戎」とは異なり、「夷」はそれほど差別的な文字として使用されているようにも思えませんでした。しかし、その理由がわかりませんでした。ところが『孟子』に次の記事があることに気づきました。

 「孟子曰。舜生於諸馮。遷於負夏。卒於鳴條。東夷之人也。文王生於岐周。卒於畢郢。西夷之人也。地之相去也。千有餘里。世之相後也。千有餘歳。得志行乎中國。若合符節。先聖後聖其揆一也。」『孟子 上』離婁篇第四上、40~41頁(注④)
〔訳文〕孟子曰わく、舜は諸馮(しょひょう)に生まれ、負夏(ふか)に遷(うつ)りて、鳴條(めいじょう)に卒(おわ)る、東の夷(えびす)の人なり。文王は岐周に生まれ、畢郢(ひつえい)に卒る。西の夷の人なり。地の相い去ることは千有餘里、世の相い後(おく)るるは千有餘歳なるも、志を得て中国に行えることは、符節(わりふ)を合わすがごとし。先聖も後聖も、その揆(みち)は一つなり。

 大意は、東夷の舜(先聖。夏王朝建国期の帝)と西夷の文王(後聖。殷を滅ぼし周王朝を建国した武王の父)は、生きた時代も住んだ地も離れているが、二人の行いは全く一致している、というものです。ここでは東夷も西夷も聖人の地として使用されており、聖地の表現とは言えないまでも、それほど差別的な卑字として「夷」が使用されているようには見えません。むしろ、『春秋左氏伝』にある〝夷の禮〟の由来となった故事と理解すべきではないでしょうか。

 「廿七年、春、杞桓公來朝。用夷禮。」『春秋左氏伝 一』399頁(注⑤)
〔訳文〕廿七年、春、杞の桓公來朝す。夷の禮を用ふ。

 したがって、東夷という用語の背景にはこうした故事があり、それを前提として孟子や孔子の言葉を理解する必要があります。なお、『孟子』離婁篇第四上に見える「千有餘里」は、周代の短里(一里約76メートル)ですから、東夷と西夷は中原の東と西の領域と解すべきであり、両地域はそれほど離れてはいないことになります。(つづく)

(注)
①ここでの孔子と孟子の生没年は通説による。周代史料には二倍年暦(1年(1才)を2年(2才)と数える暦法・年齢)が採用されているため、暦年補正が必要であり、実際の生没年は通説より数百年ほど新しくなる。次の拙論を参照されたい。

「孔子の二倍年暦」『古田史学会報』53号、2002年。
「新・古典批判 二倍年暦の世界」『新・古代学』第七集、新泉社、2004年。
「新・古典批判 続・二倍年暦の世界」『新・古代学』第八集、新泉社、2005年。
「A study on the long lives described in the classics」『Phoenix』No.1、国際人間観察学会、2007年。
「『論語』二倍年暦説の史料根拠」『古田史学会報』150号、2018年。
「二倍年暦と「二倍年齢」の歴史学 ―周代の百歳と漢代の五十歳―」『東京古田会ニュース』195号、2020年。
「『史記』の二倍年齢と司馬遷の認識」『古田史学会報』170号、2022年。
『二倍年暦』研究の思い出 ―古田先生の遺訓と遺命―」『古田史学会報』172号、2022年。
「周代の史料批判 ―「夏商周断代工程」の顛末―」『多元』171号、2022年。
②『論語』顔淵篇に「夫達也者。質直而好義。察言而観色。慮以下人。」〔『達』とは質直にして義を好み、言を察し、色を観(み)、慮(おもんばか)りて以て人に下るなり〕とある。
③古田武彦『邪馬一国への道標』(講談社、1978年)で『論語』顔淵篇を紹介し、『三国志』の著者陳寿を「質直にして義を好む」人物として次のように紹介した。
「あくまで真実をストレートにのべて虚飾を排し、正義を好む。そして人々の表面の“言葉”や表面の“現象”(色)の中から、深い内面の真実をくみとる。そして深い思慮をもち、高位を求めず、他に対してへりくだっている」
この解説を読み、「達也」の出典が『論語』であることを知った。以来、わたしは名に恥じぬよう、「質直」を人生の指針とした。陳寿のような立派な人物になれそうもないが、古田氏や陳寿を尊敬することはできる。『邪馬一国への道標』は生涯忘れ得ぬ一冊となった。
④中国古典選『孟子 上・下』金谷治、古川孝次郎監修、朝日新聞社、1978年。
⑤新釈漢文体系『春秋左氏伝 一~四』明治書院、1971年。

