古賀達也一覧

第1785話 2018/11/15

「新・八王子セミナー2018」のハイライト

 11月10〜11日に開催された「古田武彦記念 古代史セミナー2018」(新・八王子セミナー。於:大学セミナーハウス)に参加しました。京都の拙宅から片道5時間ほどの旅程で、ちょっとハードでしたが、緊張感に満ちたとても刺激的なセミナーでした。なお、前日の夜、大阪で化学系学会の理事会があり、わたしは全国から集まった理事会のメンバーと夜遅くまで飲んでいたこともあって、初日はちょっと疲れ気味でした。
 同セミナーではハイライトともいうべきシーンがいくつかありました。最初は、会場に到着して食堂で昼食をとろうとしたとき、先に着かれていた東京古田会の橘高事務局長のお招きで、主催者・関係者用のテーブルに座ったのですが、そこに記念講演をされる山田宗睦さんがおられたのです。山田先生とはシンポジウム「邪馬台国」徹底論争(昭和薬科大学諏訪校舎)でお会いしたとき以来で、27年ぶりの再会でした。山田先生もわたしのことを憶えておられ、堅い握手を交わしました。とても93歳とは思われないほどお元気で、見た目も当時とあまり変わっておられないように思われました。同シンポジウムでは山田先生は総合議長を担当され、わたしは実行委員会で裏方でした。また機会があれば当時のエピソードについてご紹介したいと思います。
 一日目の研究発表では安彦克己さん(東京古田会・副会長)の和田家文書中の法然(源空)の「一枚起請文」(和風漢文。「建暦元年」の日付がある)の紹介と研究が優れていました。金戒光明寺(京都市左京区)に現存する「一枚起請文」(建暦二年〔1212年〕)に先だって成立したものではないかとする仮説は日本思想史のテーマとしても興味深いものでした。
 二日目は、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が「七世紀末の倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への権力移行」というテーマで、「大化改新」を多元史観により史料批判され、王朝交替期の実態について報告されました。内容も発表の仕方も優れたもので、今回のセミナーでも出色の研究発表ではないかと思いました。
 更に、司会の大墨伸明さん(多元的古代研究会)からの、改新詔を九州王朝が公布したとする古田説と正木説との〝齟齬〟についての指摘は重要な視点でしたが、質疑応答の時間がないため十分に討論できなかったことが惜しまれます。今回の正木仮説の本質は「大化改新詔(皇太子奏上)」を近畿天皇家主導によるものとした点にあり、これは九州王朝最末期において近畿天皇家が九州年号「大化」を用いて自らの詔勅を出した、あるいは『日本書紀』に記したことを意味します。是非とも論議を深めて欲しいテーマでした。このような優れた発表とそれに対しての鋭い指摘・質問は学問を深化発展させますから、古田学派のセミナーにふさわしいものと思われました。
 藤井政昭さんの「関東の日本武尊」も素晴らしい内容でした。景行紀の「日本武尊」説話に関東の王者の伝承が取り込まれているというもので、来春発行の『古代に真実を求めて』にも藤井論文を掲載予定です。
 この他にも信州関連の研究として、鈴岡潤一さん(邪馬壹国研究会・松本)の「西暦700年の〈倭国溶暗〉と地方政治の展開」、吉村八洲男さんの「『しなの』の国から見る『磐井の乱』」も面白い発表でした。
 閉会のご挨拶で、主催された荻上紘一先生(大学セミナーハウス前館長、古田先生の支持者)から、来年も開催したいとの提案がなされ、参加者の拍手で承認されました。次回も古田学派の全国セミナーにふさわしい研究発表が期待されます。


第1783話 2018/11/09

九州王朝と大和朝廷の難波と太宰府

 拙稿「前期難波宮は九州王朝の副都」(『古田史学会報』八五号、二〇〇八年四月)で前期難波宮九州王朝副都説を発表してから十年になりますが、今でも様々なご批判をいただくことがあります。最近でも、〝難波は九州ではない。だから難波に九州王朝の副都などあるはずがない〟という趣旨の批判があることを知りました。
 この種の批判は、わたしが副都説を発表する際に最初に想定したものでした。というよりも、わたし自身が副都説に至る思考の最中に自らに発した問いでもありました。ですから、こうした批判が出ることは当然であり、驚くには及ばないのですが、この種の批判に対してこの十年間に何回も説明・反論してきたにもかかわらず、未だに出されるということに、自らの説明の不十分さを思い知らされました。わたしは〝学問は批判を歓迎する〟と考えていますので、どのように説明したらこの種の批判に対して効果的かを考えてみました。
 ちなみに今までは次のように説明してきました。

