古賀達也一覧

古田史学の会代表古賀達也です。

第3528話 2025/09/09

王朝交代時の九州年号「大化」の考察 (2)

 九州年号「大化」の字義は〝大きく化する〟ですから、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代を見据えた年号ではないか、あるいは大化元年(695)が持統天皇の藤原遷居(694年12月、注①)の翌年(翌月)に当たることから、藤原遷都に関係したものではないかとも考えてきました。しかし、そうであれば大化改元は大和朝廷の意向(禅譲の強要か)にそったものとなり、大和朝廷が大宝建元(701)したときに九州年号「大化」は廃止されると思うのですが、大化は九年(703)まで続き、その後は「大長」と改元され九年まで続き、九州年号は王朝交代の11年後に終わります。この「大化」「大長」の九州年号が、単純な禅譲説を斥けるのです。

 『日本書紀』では大化改元が、九州年号「大化」を孝徳紀まで50年遡らせていますから、大化の字義を〝広大なる化導。大なる徳化。徳を以て大いに導き、人心をよき方向にかえること。〟のように孝徳天皇の意志や業績と関連づけた建元(注②)と理解されているようです。しかし九州王朝説では、大化は王朝交代直前の九州王朝による改元ですから、こうした解釈では、5年後に交代する新王朝への讃辞のような字義となり、ちよっと不自然のような気がします。(つづく)

(注)
①持統九年十二月条に「藤原宮に遷(うつ)り居(おは)します。」とあり、「遷都」としていないことが注目される。
②日本古典文学大系『日本書紀』(岩波書店)の頭注には次の説明がある。〝大化は、広大な徳化の意。尚書、大誥に「肆予大化誘我友邦君」。(中略)書紀では大化が年号のはじめ。〟。


第3527話 2025/09/08

王朝交代時の九州年号「大化」の考察 (1)

31歳の時、古田武彦先生に師事し、入門以来主要テーマとしたのが九州年号研究でした。これまでの研究成果として次のことがわかってきました。

❶九州年号の改元理由として、王宮・王都の造営や遷都・廃都がある。
(例) 倭京元年(618):太宰府遷都(注①)、白雉元年(652):前期難波宮創建、朱鳥元年(686):難波宮焼亡、白鳳元年(661):大津宮創建(注②)。この他にも正木裕氏の研究がある(注③)。
❷年干支が「辛酉」のときにも改元されている(注④)。
(例) 明要元年(541)・願轉元年(601)・白鳳元年(661)。
❸年号に仏典・仏教の影響が見られるものがある。
(例) 教到(531~535)、僧聴(536~540)、和僧(565~569)、金光(570~575)、仁王(623~634)、僧要(635~639)。
❹701年の王朝交代後も九州年号「大化」(695~703)・「大長」(704~712)が続いている(注⑤)。

これまでの研究成果を前提として、わたしが最も注目しているのが「大化」年号です。王朝交代した701年の前後にまたがっている年号ですが、この大化年間に九州王朝に何が起きたのでしょうか。なぜ「大化」のような年号をこの時期に九州王朝は採用したのでしょうか。ここに王朝交代の真相に迫るヒントが隠されているように思われるのです。(つづく)

(注)
①古賀達也「太宰府建都年代に関する考察 ―九州年号『倭京』『倭京縄』の史料批判―」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
②古賀達也「九州王朝の近江遷都」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
③正木裕「九州年号の改元について(前編)」『古田史学会報』95号、2009年。
「九州年号の改元について(後編)」『古田史学会報』96号、2010年。
④古賀達也「辛酉革命と甲子革令の王朝」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
⑤古賀達也「最後の九州年号 ―『大長』年号の史料批判」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』77号、2006年。
「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』78号、2007年。 同「九州年号『大長』の考察」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)、2017年。

【写真】九州年号の「大化五子年」土器。


第3526話 2025/09/05

『東日流外三郡誌の逆襲』

     出版記念講演のリハーサル

 本日、「多元的古代研究会」主催のリモート研究会で、「和田家文書の真実」というテーマを発表させていただきました。9月27日(土)の弘前市(秋田孝季集史研究会主催)と10月25日(土)に東京(八幡書店主催)で開催される『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念講演会のリハーサルを兼ねて発表しました。
この三十年間の研究成果をパワポファイル120枚を使用して説明しましたが、最後に、これから十年をかけて『東日流外三郡誌』の編者秋田孝季の生涯と思想を研究し、古田武彦先生ができなかった『秋田孝季』の伝記執筆のための研究を続け、後継者に委ねたいと締めくくりました。この思いを綴ったのが『東日流外三郡誌の逆襲』の最後に収録した「謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―」です。その末尾の一節を転載します。同書出版に込めた思いの一端が読者に伝われば幸いです。

