古賀達也一覧

第1663話 2018/05/02

『論語』二倍年暦説の史料根拠(6)

 関西例会で出された『論語』二倍年暦説への批判として、わたしの理解では二種類がありました。一つは、周代が二倍年暦かどうか証明できていない、「周代」史料の長寿記事は実際の年齢ではないとする解釈も可能、というものです。もう一つは、周代や「周代」史料が二倍年暦であったとしても、『論語』の年齢記事が二倍年暦かどうか論証されていない、という批判です。
 今回は二つ目の批判に対して検討してみます。確かに『論語』中に年齢記事はそれほど多くなく、一倍年暦で70歳(孔子の年齢記事)の当時としては長寿の人がたまたまいたという解釈も可能だからです。こうした反論をわたしが想定していたことは、『論語』二倍年暦説の論理構造として既に説明してきた通りです。そこで、今回は別の視点から『論語』の年齢記事が二倍年暦と理解すべき論理性(論証)について説明します。
 たとえば孔子の弟子の曾参が二倍年暦で語っていた根拠として、次の記事を紹介しました。

 「人の生るるや百歳の中に、疾病あり、老幼あり。」(『曾子』曾子疾病)

 これ以外に、『曾子』には次の年齢記事が見えますが、先の記事が二倍年暦であれば、これも二倍年暦記事と考えなければなりません。

 「三十四十の間にして藝なきときは、則ち藝なし。五十にして善を以て聞ゆるなきときは、則ち聞ゆるなし。七十にして徳なきは、微過ありと雖も、亦免(ゆる)すべし。」(『曾子』曾子立事)

 大意は、30〜40歳で無芸であったり、50歳で「善」人として有名でなければ大した人間ではないというものですが、これは二倍年暦による年齢表記となりますから、一倍年暦の15〜20歳、25歳ということになります。これと類似した「人物評価」が『論語』にも見えます。「後生畏るべし」の出典となった次の記事です。

「子曰く、後生畏る可し。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆること無くんば、斯れ亦畏るるに足らざるのみ。」(『論語』子罕第九)

 この記事も40歳50歳になっても名声が得られないようであれば、とるに足らない人間であるという趣旨で、先の『曾子』と同じように40〜50歳(一倍年暦の20〜25歳)が人間評価の年齢基準としています。従って、先の『曾子』の記事が二倍年暦であることから、この『論語』の記事も二倍年暦で語られたと理解すべきです。また、記事の内容から考えても、当時の古代人にとって50歳は一般的には「寿命の限界」、あるいは高齢ゾーンであり、そうした「最晩年」に名をなしていなければ畏るるにたらない、というのでは全くナンセンスです。このことをわたしは『論語』二倍年暦説の史料根拠と指摘してきましたし、古田先生も同様の見解を発表されています(『古代史をひらく』ミネルヴァ書房、243頁)。
 以上の論理性により、『論語』も二倍年暦で記されているとするのが穏当な史料理解であり、有力説と思います。(つづく)


第1660話 2018/04/29

『論語』二倍年暦説の史料根拠(4)

 「周代」史料に散見する「百歳」記事により、周代では二倍年暦での百歳を人間の一般的な寿命と認識されていたと考えられますが、この「百歳」という表記は一倍年暦の時代になっても、一倍年暦の「五十歳」に換算されることなく、そのまま「一人歩き」した痕跡が後代史料などに少なからず残っています。たとえば、唐代の白楽天の詩にも次のような「百歳」が見えます。

 「人生百歳 通計するに三万日 何ぞいわんや百歳の人 人間(じんかん)百に一もなし」(対酒)

 二倍年暦の認識がない唐代において「人生百歳」という表現がそのまま残っているのですが、「そんな長寿の人は一人もいない」という詩です。同じ唐代の大詩人李白も「百歳(年)」という周代成立の表記を使用した次の詩を作っています。

 「百年三万六千日 一日すべからく三百杯を仰ぐべし」(襄陽歌)

