古賀達也一覧

第353話 2011/11/22

百済人祢軍墓誌の「日本」

 11月の関西例会で水野さんから紹介された「百済人祢軍墓誌」ですが、どうやらこの墓誌は九州王朝説に大変有利な内容を含んでいるようです。現在、墓誌拓本のコピー入手を試みていますが、新聞発表などでわかる範囲で、見解を述べてみたいと思います。

 この墓誌は百済人の祢軍(でいぐん・ねいぐん)という人物の墓誌で、678年二月に長安で没して同年十に埋葬されたと記されています。残念ながら墓誌そのものは行方不明ですが、その拓本が中国の学者から紹介されました。王連竜さん(吉林大学古籍研究所副教授)が「社会科学戦線」7月号で発表された「百済人祢軍墓誌論考」という論文です。中国在住の青木さん(「古田史学の会」会員)のご協力により、同論文を読むことができました。この場をお借りして御礼申し上げます。

 墓誌の中に「日本」という表記があり、これは現存最古の「日本」ということで、マスコミは取り上げています。これはこれですばらしい史料なのですが、実はそれ以外に大変興味深い記事が記されています。

 たとえば「僭帝一旦称臣」という記事です。くわしい解説は拓本コピーで確認した後にしたいと思いますが、この「僭帝」とは誰なのか、百済王なのか、倭王なのかというテーマです。関西例会後の懇親会でも喧々囂々の論争を行いました。墓誌の文脈から判断しなければなりませんが、倭王の可能性も高く、もしそうであれば九州王朝の天子、薩野馬のことではないでしょうか。白村江戦で敗北し、捕らわれの身となった薩野馬であれば、「僭帝一旦称臣」という表現がぴったりです。少なくとも大和朝廷にはこのような天皇がいた記録はありません。

 この他にも、「日本余(口へんに焦)、据扶桑以逋誅」という記事がありますが、朝日新聞(2011/10/23)によれば、白村江戦で敗れた「生き残っ た日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり、罰を逃れている」と解説されています。

 唐代において扶桑は東方にある国と認識されており、「日本の別称」という説明は必ずしも正確ではありません。従って、ここは日本の残存勢力が日本(倭国)の更に東に籠もって抵抗を続けていると解すべきではないでしょうか。そすると、扶桑とされた地域は近畿、あるいは東海か関東のいずれかと思われます。

 九州王朝説の立場から見れば、倭国・九州王朝の中枢領域である九州の更に東ということになりそうです。以前、わたしは「九州王朝の近江遷都」という論文で、白鳳元年(661)に九州王朝は近江遷都したのではないかという説を発表しました。すなわち、白村江戦の直前に九州王朝は近江に遷都したと理解したの です。こうした視点からすると、日本残存勢力が籠もったとする扶桑とは、近江宮か前期難波宮ということになります。

 墓誌拓本そのものを見ていませんので、まだアイデア(思いつき)の段階ですが、この墓誌の内容のすごさが予感されるのです。今後、拓本精査の上、詳論したいと考えています。

百済禰軍墓誌


第352話 2011/11/20

和歌木簡と九州年号

 昨日の関西例会で、わたしは「和歌木簡と九州年号」という研究発表を行いました。難波京整地層から出土した「春草」木簡と呼ばれるもで、650年頃のものとされています。「はるくさのはじめのとし」と読める万葉仮名が記されており、和歌木簡と見られています。
 「春草の」という言葉は万葉集でも「枕詞」の類として柿本人麿の歌にも見られますが、わたしはこの木簡の後半部分「はじめのとし」という表現に注目しま した。お正月を示す「年の始め」という表現はよく見られますが、「はじめの年」という表記を和歌で見た記憶がなかったからです。
そこでわたしは、この「はじめのとし」を「元(はじめ)の年」と理解し、ある九州年号の元年を意味するものとする説を発表しました。具体的にはその出土 地層の年代から、九州年号の常色元年(647)に読まれた歌ではないかと推測しました。「春草の」という「枕詞」も柿本人麿の歌では「大宮処」「わが大王」といったものに関わって使用されていることから、この和歌木簡の「はるくさの」も、 春草が勢いよく成長するように九州王朝の天子の権勢を形容したものであり、その天子の常色元年を言祝(ことほ)いだ歌ではなかったでしょうか。
 ちなみに九州年号の常色年間は評制が全国に施行され、我が国初で最大規模の朝堂院様式の宮殿である前期難波宮の建設も始まっており、九州王朝史において 特筆される時期だったのです。そのことを言祝いだ和歌木簡が難波京整地層から出土したことも偶然とは思われません。
 このわたしの新説はいかがでしょうか。なお、11月例会の発表は次の通りでした。中でも、水野さんが紹介された「百済人祢軍墓誌」は7世紀後半の重要な内容が記されており、画期的な発見です。この点、今後報告したいと思います。〔11月度関西例会〕
1). ヘブライ語のミリアム(向日市・西村秀己)
2). 鬼前太后・干食王后・法興元で頓挫(豊中市・木村賢司)
3). 「伊都国」の論理 ーー邪馬一国、首都の変遷(姫路市・野田利郎)
4). 第八回古代史セミナー(八王子)主な項目(豊中市・大下隆司)
5). (彦島の)伊勢の地を探す(大阪市・西井健一郎)
6). 和歌木簡と九州年号(京都市・古賀達也)
7). 磐井討伐の詔の正体(川西市・正木裕)
8). 卑弥呼の名字(木津川市・竹村順弘)
9). 広開土王碑17年条と山海経記事(木津川市・竹村順弘)
10).南斉書の百済王名(木津川市・竹村順弘)○代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況・会務報告・百済人祢軍墓誌の追跡・他。