〖写真説明〗孟子画、中小路俊逸先生、『孟子』岩波文庫。


第3593話 2026/02/16

池田エライザ主演

『舟を編む ~私、辞書つくります~』

 久しぶりに池田エライザさん主演ドラマ、『舟を編む ~私、辞書つくります~』(録画)を見ました。辞書作りの現場(出版社)が舞台で、辞書編集・発刊の工程や難しさがわかり、とても勉強になったドラマです。池田エライザさんの演技や表情もよく、ファンになりました。

 主人公〝岸辺みどり(池田エライザ)〟は、出版社「玄武書房」の人気ファッション誌部門で活躍していましたが、女性読者の本離れが進み、雑誌は廃刊。そのため地味な辞書編集部へ異動になりますが、「言葉」や辞書『大渡海』作りの魅力にのめり込んでいくというストーリーです(三浦しをん氏の原作を2024年にテレビドラマ化。2025年、NHK地上波でも放送。原作の主人公は岸辺みどりではない)。

 わたしは書籍(論文集・共著)の編集出版には、この40年間で40冊ほど関わった経験があります(『市民の古代』『新・古代学』『古代に真実を求めて』『東日流外三郡誌の逆襲』他)。しかし流石に辞書編集を手掛けたことはありません。ただ30年ほど前に、「東日流外三郡誌」研究の過程で、辞書の誤りを見つけ、辞書出版社に訂正を提案したことがあります。その論文は「〝カメ(犬)〟は「外来語」か」(『北奥文化』18号、北奥文化研究会、1997年)です。
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou47/koga471.html

 少なからぬ国語辞典や外来語辞典には、〝犬のことを「かめ」という地域がある。明治時代に来日した西洋人が、犬をcome hear (カムヒア・カメヤ)と呼ぶのを聞いた日本人が誤解して、犬のことをカメと言うようになった。〟と説明しています。

 しかし、この解説は誤りであり、江戸時代以前から日本では犬のことをカメとよぶ地域(主に東北地方)があることの分布資料と江戸期以前成立の史料を示し、もし英語の聞き間違いであれば長崎か横浜に分布中心があるはずだが、そうはなっていないと指摘した論文です。

 考えてもみて下さい。大昔から日本には犬(いぬ)や亀(かめ)がいて、そう呼び続けてきた日本人が、明治時代になって突然のように犬のことだけをカメと呼び換え、東北地方まで方言として伝わり、現代まで使われているという、辞書の説明がおかしいのです。冷静に考えれば、明治時代に来日した英語圏の西洋人は、犬だけではなく、猫や人にもcome hear (カムヒア・カメヤ)と呼びかけたはずです。ところがそれを聞いた日本人の誰かが、犬だけをカメと誤解し、その誤解が全国各地に伝わり採用されたなどという説明(語釈)自体がおかしいことは明らかです。はっきり言って、辞書に採用できるレベルの説明(語釈)ではありません。

 同論文のコピーを、誤った説明を掲載した辞書の出版社に送付し、改正を要請しました。角川書店、岩波書店、小学館、三省堂、新潮社です。ところが、わたしからの検討要請に対して、各社の対応は異なりました。(つづく)


第3592話 2026/02/12

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (3)

 『春秋左氏伝』の「東海」「東夷」

 國枝浩さんは「『夷狄』考 ―『論語』と『史記』より―」(注①)で、次のように論じています。

(a)『論語』には「夷狄」の語は見えるが、「東夷」「北狄」のように方角とは結びつけられていない。
(b)このことから、孔子の時代(周代春秋期・紀元前六世紀頃)の「夷狄」は周辺の未開の異民族と認識されるにとどまっている。
(c)「夷狄戎蛮」と方角(東西南北)が結びつけられるのは、司馬遷の『史記』やその影響を受けた後代の『論語』解説書による。
(d)従って、『論語』「公冶長」などを根拠として、孔子が東夷の国としての倭国(日本列島)の存在を知っていたとする古田説(注②)は『史記』に幻惑されたものであり成立しない。

