古賀達也一覧

第3236話 2024/02/24

『開聞古事縁起』に見える噴火記事

 〝紫コラ〟の発生源となった貞観十六年(874)の開聞岳噴火記事は『日本三代実録』(注①)に記録されているので、その年代をピンポイントで確定できました。同様に尾長谷迫遺跡(鹿児島県指宿市)出土暗文土師器の編年に利用された〝青コラ〟(七世紀後半の開聞岳噴火により発生)についても、史料中に遺されていないのかを調べてみました。すなわち、七世紀後半頃と考古学的に編年された年代を、文献史学によりピンポイントで確定できないかと考えたのです。そこで、1988年に発表した論文「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」(注②)で研究した『開聞古事縁起』(注③)を久しぶりに精読しました。

 同縁起は延享二年(1745)の成立ですが、原本は明治二年の廃仏毀釈により、天智天皇の后とされる大宮姫伝承は俗記であるとして焼却され、その略縁起が枚聞神社に伝わっています。同縁起には開聞岳の噴火記事も掲載されており、〝青コラ〟発生の原因となった七世後半の噴火を示す記事があるのではないかと、論文執筆当時に収集した関連史料も含めて、今回、精査したところ、次の記事がありました。

(1) 『三國名勝圖會』巻之二十三 薩摩國 頴娃郡 開聞嶽
神代皇帝紀曰、第十二代懿徳天皇御宇(前510~前477年)、薩摩國開聞山涌出、

(2) 『三國名勝圖會』巻之二十三 薩摩國 頴娃郡 開聞嶽
開門神社縁起曰、第十二代景行天皇二十年(90年)、庚寅十月三日、一夜涌出、此等涌出の説あれども、皆日本書紀に載せざれば、確説に取りがたし、盖此嶽は、荒古より天然存在せしならん、

(3)『開聞古事縁起』
一、開聞嶽湧出之事
(中略)
景行天皇廿年(90年)庚寅冬十月三日之夜、國土震動風雷皷波而彼龍崛怱湧出于此界、屼成難思嵩山。卽其跡成池。今池田之池此也。

(4)『開聞古事縁起』
一、御嶽神火之事
仁王五十六代清和天皇貞観十六(874年)甲午年於ヨリ、當山頂地中、起難思火洞然如却火、灰雨砂降如雨如雪、其震動響百里外由、奏太宰府。府以傅上都、依之如封廟領二千戸、諡正一位爲薩州惣廟一之宮慰、諭神廟。于時貞観十六甲午年七月十七日官符ト云々。乃至中間興廢不委委矣。

 残念ながら青コラに相当する七世紀後半の噴火伝承は見つかりませんでした。こうした開聞岳の噴火記事や伝承は研究者からも注目されていたようですが、史実と見なされたのは(4)の貞観十六(874年)の噴火だけで、懿徳天皇御宇(前510~前477年)と景行天皇廿年(90年)は「信用することが出来ない」と否定されてきました(注④)。しかし、わたしは両伝承は歴史事実を反映した可能性があるのではないかと考えています。(つづく)

(注)
①『日本三代実録』貞観十六年(874)七月二日条に次の開聞岳噴火記事が見える。
「秋七月丁亥朔。戊子二日。地震。大宰府言。薩摩國從四位上開聞神山頂。有火自燒。煙薫滿天。沙如雨。震動之聲聞百餘里。近社百姓震恐矢精。求之蓍龜。神願封戸。及汚穢神社。仍成此祟。勅奉封二十戸。」
②古賀達也「最後の九州王朝 ―鹿児島県「大宮姫伝説」の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
③「開門古事縁起 全」『修験道史料集Ⅱ 西日本編』五来重編、名著出版、1984年。原本は枚聞神社蔵。
④濱田耕作氏は次の論文で両噴火記事を信用できないとしている。
濱田耕作「薩摩国揖宿郡指宿村土器含包層調査報告」『京都帝国大学文学部考古学研究報告』第6巻、京都帝国大学、1921年。


第3235話 2024/02/23

開聞岳噴火の考古学と文献史学

 尾長谷迫遺跡(鹿児島県指宿市)出土暗文土師器の編年に、〝青コラ〟(注①)と呼ばれる開聞岳噴火層(七世紀後半)が決め手になったことを「洛中洛外日記」前話(注②)で紹介しましたが、同噴火層には〝紫コラ〟と呼ばれる火山灰層もあります。紫コラは平安時代の貞観16年テフラ(注③)とも呼ばれており、かなり大規模な噴火だったこともあって、『日本三代実録』に記録されています。

〝秋七月丁亥朔。戊子二日。地震。大宰府言。薩摩國從四位上開聞神山頂。有火自燒。煙薫滿天。沙如雨。震動之聲聞百餘里。近社百姓震恐矢精。求之蓍龜。神願封戸。及汚穢神社。仍成此祟。勅奉封二十戸。〟『日本三代実録』貞観十六年(874)七月二日条 ※蓍亀(しき)とは、ノコギリソウと亀甲を指し、占いに用いられた。

