古賀達也一覧

第2020話 2019/10/24

即位礼正殿の儀の光景(2)
「黄櫨染御袍」に使用された蘇芳(すおう)

 新天皇の「即位礼正殿の儀」で着用された「黄櫨染御袍」は、光源の変化により色調が変化することを紹介しました。これにはかなりの技術が必要なのですが、それよりもすごい染色技術が京都の匠(染織家)により発明されています。それは五年ほど前にお会いしたご高齢の匠から見せていただいたもので、「貴婦人」と名付けられたシルクの染色糸です。
 「貴婦人」は「黄櫨染御袍」よりも青みの茶色をしていました。ところが、同じ室内光(蛍光灯)下でも糸束をねじったり角度を変えると、色調が茶色から濃緑色に変化するのです。ここまで変化するシルク糸は初めて見ました(化学繊維であれば機能性色素を用いて簡単にできます)。恐らく「演色性」だけではなく、シルクの成分であるフィブロインやセリシンを複数の染料で染め分けているのではないかと思い、使用した染料をたずねましたが、教えてはいただけませんでした。しかし、その糸束をわけていただくことができ、わたしは勤務先の科学分析機器を駆使して、染料成分分析や繊維構造解析を行いました。恐らく、自らが発明した「貴婦人」の染色技術を次世代の技術者に継がせたいとの思いから、貴重な糸束をわけていただいたものと感謝しています。
 話を「黄櫨染御袍」に戻します。使用された蘇芳は南方の国(インド、マレーシア)が原産地であり、〝輸入〟しなければならないのですが、もしかすると入手はそれほど困難なことではなかったのではないでしょうか。
 「洛中洛外日記」2006〜2014話(2019/10/06〜13)で連載した〝九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(1)〜(9)〟において、わたしは九州王朝(倭国)の東西南北の「道」の「方面軍」という仮説を発表し、その「南海道」の終着点を今の沖縄・台湾とする説と中南米とする説を提起しました。いずれにしても、強力な海軍力を有してした九州王朝であれば、「南国」の蘇芳を入手することは可能と思われますし、あるいはその「南国」からの使者が九州王朝へお土産として持参した可能性さえあります。「黄櫨染御袍」の製造のため蘇芳を九州王朝が欲しがっていたとすれば、少なくとも「西国」百済から贈呈された七支刀と比べれば、自国に自生している蘇芳の木の贈呈は輸送コストはかかるものの、手間をかけて〝製造〟する必要もない〝お安いご用〟ですから。
 こうした視点を重視しますと、日本列島内を軍事的に展開(侵略)する「東山道」「北陸道」の「方面軍」とは異なり、「海道」の「方面軍」の主目的は「軍事」というよりも「交易」だったのではないかとの考えに至りました(軍事的側面を否定するものではありません)。大型船造船技術と航海技術があれば、大量の物資運搬にも海上郵送は便利です。一つの仮説として検討の俎上に乗せたいと思います。


第2019話 2019/10/23

「評制」時期に関する古田先生の認識(2)

 古田先生が「評制」開始を七世紀中頃とされていたことは、30年にわたるお付き合いから、わたしにとっては自明のことだったのですが、わたしの説明が不十分だったようで、納得していただけない方がおられるようです。そこで、新たなエビデンス(先生の著作)を紹介することにします。
 2015年にミネルヴァ書房から発行された『古田武彦の古代史百問百答』(古田武彦著、古田武彦と古代史を研究する会編)に〝「庚午年籍の保存」について〟という一節があり、その中に大和朝廷により「評」史料が隠されたり廃棄された実例として次の三例が示されていますので、その部分を引用します。

(イ)正倉院文書では「評」の文書がない。
(ロ)『万葉集』にも「評」は出現しない。(「郡」ばかり、九十例)。
(ハ)『日本書紀』でも、六四五〜七〇一の間すべて「郡」とされている。
 (『古田武彦の古代史百問百答』218頁)

