古賀達也一覧

第1574話 2018/01/14

評制施行時期、古田先生の認識(10)

 本連載において、九州王朝(倭国)における行政区画「評制」(「国・評・里(五十戸)」制)の施行時期について、古田先生が7世紀中頃と認識しておられたことが先生の著書や講演録に記されていることを紹介してきました。
 こうした古田先生の認識については、わたしにとってあまりにも当たり前のことで、これを疑う方が古田学派内におられることに驚いています。もちろん、学問研究の問題ですから、この古田先生の見解やそれを支持するわたしに反対することも学問の自由です。「師の説にななづみそ」。本居宣長のこの言葉を「学問の金言」と古田先生は仰っていましたから、師の説といえども批判し、異なる説を発表することは学問の自由ですし、学問は真摯な批判や論争により発展してきました。
 しかし、古田先生がどのように認識されていたかを正確に理解した上で批判はなされるべきです。本テーマではありませんが、わたしが書いても言ってもいないことを誤引用・誤要約され、それを古賀の意見として批判されるという経験をわたしは度々しています。学問論争は批判する相手の意見を正確に理解することが基本であり常識です。
 古田先生は亡くなられましたが、わたし以外にも古参の「弟子」はご健在です(谷本茂さんら)。そうした方々への聞き取り調査も可能ですから、古田先生の見解を正確に理解した上で、学問的批判・討議の対象とされることを訴えて、本連載の結びとします。(了)


第1573話 2018/01/13

評制施行時期、古田先生の認識(9)

 わたしは「文字史料による『評』論 『評制』の施行時期について」(『古田史学会報』119号、2013年12月)で、史料を明示して評制施行時期について説明しました。もちろん古田先生にも『古田史学会報』を送り、拙稿を読んでいただいていました。同論稿では、孝徳期(七世紀中頃)での「評制」開始を記した、あるいは示唆した次の史料を紹介しました。

①『皇太神宮儀式帳』(延暦二三年・八〇四年成立)「難波朝廷天下立評給時」という記事があり、七世紀中頃に難波朝廷が天下に評制を施行したことが記されています。
②『粟鹿大神元記』(あわがおおかみげんき。和銅元年・七〇八年成立)
 「難波長柄豊前宮御宇天万豊日天皇御世。天下郡領并国造県領定賜。」という記事があり、この記事を含む系譜部分の成立は和銅元年(七〇八)とされており、『古事記』『日本書紀』よりも古い。「天下郡領」とありますが、7世紀のことですから実体は“孝徳天皇の御世に天下の評督を定め賜う”です。
③『類聚国史』(巻十九国造、延暦十七年三月丙申条)
 「昔難波朝廷。始置諸郡」
 ここでは「諸郡」と表記されていますが、「難波朝廷」の時期ですから、その実体は“昔、難波朝廷がはじめて諸評を置く”です。
④『日本後紀』(弘仁二年二月己卯条)
 「夫郡領者。難波朝廷始置其職」
 ここでも「郡領」とありますが、「難波朝廷」がその職を初めて置いたとありますから、やはりその実体は「評領」あるいは「評督」となります。
⑤『続日本紀』(天平七年五月丙子条)
 「難波朝廷より以還(このかた)の譜第重大なる四五人を簡(えら)ひて副(そ)ふべし。」
 これは難波朝廷以来の代々続いている「譜第重大(良い家柄)」の「郡の役人」(評督など)の選考について述べたものです。この記事から「譜第重大」の「郡司」(評督)などの任命が「難波朝廷」から始まったことがわかります。すなわち、「評制」開始時期を「難波朝廷」の頃であることを示唆する記事です。

 以上のように、『日本書紀』(七二〇年成立)の影響を受けて「評」を「郡」と書き換えて表記されているケースもありますが、その言うところは例外無く、「難波朝廷」(七世紀中頃)の時に「評制」が開始されたということを主張しています。それ以外の時期に「行政区画」としての「評制」が開始されたとする史料はないのですから、多元史観であろうと一元史観であろうと、史料事実や史料根拠に基づくかぎり、「評制」開始は七世紀中頃とせざるを得ないのです。もちろん、古田先生もこうした史料事実をご存じでしたから、評制施行時期を7世紀中頃と考えられていたのです。(つづく)


第1572話 2018/01/12

評制施行時期、古田先生の認識(8)