【以下、転載】
あるとき、古田先生はわたしにこう言われた。「わたしは『秋田孝季』を書きたいのです」と。東日流外三郡誌の編者、秋田孝季の人生と思想を伝記として世に出すことを願っておられたのだ。思うにこれは、古田先生の東北大学時代の恩師、村岡典嗣(むらおかつねつぐ)先生が二十代の頃に書かれた名著『本居宣長』を意識されてのことであろう。
それを果たせないまま先生は二〇一五年に逝去された。ミネルヴァ書房の杉田社長が二〇一六年の八王子セミナーにリモート参加し、和田家文書に関する著作を古田先生に書いていただく予定だったことを明らかにされた。恐らく、それこそが『秋田孝季』だったのではあるまいか。先生が遺した『秋田孝季』の筆を、わたしたち門下の誰かが握り、繋がねばならない。その一著が世に出るとき、東日流外三郡誌に関わった、冥界を彷徨い続ける人々の魂に、ひとつの安寧が訪れることを信じている。
〔令和七年(二〇二五)五月十二日、筆了〕


第3525話 2025/09/03

東北地方の「山」地名〝山形〟を考える

 東北地方に濃密分布する「山神社」ですが、なぜか山形県が最も多いようでした。同県には下記の「山神社」がウィキペディアで紹介されています。

【山形県の主な山神社】
山神社 – 山形県新庄市本合海
山神社 – 山形県最上郡金山町有屋
山神社 – 山形県最上郡最上町富沢
山神社 – 山形県最上郡舟形町舟形
山神社 – 山形県最上郡真室川町及位
山神社 – 山形県最上郡鮭川村曲川
山神社 – 山形県最上郡戸沢村松坂
山神社 – 山形県最上郡最上町本城
山神社 – 山形県山形市神尾
山神社 – 山形県寒河江市田代
山神社 – 山形県村山市河島
山神社 – 山形県天童市山口
山神社 – 山形県東根市関山
山神社 – 山形県尾花沢市五十沢
山神社 – 山形県東田川郡三川町押切新田
山神社 – 山形県西村山郡朝日町杉山
山神社 – 山形県西村山郡大江町柳川
山神社 – 山形県西置賜郡白鷹町萩野

 山形県内の「山神社」をプロットした地図を見ていて、山形県・山形市の山も「山神社」と無関係ではないのではないかと考えました。そこで「山形」地名の由来を調べてみました。関係自治体ホームページなどでは、『倭名抄』(注)に見える「山方郷」(山形市の南部とされる)が地名の由来とされています。それはその通りだと思いますが、今、問題にしているのは、「山形・山方(やまかた)」の「山(やま)」の由来ですから、こうした説明だけでは不十分です。平地から見て山の方にある郷だから山方郷とする説明も見えますが、内陸部にある山形市の四方はほぼ山ですから、南側だけ「山方」と名づけられたことになる、このような説明では納得できそうにありません。

 そこで、ここからはわたしの作業仮説(思いつき)ですが、「山方(やまかた)」は「やま」の「県(あがた)」が本来の行政地名であり、その「やまあがた」が「やまがた」と呼ばれ、漢字の「山方」「山形」を当てられたのではないでしょうか。そうであれば、その地名の語幹は「やま」となり、当地はもともと「やま」と呼ばれていた領域と考えることができます。なお、この場合の「やま」は moutain のこととは限りません。

 しかしながら「山県(やまあがた)」由来説には考えなければならない問題があります。それは、「県(あがた)」は七世紀前半以前の倭国(九州王朝)の行政単位であり、古代の蝦夷国であった山形県に倭国の行政単位が採用されていたのかという問題です。引き続き、この作業仮説が成立するのか深く考えてみます。(つづく)

(注)『倭名類聚抄』の略称。『和名類聚抄』『和名抄』ともいう。同書は源順による辞典類で、平安時代中期の承平年間(931~938年)に成立。当時の地名が記されており、地名研究では基本資料として重視されている。


第3524話 2025/08/30

「山神社」名称の由来を考える

 「洛中洛外日記」3519話〝東北地方に濃密分布する「山神社」〟で、山神社が東北地方や東海地方に濃密分布していることを紹介しましたが、その神社名の意味や由来についてはよくわかりませんでした。そこで、今回はこの「山神社」名称の由来を考えてみました。

 神社名には、地名や山名、神名などが一般的には用いられています。白山神社とか月山神社は山の名前を採用した例です。大山祇神社や八幡神社は神名です。その点、「山神社」は「山(やま・さん)」という神様を祀る神社なのか、「山(やま・さん)」という地名・領域を冠した神社なのか、あるいはそれ以外なのか、まだよくわかりません。

 「山の神」伝承は各地にありますが、その神様の本名が「山(やま・さん)」なのか、本名は不明だが山に住んでいる神様だから「山の神」と呼ばれているのか、これもまたよくわかりません。

 東北地方に分布する「山神社」のご祭神は大山祇であったり、コノハナサクヤ姫であったりと統一されていないところをみると、もともと「山神社」とあったので、『日本書紀』成立以降に著名な大山祇やコノハナサクヤ姫を祭神として後付け、あるいは本来の神様と取り替えたようにも思われます。しかし、後者であれば本来の神様の名前が共通の祭神として各地に遺っていてもよさそうですが、今のところそうした様子はうかがえません。