 このうちの(a)については妥当な見解と思われますが、この『論語』の史料状況だけを根拠に、(b)~(d)が仮説としてただちに成立しうるとも思えません。そこで『論語』以外の周代史料を調べてみることにしました。幸い、周代の二倍年歴を研究したときに購入した『新釈漢文体系 春秋左氏伝』全四冊(注③)が書架にありましたので、あらためて精読しました。

 『春秋左氏伝』は孔子が制作した『春秋』を、孔子没後に左丘明が編纂した解釈書とされ、周代戦国期中葉の成立とする説が有力のようです(注④)。広く見ても、孔子の時代(周代春秋期)と秦代の間に成立したと考えて大過ないと思います。すなわち、司馬遷の『史記』よりも早い時代の成立です。
まず、『春秋左氏伝』では中国の周辺(東西南北)が、どのように認識されているかを調べてみました。その結果、次の記事が目にとまりました。

❶「卅一年、夏、齊候來獻戎捷、非禮也。凡諸侯有四夷之功、則獻于王。王以警于夷。」『春秋左氏伝 一』新釈漢文体系(以下同じ)、232頁
〔訳文〕齊候來たりて戎の捷を獻ずるは、禮に非(あら)ざるなり。凡そ諸侯、四夷の功有れば、則ち王に獻ず。王以て夷を警(いまし)む。
❷「賜我先君履、東至于海、西至于河、南至于穆陵、北至于無棣。」『春秋左氏伝 一』265~266頁
〔訳文〕我が先君に履(り)を賜ひ、東は海に至り、西は河に至り、南は穆陵に至り、北は無棣(むてい)に至る。
〔語釈〕穆陵:山東省臨胊県の南方の大峴山の上にある穆陵関。一説に楚地という。無棣:河北省無棣県。
❸「若出於東方、觀兵於東夷、循海而帰、其可也。」『春秋左氏伝 一』268頁
〔訳文〕若し東方に出(い)で、兵を東夷に觀(しめ)し、海に循ひて帰らば、其れ可ならん。
❹「六人叛楚卽東夷。」『春秋左氏伝 二』479頁
〔訳文〕六人、楚に叛(そむ)き東夷に卽(つ)く。
❺「秋、楚公子朱自東夷伐陳。」『春秋左氏伝 二』506頁
〔訳文〕秋、楚の公子朱、東夷より陳を伐(う)つ。
〔語釈〕東夷:もと陳の邑。後に楚の領地となる。陳・楚の東にあったので東夷と称したものという。
❻「蠻夷戎狄、不式王命。」『春秋左氏伝 二』701頁
〔訳文〕蠻夷戎狄、王命を式(もち)いず。

 これらの記事から次のことが判断できそうです。

(Ⅰ)❶の「四夷」という表現から、東西南北に「夷」と呼べる勢力があった。
(Ⅱ)❸❹❺に「東夷」という表記が見え、「夷」の中でも「東夷」が著名だったように思われる。ただし、その「東夷」は中国大陸内の「夷」であり、日本列島(倭国)を「東夷」とした明確な用例は『春秋左氏伝』には見えない。
(Ⅲ)中原から見て、四方の表記として❻「蠻夷戎狄」があるようだが、それぞれが南蛮・東夷・西戎・北狄と方角が限定されているようには見えない。
(Ⅳ)同じく、中原から見て、四方の領域名・地名として❷「東至于海、西至于河、南至于穆陵、北至于無棣。」が注目される。特に中国大陸の東側が「海」であると認識されていたことがわかる。
(Ⅴ)❸「若出於東方、觀兵於東夷、循海而帰、其可也。」とあり、「東方」の「東夷」への「觀兵」においては、「循海而帰」と海沿いに帰ることができるとしており、中国大陸の東が海であると認識していることを疑えない。