①九州王朝は列島の代表王朝であり、必要であれば自らの支配領域のどこに副都を置こうが問題はない。
②中国や朝鮮半島諸国・渤海国には副都(複都)を置く例があり、むしろ複都を持つことが当然のようでもある。従って九州王朝(倭国)が副都を置くのは当然でもある。
③新羅の例では、かつての敵地(百済)に副都を置いている。従って、九州王朝が難波に副都を置いても不思議とはいえない。
④『日本書紀』天武紀に信州に「都」を置こうとした記事があり、古田先生はこの記事を九州王朝の「信州遷都計画」とされた。従って、古田説支持者であれば、信州よりも九州に近い難波に九州王朝が副都を置くことはありえないとは言えないはずである。もちろん、学問研究である以上、古田先生と異なる説を唱えることに何も問題はない。わたしの副都説も古田先生の見解とは異なるのであるから。

 以上の説明では納得していただけない方があるため、わたしは新たに次の説明を加えることにしました。

⑤近畿天皇家は列島の代表王朝となった大宝元年に『大宝律令』を制定し、九州島支配のため「大宰府」を置き、難波には摂津職を置いた。
⑥〝福岡県太宰府市は大和(奈良県)ではない。だから大和朝廷が福岡県に大宰府を置くはずがない〟という批判は聞いたことがない。
⑦同様の理屈から、摂津難波に九州王朝が副都を置いたとする説に対して〝難波は九州ではない〟などという批判が成立しないことは当然であろう。
⑧大和朝廷が『大宝律令』に基づき、筑前に「大宰府」を置き、難波に摂津職(後の難波副都)を置いたように、九州王朝が九州王朝律令に基づき太宰府に都を置き、難波に副都(摂津職)をおいたとしても何ら不思議ではない。
⑨大和朝廷は九州諸国を監督する「大宰府」を筑前に置くことができるが、九州王朝は摂津難波に副都を置くことはできないとするのであれば、その理由の説明が必要。

 以上のような新たな説明を考えてみました。これなら理解していただけるのではないでしょうか。もし納得していただけないとすれば、どのような説明が必要なのか、わたしはあきらめることなく考えてみます。〝学問は批判を歓迎する〟のですから。


第1780話 2018/11/04

滋賀県蜂屋遺跡出土の法隆寺式瓦(2)

 滋賀県栗東市の蜂屋遺跡からの法隆寺式瓦大量出土について、古田史学・九州王朝説としてどのように考えられるのかについて、わたしの推論を紹介します。報道によれば今回の出土事実の要点は次の通りです。

①創建法隆寺(若草伽藍。天智9年〔670〕焼失)と同笵の「忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦」2点(7世紀後半)が確認された。
②現・法隆寺(西院伽藍。和銅年間に移築)式軒瓦が50点以上確認された。
③創建法隆寺(若草伽藍)の創建時(六世紀末〜七世紀初頭)の創建瓦(素弁瓦)は出土していないようである。

 報道からは以上のことがわかります。発掘調査報告書が刊行されたら精査したいと思いますが、これらの状況から九州王朝説では次のように考えることが可能です。

④創建法隆寺(若草伽藍)を近畿天皇家による建立とすれば、蜂屋遺跡で同笵の「忍冬文単弁蓮華文軒丸瓦」(7世紀後半)を製造した近江の勢力は近畿天皇家と関係を持っていたと考えられる。
⑤近年、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は創建法隆寺(若草伽藍)も九州王朝系寺院ではないかとする仮説を表明されている。この正木仮説が正しければ、蜂屋遺跡の近江の勢力は九州王朝と関係を持っていたこととなる。
⑥現・法隆寺(西院伽藍)は九州王朝系寺院を近畿天皇家が和銅年間頃に移築したと古田学派では捉えられており、その法隆寺式瓦が大量に出土した蜂屋遺跡の勢力は八世紀初頭段階で近畿天皇家との関係を持っていたと考えられる。
⑦この④⑤⑥の推論を考慮すれば、蜂屋遺跡の近江の勢力は斑鳩の地を支配した勢力と少なくとも七世紀初頭から八世紀初頭まで関係を継続していたと考えられる。
⑧近江の湖東地域はいわゆる「聖徳太子」伝承が色濃く残っている地域であることから、蜂屋遺跡の勢力も701年以前は九州王朝と関係を有していたのではないかという視点で、斑鳩の寺院との関係を検討すべきである。