 「白髪三千丈」と歌った李白らしく、「百年」を生涯の意味で用いた詩です。
 他方、周代成立の「百歳」という超寿命に疑義を示した史料もあります。中国の古典医学書『黄帝内経素問』に見える、黄帝から天師岐伯への質問です。

 「余(われ)聞く、上古の人は春秋皆百歳を度(こ)えて動作は衰えず、と。今時の人は、年半百(五十)にして動作皆衰うるというは、時世の異なりか、人将(ま)さにこれを失うか。」(『素問』上古天真論第一)

 このように、二倍年暦による「百歳」を一倍年暦表記と理解したため、「今時の人は、年半百(五十)にして動作皆衰う」のは「時世の異なりか」と質問したわけです。ということは、この記事の成立時は既に一倍年暦の時代になっており、そのときの人の一般的寿命が百歳ではなく五十歳と認識されていたことがわかります。
 なお、『黄帝内経素問』の書名は『漢書』「芸文志」に見えることから、前漢代に編纂されたようです。同書はその後散逸しており、唐代に編集された『素問』『霊柩』として伝えられています。
 このような暦法の変化による後世への影響発生に似た事例として、里単位の変遷があります。たとえば、周代の「短里(1里約76m)」により成立した「千里馬(1日千里〔約76km〕を駆ける名馬)」という用語が、「長里(1里約435m)」の時代でも名馬を意味する「慣用句」として使用されるのですが、長里ですと一日435kmを駆ける空想上のペガサスの話になってしまいます。
 人間の寿命を「百歳」とした周代の二倍年暦の実在を認めなければ、「千里馬」と同様に、古代における人間の寿命記事に対しても正しい理解が得られないのです。同時に、『素問』のこの記事は、周代の二倍年暦実在の証拠でもあるのです。(つづく)


第1659話 2018/04/28

『論語』二倍年暦説の史料根拠(3)

 わたしは「周代」史料の年齢記事は基本的に二倍年暦で表記されていると考えていますが、同時に後代の編纂時に一倍年暦に書き換えられる可能性もあることを指摘しました。たとえば『春秋左氏伝』などは一倍年暦で編年表記されていると関西例会で述べました。この点は谷本茂さんからも指摘された通りです。そこで、「周代」史料に一倍年暦と二倍年暦のものがあることについて、その史料状況が何を意味するのかについて説明します。
 おおよその目検討ですが、わたしは二倍年暦から一倍年暦への公権力による暦法変更は秦の始皇帝による度量衡の統一の頃に行われたのではないかと推定しています(今のところ史料根拠は見つけられていません)。そのため、「周代」の記録や伝承が一倍年暦の時代の漢代で編纂される際に、暦日記事が書き換えられる可能性があります。
 そうしたことから、漢代成立史料に「百歳」とかの二倍年暦による「長寿」記事が散見されるという史料状況が発生します。逆から言えば、周代における二倍年暦の存在がなければ、そのような史料状況は発生しません。すなわち、もし周代からずっと一倍年暦であれば、漢代に成立した「周代」史料に「百歳」などという長寿記事は空想の産物でもなければ出現できないのです。
 ところが「周代」史料に散見する「百歳」などの超長寿記事は通常の会話(説話)部分にも出現しており、当時の人々の普通の認識として語られています。たとえば、孔子の弟子の曾子の会話として次のような記事が『曾子』に見えます。

 「人の生るるや百歳の中に、疾病あり、老幼あり。」(『曾子』曾子疾病)

 この記事は「曾子曰く」で始まり、曾子が親孝行について述べたもので、その普通の会話中に「人の生るるや百歳の中」という普通の人を対象にした発言です。従って、当時の一般的な人間の二倍年暦による「百歳(一倍年暦の五十歳)」の人生中に「疾病あり、老幼あり。」と記していることからも、孔子の弟子の曾子は二倍年暦により寿命や年齢を認識していたと考えざるをえません。この史料事実から、曾子の師である孔子も二倍年暦により年齢を認識をしていたと考えるのが真っ当な文献理解のあり方なのです。(つづく)