 既に何度か説明してきたところですが、『日本書紀』には例外のような「評」の記事があります。継体二四年(五三〇)条の次の記事です。

 「毛野臣、百済の兵の来るを聞き、背評に迎へ討つ。背評は地名。亦、能備己富利と名づく。」『日本書紀』継体紀二四年条

 任那に「背評」という朝鮮半島におかれていた「行政組織」が「地名化(地名として遺存)」しており、その地を倭国は「能備己富利」と名付けたという記事です。この記事について古田先生は『古代は輝いていた3』(朝日新聞社刊、三三六頁)において、次のような説明をされています。

 「右は『任那の久斯牟羅』における事件だ。すなわち、倭の五王の後継者、磐井が支配していた任那には、『評』という行政単位が存在し、地名化していたのである。」

 古田先生がどのような定義により「行政単位」と表記されたのかはわかりませんが、これまで説明しましたように、朝鮮半島には「評」という行政組織名(官庁など)があったことから、それらの一つとして「背評」という組織名が、いつの頃からかは不明ですが存在しており、磐井の時代には「地名化」していたと説明されています。ですから「背評」はもともとは地名ではなかったと古田先生は認識されていることになります。この説明は、本連載で紹介してきた古田先生の認識と異なるところはありません。
 この記事は朝鮮半島における行政組織を考える上でも興味深いものですが、残念ながら当時の任那の「行政区画」が「国・県」制だったのか「国・郡」制だったのか、あるいは七世紀中頃に倭国内で施行された「国・評・里(五十戸)」制(評制)だったのかは不明です。
 古田先生の認識を紹介するという本稿の趣旨とは少々離れますが、この『日本書紀』の「背評」記事について、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から面白いご指摘がありましたので、紹介します。
 西村さんによれば、「背評は地名」という記事部分は『日本書紀』編纂時に書かれたものではなく、原史料に記されていたものではないかというものです。なぜなら、『日本書紀』編纂時(720年頃)であれば、九州王朝による評制の存在がまだ記憶されていた時期で、「背評」とあればまずは評制による地名と理解するはず。そうであれば「背評は地名」などと『日本書紀』編者はわざわざ書かないというのです。
 この西村さんのご意見はなるほどと思われましたので、わたしも深く考えてみました。そして次のような理解に達しました。

①この記事の原史料は九州王朝によるものである。
②その史料に任那における毛野臣の交戦記事が記されていた。
③「背評」での交戦記事(九州王朝への軍事報告書か)を記すとき、「背評」が朝鮮半島内の行政組織名と勘違いされないように、「地名である」とわざわざ付記した。
④その後、九州王朝は「背評」の地を「能備己富利」と名付けた。
⑤従って、「能備己富利」は九州王朝(倭国)による倭国風地名である。訓みは「ノビコフリ」あるいは「ノビコホリ」か。(『隋書』に記された倭国の王子、利歌彌多弗利(リカミタフリ)とちょっと似ています)
⑥以上の変遷を経て、『日本書紀』編者は「背評」を九州王朝(倭国)の評制の「評」とは考えず、そのため「背郡」と書き換えることなく、そのまま「背評」として『日本書紀』に採用した。この史料事実は、「背評」が九州王朝の評制地名ではないことの根拠でもある。

 以上のように考えましたが、いかがでしょうか。(つづく)


第1570話 2018/01/10

評制施行時期、古田先生の認識(6)

 『市民の古代』第6集(1984年、中谷書店)に収録された古田武彦講演録「大化改新と九州王朝」では、倭国の「評制度の淵源」について説明された後、朝鮮半島諸国の「評」についても触れられ、「行政単位」が倭国と新羅では似ていることなどを次のように紹介されています。

 「この後朝鮮半島内では同じく評を名乗る例が出てまいります。
 基色在内曰啄評、国有云啄評・五十二邑靫 〈梁書 新羅伝〉 
 『梁書』に新羅で啄評という言葉を使っているというのがでてまいります。これも六世紀。新羅は啄評というのを使い、倭国側では評というのを使っている。行政単位が倭国側と新羅側は非常に似ていますね。
 さらに高句麗における評があります。
 復有内評・外評・五部褥薩 〈隋書、高句麗伝〉
 内評・外評と内外は付いていますが、ズバリ評がでてまいります。(中略)中国の影響を受けて新羅や倭国や高句麗が評を設定した、その証拠とみるべきです。」(26〜27頁)