 今回、あらためて『春秋左氏伝』を読んでいて、「蠻夷戎狄」のうち、虫偏や獣偏の字が使用されている「蠻狄」、武器や軍事の意味を持つ「戎」とは異なり、「夷」は人名や動詞にも使用されており、それほど差別的な文字として認識されているようにも思えません。その為か、次のような記事もあります。

❼「廿七年、春、杞桓公來朝。用夷禮。」『春秋左氏伝 一』399頁
〔訳文〕廿七年、春、杞の桓公來朝す。夷の禮を用ふ。

 この記事によれば、「夷」には「禮」があったとされています。もちろん中華の「禮」とは異なっており、恐らくより低位の「禮」とされていたこととは思います。ここでは「東夷」とは書かれていませんから、中原内かその近辺の「夷」と思われますが、「蠻戎狄」と「夷」とでは漢字の用例や、記事中の扱いが明らかに異なるように感じました。(つづく)

(注)
①國枝浩「『夷狄』考 ―『論語』と『史記』より―」『東京古田会ニュース』226号、2026年。
②古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、一九七八年。ミネルヴァ書房より復刻。
③新釈漢文体系『春秋左氏伝 一~四』明治書院、1971年。
④鎌田正「春秋左氏伝解題」『春秋左氏伝 一』明治書院、1971年。


第3591話 2026/02/10

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (2)

 ―古田説誕生の発端、「中国海」―

 九州の片田舎の中学を卒業し、高専で有機合成化学を専攻したわたしは、恥ずかしいくらい古典・漢文について無知でした。高校・大学で学ぶような文系の素養がほとんど無かったのです。その不勉強さに、古田先生は何度もあきれかえられていました。今、思い出しても赤面する出来事が何度もありました。ですから、わたしの中国古典の知識は古田先生の著作から学んだものであるため、その基本理解は七十歳の今でも、古田史学・古田説により形成されています。なかでも最も影響を受けた著作の一つが『邪馬一国への道標』(注)です。同書は〝です・ます調〟で書かれており、初学者や一般読者が古田先生の史料批判や文献理解の方法を学ぶ上で、珠玉の一冊です。その冒頭に、同書の中心テーマを表す言葉として、「中国海」という造語が説明されています。

「中国海  そのとき、わたしは考えました。〝中国大陸と朝鮮半島と日本列島(九州と沖縄)に囲まれた海〟――これも「内海」ではないか、と。〔中略〕
ところが、この「内海」には、包括的(トータル)な名前がありません。北の方が渤海(ぼっかい)、真ん中が黄海、南の方が東シナ海。しかし、全体の名前がないのです。
そこで〝造る〟ことにしました。――「中国海」です。〔中略〕とすると、中国、朝鮮半島、日本列島の三つは、〝中国海を内海とする〟文明圏だ。」

 このことを裏付ける考古学的出土物に「玦(けつ)状耳飾り」があります。縄文早期末(約7000年前)の日本列島や中国浙江省の河姆渡(かぼと)遺跡(紀元前5000~3000年)などからも出土しており、日本列島から長江沿岸地域を結ぶ文明圏の存在を示しています。また、縄文中期(紀元前3000~2000年)には縄文土器が太平洋を渡った痕跡として、南米ペルーのバルディビア遺跡出土の縄文土器が知られています。太平洋を渡れた倭人(縄文人)が東シナ海を渡れないはずはありません。

 『邪馬一国への道標』では文献史学の史料根拠として、王充(後漢代、一世紀の人物)の『論衡(ろんこう)』に記された、〝倭人の周代貢献〟記事が紹介されています。

○周の時、天下太平、越裳、雉を獻じ、倭人鬯艸(ちょうそう)を貢す。 (巻八、儒増篇)
○成王の時、越常、雉を獻じ、倭人暢草(ちょうそう)を貢ず。 (巻一九、恢国篇)

 王充は後漢の光武帝に仕えた官僚ですから、光武帝が倭人に金印(志賀島の金印)を与えたことを知っているはずです。ですから、『論衡』に記された「倭人」は、金印を与えられた日本列島の「倭人」であると認識していたことを疑えません。すなわち、後漢の天子や官僚たちが、周代における倭人の鬯艸貢献伝承を史実として、疑っていないのです。