第1658話 2018/04/24

『論語』二倍年暦説の史料根拠(2)

 わたしは、『論語』(孔子〔紀元前552〜479年〕)の時代の前後に相当する「周代」史料に二倍年暦が採用されていれば、その「周代」に位置する『論語』も二倍年暦と考えるべきとしたのですが、史料根拠は次のような「周代」史料でした。

■『管子』(春秋時代〔?〜紀元前645年〕、管仲の作とされる)
「召忽曰く『百歳の後、わが君、世を卜る。わが君命を犯して、わが立つところを廃し、わが糺を奪うや、天下を得といえども、われ生きざるなり』。」(大匡編)

■『列子』(春秋戦国時代〔紀元前400年頃〕の人、列禦寇の書とされる)
「人生れて日月を見ざる有り、襁褓を免れざる者あり。吾既に已に行年九十なり。是れ三楽なり。」(「天瑞第一」第七章)
「林類年且に百歳ならんとす。」(「天瑞第一」第八章)
「穆王幾に神人ならんや。能く當身の楽しみを窮むるも、猶ほ百年にして乃ち徂けり。世以て登假と為す。」(「周穆王第三」第一章)
「役夫曰く、人生百年、昼夜各々分す。吾昼は僕虜たり、苦は則ち苦なり。夜は人君たり、其の楽しみ比無し。何の怨む所あらんや、と。」(「周穆王第三」第八章)
「太形(行)・王屋の二山は、方七百里、高さ萬仞。本冀州の南、河陽の北に在り。北山愚公といふ者あり。年且に九十ならんとす。」(「湯問第五」第二章)
「百年にして死し、夭せず病まず。」(「湯問第五」第五章)
「楊朱曰く、百年は壽の大齊にして、百年を得る者は、千に一無し。」(「楊朱第七」第二章)

■『荘子』(紀元前369〜286年頃の人、荘周の書とされる)
 「今、吾れ子に告ぐるに人の情を以てせん。目は色を視んと欲し、耳は声を聴かんと欲し、口は味を察せんと欲し、志気は盈(み)たんと欲す。人、上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十。病瘻*(びょうゆ)・死喪(しそう)・憂患(ゆうかん)を除けば、其の中、口を開いて笑う者、一月の中、四、五日に過ぎざるのみ。天と地とは窮まりなく、人の死するは時あり。時あるの具(ぐ)を操(と)りて、無窮の間(かん)に託す、忽然(こつぜん)たること騏驥(きき)の馳(は)せて隙(げき)を過ぐるに異なるなきなり。」(盗跖(とうせき)篇第二十九)
 ※病瘻*(びょうゆ)の 瘻*は、強いて言えば、やまいだれ編に由の下に八。(表示できない。)

■『荀子』(周代末期の人、荀況〔紀元前313?〜238年〕の思想を伝えたもの)
 「八十の者あれば一子事とせず。九十の者あれば家を挙(こぞ)って事とせず。」(巻第十九、大略篇第二十七)
【通釈】八十の老人がいる家ではその子供一人は力役につかなくてよい。九十の老人がいれば家中みな力役につかなくてよい。
 「古者、匹夫は五十にして士(つか)う。天子諸侯の子は十九にして冠し、冠して治を聴く其の教至ればなり。」(巻第十九、大略篇第二十七)
【通釈】むかし、一般の人民は五十歳になってから仕官したが、天子や諸侯の子は十九歳になると〔一人前の男子として元服して〕冠をつけ、冠をつけると政治をとったが、それはその教養が十分に身についていたからである。

■『礼記』(周代から漢代の儒教関係の書を編集したもの。前漢代の成立か。)
 「人生まれて十年なるを幼といい、学ぶ。二十を弱といい、冠す。三十を壮といい、室有り(妻帯)。四十を強といい、仕う。五十を艾といい、官政に服す。六十を耆といい、指使す。七十を老といい、伝う。八十・九十を耄という。七年なるを悼といい、悼と耄とは罪ありといえども刑を加えず。百年を期といい、やしなわる。」(曲礼上篇)