 このように古田先生は「行政単位が倭国側と新羅側は非常に似ていますね」と、新羅や高句麗も倭国と同様に中国の影響を受けて「評を設定した」とされています。もちろんこれらの「評」も称号(官庁名、軍事名)としての術語です。なお、古田先生はここで「行政単位」という用語を使用されていますが、通常、「行政単位」とは「行政区画」を施政・統治する機構という意味で使用されているようです。たとえばWikipediaには次のように説明されています。

 「行政区画(ぎょうせいくかく)とは、国家が円滑な国家機能を執行するために領土を細分化した区画のこと。行政区分(ぎょうせいくぶん)、行政区域(ぎょうせいくいき)ともいう。それらの行政区画を施政・統治する機構を行政単位という。〔1〕」
 「〔1〕例えば、東京都という「行政単位」が施政を行う「行政区画」は、東京都区部、多摩地域、東京都島嶼部である。」
 「行政区画の例 日本
 47の都道府県から構成されるが、その下に市町村、特別区(東京都のみ)が置かれる。町、村はいくつか集まって郡を形成する。また、市のうち政令指定都市には行政区が置かれる。」

 以上のような定義とは別に、「行政区画」と同じ意味で「行政単位」が使われるケースもあるようです。単純化していえば、7世紀中頃に九州王朝が日本列島内で施行したのが、行政区画である評制(「国・評・里」制)であり、朝鮮半島内での評(官庁名、軍事名)は行政単位(行政区画を施政・統治する機構)となります。ただし、当時の倭国が支配した朝鮮半島内の行政区画の詳細は不明です。従って、古田先生がここで述べられた「行政単位」とは、通常の定義である「行政区画を施政・統治する機構」の意味であることが、一連の文脈からも明らかです。(つづく)


第1569話 2018/01/09

評制施行時期、古田先生の認識(5)

 古田先生は、「評」という用語の淵源が中国や朝鮮半島諸国の「官職名」に由来するとして、1983年10月の大阪講演会(市民の古代研究会主催)で次のように説明されています。『市民の古代』第6集(1984年、中谷書店)に収録された同講演録「大化改新と九州王朝」から引用します。

 「評制度の淵源
(中略)中国の評という概念は倭の五王のでてきます『宋書』にでてくるわけです。それによりますと、延尉という官職名について述べまして、これは裁判の制度であると同時に軍事の制度である。裁判と軍事を相兼ねたものであるという説明をしてありまして、その長官を延尉正。現代でも検事正といういい方をしています。これと同じ正です。副官は延尉監。第三番目の、一番末端の役目が延尉評なんです。そして
 魏・晋以来、直云評。
延尉評が省略されて、ただ評という言い方で呼ばれるようになった。魏・晋の魏は卑弥呼の行った魏です。南朝劉宋においてもやはり評といわれていた。」(25頁)
 「ここで六国諸軍事大将軍と名乗ることは、又自らの開府儀同三司と名乗ったことは、かって帯方郡の評が行っていた軍事、裁判支配権を私が替ってやるのを認めて欲しい、ということなのです。諸軍事のキーポイントは評なわけです。(中略)言い換えると評というのは朝鮮半島にあるけれど、倭国の称号なのです。官庁名というか軍事名というか術語なのですね。(中略)そうなりますと、筑紫の君の配下の評となってくるわけです。倭国内の評はここに始まっている。こういうふうに考えなければならない。」(26頁)

 このように、中国の延尉評や評が倭国の評の淵源であり、任那などの朝鮮半島にあっても倭国の筑紫の君の配下の評であるとされ,それを明確に称号(官庁名・軍事名)とされています。すなわち、7世紀中頃に施行された日本列島内の行政区画の評制(「国・評・里」制)とは別概念と、古田先生はされているのです。(つづく)


第1568話 2018/01/07

評制施行時期、古田先生の認識(4)