 おおよそ以上のような論理展開(推論)が考えられます。もちろんこれ以外の展開もあると思いますので、引き続き用心深く蜂屋遺跡の位置づけについて考察を続けたいと思います。

 なお、近江の湖東地方における九州王朝の影響については「洛中洛外日記」809話「湖国の『聖徳太子』伝説」で触れたことがありますので、ご参照ください。

【以下転載】
古賀達也の洛中洛外日記
第809話 2014/10/25
湖国の「聖徳太子」伝説

 滋賀県、特に湖東には聖徳太子の創建とするお寺が多いのですが、今から27年前に滋賀県の九州年号調査報告「九州年号を求めて 滋賀県の九州年号2(吉貴・法興編)」(『市民の古代研究』第19号、1987年1月)を発表したことがあります。それには『蒲生郡志』などに記された九州年号「吉貴五年」創建とされる「箱石山雲冠寺御縁起」などを紹介しました。そして結論として、それら聖徳太子創建伝承を「後代の人が太子信仰を利用して寺院の格を上げるために縁起等を造作したと考えるのが自然ではあるまいか。」としました。

 わたしが古代史研究を始めたばかりの頃の論稿ですので、考察も浅く未熟な内容です。現在の研究状況から見れば、九州王朝による倭京2年(619)の難波天王寺創建(『二中歴』所収「年代歴」)や前期難波宮九州王朝副都説、白鳳元年(661)の近江遷都説などの九州王朝史研究の進展により、湖東の「聖徳太子」伝承も九州王朝の天子・多利思北孤による「国分寺」創建という視点から再検討する必要があります。

 先日、久しぶりに湖東を訪れ、聖徳太子創建伝承を持つ石馬寺(いしばじ、東近江市)を拝観しました。険しい石段を登り、山奥にある石馬寺に着いて驚きました。国指定重要文化財の仏像(平安時代)が何体も並び、こんな山中のそれほど大きくもないお寺にこれほどの仏像があるとは思いもよりませんでした。

 お寺でいただいたパンフレットには推古二年(594)に聖徳太子が訪れて建立したとあります。この推古二年は九州年号の告貴元年に相当し、九州王朝の多利思北孤が各地に「国分寺」を造営した年です。このことを「洛中洛外日記」718話『「告期の儀」と九州年号「告貴」』に記しました。

 たとえば、九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)には、告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」に「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)という記事がありますし、『日本書紀』の推古2年条の次の記事も実は九州王朝による「国府寺」建立詔の反映ではないかとしました。

「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」

 この告貴元年(594)の「国分寺創建」の一つの事例が湖東の石馬寺ではないかと、今では考えています。拝観した本堂には「石馬寺」と書かれた扁額が保存されており、「傳聖徳太子筆」と説明されていました。小振りですがかなり古い扁額のように思われました。石馬寺には平安時代の仏像が現存していますから、この扁額はそれよりも古いか同時代のものと思われますから、もしかすると6世紀末頃の可能性も感じられました。炭素同位体年代測定により科学的に証明できれば、九州王朝の多利思北孤による「国分寺」の一つとすることもできます。
告貴元年における九州王朝の「国分寺」建立という視点で、各地の古刹や縁起の検討が期待されます。


第1777話 2018/10/26

難波と筑前の古代都市比較研究

 大阪文化財研究所『研究紀要』第19号(2018年3月)に今まで読んだことがないような衝撃的な論文が掲載されていました。南秀雄さんの「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」という論文です。このタイトルだけでも九州王朝説・古田学派の研究者や「洛中洛外日記」の読者であれば関心を持たれるのではないでしょうか。「博多湾岸」といえば天孫降臨以来の九州王朝の中枢領域ですし、「上町台地の都市化」と聞けばまず前期難波宮を連想し、この両地名により前期難波宮九州王朝副都説が思い浮かぶはずだからです。もちろん、わたしもそうでした。
 この論文は五世紀の古墳時代から七世紀前半の前期難波宮以前の上町台地の都市化の経緯を出土事実に基づき、世界の都市化研究との対比により考察したもので、更に上町台地との比較で福岡平野の比恵・那珂遺跡の分析を行ったものです。論文冒頭の「要旨」には次のように記されています。