 ここに〝(ハ)『日本書紀』でも、六四五〜七〇一の間すべて「郡」とされている。〟と古田先生が記されているように、「評制」の期間が「六四五〜七〇一の間」との認識に立たれていることがわかります。なんとなれば、『日本書紀』には「六四五」より前も「郡」表記がなされており、もし古田先生が「評制開始を六世紀以前」と認識されていたのなら、それこそ「五〇一〜七〇一の間すべて」などと書かれたはずです。しかし、古田先生は「評制」開始を七世紀中頃と考えられていたので、『日本書紀』の中の「評」が「郡」に書き換えられた範囲として「六四五〜七〇一の間」と表現されたのです。そうでなければ、「六四五」という年次を記す理由は全くありません。
 同時に、「六四五」よりも前は「評」ではなく、「県」であると古田先生は考えられていました。このことについてもエビデンス(古田先生の著書)を示します。(つづく)

〔補注〕正確に言えば、「評制」は「七〇〇年」までで、「七〇一年」には「郡制」に変わったことが、出土木簡から判明しています。また、『日本書紀』の記述対象範囲は持統十一年(六九七年)までです。もちろん、本稿の論旨には影響しません。


第2018話 2019/10/22

即位礼正殿の儀の光景(1)
「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」

 本日、執り行われた新天皇の「即位礼正殿の儀」をテレビで拝見いたしました。まるで平安時代の王朝絵巻を見ているようで、感動しました。そして何よりもわたしが着目したのは、やはり職業柄か、両陛下や皇族方の装束の色彩でした。
 わたしの本職は染料化学・染色化学のケミストですので、どうしても衣装の色に目が行ってしまい、古代において使用されたであろう染料の分子構造式と染色技術(草木染めか)、そして衣装の繊維素材は何だろうかと、そうした疑問が頭の中をぐるぐると廻ります。そうやって出した科学的結論を妻に説明しようとすると、「やめてッ!」と言われてしまいました。そこで、「洛中洛外日記」読者の皆さんにさわりだけ説明させていただきますので、ちょっとお付き合い下さい。
 わたしが最も注目したのが天皇しか着ることが許されないという「黄櫨染御袍」でした。高御座の幕が開かれたとき、その色調に驚きました。想像していたよりも赤みが強い茶色だったからです。近代では合成染料が発達して、容易に茶色が出せるようになりましたが、以前は茶色を再現性良く出すことは高度な染色技術が必要とされていました。古代であればなおさらです。
 「黄櫨染御袍」も古代から伝わる染料と染色技術により、あの色相が出されていますので、それはまさに〝匠の技〟と言えます。しかも「黄櫨染御袍」は朝夕と昼間では異なる色調を発します。それは「演色性」という光学現象を利用したもので、太陽光中の光の波長分布が朝夕と昼間では異なって地上に届くという現象により、大きく色調が変化する染料(複数)が使用されていることによります。ですから、テレビを見ていて、「黄櫨染御袍」に使用された染料の推定とその分子構造が瞬時に脳裏を駆け巡ったのです。そのときの、わたしの推論は次のようなものでした。

①「黄櫨染」というからには、「櫨(はぜ・はじ)」の色素(フラボノール系色素:fustin)が使用されているはず。
②しかも「黄」とあるから、櫨の木の黄色の成分を用いて、アルミ明礬で媒染染色されているはず。
③というのも、金属で媒染染色しなければ草木染めの天然染料は日光堅牢度が劣り、使用に耐えない。
④従って、高堅牢度の黄色に発色させるためにはアルミ明礬か木材(主に椿)の灰に含まれるアルミ成分(+微量のカルシウム成分)の使用が考えられる。古代の染色において、「灰」の使用は『延喜式』などに見える既知の技術。
⑤しかし、「櫨」だけではあの赤みの茶色にはならず、更に青みの赤色染料も使用されているはず。
⑥古代において使用されている青みの赤色染料としては、「茜(あかね)」(アリザリン系色素)と「蘇芳(すおう)」(色素成分はbrazilein)が有名。
⑦「茜」は『万葉集』にも詠まれているように国内に自生しており、入手は容易。他方、「蘇芳」は南方の国(インド、マレーシア)が原産地とされ、〝輸入〟しなければならない。
⑧入手し易さでは「茜」だが、「黄櫨染御袍」のあの深みのある赤みの茶色を出すには「蘇芳」が望ましい。
⑨染色技術的にはどちらもアルミで媒染により赤色が出せるので、どちらを使用したのかは判断し難い。

