古賀達也一覧

第1966話 2019/08/16

桂米團治さんからお礼状届く

 本日、桂米團治さんから「古田史学の会 代表 古賀達也」宛で、お礼状とパンフレット「還暦&噺家生活40周年記念 桂米團治独演会」が届きました。米團治師匠には、古田先生とご一緒にKBS京都放送のラジオ番組「本日、米團治日和。」に出演させていただいて以来、ご厚情を賜っています(「古田史学の会」へは毎年のようにご寄付をいただいています)。
 同番組は2015年8月27日に収録され、翌月三回にわたって放送されました。同年10月14日に古田先生は急逝されましたので、同番組が最後の公の場となりました。わたしにとっても、古田先生との最後の想い出となりました。番組の抄録(茂山憲史氏による)は『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集、明石書店)に収録しました。
 米團治師匠からいただいたお礼状をご披露させていただきます。

残暑お見舞い申し上げます。
 昨年暮れの還暦パーティーに際しましては、多大なるご厚情を賜り、まことにありがとうございました。
 今年の正月より始まりました全国巡業の独演会も七月七日の南座公演をもちまして無事終了することができました。行く先々で「待ってました!」のお声掛けを頂戴し、感無量…。 こんなに楽しい興業は初めてでした。すべてこれ、お客様のお蔭と、心より感謝申し上げます。パンフレットを同封いたしますのでどうぞご笑納下さい。
 今後は私、株式会社米朝事務所の代表としての業務を続けながら、ひたすら高座にも精進いたします。とは申せ、決して気負うことなく、皆様に喜んでいただける落語を披露する所存でございます。お気づきの点がありましたら、是非ともご助言下さいませ。
 まことに、略儀ながら、書面にて御礼申し上げます。
 時節柄、お身体ご自愛下さい。

   令和元年 立秋
             桂 米團治
古賀達也様


第1961話 2019/08/12

飛鳥池「庚午年」木簡と

芦屋市「元壬子年」木簡の類似

 飛鳥宮における天武や持統の勢力範囲を調査するために、奈良文化財研究所の木簡データベースを検索調査しているのですが、飛鳥池遺跡から興味深い木簡が出土していることを知りました。同データベースによれば次のような文字が読み取れます。

・「合合」○庚午年三→(「合合」は削り残り)・○□\○□

 裏面は判読困難ですが、表面に「庚午年三」という干支とおそらくは月が記されています。冒頭の二文字「合合」は〝削り残り〟と説明されていますから、再利用木簡と思われます。その形状から見て荷札木簡ではありませんし、史料性格は不明です。同データベースでも【内容分類】が無記載ですから、奈良文化財研究所でも判断できなかったと思われます。
この用途不明な干支木簡ですが、わたしは一見してある木簡と似ていることに気づきました。芦屋市三条九ノ坪遺跡出土の「(白雉)元壬子年」木簡です。この木簡は7世紀中頃の土器と供に出土したこともあり、652年の壬子であるとされましたが、報告書(『木簡研究』第19号、1997年)では「三壬子年」と判読され、『日本書紀』孝徳紀の「白雉三年」と紹介されました。

 ところが九州年号の白雉と『日本書紀』の白雉には二年のずれがあり、壬子の年は「白雉元年」なのです。そこで、古田先生らと共に兵庫県教育委員会の許可をいただいて、わたしは同木簡を二時間にわたり凝視しました(目視と光学顕微鏡調査。赤外線カメラ撮影は大下隆司さん)。その結果、「三」とされた文字は「元」であることが判明したのです。すなわち、九州年号の「白雉元年」を意味する「九州年号」木簡だったのです。

 木簡に九州年号の痕跡が確認された画期的な発見であり、そのことを『古田史学会報』76号(2006年8月)や『なかった』第2号(ミネルヴァ書房・2006年)、『古代に真実を求めて』10集(明石書店・2007年)、『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房・2012年)、インターネット「新・古代学の扉」で発表したのですが、学界からは完全に無視されました。

 しかし発表後、微妙な変化が起こったことにわたしは気づきました。その後発刊された木簡に関する書籍や論文に、この「元壬子年」木簡の紹介がなくなったり、あるいは「壬子年」とだけ記し、「元」とも「三」とも触れなくなったのです。すなわち、それまでも古田先生の九州王朝説や九州年号説が国民の目に触れないように、学界は古田史学を無視し、なかったことにしようとしてきたのですが、この「元壬子年」木簡の存在と意義が一旦マスコミや国民に知れ渡ると、九州年号の実在をごまかしようがなくなると恐れたのだと思います。
このようないわく付きの「元壬子年」に、今回の飛鳥池出土「庚午年」木簡が似ていることに気づいたのです。それは、共に木簡の途中から文字(干支)が書き出されており、上部に空白があることです。通常、7世紀の荷札木簡で干支から始まる場合は、木簡上部から書き始められます。限られたスペースに過不足無く必要な情報を書かなければならないという木簡の性質上、その上部に無駄なスペースを空ける必要はありません。ところが、この2つの木簡は上部に数文字は書き込める空白部分が、おそらくは意図的に置かれているのです。この上部空白現象について、奈良文化財研究所の「木簡説明」でも次のように指摘されています。