 「山神社」と似た名称構造を持つ神社に「天神社(てんじんしゃ)」があります。この「天」は sky や heaven ではなく、海を意味する倭語「アマ」です。地名にも使われている、たとえば「天草」のアマです。なお、この場合の「草(クサ)」は grass plnat ではなく、太陽・日を意味する古語「クサ」であり、「天草」とは〝海の太陽=海に沈む夕日〟とする説をわたしは発表しました(注①)。

 古田武彦説では天孫族の故地〝高天原〟と呼ばれている壱岐・対馬などの海洋領域を天国(あまくに)としており、「天神」とはアマテラスなどのアマ国領域の神様を意味します。従って、「天神社」の「天」とは天国(あまくに)領域を意味します。「山神社」がこれと同様の名称構造であれば、「山(やま)」という領域の神の社という理解が可能です。

 そこで思い起こされるのが、『三国志』倭人伝の中心国名「邪馬壹国」です。古田説によれば、倭(wi)国の中の邪馬(yama)という領域を意味する「邪馬壹国」が、倭国の中心領域の国名になったとしますから、九州王朝の故地、筑紫がヤマであり、それを漢字で「山」と表すことがあるとします(注②)。この理解に基づけば、「山神社」の「山」は筑紫を意味しますが、そうであれば「山神社」の分布が筑紫にあってほしいところですが、それはありません。したがって、「山」の由来を領域名とするのであれば、筑紫ではなく、「山神社」が濃密分布する東北地方に淵源を求めなければなりません。そのような領域が東北地方にあるでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」425話(2012/06/12)〝「天草」の語源〟
②筑後(福岡県南部にあった山門郡)の「山門(やまと)」、筑前(福岡市西区)にある「下山門(しもやまと)、上山門(かみやまと)」は、「やま」領域の南北の入り口「門」「戸」を意味する地名と考えられる。

【写真】広島県厳島神社の天神社。山梨県南都留郡富士河口湖町本栖の山神社。


第3523話 2025/08/28

多賀神社(宮城県名取市)の日本武尊伝承

 「洛中洛外日記」3522話〝宮城県の日本武尊伝承を持つ神社〟で紹介した神社伝承のなかで最も注目したのが名取市高柳下西に鎮座する多賀神社です。同神社の創建は景行天皇二八年(98)に日本武尊(景行天皇の皇子)が東征の際に勧請したと伝えられています。

 伝承によれば、日本武尊は東国遠征での連戦により当地で重病となり、そこで柳の樹で祭壇を設けて病気平癒を祈願すると完治したとされています。その後、この故事から棚柳と呼ばれるようになり、霊地には祠が設けられて信仰の対象になったとのことです。

 また、仙台藩の『奥羽観蹟聞老志』(注①)には、雄略二年(458)に初めて祭禮で圭田(注②)五八束を寄進されたとあり、同神社が『延喜式』神名帳に記された式内社の多加神社とされてきました。わたしが注目したのは、この雄略二年(458)の圭田寄進という伝承です。景行天皇二八年(98)に創建されたとする伝承の年代は信頼できませんが、雄略二年(458)であれば、『宋書』倭国伝に記された九州王朝(倭国)の東方侵略〝東征毛人五十五國〟の時期とほぼ対応するからです(注③)。

 「風土記ニ曰ク。多賀ノ神社、圭田五十八束、二字田。所祭、伊弉諾尊也。雄畧二年、始奉圭田ヲ行フ神禮式祭。
神名、秘書ノ説載ス之宮城郡多賀ノ下ニ。」『奥羽観蹟聞老志』巻五 「国書データベース」による。句読点は古賀が付した。
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100350427/1?ln=ja

 このように「雄略二年」という具体的な年次で伝承されているケースは、何らかの根拠(史料)に基づいている可能性が高いだけに貴重です。(つづく)

(注)
①『奥羽観蹟聞老志』は、仙台藩の史官佐久間洞巌が仙台藩主伊達綱村の命により、奥州の歴史・地名・産物などを主に纏めた地誌。享保四年(1719)の序がある。原本は宮城県立図書館が所蔵し、宮城県指定文化財に登録されている。
②けいでん【圭田】:「圭」は潔(きよ)いの意。 昔、その収穫を祭祀用にあてるために設けた田地。神田(しんでん)。
③『宋書』倭国伝によれば、「雄略二年(458)」は倭王済か興の時代にあたる。


第3522話 2025/08/27

宮城県の日本武尊伝承を持つ神社

 「「洛中洛外日記」」3518話〝狩野英孝さんの実家「櫻田山神社」の祭神「武烈天皇」〟では宮城県北部の栗原市にある櫻田山神社(さくらださんじんじゃ)のご祭神として祀られている「武烈天皇」、3520話〝大高山神社(宮城県柴田郡)の創建伝承〟では同県南部の柴田郡大河原町にある大高山神社(おおたかやまじんじゃ)のご祭神が日本武尊であることを紹介し、これらのご祭神は『宋書』倭国伝の倭王武の伝承が武烈天皇や日本武尊に置き換えられて伝わったのかもしれないとしました。