 この紫コラのような火山灰層とその近辺の出土土器を研究対象とする火山学・考古学、そして『日本三代実録』などを対象とする文献史学という異なる学問分野の共同研究により、実年代をピンポイントで確定できたことは古代史学にとってとても恵まれたケースです。
ちなみに、当地の火山灰層に埋もれた橋牟礼川遺跡(指宿市十二町)は、縄文時代と弥生時代の先後関係を明らかにした遺跡として知られています。ウィキペディアには次のように説明されています。

〝発見と調査
1916年(大正五年)、指宿村出身で、旧制志布志中学校の生徒・西牟田盛健が縄文土器と弥生土器を拾ったことが遺跡発見のきっかけである。志布志中学校を訪れた喜田貞吉がその土器を実見し、鹿児島県内の考古学者・山崎五十麿に調査を依頼した結果、縄文土器と弥生土器が出土する遺跡の存在が確認された。喜田から情報を得た濱田耕作と長谷部言人が、1918年(大正七年)と1919年(大正八年)に現地で発掘調査を実施した。
縄文・弥生土器論争の決着
調査結果では、火山灰層を挟み、上層から弥生土器(正確には弥生土器ではなく、古墳時代後期の成川式土器)が、下層からアイヌ式土器(縄文土器)が出土することが確認された。このことから「縄文土器は弥生土器より古い」ことが層位学的に実証された。
それまでは「縄文土器と弥生土器は同じ時代に違う民族が作った土器」という説も有力であったが、この遺跡の発見により縄文時代→弥生時代という年代関係が確定した。〟(つづく)

(注)
①〝コラ〟は南九州薩摩半島の俗語で、火山灰からなる特殊土壌の一つ。当地の「固い物」「かたまり」を意味する言葉に由来する。
②古賀達也「洛中洛外日記」3234話(2024/02/22)〝指宿市「暗文土師器」の出土層位〟
③テフラとは(ギリシャ語で「灰」の意味)アイスランドの地質学者シグルズール・ソラリンソンによって定義された語で、火山灰・軽石・スコリア・火砕流堆積物・火砕サージ堆積物などの総称。火山灰などの火山噴出物中のケイ素酸化物の組成や含有する微量元素を分析することで、起源となった火山の特定が行われる。また、層厚と堆積面積によって噴火規模を推定する事ができる。


第3234話 2024/02/22

指宿市「暗文土師器」の出土層位

 尾長谷迫遺跡(鹿児島県指宿市)から出土した暗文土師器は考古学的に恵まれた条件下で検出されました。それは出土層位が〝青コラ〟と呼ばれている開聞岳噴火層の下から出土したため、編年が可能となったことです。青コラとは七世紀後半の噴火により生じた火山灰の層です。従って、暗文土師器の年代を七世紀の中頃から後半にかけてと編年されました。

 「青コラの噴火年代は、次のような事例から推定される。橋牟礼川遺跡から約5km南西方向にある山川町成川遺跡では、青コラの下に豊富な土器・鉄器・遺構が検出されているが、なかでも多数の人骨が出土し墓域であったことが判明している。これらの人骨に共伴している土器・鉄器は、古墳時代に属する5~6世紀のものとされ、青コラは6世紀以降の噴出物であることが明らかにされた。その後橋牟礼川遺跡で行われた発掘により、後述のように直接覆われた須恵器が出土したが、その編年は他地方との比較により7世紀後半とされており、噴火は古墳時代の終わり頃に発生したことが明らかになった。」(注①) ※橋牟礼川遺跡は指宿市十二町にある縄文時代から平安時代にかけての複合遺跡。

 暗文土師器は、官僚制の整備とそれに伴う官人層の大量発生を背景として出現しており、通説では大和朝廷の飛鳥時代(七世紀中頃)に畿内で製造・使用開始されたとしますから、それとほぼ同時期の薩摩で暗文土師器が出土したことは、〝存在しないはずだった〟と驚きをもって受け止められたのです。しかし、多元史観・九州王朝説の視点で考えると、九州王朝(倭国)の律令制官僚の発生時期は七世紀前半~中頃(太宰府Ⅰ期)まで遡りますから、七世紀後半の薩摩に暗文土師器が伝播していても、何の不思議もありません。同土師器の出土を報道した南日本新聞にも次の記事があり、必ずしも「畿内産」ではないことを示唆しています(注②)。

 今回の暗文土師器出土により、その編年の確認のため、開聞岳の噴火年代について勉強したところ、面白いことに気づきました。(つづく)

(注)
①成尾英仁・下山 覚「開聞岳の噴火災害 ―橋牟礼川遺跡を中心に―」『加速器質量分析計業績報告書 Ⅶ』名古屋大学、1995年。
②「南日本新聞」WEB版(2024/01/01)には次の解説がある。
〝存在しないはずだった…飛鳥時代の「暗文土師器」が鹿児島で初確認 大和政権の影響勢力、指宿に存在か 尾長谷迫遺跡から出土
鹿児島県指宿市の尾長谷迫(おばせざこ)遺跡で、7世紀中ごろ、飛鳥時代の「暗文土師器(あんもんはじき)」と呼ばれる土器が鹿児島県内で初めて見つかった。古代国家・大和政権の都があった畿内地域の影響を受けた土器とされ、これまでの南限は宮崎県だった。鹿児島県内では政権と衝突した隼人が暮らしており、専門家は「県内には存在しないと考えられていた。政権と何らかの関係を持つ勢力が指宿にいたことを示す」と注目している。
暗文土師器は元々は都の「畿内産土師器」を模倣したもので、器の内面には大陸から流入した金属器の光沢を表現した放射状の線が施されている。政治施設である「官衙(かんが)」に関連する遺跡から見つかるケースが多く、国立歴史民俗博物館研究部の林部均教授(考古学)は「古代国家、都の存在を示す象徴となる土器。国家と関わりがあった地域でのみ出土する」と解説。これまでは西都市にある日向国府跡の寺崎遺跡と水運関連施設の宮ノ東遺跡が南限とされていた。
指宿市教育委員会によると、今回見つかった土器は口径17.1センチ、器高6.4センチ。7世紀後半に噴火した開聞岳の噴出物(青コラ)の下の地層から、南九州特有の成川式土器と一緒に割れた状態で出土した。〟


