古賀達也一覧

第3249話 2024/03/14

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (4)

「船王後墓誌」に記された「阿須迦天皇之末歳次辛丑」(641年)の「末」について、「末とあっても末年とは限らない。治世が永ければその途中(崩御の六年前)でも末と表記できる」とする古田先生の解釈では、銘文に全く不要な「末」の一字を入れた理由の説明ができません。それでは、「阿須迦天皇」を舒明天皇とする通説ではどのような説明ができるでしょうか。「洛中洛外日記」(注①)などで述べてきましたが、改めて紹介します。わたしの理解は次の通りです。

(Ⅰ)舒明天皇は辛丑年(六四一)十月九日に崩じているが、次の皇極天皇が即位したのはその翌年(六四二年一月)であり、辛丑年(六四一)の十月九日より後は舒明の在位期間中ではないが、皇極天皇の在位期間中でもない。従って辛丑年(六四一)を「阿須迦天皇(舒明)の末」年(最後の一年)とする表記は適切である。

(Ⅱ)同墓誌が造られたのは「故戊辰年十二月に松岳山上に殯葬」とあるように、戊辰年(六六八年)であり、その時点から二七年前の辛丑年(六四一)のことを「阿須迦天皇(舒明)の末」の年で、年干支は「歳次辛丑」とするのは正確な表記であり、墓誌の内容として適切である。

(Ⅲ)同墓誌中にある各天皇の在位期間中の出来事を記す場合は、「乎娑陀宮治天下 天皇之世」「等由羅宮 治天下 天皇之朝」「於阿須迦宮治天下 天皇之朝」と、全て「○○宮治天下 天皇之世(朝)」という表記であり、その天皇が「世」や「朝」を「治天下」している在位期間中であることを示す表現となっている。他方、天皇が崩じて次の天皇が即位していないときに没した船王後の没年月日を記した今回のケースだけは在位中ではないので、治世中を意味する「世」や「朝」を使用せず、「末」という〝非政治的〟で、ある時間帯を示す字を用いて「阿須迦天皇之末」という表記にしており、正確に使い分けていることがわかる。

(Ⅳ)このように、同墓誌の内容(「阿須迦天皇之末」)は『日本書紀』の舒明天皇崩御から次の皇極天皇即位までの「空白期間」を「末」の一字を用いて正しく表現しており、「末」の一字の存在理由を説明できない古田新説(九州王朝の天皇)よりも通説(舒明天皇)の方がはるかに妥当である。

以上のわたしの指摘に対して、既に亡くなられていた古田先生はともかく(注②)、古田新説支持者からの反論は聞こえてきません。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1737~1746話(2018/08/31~09/05)〝「船王後墓誌」の宮殿名(1)~(6)〟
「『船王後墓誌』の宮殿名 -大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か-」『古田史学会報』152号、2019年。
②古田武彦氏は2015年10月にご逝去。古賀の最初の発表は2018年8月。古田氏の没後三年を経て発表したのは、〝古田先生の喪(三回忌)が明けるまでは、批判論文の発表は控える〟という自らの思いに従ったことによる。「洛中洛外日記」1531話(2017/11/02)〝古田先生との論争的対話「都城論」(1)〟で、そのこと(三回忌)について触れている。


第3248話 2024/03/13

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (3)

 「船王後墓誌」に記された「阿須迦天皇之末歳次辛丑」(641年)の「末」について、「末とあっても末年とは限らない。治世が永ければその途中(崩御の六年前)でも末と表記できる」とする古田先生の解釈を、かなりの無理筋としたのには理由があります。その主なものを以下に列挙します。

(a)古田先生の主張であれば、銘文に「末」の字は全く不要であり、「阿須迦天皇之歳次辛丑」(641年)だけでよい。治世の末年と理解される「末」の字をわざわざ入れる必要は全くない。それにもかかわらず「末」の一字を入れた理由の説明がなされていない。

(b)仮に、阿須迦天皇の治世を永く見積った場合、当時の九州年号は「仁王(12年)」「僧要(5年)」「命長(7年)」の三年号であり、合計しても24年(623~646)にしかならず、次の「常色」改元(647年)は6年も先のことだ。19年目の「歳次辛丑」(641年)を治世の「末」と表記するのは明らかに不自然である。これは、例えば「2024年10月」を「2024年末」というようなものである。普通に「2024年末」とあれば、年末の12月下旬頃と思うであろう。すなわち、10月を年末というくらい不自然な解釈なのである。
※「仁王元年(623)」の前年に九州王朝の天子、多利思北孤(上宮法皇)が崩御しており、仮に古田新説に従えば、「阿須迦天皇」の治世初年をこれ以前にはできない。

(c)そのような「末」表記に前例があったとしても、それは「末」の本義とは異なる少数例と思われ、その少数の可能性の存在を示すに過ぎない。少数例の方が、多数例よりも優れた有力な読解とできる史料根拠の明示と合理的な説明ができて、初めて〝論証した〟と言えるのだが、古田新説ではそれがなされていない。なぜなら、単なる可能性存在(しかも少数例)の「主張」を、学理上、「論証」とは言わないからである。これでは〝可能性だけなら何でもあり〟との批判を避けられないであろう。

(d)更に言えば、『日本書紀』の舒明天皇の没年と「阿須迦天皇之末歳次辛丑」(641年)は一致するが、古田新説では、これを〝偶然の一致〟と見なさざるを得ない。自説に不利な史料事実を〝偶然の一致〟として無視・軽視するのであれば、あまりに恣意的と言う批判を避けられないであろう。

