古賀達也一覧

第1314話 2016/12/30

「戦後型皇国史観」に抗する学問

 藤田友治さん(故人、旧・市民の古代研究会々長)が参加されていた『唯物論研究』編集部からの依頼原稿をこの年末に集中して書き上げました。市民の日本古代史研究の「中間総括」を特集したいとのことで、「古田史学の会」代表のわたしにも執筆を依頼されたようです。
 今日が原稿の締切日で、最後のチェックを行っています。論文の項目と最終章「古田学派の運命と使命」の一部を転載しました。ご参考まで。

「戦後型皇国史観」に抗する学問
-古田学派の運命と使命-
一.日本古代史学の宿痾
二.「邪馬台国」ブームの興隆と悲劇
三.邪馬壹国説の登場
四.九州王朝説の登場
五.市民運動と古田史学
六,学界からの無視と「古田外し」
七.「古田史学の会」の創立と発展
八.古田学派の運命と使命
(前略)
 「古田史学の会」は困難で複雑な運命と使命を帯びている。その複雑な運命とは、日本古代の真実を究明するという学術研究団体でありながら、同時に古田史学・多元史観を世に広めていくという社会運動団体という本質的には相容れない両面を持っていることによる。もし日本古代史学界が古田氏や古田説を排斥せず、正当な学問論争の対象としたのであれば、「古田史学の会」は古代史学界の中で純粋に学術研究団体としてのみ活動すればよい。しかし、時代はそれを許してはくれなかった。(中略)
 次いで、学問体系として古田史学をとらえたとき、その運命は過酷である。古田氏が提唱された九州王朝説を初めとする多元史観は旧来の一元史観とは全く相容れない概念だからだ。いわば地動説と天動説の関係であり、ともに天を戴くことができないのだ。従って古田史学は一元史観を是とする古代史学界から異説としてさえも受け入れられることは恐らくあり得ないであろう。双方共に妥協できない学問体系に基づいている以上、一元史観は多元史観を受け入れることはできないし、通説という「既得権」を手放すことも期待できない。わたしたち古田学派は日本古代史学界の中に居場所など、闘わずして得られないのである。
古田氏が邪馬壹国説や九州王朝説を提唱して四十年以上の歳月が流れたが、古代史学者で一人として多元史観に立つものは現れていない。古田氏と同じ運命に耐えられる古代史学者は残念ながら現代日本にはいないようだ。近畿天皇家一元史観という「戦後型皇国史観」に抗する学問、多元史観を支持する古田学派はこの運命を受け入れなければならない。
 しかしわたしは古田史学が将来この国で受け入れられることを一瞬たりとも疑ったことはない。楽観している。わたしたち古田学派は学界に無視されても、中傷され迫害されても、対立する一元史観を批判検証すべき一つの仮説として受け入れるであろう。学問は批判を歓迎するとわたしは考えている。だから一元史観をも歓迎する。法然や親鸞ら専修念仏集団が国家権力からの弾圧(住蓮・安楽は死罪、法然・親鸞は流罪)にあっても、その弾圧した権力者のために念仏したように。それは古田学派に許された名誉ある歴史的使命なのであるから。
本稿を古田武彦先生の御霊に捧げる。
(二〇一六年十二月三十日記)


第1313話 2016/12/24

「学問は実証よりも論証を重んじる」の出典

 古田先生が亡くなられて1年を過ぎました。亡師孤独の道をわたしたち古田学派は必死になって歩んだ一年だったように思います。これからも様々な迫害や困難が待ち受けていると思いますが、臆することなく前進する覚悟です。
 わたしが古田先生の門を叩いてから30年の月日が流れました。その間、先生から多くのことを学びましたが、今でも印象深く覚えている言葉の一つに「学問は実証よりも論証を重んじる」があります。古田史学や学問にとって神髄ともいえる言葉で、古田先生から何度も聞いたものです。この言葉の持つ意味については、『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集、明石書店)に「学問は実証よりも論証を重んじる」という拙稿を掲載しましたので、ぜひご覧ください。
 この言葉は古田先生の恩師村岡典嗣先生の言葉とうかがっています。そのことにふれた古田先生自らの文章が『よみがえる九州王朝』(ミネルヴァ書房)に収録された「日本の生きた歴史(十八)」に次のようにありますのでご紹介します。