第3233話 2024/02/21

指宿市出土「暗文土師器」の衝撃

 『南日本新聞』元旦号(注①)に掲載された、尾長谷迫遺跡(鹿児島県指宿市)から出土した暗文土師器について研究を進めています。大和朝廷に関係する遺構(国府跡など)からしか出土しない同土師器が、九州王朝時代の七世紀中葉の薩摩の遺跡から出土したことで、当地のメディアに注目されました。これは正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が研究してきた、天智の后、倭姫王が薩摩出身の〝九州王朝の姫〟(『続日本紀』には「薩末比売」、現地伝承では「大宮姫」)とする一連の仮説と整合する出土事実であり、正木説を支持する考古学的傍証です(注②)。

 『畿内産暗文土師器関連資料1 ―西日本編―』(注③)によれば、同土師器は「畿内産暗文土師器」と呼ばれており、次のように説明されています。

〝律令国家の形成期には、宮都として特徴的な土師器食膳器が出現する。これらは赤褐色に焼成され、内面に暗文と呼称されるミガキ調整を装飾的に施したものを主体とし、従来より「畿内産土師器」と呼称されてきた。

 その形態や質感は当時の高級食膳具である金属器を意識したもので、多様な形態の器種、法量の分化といった点において、伝統的な食膳具と一線を画するものであった。

 大陸からの新たな文化的要素の到来を示すだけでなく、出現の背景に、官僚制の整備とそれに伴う官人層の大量出現、食事の支給や儀式等の活発化が指摘されている。〟6頁

 ここで紹介されているように、大和朝廷の律令制官僚の大量発生に伴う「畿内産土師器」である暗文土師器が、七世紀中葉の薩摩に存在していたことを示す今回の出土は、大和朝廷一元史観の通説や従来の考古学では説明できず、研究者に衝撃がはしったのではないでしょうか。しかし、わたしにはこの土師器について思い当たることがありました。(つづく)

(注)
①茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)からご教示いただいた。
②大宮姫伝説については、次の拙論と近年の正木氏による研究が進み、「壬申の乱」から王朝交代期の九州王朝(倭国)に関する伝承であることが明らかとなった。
古賀達也「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
正木 裕「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その1)」『古田史学会報』145号、2018年。
「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その2)」『古田史学会報』146号、2018年。
「よみがえる古伝承 大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その3)」『古田史学会報』147号、2018年。
同「大宮姫と倭姫王・薩末比売」『倭国古伝』(『古代に真実を求めて』22集)古田史学の会編、2019年、明石書店。
③『畿内産暗文土師器関連資料1 ―西日本編―』奈良国立文化財研究所、2005年。


第3232話 2024/02/20

難波京条坊研究の論理 (7)

 「新春古代史講演会2020」での高橋さん(大阪市文化財協会調査課長・講演当時)の講演で、わたしは次の指摘に注目しました。

(1) 前期難波宮は七世紀中頃(孝徳朝)の造営。
(2) 難波京には条坊があり、前期難波宮と同時期に造営開始され、孝徳期から天武期にかけて徐々に南側に拡張されている。
(3) 朱雀大路造営にあたり、谷にかかる部分の埋め立ては前期難波宮の近傍は七世紀中頃だが、南に行くに連れて八世紀やそれ以降の時期に埋め立てられている。

 高橋さんが示された難波京条坊や朱雀大路の造営時期、その発展段階の概要には説得力があります。しかしながら、朱雀大路のグランドデザインや造営過程については、全面的には賛成できません。朱雀大路にかかる谷の埋め立ては八世紀段階以降のものがあるとされますが、他方、遠く堺市方面まで続く「難波大道」の造営を七世紀中頃とする調査結果があり、全ての谷の埋め立ては遅れても、朱雀大路とそれに続く「難波大道」は前期難波宮造営時には設計されていたのではないでしょうか。

 わたしはこのことを、2018年2月の「誰も知らなかった古代史」(正木裕さん主宰)での安村俊史さん(柏原市立歴史資料館・館長)の講演「七世紀の難波から飛鳥への道」で知り、「洛中洛外日記」などでも紹介してきました(注)。