 「干支年から書き出す木簡は七世紀では一般的であるが、本例は書き出し位置がかなり下方である。」

 ここからはわたしの推測ですが、九州王朝の時代は木簡に九州年号を記すことが憚られていて、九州年号が書かれるべき位置をあえて空白にしたのではないでしょうか。この推測が正しければ、「庚午年」木簡も「元壬子年」木簡もその形状から荷札木簡ではなく、本来は九州年号付きで記されるべき内容の文書木簡(メモ)だったことになります。たとえば、「庚午年」木簡は670年(白鳳十年)の「庚午年籍」造籍に関する行政文書木簡で、「元壬子年」木簡は前期難波宮創建を記念しての白雉改元に関する行政文書木簡ではなかったかと推測しています。
引き続き、同様の木簡の有無を調査し、こうした作業仮説が成立可能か検討したいと考えています。

〔奈良文化財研究所 木簡データベース〕
【木簡番号】185
【本文】・「合合」○庚午年三→(「合合」は削り残り)・○□\○□
【寸法(mm)】縦 (77) 横 20 厚さ 4
【型式番号】019
【出典】飛鳥藤原京1-185(木研21-22頁-(31)・飛13-17上(80))
【文字説明】
【形状】上削り、左削り、右削り、下欠(折れ)。表面左側剥離。
【樹種】檜
【木取り】板目
【遺跡名】飛鳥池遺跡北地区
【所在地】奈良県高市郡明日香村大字飛鳥
【調査主体】奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
【発掘次数】飛鳥藤原第84次
【遺構番号】SD1130
【地区名】5BASNK36
【内容分類】
【国郡郷里】
【人名】
【和暦】((庚午年)天智9年3月)
【西暦】670(年), (3)(月)
【木簡説明】上端・左右両辺削り、下端折れ。表面の左側は剥離する。「庚午年」は天智九年(六七〇)。干支年から書き出す木簡は七世紀では一般的であるが、本例は書き出し位置がかなり下方である。共伴する木簡の年代観からみてもやや古い年代を示している。庚午年籍の作成は同年二月であり(『日本書紀』天智九年二月条)、関連があるかもしれない。


第1959話 2019/08/08

「古田史学の会」の運動論と進化

 このところ「洛中洛外日記」では理屈っぽいテーマが続きましたので、ここらで息抜きも兼ねて「古田史学の会」の運動論と進化について、個人的感想を披露させていただきます。会員や読者の皆さんのご意見などいただければ幸いです。
 「古田史学の会」は歴史の真実を求めるという学術研究団体という側面と、一元史観が跋扈する日本社会に古田史学を広めていくという社会運動団体という異なる性格を併せ持っています。学問研究が本質的に持つ、確かなエビデンスに基づき、人間の理性に依拠したロジックを展開し、仮説の優劣を検証し、歴史の真実を極めるという方法はこれからも大きく変化することはないと思うのですが、社会運動という側面では時代の変化とともにその組織や運動形態は変わらざるを得ません。
 わたしの本職は化学メーカーでの製品開発とマーケティングなのですが、そこでのマーケティング理論や方法論は「古田史学の会」の運営にも役立つことが多々あります。しかし、社会や科学の進歩がますます速くなり、マーケティング論やその概念は大きく進化しています。とりわけ、近年の〝デジタル化革命〟と呼ばれる社会やビジネスモデルの進化はすさまじいものです。変化を加速させる最も基本的な要素はデジタル化とされ、ピーター・ディアマンディス氏(米国の起業家)によれば、デジタル化の流れは次の「6つのD」で表されるとのことです。

1.デジタル化(Digitalization)
 情報・知識の複製・共有が加速する。
2.潜行(Deception)
 最初は目に見えず、途中から急加速する。
3.破壊(Disruption)
 既存の市場を破壊する。
4.非収益化(Demonetization)
 有料で提供されていたものが無料になる。
5.非物質化(Dematerialization)
 モノが消える。
6.大衆化(Democratization)
 だれでも手に入るようになる。