 「要旨 地政学的位置が類似する大阪上町台地と博多湾岸を対象に、都城制以前の都市化について、外部依存と機能分化を指標に比較・検討した。上町台地では、5世紀以降三つの段階を経て、6世紀末には、木材・農産物・原材料を外部に依存し、手工業生産を膝下に抱える需給体制が整備され、工房群・港・各種の行政外交施設を地形に即して分置した機能分化が進行した。6世紀後葉には、世界標準に照らして都市と呼ぶべき姿となっていた。一方の博多湾岸の比恵・那珂遺跡も、手工業を広域で分担した違いはあるが、7世紀前半には類似した内部構成を取っていた。2地域の都市化には、ミヤケ(難波屯倉・摂津官家)による、地形環境の変化に適合した開発・殖産が大きな動因となったと考える。」

 この論文でわたしが最も注目したのは、数ある遺跡の中でなぜ上町台地との比較対象に博多湾岸の比恵・那珂遺跡が選ばれたのかという理由と、上町台地北部から出土した5世紀の法円坂遺跡の大型倉庫群について漏らされた次の疑問でした。

 「法円坂倉庫群は、臨時的で特殊な用途を想定する見解もあったが、王権・国家を支える最重要の財政拠点として、周囲のさまざまな開発と一体的に計画されたことがわかってきた〔南2014b〕。倉庫群の収容力を奈良時代の社会経済史研究を援用して推測すると、全棟にすべて頴稲を入れた場合、副食等を含む1,200人分強の1年間の食料にあたると算定した〔南2013〕。」(2頁)
 「何より未解決なのは、法円坂倉庫群を必要とした施設が見つかっていない。倉庫群は当時の日本列島の頂点にあり、これで維持される施設は王宮か、さもなければ王権の最重要の出先機関となる。もっとも可能性のありそうな台地中央では、あまたの難波宮跡の調査にもかかわらず、同時期の遺構は出土していない。佐藤隆氏は出土土器とともに、大阪城本丸から二ノ丸南部の、上町台地でもっとも標高の高い地域を候補としてあげている〔佐藤2016〕。」(3頁)
 「全国の古墳時代を通じた倉庫遺構の相対比較では、法円坂倉庫群のクラスは、同時期の日本列島に一つか二つしかないと推定されるもので、ミヤケではあり得ない。では、これを何と呼ぶか、王権直下の施設とすれば王宮は何処に、など論は及ぶが簡単なことではなく、本稿はここで筆をおきたい。」(16頁)

 ここに記された法円坂倉庫群を必要とした王宮・王権とは、わたしは九州王朝が河内・難波を6世紀末頃の「河内戦争」により直轄支配領域とする以前に当地を支配した王者のことではなかったかと推定しています。近畿天皇家一元史観論者であればこの倉庫群を「大和朝廷の出先機関」と結論づけるところでしょうが、南さんは「簡単なことではなく、本稿はここで筆をおきたい」とされ、出土事実を重視される考古学者らしい慎重さがうかがわれます。その上で、次の記述で論文を締めくくっておられます。

 「都城制以前の都市化については、政治拠点・王宮の所在地の奈良盆地との対比が必須である。これは今後の課題としたい。」(17頁)

 わたしとしては、南さんが上町台地と比恵・那珂遺跡を対比されたように、九州王朝の政治拠点・王宮所在地の筑紫との対比をまず行っていただきたいところです。


第1776話 2018/10/25

八雲神社にあった金印

 「洛中洛外日記」806話(2014/10/19)「細石神社にあった金印」で紹介したのですが、『古田武彦が語る多元史観』(ミネルヴァ書房)に志賀島の金印「漢委奴国王」が糸島の細石神社に蔵されていたという同神社宮司の「口伝」が記されています。「古田史学の会・四国」の会員、大政就平さんからの情報が古田先生に伝えられたことが当研究の発端となりました。さらに同地域の住民への聞き取り調査により、「細石神社にあった金印を武士がもっていった」という伝承も採録されたとのことです。
 志賀島から出土したとする「文書」の不審点が以前から指摘されてきましたし、肝心の志賀島にも金印が出土するような遺跡が発見されていないという問題点もありました。そのため、この細石神社に「金印」が伝えられていたという情報にわたしたちは注目してきました。しかし、当地の関係者の口伝でしか根拠がなく、学問研究の対象とするには難しさが伴っていました。ところがこの度、福岡市西区の川岡保さんから驚くような不思議な新情報が寄せられました。
 FACEBOOKでお付き合いしている川岡さんが、10月14日に久留米大学で開催した講演会に見えられ、金印は福岡市西区今宿にある八雲神社の御神宝として伝えられたもので、筑前黒田藩の大儒として著名な亀井南冥が同神社から借り受けたものとする資料をいただきました。しかもその「証言者」についても具体的な氏名が伝えられていたのです。(つづく)