 行政区画としての評制が7世紀中葉に九州王朝で始まったとする古田先生の理解(時期については通説も同様)が妥当であることを、わたしは「文字史料による『評』論 — 『評制』の施行時期について」(『古田史学会報』119号、2013年12月)で具体的な史料を明示して説明しました。更に同論稿を改訂した「『評』を論ず 評制施行時期について」を『多元』に昨年末に投稿しました。そこでは、評制施行が記された古代史料は全てその時期を7世紀中頃としており、それ以外の時期に評制を施行したとする史料は無いことを指摘しました。従って、一元史観であろうと多元史観・九州王朝説であろうと、史料根拠に基づく限り、評制施行時期は古田先生の理解通り、7世紀中頃と考えざるを得ないのです。
 他方、古田先生は九州王朝の行政区画「評制」(「国・評・里」制)における、「評」という用語の淵源が中国や朝鮮半島諸国の「官職名」に由来することも説明されました。通説でも、朝鮮半島諸国にあった「評」という官職名や行政組織名が、倭国の行政区画「評制」の「評」という字の淵源と説明しています。しかし、両者は性格が異なります。中国や朝鮮半島諸国では「官職名」「行政組織」を意味し、日本列島では行政区画として地名とのセット(例:筑前国糟屋評など)で使用されています。従って、日本古代史学において「評制」と言う場合は後者を意味しますし、古田先生もそのように理解されています。(つづく)


第1567話 2018/01/07

評制施行時期、古田先生の認識(3)

 『なかった』創刊号(2006年、ミネルヴァ書房)に収録された「学界批判 九州王朝論 白方勝氏に答える」を紹介し、古田先生が評制施行を「七世紀中葉」と認識されていたことを説明しました。その後、古田先生は更に研究を進展させ、九州王朝は博多湾岸の「難波朝廷」で評制を施行したとする見解を明らかにされました。たとえば、二〇〇八年一月の大阪講演会では次のように述べられています。

 「その中(『皇太神宮儀式帳』『神宮雑例集』、古賀注)に『難波長柄豊碕宮』や『難波朝廷』が出てくる。(中略)これが実は博多の宮殿を指している。この『難波朝廷』は九州博多にある九州王朝の宮殿を指している。その時に『評』が造られた。このように考えます。」(『古代に真実を求めて』十二集、二〇〇九年明石書店刊。五〇頁)

 『なかった』五号(ミネルヴァ書房、二〇〇八年六月)の古田武彦「大化改新批判」にも次のように記されています。

 「(補1)博多湾岸の『難波の長柄の豊碕』は、九州王朝の別宮であり、最高の軍事拠点である。ここにおいて『評制』も樹立された可能性がある。もちろん『九州王朝の評制』である。
 『近畿の(分王朝の)軍』を率いた近畿分王朝の面々(皇極天皇・中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我入鹿等)は、この『九州王朝の別宮』に集結していた。その近傍において『入鹿刺殺』の惨劇が行われたこととなろう。」(三三頁)

 このように、「七世紀中葉」の施行とされた評制ですが、古田先生はその拠点を従来は太宰府の都督府、あるいは筑紫都督府とされていました。ここでは『皇太神宮儀式帳』(難波朝廷天下立評)などを根拠に、博多湾岸にあった九州王朝の別宮の「難波長柄豊崎宮」「難波朝廷」とする仮説(認識)を発表されました。この仮説の当否は別としても、古田先生がこのように理解されていたことがわかります。なお、「難波朝廷」という呼称は、中国南朝の冊封体制から離脱し、自ら「天子」を自称した7世紀以降の九州王朝にふさわしいものです。
 更に付言しますと、「難波朝廷天下立評」と記されている『皇太神宮儀式帳』は後代史料であり、史料として使用できないとする古田学派の論者もありますが、それは古田先生の学問の方法とは異なることが、この論稿からも明らかでしょう。(つづく)


第1566話 2018/01/07

評制施行時期、古田先生の認識(2)

 日本古代史学界では有名な郡評論争というものが永く続きましたが、最終的には藤原宮などからの出土木簡により、7世紀は「国・評・里」という行政区画「評制」であり、8世紀になって全国一斉に「国・郡・里」の「郡制」に変化したことが明らかになりました。その郡評論争を主導したのが、坂本太郎さんとそのお弟子さんの井上光貞さんでした。7世紀は「評制」とする井上さんの説が論争では勝ったのですが、その師匠の坂本さんを批判した井上論文コピーを古田先生からいただきました。師匠への厚い礼儀を踏まえた批判論文で、師弟間の論争(論文)はかくあるべきとのことで、古田先生からいただいたものです。今から20年近く昔のことだったと思います。
 当時は「大化改新」やそれに関わって「評制」などについても古田先生を中心に勉強会を行っていたのですが、行政区画としての「評制」は九州王朝が施行したもので、その時期は通説と同じで、いわゆる「孝徳朝」時代の7世紀中頃という認識でした。もちろん古田先生も同見解でした。その古田先生の理解(認識)を示した文章がありますので、ご紹介します。『なかった』創刊号(2006年、ミネルヴァ書房)に収録された「学界批判 九州王朝論 白方勝氏に答える」です。