 これを「古田史学の会」の運動に当てはめれば、次のようになりそうです。

1.デジタル化(Digitalization)
 古代史研究に必要な史料や報告書・論文がネットで閲覧でき、共有化できる。
2.潜行(Deception)
 ネット上では通説の一元史観に代わり、多元史観がじわじわと多数派を占めつつあり、あるときを境に急速に多数派を形成する(それがいつかはまだわかりませんが)。
3.破壊(Disruption)
 既存アカデミーの一元史観が批判にさらされ、学問的影響力を失う。
4.非収益化(Demonetization)
 『古田史学会報』が数年遅れとはいえHPに掲載され、誰でも無料で読める。「古田史学の会」の動向や研究情報もHP上の「洛中洛外日記」やFACEBOOKなどからリアルタイムで無償で得られる。
5.非物質化(Dematerialization)
 会誌や書籍がデジタル化され、スマホやパソコンに収納される。例会活動がソーシャルネットワーク上で行われる(バーチャル例会)。
6.大衆化(Democratization)
 上記変化の集大成の結果、古代史研究の参入障壁が更に低くなり、アマチュア研究者がプロの学者と対等に渡り合う。

 このように「古田史学の会」はデジタル化の波に乗り、「6つのD」を具現化しつつあります。


第1955話 2019/08/02

7世紀「天皇」号の新・旧古田説(5)

 飛鳥池出土「天皇」木簡と長谷寺「千仏多宝塔銅板」銘という史料事実に基づき、論理展開(論証)を進めましたが、この論理構造(九州王朝説と齟齬をきたさない、平明で合理的な同時代金石文等の解釈)はここでとどまることを許しません。その論理の延長線上にある他の金石文の史料批判へと進まざるを得ないのです。そこで、続いて紹介するのが大阪府南河内郡太子町出土の「釆女氏榮域碑」です。

○「釆女氏榮域碑」 ※拓本が現存。実物は明治頃に紛失。
〈碑文〉
飛鳥浄原大朝庭大弁
官直大貳采女竹良卿所
請造墓所形浦山地四千
代他人莫上毀木犯穢
傍地也
己丑年十二月廿五日

〈訳文〉
飛鳥浄原大朝廷の大弁官、直大弐采女竹良卿が請ひて造る所の墓所、形浦山の地の四千代なり。他の人が上りて木をこぼち、傍の地を犯し穢すことなかれ。
己丑年(689年)十二月二十五日。

 「釆女氏榮域碑」については「洛中洛外日記」1731話(2018/08/26)〝「采女氏塋域碑」拓本の混乱〟などで紹介してきましたが、碑文にあるようにその造営年は己丑年(689年、持統三年)です。先に紹介した長谷寺の「千仏多宝塔銅板」(686年 朱鳥元年丙戌か698年 文武二年戊戌)と同時代の成立です。従って、「千仏多宝塔銅板」の「飛鳥浄御原大宮」と「釆女氏榮域碑」の「飛鳥浄原大朝廷」は同じ時代の同じ飛鳥の権力者を意味していると考えざるを得ません。すなわち、大和飛鳥の天武・持統の宮殿・朝廷のこととなります。

 ちょうどこの時期、天武らは列島最大級の巨大条坊都市藤原宮・京を造営し、遷都(694年12月)します。藤原宮下層条坊道路跡から出土した干支木簡「壬午年(682)」「癸未年(683)」「甲申年(684)」などにより、天武の晩年に藤原宮と条坊都市の造営が行われていることがわかっています。686年(朱鳥元年)に前期難波宮が焼失しますから、その官僚たちは完成途上の藤原京に転居し、694年(持統八年)の遷都を迎えたものと思われます。まさにそうした時期に「采女氏塋域碑」と「千仏多宝塔銅板」は造られたのです。(つづく)


第1945話 2019/07/20

服部さんとの論争「7世紀の天皇称号」

 本日、「古田史学の会」関西例会がアネックスパル法円坂(大阪市教育会館)で開催されました。8月は福島区民センター、9月はI-siteなんばで開催します。
 今回は古田説に対しての異見の発表が谷本さんや満田さんからあり、賛否は別としても、どちらも学問的に重要な論点が提起されたものでした。『古田史学会報』への投稿が待たれます。
 また服部さんからの天皇称号についての報告も古田学派にとって貴重なものでした。それは7世紀の金石文(法隆寺薬師如来光背銘、船王後墓誌など)に見える「天皇」を近畿天皇家のものとするのか、九州王朝の天子の別称とするのかというテーマです。このテーマは古田旧説(ナンバーツーとしての近畿天皇家の称号「天皇」)と古田新説(九州王朝の天子の別称「天皇」)との対立でもあります。古田新説を支持する服部さんと、古田旧説を支持するわたしとで一年近く続けられている論争で、今回の関西例会でも激しく意見が対立しました。
 しかし、誤解のないように言っておきますと、わたしは服部さんの見解や論理性は有力であると考えています(だから論争しています)。更に新旧の古田説の帰趨は、王朝交替以前の7世紀の近畿天皇家の実勢や政治形態がどのような段階にあったのかにも影響します。ここを正確に把握しておかないと、701年の王朝交替の実態を見誤ることが避けられないからです。そのため、服部さんの研究や論争は古田学派としての最重要テーマの一つと考えています。学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化発展させるからです。このテーマでも『古田史学会報』への投稿が待たれます。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔7月度関西例会の内容〕
①奇跡の12年 古田先生が語る「学問の方法」と「学問の未来」(明石市・不二井伸平)
②鳥居前古墳の伝世鏡(京都府大山崎町・大原重雄)
③百舌鳥・古市古墳群世界遺産登録を祝して二題(京都府大山崎町・大原重雄)
④常立神は旧近畿の祖神(大阪市・西井健一郎)
⑤「倭(ヰ)」と「(タイ)」(神戸市・谷本 茂)
⑥二つの古田説 天皇称号のはじめ(八尾市・服部静尚)
⑦持統の吉野行幸について(茨木市・満田正賢)
⑧「倭姫世記(紀)」についてⅡ(東大阪市・萩野秀公)
⑨「裂田の溝(さくたのうなで)」と俾弥呼・壹予の王都(川西市・正木 裕)