第327話 2011/07/23

野中寺弥勒菩薩銘の中宮天皇

 7月16日の関西例会で、わたしは野中寺の弥勒菩薩銘にある「中宮天皇」を九州王朝の天子 (薩夜麻)の奥さんのこととする、仮説以前のアイデア(思いつき)を発表しました。中宮天皇の病気平癒を祈るために造られた弥勒菩薩像のようですが、銘文中の中宮天皇について、一元史観の通説では説明困難なため、偽作説や後代造作説なども出ている謎の仏像です。
 造られた年代は、その年干支(丙寅)・日付干支から666年と見なさざるを得ないのですが、この年は天智5年にあたり、天智はまだ称制の時期で、天皇にはなっていません。斉明は既に亡くなっていますから、この中宮天皇が誰なのか一元史観では説明困難なのです。
 従って、大和朝廷の天皇でなければ九州王朝の天皇と考えたのですが、この時、九州王朝の天子薩夜麻は白村江戦の敗北より、唐に囚われており不在です。 そこで、「中宮」が後に大和朝廷では皇后職を指すことから、その先例として九州王朝の皇后である薩夜麻の后が中宮天皇と呼ばれ、薩夜麻不在の九州王朝内で代理的な役割をしていたのではないかと考えたのです。(不改常典については別に紹介したいと思います)
まだまだアイデアレベルの作業仮説ですので、間違っているかもしれませんが、皆さんのご意見を聞くために発表しました。
7月例会の発表は下記の通りですが、西村さんの隼人研究のための現地調査報告は歴史研究の王道とも言うべき取り組みで、「歴史は脚にて知るべきものなり」(秋田孝季)を実践されたものです。また、岡下さんの作成された資料は、鏡の銘文の裏文字・左文字を抜粋されたもので、なかなかの労作です。今後の銘文研究に役立つことが期待されます。
〔古田史学の会・7月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 竹村順弘氏作成資料の解説(向日市・西村秀己)
2). 鹿児島旅行の報告(隼人調査)(向日市・西村秀己)
3). 女多男少(京都市・岡下英男)
4). 『古鏡銘文集成』の裏文字銘文(京都市・岡下英男)
5). 古代大阪湾の新しい地図 難波(津)は上町台地になかった(豊中市・大下隆司)
6). 古田史学の会総会出席雑感メモ(豊中市・木村賢司)
7). 伊勢王と明日香皇子の歌(川西市・正木裕)
8). 百済大寺・高市大寺・大官大寺について(川西市・正木裕)
9). 中宮天皇と不改常典(京都市・古賀達也)
○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田氏近況・会務報告・役行者伝説の山々は大隅半島か・他(奈良市・水野孝夫)

第216話 2009/07/19

太宰府条坊の再考

 昨日の関西例会には遠く中国は曲阜の大学に留学されている青木さんが参加されました。中国での古代日本に関する研究動向などもうかがうことができ、貴重な一日となりました。
 研究発表でも正木さんから、新聞でも報道された韓国の扶余出土「那尓波(なにわ)連公」木簡の表記時期が『日本書紀』天武10年の「難波連」賜姓記事よりも早い可能性が高いことを指摘され、この史料事実は九州王朝説に有利であるとの注目すべき見解が発表されました。詳細は会報で発表予定です。
 伊東さんからも、太宰府条坊研究の最新状況が報告されました。その中でも特に興味をひかれたのが、大宰府政庁遺構や観世音寺遺構の中心軸が条坊とずれているという報告でした。すなわち、大宰府政庁や観世音寺よりも条坊の方が先に作られたという、井上信正氏の研究が紹介されたのですが、この考古学的事実は九州王朝の太宰府建都に関する私の説(「よみがえる倭京(大宰府)」『古田史学会報』No.50、2002年6月)の修正を迫るもののようでした。
 その後、伊東さんの資料をコピーさせていただき、井上論文などを読みましたが、大変重要な問題を発見しました。今後、研究を深めて発表したいと思います。
 なお例会での発表は次の通りです。