 そうであれば、『宋書』倭国伝に見える〝東征毛人五十五國〟の範囲に宮城県(蝦夷国)が含まれている可能性もあり、宮城県内の日本武尊伝承を持つ神社をWEBで探したところ、県内各地にあることを知り、驚きました。ブログ「宮城県・日本武尊・縁の社寺・温泉」によると大高山神社をはじめとして次の神社がリストアップされています。
https://www.miyatabi.net/sonota/yamatotakeru.html

大高山神社 (宮城県大河原町) 名神大社
多賀神社 (宮城県仙台市) 延喜式内社
多賀神社 (宮城県名取市) 延喜式内社
佐倍乃神社 (宮城県名取市)
熱日高彦神社 (宮城県角田市) 延喜式内社
斗蔵神社 (宮城県角田市)
鹿嶋天足和気神社 (宮城県亘理町)
安福河伯神社 (宮城県亘理町)
鹿島神社 (宮城県丸森町)
刈田嶺神社 (宮城県蔵王町) 名神大社
遠流志別石神社 (宮城県登米市) 延喜式内社
飯野山神社 (宮城県石巻市) 延喜式内社
拝幣志神社 (宮城県石巻市) 名神大社
日高見神社 (宮城県石巻市) 延喜式内社
白鳥神社 (宮城県村田町)
白鳥神社 (宮城県柴田町)
拆石神社 (宮城県柴田町)
駒形根神社 (宮城県栗原市) 延喜式内社
敷玉早御玉神社 (宮城県大崎市) 延喜式内社

 このように宮城県内各地に、日本武尊に置き換えられた倭王武伝承の痕跡があり、九州王朝(倭国)は蝦夷国(陸奧国の太平洋側)の中枢領域と思われる仙台平野とその以北まで侵攻したことがうかがわれます。この伝承分布は前方後円墳分布にも対応しているようなので、宮城県内の日本武尊伝承は史実の反映と見たほうがよいように思われます。(つづく)


第3521話 2025/08/24

地蔵盆行事でランドスケープ研究を聴講

 昨日は京都の伝統行事、地蔵盆が町内会で行われました。その行事の一つとして、今年は京都府立大学大学院で環境科学を専攻する竹田桃子さんの講演がありました。梶井町町内会としても初めての取組で、会場のクリエイション・コア京都御車(中小企業基盤整備機構)の会議室が満席となりました。
講演テーマは「近代・京都の鴨川西岸地区における公家町の景観変容について」で、明治維新以降の梶井町の成立と変遷についての歴史的研究です。住んでいる町の歴史をテーマとした研究発表を地蔵盆で聞けるのは京都ならではのことでしょう。

 わたしが住んでいる上京区梶井町は、江戸時代は梶井宮(常修院宮慈胤法親王・後陽成天皇の第十四皇子)の別邸があった所で、鴨川の西岸にあり、比叡山や大文字焼きで有名な如意ヶ嶽など東山三十六峰を一望できる、洛中でも有数の地域です。明治維新による東京遷都のときに多くの御公家衆が東京に転居し、明治四十年以降に梶井宮邸も大阪の実業家・藤田男爵(注①)や京都の有力者が買い取り、この地に別邸を造りました。戦後それら別邸跡地が分譲され、現在の町民の祖父の代に転居し、梶井宮跡が現在の梶井町になりました。そして、京都府立医科大、同付属病院、北村美術館、同志社女子大みぎわ寮、ドミニコ女子修道院などが町内に造られました。

 講演では、このような明治から現代までの梶井町の歴史と景観の変容がランドスケープ学(注②)の視点で紹介され、参加者もおじいさんたちから聞いた昔話に花が咲きました。ちなみに、この研究は竹田桃子さんの修士論文(2025年)のテーマで、東京大学本郷キャンパス安田講堂で開催された2025年度日本造園学会全国大会でもポスター発表されました。

 梶井町では現在も大原記念病院(リハビリ専門病院)とマクドナルドハウス(府立医大付属病院・京大病院に長期入院している子供たちの親の宿泊施設)の建設が行われており、町の景観も大きく変わり続けています。

 講演後に竹田さんの修士論文をいただきましたが、それには英文タイトル〝A study of the landscape transformation of a court noble town in the west bank area of the Kamogawa River in modern Kyoto〟が付されており、文系論文でも英文タイトル付記は常識となっているようです。『古代に真実を求めて』編集部でも掲載稿に英文タイトルを付記することを検討しています。古田史学を世界に発信するためには英文タイトル・アブストラクトの併記が必要です。同修士論文を読んで、まずは英文タイトルだけでも付記したいと思いました。

(注)
①藤田傳三郎(ふじた でんざぶろう、1841年7月3日・天保12年~1912年・明治45年)は、日本の商人、実業家。明治時代の大阪財界の重鎮で、藤田財閥の創始者。〔Wikipediaによる〕
②ランドスケープ学とは、自然環境と人との暮らしが調和した空間形成の知識・技術について研究する学問。都市設計において最初に検討すべき課題として重視されている。