○事務局長報告(川西市・正木 裕)
《会務報告》
◆新入会員情報
◆6/16 16:00〜17:00 「古田史学の会」会員総会の報告。
 編集部体制の強化。
◆6/16 13:00〜16:00 古代史講演会の報告(共催:古代大和史研究会、市民古代史の会・京都、和泉史談会、古田史学の会)。
 ①「日本列島における五〜七世紀の都市化」 講師:南秀雄さん(大阪文化財研究所長)。
 ②「姫たちの古伝承」 講師:正木裕さん(古田史学の会・事務局長)。
◆『倭国古伝』売れ行き好調。
◆『失われた倭国年号 大和朝廷以前』増刷。拡販協力要請。
◆『古代に真実を求めて』バックナンバー廉価販売が好調。12集完売。

◆「古田史学の会」関西例会(第三土曜日開催)
 8/17 10:00〜17:00 会場:福島区民センター
 9/21 10:00〜17:00 会場:I-siteなんば
10/19 10:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
11/16 10:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
12/21 10:00〜17:00 会場:I-siteなんば

◆8/18 『古代に真実を求めて』編集会議 福島区民センターにて。

◆9/16 『倭国古伝』出版記念東京講演会 文京区民センターにて。
 講演(講師:古賀達也)とパネルディスカッション(パネラー:正木裕さん、橘高修さん、井上肇さん)。

◆10/14 久留米大学での『倭国古伝』出版記念講演会を企画中。

◆11/09〜10 「古田武彦記念古代史セミナー2019」の案内。主催:公益財団法人大学セミナーハウス。共催:多元的古代研究会、東京古田会、古田史学の会。

《各講演会・研究会のご案内》
◆「誰も知らなかった古代史」(会場:アネックスパル法円坂。正木 裕さん主宰)
 7/26 18:45〜20:15 「飛鳥の謎」 講師:服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)。
 8/23 18:45〜20:15 「古墳・城等歴史資産を地域活性化に生かす」 講師:正木裕さん。

◆「古代大和史研究会」講演会(原幸子代表。会場:奈良県立情報図書館。参加費500円)
 8/06 13:30〜17:00 「磐井の乱の真実」 講師:正木 裕さん。

◆「和泉史談会」講演会(辻野安彦会長。会場:和泉市コミュニティーセンター。参加費500円)
 ☆8月はお休み。

◆「市民古代史の会・京都」講演会(事務局:服部静尚さん・久冨直子さん)。毎月第三火曜日(会場:キャンパスプラザ京都。参加費500円)。
 ☆8月はお休み。

◆水曜研究会(豊中倶楽部自治会館)
 7/24 13:00〜

◆新聞記事紹介「台湾→与那国島 丸木舟が到着」
 ☆魏使の水行速度、時速5km、1日500里が実証された。


第1941話 2019/07/15

盛況!久留米大学での講演

 昨日、久留米大学御井校舎で開催された公開講座において、「筑紫の姫たちの伝説《倭国古伝》 -みかより姫(俾弥呼)・よど姫(壹與)・かぐや姫-」というテーマで講演させていただきました。雨天にもかかわらず80名ほどの参加がありました。遠くは長崎県から来られた方もありました。ありがたいことです。講演後の質問も数多く出され、とても熱心に聞いていただきました。持ち込んだ『古代に真実を求めて』もほぼ完売できました。
 講演後、大学近くのお店で、福山教授(久留米大学文学部)や犬塚さん(古田史学の会・会員、久留米市)、長崎から見えられた中村さんと懇親会を行いました。中村さんはFaceBookで知り合った〝友達〟です。古田史学の将来や日本の学問研究について、熱く語り合いました。わたしからは、「古田史学の会・九州」を再建したいとの希望を伝えました。
 当日、配られたレジュメの一部をご参考までに転載します。