 この周代(注②)の倭人貢献伝承が史実であれば、孔子もその伝承を知っていたはずとして、古田先生は〝孔子は東夷(倭国)を知っていた〟根拠の一つとしたわけです。この論理性(論証)により、古田説は仮説として成立しています。(つづく)

(注)
①古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、一九七八年。ミネルヴァ書房より復刻。
②従来説によれば、周の第二代成王の年代を紀元前11世紀とする。わたしは二倍年歴による補正が必要であり、実際は数百年新しくなると次の拙稿で発表した。
「『論語』二倍年暦説の史料根拠」『古田史学会報』150号、2018年。
「二倍年暦と「二倍年齢」の歴史学 ―周代の百歳と漢代の五十歳―」『東京古田会ニュース』195号、2020年。
「『史記』の二倍年齢と司馬遷の認識」『古田史学会報』170号、2022年。
『二倍年暦』研究の思い出 ―古田先生の遺訓と遺命―」『古田史学会報』172号、2022年。
「周代の史料批判 ―「夏商周断代工程」の顛末―」『多元』171号、2022年。


第3590話 2026/02/08

國枝浩「『夷狄』考」の衝撃 (1)

 ―孔子は東夷(倭国)を知っていたか―

 衝撃的な論稿に接しました。國枝浩さんの「『夷狄』考 ―『論語』と『史記』より―」です。『東京古田会ニュース』226号(2026年)冒頭に掲載された同稿の主張は、二倍年歴研究において中国古典(周代史書など)から得た、わたしの認識とは全く異なるものだったからでした。

 國枝さんの主張の論点と史料根拠は次のようです。
(a)『論語』には「夷狄」の語は見えるが、「東夷」「北狄」のように方角とは結びつけられていない。
(b)このことから、孔子の時代(周代春秋期・紀元前六世紀頃)の「夷狄」は周辺の未開の異民族と認識されるにとどまっている。
(c)「夷狄戎蛮」と方角(東西南北)が結びつけられるのは、司馬遷の『史記』やその影響を受けた後代の『論語』解説書による。
(d)従って、『論語』「公冶長」などを根拠として、孔子が東夷の国としての倭国(日本列島)の存在を知っていたとする古田説(注①)は『史記』(注②)に幻惑されたものであり成立しない。

 この國枝さんの主張は史料根拠や論理構造が明快であり、有力な仮説として成立していると思います。他方、論証の方法において不備があり、直ちに賛成できるものではありませんでした。それは次の理由からです。

(ⅰ)前漢代に成立した『史記』などに、「夷狄戎蛮」と方角(東西南北)が結びつける記事があるという史料事実は、前漢代の認識を示す史料根拠には使えても、〝周代にそうした認識はなかった〟とする根拠にはできない。
(ⅱ)孔子の認識を確認するためには、『論語』だけではなく、孔子と同時代(春秋期)か、せめてその直後(戦国期)の史料に基づくことが必要である。

 とは言え、國枝氏の論考は刺激的かつ有力です。そこで、わたし自身の認識を見直し、中国古典への理解を深めるためにも、周代史書と古田説の論理構造を再検討する必要を感じました。(つづく)

(注)
①古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、一九七八年。ミネルヴァ書房より復刻。
②國枝氏は『史記』「五帝本紀第一」を挙げる。そこには次の記事が見える。
「都を中心とする五千里四方のはて、すなわち荒服の地にまでいたった。南は交阯・北発、西は戎・析枝・渠廋・氐羌、北は山戎・発・息慎、東は長・鳥夷を鎮撫し、四海のうちはみな帝舜の功業に浴した。」『史記』上、中国古典文学大系10、平凡社、1968年。


第3589話 2026/02/05

『東日流外三郡誌の挑戦』の読後感

 『東京古田会ニュース』226号には拙稿「運命と使命の一書 ―東日流外三郡誌の逆襲―」に続いて、「一読者」による「『東日流外三郡誌の逆襲』読後感想文」が掲載されていました。これは『古田史学会報』191号掲載の池上洋史さんによる「『東日流外三郡誌の逆襲』の感想」に続いての書評で、どちらも好意的な言葉にあふれ、著者としては有り難く、続編執筆への励みとなりました。それは次のような感想です。