「第一 『論証と実証』論

 わたしの恩師、村岡典嗣先生の言葉があります。
  『実証より論証の方が重要です。』
と。けれども、わたし自身は先生から直接お聞きしたことはありません。昭和二十年(一九四五)の四月下旬から六月上旬に至る、実質一カ月半の短期間だったからです。
 『広島滞在』の期間のあと、翌年四月から東北大学日本思想史科を卒業するまで『亡師孤独』の学生生活となりました。その間に、先輩の原田隆吉さんから何回もお聞きしたのが、右の言葉でした。
助手の梅沢伊勢三さんも、『そう言っておられましたよ』と“裏付け”られたのですが、お二方とも、その『真意』については、『判りません』とのこと。“突っこんで”確かめるチャンスがなかったようです。

 今のわたしから見ると、これは『大切な言葉』です。ここで先生が『実証』と呼んでおられたのは『これこれの文献に、こう書いてあるから』という形の“直接引用”の証拠のことです。
 これに対して『論証』の方は、人間の理性、そして論理によって導かれるべき“必然の帰結”です。
(中略)
 やはり、村岡先生の言われたように、学問にとって重要なのは『論証』、この二文字だったようです。」

 このように古田先生は、わたしが何度もお聞きした「学問は実証よりも論証を重んじる」という言葉についてはっきりと自著にも残されています。もしこの言葉が古田先生の著書には書かれていないという方がおられれば、それは事実とは異なります。


第1312話 2016/12/22

上賀茂神社の「白馬節会」

 今朝、京都駅に向かう京都市バスの中で、京都市交通局が発行しているリーフレット「おふたいむ」を読みました。2017年新年号で表紙には上賀茂神社の社殿風景が掲載され、同神社の新年の神事「白馬節会」の紹介記事がありました。そこには次のように記されていました。

 「1月中は多彩な行事が予定されており、元日から5日までの天候のよい日には、10時から15時頃まで神馬「神山号」が登場。7日の10時からは白馬奏覧神事(はくばそうらんしんじ)が行なわれる。これは年始に白馬を見ると一年の邪気が祓われるという宮中行事『白馬節会(あおうまのせちえ)』にちなんだものだ。」

 「白馬節会」と書いて「あおうまのせちえ」と訓むのですが、これは古代から行われている伝統行事です。「白馬節会」という言葉は古代史研究においてときおり古典で目にしており、「白馬」と書いて「あおうま」と訓むことに興味をひかれていました。その理由には諸説あるようで、わたしにも当否はわかりませんが、わたしの専門分野である染料化学や染色化学では、偶然のことかもしれませんが思い当たる節があります。
 テキスタイル業界では白い衣服をより白く見せる技術として蛍光増白剤を用いたり、黄ばみをごまかすために反対色の青色染料で薄く染色するという裏技があります。人間の目では黄色よりも青色の方が白っぽく感じるという性質を利用したものです。そこで古代でも濃度によっては「青」を「白」と感じていたのかもしれず、そのため「白馬」を「あおうま」と呼んだのではないかと考えています。もちろん史料根拠を見つけたわけではありませんので、今のところ思いつき(作業仮説)に過ぎません。
 色彩に関する日本語には不思議な表現が少なくありません。たとえば「緑の黒髪」という表現。これでは髪の色が「緑」なのか「黒」なのかはっきりしない表現です。「青息吐息」もそうです。青い色した「息」など見たことがありません。寒い日に吐く息は「白」だと思うのですが、先の「白馬節会」と同様に「白」を「あお」とする表現です。日本語は不思議ですね。


第1307話 2016/12/10

東大入試問題「古代」編に注目

 先日、新幹線車内で読もうと京都駅の売店で『東大のディープな日本史【古代・中世編】』(相澤理著)を買いました。同書冒頭に紹介されている古代史の入試問題が注目されたので購入したものです。それは次の問題です。