第3520話 2025/08/22

大高山神社(宮城県柴田郡)の創建伝承

 「洛中洛外日記」3519話〝東北地方に濃密分布する「山神社」〟で、宮城県栗原市の櫻田山神社のご祭神「武烈天皇」について、〝『宋書』倭国伝の倭王武の伝承が武烈天皇に置き換えられて伝わったのかもしれませんが、さすがに宮城県北部まで倭王武が来たとは考えにくい〟としました。

 他方、『常陸国風土記』には当地を巡航する「倭武天皇」伝承が記されており、古田説ではこれを倭国(九州王朝)の倭王武の伝承が日本武尊(やまとたけるのみこと)伝承に置き換えられたものとしてきました。したがって、『宋書』倭国伝に見える〝東征毛人五十五國〟の範囲に常陸国が含まれているとわたしは考えています。しかしさすがに宮城県北部の栗原市までは遠征していないだろうと思っていました。ところが櫻田山神社の武烈天皇伝承の調査を進めるなかで、宮城県にもヤマトタケル伝承が遺っていることを知りました。たとえば、宮城県南部の柴田郡大河原町にある大高山神社(おおたかやまじんじゃ)のご祭神が日本武尊で、『ウィキペディア(Wikipedia)』には次の説明があります。

〝社伝によれば、大高山神社は敏達天皇元年(572年)に日本武尊を主祭神として創建されたという。当神社の縁起書や『安永風土記』『奥羽観蹟聞老志』(おううかんせきもんろうし)などによれば、日本武尊が蝦夷征伐のための東征の折に仮宮を立てて住んだと伝わり、その仮宮の跡地に「白鳥大明神」と称する社殿を設け、日本武尊を奉斎したという。

 また伝承によれば、崇峻天皇二年(588年)には主祭神として橘豊日尊(用明天皇)が合祀された。これは、用明天皇が橘豊日尊と呼ばれた皇子の頃、勅命により当地へやってきたことがあり、用明天皇の皇子である聖徳太子がその縁を持って大高山神社へ合祀したと伝わる。〟

同神社ホームページにも次の解説があります。以下転載します。

《大高山神社の由緒》

 人皇30代敏達天皇の元年(571年)日本武尊を祭神として創建されました。 その後、推古天皇のお守り、橘豊日尊(31代用明天皇、聖徳太子の父君)を合祀しております。

 縁起書、安永風土記、観蹟聞老志などを併せて見ることによって日本武尊が蝦夷征伐の時にこの地に仮に宮を建てて住んだので、その跡地に白鳥大明神として日本武尊を奉祭したと言われています。

 場所も新開の台の山までありましたが(ママ、台の山で か?)、元禄初期の火災焼失により、新開126番地に移し、その後大正3年に金ヶ瀬神山に移築遷座されて現在に至っております。

《御祭神について》

 日本武尊が東国ご討征の時、お宮を建ててご住居になったことがあります。そして、尊が都へ帰られた後、白鳥大明神として祀ったということであり、その後、用明天皇が、橘豊日尊と呼ばれた、皇子の頃、この地に来られたことがあったので、その子の聖徳太子がこの地のゆかりをもって大高山神社に祀ったといいます。

 このようなことで、日本武尊と用明天皇を祀る二祭神であります。
日本武尊が東国平定に向かわれたのは、紀元110年の景行天皇40年のこととされているので、その462年後の紀元572年に創建されたことになります。
また、それより30余年後の推古天皇の代において、聖徳太子が父君・用明天皇を大高山神社に合祀したことになっています。

 明治42年(1909)8月8日、従来の『日本武尊』『用明天皇』二祭神のほか、堤に鎮座した愛宕神社の祭神迦具土尊(かぐつちのみこと)と、新寺に鎮座した山神社の祭神大山祇命(おおやまつみのみこと)とを合祀しています。更に、大正3年(1914)に、新開の尾鷹から現在地に遷座する際、祭神倉稲魂命(うがのみたまのみこと)、火彦霊命(ほむすびのみこと)を合祀しています。
【本祭神】
日本武尊(やまとたけるのみこと)
用明天皇(ようめいてんのう)
【合祀祭神】
迦具土命(かぐつちのみこと)
大山祇命(おおやまつみのみこと)
倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
火産霊命(ほむすびのみこと)
白山菊理媛(しらやまくくりひめ)
https://ohtakayama.org/keidai/index.html
【転載終わり】

 柴田郡大河原町は福島県から宮城県へ向かう国道4号線上にあり(注)、それは倭王武らによる蝦夷国侵攻の経由地とできることから、同社伝承を歴史事実の反映とすることもできそうです。そうであれば、宮城県北部の櫻田山神社の武烈天皇伝承も倭王武のこととする可能性をはじめから排除しない方がよいかもしれません。