 通説では、「難波大道」の造営時期は『日本書紀』推古二一年(613)条の「難波より京に至る大道を置く」を根拠に七世紀初頭とされているようですが、安村さんの説明によれば、2007年度の大和川・今池遺跡の発掘調査により、難波大道の下層遺構および路面盛土から七世紀中頃の土器(飛鳥Ⅱ期)が出土したことにより、設置年代は七世紀中頃、もしくはそれ以降で七世紀初頭には遡らないことが判明したとのことです。史料的には、前期難波宮創建の翌年に相当する『日本書紀』孝徳紀白雉四年(653年、九州年号の白雉二年)条の「處處の大道を修治る」に対応しているとしました。

 この「難波大道」遺構(堺市・松原市)は幅17mで、はるか北方の前期難波宮朱雀門(大阪市中央区)の南北中軸の延長線とは3mしかずれておらず、当時の測量技術精度の高さがわかります。この精度の高さは、「難波大道」造営が朱雀大路の南北軸に基づいており、そして朱雀大路は前期難波宮南門を起点としていることによります。そうであれば、出土土器の編年が示すように、朱雀大路と「難波大道」の設計・造営が前期難波宮創建と同時期(七世紀中頃)に始まったと考えざるを得ません。

 以上のように、高橋さんの指摘(2)と安村さんの「難波大道」下層の土器編年が指し示すように、条坊の基準・起点となる前期難波宮から南に延びる朱雀大路とともに条坊都市も七世紀中頃に造営開始されたと考えるのが常識的かつ学問的判断ではないでしょうか。(おわり)

(注)
古賀達也「洛中洛外日記」1617話(2018/03/01)〝九州王朝の難波大道(1)〟
「九州王朝の都市計画 ―前期難波宮と難波大道―」『古田史学会報』146号、2018年。
同「洛中洛外日記」2068話(2020/01/23)〝難波京朱雀大路の造営年代(3)〟


第3231話 2024/02/19

難波京条坊研究の論理 (6)

難波京の活動期間を初期(孝徳朝)、前期(天武朝)、後期(聖武朝)の三段階に分ける積山説に対して、わたしは、前期難波宮(京)は孝徳没後も列島内最大規模の王都であり、ここをおいて全国の評制統治が可能な規模の王都はないことから、前期難波宮は王都王宮として、朱鳥元年(686年)に焼失するまで、斉明期・天智期も機能していたはずと考えていました。たとえば670年(白鳳十年)に造籍された全国的戸籍「庚午年籍」も前期難波宮の九州王朝(倭国)の中央官僚がその作業に携わったと思われます。

積山説に考古学の分野から疑義を呈したのが佐藤隆さんでした。佐藤さんの論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(注①)によれば、孝徳天皇が没した後も『日本書紀』の飛鳥中心の記述とは異なり、考古学的(出土土器)には難波地域の活動は活発であり、難波宮や難波京は整地拡大されています。

同じく大阪の考古学者、高橋工さん(大阪市文化財協会調査課長・当時)も「新春古代史講演会2020」(古田史学の会・共催。注②)で「難波宮・難波京の最新発掘成果」について講演し、難波京条坊と朱雀大路の発掘調査による最新の報告がなされました。特に難波京の条坊の有無についての論争にふれられ、「前期難波宮を造営し、その地を宮都とするのだから、宮都にふさわしい条坊都市が当初から存在したと考えるのが当たり前」という指摘は素晴らしく論理的でした。考古学者からこれほどロジカルな発言を聞くのは初めてのことで、わたしは深く感動しました。

今回、紹介した佐藤さん高橋さんは、難波京発掘調査において日本を代表する考古学者であり、そのようなお二人による最新の見解は重要です。(つづく)

(注)
①佐藤隆「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」『大阪歴史博物館 研究紀要』第15号、平成29年(2017)3月。
②古賀達也「洛中洛外日記」2066話(2020/01/21)〝難波京朱雀大路の造営年代(1)〟


第3230話 2024/02/18

正木さんが韓国の前方後円墳跡を発見

 昨日、 「古田史学の会」関西例会が開催されました。次回、3月例会の会場は東成区民センターで、初めて例会に使用する会場です。「古田史学の会」HPなどで場所をご確認ください。

 例会で正木さんが発表された鹿児島県指宿市(尾長谷迫遺跡)出土の暗文土師器の報告は、『古田史学会報』180号の正木稿「『倭姫王』と発掘された『暗文土師器』」をパワーポイントで詳述したもので、興味深く拝聴拝見しました。同土師器は「畿内産土師器」と称されてきたもので、通説では畿内(大和朝廷)で成立した土師器であり、それが出土するのは大和朝廷と関係が深い官衙や遺跡とされていました。この度、大和から遠く離れた薩摩で、しかも大和朝廷が「隼人」を制圧する以前の七世紀中葉の層位から出土したことから、メディア(南日本新聞)で報道されました。このことを「洛中洛外日記」3228話(2024/02/15)〝『古田史学会報』180号の紹介〟で簡単に紹介しました。

 わたしはこの暗文土器は畿内産ではなく、太宰府(九州王朝にとっての「畿内」)からもたらされた可能性があることを指摘しました。「洛中洛外日記」でも、律令制官僚群の大量発生により、須恵器坏Bとともに、ロクロ回転台で量産された土師器について論じたことがありました(注①)。暗文土師器がこの量産土師器に含まれるのかどうかを調べるために、本日、京都府立大学文学部図書館で暗文土師器に関する資料を閲覧しました(注②)。この調査結果についは別に報告します。