次の文章を読み、左記の設問に答えよ。

 西暦六六〇年百済が唐・新羅の連合軍の侵攻によって滅亡したとき、百済の将鬼室福信は日本の朝廷に援軍を求め、あわせて、日本に送られて来ていた王子余豊璋を国王に迎えて国を再興したい、と要請した。日本の朝廷はこれに積極的に応え、翌年豊璋に兵士を従わせて帰国させ、王位を継がせた。次いで翌六六二年には、百済軍に物資を送るとともに、みずからも戦いの準備をととのえた。六六三年朝廷はついに大軍を朝鮮半島に送り込み、百済と連携して唐・新羅連合軍に立ち向かい、白村江の決戦で大敗するまで、軍事支援をやめなかった。

設問
 このとき日本の朝廷は、なぜこれほど積極的に百済を支援したのか。次の年表を参考にしながら、国際的環境と国内的事情に留意して5行(一五〇字)以内で説明せよ。

六一二 隋、高句麗に出兵する(→六一四)。
六一八 隋滅び、唐起こる。
六二四 唐、武徳律令を公布する。高句麗・新羅・百済の王、唐から爵号を受ける。
六三七 唐、貞観律令を公布する。
六四〇 唐、西域の高昌国を滅ぼす。
六四五 唐・新羅の軍、高句麗に出兵する。以後断続的に出兵を繰り返す。
六四八 唐と新羅の軍事同盟成立する。
六六〇 唐・新羅の連合軍、百済を滅ぼす。
六六三 白村江の戦い。
六六八 唐・新羅の連合軍、高句麗を滅ぼす。

 この問題は1992年度の東大入試に出題されたもので、わたしはこの中の「日本の朝廷」という表現に注目しました。通常であれば大和朝廷一元史観により「大和朝廷」とされるところですが、「日本の朝廷」という表現であれば、古田史学・九州王朝説にとっても穏当な設問として受け取れるのです。この問題を作成した人がそこまで考えて「日本の朝廷」という表現としたのかどうかはわかりませんが、さすがは東大の入試問題だと、妙に感心しました。
 1992年といえば、古田先生の九州王朝説が発表され学界に激震を与えて20年近く経ち、それに太刀打ちできず古田説無視を始めた頃ですから、入試問題も九州王朝説の存在を意識したうえで作られたものかもしれません。
 このような問題が高校生に出されたのですから、東大は、歴史の丸暗記ではなく自分で歴史事件の背景や事情を考えることができる学生を募集していることがわかります。一元史観の牙城として東大は表面的には微動だにしていません。しかし、インターネット時代の現代において、いつまで古田説無視が通用するでしょうか。(つづく)


第1304話 2016/12/04

漢風諡号「孝徳」の出典

 『東京古田会ニュース』に『二中歴』関連研究の投稿原稿執筆のため、『二中歴』影印本を読み直したのですが、孔安国による「古文孝経序」が収録されていることに気づきました。孔安国は孔子十一世の子孫(前漢時代の学者。『孔子家語』の作者)とされる人物です。『古文孝経』には孔安国による「序」が付されていますが、その「古文孝経序」が『二中歴』「産所歴」冒頭の「読書」に収録されています。
 『二中歴』所収「古文孝経序」はわたしのfacebookに掲載していますのでご覧ください。その「古文孝経序」に「大化」と「孝徳」という文言があり、『日本書紀』孝徳紀に見える九州年号「大化」と、後に追号された漢風諡号「孝徳」と関係があるのではないかと思いました。「古文孝経序」の当該部分は次の通りです。

「上有明王則大化滂流充塞六合」(上に明王あれば則大化滂流し、六合に充塞す。)
「夫孝徳之本也」(それ孝は徳の本なり。)