■『曾子』
 「三十四十の間にして藝なきときは、則ち藝なし。五十にして善を以て聞ゆるなきときは、則ち聞ゆるなし。七十にして徳なきは、微過ありと雖も、亦免(ゆる)すべし。」(曾子立事)
 「人の生るるや百歳の中に、疾病あり、老幼あり。」(曾子疾病)
 ※各著者生没年はウィキペディアを参照したが、諸説あり、大まかな先後関係の理解のために記した。周代の二倍年暦採用が正しければ、これら年代の西暦との対応も見直さなければならない。

 以上の用例が示すように、『管子』をはじめ『荀子』『礼記』に至るまで、「周代」史料の「年齢記事」が基本的に二倍年暦で著されていることは、まず動かないとわたしは判断しました。したがって、“『論語』だけは一倍年暦で記述されていた”と理解する方が不自然であり、どうしても「不自然だが一倍年暦の可能性が高い」と主張したいのであれば、そう主張する側に論証責任が発生します。
 関西例会でも繰り返し説明したことですが、わたしは『論語』の年齢記事は二倍年暦とした方がよりリーズナブルであると考えていますが、『論語』の年齢記事だけから『論語』二倍年暦説を唱えたわけではありませんので、この点は誤解の無いようにお願いします。
 なお、ここで紹介した「周代」史料とは、必ずしも周代で成立したというわけではなく、周代の説話や史料に基づいて、後の漢代に成立した史料を含みますが、具体的な年齢記事は周代の記録をそのまま採用したと考えています。なぜなら、成立時代(一倍年暦の時代)の寿命の二倍の年齢にわざわざ換算し、当時としては不自然な長寿年齢(百歳など)に書き換える必要や必然性はないからです。逆に、その当時の一倍年暦の認識により、「百歳」とあった「周代」史料の年齢記事を不審として、「五十歳」と一倍年暦に換算することはあり得ます。その場合は、「周代」史料でありながら、年齢記事は換算修正された一倍年暦表記となります。(つづく)


第1657話 2018/04/23

『論語』二倍年暦説の史料根拠(1)

 先日開催された「古田史学の会」関西例会で、わたしから「『論語』二倍年暦説の論理構造」を発表したのですが、批判意見が出され激しい論争となりました。そのときの主な批判意見の一つとして、『論語』そのものからは二倍年暦との論証は成立しておらず、『論語』の時代の前後の「周代」史料(『管子』『列子』)に二倍年暦が採用されていても、『論語』が二倍年暦で記されているとは限らないというものでした。
 わたしの理解では、『論語』の前後に相当する「周代」史料に二倍年暦が採用されていれば、その間に位置する『論語』も二倍年暦と考えるのが「周代」史料に対する基本的理解であり、『論語』だけは一倍年暦のはずとする側に論証責任が発生すると考えています。しかし、関西例会での論争(わたしからの説明)では納得していただけなかったため、それではどのような史料や論理性を提示すれば説得できるだろうかと、帰りの京阪電車の車中で思案しました。
 関西例会では激しい論争がよく勃発するのですが、大半はわたしが論争の当事者です。論争の結果、わたしが間違っていると気づけば自説を撤回し、どちらが正しいか判断がつかない場合はペンディングして、勉強を続けます。また、自分が正しいと思うが、相手を納得させることができなかった場合は、一人で「反省会」を行い、どうすれば納得させることができるのか、自分の説明のどこが不十分・不適切であったのかを考えるようにしています。
 学問研究とはこのようにして深化発展するものと確信していますし、異なる意見が出され、論争や検証が行われることこそが大切と思っています。誰からも疑問や反対意見が出なければ、その学問・学説はその時点で発展が止まります。ですから、批判や異なる意見が出され、頻繁に論争が勃発する関西例会とその参加者をわたしは誇りに思っています。(つづく)