 概ね以上のような思考が堂々巡りしたため、インターネットで確かめることにしました。その結果、「櫨」と「蘇芳」が「黄櫨染御袍」には使用されているとありましたので、わたしの推論はほぼ当たっていました。それにしても、とても美しく神々しい「黄櫨染御袍」でした。(つづく)


第2017話 2019/10/21

「評制」時期に関する古田先生の認識(1)

 9月16日に開催した『倭国古伝』出版記念東京講演会(文京区民センター、古田史学の会・主催)で、会場の参加者から「評制の開始時期はいつ頃か」という質問をいただき、当日に答えきれなかったことなどについて、「洛中洛外日記」1996〜2005話(2019/09/21〜10/04)〝九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(1)〜(8)〟として連載しました。
 そのときは質問に答えることに集中していたため思い至らなかったのですが、日本古代史研究では「評制」開始時期は七世紀中頃とすることが定説となっており、ほとんど異論を聞きません。それなのになぜこのような質問が出されたのでしょうか。恐らく、古田学派の論者の中には「評制開始は六世紀以前に遡るというのが古田先生の見解」とされる方がおられ、そうした見解が古田ファンの中にも伝わっていたことが背景にあるのではないでしょうか。
 古田先生も「評制」開始を七世紀中頃とされていたことは、30年にわたるお付き合いから、わたしにとっては自明のことだったので、そのことを「洛中洛外日記」や各会の会紙でも発表してきました。それで十分にご理解いただけたはずとわたしは思っていましたが、今回のような質問が出されたこともあり、まだまだ説明が足りなかったのではないかと反省しました。そこで、新たなエビデンス(先生の著作)を紹介して、古田先生が「評制」開始時期を七世紀中頃と考えられていたことを改めて説明したいと思います。(つづく)


第2014話 2019/10/13

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(9)

 九州王朝(倭国)の都、太宰府から土佐に向かう7番目の官道として、足摺岬(土佐清水市)から黒潮に乗り、「裸国」「黒歯国」(ペールー、エクアドル)へ向かう「大海道」(仮称)があったとする作業仮説(思いつき)を提起し、次の九州王朝「七道」案を示しました。

【九州王朝(倭国)の七道】(案)
○「東山道」「東海道」→「蝦夷国」(多賀城を中心とする東北地方)
○「北陸道」「北海道」→「粛慎国」(ロシア沿海州と北部日本海域)
○「西海道」→「百済国」(朝鮮半島の西南領域)
○「南海道」→「流求國」(沖縄やトカラ列島・台湾を含めた領域)
○仮称「大海道」→「裸国」「黒歯国」(ペールー、エクアドル)

 この思いつきに至ったとき、わたしは思わず[あっ」と声を発してしまいました。こうやの宮(福岡県みやま市)の上半身裸の「南の国」からの使者と思われる御神像は「流求国」ではなく、倭人伝に記された「裸国」からの使者ではないかと思い至ったのです。
 そもそも、「南の国」からの使者が九州王朝を訪問したとき、上半身裸で倭王に謁見したとは考えられません。だいいち、倭国(筑前・筑後)は夏でも上半身裸でおれるほど暖かくはないと思われますし、倭王に謁見するのに上半身裸は失礼ではないでしょうか。そうすると、御神像が上半身裸として作製されたのは、「南の国」からの使者にふさわしい姿として、実見情報ではなく、別情報によったと考えざるを得ません。その別情報こそ、「裸国」という国名だったのではないでしょうか。九州王朝内で伝わった外交文書中に記されていたであろう「裸国」という国名に基づき、「裸の国」からの使者にふさわしい想像上の人物として、あの上半身裸の御神像が成立したと思われるのです。
 このような理解に立つとき、こうやの宮の四人の使者の出身国は蝦夷国(東)・百済国(西)・裸国(南)・粛慎国(北)となります。更に、「南海道」の最終到着国は「裸国」ではないかというアイデアも出てきますが、これ以上あまり先走りすることなく、慎重に仮説の検証を続けたいと思います。(おわり)

〔謝辞〕本シリーズの論証は、次の方々による古代官道に関する先駆的研究業績に基づいています。お名前を紹介し、感謝の意といたします。
 肥沼孝治さん(古田史学の会・会員、東村山市)、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)、山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)。