 「古文孝経序」や『孝経』の内容や意味については触れませんが、もしこの「大化」「孝徳」の文字が『日本書紀』と偶然の一致でなければ、『日本書紀』に追記された漢風諡号を作成したとされる淡海三船(722〜785)は孔安国の「古文孝経序」を読んでいたことになります。そうであれば、淡海三船は『日本書紀』の「孝徳紀」に見える「大化」という年号と「古文孝経序」に見える「大化」を意識して、漢風諡号も「古文孝経序」にある「孝徳」を選んだということになります。
 以上、わたしの思いつきに過ぎませんが、『日本書紀』の漢風諡号の成立経緯や出典を考える上で、ヒントになるかもしれません。なお、この思いつきについて先行説があるかもしれません。ご存じの方はご教示ください。


第1303話 2016/12/01

倭国と日本国の「尺」

 11月27日に福岡市で開催した「古田史学の会」主催の講演会では問題意識の高い質問が参加者から出され、講演会後の懇親会も含めて成功裏に終えることができました。ご協力いただいた久留米大学の福山先生、「九州古代史の会」の方々、「古田史学の会」会員の犬塚幹夫さん中村通敏さん、そして参加された皆様に御礼申し上げます。

 その質疑応答で、太宰府条坊地割(一辺約90m)の「尺」とその後に地割された北部(政庁・観世音寺)の「尺」の違いについての質問が出されました。井上信正さんは前者を「大尺」、後者を8世紀初頭の「小尺」とされたのですが、わたしは九州王朝(倭国)の「尺」制度の変遷について研究中でもあり、1尺は約30cm程度としか答えられませんでした。

 太宰府条坊の一辺90mという実測値から、約30cmの「尺」で300尺という整数が得られることから、七世紀初頭の九州王朝「尺」は約30cmと考えてよいかもしれませんし、あるいは36cmであれば250尺となります。この点、引き続き調査検討が必要です。

 先日、京都の染色工場の経営トップの方と懇談する機会があったのですが、そのとき正倉院宝物のカタログを見せていただきました。それには東大寺の「緑綾几帯(みどりあやのつくえのおび)」が掲載されており、それに墨で次のような長さと年代が記されていました。

「花机帯 長二丈三尺四寸 廣二寸五分 天平勝寶四年四月九日」「東大寺」

 解説には現在の実測値が「長六八二・〇 幅七・五」とあり、墨書の数値と実測値から計算すると、全長から1尺は29.145cm、幅からは30cmという数値が得られます。この計算値から、天平勝寶四年(752)時点の大和朝廷(日本国)の「尺」は1尺=29〜30cmだったことがわかります。ちなみに天平勝寶四年は東大寺の大仏開眼供養の年ですから、この帯はその儀式に用いられたものと思われます。

 この正倉院宝物カタログを見せていただいた方は草木染めの専門家で、愛子内親王が二十歳の宮廷儀式で着用される十二単(じゅうにひとえ)の天然染料を用いた染色を宮内庁から委託されているとのこと。その十二単に使用される生地は蓮糸(ハスの糸)で織られているそうで、それを天然染料(主に草木染)で復元することはかなり困難とのことでした。わたしも色素化学・染色化学のケミストの一人として、何かお手伝いできればと願っています。ちなみに、本日(12月1日)は愛子内親王15歳のお誕生日です。おめでとうございます。


第1297話 2016/11/13

『九州倭国通信』に「条坊都市の多元史観」掲載

 今年から機関紙交流を始めた「九州古代史の会」から『九州倭国通信』No.183が送られてきました。5ページにわたり、拙稿「条坊都市の多元史観」を掲載していただきました。
 一元史観の文献史学研究者よりも、一元史観の考古学者の研究論文に九州王朝説を支持する考古学的事実が発表され始めたことを紹介し、中でも井上信正さんの太宰府条坊都市研究の論理性と画期性を解説したものです。
 今月26日(和水町)と27日(福岡市)で行う古代史講演会で、「日本最古の条坊都市 太宰府から難波京へ」というテーマでも詳しくお話ししたいと思います。特に九州の皆さんのご参加をお待ちしています。