第1656話 2018/04/22

都城様式と律令制の対応の論理

 昨日、「古田史学の会」関西例会が福島区民センターで開催されました。5月はドーンセンター、6〜9月はi-siteなんばに戻ります。
 今回も谷本茂さんから『古田史学会報』に発表した拙稿「律令制の都『前期難波宮』」に対して、わたしが全く気づかなかった論点を指摘され、「前のめりにならないように」とのアドバイスをいただきました。その指摘とは、前期難波宮を九州王朝律令(常色律令とわたしは仮称)に対応した都城様式とする論理を採用すれば、同じ様式の藤原宮も九州王朝律令の都城としなければならなくなるが、そこまで言い切ってもよいのかというものです。
 確かにこの指摘はその通りで、わたしもそこまで言い切る自信はありません。「論理の導くところへ行こう。たとえそれがいかなる所であっても。」という岡田甫先生の言葉に従うのが古田先生の「弟子」の心意気であると返答はしたものの、これは大変な指摘を受けたと思いました。この件については、よく考えてみることにします。ちなみに、谷本さんは学生時代から古田先生のご自宅に出入りされていた、古代史分野では最古参の「弟子」です。
 わたしからは、前月の例会での谷本茂さんからの拙論「『論語』の二倍年暦」へのご批判に答えるため、その論理構造について発表しました。ここでも谷本さんや服部静尚さんと激しい論争となり、双方相譲らず、時間切れとなりました。この件については、もっと丁寧な説明が必要と思いましたので、「洛中洛外日記」などで史料根拠を明示したいと考えています。
 例会後の懇親会では、初参加の日野智貴さん(奈良大学、国史専攻)から、伊勢神宮は九州王朝が創建したとする仮説などをお聞きしました。是非、関西例会で発表するようにと勧めました。
 4月例会の発表は次の通りでした。発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレスへ)か電話で発表申請を行ってください。

〔4月度関西例会の内容〕
①前方後円墳は治水と祭祀のモニュメント(大山崎町・大原重雄)
②神話構造の二重性について(神戸市・谷本茂)
③論証の諸刃の剣である「戊申年」木簡(神戸市・谷本茂)
④「百済様式の古瓦は九州から出土しない」は嘘だった(八尾市・服部静尚)
⑤「『論語』の二倍年暦」の論理構造 -谷本茂さんにお答えする-(京都市・古賀達也)
⑥「不改常典の法」の意味するもの(京都市・岡下英夫)
⑦フィロロギーと古田史学【10】個人的批判と古田史学の実際(吹田市・茂山憲史)
⑧ホアカリの天孫降臨(東大阪市・萩野秀公)
⑨九州王朝の統治範囲(エリア)について(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 新年度会費入金状況・『古代に真実を求めて』21集「発見された倭京 太宰府都城と官道」の売れ行き好調・「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)3/23服部静尚さん「ポルトガルの宣教師が見た安土桃山時代の日本」の報告・『古代に真実を求めて』21集「発見された倭京 太宰府都城と官道」の発行記念講演会(9/09大阪i-siteなんば、9/01東京家政学院大学千代田キャンパス、他)、5/25プレ記念セッション(森ノ宮)・東京古田会、多元的古代研究会で「八王子セミナー」企画中・6/17「古田史学の会」会員総会と記念講演会(講師:東京天文台の谷川清隆氏)・水野顧問の転居先・「古田史学の会」関西例会会場、5月はドーンセンター、6〜9月はi-siteなんば・新会員増加・その他