第1767話 2018/10/06

土器と瓦による遺構編年の難しさ(4)

 土器編年で思い出すことに古田先生からお聞きした次のような編年方法があります。三十年ほど以前のことと記憶していますが、当時、ある発掘現場で出土土器の編年の際に学芸員が様式別に振り分けていたそうで、そこからは編年が異なる複数の土器が出土していたので、様式別に土器の出土量の比率を計算し、その比率の違いによって遺跡の編年を行うべきではないかと古田先生は提案されたそうです。ところが学芸員はそのようなことは行ったことがなく困った顔をされたそうです。
 恐らく当時は出土した土器の中で一番新しいものの編年から遺跡の年代(上限)を推定されていたと思います。土器は多くが割れた状態で出土しますから、編年毎の個数を割り出すということは大変です。従って、異なる編年毎の出土数分布の差異を相対編年に利用するという考えは普及していなかったと思われます。近年の発掘調査報告書などにはそうした視点も取り入れて遺跡の編年に利用するという事例もありますので、30年前に古田先生が提案された方法が正しかったことがわかります。
 このような研究対象物の特性分布を二次元解析や三次元解析する方法は自然科学の世界では必要であれば当然のように行いますから、ようやく日本の考古学界もその水準に到達しつつあるのかもしれません。他方、近畿以外の地方での発掘調査は予算も時間も人員も十分ではないため、懸命に発掘調査に従事している考古学者や地方自治体の学芸員にそこまで求めるのは酷かもしれません。
 次回からは「瓦による遺構編年の難しさ」に入りますが、土器とはまた異なった難しさを持っています。(つづく)


第1764話 2018/09/30

土器と瓦による遺構編年の難しさ(1)

 わたしは古田先生から主に文献史学の方法論を学んで来ました。古代史学の関連分野である考古学については体系的に勉強する機会がありませんでしたので、この10年ほどは7世紀の土器編年や瓦の変遷について専門書や考古学者から学ぶようにしてきました。そうした経験から、思っていたよりも土器や瓦による遺構の編年が難しいこと、7世紀における「難波編年」が比較的正確であることなどを知りました。そこで今回はその難しさについて説明することにします。
 土器による遺構の編年について、大阪歴博の考古学者から基礎的な編年方法について教えていただいたことがあります。まず前提として、出土土器により遺構の年代を編年する場合の条件として、対象遺構の整地層の中とその上から土器が出土しないと正確な編年ができないことです。
 たとえば整地層から7世紀中頃の土器が出土しても、そのことから導き出せるのはその遺跡が7世紀中頃以後に造営されたということだけで、それ以上の年代編年は原理的にできません。ところが整地層の上の層位から7世紀後半の土器も出土していれば、その遺構は7世紀中頃から後半の造営とする編年が可能となります。
 逆に整地層からは編年できるような土器が出土せず、その上の層位から7世紀中頃の土器が出土している場合は、その遺構は7世紀中頃以前の造営とすることはできますが、それ以上のことは判断できません。
 このように遺構の層位を挟むように整地層の中と上からの出土土器が揃ったときに造営年代の編年が可能となります。この原理をしっかりと押さえておくことが重要です。遺構から「何世紀の土器が出土した」という情報に対しては、それが遺構のどの層位から出土したのか、遺構の層位を挟むように複数の土器が出土したのかを見極めることが重要であり、そうした情報がない報道や論稿は要注意です。(つづく)


第1746話 2018/09/05

「船王後墓誌」の宮殿名(6)

 古田先生が晩年において、近畿から出土した金石文に見える「天皇」や「朝廷」を九州王朝の天皇(天子)のこととする仮説を発表された前提として、近畿天皇家は7世紀中頃において「天皇」を名乗っていないとされていたことを説明しましたが、わたしは飛鳥池遺跡出土木簡を根拠に、天武の時代には近畿天皇家は「天皇」を名乗るだけではなく、自称ナンバーワンとしての「天皇」らしく振る舞っていたと考えていました。そのことを2012年の「洛中洛外日記」444話に記していますので、抜粋転載します。