 あわせて、「東に向かっているのになぜ北陸道なのか」という疑問をFACEBOOK上で寄せていただいたKさん(コジマ・ヨシオさん)、「流求国」についての知見をご教示いただいた正木裕さんにも御礼申し上げます。Kさんのコメント(疑義)がなければ本シリーズは誕生していなかったといっても過言ではありません。〝学問は批判を歓迎する〟という言葉が真実であることを改めて深く認識することができました。


第2013話 2019/10/13

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(8)

 九州王朝(倭国)官道の名称や性格について論じてきた本シリーズもようやく最終局面を迎えました。今回は、わたしに残された二つの疑問に挑戦してみます。一つ目は、大和朝廷は「七道」なのに、なぜ九州王朝は「六道」なのか。二つ目は、山田春廣さん作製マップによれば太宰府から本州方面にむかう「北陸道」「東山道」「東海道」により、ほぼ全ての国がその管轄下におかれるのですが、四国の「土佐」が直接的にはどの官道も通らない〝空白国〟なのはなぜか、という疑問です(土佐国へは「東海道」枝道が通じていたのではないかとのご指摘を西村秀己さんからいただきました)。
 一つ目の疑問は、「たまたま、九州王朝は六道になり、大和朝廷は七道になった」とする地勢上の理由として説明することも可能です。しかし、九州王朝の官道に倣って大和朝廷も「七道」にしたとすれば、九州王朝にはもう一つの「道」があったのではないかと、わたしは考えました。そのように推定したとき、二つ目の疑問〝土佐国の空白〟が、残りの「一道」に関係しているのではないかと思いついたのです。
 それでは古代において、太宰府から土佐に向かう、しかも他の「六道」に匹敵するような重要官道はあったのでしょうか。そのような「重要官道」をわたしは一つだけ知っています。それは魏志倭人伝に記された「裸国」「黒歯国」(南米、古田武彦説)へ向かう太平洋を横断する〝海流の道〟です。倭人伝には次のように記されています。

 「女王國東、渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黑齒國復在其東南、船行一年可至。」『三国志』魏志倭人伝

 ここに見える「侏儒国」の位置は四国の西南岸部と思われ、その南の足摺岬(土佐清水市)から黒潮に乗り、倭人は「船行一年」(二倍年歴による)かけて「裸国」「黒歯国」(ペールー、エクアドル)へ行っていると記録されているのです。この「裸国」「黒歯国」と九州王朝との往来がいつの時代まで続いていたのかは不明ですが、九州王朝にとっては誇るべき〝国際交流〟であったことを疑えません。
 この太平洋を横断する〝海流の道〟(行きは黒潮に乗る北側ルート。帰りは赤道反流に乗る南側ルート)の名称は不明ですが、仮に「大海道」と名付けたいと思います。もっと良い名称があればご提示下さい。
 もしこの作業仮説(思いつき)も含めれば、九州王朝(倭国)官道は大和朝廷と同じ「七道」とすることができますが、いかがでしょうか。(つづく)

【九州王朝(倭国)の七道】(案)
○「東山道」「東海道」→「蝦夷国」(多賀城を中心とする東北地方)
○「北陸道」「北海道」→「粛慎国」(ロシア沿海州と北部日本海域)
○「西海道」→「百済国」(朝鮮半島の西南領域)
○「南海道」→「流求國」(沖縄やトカラ列島・台湾を含めた領域)


第2012話 2019/10/12

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(7)

 九州王朝(倭国)官道の名称や性格について一通り説明可能な仮説が成立しましたので(当否は別として)、次にこの仮説と関連諸史料・諸研究などとの整合性を精査し、必要であれば修正を施し、仮説の精度を向上(ブラッシュアップ)させたいと思います。というのも、下記の九州王朝官道の位置づけについて、わたしにはいくつか気になることがありました。その一つは、「西海道」の終着国がこうやの宮(福岡県みやま市)の御神像と不一致という問題でした。