 以上のように、船王後墓誌銘文に対する古田先生の読解は、「天皇は九州王朝の天子の別称」とする古田新説に不都合な金石文による批判を回避するための〝論証抜きの解釈〟と言わざるを得ません。とりわけ(c)の指摘は、〝論証とは何か〟という「学問の方法」に関する学理上の基本テーマです。従って、尊敬する古田先生には申し訳ないのですが、わたしは古田新説には従えないのです。(つづく)


第3247話 2024/03/12

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (2)

 近畿天皇家が天皇を称するのは王朝交代後の文武(701年)からとする古田新説にとって、最も不都合な金石文の一つに船王後墓誌がありました。その銘文は次の通りです。

惟舩氏故 王後首者是舩氏中祖 王智仁首児那沛故首之子也生於乎娑陀宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮 治天下 天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第三殯亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也

《訓よみくだし》
惟(おもふ)に舩氏、故王後首は是れ舩氏中祖王智仁首の児那沛故首の子なり。乎娑陀の宮に天の下を治らし天皇の世に生れ、等由羅の宮に天の下を治らしし天皇の朝に奉仕し、阿須迦の宮に天の下を治らしし天皇の朝に至る。天皇、照見して其の才異にして仕へて功勲有りしを知り、勅して官位、大仁、品第三を賜ふ。阿須迦天皇の末、歳次辛丑(641年)十二月三日庚寅に殯亡す。故戊辰年(668年)十二月に松岳山上に殯葬し、婦の安理故の刀自と共に墓を同じうす。其の大兄、刀羅古の首の墓、並びに作墓するなり。即ち万代の霊基を安保し、永劫の寶地を牢固せんがためなり。

 銘文に見える三人の天皇を通説では次のように比定しています。

乎娑陀宮治天下天皇 → 敏達天皇 (572~585)
等由羅宮治天下天皇 → 推古天皇 (592~628)
阿須迦宮治天下天皇 → 舒明天皇 (629~641年10月)

 この最後の阿須迦天皇の名前が墓誌には二度見えます。「阿須迦宮治天下天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第三」と「殯亡於阿須迦天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅」です。後者は「阿須迦天皇之末歳次辛丑」(641年)に船王後が亡くなったという記事ですが、この年が「阿須迦天皇之末」であり、その年干支は「歳次辛丑」(641年)とあることから、「阿須迦天皇」をこの年(舒明13年)の10月に崩御した舒明天皇とする通説が成立したわけです。

 この通説は古田新説にとって決定的に不都合なものでした。もし、「阿須迦天皇」が九州王朝の天子の別称であれば、治世の「末」年の「歳次辛丑」(641年)かその翌年に九州年号が改元されていなければならないからです。しかし、その時点の九州年号「命長二年」(641年)が改元されるのは、六年後の常色元年(647年)です(注)。これでは、「阿須迦天皇」を九州王朝の天子の別称とする古田新説は成立しません。天子が崩御したのに、改元されないことなど有り得ないからです。

 そこで古田先生が考え出されたのが、「末とあっても末年とは限らない。治世が永ければその途中(崩御の六年前)でも末と表記できる」という解釈でした。しかし、これはかなり無理筋の解釈で、古田旧説を支持するわたしと新説を唱えた先生との間で論争が勃発しました。(つづく)

(注)「歳次辛丑」(641年)に九州年号が改元されていないことを、最初に指摘したのは正木裕氏(古田史学の会・事務局長)である。


第3246話 2024/03/11

天皇銘金石文「船王後墓誌」の証言 (1)

 九州王朝(倭国)と近畿天皇家(後の大和朝廷)との関係について、古田先生は、701年の王朝交替より前は、倭国の臣下筆頭の近畿天皇家が七世紀初頭頃からナンバーツーとしての「天皇」号を称していたとされました(古田旧説。注①)。ところが晩年には、七世紀の金石文など(注②)に見える「天皇」はすべて九州王朝の天子の別称であり、近畿天皇家が天皇を称するのは王朝交代後の文武(701年)からとする新説を発表されました(注③)。

 わたしは一貫して古田旧説を支持していますが、その理由は、「天皇」銘を持つ七世紀の金石文・木簡や史料などが近畿地方で出土・伝来しており、その内容が『日本書紀』に記された近畿天皇家の事績と矛盾しないことなどによります。このテーマは七世紀の日本列島の真実の姿を明らかにするうえで重要なものです。今回は国宝に指定されている船王後墓誌の天皇銘について、改めて最新の考察を紹介することにします。(つづく)

(注)
①古田武彦『古代は輝いていたⅢ』「第二章 薬師仏之光背銘」(朝日新聞社刊、一九八五年)
②六~七世紀の「天皇」史料(金石文・木簡)
596年 元興寺塔露盤銘「天皇」 (『元興寺縁起』所載。今なし)
607年? 法隆寺薬師仏光背銘「天皇」「大王天皇」 (奈良県斑鳩町)
666年 野中寺弥勒菩薩像台座銘「中宮天皇」 (大阪府羽曳野市)
668年 船王後墓誌「天皇」 (大阪府柏原市出土)
677年 小野毛人墓誌「天皇」 (京都市出土)
680年? 薬師寺東塔檫銘「天皇」 (奈良市薬師寺)
天武期 飛鳥池出土木簡「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」「大津皇(子)」 (奈良県明日香村)
686・698年 長谷寺千仏多宝塔銅板「天皇」 (奈良県桜井市長谷寺)
③古田武彦『古田武彦が語る多元史観』「第六章 2飛鳥について」(ミネルヴァ書房、二〇一四年)