 「古賀さんが書かれた論文はほとんどすべて目にしていましたが、こうしてまとめて読んでみると、いかに長い歳月にわたって、地道で詳細な調査研究をされ、偽作キャンペーンに怒り、闘ってこられたかが改めてわかりました。」 (池上洋史さん)

 「古賀さんの偽書派に対する様々な論文を読んで偽書説の中味、そのやり口、裁判のこと、その後の和田家の人々がどうなったか良くわかりました。本当に腹が立ちました。偽書説を唱える人たちの無責任さ、想像力のなさ。」 (一読者さん)

 お二人の書評にあるように、同書収録論文には三十年前の偽作キャンペーンとの激しい論争の最中に書かれたものがあり、今回の出版にあたり、その表現を穏便なものに改訂することも考えました。というのも、掲載稿の初校ゲラを娘(小百合)に添削してもらったところ、感情が出過ぎており、学術論文らしく表現を抑えてはどうかとの助言があったからです。娘は同志社大学で現代メディア論などを専攻していたこともあり、もっともな意見と思いましたが、当時の激情も含めて、その〝熱〟を後世に伝えたいと述べ、序文「東日流外三郡誌を学問のステージへ ―和田家文書研究序説―」の掉尾を次のように改めることにしました。この文体は娘の指導によるものです。

 「掲載しているわたしの論文の中には、まさに偽作論との闘いの最も激しかった頃に執筆したものも含まれる。強硬な言葉や、度の過ぎた反撃の意思が見える表現も残るが、史料に対して不誠実な研究はしてこなかった自負があるため、残した。そして何より、あの時代のおぞましい弾圧を、そして正直に語れば我々の身を焼いた怒りを、時を超えて本書に残さねばならないとも思っている。ここまで戦ってきた同志に、そしてこれから先の未来で歴史研究の歩みの中で本書に出会った人に、この三十年の思いが熱を失わぬまま届けば、きっとその先に研究の道は続いていくと信じている。
しかし、わたしたちはこの炎をもって、何者かを焼くことを目的とはしないことをはっきりとここに宣言する。東日流外三郡誌とそこに記された真実のみを求める。本書は、この学問精神に貫かれている。東日流外三郡誌の逆襲が、本書から始まるのである。」『東日流外三郡誌の逆襲』15頁

 最後にわたし自身の読後感ですが、自らの三十代の〝若さ〟と〝情熱〟に触れ、七十歳の今のわたしには到底書けないと思いました。人生の「最新」章を迎え、あの頃の〝若さ〟と〝情熱〟を思い起こし、読者の心に響くような論文を書き、そして古田武彦先生から託された未踏の分野の研究に挑みたいと、決意を新たにしました。


第3588話 2026/02/03

運命と使命の一書

『東日流外三郡誌の挑戦』

 先日届いた『東京古田会ニュース』226号に拙稿「運命と使命の一書 ―東日流外三郡誌の逆襲―」を掲載していただきました。同稿は、昨年八月に八幡書店から発行された拙著『東日流外三郡誌の逆襲』の出版記念講演会(弘前市、秋田孝季集史研究会主催)の報告を書いて欲しいと、東京古田会の安彦克己会長からご依頼をいただき、執筆したものです。

 そこで、わたしが和田家文書研究に入った30年前の事件から書き起こすことにしました。今では当時のことを知らない人が多くなりましたので、後学に伝えるためにも気合いを入れて書きました。その冒頭の一節と各節小見出しを転載します。ちなみに、〝運命と使命の一書〟とは、〝運命〟の『東日流外三郡誌の逆襲』(既刊)と〝使命〟の続編『東日流外三郡誌の挑戦』(仮題、未刊)の二著のことです。後著は既に半分ほどの原稿執筆を終えています。そこでは、古代東北の連合国家〝愛瀰詩国(蝦夷国)〟の多元史観による復元に挑戦しています。