第1655話 2018/04/20

天智五年(666)の高麗使来倭

 「洛中洛外日記」1627、1629、1630話(2018/03/13-18)「水城築造は白村江戦の前か後か(1〜3)」で、水城築造年が『日本書紀』の記事通り、白村江戦後の天智三年(664)で問題ないとする見解について説明しましたが、このことを支持すると思われる天智五年(666)の高麗遣使来倭記事について紹介します。
 水城築造を白村江戦の前とする説の論拠は、白村江戦後に唐軍の進駐により軍事制圧された状況下で水城など築造できないとするものでした。わたしは唐軍二千人の筑紫進駐は『日本書紀』によれば天智八年(669)以降のことであり、『日本書紀』の水城築造記事がある天智三年段階では筑紫は唐軍の筑紫進駐以前で、水城築造は可能としました。この理解を支持するもう一つの記事が、『日本書紀』天智五年(666)条に見える高麗使(高句麗使)の来倭記事です。
 『日本書紀』天智五年(666)条に次のような「高麗(高句麗)」から倭国に来た使者の記事が見えます。

 「高麗、前部能婁等を遣(まだ)して、調進する。」(正月十一日)
 「高麗の前部能婁等帰る。」(六月四日)
 「高麗、臣乙相菴ス等を遣して、調進する。」(十月二六日)

 これらの高麗(高句麗)使は、当時、唐との敵対関係にあった高句麗が倭国との関係強化を目指して派遣したと理解されています。というのも、この年(乾封元年)の六月に、唐は高句麗遠征を開始しています。従って、倭国が唐軍の制圧下にあったのであれば、高句麗使が倭国に支援を求めて来るばすはなく、また無事に帰国できることも考えられません。
 こうした高句麗使来倭記事は、少なくとも天智五年(666)時点では倭国は唐軍の制圧下にはなかったことを示しています。


第1650話 2018/04/13

古代日本銘文鏡のフィロロギー

 「洛中洛外日記」1646話(2018/04/10)「縄文神話と縄文土器のフィロロギー」で、『古田史学会報』145号に掲載された大原重雄さんの「縄文にいたイザナギ・イザナミ」の画期性について述べました。古代人の思想性や精神文化をフィロロギーにより復元する方法として、縄文土器の文様を史料として採用するという着眼点が素晴らしい論文でした。
 このように従来は思想史の史料として省みられなかった物について、古田先生から託されたテーマがあります。30年ほど前のことだったと思いますが、三角縁神獣鏡に記された銘文について、学界は単なる中国伝来の「吉祥句」として受け止めているが、これら国産鏡に記された銘文は当時の日本人の思想や価値観を著した第一級の同時代史料であり、フィロロギーの研究対象であると古田先生からうかがいました。そして誰かこの研究をやってもらいたいとも言われました。
 このときの先生の言葉が今でもときおり脳裏に浮かぶのですが、わたしの研究対象から外れていたこともあり、全く手をつけてきませんでした。ところが今回の大原論文に触発され、少しずつでも始めなければ冥界の先生に叱られるのではと思うようになりました。
 三角縁神獣鏡の紋様や銘文についての古田先生の見解については「三角縁神獣鏡の盲点」(古田史学の会HPに収録)が参考になります。どなたか一緒に研究しませんか。


第1643話 2018/04/07

九州王朝「北陸道」の問答

 『発見された倭京』で九州王朝の「東山道」15国を比定し、古代官道が太宰府を起点に展開されているとした西村秀己さんの論理的仮説を実証的に検証された山田春廣さんが、ブログにおいて太宰府起点の「東山道」「東海道」そして「北陸道」の地図を発表されています。山田さんは「妄想」と謙遜されていますが、そういうことはなく、なかなか優れた仮説(地図)と思います。
 その山田さんのブログ上で「北陸道」について、わたしと問答(学問的対話)を続けていますが、面白い展開を見せつつありますので、「洛中洛外日記」に転載させていただきました。皆さんも是非「問答」にご参加下さい。

【わたしからの質問】
山田様
 貴ブログの「北陸道」地図をわたしのfacebookに転載させていただきました。なかなかよい仮説(地図)と思いました。「北陸道」については次の疑問を抱いているのですが、山田さんのお考えをお聞かせいただければ幸いです。

1.他は「海道」「山道」なのに、なぜここだけ「北陸道」と命名したのか。あるいは、九州王朝は別の名称だったのでしょうか。「北海道」が別ルートとしてありますから、仕方なく「北陸道」と命名したのでしょうか。