第3245話 2024/03/08

藤原宮(京)造営尺の再検討 (2)

 大阪歴博の李陽浩(リ・ヤンホ)さんの論文「第1節 前期・後期難波宮の中軸線と建物方位について」(注①)によれば、藤原宮朝堂院の中軸線の振れはN0゜38’31″E、造営尺の値は1尺=0.291~0.2925mとのことで、その出典は「奈良文化財研究所2004」とありましたので、『奈良文化財研究所紀要 2004』(注②)を精読しました。同紀要に収録された「朝堂院東南隅・朝集殿院 東北隅の調査 ―第128次」に、箱崎和久氏による報告がありましたので、要点を抜粋します。

「朝堂院東南隅・朝集殿院
東北隅の調査 ―第128次
(中略)
これまでの朝堂院の調査成果をふまえて朝堂院全体の配置計画を考えてみたい。朝堂院の振れには、本調査で得たN0°38′31″Wを用いる。(中略)
朝堂院北面回廊棟通り(表14-B)から第一堂北妻(表14-C)までの距離は29.2mで、第107次調査では、これを100尺と解釈した(『紀要2001』)。このとき、単位尺は1尺=0.292mとなる。第二堂北妻(表14-D)は、朝堂院北面回廊棟通り(表14-B)から84.6mだが、1尺=0.292mを援用すると289.8尺が得られる。これは290尺に相当しよう。これらは大尺を用いると完好な数値を得られない。(中略)朝堂院の全長は1102尺となる。これを1100尺とみて、南北長321.3mから単位尺を求めると、1尺=0.2921mが得られる。
これは朝堂院の南北長を900大尺(1080尺)と想定した場合よりも、朝集殿院の単位尺1尺=0.2925mに近い。
このように建物配置に関係する北面回廊棟通りからの第一堂北妻、第二堂の北妻の距離、朝堂院の南北規模といった地割りは、大尺では完好な数値を得られず、むしろ単位尺を1尺=0.2910~0.2925とする尺(令小尺)の方が合理的に説明できる。(中略)
以上のように、現段階の発掘データでは、朝堂院の規模と朝堂の配置は、尺(令小尺)の方が完好な計画値を得られる。」

 この報告の結論部分「単位尺を1尺=0.2910~0.2925とする尺(令小尺)の方が合理的に説明できる」を李さんは紹介されたのですが、この数値から判断して、藤原宮造営尺が前期難波宮造営尺(1尺=29.2㎝)と同じである可能性が高いと思われました。そうであれば次のことが想定できます。

(1) 前期難波宮整地層からの主要出土須恵器は坏GとHであり、藤原京整地層からの主要出土須恵器は坏Bであることから、両者の造営時期が『日本書紀』の記事(前期難波宮創建652年。藤原宮遷都694年)と整合している。従って、両宮殿の造営時期には約40~50年の隔たりがあるが、同じ造営尺が採用されている。両条坊造営尺(1尺=29.5㎝)も同様。

(2) 他方、670年頃と考えている大宰府政庁Ⅱ期の造営では、1尺=29.4㎝と30㎝(条坊造営尺)の併用が判明しており(注③)、前期難波宮・藤原宮造営尺と異なっている。

 今までは、前期難波宮(652年創建、29.2㎝)→大宰府政庁Ⅱ期(670年頃、29.4㎝)→藤原宮(694年遷都、29.5㎝)と、1尺が時代とともに長くなるという一般的傾向に対応していると考えてきましたが、それほど単純ではないようです。この現象をどのように説明できるのか、新たな課題に直面しました。〝学問は自説が時代遅れになることを望む領域〟というマックス・ウェーバーの言葉(注④)を実感しています。

(注)
①『難波宮址の研究 第十三』大阪市文化財協会、2005年。
②『奈良文化財研究所紀要 2004』奈良文化財研究所、2004年。
③古賀達也「九州王朝都城の造営尺 ―大宰府政庁の「南朝大尺」―」『古田史学会報』174号、2023年。
同「洛中洛外日記」2636~2641話(2021/12/14~20)〝大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(1)~(4)〟
④マックス・ウェーバー(1864-1920)『職業としての学問』(岩波文庫)1917年にミュンヘンで行われた講演録。
古賀達也「洛中洛外日記」2876話(2022/11/14)〝自説が時代遅れになることを望む領域〟


第3244話 2024/03/07

藤原宮(京)造営尺の再検討 (1)

 難波京条坊研究のため、関連報告書の再精査をしていて、わたし自身の認識の見直しを促す重要な指摘に気づきました。大阪歴博の古代建築の専門者、李陽浩(リ・ヤンホ)さんの論文「第1節 前期・後期難波宮の中軸線と建物方位について」(注①)の註に見える次の記事です。

 「(3)藤原宮朝堂院における近年の調査成果では、その中軸線の振れはN0゜38’31″Eとされる。また造営尺の検討では、大尺よりも小尺によるほうがより完好な数値を得ることができ、その値は1尺=0.291~0.2925mとされる[奈良文化財研究所2004:pp.98-99]。この藤原宮の中軸線の振れは、前期の振れN0゜39’56″Eと近似し、1尺=0.291~0.2925mという数値は、周知のように、前期難波宮推定造営尺1尺=0.292mにほぼ等しい。これら数値の関係は、前期難波宮と藤原宮との関係を考えるうえにおいて、極めて重要であると思われる。なお、近年韓国双北里では1尺=0.292mあるいは1尺=0.295mと考えられる定規が出土したことが知られる。[李ガンスン2000]。1尺=0.292mによる基準尺の存在を考えるうえで、注目すべき事例と考えられる。」94~95頁