○「東山道」「東海道」→「蝦夷国」(多賀城を中心とする東北地方)
○「北陸道」「北海道」→「粛慎国」(ロシア沿海州と北部日本海域)
○「西海道」→「隋」「唐」(中国の歴代王朝)
○「南海道」→「流求國」(沖縄やトカラ列島・台湾を含めた領域)

 こうやの宮の五体の御神像は、中央の比較的大きな主神(九州王朝の天子・倭王、玉垂命か)と四方の国からの使者からなるのですが、古田先生の見解によれば、七支刀を持つ人物が百済国(西)からの使者、鏡を持つ人物が近畿天皇家(東)からの使者、厚手のマントを着た人物が高句麗(北)からの使者、そして南洋の原住民のような上半身裸の人物は「南の国」からの使者とされています。
 この中で国名が明確に想定できるのが七支刀を持つ人物で、百済国からの使者です。その他の御神像は推定の域(作業仮説)を出ません。他方、七支刀といえば奈良県の石上神社に伝わる神宝(国宝)であり、その銘文により、泰和四年(369)に百済王から倭王に贈呈されたものであることがわかります。従って、「七支刀」を持つ御神像を百済の官人とされた古田先生の見解にわたしも賛成ですし、これ以外の理解は根拠がなく成立困難です。
 こうやの宮の御神像が、九州王朝の歴史を反映(伝承)したものであれば、九州王朝官道が向かう東西南北の外国は蝦夷国・百済国・流求国・粛慎国となります(東からの使者を近畿天皇家とするのは、他の使者がいずれも国外からであり、東だけが倭国内のしかも九州王朝(倭王)の臣下である近畿天皇家とするのはアンバランスです)。特に、御神像の国として明確な百済国との対応は無視できません。こうやの宮の御神像という〝史料根拠〟に従う限り、「西海道」の終着国を百済国とするのが学問の方法上穏当なのです。この場合、「西海道」のルートは、太宰府を起点として肥前(松浦半島付近)・壱岐・対馬・済州島(タンラ国)・百済国とするのが妥当ではないでしょうか。
 以上の考察結果から、九州王朝官道の位置づけとして次のケースも有力となりました。

○「東山道」「東海道」→「蝦夷国」(多賀城を中心とする東北地方)
○「北陸道」「北海道」→「粛慎国」(ロシア沿海州と北部日本海域)
○「西海道」→「百済国」(朝鮮半島の西南領域)
○「南海道」→「流求國」(沖縄やトカラ列島・台湾を含めた領域)

 なお、時代によって四方の終着国が変わるという可能性はありますが、「軍管区」としての「西海道」の終着点を東アジアの〝上位国〟である唐や隋とするよりも百済国とする方が自然ではないでしょうか。(つづく)


第2009話 2019/10/09

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(4)

 九州王朝(倭国)官道名称の考察結果として、「東」の大国「蝦夷国」に向かう「東海道」「東山道」、「北」の大国「粛慎国」へ向かう「北海道」「北陸道」とする仮説を提起できました。次に、残された「西海道」と「南海道」についても考察を続けます。
 九州王朝から見て「西」の大国とは言うまでもなく「中国」でしょう。七世紀段階であれば、「隋」か「唐」としてよいと思います。しかし、「南」は難解です。「東」と「北」の国名を求めた方法論上の一貫性を重視すれば、「蝦夷国」「粛慎国」と同様に『日本書紀』に記された九州王朝との関係(交流・交戦記事など)が確認できる国を有力候補とすべきです。その意味でも、「西」の大国候補の「隋」「唐」は共に『日本書紀』に見える国なので、方法論上の一貫性というハードルをクリアしています。
 それでは『日本書紀』に記された「南」の大国候補はあるでしょうか。九州島よりも南方にあると思われる国として、『日本書紀』には次の名前が見えます。初出記事のみ記します。

○「掖久」(屋久島か)推古二四年条(616年)
○「吐火羅」(トカラ列島か。異説あり)孝徳紀白雉五年条(654年)
○「都貨邏」(トカラ列島か。異説あり)斉明三年条(657年)
○「多禰嶋」(種子島か)天武六年条(677年)
○「阿麻彌人」(奄美大島か)天武十一年条(682年)