2.筑前から東山道の山口県部分を飛び越えて、山陰ルートに向かいますが、やや不自然のような気がします。

 以上、ご教示ください。なお、この疑問は山田説を否定するという趣旨のものではありませんので、ご理解ください。

【山田さんからの応答】
 まず、「「九州王朝の北陸道」十二國」は西村さまの「五畿七道の謎」に沿って東・西・南・北海道を比定し、そこに私が比定した「東山道十五國」を重ねると、残りが「北陸道」だという理屈だけで想定したものですので、「東山道十五國」の比定も含めて批判されて然るべきものと考えています。ですから、古代官道の諸国について私の想定図とは異なる比定があってしかるべきと思っております。
 倭国(九州王朝)の古代官道については、西村仮説「五畿七道の謎」(「九州王朝(倭国)の首都大宰府」「太宰府を起点として全国に張り巡らされた官道」)のガイドラインに沿ってさえいれば、もっと様々な比定がなされてしかるべきで、それによってさらに議論が深められていくものと考えております。
 さて、古賀さまがご疑問に思われたことがらについて、私なりに考えてみました(根拠は示せませんので妄想ということです)。

1.「北陸道」という命名は確かに不審です。海に面している(実際も海路が主ではないかと思う)のに「陸」というのが納得できないところです。よって、これは「北海道」ではなかったかと考えています(西村さまとは少し異なる考えになりますが)。
 「北海道」は倭の五王時代にあった壱岐・対馬・金海(きむへ、南朝鮮)へ向かう海道であったわけですが、倭国(九州王朝)が朝鮮半島の版図を失い、海峡国家でなくなって以降の時代に、何時の時代かわかりませんが、博多湾を出て令制では「山陰道」と呼ばれている諸国沿いの海路が「北海道」と改称され、さらに「北陸道」と改称されたのではないかと妄想しています。

2.上記の妄想から、「北陸道」が「北海道」を改称した「海路」ということであれば、長門(山口県)を飛び越えて行くのもありと考えます。また、別の考え方として、「北陸道」が長門国の北部を通っている(長門を二道が通る)ということも考えられます。しかし、「官道」を「軍管区」と考えると、一国を二分するというのは不自然ですので、「北陸道」は「陸路」ではなく「海路」だった(後の時代に「北海道」を「北陸道」と改称した)という考えの方に今の段階では魅力を感じています。

 古賀さまのご疑問にお答えできたとは思いませんが、とりあえず考え(妄想)を述べさせていただきました。


第1633話 2018/03/28

『発見された倭京 太宰府都城と官道』

  書評(1)

 発刊されたばかりの「古田史学の会」の会誌『古代に真実を求めて』21集『発見された倭京 太宰府都城と官道』を読んでいます。収録論稿の採用や編集に関わったわたしが言うのもなんですが、かなりの学問水準に達した一冊となっています。「古田史学の会」も古田先生亡き後、「弟子」らによってようやくこのレベルの論集を出せるようになったのかと思うと、感無量です。そこで、同書の収録論文について、わたしの感想や評価点を「書評」として連載したいと思います。
 本書には太宰府条坊や水城の編年等に関する拙稿も何編か収録されたのですが、直近のものでも執筆後一年近くを経ており、その後に増えた知見や深まった認識により、現時点では不十分で「腰が引けた」表現もあります。これは日々進化発展するという学問が有する性格上仕方がないことであり、ある意味では当然発生することでもあります。そうした一例を紹介します。
 拙稿「太宰府条坊と水城の造営時期」の最末尾に次の一文を記しました。

 「サンプルの資料性格から考えると、年輪数が少ない敷粗朶の測定値が木樋より適切であり、しかも発掘条件の良さから、最上層の敷粗朶の年代中央値六六〇年を最も重視すべきと思います。そうすると水城の造営年代は七世紀後半頃となり、『日本書紀』の天智三年(六六四)造営記事も荒唐無稽とはできず、九州王朝説の立場から再検討する必要があります。」(72頁)