 「七世紀中葉から末まで、日本列島(九州から関東まで)に実在した『評制』としての『評督』の上部単位。これは『筑紫都督府』以外にありえない。」(30頁)

 このように「評制」とその長官『評督』の実在期間を「七世紀中葉から末まで」と記され、評制施行が「七世紀中葉」と認識されています。更に次のような文章もあります。

 「では、その『廃評立郡の詔』は、いずこに消えたか。また、なぜ『隠さなければ』ならなかったか。この一点にこそ、最大の疑問がある。
 また、これに“呼応”すべき、いわゆる『孝徳天皇』による『立評の詔勅』が、なぜ日本書記(ママ)の孝徳紀から“姿を消している”か。これもまた、誰人にも答えることができない。」(31頁)

 ここでも評制施行時期が「孝徳天皇」のとき(七世紀中葉)との認識を前提に「『立評の詔勅』が、なぜ日本書記(ママ)の孝徳紀から“姿を消している”か。」と問題提起されています。これらの記述から、評制施行時期について「七世紀中葉」と古田先生が認識されていることは明らかです。古田先生との30年に及ぶおつきあいでも、古田先生はこうした認識を前提に学問的対話をされていました。そうしたわたしの記憶ともこれらの記述は一致しています。
 なお同書に収録されている講演録「研究発表 『大化改新詔の信憑性』(井上光貞氏)の史料批判」では次のように記されています。

 「なぜかというと、『評督』の方は、出現が大体日本列島にほぼ限られている。そして、時期が、出現の時期が、七世紀半ばから七世紀末までに限られている。」(38頁)

 わたしはこの文章も、評制施行時期を「七世紀半ばから」とする古田先生の認識に基づいていると理解しているのですが、これを「評督」だけの開始時期のことで、「評制」開始時期ではないとする論者もあります。しかし、「評制」とその長官「評督」の成立は別時期とする理解は無理筋というものです。
 この文章は日本思想史学会(東京大学)での「講演録」ですから、「評制」と「評督」は「七世紀半ばから」との通説の理解を持つ研究者を対象にしたものです。従って、「評制」と「評督」の成立時期が同時か別かなどはそもそも発表の論点に含まれていません。この講演の主論点は、「評制」「評督」は九州王朝の「筑紫都督」下の制度とするものです。
 その点、先に紹介した「学界批判 九州王朝論 白方勝氏に答える」は論文ですから、不特定多数の読者を想定して、より正確な表記となっています。論文と講演録は同じ認識で古田先生は著し、口頭発表されているはずですから、「評制」とその長官「評督」の施行時期は「七世紀中葉」とするのが古田先生の理解(認識)と考えなければなりません。(つづく)


第1565話 2018/01/06

評制施行時期、古田先生の認識(1)

 古田先生が亡くなられてから、古田学派内でちょっと不思議な現象が起こりました。それは古田先生の発言や認識について、わたしが30年にわたって先生から直接お聞きしてきたことと、古田先生の見解(認識)は異なるとする、わたしへのご批判の声が聞こえ始めたのです。学問研究ですから、ご批判は全くかまわないし、むしろ学問の発展に批判や論争は不可欠とわたしは考えています。しかし、先生のご意見が不正確に他の人には伝わっているとしたら、後世の研究者や読者のためにも、正しく伝えておかなければならないと考えています。
 そこで今回は九州王朝(倭国)における「評制」開始時期についての古田先生の見解(認識)について、わたしが直接に見聞きしたことをご紹介します。わたしがこのように聞いた、という説明では納得していただけないでしょうから、先生の著書や講演録を引用し、解説したいと思います。
 なお、ここでいう「評制」とは日本古代史学の一般的な定義である、行政区画としての「国・評・里(五十戸)」制のことであり、評の長官「評督」などの行政制度のことを意味します。もちろん、古田先生も「評制」について基本的にこうした意味で使用されてきました。(つづく)