 なお、ご祭神として用明天皇も祀られていますが、全国的に著名な聖徳太子ではなく、なぜそのお父さんの用明天皇を祀ったのかという興味深い問題もあります。これも九州王朝(倭国)の伝承が用明天皇や聖徳太子に置き換えられたと考えれば、社伝の「用明天皇」とは、〝日出ずる処の天子〟と自称した国書で有名な、『隋書』俀国伝に見える俀国(倭国)の天子、阿毎多利思北孤(あまのたりしほこ)のことであり、その太子、利歌彌多弗利(りかみたふり)が同社に合祀したと考えることができます。(つづく)

(注)国道4号は、東京都中央区から栃木県宇都宮市、福島県福島市、宮城県仙台市、岩手県盛岡市を経て、青森県青森市に至る一般国道で、実延長が日本一長い国道。江戸時代の五街道のひとつである日光街道や奥州街道を踏襲する道筋で、高速道路では東北自動車道、鉄道では東北新幹線や東北本線とおおむね並行する経路をとる。


第3519話 2025/08/20

東北地方に濃密分布する「山神社」

 狩野英孝(かのえいこう)さんのご実家の櫻田山神社(さくらださんじんじゃ)が千五百年の歴史を持つ古社であることを知り、驚きました。福岡県出身で京都に五十年住んでいるわたしには、「山神社」という聞き慣れない名称が気になり、ネットで調べてみました。各県神社庁のホームページによれば、山神社は東北地方に濃密分布しており、中でも宮城県と山形県が最濃密地域のようでした(注①)。秋田県や岩手県にも分布が見られますが、なぜか青森県には分布を見いだすことが、今のところできていません。

 「山神社」の訓みは、「さんじんじゃ」「やまじんじゃ」「やまのかみしゃ」「やまがみしゃ」などですが、ご祭神を武烈天皇とするのは少数でした。多いのは木花咲耶姫と大山祇神のようです。現時点で見つけた武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯尊)をご祭神とする山神社は、冒頭紹介した櫻田山神社(宮城県栗原市栗駒桜田山神下)と山神社(宮城県栗原市一迫王沢字北沢十文字)、新山神社(しんざんじんじゃ、宮城県栗原市志波姫堀口御駒堂)で、いずれも宮城県北西部の栗原市内で、限定された祭神伝承のようです。栗原市にはこの他にも多数の山神社があるのですが、それらの祭神は武烈天皇ではありません。ですから、武烈天皇に仮託された人物の伝承が、栗原市の一部の山神社に遺っていると考えることができそうです。

 また、山神社の濃密分布範囲は東海地方を除けば蝦夷国領域ですから、もしかすると山神社とは本来は蝦夷国の神様のことかも知れません。ちなみに武烈天皇伝承は、仙台藩の地史『封内風土記』(注②)には次のように記されています。

 〝伝え云う。人皇第二五代武烈天皇、故ありて本州に配せられ、久我大連・鹿野掃部祐の両人扈従す、天皇崩後の後天平山に葬り社を建てて神霊を祀り山神と称した。久我氏は連綿今(明和九年、1772年頃)に至る。皇居の地を王沢・王沢宅といい、天皇の宸影は別当修験大性院家に蔵す。〟

 ここに見える「久我大連」という人物名が歴史事実であれば、「大連(おおむらじ)」の姓(かばね)を持つことから、蝦夷国ではなく恐らくは九州王朝系の人物であり、武烈天皇の時代(498~506年)、すなわち六世紀初頭頃に九州王朝系の有力者がこの地(蝦夷国)に来たことを示す伝承なのかもしれません。もしかすると、『宋書』倭国伝の倭王武の伝承が武烈天皇に置き換えられて伝わったのかもしれませんが、さすがに宮城県北部まで倭王武が来たとは考えにくいように思います。

 しかしながら、栗原市の入の沢遺跡の古墳時代前期(4世紀)の集落跡からは、銅鏡4面や勾玉や管玉、ガラス玉、斧などの鉄製品が出土しています。また、仙台市には遠見塚古墳(墳丘長110m、4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳)、隣接する名取市には東北地方最大の雷神山古墳(墳丘長168m、4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳)があります。両古墳の存在から、仙台平野や名取平野が古墳時代の東北地方を代表する王権の所在地であったことがうかがえます。ちなみに、雷神山古墳は九州王朝(倭国)の王、磐井の墓である岩戸山古墳(八女市、墳丘長135m、6世紀前半の前方後円墳)よりも墳丘長が大きいのです。

 更に仙台市には東北地方最古の須恵器窯跡とされる大蓮寺窯跡(5世紀中頃)もあり、古墳時代から九州王朝(倭国)との交流があったことは疑えません。(つづく)