 以上のような地名が散見するのですが、「蝦夷国」「粛慎国」「唐」と並ぶ「南」の大国とは言いがたく、いずれも比較的小さな島(領域)のようで、候補地と見なすのは難しいと思われます。『日本書紀』にこだわらなければ『隋書』に沖縄県に相当すると思われる「流求國」が見えますが、先に述べた方法論上の一貫性を保持できません。そこで、「よみがえる『倭京』大宰府 ―南方諸島の朝貢記録の証言―」(『発見された倭京』収録)などの『日本書紀』に見える「南島」に関する論文を発表されている正木裕さん(古田史学の会・事務局長)のご意見を仰ぐことにしました。(つづく)


第1994話 2019/09/19

福島原発事故による古田先生の変化(3)

 古田先生が、ミネルヴァ書房版『ここに古代王朝ありき』巻末の「日本の生きた歴史(五)」(2010年8月6日)を執筆された翌年の3月11日に東北大震災が発生し、数日後には福島第一原発が爆発しました。この災難に「古田史学の会」も翻弄されました。とりわけ、「古田史学の会・仙台」の会員の方々と連絡がとれず、何ヶ月も憂慮する日々が続きました。東北大学ご出身の古田先生には尚更のことと思われました。たとえば、阪神淡路大震災のときも古田先生は被災者に心を痛められ、当時出版されたご著書の印税などを神戸市に寄贈されたこともあったほどですから。
 特に原発の爆発事故には深く関心を示されたようで、翌2012年11月20日には東京大学教授の安冨歩さんの著書『原発危機と東大話法』(2012年1月、明石書店)が古田先生から贈られてきました。今までも歴史関係の本や論文を頂いたことは少なくなかったのですが、この種の本を先生から頂いたのは初めてのことでした。
 そうしたこともあって、古田先生と原発問題などについて話す機会が増えました。そのことを記した「洛中洛外日記」を紹介します。

【以下、転載】
「洛中洛外日記」514話(2013/01/15)
「古田武彦研究自伝」

 12日に大阪で古田先生をお迎えし、新年賀詞交換会を開催しました。四国の合田洋一さんや東海の竹内強さんをはじめ、遠くは関東や山口県からも多数お集まりいただきました。ありがとうございます。
 今年で87歳になられる古田先生ですが、お元気に二時間半の講演をされました。その中で、ミネルヴァ書房より「古田武彦研究自伝」を出されることが報告されました。これも古田史学誕生の歴史や学問の方法を知る上で、貴重な一冊となることでしょう。発刊がとても楽しみです。
 当日の朝、古田先生をご自宅までお迎えにうかがい、会場までご一緒しました。途中の阪急電車の車中で、古代史や原発問題・環境問題についていろいろと話しました。わたしは、原発推進の問題を科学的な面からだけではなく、思想史の問題として捉える必要があることを述べました。
 原発推進の論理とは、「電気」は「今」欲しいが、その結果排出される核廃棄物質は数十万年後までの子孫たちに押しつけるという、「化け物の論理」であり、この「論理」は日本人の倫理観や精神を堕落させます。日本人は永い歴史の中で、美しい国土や故郷・自然を子孫のために守り伝えることを美徳としてきた民族でした。ところが現代日本は、「化け物の論理」が国家の基本政策となっています。このような「現世利益」のために末代にまで犠牲を強いる「化け物の論理」が日本思想史上、かつてこれほど横行した時代はなかったのではないか。これは極めて思想史学上の課題であると先生に申し上げました。
 すると先生は深く同意され、ぜひその意見を発表するようにと勧められました。賀詞交換会で古田先生が少し触れられた、わたしとの会話はこのような内容だったのです。古代史のテーマではないこともあり、こうした見解を「洛中洛外日記」で述べることをこれまでためらってきましたが、古田先生のお勧めもあり、今回書いてみました。
【転載おわり】

 おそらく、福島第一原発の爆発事故により、古田先生は核兵器や原発についての考察をより深め、考えを変えられたのではないかとわたしは推測しています。(つづく)


第1991話 2019/09/15

福島原発事故による古田先生の変化(2)