第1296話 2016/11/12

パリの画家、奥中清三さんとの邂逅

 今日は四年ぶりに帰国されたパリの画家、奥中清三さん(古田史学の会・会員)と大阪でお会いしました。四年前は京都でお会いし、京都御所や相国寺、同志社大学をご案内したのですが、今回はI-siteなんばの図書館の古田武彦コーナーを正木裕さん(古田史学の会・事務局長)とご案内しました。
 奥中さんは44年前にパリに行かれ、モンマルトルでパリ市公認の画家として活躍されています。古くからの古田先生のファンで、邪馬壹国の「壹」の字をモチーフとした作品を数多く手がけられています。その中の一枚をお土産としていただきましたので、I-siteなんばの古田武彦コーナーに飾らせていただきました。わたしのfacebookにその写真などを掲載していますので、ぜひご覧ください。
 その後、大阪歴博や紅葉が美しい大阪城、難波宮址をご案内しました。古田先生没後の古田学派の状況や最新の研究動向についてもご説明し、長時間歓談しました。再会を約束し、固い握手を交わしてお別れしました。「朋あり、遠方より来る。また楽しからずや」の快晴に恵まれた秋の一日でした。


第1290話 2016/10/27

「御舟入」の淵源

 三笠宮殿下が薨去され、「昭和」や「戦後」が歴史となりつつあり、感慨深いものがあります。ご葬儀に関する報道で「御舟入(おふないり)」という言葉が用いられ、「納棺」のことと説明されていました。皇室では納棺のことを「御舟入」と称されていることに、この言葉は古代にまで遡るものではないかと思いました。
 『隋書』「イ妥国伝」によれば古代日本の葬儀の風習として、ご遺体を船に乗せて運ぶという次のような記述があります。

 「死者は棺槨に納める、親しい来客は屍の側で歌舞し、妻子兄弟は白布で服を作る。貴人の場合、三年間は外で殯(かりもがり=埋葬前に棺桶に安置する)し、庶人は日を占って埋葬する。葬儀に及ぶと、屍を船上に置き、陸地にこれを牽引する、あるいは小さな御輿を以て行なう。」『隋書』「イ妥国伝」

 この葬儀の記事に続いて有名な阿蘇山の記事が見えます。

「阿蘇山があり、そこの石は故無く火柱を昇らせ天に接し、俗人はこれを異となし、因って祭祀を執り行う。」

 九州王朝や北部九州におけるご遺体を舟に乗せるという風習を淵源とするのが、皇室における「御舟入」という言葉ではないでしょうか。「舟形石棺」や肥後北部に分布する石穴墓に見られるご遺体を安置する部分にある舟のような文様の彫り込みも、この風習に淵源するように思われます。
 「御舟入」という皇室用語に、九州王朝(倭国)と皇室(大和朝廷の末裔)の関係を感じるのですが、いかがでしょうか。


第1286話 2016/10/15

難波京朱雀大路延長線上の「字南門」地名

 本日の「古田史学の会」関西例会でも初参加の方からの自己紹介で始まり、興味深い報告が続きました。中でも谷本さんの難波京条坊や地名に関する報告は刺激的なものでした。
 谷本さんの報告によれば、難波宮を中心とする朱雀大路の南限(四天王寺よりも東南)に「南門」という字地名が明治期の地図に記されており、難波京の南限の門と推定できるとのこと。しかもその位置が現在の推定条坊ラインの中間に位置することから、考古学者により推定されている条坊ラインが間違っているのではないかとされました。その根拠として、推定条坊ラインの西限が上町台地の西側の谷の下に位置しており、そこは条坊の外としか考えられないと指摘されました。
 この谷本さんからの指摘を聞いて、わたしは現在推定されている一辺約265mの条坊ラインは二分割して、従来条坊間道路と見られていた条坊中間の道路遺構を条坊道路そのものと見なしてはどうかというアイデアを述べました。そう考えると、今回の谷本報告で明らかとなった四天王寺東南にある字地名「南門」の位置が条坊の中間ではなく、難波京域南限の「南門」として、ちょうど最南端条坊と朱雀門の交差点に相当する位置となります。そして西端の推定条坊ラインが上町台地の下部の谷町筋から、条坊半分だけ東へずれることができ、京域として妥当な位置となります。
 このアイデアはまだ思いつきにすぎませんが、列島最古の条坊都市で九州王朝の都があった太宰府条坊の一辺が約90mであることから考えても、難波京条坊の一辺を従来の約265mからその半分の約130mとする方が、九州王朝の条坊の時代変化(時代とともに拡大する)として穏当のように思われるのです。この件、引き続き検討します。
 10月例会の発表は次の通りでした。