【以下、転載】
第444話 2012/07/20
飛鳥の「天皇」「皇子」木簡

 (前略)古田史学では、九州王朝の「天子」と近畿天皇家の「天皇」の呼称について、その位置づけや時期について検討が進められてきました。もちろん、倭国のトップとしての「天子」と、ナンバー2としての「天皇」という位置づけが基本ですが、それでは近畿天皇家が「天皇」を称したのはいつからかという問題も論じられてきました。

 もちろん、金石文や木簡から判断するのが基本で、『日本書紀』の記述をそのまま信用するのは学問的ではありません。古田先生が注目されたのが、法隆寺の薬師仏光背銘にある「大王天皇」という表記で、これを根拠に近畿天皇家は推古天皇の時代(7世紀初頭)には「天皇」を称していたとされました。
近年では飛鳥池から出土した「天皇」木簡により、天武の時代に「天皇」を称したとする見解が「定説」となっているようです。(中略)

 他方、飛鳥池遺跡からは天武天皇の子供の名前の「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(大伯皇女のこと)「大津皇」「大友」などが書かれた木簡も出土しています。こうした史料事実から、近畿天皇家では推古から天武の時代において、「天皇」や「皇子」を称していたことがうかがえます。
さらに飛鳥池遺跡からは、天皇の命令を意味する「詔」という字が書かれた木簡も出土しており、当時の近畿天皇家の実勢や「意識」がうかがえ、興味深い史料です。九州王朝末期にあたる時代ですので、列島内の力関係を考えるうえでも、飛鳥の木簡は貴重な史料群です。
【転載終わり】

 7世紀中頃の前期難波宮の巨大宮殿・官衙遺跡と並んで、7世紀後半の飛鳥池遺跡出土木簡(考古学的事実)は『日本書紀』の記事(史料事実)に対応(実証)しているとして、近畿天皇家一元史観(戦後実証史学に基づく戦後型皇国史観)にとっての強固な根拠の一つになっています。

 古田史学を支持する古田学派の研究者にとって、飛鳥池木簡は避けて通れない重要史料群ですが、これらの木簡を直視した研究や論文が少ないことは残念です。「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡典嗣先生の言葉を繰り返しわたしたち(「弟子」)に語られてきた古田先生の御遺志を胸に、わたしはこの「戦後実証史学」の「岩盤規制」にこれからも挑戦します。

〈注〉「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡先生や古田先生の遺訓を他者に強要するものではありません。「論証よりも実証を重んじる」という研究方法に立つのも「学問の自由」ですから。また、「学問は実証よりも論証を重んずる」とは、実証を軽視してもよいという意味では全くありません。念のため繰り返し付記します。


第1743話 2018/09/03

「船王後墓誌」の宮殿名(5)

 古田先生は晩年において、近畿から出土した金石文に見える「天皇」や「朝廷」を九州王朝の天皇(天子)のこととする仮説を次々に発表されました。その一つに今回取り上げた「船王後墓誌」もありました。今から思うと、そこに記された「阿須迦天皇」の「阿須迦」を福岡県小郡市にあったとする「飛鳥」と理解されたことが〝ことの始まり〟でした。
 この新仮説を古田先生がある会合で話され、それを聞いた正木さんから疑義(正木指摘)が出され、後日、古田先生との電話でそのことについてお聞きしたのですが、先生は納得されておられませんでした。古田先生のご意見は、「天皇」とあれば九州王朝の「天皇(天子)」であり、近畿天皇家は7世紀中頃において「天皇」を名乗っていないと考えられていることがわかりました。そこでわたしは次のような質問と指摘をしました。

①これまでの古田説によれば、九州王朝の天子(ナンバー1)に対して、近畿天皇家の「天皇」はナンバー2であり、「天子」と「天皇」とは格が異なるとされており、近畿から出土した「船王後墓誌」の「天皇」もナンバー2としての近畿天皇家の「天皇」と理解するべきではないか。
②法隆寺の薬師仏光背銘にある「天皇(用命)」「大王天皇(推古)」は、7世紀初頭の近畿天皇家が「天皇」を名乗っていた根拠となる同時代金石文と古田先生も主張されてきた(『古代は輝いていた Ⅲ』269〜278頁 朝日新聞社、1985年)。
③奈良県の飛鳥池遺跡から出土した天武時代の木簡に「天皇」と記されている。
④こうした史料事実から、近畿天皇家は少なくとも推古期から天武期にかけて「天皇」を名乗っていたと考えざるを得ない。
⑤従って、近畿から出土した「船王後墓誌」の「天皇」を近畿天皇家のものと理解して問題なく、遠く離れた九州の「天皇」とするよりも穏当である。