 更に正木さんは、朝鮮半島での前方後円墳について重要な発表を行いました。従来、前方後円墳が発見されていなかった瓦難川上流地域(北高敞郡)に前方後円墳の痕跡があることを発見したのです。聞けば、韓国のYouTube動画中に、偶然映り込んでいたこの痕跡に気づいたとのことでした。現地確認が必要ですが、その動画から切り取られた写真には、方墳の隣りに平削された前方後円形の痕跡が見え、それが前方後円墳跡であれば大発見です。6月16日(日)に開催が決まった、「古田史学の会」会員総会記念講演会で、改めて発表されるかもしれません。

 2月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔2月度関西例会の内容〕
①拙論「『邪靡堆』とは何か」の疑問に答える (姫路市・野田利郎)
②古代船の復元と祭祀船の謎 (大山崎町・大原重雄)
③2月ハイキング「尼崎城下散策」とその若干の研究 (八尾市・上田 武)
④続「倭京」と多利思北孤 (東大阪市・萩野秀公)
⑤多元史観では7世紀中葉に薩摩指宿と近江・畿内に深い繋がりがあった (川西市・正木 裕)
⑥九州勢力の半島進出と撤退 (川西市・正木 裕)

◎古賀から役員会決定事項の報告
・会員総会・記念講演会(27集出版記念)の日程と講師
6月16日(日)午後 会場:未定 参加費:無料
講演会講師:谷本茂さん、正木裕さん
・関西例会・会計担当の交代 竹村順弘さん→上田武さん

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
03/16(土) 会場:東成区民センター 地下鉄千日前線今里駅西 徒歩3分

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2542話(2021/08/18)〝太宰府出土、須恵器と土師器の話(6)〟
同「太宰府出土須恵器杯Bと律令官制 ―九州王朝史と須恵器の進化―」『多元』167号、2022年。
同「太宰府出土須恵器杯Bと律令官制 ―九州王朝史と須恵器の進化―」『九州王朝の興亡』(『古代に真実を求めて』26集)明石書店、2023年。
②『畿内産暗門土師器関連資料1 ―西日本編』奈良国立文化財研究所、2005年。

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古田史学の会 都島区民センター 2024.2.17

2024年 2月度関西例会発表一覧
(ファイル・動画)

YouTube公開動画①②③です。

1,拙論「『邪靡堆』とは何か」の疑問に答える (姫路市・野田利郎)

 ①https://www.youtube.com/watch?v=QGGzaTMLJck&t=1653s

2,古代船の復元と祭祀船の謎 (大山崎町・大原重雄)

 ①https://www.youtube.com/watch?v=altEG2JOmq8

 ②https://www.youtube.com/watch?v=9fV4npt4hPE&t=93s

3,2月ハイキング「尼崎城下散策」とその若干の研究
(八尾市・上田 武)

https://www.youtube.com/watch?v=60O1ZfXfX4c

https://www.youtube.com/watch?v=XCR6A2Gd_8w

https://www.youtube.com/watch?v=e0DXXGra8Yg&t=17s

4,続「倭京」と多利思北孤 (東大阪市・萩野秀公)

   萩野秀公@巨大防御施設の護るもの

https://www.youtube.com/watch?v=3A-gEcfok38

https://www.youtube.com/watch?v=K0uI5gX8SX8&t=1264s

5,多元史観では7世紀中葉に薩摩指宿と
近江・畿内に深い繋がりがあった (川西市・正木 裕)

正木裕@倭姫王と発掘された暗文土師器~実在しないはずの土器が出土

https://www.youtube.com/watch?v=frQIWT_lXIw&t=10s

https://www.youtube.com/watch?v=26HV5R3d7fs&t=2s

6,九州勢力の半島進出と撤退 (川西市・正木 裕)

https://www.youtube.com/watch?v=nYGmM9ty2l8&t=25s

https://www.youtube.com/watch?v=rTqjSSH-gBU


第3229話 2024/02/16

難波京条坊研究の論理 (5)

 積山説の年代観にわたしも疑問を感じていました。積山説(注①)は難波京を初期(孝徳朝)、前期(天武朝)、後期(聖武朝)の三段階に分けるのですが、前期(天武朝)から後期(聖武朝)までの間の数代の天皇の時代が抜けるのは理解できますが、初期(孝徳朝)と前期(天武朝)の間の斉明・天智の二代が抜けるのは不自然だからです。前期難波宮で執務していた数千人の中央官僚群は、その間、どこで何をしていたとするのでしょうか。

 前期難波宮は朱鳥元年(686年)の火災で焼失したことが『日本書紀』の記事だけでなく、出土遺構も火災の痕跡を示しており、焼失後は、聖武天皇による後期難波宮造営まで王都として機能していません。しかし、前期難波宮(京)は孝徳没後も列島内最大規模の王都であり、ここをおいて全国の評制統治が可能な規模の王都はありません。ですから、前期難波宮は王都王宮として、朱鳥元年に焼失するまで機能していたはずと考えていました。