2019.07.14 久留米大学公開講座
筑紫の姫たちの伝説《倭国古伝》
-みかより姫(俾弥呼)・よど姫(壹與)・かぐや姫-
        古賀達也(古田史学の会・代表)

 わたしたち「古田史学の会」は本年三月に『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』を上梓しました。同書では全国各地に残る古代伝承を大和朝廷一元史観ではなく多元史観・九州王朝説の視点から分析し、新たな倭国古代史の復元を試みました。
 その中から筑紫(筑前・筑後・肥前など)に残された姫たちの伝承を紹介します。この地域は九州王朝(倭国)の中心領域であり、その地の姫たちの伝承は九州王朝史研究においてもとりわけ重要なものです。たとえば北部九州には次のような女神や女性の伝承があります。

○俾弥呼(ひみか) 甕依姫(『筑紫風土記』逸文)
○壹與(いちよ)  淀姫 與止姫(『肥前国風土記』)
○高良山の「かぐや姫」 (『大善寺玉垂宮縁起』)
○「宝満大菩薩」「河上大菩薩」伝承
○「聖母(しょうも)大菩薩」伝承
○「大帯姫(おおたらしひめ)」伝承
○「神功皇后(気長足姫・おきながたらしひめ)」伝承

 今回の講座ではこうした九州王朝(倭国)の姫たちの伝承研究の一端を紹介します。ご参考までに『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』の巻頭言「勝者の歴史と敗者の伝承」を転載しました。

【転載】『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』
 (古田史学の会編『古代に真実を求めて』22集、明石書店)

《巻頭言》勝者の歴史と敗者の伝承
            古田史学の会・代表 古賀達也
 本書のタイトルに採用した「倭国古伝」とは何か。一言でいえば〝勝者の歴史と敗者の伝承から読み解いた倭国の古代伝承〟である。すなわち、勝者が勝者のために綴った史書と、敗者あるいは史書の作成を許されなかった人々の伝承に秘められた歴史の真実を再発見し、再構築した古代日本列島史である。それをわたしたちは「倭国古伝」として本書のタイトルに選んだ。
 その対象とする時間帯は、古くは縄文時代、主には文字史料が残された天孫降臨(弥生時代前期末から中期初頭頃:西日本での金属器出現期)から大和朝廷が列島の代表王朝となる八世紀初頭(七〇一年〔大宝元年〕)までの倭国(九州王朝)の時代だ。
 この倭国とは歴代中国史書に見える日本列島の代表王朝であった九州王朝の国名である。早くは『漢書』地理志に「楽浪海中に倭人有り」と見え、『後漢書』には光武帝が与えた金印(漢委奴国王)や倭国王帥升の名前が記されている。その後、三世紀には『三国志』倭人伝の女王卑彌呼(ひみか)と壹與(いちよ)、五世紀には『宋書』の「倭の五王」、七世紀に入ると『隋書』に阿蘇山下の天子・多利思北孤(たりしほこ)が登場し、『旧唐書』には倭国(九州王朝)と日本国(大和朝廷)の両王朝が中国史書に始めて併記される。古田武彦氏(二〇一五年十月十四日没、享年八九歳)は、これら歴代中国史書に記された「倭」「倭国」を北部九州に都を置き、紀元前から中国と交流した日本列島の代表権力者のこととされ、「九州王朝」と命名された。
 『旧唐書』には「日本はもと小国、倭国の地を併わす」とあり、八世紀初頭(七〇一年)における倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への王朝交替を示唆している。この後、勝者(大和朝廷)は自らの史書『古事記』『日本書紀』を編纂し、そこには敗者(九州王朝・他)の姿は消されている。あるいは敗者の事績を自らの業績として記すという歴史造作をも勝者(大和朝廷)は厭わなかった。
 古田武彦氏により、古代日本列島には様々な文明が花開き、いくつもの権力者や王朝が興亡したことが明らかにされ、その歴史観は多元史観と称された。これは、神代の昔より近畿天皇家が日本列島内唯一の卓越した権力者・王朝であったとする一元史観に対抗する歴史概念である。わたしたち古田学派は古田氏が提唱されたこの多元史観・九州王朝説の立場に立つ。
 本書『倭国古伝』において、勝者により消された多元的古代の真実を、勝者の史書や敗者が残した伝承などの史料批判を通じて明らかにすることをわたしたちは試みた。そしてその研究成果を本書副題に「姫と英雄と神々の古代史」とあるように、「姫たちの古代史」「英雄たちの古代史」「神々の古代史」の三部構成として収録した。
 各地の古代伝承を多元史観により研究し収録するという本書の試みは、従来の一元史観による古代史学や民俗学とは異なった視点と方法によりなされており、新たな古代史研究の一分野として重要かつ多くの可能性を秘めている。本書はその先駆を志したものであるが、全国にはまだ多くの古代伝承が残されている。本書を古代の真実を愛する読者に贈るとともに、同じく真実を求める古代史研究者が多元史観に基づき、「倭国古伝」の調査研究を共に進められることを願うものである。
〔平成三十年(二〇一八)十二月二三日、記了〕