 古田説では水城の築造を白村江敗戦(663年)よりも前とするのが常でした。わたしもそうした見解に立っていたのですが、同論稿執筆のために水城関連の発掘調査報告書を精査した結果、白村江戦後の水城完成もありうるのではないかと考えるようになりました。そうしたときに記したのがこの一文でした。しかし、その時点ではそれ以上の考察には至っていませんでした。そして、最近発表した「洛中洛外日記」1627・1629・1630話(2018/03/13〜03/18)「水城築造は白村江戦の前か後か(1)〜(3)」に至り、ようやく水城完成を『日本書紀』に記された白村江戦後の天智三年(六六四)の完成の方がより適切とする認識に到達できました。もちろん、その当否は古田学派内での論争や検討を経て確認されることになりますが、現時点ではわたしはそのように考えています。
 こうした見解の変更や認識の進展は、仮に誤っていたとしても学問研究に貢献することができますので、わたし自身は良いことと思っています。(つづく)


第1632話 2018/03/25

向井一雄『よみがえる古代山城』を読む

 今日は久しぶりに用事がなかったので、向井一雄さんの『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン』(吉川弘文館。2016年)を読みました。同書は書店で立ち読みしたことはあったのですが、まだ購入していませんでした。ところが過日の久留米大学での講演会で、菊池市から見えられた吉田正一さんから同書中の「九州王朝築城説」部分のコピーをいただき、そこに古田説の紹介と批判がありましたので、先週末、名古屋出張のときに購入しました。
 著者の向井さんは古代山城研究会の代表で、その分野を代表する研究者です。従って、考古学的知見だけではなく文献にも詳しく、とても勉強になる好著です。しかしながら、同書は終始一貫して近畿天皇家一元史観に貫かれており、それにあうように古代山城の考古学的事実を解釈されています。そのため古代山城研究の第一人者としての説得力ある部分と、一元史観に依拠したための避け難い弱点が併存しています。
 これから同書を精読し、多元史観・九州王朝説による批判的対比と検討を進めていく予定です。(つづく)


第1630話 2018/03/18

水城築造は白村江戦の前か後か(3)

 水城築造年次を考察するあたり、その築造開始年と完成年など築造期間年数についても最後に触れておきたいと思います。
 水城基底部から出土した敷粗朶は土と交互に何層も積み上げられ、その上に版築層がまた積み上げられています。こうした遺構の状況から、当初、わたしは何十年もかけて水城が築造されたと漠然と理解していました。しかし、発掘調査報告書を精査することより、水城は数年という短期間で完成したのではないかと考えるようになりました。既に「洛中洛外日記」などで紹介してきましたが、このことについて改めて説明します。

①敷粗朶は、地山の上に水城を築造するため、基底部強化を目的としての「敷粗朶工法」に使用されていた。
②平成13年の発掘調査では、発掘地の地表から2〜3.4m下位に厚さ約1.5mの積土中に11面の敷粗朶層が発見された。それは敷粗朶と積土(10cm)を交互に敷き詰めたもの。
③その統一された工法(積土幅や敷粗朶の方向)による1.5mの敷粗朶層は短期間で築造されたと考えられる。
④基底部を形成する敷粗朶層の上の積土層部分(1.4〜1.5m)の築造もそれほど長期間を必要としない。
⑤その基底部の上に形成された版築層も1年以内で完成したと考えられる。版築は梅雨や台風の大雨の時期を挟んでの工事は困難である。従って秋の収穫期を終えた農閑期に行わなければならず、翌年の梅雨の季節前に完成する必要がある。従って、版築工事は1年以内の短期間に完了したと考えざるを得ない。

 以上の諸点を考えると、水城築造は数年で完成したと考えるべきですし、それは可能と思われます。従って、築造開始は唐・新羅との開戦を目前にして、白村江戦前から始まり、白村江戦敗北の翌年に完成したと考えても問題ないと思います。(了)