 したがって、積山説は考古学的出土事実そのものに基づくというよりも、出土事実に対する解釈を『日本書紀』の記事(孝徳天皇没後の中大兄皇子らの飛鳥宮への転居)に基づいたのではないでしょうか。なぜなら、前期難波宮九州王朝王都説によるならば、孝徳没後の近畿天皇家内の記事(事情)と、九州王朝王都である前期難波宮の状況とは別の事柄だからです。とは言うものの、発掘調査報告書から積山説の当否を判断するのは、門外漢のわたしには難しく、実証的な批判は容易ではありませんでした。そのようなとき、この積山さんの理解に疑義を呈したのが佐藤隆さんでした。

 佐藤さんの論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(注②)には、文献史学の通説にとって衝撃的な次の指摘がありました。

 「考古資料が語る事実は必ずしも『日本書紀』の物語世界とは一致しないこともある。たとえば、白雉4年(653)には中大兄皇子が飛鳥へ“還都”して、翌白雉5年(654)に孝徳天皇が失意のなかで亡くなった後、難波宮は歴史の表舞台からはほとんど消えたようになるが、実際は宮殿造営期以後の土器もかなり出土していて、整地によって開発される範囲も広がっている。それに対して飛鳥はどうなのか?」(1~2頁)

 「難波Ⅲ中段階は、先述のように前期難波宮が造営された時期の土器である。続く新段階も資料は増えてきており、整地の範囲も広がっていることなどから宮殿は機能していたと考えられる。」(6頁)

 「孝徳天皇の時代からその没後しばらくの間(おそらくは白村江の戦いまでくらいか)は人々の活動が飛鳥地域よりも難波地域のほうが盛んであったことは土器資料からは見えても、『日本書紀』からは読みとれない。筆者が「難波長柄豊碕宮」という名称や、白雉3年(652)の完成記事に拘らないのはこのことによる。それは前期難波宮孝徳朝説の否定ではない しかし、こうした難波地域と飛鳥地域との関係が、土器の比較検討以外ではなぜこれまで明瞭に見えてこなかったかという疑問についても触れておく必要があろう。その最大の原因は、もちろん『日本書紀』に見られる飛鳥地域中心の記述である。」(12頁)

 「本論で述べてきた内容は、『日本書紀』の記事を絶対視していては発想されないことを多く含んでいる。筆者は土器というリアリティのある考古資料を題材にして、その質・量の比較をとおして難波地域・飛鳥地域というふたつの都の変遷について考えてみた。」(14頁)

 この佐藤さんの指摘は革新的です。孝徳天皇が没した後も『日本書紀』の飛鳥中心の記述とは異なり、考古学的(出土土器)には難波地域の活動は活発であり、難波宮や難波京は整地拡大されているというのです。

 この現象は『日本書紀』が記す飛鳥地域中心の歴史像とは異なり、一元史観では説明困難です。孝徳天皇が没した後も、次の斉明天皇の宮殿があった飛鳥地域よりも「天皇」不在の難波地域の方が発展し続けており、その傾向は「おそらくは白村江の戦いまでくらい」続いたとされています。白村江戦(663年)での敗北により九州王朝の〝東の都〟難波京は停滞を始めたかもしれませんが、670年(白鳳十年)には全国的な戸籍「庚午年籍」の造籍を行っており、九州王朝の権威や実力が白村江戦敗北により、一気に無くなったということではないように思われます。

 わたしはこれまで難波編年の勉強において、土器様式の変遷に注目してきたのですが、佐藤さんは土器出土量の変遷にも着目され、その事実が『日本書紀』の飛鳥地域中心の記述と「不一致」であることを指摘されました。難波を自ら発掘されてきた考古学者ならではの慧眼です。この佐藤さんの指摘により、難波京の活動は斉明期・天智期にも継続されており、条坊造営も進んでいったと考えています。(つづく)

(注)
①積山洋「古代都城と難波宮の研究」大阪市立大学、学位論文(文学博士)、2009年。
同『古代の都城と東アジア(大極殿と難波京)』清水堂出版、2013年。
②佐藤隆「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」『大阪歴史博物館 研究紀要』第15号、平成29年(2017)3月。


第3228話 2024/02/15

『古田史学会報』180号の紹介

 本日発行された『古田史学会報』180号を紹介します。同号には拙稿「論文削除要請された『親鸞思想』―古田武彦「親鸞論」の思い出―」を掲載して頂きました。
同稿は、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)から、「覚信尼と『三夢記』についての考察 豅弘信論文への感想」(『古田史学会報』178号)への批評を求められたおり、古田先生の親鸞研究関連著作を読み直したことをきっかけに、その代表作『親鸞思想』(冨山房、1975年)出版に関する思い出を綴ったものです。近年、古田学派内でも古田親鸞論の研究や論稿を久しく見なくなりましたので、わたしの記憶が鮮明なうちに、先生から直接お聞きしたことを書き残しておこうと考えています。

 一面の正木稿は、新年早々に茂山憲司さん(『古代に真実を求めて』編集部)から届いたメール情報(「南日本新聞」元旦の記事)に基づいて書かれたもので、鹿児島県指宿市(尾長谷迫遺跡)から出土した暗文土師器について論じた好論です。従来は大和朝廷に関係する遺構(国府跡など)からしか出土しない同土師器が、九州王朝時代の七世紀中葉の薩摩の遺跡から出土したことで、当地のメディアに注目されたようです。これは、正木さんがこれまで発表されてきた、天智の后、倭姫王が薩摩出身の〝九州王朝の姫〟(『続日本紀』には「薩末比売」、現地伝承では「大宮姫」)とする一連の仮説と整合する出土事実であり、正木説を支持する考古学的傍証となります。