 李さんに初めてお会いしたのは2012年12月、大阪歴博2階の難波塾でした。以来、前期難波宮や土器編年について何かと教えていただきました(注②)。そうしたこともあって、わたしが尊敬する考古学者のお一人です。その2004年の論文で紹介された藤原宮朝堂院の造営尺が同条坊尺の1尺=29.5㎝ではなく、前期難波宮の造営尺1尺=29.2㎝とほぼ同じという指摘に驚きました。藤原宮からは1尺=29.5㎝の定規が出土しており、木下正史『藤原京』(注③)に、次の説明がなされていることから、藤原宮も条坊も共に1尺=29.5㎝で造営されているものと思い込んでいました。

 「藤原宮からは一寸ごとに印をつけた一尺(復元長二九・五センチ)の木製物差しが出土している。長距離の測定や割り付けには間縄(けんなわ)なども使われたはずである。道路間の距離や大垣の柱位置の割り付けなどから復元できる物差しも、一尺の長さが二九・五センチとほぼ一定しており、きわめて精度の高いものであった。」84頁

 この説明をよく読むと、「道路間の距離や大垣の柱位置の割り付けなどから復元できる物差しも、一尺の長さが二九・五センチとほぼ一定」とあって、藤原宮の宮殿そのものの造営尺については触れていないようです。

 李さんの指摘によれば、藤原宮の造営尺は前期難波宮の造営尺29.2㎝に近く、条坊尺は両者ともに29.5㎝尺であり、中軸線の振り方向もほぼ同じという、これらの一致が何を意味するのか深く考える必要がありそうです。(つづく)

(注)
①『難波宮址の研究 第十三』大阪市文化財協会、2005年。
②古賀達也「洛中洛外日記」510話(2012/12/29)〝歴博学芸員・李陽浩さんとの問答〟
同「洛中洛外日記」511話(2012/12/30)〝難波宮中心軸のずれ〟
同「洛中洛外日記」512話(2012/12/31)〝難波宮の礎石の行方〟
同「洛中洛外日記」第756話(2014/08/01)〝森郁夫著『一瓦一説』を読む(6)〟
同「洛中洛外日記」884話(2015/02/27)〝「玉作五十戸俵」木簡の初歩的考察〟
同「洛中洛外日記」1034話(2015/08/23)〝前期難波宮の方位精度〟
同「洛中洛外日記」1399話(2017/05/17)〝塔心柱による古代寺院編年方法〟
同「洛中洛外日記」1905話(2019/05/23)〝『日本書紀』への挑戦、大阪歴博(1) 四天王寺創建瓦の編年〟
③木下正史『藤原京』中公新書、2003年。


第3243話 2024/03/06

『倭国から日本国へ』の目次

 『倭国から日本国へ』(『古代に真実を求めて』27集)の編集作業も最終工程(ゲラ三校)に入りました。これは編集部の校閲担当者3名(茂山憲史さん、西村秀己さん、古賀)で行いますが、締切が3月11日着なので忙しくしています。これが最終チェックですので、誤字誤植などを見落とすと、そのまま印刷し書店に並ぶため、責任重大です。わたしは視力が落ちていますので、ポイントが小さい字の大きさや字体チェックが困難ですが、茂山さんは大手新聞社にお勤めだったこともあり、そうした点まで見逃さない、頼もしい校閲作業のリーダー的存在です。

 4月上旬には発行したいと願っていますので、最終校閲作業が終わると、表紙カバーのデザインや価格設定などを明石書店と相談します。既に目次は決まっていますので、紹介します。

『古代に真実を求めて』27集 目次

【巻頭言】
三十年の逡巡を越えて 古田史学の会 代表 古賀達也

【特集】倭国から日本国へ
「王朝交代」と消された和銅五年(七一二)の「九州王朝討伐戦」 正木 裕
王朝交代期の九州年号 ―「大化」「大長」の原型論― 古賀達也
難波宮は天武時代「唐の都督薩夜麻」の宮だった 正木 裕
飛鳥「京」と出土木簡の齟齬 ―戦後実証史学と九州王朝説― 古賀達也
『続日本紀』に見える王朝交代の影 服部静尚
「不改常典」の真意をめぐって ―王朝交代を指示する天智天皇の遺言だったか― 茂山憲史
「王朝交代」と二人の女王 ―武則天と持統― 正木 裕
「王朝交代」と「隼人」 ―隼人は千年王朝の主だった― 正木 裕
倭国から日本国への「国号変更」解説記事の再検討 ―新・旧『唐書』における倭と日本の併合関係の逆転をめぐって― 谷本 茂
《コラム》「百済人祢軍墓碑銘」に〝日本〟国号はなかった! 谷本 茂

【一般論文】
『隋書』の「俀国」と「倭国」は、別の存在なのか 野田利朗
『隋書』の「倭国」と「俀国」の正体 日野智貴
倭と俀の史料批判 ―『隋書』の倭國と俀國の区別と解釈をめぐって― 谷本 茂
多元的「天皇」号の成立 ―『大安寺伽藍縁起』の仲天皇と袁智天皇― 古賀達也
法隆寺薬師仏光背銘の史料批判 ―頼衍宏氏の純漢文説を承けて― 日野智貴
伊吉連博徳書の捉え方について 満田正賢
『斉明紀』の「遣唐使」についてのいくつかの疑問について 阿部周一
俾彌呼の鏡 ―北九州を中心に分布する「尚方作鏡」が下賜された― 服部静尚