(注)
①Wikipediaには次の山神社が紹介されている。
【主な山神社(さんじんじゃ)】
釜石製鐵所山神社 – 岩手県釜石市桜木町
山神社 – 宮城県栗原市鶯沢
山神社 – 宮城県栗原市若柳川南
山神社 – 宮城県栗原市若柳上畑岡
山神社 – 宮城県栗原市一迫北沢
山神社 – 宮城県栗原市一迫清水目
櫻田山神社 – 宮城県栗原市栗駒:山神社
山神社 – 宮城県石巻市北上町十三浜大室
山神社 – 宮城県石巻市北上町十三浜小滝
山神社 – 宮城県柴田郡柴田町四日市場
山神社 – 山形県新庄市本合海
山神社 – 山形県最上郡金山町有屋
山神社 – 山形県最上郡最上町富沢
山神社 – 山形県最上郡舟形町舟形
山神社 – 山形県最上郡真室川町及位
山神社 – 山形県最上郡鮭川村曲川
山神社 – 山形県最上郡戸沢村松坂
山神社 – 徳島県吉野川市山川町皆瀬:紙漉神社
山神社 – 愛媛県松山市東野
【主な山神社(やまじんじゃ)】
山神社 – 宮城県亘理郡亘理町吉田
山神社 – 秋田県北秋田市阿仁笑内:旧郷社
山神社 – 山形県最上郡最上町本城
山神社 – 山形県山形市神尾
山神社 – 山形県寒河江市田代
山神社 – 山形県村山市河島]
山神社 – 山形県天童市山口
山神社 – 山形県東根市関山
山神社 – 山形県尾花沢市五十沢
山神社 – 山形県東田川郡三川町押切新田
山神社 – 山形県西村山郡朝日町杉山
山神社 – 山形県西村山郡大江町柳川
山神社 – 山形県西置賜郡白鷹町萩野
山神社 – 千葉県君津市笹
山神社 – 千葉県君津市日渡根
山神社 – 栃木県宇都宮市下岡本町
山神社 – 東京都多摩市桜ヶ丘
新屋山神社 – 山梨県富士吉田市新屋:山神社
山神社 – 愛知県名古屋市千種区田代町:旧村社
山神社 – 愛知県名古屋市中区松原:旧村社
山神社 – 愛知県名古屋市北区安井
山神社 – 愛知県刈谷市一里山町
山神社 – 兵庫県豊岡市日高町:式内名神大社
山神社 – 和歌山県西牟婁郡白浜町3035
山神社 – 愛媛県松山市萩原
山神社 – 長崎県南松浦郡新上五島町船崎郷
山神社 – 大分県大分市広内
【主な山神社(やまのかみしゃ)】
山神社 – 宮城県遠田郡美里町牛飼:旧郷社
山神社 – 山梨県中央市大鳥居
山神社 – 愛知県名古屋市港区知多:旧村社
山神社 – 愛知県名古屋市緑区大高町:旧村社
山神社 – 愛知県尾張旭市瀬戸川町
山之神社 – 愛知県半田市山ノ神町
山神社 – 愛知県半田市天王町
山神社 – 愛知県半田市岩滑東町
山ノ神社 – 愛知県知多郡武豊町山ノ神
※東海地区では小規模な神社が多い。ただし、数は多く、境内社も含めると相当数になる。
【主な山神社(やまがみしゃ)】
山神社 – 愛知県碧南市山神町
②『封内風土記』(ほうないふどき)は、日本の江戸時代に仙台藩が編纂した地誌である。1772年に完成した。仙台と領内のすべての村について、地形・人文地理に関わる事項を列挙・解説し、各郡ごとに集計し、さらに郡単位の統計事実や解説を加える。著者は仙台藩の儒学者田辺希文。全22巻で、漢文で書かれた。(Wikipediaによる)


第3518話 2025/08/19

狩野英孝さんの実家

  「櫻田山神社」の祭神「武烈天皇」

 テレビでも人気お笑い芸人として活躍している狩野英孝(かのえいこう、注①)さんのご実家が神社ということは聞いていましたが、たまたまテレビ番組でその神社は千五百年の歴史があると紹介されており、驚きました。そこでネットで調べてみると、それは宮城県栗原市にある櫻田山神社(さくらださんじんじゃ、注②)という神社で、ご祭神は『日本書紀』では非道な天皇とする武烈天皇でした。ちなみに、英孝さんは東日本大震災で被災した実家の神社を継いで神職もされているとのこと。

 ここでわたしが抱いた疑問が、❶何故、祭神が武烈天皇なのか、❷武烈天皇が当地に追放され、同天皇の側近であった鹿野掃部之祐が当地に創建したという社伝は歴史事実なのか、❸大和にいた武烈がなぜ宮城県に逃げたのか、❹そしてなぜ「山神社」と呼ばれているのかということでした。(つづく)