第1940話 2019/07/15

糸島水道はなかった

 縄文海進時の博多湾岸の海岸線について上村正康先生からご教示いただいたのですが、糸島水道についての論稿「『糸島水道』は存在しなかった -最近の地質学研究論文・遺跡調査報告書の紹介-」もいただきました。それは古田先生が主催されたシンポジウム「邪馬台国」徹底論争(1991年8月、昭和薬科大学諏訪校舎)で発表されたものでした。同シンポジウムにわたしは実行委員会メンバーとして参加していたのですが、この上村論稿のことを失念していました。
 物理学者らしい本格的な理系論文形式の論稿で、その論理展開やエビデンスは明快です。冒頭の「概要」部分を転載します。

【以下、転載】
概要:
 歴史上重要な遺跡・出土物の宝庫である糸島平野には、かつて加布里湾と今津湾を結ぶ「糸島水道(海峡)」が存在していた(約1000年前まで)--このことは、今まで通説のようになっていた。しかし、その存在を明記した歴史文献は無い。また、その存在の科学的根拠として使われていた1950年代の認識--「福岡の縄文時代における最高海水面は現在より10mも高かった」は、その後の、「縄文海進」の地質学研究の進歩により、高さを相当に過大評価したものであったことが判明した(実際は満潮時で2.2m程度)。
 1986年、下山等(文献1)は、「糸島水道」地帯の地下ボーリング試料を調べ、貝化石を含む縄文期の海成層を追跡したところ、この層が「水道」最狭部において東西幅1km余りに亘って断たれていることを確認した。このことは、その地区が「縄文時代およびそれ以後も海ではなかった」ことを示している。しかも、その地区内にある農地(50m×50m)の発掘調査(文献2)で、弥生・古墳時代の住居跡がそれぞれ6棟ずつ発見された。これらにより、「糸島水道」の存在は明瞭に否定されたと言えよう。既に、当地の糸島郡前原町教育委員会発行の「前原町文化財調査書」(年平均3回発行)では、「糸島水道」という言葉の使用を止め、「古加布里湾、古今津湾」という表現を採用し、糸島平野を貫く水道(海峡)は無かったという見解を示している(文献3、11)。
【転載終わり】

〔紹介文献〕
文献1)下山正一、佐藤喜男、野井英明「糸島低地帯の完新統および貝化石集団」『九州大学理学部 研究報告(地質)』14巻(1986、142-162)
文献2)前原町教育委員会「前原町文化財調査書」第10集(1983)
文献3)前原町教育委員会「前原町文化財調査書」第33集(1990)
文献11)前原町教育委員会「前原町文化財調査書」第16集(1984)、第20集(1985)、第23集(1986)、第24集(1986)、第28集(1988)、第34集(1990)。


第1939話 2019/07/14

博多湾岸の縄文海進は最大2.2m(満潮時)

 昨日の博多駅での歓談で、上村正康先生から見せていただいた九州大学理学部の研究報告(注)によると、博多湾岸でのボーリング調査の結果、縄文海進最盛期の海面上昇は現代よりも約1.2m(満潮時2.2m)とされていました。その結果、当時の海岸線は姪浜・室見・西新・福岡城の北側や天神付近となっており、それほど内陸部に入り込んでいません。
 これまでわたしは縄文海進時の海面上昇が約5mはあり、そのため各地の海岸線は現代よりも相当内陸部に及んでいたと漠然と理解していました。わたしが知る古田学派内の過去の論稿でもそのような認識を前提とした見解や仮説が発表されてきました。中には弥生時代に10〜15mも海面が上昇し、例えば筑豊地方内陸部に「古代遠賀湾」が存在していたとする説なども出されました。
 どのような仮説や思いつきの発表も「学問の自由」ですから、悪いことではありませんが、上村さんが紹介された論文に反論できるだけのエビデンスの提示が要求されます。ちなみに縄文海進時代の博多湾岸の海岸線復元研究は地下ボーリング調査に基づいており、説得力があります。(つづく)

(注)
 下山正一「福岡平野における縄文海進の規模と第四紀層」『九州大学理学部 研究報告(地質)』16巻1号、1989年1月。
 下山正一・磯望・野井英明・高塚潔・小林茂・佐伯弘次「福岡市鳥飼低地の海成第四系と更新世後期以降の地形形成過程」『九州大学理学部 研究報告(地球惑星科学)』17巻3号、1991年1月。