【フォーラム】
海幸山幸説話 ―倭国にあった二つの王家― 服部静尚
豊臣家の滅亡から九州王朝の滅亡を考える 岡下英男

【付録】
古田史学の会・会則
古田史学の会・全国世話人名簿
編集後記


第3241話 2024/03/04

『多元』180号の紹介

 友好団体の多元的古代研究会機関紙『多元』180号が届きました。同号には拙稿〝九州王朝の両京制を論ず(二) ―観世音寺創建の史料根拠―〟を掲載していただきました。同紙178号にあった、上城誠氏の「真摯な論争を望む」への反論の続編です。

 わたしの観世音寺創建白鳳十年(670年)説に対して、上城稿には「その史料操作にも問題がある。観世音寺の創建年代を戦国時代に成立の『勝山記』の記述を正しいとする方法である。(中略)史料批判が恣意的であると言わざるを得ない。」との論難がありましたので、

 〝「史料操作」とは学問の禁じ手であり、理系論文で言えば実験データの改竄・捏造・隠蔽に相当する、研究者生命を失う行為だ。たとえば「古賀の主張や仮説は間違っている」という、根拠(エビデンス)と理由(ロジック)を明示しての批判であれば、わたしはそれを歓迎する。しかし、古賀の「史料操作にも問題がある」などという名誉毀損的言辞は看過できない。しかも、『勝山記』をわたしがどう「史料操作」したのかについて、触れてもいない。〟

 と指摘し、これまで多くの論文で明示した史料根拠と、「洛中洛外日記」の観世音寺関連記事リストを紹介しました。続編「九州王朝の両京制を論ず(三) ―「西都」太宰府倭京と「東都」難波京―」を執筆中ですが、そこでは太宰府廃都を伴う難波遷都ではなく、太宰府倭京と難波京の両京制とする説へ発展した理由など近年の研究成果を紹介する予定です。

 同号には西坂久和さん(昭島市)の「まちライブラリー@MUFG PARKの紹介」が掲載されており、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)のご尽力と古田先生や会員からの図書寄贈(注)により開設された、アイサイトなんば(大阪府立大学なんばキャンパス)の「古田武彦コーナー」が、昨年より西東京市の「まちライブラリー@MUFG PARK」に移設されたことが紹介されました。これは、大阪公立大学の発足に伴い、アイサイトなんばのライブラリーが廃止されたことによるものです。

 「まちライブラリー@MUFG PARK」は西東京市柳沢四丁目にあり、JR中央線吉祥寺駅・三鷹駅などからバスで15分、武蔵野大学下車すぐです。図書は三冊・二週間まで借り出し可能で、インターネットで蔵書検索が可能とのことです。古田先生の著書や「古田史学の会」の会報・論集などが揃っており、古田史学や古田学派の研究論文調査に役立つことと思います。

(注)古田先生からは『廣文庫』一式などが寄贈された。『廣文庫』(こうぶんこ)は明治時代の前の文献(和漢書・仏書・他)からの引用文を集大成した資料集。物集高見により大正七年(1918年)に完成した。全20冊。


第3240話 2024/03/02

公開シンポ「高地性集落」論のいま

 昨日、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からのメールで、同志社大学今出川キャンパスにおいて〝「高地性集落」論のいま〟というテーマで公開シンポジウムが開催されることを知り、急遽、先約をキャンセルして、本日の公開シンポに参加しました。正木さん竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)、大原重雄さん(『古代に真実を求めて』編集部)をはじめ何名かの会員の皆さんのお顔も見えました。

 同シンポは高名な考古学者、森岡秀人先生が研究代表をされた〝2020年~2023年度科学研究費助成事業「弥生時代高地性集落の列島的再検証」〟の成果公開・普及シンポジウムで、副題は「半世紀ぶりの研究プロジェクトの成果と課題」というもの。昨年、「古田史学の会」講演会で講演していただいた若林邦彦さん(注①)が、開催校の教授として中心的に関わっておられていましたので、お礼を兼ねてご挨拶しました。

 発表者は17名(一人20分)に及び、高地性集落の研究動向に大きな変化が起きていることがわかりました(注②)。わたしとしては、個々の論点とは別に、研究動向変化の背景や事情に関心を覚えました。その解説は別途行いたいと思います。

 会場で出版物の販売も行われており、『古代武器研究』Vol.3(2002年)を購入しました。同書は2002年1月、滋賀県立大学で開催された第三回古代武器研究会の記録集です(注③)。その討論会の発言者に古田先生の名前があり、購入したものです。古田先生の発言部分を引用します。

 「古田武彦でございます。先ほど、韓国の5世紀末ですか、そのころに非常に深く鋭い軍事施設が作られているという報告がございました。非常に感銘いたしました。それは、結局、倭の五王であり、朝鮮半島で激戦が繰り返されていた時期だと思いますので、当然のことだろうと思います。
ところが、その当然のことが、日本列島に来ると、何も全然軍事的な防御もせずに平和そのものであるというのは、ちょっとおかしいと思うんです。というのは、韓半島で闘っているのは、百済だけではなく、倭の軍隊が、ある意味では百済以上の軍事力を発揮していたと思いますので、その倭国へ高句麗や新羅側からの反撃がないと、たかをくくっていたとはちょっと考えにくいわけです。