第1557話 2017/12/23

古田先生との論争的対話「都城論」(9)

 前期難波宮に関する一元史観の通説「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」とわたしの九州王朝副都説の論理構造について解説しましたので、最後に古田先生が提唱された「難波長柄豊碕宮=博多湾岸」説の論理構造について説明します。
 『日本書紀』には九州王朝(倭国)の事績が盗用(転用)されていることは、『盗まれた神話』などで古田先生が明らかにされてきたところですが、晩年、先生は更にそれを敷衍して、近畿から出土した金石文・木簡や『日本書紀』の記述中に北部九州の類似地名があれば、それは北部九州を舞台にした地名や事績の盗用とする方法論を多用されました。本件の「難波長柄豊碕宮=博多湾岸」もその論理構造に基づかれたものです。
 通説では前期難波宮を難波長柄豊碕宮と理解するのですが、「長柄」や「豊碕」地名は、前期難波宮がある大阪市中央区の法円坂ではなく、北区にあることから、前期難波宮は孝徳紀に見える難波長柄豊碕宮ではないとされました。この点はわたしも同意見で、そうであれば難波長柄豊碕宮は北区の「長柄」「豊崎」にあったのではないかとわたしは考えたのですが、古田先生は博多湾岸にも「名柄」「難波(なんば)」「豊浜」という類似地名があることから、大阪市北区ではなく博多湾岸説に立たれたのです。そして、その理解の延長線上に博多湾岸に「難波朝廷」もあり、その地の宮殿で「天下立評」したとまで仮説を展開されました。
 この論理構造は、大阪市と博多湾岸の両者に類似地名がある場合は、必要にして十分な論証や考古学的実証(7世紀中頃の宮殿遺構の出土)を経ることなく、九州王朝の中枢領域にあったとする理解を優先させるということが特徴的です。この方法を古田先生は晩年に多用されたため、その方法論上の有効性と適用範囲について、わたしと先生との間で様々な論議や論争が行われましたが、このことは別に詳述したいと思います。
 極論すれば、古田先生は近畿出土の金石文や『日本書紀』に見える「地名」を北部九州へと収斂させる方向で七世紀の九州王朝史復元を試みられました。他方、わたしは前期難波宮副都説や九州王朝近江遷都説のように、九州王朝の直轄支配領域を近畿へと拡大させることで七世紀の九州王朝史復元を試みました。すなわち、両者の仮説のベクトルが真反対だったのです。
 ですから、前期難波宮副都説を発表するとき、わたしはこの古田先生とのベクトルの「衝突」を明確に意識し、意見の対立は避け難いのではないかと懸念していました。そしてそれは現実のものとなり、先生との学問的意見対立は10年近くにも及んだのでした。この体験は「弟子」としてはかなりつらいものでしたが、2014年の八王子セミナーにて、それまで反対されてきた副都説に対して「検討しなければならない」と言っていただいたことが、わたしにとってどれだけ嬉しかったことか、ご想像いただけると思います。しかし、検討される間もなく、翌年10月に先生は亡くなられました。(了)


第1551話 2017/12/09

古田先生との論争的対話「都城論」(8)

 一元史観における「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」に次いで、わたしの前期難波宮九州王朝副都説の論理構造について解説します。
 まず、一元史観による「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」の論理構造と下記の①〜④までは同じです。

 ①律令による全国統治に必要な王宮の規模として、大規模な朝堂院様式の平城宮や藤原宮という出土例(考古学的事実)がある。
 ②その例に匹敵する巨大宮殿遺構が大阪市法円坂から出土(考古学的事実)し、「前期難波宮」と命名された。
 ③前期難波宮の創建年代について、孝徳期か天武期かで永く論争が続いた。
 ④「戊申年」(648年)木簡や整地層から7世紀中頃の土器の大量出土(考古学的事実)、水利施設木枠等の年輪年代測定(測定事実)により、孝徳期創建説が通説となった。

 ここまでは考古学的事実に基づいており、一元史観であれ多元史観であれ、考古学的事実を認める限り、それほど大きな意見の差はありません。④の後に一元史観では次のような実証が展開されます。
 「⑤そうした考古学的事実に対応する『日本書紀』孝徳紀に見える『難波長柄豊碕宮』(史料事実)が前期難波宮であるとした。」
 わたしは古田史学・九州王朝説に立っていますから、『日本書紀』の記述を無批判に採用することはできません。そこで①〜④の考古学的事実に対して、九州王朝説を是とする立場から次のように論理展開しました。