第1938話 2019/07/13

物理学者との邂逅、博多駅にて

 明日の久留米大学での講演のため、九州入りしました。そして、博多駅で元九州大学の物理学者のお二人とお会いしました。上村正康先生と長谷川宗武先生です。上村先生は九州大学で教授をされていた頃からの古田先生の支持者ですし、長谷川先生は上村先生と同じ研究室におられた方で、昨年末、ご著書『倭国はここにあった 人文地理学的な論証』(ペンネーム谷川修。白江庵書房、2018.12)をご恵送いただき、本年六月に上村先生からの同書ご推薦のお手紙があったのがきっかけとなり、本日の邂逅となりました。
 博多駅近くのホテルのお店で昼食をご一緒させていただき、2時間にわたり歓談しました。もちろん話題は九州王朝や学問研究についてです。長谷川先生からはご著書の主テーマ「太陽の道」についてご説明いただきました。わたしが最も驚いたのが、飯盛山と宝満山々頂が同一緯度にあり、その東西線上に須久岡本遺跡・吉武高木遺跡・三雲南小路遺跡・細石神社が並んでいることで、とても偶然とは考えられないことでした。この遺跡の位置関係は、太陽信仰を持つ九州王朝が弥生時代から太陽の動きに関心を持ち、測量技術を有していたことを示しているのです。
 上村先生は、1991年11月に福岡市で開催された物理学の国際学会の晩餐会で古田説を英語で紹介(GOLD SEAL AND KYUSHU DYNASTY:金印と九州王朝)され、世界の物理学者から注目を浴びられました。古田史学の会HP「新古代学の扉」に掲載されている上村先生の論稿「物理学国際会議における古田史学の紹介 金印と九州王朝 GOLD SEAL AND KYUSHU DYNASTY」をご覧ください。その上村先生から、博多湾岸における縄文海進についての興味深い研究論文を紹介していただきました。(つづく)


第1907話 2019/05/25

七世紀における「天皇」号と「天子」号

 「古田史学の会」関西例会では、七世紀の金石文に見える「天皇」を九州王朝の〝旧・天子〟のこととする晩年の古田説に対して賛否両論が出され活発な論争が続いています。このように関西例会では、古田先生が〝わたしの学問の原点〟とされた「師の説にななづみそ」(本居宣長)、「自己と逆の方向の立論を敢然と歓迎する学風」を体現した学問研究が続けられています。

 わたしは、倭国ナンバーワンの九州王朝の「天子」に対して、ナンバーツーとしての近畿天皇家の「天皇」とする古田旧説を支持しています。従って、七世紀の金石文に見える「天皇」はナンバーツーとしての近畿天皇家の天皇と考えています。そのことを論じた拙稿「『船王後墓誌』の宮殿名 -大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か-」を『古田史学会報』(152号、2019年6月)に投稿しました。同稿では船王後墓誌に見える「天皇」を近畿天皇家の天皇としましたが、さらに「天皇」号の位置づけについて、別の視点から説明することにします。それは九州王朝の「天子」号との関係についてです。

 九州王朝の多利思北孤が「天子」を名乗っていたことは『隋書』の記事「日出る処の天子」から明らかです。他方、近畿天皇家では七世紀初頭の推古から後半の天武が「天皇」を名乗っていたことは、法隆寺の薬師如来像光背銘の「大王天皇」や飛鳥池出土の「天皇」木簡から明らかです。こうした史料事実が古田旧説の根拠となっています。

 もし古田新説のように船王後墓誌などの七世紀の金石文に見える「天皇」を九州王朝の〝旧・天子〟とすると、ナンバーワンの九州王朝もナンバーツーの近畿天皇家も同じ「天皇」を称していたこととなります。しかし、ナンバーツーがナンバーワンと同じ称号を名乗ることをナンバーワンが許すとは到底考えられません。こうした、称号の序列という論理から考えても、古田新説は成立困難と思われるのです。


第1906話 2019/05/24

『日本書紀』への挑戦、大阪歴博(2)

 〝七世紀後半の難波と飛鳥〟

 2017年3月、大阪歴博から驚愕すべき論文が発表されました。「洛中洛外日記」1407話(2017/05/28)「前期難波宮の考古学と『日本書紀』の不一致」で紹介した佐藤隆さんの論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(大阪歴博『研究紀要』15号)です。
 従来、ほとんどの考古学出土報告書は『日本書紀』の記述に基づいた解釈(一元史観)を採用し、出土遺構・遺物の編年やその性格を解説するのが常でした。ところが、この佐藤論文では出土事実に基づいた解釈を優先し、それが『日本書紀』とは異なることを明示する、という考古学者としては画期的な報告を行っているのです。たとえば次のような指摘です。