(注)
①Wikipediaでは次のように紹介する。
狩野英孝(かの えいこう、1982年〈昭和57年〉2月22日)は、日本のお笑いタレント、YouTuber、ミュージシャン、俳優、神職。マセキ芸能社所属。芸風はナルシシストキャラによる1人コント、クセの強い歌ネタ、リアクション芸が特徴。ミュージシャンとしては、主に『ロンドンハーツ』のドッキリ企画から誕生した50TA(フィフティーエー)として活動。第39代櫻田山神社神主。
②同上。
櫻田山神社(さくらださんじんじゃ)は、宮城県栗原市栗駒桜田にある神社。正式名称は山神社(さんじんじゃ)であるが、地区名の桜田を冠した「櫻田山神社」で一般に呼ばれる。約1500年前に創建されたとされ、県内でも有数の歴史を持つ。社格は村社。仙台藩編纂の封内風土記によれば武烈天皇の崩御後の6世紀初頭(古墳時代後期)、同天皇の側近であった鹿野掃部之祐が、当地に創建したとされる。当社は、北上川水系江合川上流の二迫川南岸、栗駒山から南東に延びる舌状台地上にあり、「山神社」と呼ばれた。


第3517話 2025/08/18

『古田史学会報』189号の紹介

 『古田史学会報』189号を紹介します。同号冒頭には拙稿〝「天柱山高峻二十余里」の標高をめぐって ―安徽省の二つの天柱山―〟を掲載して頂きました。同稿は、ある会合で古田史学支持者から出された『三国志』短里説に関する次の二つの批判への回答です。

(1)山の高さを「里」で表すことはなく、「丈」で表すものであることから、この二十余里は天柱山に向かう距離である。
(2)天柱山の標高は古田氏がいう1860mではなく、1489mである。

 (1)の批判は、古田説の反対論者により数十年前になされました。古田先生の反論により決着済みと思っていたのですが、古田史学支持者から同じ批判がなされたことに驚きました。というのも山の標高を「里」で表記する例は中国古典に多数あり、古田先生は『邪馬一国の証明』(昭和五五年)でそのことを指摘していたからです。これは長年月による風化現象でしょうか。

 そこで、わたしは古田説の紹介と共に、新たに『水経注』(六世紀前半、北魏の酈道元が撰述した地理書)で山高を「里」で表す11例をあげました。したがって、山高を「里」で表すことはないとする批判は史料事実に反しており、成立しないとしました。

 (2)については、現代中国には複数の天柱山があり、標高1489mの天柱山は観光地として有名な安徽省潜山市の天柱山であり、『三国志』の天柱山は安徽省六安市の霍山(かくざん)であることを詳述しました(小学館『大日本百科辞典』には大別山脈中に「1860」とある)。

 当号掲載の論稿で注目したのが、拙論を批判した日野智貴さんの「秋田孝季の本姓と名字」です。現在、わが国の戸籍制度は名字(苗字)と名前だけとなっていますが、江戸時代の特に武士は、それ以外に本姓(源平藤橘など)や姓(かばね。朝臣・連など)を使用していました。この本姓と姓(かばね)は明治四年の姓尸〈せいし〉不称令(太政官布告第534号)により、公文書での使用が禁止され、戸籍は名字と名前だけに統一されました。

 この姓尸不称令を日野さんは重視し、秋田孝季の本姓の橘と、現代の秋田市土崎近辺に多い橘さん(名字)を同一視すべきではなく、現代の橘さんの分布を秋田孝季実在説の根拠にはできないという指摘です。この日野さんの指摘は早くからなされており、わたしとは見解が異なりますが、重要な指摘ですので深く留意してきました。『東日流外三郡誌の逆襲』の上梓を機会に、本件について改めて研究を進めています。なお、先日の関西例会の休憩時間に日野さんと本件について意見交換を進め、孝季の本姓は本当に橘だったのかという、より本質的な問題点が日野さんから示されました。よく考えてみたいと思います。

 189号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』189号の内容】
○「天柱山高峻二十余里」の標高をめぐって ―安徽省の二つの天柱山― 京都市 古賀達也
○新羅第四代王・脱解尼師今の出生地は山口県長門市東深川正明市二区であった(下) 龍ケ崎市 都司嘉宣
○秋田孝季の本姓と名字 たつの市 日野智貴
○定恵の伝記における「白鳳」年号の史料批判(後篇) 神戸市 谷本 茂
○逆転の万葉集Ⅱ 旅人の「梅花序」と家持の『万葉集』の九州王朝 川西市 正木 裕
○古田史学の会 第三十一回会員総会の報告
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古代に真実を求めて』第二十八集出版記念講演会のお知らせ
○編集後記 高松市 西村秀己

『古田史学会報』への投稿は、
❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、
❷テーマを絞り込み簡潔に。
❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、
❹史料根拠の明示、
❺古田説や有力先行説と自説との比較、
❻論証においては論理に飛躍がないようご留意下さい。
❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。
読んで面白く、読者が勉強になる紙面作りにご協力下さい。

 また、「古田史学の会」会則に銘記されている〝会の目的〟に相応しい内容であることも必須条件です。「会員相互の親睦をはかる」ことも目的の一つですので、これに反するような投稿は採用できませんのでご留意下さい。なお、これは会員間や古田説への学問的で真摯な批判・論争を否定するものでは全くありません。

《古田史学の会・会則》から抜粋
第二条 目的
本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い、もって古田史学の継承と発展、顕彰、ならびに会員相互の親睦をはかることを目的とする。

第四条 会員
会員は本会の目的に賛同し、会費を納入する。(後略)