『論語』二倍年暦説の史料根拠(6)
関西例会で出された『論語』二倍年暦説への批判として、わたしの理解では二種類がありました。一つは、周代が二倍年暦かどうか証明できていない、「周代」史料の長寿記事は実際の年齢ではないとする解釈も可能、というものです。もう一つは、周代や「周代」史料が二倍年暦であったとしても、『論語』の年齢記事が二倍年暦かどうか論証されていない、という批判です。
今回は二つ目の批判に対して検討してみます。確かに『論語』中に年齢記事はそれほど多くなく、一倍年暦で70歳(孔子の年齢記事)の当時としては長寿の人がたまたまいたという解釈も可能だからです。こうした反論をわたしが想定していたことは、『論語』二倍年暦説の論理構造として既に説明してきた通りです。そこで、今回は別の視点から『論語』の年齢記事が二倍年暦と理解すべき論理性(論証)について説明します。
たとえば孔子の弟子の曾参が二倍年暦で語っていた根拠として、次の記事を紹介しました。
「人の生るるや百歳の中に、疾病あり、老幼あり。」(『曾子』曾子疾病)
これ以外に、『曾子』には次の年齢記事が見えますが、先の記事が二倍年暦であれば、これも二倍年暦記事と考えなければなりません。
「三十四十の間にして藝なきときは、則ち藝なし。五十にして善を以て聞ゆるなきときは、則ち聞ゆるなし。七十にして徳なきは、微過ありと雖も、亦免(ゆる)すべし。」(『曾子』曾子立事)
大意は、30〜40歳で無芸であったり、50歳で「善」人として有名でなければ大した人間ではないというものですが、これは二倍年暦による年齢表記となりますから、一倍年暦の15〜20歳、25歳ということになります。これと類似した「人物評価」が『論語』にも見えます。「後生畏るべし」の出典となった次の記事です。
「子曰く、後生畏る可し。焉んぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十五十にして聞こゆること無くんば、斯れ亦畏るるに足らざるのみ。」(『論語』子罕第九)
この記事も40歳50歳になっても名声が得られないようであれば、とるに足らない人間であるという趣旨で、先の『曾子』と同じように40〜50歳(一倍年暦の20〜25歳)が人間評価の年齢基準としています。従って、先の『曾子』の記事が二倍年暦であることから、この『論語』の記事も二倍年暦で語られたと理解すべきです。また、記事の内容から考えても、当時の古代人にとって50歳は一般的には「寿命の限界」、あるいは高齢ゾーンであり、そうした「最晩年」に名をなしていなければ畏るるにたらない、というのでは全くナンセンスです。このことをわたしは『論語』二倍年暦説の史料根拠と指摘してきましたし、古田先生も同様の見解を発表されています(『古代史をひらく』ミネルヴァ書房、243頁)。
以上の論理性により、『論語』も二倍年暦で記されているとするのが穏当な史料理解であり、有力説と思います。(つづく)