 「考古資料が語る事実は必ずしも『日本書紀』の物語世界とは一致しないこともある。たとえば、白雉4年(653)には中大兄皇子が飛鳥へ“還都”して、翌白雉5年(654)に孝徳天皇が失意のなかで亡くなった後、難波宮は歴史の表舞台からはほとんど消えたようになるが、実際は宮殿造営期以後の土器もかなり出土していて、整地によって開発される範囲も広がっている。それに対して飛鳥はどうなのか?」(1〜2頁)
 「難波Ⅲ中段階は、先述のように前期難波宮が造営された時期の土器である。続く新段階も資料は増えてきており、整地の範囲も広がっていることなどから宮殿は機能していたと考えられる。」(6頁)
 「孝徳天皇の時代からその没後しばらくの間(おそらくは白村江の戦いまでくらいか)は人々の活動が飛鳥地域よりも難波地域のほうが盛んであったことは土器資料からは見えても、『日本書紀』からは読みとれない。筆者が『難波長柄豊碕宮』という名称や、白雉3年(652)の完成記事に拘らないのはこのことによる。それは前期難波宮孝徳朝説の否定ではない。
 しかし、こうした難波地域と飛鳥地域との関係が、土器の比較検討以外ではなぜこれまで明瞭に見えてこなかったかという疑問についても触れておく必要があろう。その最大の原因は、もちろん『日本書紀』に見られる飛鳥地域中心の記述である。」(12頁)

 この佐藤さんの指摘は革新的です。孝徳天皇が没した後も『日本書紀』の飛鳥中心の記述とは異なり、考古学的(出土土器)には難波地域の活動は活発であり、難波宮や難波京は整地拡大されているというのです。この現象は『日本書紀』が記す飛鳥地域中心の歴史像とは異なり、一元史観では説明困難です。孝徳天皇が没した後も、次の斉明天皇の宮殿があった飛鳥地域よりも「天皇」不在の難波地域の方が発展し続けており、その傾向は「おそらくは白村江の戦いまでくらい」続いたとされているのです。
 この考古学的事実は、前期難波宮九州王朝複都説に見事に対応しています。孝徳の宮殿は前期難波宮ではなく、恐らく北区長柄豊崎にあった「長柄豊碕宮」であり、その没後も九州王朝の天子(正木裕説では伊勢王「常色の君」)が居していた前期難波宮と難波京は発展し続けたと考えられるからです。そしてその発展は、佐藤さんによれば「白村江戦(663年)」のころまで続いたとのことですから、九州王朝の白村江戦での敗北により難波複都は停滞を始めたと思われます。
 佐藤さんは論文のまとめとして次のように記されています。

 「本論で述べてきた内容は、『日本書紀』の記事を絶対視していては発想されないことを多く含んでいる。筆者は土器というリアリティのある考古資料を題材にして、その質・量の比較をとおして難波地域・飛鳥地域というふたつの都の変遷について考えてみた。」(14頁)

 ついに日本の考古学界に〝『日本書紀』の記事を絶対視しない〟と公言する考古学者が現れたのです。文献史学においては古田先生が『日本書紀』の記事を絶対視しせず、中国史書(『旧唐書』「倭国伝」「日本国伝」、他)などの史料事実に基づいて多元史観・九州王朝説を提起されたように、考古学の分野にもこうした潮流が地下水脈のように流れ始めたのではないでしょうか。そしてその地下水脈が地表にあふれ出すとき、日本古代史学は大和朝廷一元史観から多元史観・九州王朝説へのパラダイムシフトを起こすのです。その日まで、わたしたち古田学派は迫害や中傷に怯まず、弛むことなく前進しようではありませんか。(つづく)


第1899話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(8)

 わたしからの5回の返答を終えて、その後の問答です。もちろん、この問答で決着がついたわけでも両者が十分に納得したわけでもありません。しかし、互いの意見交換により双方の認識が深まり、新たな課題や問題意識の発展へと繋がりました。
 学問論争とは互いに高め合うことが重要です。わたしも若い日野さんからの鋭い質問と指摘を得て、「大和朝廷」前史の研究という新たなテーマへと進むきっかけを得ました。また、日野さんも「河内政権」論に関する論文を書かれるとのことなので、『古田史学会報』への投稿を要請しました。日野さんに感謝します。

2019.05.12【日野さんからの最後のコメント】

 「河内の巨大古墳の造営者」が「近畿天皇家と対等な地方豪族」であったと仮定すると、関西八国の支配者だという文献の解釈結果と矛盾します。
 近畿天皇家は八か国にも及ぶ支配領域を持っていなかったであろうことは、古賀さんも論証されているところですから。「対等」であれば、同じぐらいの力を持っていないと可笑しいわけです。
 河内の政権についての仮説は、確かに今の古田学派の中では主流派になりつつありますが、現段階では確実性が低すぎます。存続期間と勢力範囲が明確ではない政権、ということです。

2019.05.12【古賀の最後の返答】

 「対等」と述べたのは、共に九州王朝の配下の地方豪族という意味でのことです。実勢力としては河内の勢力の方が大きいと思います。ただ、「関西八カ国」の領域がまだ特定できていません。そのため、その勢力範囲については引き続き検討が必要です。その点、日野さんの危惧には同意します。