 以上のような質問と指摘をわたしは行ったのですが、先生との問答は平行線をたどり、合意形成には至りませんでした。なお付言しますと、正木さんは福岡県小郡市に「飛鳥浄御原宮」があったとする研究を発表されています。この点では古田説を支持されています。(つづく)


第1741話 2018/09/02

「船王後墓誌」の宮殿名(4)

 「船王後墓誌」の「阿須迦天皇」を九州王朝の天皇(旧、天子)とする古田説が成立しない決定的理由は、阿須迦天皇の末年とされた辛丑年(641)やその翌年に九州年号は改元されておらず、この阿須迦天皇を九州王朝の天皇(天子)とすることは無理とする「正木指摘」でした。
 すなわち、641年は九州年号の命長二年(641)に当たり、命長は更に七年(646)まで続き、その翌年に常色元年(647)と改元されています。641年やその翌年に九州王朝の天子崩御による改元がなされていないことから、この阿須迦天皇を九州王朝の天子(天皇)とすることはできないとされた正木さんの指摘は決定的です。
 この「正木指摘」を意識された古田先生は次のような説明をされました。

 〝(七)「阿須迦天皇の末」という表記から見ると、当天皇の「治世年代」は“永かった”と見られるが、舒明天皇の「治世」は十二年間である。〟

 古田先生は治世が長い天皇の場合、「末年」とあっても没年のことではなく晩年の数年間を「末年(末歳次)」と表記できるとされているわけです。しかし、この解釈も無理であるとわたしは考えています。それは次のような理由からです。

①「『阿須迦天皇の末』という表記から見ると、当天皇の『治世年代』は“永かった”と見られる」とありますが、「末」という字により「治世が永かった」とできる理由が不明です。そのような因果関係が「末」という字にあるとするのであれば、その同時代の用例を示す必要があります。
②「船王後墓誌」には「阿須迦 天皇之末歳次辛丑」とあり、その天皇の末年が辛丑と記されているのですから、辛丑の年(641)をその天皇の末年(没年)とするのが真っ当な文章理解です。
③もし古田説のように「阿須迦天皇」が九州王朝の天皇(旧、天子)であったとすれば、「末歳次辛丑(641)」は九州年号の命長二年(641)に当たり、命長は更に七年(646)まで続きますから、仮に命長七年(646)に崩御したとすれば、末年と記された「末歳次辛丑(641)」から更に5年間も「末年」が続いたことになり、これこそ不自然です。
④さらに言えば、もし「末歳次辛丑(641)」が「阿須迦天皇」の没年でなければ、墓誌の当該文章に「末」の字は全く不要です。すなわち、「阿須迦 天皇之歳次辛丑」と記せば、「阿須迦天皇」の在位中の「辛丑」の年であることを過不足なく示せるからです。古田説に従えば、こうした意味もなく不要・不自然で、「没年」との誤解さえ与える「末」の字を記した理由の説明がつかないのです。

 以上のようなことから、「船王後墓誌」に記された天皇名や宮殿名を九州王朝の天子とその宮殿とする無理な解釈よりも、『日本書紀』に記述された舒明天皇の没年と一致する通説の方が妥当と言わざるを得ないのです。(つづく)


第1740話 2018/09/02

「船王後墓誌」の宮殿名(3)

 「船王後墓誌」に記された「阿須迦天皇」の在位期間が長ければ『末』とあってもそれは最後の一年のことではなく、晩年の数年間を指すと解釈できるとする古田先生は、西村秀己さんの次の指摘を根拠に「阿須迦天皇」を舒明天皇とする通説を否定されました。

 〝(五)しかも、当、船王後が「六四一」の十二月三日没なのに、舒明天皇は「同年十月九日の崩」であるから、当銘文の表記、
 「阿須迦天皇の末、歳次辛丑十二月三日庚寅に殯亡しき。」と“合致”しない(この点、西村秀己氏の指摘)。〟