 そうしますと、今日あそこにポスターセッションさせていただきましたが、神籠石と呼ばれる明らかな軍事施設、しかも防御施設、それが延々と築かれているわけです。これは太宰府、筑後川流域を囲んで作られているわけです。展示しましたのは、皆さんよくご存じの高良山とか、そういう中心部分のものはよく写真、本に出ていますので、むしろあまり出ていない御所ヶ谷とか、おつぼ山の写真だけを載せたのですが、非常に鋭く深い軍事要塞の痕跡が残っているわけです。

 あれは、天皇陵を作るのと、どちらが巨大な労力がいったか、簡単には言えないのですが、私はむしろあちらの神籠石のほうが、よりしんどかったのではないか。というのは、天皇陵は平地へ作る場合が多いですが、あそこは山の中腹から上方に、巨大な石を延々と人間が当然運び上げて、はりめぐらせているわけですから、経済的にも政治的にも、軍事的にも、大変な犠牲をはらって造られたことは、まず疑うことはできないわけです。
ところが、それが大和を囲んでいればいいのですが、いまの太宰府、筑後川流域を囲んでいるために、これに対する軍事的な評価をせずに、いままできているのではないか。

 早い話が、中学にも高等学校の教科書にも、全く神籠石の図は出ておりません。出ると、子どもに質問されたら、先生は答えにくいと思うんですね。何で、倭の五王は大和朝廷なのに、大和を囲まずに太宰府、筑後川流域だけを囲んだ軍事施設を作ったんですかと言われたらごまかさずに答えるというのはたいへん難しいと思うんです。

 要するに、いま話題になっている、古墳時代の日本における防御的軍事施設というテーマの際に、神籠石の問題にノータッチで論じたのでは、本当の議論は、失礼ですができないのではないか。
かつては白村江以後に作られたという説もありましたが、いまはさすがにそういう人はいないようで、武雄市教育委員会で出された報告書でも、6世紀ないし7世紀に作られた、つまり白村江以前に作られたというふうに、何人かの方々の意見を集約して書かれています。
そういうことで、長々申すつもりはございませんが、いわゆる神籠石問題を視野に入れて、いま出ております軍事的防御施設の問題を論じていただければありがたい。お願いでございます。」

 実はこのときの古代武器研究会に、先生のポスターセッションのお手伝いとして、わたしも参加していましたので、『古代武器研究』を読んでいて、当時のことを懐かしく思い出しました。そのときの緊迫した状況など、別の機会に紹介したいと思います。
なお、本日のシンポジウムの参加者は二百名を越え、一般市民の参加が三割ほどもあり、代表として閉会の挨拶をされた森岡先生から、「市民の協力があって、わたしたち考古学者は研究ができます。研究者だけてはできません。」とお礼の言葉があり、会場からは大きな拍手が起こりました。朝の九時半から夕方五時半過ぎまで、聞いている方にとってもハードな研究発表が続きましたが、考古学における学問の方法や、「高地性集落」研究が抱えている難しさもわかり、とても勉強になりました。

(注)
①『九州王朝の興亡』(『古代に真実を求めて』26号、明石書店)出版記念講演会。2023年6月17日、会場:エルおおさか。
講師/演題。
若林邦彦さん(同志社大学歴史資料館・教授)/「大阪平野の初期農耕 ―国家形成期遺跡群の動態」
正木 裕さん(古田史学の会・事務局長)/「万葉歌に見る九州王朝の興亡」
②従来は、高地性集落を防御など軍事的な視点で論じられてきたが、近年では海上活動や流通経済、船舶航行のためのランドマークなど多角的な視点での研究が重視されている。
③伊東義彰「第三回古代武器研究会を傍聴して」『古田史学会報』48号、2002年。(報告は下にあります。)


第3239話 2024/02/28

二つの「薩摩国一宮」の真実

 南九州に遺る「天智天皇」行幸伝承や「天智の后」とされる大宮姫伝承の再検討を進めていて、不思議なことに気づきました。それは薩摩には一宮が二つあることです。一つは薩摩国府(薩摩川内市)にある新田神社、もう一つが開聞岳の麓、指宿市の枚聞(ひらきき)神社です。ちなみに、この「ひらきき」の当て字に「開聞」が使用され、後に山名は開聞岳(かいもんだけ)と呼ばれるようになり、本来の地名「ひらきき」は神社名に遺ったようです。

 通常、一宮や国分寺・国分尼寺などその国を代表する寺社は、国府またはその近傍にあるもので、薩摩国は古代の国府があったとされる薩摩川内市にある新田神社が一宮であるのは理解できますが、薩摩半島の最南端(指宿市)にある枚聞神社が本来の一宮であったことは、何とも不思議です(注①)。この経緯について、ウィキペディアには次の解説がなされています。

〝一宮 新田神社(薩摩川内市) 式外社。国府の近くにあった。
元々の一宮は枚聞神社であった。鎌倉時代ごろから、新田神社が擡頭して枚聞神社と一宮の座を争うようになり、鎌倉時代末から南北朝時代のころに守護の島津氏の力を背景に新田神社が一宮となった。明治時代に定められた社格も新田神社の方が上になっている。日本全国の一宮が加盟する「全国一の宮会」には両社とも加盟している。 〟(Wikipedia)

 わたしは学生時代に指宿市・枕崎市を旅行したことがあります。秀麗な開聞岳(薩摩富士)がある良い観光地ですが、薩摩半島最南端であり、国府を置くには適切な地とは思われませんので、そこに一宮(枚聞神社)があることは不思議です。しかも、大和朝廷(日本国)時代の国府があった薩摩川内市からもかなり離れています。この現象を説明できる最有力の仮説が、当地や南九州に遺る「天智天皇」巡幸説話、頴娃(えい)郡出身の「大宮姫」伝承を九州王朝に関わる史実の反映とする仮説です。従って、大枠に於いては36年前に発表した拙論「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」(注②)には、未熟ではありますが、学問的意義が残されているように思うのです。(つづく)