 近年では、九州王朝(倭国)と鹿児島県との関係をうかがわせる「青竹の笛」伝承研究も伊藤正春さん(古田史学の会・会員、練馬区)から発表されており、注目しています(注)。

 180号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』180号の内容】
○「倭姫王」と発掘された「暗文土師器」 川西市 正木 裕
○皇極はなぜ即位できたのか 河内祥輔・神崎勝両氏の問題提起を受けて たつの市 日野智貴
○野田利郎氏の「邪靡堆」論と漢文解釈への疑問 神戸市 谷本 茂
○論文削除要請された『親鸞思想』―古田武彦「親鸞論」の思い出― 京都市 古賀達也
○「中天皇」に関する考察 茨木市 満田正賢
○持統天皇の「白妙の衣」は対馬の鰐浦の白い花のこと 京都市 久冨直子・大山崎町 大原重雄
○令和六年、新年のご挨拶 ―「立正安国論」日蓮自筆本の「国」― 「古田史学の会」・代表 古賀達也
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己

(注)
美濃晋平『笛の文化史(古代・中世) エッセイ・論考集』勝美印刷、2021年。
古賀達也「洛中洛外日記」2597話(2021/10/18)〝美濃晋平『笛の文化史(古代・中世) エッセイ・論考集』を読む〟
同「洛中洛外日記」2604話(2021/10/27)〝大隅国、台明寺「青葉の笛」伝承〟
同「洛中洛外日記」2633話(2021/12/11)〝失われた九州王朝の横笛か「清水の笛」〟
「失われた九州王朝の横笛 ―「樂有五絃琴笛」『隋書』俀国伝―」『古田史学会報』168号、2022年。

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YouTube講演 案内 

古代大和史研究会(59)2024年1月23日 於:奈良県立図書情報館

倭国(九州王朝) から日本国(大和朝廷) へ⒀

「倭姫王」と発掘された「暗文土師器」正木裕

https://www.youtube.com/watch?v=8DDjZ2nPxW0


第3227話 2024/02/15

難波京条坊研究の論理 (4)

  難波京条坊研究において、当初は考古学的調査の過渡期で出土遺構例が充分ではなかったこともあり、たとえば植木久さんの『難波宮跡』(2009年、注①)では、なんらかの方格地割りの施工が七世紀中頃から七世紀末になされた可能性があると表現しています。こうした経緯に基づき、難波京の展開を論じたのが積山洋さんでした。

 積山さんの博士号論文「古代都城と難波宮の研究」(2009年、注②)は、難波京を初期(孝徳朝)、前期(天武朝)、後期(聖武朝)の三段階に分け、初期難波京では宮の外郭ラインを延長するという〝条坊制ではない方画プラン〟が施行されたとします。そして前期難波京では天武天皇の複都制構想のもと、〝方900尺の方画地割〟が部分的に施工され、その後、聖武天皇が天武天皇の意志を継いで〝条坊区画〟を伴う後期難波京を造営したとします。この理解は『日本書紀』や『続日本紀』の記事を前提(史実)として考古学的知見を当てはめたもので、基本的に一元史観の文献史学の通説を是とする立場と方法に立脚しています。

 博士号論文の四年後に出された『古代の都城と東アジア(大極殿と難波京)』(注③)では、増加した発掘調査による知見も取り入れ、本格的に条坊が整備され始めるのは前期難波京(天武朝)であり、藤原京と併行するとしています。この積山説はほぼ定説となりました。

 この積山説の年代観に疑義を呈したのが佐藤隆さんでした(注④)。佐藤さんも「古田史学の会」で講演(注⑤)していただいたことがある大阪市の考古学者で、その優れた諸論文、なかでも「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(注⑥)をわたしは高く評価し、古田学派研究者や古田説支持者にくり返し紹介してきました(注⑦)。(つづく)

(注)
①植木久『難波宮跡』同成社、2009年。
②積山洋「古代都城と難波宮の研究」大阪市立大学、学位論文(文学博士)、2009年。
③積山洋『古代の都城と東アジア(大極殿と難波京)』清水堂出版、2013年。
④佐藤隆「古代難波地域における開発の諸様相 ―難波津および難波京の再検討―」『大阪歴史博物館 研究紀要』第17号、2019年。
⑤佐藤隆氏(大阪市教育委員会文化財保護課副主幹)「発掘調査成果からみた前期難波宮の歴史的位置づけ」、新春古代史講演会2022。1月15日、会場:i-site なんば(大阪府立大学難波サテライト)。
⑥同「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」『大阪歴史博物館 研究紀要』第15号、平成29年(2017)3月。
⑦古賀達也「洛中洛外日記」1406話(2017/05/27)〝大阪歴博『研究紀要』15号を閲覧〟
同「洛中洛外日記」1407話(2017/05/28)〝前期難波宮の考古学と『日本書紀』の不一致〟
同「前期難波宮の考古学 飛鳥編年と難波編年の比較検証」『東京古田会ニュース』175号、2017年。
同「洛中洛外日記」1906話(2019/05/24)〝『日本書紀』への挑戦、大阪歴博(2)“七世紀後半の難波と飛鳥”〟
同「『日本書紀』への挑戦《大阪歴博編》」『古田史学会報』153号、2019年。
同「洛中洛外日記」2600話(2021/10/22)〝佐藤隆さん(大阪歴博)の論文再読(2)〟
同「大和『飛鳥』と筑紫『飛鳥』」『東京古田会ニュース』203号、2022年。
同「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」『多元』176号、2023年。