 すなわち、舒明天皇は辛丑年(641)10月9日に崩じており、船王後が没した12月3日は舒明在位期間中ではなく、墓誌の「阿須迦天皇の末」とは合致しないとされたのです。この西村さんの指摘はわたしも西村さんから直接聞いていたのですが、次の理由から賛成できませんでした。

①舒明天皇は辛丑年(641)10月9日に崩じているが、次の皇極天皇が即位したのは『日本書紀』によればその翌年(642年1月)であり、辛丑年(641)の10月9日より後は舒明の在位期間中ではないが、皇極天皇の在位期間中でもない。従って辛丑年(641)を「阿須迦天皇(舒明)の末」年とする表記は適切である。
②同墓誌が造られたのは「故戊辰年十二月に松岳山上に殯葬」と墓誌にあるように、戊辰年(668年)であり、その時点から27年前の辛丑年(641)のことを「阿須迦天皇(舒明)の末」年と表記するのは自然であり、不思議とするにあたらない。
③同墓誌中にある各天皇の在位期間中の出来事を記す場合は、「乎娑陀宮治天下 天皇之世」「等由羅宮 治天下 天皇之朝」「於阿須迦宮治天下 天皇之朝」と全て「○○宮治天下 天皇之世(朝)」という表記であり、その天皇が「世」や「朝」を「治天下」している在位期間中であることを示す表現となっている。他方、天皇が崩じて次の天皇が即位していないときに没した船王後の没年月日を記した今回のケースだけは「阿須迦天皇之末」という表記になっており、正確に使い分けていることがわかる。
④以上の理由から、「西村指摘」は古田説を支持する根拠とはならない。

 このような理解により、むしろ同墓誌の内容(「阿須迦天皇之末」)は『日本書紀』の舒明天皇崩御から次の皇極天皇即位までの「空白期間」を正しく表現しており、同墓誌の解釈(「阿須迦天皇」の比定)は、古田説よりも通説の方が妥当であるとわたしは理解しています。(つづく)


第1738話 2018/09/01

「船王後墓誌」の宮殿名(2)

 今朝は東京に向かう新幹線車中でこの「洛中洛外日記」を書いています。午後から東京家政学院大学のキャンパスで開催する『発見された倭京』出版記念講演会に出席するためです。
 車窓の外は雨空が続いていますので、東京のお天気がちょっと心配です。参加者が少なく講演会収支が赤字になると「古田史学の会」から補填することとなり、会計担当の西村秀己さん(全国世話人、高松市)からお叱りを受けるからです。もっとも、この厳しい「金庫番」のおかげで、「古田史学の会」財政の健全性が保たれています。

 さて、「船王後墓誌」の宮殿名や天皇名に関する古田説に対して、最初に鋭い指摘をされたのは正木裕さん(古田史学の会・事務局長、川西市)でした。それは、墓誌に記された「阿須迦天皇之末歳次辛丑」の阿須迦天皇の末年とされる辛丑年(641)やその翌年に九州年号は改元されておらず、この阿須迦天皇を九州王朝の天皇(天子)とすることは無理というものでした。
 641年は九州年号の命長二年(641)に当たり、命長は更に七年(646)まで続き、その翌年に常色元年(647)と改元されています。九州王朝の天子が崩御して九州年号が改元されないはずはありませんから、この阿須迦天皇を九州王朝の天子(天皇)とすることはできないと正木さんは気づかれたのです。
 この正木さんの指摘を古田先生にお伝えしたところ、しばらく問答が続き、「阿須迦天皇の在位期間が長ければ『末』とあってもそれは最後の一年のことではなく、後半の数年間を指すと解釈できる」と結論づけられました。その解釈が次の文章となったわけです。

 〝(五)しかも、当、船王後が「六四一」の十二月三日没なのに、舒明天皇は「同年十月九日の崩」であるから、当銘文の表記、
 「阿須迦天皇の末、歳次辛丑十二月三日庚寅に殯亡しき。」と“合致”しない(この点、西村秀己氏の指摘)。〟
 〝(七)「阿須迦天皇の末」という表記から見ると、当天皇の「治世年代」は“永かった”と見られるが、舒明天皇の「治世」は十二年間である。〟

 古田先生の論稿ではこの順番で論理を展開されていますが、当初、わたしとの問答では(七)の「解釈」がまずあって、その後に西村さんの意見(五)を取り入れて自説を補強されたのでした。しかし、それでもこの古田説は成立困難と、わたしは古田先生や西村さんに反対意見を述べました。(つづく)