(注)
①薩摩国内主要施設
薩摩国府 薩摩川内市
薩摩国分寺 薩摩川内市(国分寺跡)
薩摩国分尼寺(推定) 薩摩川内市
一宮 新田神社 薩摩川内市
枚聞神社 指宿市
②古賀達也「最後の九州王朝 ―鹿児島県「大宮姫伝説」の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。


第3238話 2024/02/26

『開聞古事縁起』に見える「中宮明神」

 指宿市から出土した暗文土師器の探索から始まった今回のテーマは、思わぬ研究余滴をもたらしました。その一つが『開聞古事縁起』「一、當末神末社之事」に見える「中宮明神」の記事です。当該部分を転載します。

「中宮明神 在知覧之下郡名
天智帝皇子開聞后宮御子云々。第二宮也イ。別當知覧持寶院真言宗往古ノ別當ハ有中宮寺ト云。真言宗社寺有八箇寺云傳。」

 この記事によれば、開聞神らを祀る枚聞神社(指宿市)の末神末社として、知覧(鹿児島県南九州市)に「中宮明神」があり、それは天智の皇子であり開聞后宮(大宮姫)の御子とあります。「第二宮也イ」とあることから、この伝承には「イ」(異伝)があるようです。そこで『三國名勝圖會』を調査したところ、次の記事がありました。

「神社
正一位山口六社大明神(中略)安楽村にあり、祭神六座 天智天皇、倭姫、玉依姫、大友皇子、 持統天皇、乙姫宮是なり、(中略)按ずるに初め 天智天皇頴娃(えい)へ行幸し玉ふや、當邑に船を着られ、頴娃に到り、復此地に路を取りて還幸あり、 天皇崩後、和銅元年六月十八日、 天皇の廟を御在所嶽に建て、山宮大明神と號す、事は前條御在所嶽に記すが如し、又大友皇子の靈社を、御在所嶽の山下に創建す、山口大明神と號す、山口とは、山宮の口に建る故、名を得たりとぞ、(中略)其後鎭母(ジツボ)神社、〈 天智天皇の后倭姫を祭る、〉若宮、〈 持統天皇を祭る、 天智天皇の第二女にして、 天武天皇の后となる、〉中之宮、〈 天智天皇の妃、玉依姫なり、頴娃の人、 天智天皇の妃となる、〉蒲葵御前社、〈 天智天皇の妃、玉依姫の所生なり、〉の四社あり、是と彼山宮神社、〈 天智帝〉及び此山口神社、〈大友皇子、〉を合せて、凡六社、所々に散在す、」
「神社合記 中之宮大神社 安楽村にあり、祭神 天智帝の妃玉依姫なり、(中略)◁鎭母(ジツボ)大明神社 安楽村にあり、祭神、 天智天皇の后、倭姫なりといふ、祭祀正月未日、打植祭と號す、往古は山口六社の一なりとぞ、」『三國名勝圖會』巻之六十 日向國 諸縣郡

 宮崎県(日向國)では、「中之宮」「中之宮大神社」とあり、天智の「妃」の玉依姫とされています。他方、倭姫は天智の「后」と書き分けられており、鹿児島県(薩摩國)の伝承、天智の「后」としての大宮姫とはやや異なります。恐らく、宮崎側の伝承の方が『日本書紀』の影響を強く受けて、頴娃(えい)出身の「玉依姫」と記し、その立場も「后」ではなく、下位の「妃」としています。大宮姫もこの玉依姫も開聞岳がある頴娃の出身としていますから、同一人物の伝承と思われます。

 この頴娃出身の大宮姫(玉依姫)が、「中宮明神」や「中之宮」「中之宮大神社」に祭られていることに気づき、とても驚きました。三十数年前の研究時点(注①)では、この神社名・祭神の持つ意味に気づきませんでした。現在の研究水準では、野中寺(注②)の彌勒菩薩像台座銘に見える「中宮天皇」を天智の后の倭姫王とし、九州王朝出身の姫とする見解が古田学派内では有力視されており、その「中宮」を、天智の后(妃)の大宮姫のこととして祭っている神社が鹿児島や宮崎にあることは、偶然とは思えないのです。

 ちなみに、「中宮天皇」を九州王朝の天子、筑紫君薩夜麻の后とする説をわたしは「古田史学の会」関西例会(2011年7月)で発表しました(注③)。他方、「中宮天皇」を天智の后の倭姫王であり、大宮姫(『開聞古事縁起』)、薩摩比売(『続日本紀』)のこととする説を正木裕さんが発表しています(注④)。また、「中宮天皇」を九州王朝の天子(女帝)で倭姫王のこととする説を服部静尚さんが発表しています(注⑤)。なお、「中宮天皇」を倭姫王とする説は喜田貞吉氏が早くから発表しています。今回、大宮姫(玉依姫)を「中宮」として祭る神社の発見は、正木説を支持するものではないでしょうか。(つづく)

(注)
①)野中寺弥勒菩薩像銘 大阪府羽曳野市 丙寅年(666年)
「丙寅 年四 月大 旧八 日癸 卯開 記栢 寺智 識之 等詣 中宮 天皇 大御 身労 坐之 時請 願之 奉弥 勒御 像也 友等 人数 一百 十八 是依 六道 四生 人等 此教 可相 之也」
②古賀達也「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
③古賀達也「洛中洛外日記」327話(2011/07/23)〝野中寺彌勒菩薩銘の中宮天皇〟で紹介した。