第3226話 2024/02/14

難波京条坊研究の論理 (3)

 難波京(前期難波宮)には条坊があったとする、わたしの論理的予察が条坊跡出土により立証されましたが、わたしには、もう一つの重要な検証テーマがありました。それは、難波京の条坊造営が開始されたのはいつ頃からかという問題でした。

 前期難波宮を九州王朝の王都王宮とするわたしの仮説からすれば、あるいは一元史観の通説に立っても、その宮殿や官衙は全国を評制統治するために造営したのであり、そうであれば大勢の中央官僚やその家族、そしてその生活を支える商工業者が居住可能な巨大条坊都市が成立していなければならず、王宮・官衙と同時期に条坊都市設計・造営がなされたはずと考えていました。列島内最大規模で初の朝堂院様式の宮殿・官衙と、そこで執務する多数(数千人)の中央官僚とその家族の居住施設を、同時に設計・造営するのは当然のことではないでしょうか。古代史学が空理空論でなければ、そう考える他ありません。ですから、前期難波宮には条坊都市が伴っていたはずと、わたしは確信していました。この確信は、古田先生から学んだソクラテスの言葉〝論理の導くところへ行こう。たとえそれが何処に至ろうとも〟という学問精神に支えられていました。

 他方、難波京条坊の造営を聖武期(注①)、後に天武期(注②)からとする積山洋さんの説が発表され、有力視されてきました。難波を発掘調査してきた積山さんの研究と経験に基づく仮説ですから、考古学の専門家でもないわたしにとって、克服すべき大きな課題となったのです。(つづく)

(注)
①積山洋「古代都城と難波宮の研究」大阪市立大学、学位論文(文学博士)、2009年。
②同『古代の都城と東アジア(大極殿と難波京)』清水堂出版、2013年。


第3225話 2024/02/13

難波京条坊研究の論理 (2)

 難波京(前期難波宮)には条坊があったはずとする、わたしの論理的予察に条坊跡の出土事実という実証が後追いしました。「古田史学の会」関西例会で、前期難波宮九州王朝王宮説を口頭発表したのは2007年ですが(注①)、その後、次の条坊跡の発見が続いたのです。ちなみに、最初に条坊跡(当時は用心深く「方格地割」と表現)を発見されたのは高橋工さんで、「古田史学の会」で講演していただいたこともある、大阪を代表する考古学者の一人です(注②)。

 1.天王寺区小宮町出土の橋遺構 (『葦火』No.147、2010年)
2.中央区上汐1丁目出土の道路側溝 (『葦火』No.166、2013年)
3.天王寺区大道2丁目出土の道路側溝跡 (『葦火』No.168、2014年)

 以上の3件ですが、いずれも難波宮や地図などから推定した難波京復元条坊ラインに対応した位置からの出土で、これらの発見により難波京に条坊が存在したとする見解が有力となりました。とりわけ2の中央区上汐出土の遺構は上下二層の溝からなるもので、下層は前期難波宮の頃のものと判断されており、七世紀中頃の前期難波宮造営に伴って、条坊造営も開始されたことがうかがえます。もちろん、上町台地の地形上の制約から、太宰府や藤原京のような広範囲の整然とした条坊完備には至っていないと考えられています。
条坊跡の出土を受けて、それでも難波京には条坊はなかったとする論者は、次の批判を避けられないとわたしは論じました(注③)。

 第一に、天王寺区小宮町出土の橋遺構が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
第二に、中央区上汐1丁目出土の道路側溝が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
第三に、天王寺区大道2丁目出土の道路側溝が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。

 このように、三種類の「偶然の一致」が偶然重なったにすぎぬ、として、両者の必然的関連を「回避」しようとする。これが、「難波京には条坊はなかった」と称する人々の、必ず落ちいらねばならぬ、「偶然性の落とし穴」です。しかし、自説の立脚点を「三種類の偶然の一致」におかねばならぬ、としたら、それがなぜ、「学問的」だったり、「客観的」だったり、論証の「厳密性」を保持することができるのでしょうか。わたしには、それを決して肯定することができません。(つづく)

(注)
①「洛中洛外日記」154話(2007/12/08)〝難波宮跡に立つ〟。論文発表は、2008年(「前期難波宮は九州王朝の副都」『古田史学会報』85号)。
②高橋工氏(大阪市文化財協会調査課長・当時)「難波宮・難波京の最新発掘成果」。新春古代史講演会2020。1月19日、会場:アネックスパル法円坂(旧大阪市教育会館。難波宮跡の東隣り)。
③古賀達也「洛中洛外日記」683話(2014/03/26)〝難波京からまた条坊の痕跡発見〟
「条坊都市『難波京』の論理」『古田史学会報』123号、2014年。