【以下転載】
一 運命の一書

 令和七年夏、三十年の歳月を経て、『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)を上梓できた。
三十年前、安本美典氏やメディアによる東日流外三郡誌偽作キャンペーンは猖獗を極め、和田家文書を見たこともない人々が我先にと偽作説に走り、あろうことか「市民の古代研究会」までもが古田武彦先生を裏切った理事らにより反古田の集団へと変質していった。それまでは「古田先生、古田先生」と猫撫で声で群がっていた人々、わたしが〝兄弟子〟と慕っていた人々が次々と先生から離れていく。人はかくも簡単に恩人を裏切れるものなのか。三十代の若き日、わたしはそれを目の当たりにしたのだ。

 以来、古田先生との津軽行脚、そして北海道から九州までの全国行脚の日々が始まった。何のために。言うまでもない。東日流外三郡誌の真実を求め、全国各地に残った古田史学を支持し、迫害に屈しない筋金入りの〝弟子〟らを糾合するためにだ。この津軽・北海道行脚の一端を『東日流外三郡誌の逆襲』に採録し、わたしの運命と使命の足跡を書きとどめた。

二 平成の津軽行脚
三 令和五年、再開した津軽行脚
四 令和五年、武田社長との邂逅
五 令和七年秋、弘前市での邂逅
六 宮下青森県知事を表敬訪問
七 津軽の政治家との一夕
八 津軽藩のキリシタン禁圧史
九 津軽にいた阿倍比羅夫の子孫
十 弘前市立図書館での決意


第3587話 2026/02/02

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (11)

 ―写真裏書「和田長三(郎)」への疑義―

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)に見える前列左端の坊主頭の若者が、同写真裏書きに見える「和田長三(郎)」である和田元市氏(喜八郎氏の父)であることはほぼ確認できたように思いますが、なお一つの疑問があり、わたしは悩んできました。それは、写真撮影当時の大正10年(推定)、元市氏はまだ21歳であり、父親の長作氏(当時47歳)は健在です。このとき若き元市青年が、はたして和田家当主の「長三郎」を襲名できたのかという疑問です。

 そこでまず考えたのが写真裏書きの史料性格です。写真裏書きに見える他の四名の名前、天内・林・秋田重(季)・綾小路が正確であったことから、何らかの関連文書に基づいて書かれたものと考えざるを得ませんから、「和田長三(郎)」もその関連文書に基づいて記されたと考えるのが妥当です。そうでなければ、「和田長三(郎)」ではなく、「和田元市」と書かれたはずですから。また関連文書もなく、写真の人物を見て、これらの名前を書くことはまず不可能でしょう。貴族院子爵議員の秋田重季氏や綾小路護氏だけであれば、全国的な著名人ですから、他の情報に基づき、人物を特定できたかもしれませんが、天内兼太郎氏や森林助氏はわからないのではないでしょうか。

 従って、これらの人物名が書かれた資料の存在を疑えないのです。そうすると考えられるのが、同写真の下部が切り取られていることから、この切り取られた部分に人物名が印字されていた可能性が有力であり、それに基づいて裏書きが記され、その後、何らかの事情によりその部分が切り取られたと考えるのが最有力と思われます。この理解が当たっていれば、この写真の撮影時と人物名入り記念写真として焼き増しされた時期は異なると考えることができます。そこで注目されるのが、写真左上の円内にある高齢の人物です。このように集合写真の上部に人物が付加される例は卒業写真などでお馴染みです。集団の記念写真撮影時に欠席した人の写真を付け加えるという手法です。

 しかし今回の写真は、東京から津軽に旅行した子爵議員二名が旅館(料亭)の女将や芸妓と手をつなぐという極めてプライベートなものです。従って、円内に「不参加の高齢の人物」写真を付加しているのは、卒業写真などとは全く異なった目的によると考えざるを得ません。そこで、わたしは次のように考えてみました。この写真は秋田重季氏晩年(昭和33年、1958年没)に焼き増しされたもので、その際、上部左の円内に晩年の自らの写真を加え、写真下部の余白部分に参加者の名前を印字した。従って、重季氏晩年であれば元市氏は「長三郎」を襲名していたと考えられ、先にあげた疑問は解消されます。