 ⑤7世紀中頃に九州王朝(倭国)が施行した評制により全国統治が可能な宮殿・官衙は国内最大規模の前期難波宮だけであることから、前期難波宮は九州王朝の宮殿と見なさざるを得ない。その際、九州王朝(倭国)は当時としては最新の中国風王宮の様式「朝堂院様式」を採用した。
 ⑥九州王朝はその前期難波宮にて、九州年号「白雉」改元の大規模な儀式を行った。そのことが『日本書紀』孝徳紀白雉元年条に記載(盗用)された。

 以上のようにわたしの副都説は、考古学的事実に基づく実証と、九州王朝説を根拠(前提)とする論証との逢着により成立しています。従って、古田先生による九州王朝実在の論証が成立していなければ、わたしの副都説も成立しないという論理構造を有しています。(つづく)


第1546話 2017/12/01

古田先生との論争的対話「都城論」(7)

 一元史観における「前期難波宮=難波長柄豊碕宮」説成立の基本的な論理構造が、考古学的出土事実と『日本書紀』や『続日本紀』の史料事実の対応という、いわば「シュリーマンの法則」に合致した強固なものであることにわたしが気づいたのは約20年ほど前のことでした。以来、九州王朝説に立つわたしはこの問題に悩まされてきました。それは次のような点でした。

 ①前期難波宮の巨大な規模(国内最大)は、7世紀中頃から後半の律令時代にふさわしい全国支配のための王宮と見なさざるを得ない。
 ②7世紀中頃に評制が全国に施行された。その主体は九州王朝(倭国)とするのが古田説だが、その評制支配された側の近畿天皇家の孝徳天皇の宮殿(前期難波宮)の方が、九州王朝の王宮と考えられていた大宰府政庁Ⅱ期宮殿遺構よりも10倍近く巨大というのは、九州王朝説にとって不都合な考古学的事実である。
 ③前期難波宮の特徴はその規模だけではなく、当時としては最新の中国風王宮の様式「朝堂院様式」である。この最新の様式が九州王朝の中枢領域ではなく、近畿(摂津難波)に最初に取り入れられたことも、九州王朝説にとって不都合な考古学的事実である。
 ④「天子」を自称した7世紀初頭の多利思北孤の時代から白村江戦以前の7世紀中頃までは九州王朝(倭国)が最も興隆した時代と思われる(唐と一戦を交えられる国力を有していた)。しかし、その宮殿は配下の近畿天皇家(前期難波宮)の方がはるかに巨大であることは、九州王朝説では合理的な説明ができない。

 こうしたことが九州王朝説にとって深刻な問題であることに気づいたわたしは何年も悩み続けました。
 一元史観との論争(他流試合)を経験された方であれば理解していただけると思いますが、わたしがある著名な理系の研究者に古田説・九州王朝説を説明したところ、邪馬壹国が博多湾岸にあったことには賛意を示してくれたのですが、6〜7世紀時点では大和朝廷が列島の代表者と考える方が考古学的諸事実や『日本書紀』の記事と整合しているとの実証的反論を受け、約2時間論争しましたが、ついにその研究者を説得できませんでした。
 彼は理系の研究者らしく、「あなた(古賀)も理系の人間なら、解釈ではなく、近畿よりも九州に権力中心があったとするエビデンスを示せ」と、わたしに迫ったのです。すなわち、中国史書の倭国伝などを史料根拠としての論理的帰結(論証)による九州王朝説を、彼は「一つの解釈にすぎない」として認めず、具体的なエビデンス(考古学的証拠)に基づく「実証」を求めたのでした。この論法は「戦後実証史学」に見られる古田説・九州王朝説批判の典型的なものでもあります。なお付言しますと、彼は真摯な研究者であり、一元史観にこだわるという頑固な姿勢ではなく、九州王朝説にも深い関心を持たれていました。
 今回の問題についても、前期難波宮を近畿天皇家の宮殿と理解する限り、それは“7世紀中頃には既に九州王朝はなかった”という新たな一元史観(修正一元史観)を支持するエビデンス(証拠)として「戦後実証史学」にからめ取られてしまうのです。(つづく)