 「7月16日の関西例会で、わたしは野中寺の弥勒菩薩銘にある「中宮天皇」を九州王朝の天子(薩夜麻)の奥さんのこととする、仮説以前のアイデア(思いつき)を発表しました。中宮天皇の病気平癒を祈るために造られた弥勒菩薩像のようですが、銘文中の中宮天皇について、一元史観の通説では説明困難なため、偽作説や後代造作説なども出ている謎の仏像です。
造られた年代は、その年干支(丙寅)・日付干支から666年と見なさざるを得ないのですが、この年は天智5年にあたり、天智はまだ称制の時期で、天皇にはなっていません。斉明は既に亡くなっていますから、この中宮天皇が誰なのか一元史観では説明困難なのです。

 従って、大和朝廷の天皇でなければ九州王朝の天皇と考えたのですが、この時、九州王朝の天子薩夜麻は白村江戦の敗北より、唐に囚われており不在です。そこで、「中宮」が後に大和朝廷では皇后職を指すことから、その先例として九州王朝の皇后である薩夜麻の后が中宮天皇と呼ばれ、薩夜麻不在の九州王朝内で代理的な役割をしていたのではないかと考えたのです。」
④正木 裕「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その1)」『古田史学会報』145号、2018年。
同「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その2)」『古田史学会報』146号、2018年。
「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その3)」『古田史学会報』147号、2018年。
同「大宮姫と倭姫王・薩末比売」『倭国古伝』(『古代に真実を求めて』22集)古田史学の会編、2019年、明石書店。
⑤服部静尚「野中寺弥勒菩薩像銘と女帝」『古田史学会報』163号、2021年。
同「中宮天皇 ―薬師寺は九州王朝の寺―」『古代史の争点』(『古代に真実を求めて』25集)古田史学の会編、2022年、明石書店。
本薬師寺は九州王朝の寺 服部静尚(会報165号)


第3237話 2024/02/25

「紀尺」による開聞岳噴火年代の検討

 紫コラの発生源となった貞観十六年(874)の開聞岳噴火記事は『日本三代実録』に記載されていることから、史実と見なされていますが、次の二つの噴火記事は信用できないとして、学問研究の対象とはされてきませんでした。

(A)「神代皇帝紀曰、第十二代懿徳天皇御宇(前510~前477年)、薩摩國開聞山涌出」『三國名勝圖會』巻之二十三 薩摩國 頴娃郡 開聞嶽

(B)「開聞神社縁起曰、第十二代景行天皇二十年(90年)、庚寅十月三日、一夜涌出、此等涌出の説あれども、皆日本書紀に載せざれば、確説に取りがたし、盖此嶽は、荒古より天然存在せしならん」『三國名勝圖會』巻之二十三 薩摩國 頴娃郡 開聞嶽
「景行天皇廿年(90年)庚寅冬十月三日之夜、國土震動風雷皷波而彼龍崛怱湧出于此界、屼成難思嵩山。卽其跡成池。今池田之池此也。」『開聞古事縁起』

 (A)は今から約2500年前、(B)は約2000年前の噴火記事であることから、荒唐無稽と考えられてきたものと思われます。しかし、この考えでは、なぜ2500年前や2000年前を示す具体的な年次(皇暦による)の伝承が成立し、後世の人々もその伝承を〝是〟として伝え続けてきた理由の説明が困難です。

 わたしは、史実に基づく噴火伝承の年次を、当時の何らかの暦法で伝えたもので、『日本書紀』成立後はその皇暦に換算したのではないかと考えています。古田先生は皇暦による年代特定方法を「紀尺」と名付け、従来、荒唐無稽とされてきた皇暦による年次が記されている古代伝承を、史実の反映としての再検証の必要性を提唱しました(注①)。

 古田先生が提唱した「紀尺」で、(A)2500年前、(B)2000年前という年次と気象庁ホームページの開聞岳の説明との整合が注目されます。

【気象庁ホームページ 「開聞岳」】(注②)
〝開聞岳は、約4,400年前に噴火を始めた。初期の活動は、浅海域での水蒸気マグマ噴火であった。溶岩を流出する噴火を繰り返し、約2,500年前には現在とほぼ同じ規模の山体が完成していたものと推定されている。約2,000年前と1,500年前の活動では噴出量が多く、成層火山体の形成に大きく寄与した。その後、歴史時代の874年及び885年の噴火で山頂付近の地形が大きく変化し、噴火末期に火口内に溶岩ドームが形成された。〟

「約2,500年前には現在とほぼ同じ規模の山体が完成」が(A)に相当し、「約2,000年前と1,500年前の活動では噴出量が多く、成層火山体の形成に大きく寄与」の「約2,000年前」が(B)に相当します。「1,500年前の活動」に対応する史料は今のところ見当たりません。こうした火山噴火の痕跡と、文献に遺された噴火記事との二つの一致を偶然と見るよりも、史実を反映した「紀尺」を用いた伝承と考えたほうがよいのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「『日本書紀』は時のモノサシ ―古田史学の「紀尺」論―」『多元』170号、2022年。
同「洛中洛外日記」26832687話(2022/02/15~20)〝古田先生の「紀尺」論の想い出 (1)~(4)〟
②気象庁ホームページ「開聞岳」のアドレス。
https://www.data.jma.go.jp/svd/vois/data/fukuoka/507_Kaimondake/507_index.html