〔10月度関西例会の内容〕
①安土桃山時代のポルトガル宣教師が記録した九州年号(八尾市・服部静尚)
②ロドリゲスの見た日本-地理と歴史-、その限界(八尾市・服部静尚)
③記紀の真実Ⅴ 推古紀が告げる近畿朝の真相(大阪市・西井健一郎)
④難波古地図偽作説の再検討(神戸市・谷本茂)
⑤「洛陽で発見された三角縁神獣鏡」雑感(京都市・岡下英男)
⑥九州王朝による九州一円の平定史(1)(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 11/27『邪馬壹国の歴史学』出版記念福岡講演会の案内(久留米大学福岡サテライト)・11/26和水町で古代講演会・2017.01.22 古田史学の会「新春古代史講演会」の案内・「古代史セッション」(森ノ宮)の報告と案内・愛媛大学の細川隆雄先生(鯨の研究家)との懇談・会費未納者への督促・『古代に真実を求めて』20集「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」の編集について・その他


第1283話 2016/10/06

「倭京」の多元的考察

 九州年号「倭京」(618〜622年)は太宰府を九州王朝の都としたことによる年号であり、九州王朝(倭国)は自らの都(京)を「倭京」と称していたと考えていますが、『日本書紀』にも「倭京」が散見します。ところが、『日本書紀』の「倭京」はなぜか孝徳紀・天智紀・天武紀上の653〜672年の間にのみ現れるという不思議な分布状況を示しています。次の通りです。

○『日本書紀』に見える「倭京・倭都・古都」
①653年  (白雉4年是歳条) 太子、奏請して曰さく、「ねがわくは倭京に遷らむ」ともうす。天皇許したまわず。(後略)
②654年1月(白雉5年正月条) 夜、鼠倭の都に向きて遷る。
③654年12月(白雉5年12月条) 老者語りて曰く、「鼠の倭の都に向かいしは、都を遷す兆しなり」という。
④667年8月(天智6年8月条) 皇太子、倭京に幸す。
⑤672年5月(天武元年5月条) (前略)或いは人有りて奏して曰さく、「近江京より、倭京に至るまでに、処々に候を置けり(後略)」。
⑥672年6月(天武元年6月条) (前略)穂積臣百足・弟五百枝・物部首日向を以て、倭京へ遣す。(後略)
⑦672年7月(天武元年7月条) (前略)時に荒田尾直赤麻呂、将軍に啓して曰さく、「古京は是れ本の営の処なり。固く守るべし」ともうす。
⑧672年7月(天武元年7月条) (前略)是の日に、東道将軍紀臣阿閉麻呂等、倭京将軍大伴連吹負近江の為に敗られしことを聞きて、軍を分りて、置始連菟を遣して、千余騎を率いて、急に倭京に馳せしむ。
⑨672年9月(天武元年9月条) 倭京に詣りて、島宮に御す。

 これら『日本書紀』に現れる「倭京」について、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、『古田史学会報』編集担当)から、壬申の乱に見える「倭京」は前期難波宮・難波京のことではないかとするコメントがわたしのfacebookに寄せられました。その理由は、当時の「倭」とは九州王朝のことであり、「倭京」は九州王朝の副都(西村説では首都)である前期難波宮のことと理解すべきというものです。このコメントに対して、わたしは当初半信半疑でしたが、『日本書紀』の「倭京」記事を再検討してみると、作業仮説としては一理あると思うようになりました。その理由は次の通りです。