 今から10年ほど前のことです。「古田史学の会」役員の間に〝激震〟が走りました。「古田史学の会」全国世話人のAさんから、「古田先生は日本の自衛隊は核武装すべきと言っておられる」と驚きと共に心配のお電話がありました。Aさんは古田先生のご自宅の比較的近くに住んでおられたこともあり、古田先生と連絡を取り合う機会も多く、おそらくそうした個人的会話の中での先生の発言と思われます。そのとき、わたしがどのような返事をしたのかははっきりと記憶していませんが、否定はしなかったはずです。わたしは直接的な表現では聞いたことはありませんでしたが、古田先生がそうしたご意見を持っておられることに気づいていたからです。
 このようなことは、ほとんどの古田ファンや読者の方には信じてもらえないかもしれませんが、古田先生は常々、「世界最強の在日米軍が駐留している日本は真の意味での独立国家ではなく、そのため自衛隊には二流の兵器しか与えられていない」と語っておられました。そして自国の防衛は自国(一流の兵器を持った自衛隊)によってなされるべきと考えておられました。ですから、先生がいう「一流の兵器」とは、恐らく核兵器のことであろうとわたしは受け止めていました。しかし、先生から直接的な表現で自衛隊の「核武装」についてお聞きしたことはありませんでした。
 そのようなときに、次の一文を古田先生が発表され、わたしは驚愕したのでした。ミネルヴァ書房から復刊された『ここに古代王朝ありき』(2010年)巻末に付された「日本の生きた歴史(五)」の「第五 若者の頭脳」です。そこには放射能を発見したキュリー夫人の評価に触れ、次のように書かれています。

【以下、転載】
 (前略)
 事実、彼女(キュリー夫人)の娘イレーヌやその夫ジョリオが「発見」した人工放射能の秘密、またマイトナーやフェルミなど、ヨーロッパ・アメリカ文明の中から生まれた俊秀たちが「アッ!」というまに、「広島・長崎への原爆投下」の道を、その技術を切り開いたではありませんか。わたしの両親は広島(西観音町)でその洗礼を受けました。投下後、一週間して仙台から広島に帰り、傷死体の累積した市街をうろつきまわっていたわたしも、「第二次放射能の被爆者」です。いわば「広がる犠牲者」の末端に位置している人間の一人です。

       四

 わたしの言いたいこと、それは次の一点に尽きます。
 「わたしたちは未だに、キュリー夫人の願いに答えていない」
と。
 このような「巨大な爆発力」が実在する以上、それに〝打ち克つ力〟もまた、必ず実在するはずだ。
ーーわたしはハッキリとそう思っています。たとえば、
 第一、この「巨大爆発力」の研究がさらに進展して、「一発」で宇宙全体を〝吹き飛ばす〟能力を持ったとき、すなわちどの国もこれを「使用」することができなくなります。
 第二に、かりに「宇宙全体」ではなく、「地球全体」であったとしても、同じく「使用」できないのは、自明のことです。
 マイトナーやフェルミ段階では、その爆発力があまりにも「リトル」であり、「マイナー」だったから「使用可能」だったのです。

      五

 問題は、自然科学の分野にとどまりません。
 この「使用」は、人間の「個人」の手によるものではなく、同じく人間の「組織」によらなければならないこと、当然です。
 とすれば、そのような「人間の組織」に対してその組織の「生みの親」である人間の頭脳によって、徹底的な「再点検の手」が加えられなければなりません。「国連」も、「国家」も、「教会」も、「学校」も、「学会」も、そのすべてに対する徹底的な再批判です。
 それが最初にのべた「日本実証主義」の辿り、そして突き進むべき道です。わたしにはそう見えています。
 (後略)
【転載おわり】

 どう控えめに読んでも、この前半部分は相互確証破壊という核抑止理論と同様の考え方に基づいていることは明白でした。古田先生の持論を突き詰めれば、核兵器の使用(核戦争)をとどめるために一流の兵器による自国防衛という理論にたどり着くことも理解できないわけではありません。しかし、ここまであからさまな表現(「一発」で宇宙全体を〝吹き飛ばす〟)で発表されるとは思ってもいませんでした。
 この文が書かれた2010年8月6日は広島に原爆が投下された日です。当然、原爆の悲惨さを体験されている古田先生は、3度目の原爆投下をどうすればとどめることができるのか、考えに考え抜いて執筆されたことをわたしは疑えません。
しかしこの半年後、古田先生のこの考えを180度変えさせた大事件が発生します。2011年3月11日、東北大震災と福島第一原発の爆発事故です。(つづく)