 この推定であれば、同写真とその裏書きの史料状況をうまく説明できます。この仮説の当否を証明する方法もあります。晩年の秋田重季氏の写真を確認することです。この調査のため、秋田家へのアプローチなどを試みてきましたが、今のところ実現できていません。(つづく)

〖写真解説〗左: 記念写真左上の写真 右上: 記念写真前列中央の秋田重季氏 右下: WEBにあった秋田重季氏の若いころの写真


第3586話 2026/02/01

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (10)

 ―写真裏書「和田長三(郎)」の考察―

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)に、並んで写っている男性六名中の前列左端、坊主頭の若者が同写真裏書きに見える「和田長三(郎)」であれば、それは和田家仏壇の上に架けられた和田元市氏(喜八郎氏の父)遺影との一致により、元市氏の若い頃である可能性が最有力候補となります(注①)。この判断が正しければ、和田家(青森県五所川原市飯詰)と秋田子爵家(東京)との交流が明治・大正時代に遡ることを証明する写真となります。

 「東日流外三郡誌」偽作キャンペーンでは、和田家と秋田子爵家との交流は『東日流外三郡誌』が有名になった昭和六十年頃からであり(注②)、それまでは無関係と主張していました。「東日流外三郡誌」明治写本を書写した和田長三郎末吉(喜八郎氏の曾祖父)と秋田子爵家との交流が、和田家文書(寛政原本の写本ではなく、末吉が明治期に執筆した部分)に少なからず遺されており、偽作論者はそれらの記事を和田喜八郎氏による偽作として退けてきました。しかし、この写真の人物が和田長三郎元市であれば、そうした偽作説を否定する証拠となります(和田家では代々の当主が「長三郎」を襲名)。

 「洛中洛外日記」3585話で説明したとおり、この写真の撮影時期が大正10年であれば、和田元市氏21歳の写真となり、年齢が判明している他の五名の男性の風貌と比べても、妥当な年齢であることがわかります。大正10年時点の年齢は次の通りです。
❶天内兼太郎(1885~1985) 36歳
❷森 林助 (1880~1935) 41歳
❸菊池 巍 (1876~1934) 45歳
❹和田元市 (1900~1981) 21歳
❺秋田重季 (1886~1958) 35歳
❻綾小路護 (1892~1973) 29歳
(つづく)

(注)
①記念写真中の男性(全七名)で、調査により判明した六名は下記の通り。写真左上円内の人物は未詳。秋田重季氏の晩年の写真かもしれないが、そうと断定できるほどの根拠が今のところない。
[後列]
❶天内兼太郎(1885~1985) 弘前中学教師 《男A》「天内」
❷森 林助 (1880~1935) 弘前中学教師 《男B》「森」
❸菊池 巍 (1876~1934) 弘前中学教師 《男C》不記載
[前列]
❹和田元市 (1900~1981)        《男D》「和田長三(郎)」
❺秋田重季 (1886~1958) 貴族院子爵議員《男E》「秋田重(季)」
❻綾小路護 (1892~1973) 貴族院子爵議員《男F》「綾小路」
※《》内は裏書きの文字。写真下部が切り取られているため、切り取られた部分にあると思われる()内の字は、推定による。
②昭和62年7月30日、秋田家当主の秋田一季氏(重季氏の子息。1915~1997)が安倍晋太郎氏(安倍家も始祖を津軽の安日王〈東日流外三郡誌に見える安日彦〉とする)と共に石塔山神社を訪れ、植樹している。石塔山神社収蔵庫を見学する安倍洋子さん(暗殺された安倍晋三元総理大臣の母)の写真もある(年次不明)。安倍洋子さんは和田喜八郎氏の葬儀(1999年)にも参列しており、両家の深い関係をうかがわせる。

 古田武彦先生から聞いた話だが、喜八郎氏の紹介で秋田一季氏に会う際、会話の冒頭に「おそれながら」、末尾に「~でございます」と敬語を使うよう、喜八郎氏からきつく言われたとのことであった。ちなみに、喜八郎氏は一季氏を「秋田様」「殿(との)」と呼んでいた。いかにも時代がかった表現だが、そのときの喜八郎氏の表情は真剣そのものであった。