1.『日本書紀』に「倭京」記事が現れるのは前期難波宮の時代(652年創建〜686年焼失)に限定されている。通説のように奈良県明日香村にあった近畿天皇家の王都であれば、推古天皇や持統天皇の時代にも「倭京」は現れてもよいはずだが、そうではない。
2.壬申の乱では「倭京」の争奪戦が記されているが、当時の最大規模の宮殿前期難波宮が全く登場せず、従来から疑問視されていた。しかし、「倭京」が前期難波宮・難波京のことであれば、大友軍(近江朝)や天武軍が争奪戦を行った理由がより明確となる。

 以上のように、従来説では説明できなかった問題をうまく解決できることから、「倭京」=前期難波宮・難波京説は作業仮説として検討に値するのではないでしょうか。
 九州王朝では倭京元年に造営した太宰府条坊都市を「倭京」と呼んでいたのであれば、副都の前期難波宮・難波京もある時期に「倭京」と称されていた可能性があります。その史料的痕跡が『日本書紀』の孝徳紀・天智紀・天武紀上だけに現れた「倭京」ではなかったてしょうか。引き続き、精査検討したいと思います。


第1281話 2016/10/04

小杉榲邨と喜田貞吉師弟

 『二中歴』国会図書館本の書写者、小杉榲邨(こすぎ すぎむら)氏については「洛中洛外日記」で紹介してきましたが、法隆寺再建・非再建論争で有名な喜田貞吉氏の東京帝国大学時代の恩師が小杉氏で、両氏は同郷(徳島県)だったことを知りました。
 吉川弘文館から発行されている『本郷』(2016.9 No.125)に掲載された千田稔さん(歴史地理学)の「『論争』の流儀 -喜田貞吉のこと-」を読みました。冒頭は次のような書き出しで、うなづけました。

 「学術研究は、つねに論争がつきまとう。健全なことである。いや健全でなければならない。ところが往々にして、喧嘩めいた様相がただよう。「正しい」「誤っている」という対立からもたらされる感情が研究の論理とは、別のところ刺激するからであろう。その点から見れば、研究上の論争は、まことに人間性をひきずっているとも言える。論敵から向けられた言葉の鋭さに、たじろぐこともある。」

 そして、法隆寺再建・非再建論争に喜田氏が関わったいきさつについて次のように紹介されています。

 「さて、法隆寺再建・非再建の論争のことである。喜田にとって法隆寺には関心がなかったが、明治三八年三月の中ごろ、東京帝国大学時代の恩師小杉榲邨(一八三四-一九一〇)先生を訪問したときに論争を知る。(中略)その場で、喜田ははじめて、再建・非再建について議論があることを知るのだが、喜田は、論点も吟味することなく、再建論の立場にあって、自説が否定されつつある恩師を、なんとか救いあげることに立ち上がるのである。研究者としては、信じがたい胆気である。(中略)喜田は、再建論について有利な論証ができるという自信はなかったが、水掛け論程度になら、引き戻せるであろうと、即日、筆を執って、『史学雑誌』と『歴史地理』に反論を発表する。」

 喜田貞吉氏といえば日本古代史学の大先達であり、古田先生の著作にもしばしば紹介される研究者です。わたしも喜田氏の著作や論文を少なからず読みましたが、法隆寺再建・非再建論争に関わった動機が、恩師への応援だったことに、氏のお人柄を初めて知ることができました。
 執筆者の千田稔さんは最後を次のように締めくくられています。

 「恩師を守るために異論に立ち向かうというような人情を現代の研究者がなくしつつあることに気付かせる。(中略)私は、再建論でよしとするが、それにしても、現法隆寺の施主については、複雑な人脈をたどらなければならないであろう。」

 8世紀初頭の和銅年間に法隆寺は再建されたとする見解が通説となっていますが、それでは金堂や五重塔、そして本尊の釈迦三尊像などが6世紀末から7世紀初頭のものであることの説明が困難です。やはり現法隆寺は7世紀初頭頃の九州王朝の寺院を8世紀初頭に移築したとする移築説が最有力です。そして、千田さんのいう「複雑な人脈」とは、九州王朝(倭国)から大和朝廷への王朝交代のことなのです。
 この『本郷』No.125は他にも面白い記事が掲載されており、大型書店で無料でいただけますので、お勧めです。