第1990話 2019/09/14

福島原発事故による古田先生の変化(1)

 9月16日、東京の文京区民センターで『倭国古伝』出版記念講演会(古田史学の会・主催)を開催するのですが、お世話になった「東京古田会」「多元的古代研究会」の役員の方へのお土産を何にしようかと考えていました。そんなとき、明石書店からいただいた古田先生の『わたしひとりの親鸞』(明石選書。2012年12月発行)の「明石選書版 あとがき」の抜き刷り数冊が目に入り、それを明後日に持参することにしました。
 同「あとがき」前半には、和田家文書に記された親鸞が佐渡に流罪されたとする伝承が新潟県高田にも残っていたことなどが紹介されています。後半は、晩年の先生の持論であった「原水爆」「原発」を「人類の未来に対する敵」として、それを否定する宗教家・思想家、新宗教・新思想の誕生を訴えられています。この「あとがき」の末尾には「二〇一二年十月二十六日 古田武彦記了」とあります。同様の主張は各講演会や著書でも述べられており、古田ファンの方ならよくご存じのことと思います。
 しかし、30年という永い間、古田先生の謦咳に接してきたわたしは、この先生の崇高な思想や主張が困難に満ちた思想的格闘と変転の末に発せられたものであることを知っています。そうした先生の内奥で発展した仮説や思想について、その経緯をわたしが書き残しておかなければならないのではないかと思い、「洛中洛外日記」で取り上げることを決意しました。
 というのも、わたしが「先生からこのように聞いた」というようなことを書いたり発言したりすると、著書や論文を全て読んでもいない人から「古田先生はそんなことは言われていないし、著書にも書かれていない」とか「古賀が嘘をついている」などと批難されたこともあり、こうした〝小さな真実〟を記すことに躊躇することが多々ありました。しかし、わたしも還暦を過ぎ、来年65歳になります。記憶が鮮明なうちに、そして資料調査(ウラ取り)する体力があるうちに書き残しておかないと、後世、古田先生への誤解が生じたりするかもしれないと思い、少しずつでも用心深く、資料根拠を明示して書き残すことにしました。もし、わたしの記憶違いなどがあれば、是非、ご指摘下さい。(つづく)


第1989話 2019/09/13

わが家と梅原末治さんとの昔話

 わたしが上京区の拙宅で暮らすようになって30年ほどになります。拙宅は妻の実家で、元々は大黒屋地図店という当時日本では三店しかないという珍しい地図専門店でした。「宮内庁御用達」だったそうです。
 妻の祖父、山下喜代吉が創業したお店で、大学の先生などもお客様としてお付き合いが多かったとのこと。そのお一人に梅原末治さんもおられたようで、喜代吉さんは「梅原君は土や石ばかり扱っている」とよく話していたとのこと。昭和30年代中頃のことのようです。先に紹介した「筑前須玖遺跡出土のキ鳳鏡に就いて」(古代学第八巻増刊号、昭和三四年四月・古代学協会刊)という論文が発表された頃に当たります。なお、喜代吉さんは若い頃、淡路島で教師をしていたそうです。
 妻は古代史や考古学には興味はないのですが、その「梅原君」という名前は今でもはっきりと覚えており、おそらくお店にも梅原さんは出入りしていたのではないでしょうか。国土地理院発行の全国各地の地図も置いてありましたので、発掘や遺跡調査のために大黒屋地図店で購入されていたものと思います。
 また、妻の話では、お店には緑色に錆びた銅鐸(高さ約20cm)が飾ってあったそうで、妻が子供の頃に落としてしまい、「耳」の部分が割れたとのこと。それが本物なのかレプリカなのかはわかりませんが、梅原さんや京都大学とお付き合いがあったことなどを考えると、案外本物だったのかもしれません。割れた銅鐸がその後どうなったのかも不明で、「棄てたのではないか」などと恐ろしいことを妻は言っています。
 以上のように、京都に住んでいるといろんな話を聞くことが多いのですが、今回はわが家で伝えられてきた梅原末治さんのエピソードをご紹介させていただきました。