〔古田史学の会・7月度関西例会の内容〕
○研究発表
1).「自悪其名不雅」考 再び(向日市・西村秀己)
2).月は女神、月読尊は男・他(豊中市・木村賢司)
3).韓国・扶余出土木簡の衝撃─やはり『書紀』は三四年遡上していた─(川西市・正木裕)
4).「年輪年代法」と法隆寺西院伽藍2(たつの市・永井正範)
5).淡路島考その2─国生み神話の「淡路洲」は九州にあった─(姫路市・野田利郎)
6).太宰府の条坊(生駒市・伊東義彰)
7).天武十年十月二五日、天皇は何を諸臣に聞いたか(川西市・正木裕)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・『二中歴』年代歴の「年始」について・他(奈良市・水野孝夫)


第201話 2008/12/28

九州の式内社の少なさ

 本年最後の関西例会が12月20日に行われました。今回は竹村さんから面白いデータが発表されました。『延喜式』神名帳に記された三千社以上の神社の国別・都府県別棒グラフです。それを見ると、壱岐対馬を除く九州が明らかに神社数が少ないことがわかるのですが、この史料事実は九州王朝説でなければ説明困難ではないでしょうか。
 神名帳に記載された神社は式内社と呼ばれ、いわば近畿天皇家公認の神社であり、恐らくは経済的支援も受けていたことでしょう。その式内社が九州島(壱岐対馬を除く西海道)が他と比べて明らかに少ないというのですから、九州には近畿天皇家が公認したくなかった神社が数多くあったと考えざるを得ません。これら非公認の神社こそ、九州王朝に関連がより深い神社であったことは容易に想像できます。従って、式内社から洩れた九州の神社を丹念に調べれば、九州王朝が 祀った祭神、あるいは九州王朝の天子が祀られていた神社を発見できるかもしれませんね。
 なお、壱岐対馬は島国でありながら、比較的式内社が多く、このことも九州王朝と近畿天皇家の関係を考える上で、貴重な史料事実と思われます。すなわち、壱岐対馬など天国領域は九州王朝だけでなく近畿天皇家にとっても保護すべき共通の祖神を祀る神社が多かった証拠でしょう。
   こうした式内社分布の分析は、母集団が三千以上であることから、比較的安定した信頼しうるデータと方法と言えます。どなたか、更に分析されてはいかがでしょうか。きっと、歴史の真実が見えてくると思います。
   なお、例会の発表内容は次の通りでした。

   〔古田史学の会・12月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 年末近時雑感(豊中市・木村賢司)
2). 豊前王朝説と西村命題(京都市・古賀達也)
3). 吉備はどこ?(大阪市・西井健一郎)
4). 持統大化・原秀三郎説の紹介(川西市・正木裕)
5). 盗まれた「国宰」(川西市・正木裕)
6). 河内戦争(相模原市・冨川ケイ子)
7). 九州王朝と冠位・式内社(木津川市・竹村順弘)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・満鉄特急あじあ号機関車の塗色=青藍と暗緑、両方あった?・他(奈良市・水野孝夫)


第179話 2008/06/21

尾張一宮、真清田神社参詣

 仕事で愛知県一宮市を頻繁に訪れるのですが、先日、同市に鎮座する真清田(ますみだ)神社を参詣しました。尾張一宮が熱田神宮ではなく、ここの真清田神社であるのも何か不思議ですが、きっといわれがあるのでしょう。

    この真清田神社の御祭神は天火明命であることも興味深いのですが、わたしは末社の天神社・犬飼社・愛鷹社に注目しました。「犬飼」とか「愛鷹」とありますから、鷹狩りとの関係が濃厚です。どなたか、地元の人で研究されてはいかがでしょうか。
  6月15日には関西例会と講演会・会員総会が行われました。わたしは大化改新詔の新発見について発表しました。古田先生もこの研究をされておられますの で、今後の展開が楽しみです。武雄市の古川さんはカラー映像を駆使して、天子宮の調査報告をされました。天子宮が九州に、就中、肥後に多いことは九州王朝や多利思北孤との関係をうかがわせます。この分布事実を大和朝廷一元史観の人々はどのように説明されるのでしょうか。本テーマも九州王朝説でなければ説明できないと思われ、重要な研究となるでしょう。
 
  〔古田史学の会・6月度関西例会の内容〕
  ○研究発表
  1) 韓国を斜め横断四日間(豊中市・木村賢司)
  2) 古田史学の会「林間雑論会」開催(豊中市・木村賢司)
  3) 近江朝廷の正体─壬申の乱の「符」─(京都市・古賀達也)
  4) 多婆那国は「遠賀川流域、田川郡」にあった(姫路市・野田利郎)
  5) 西村さんの日付干支表活用法(木津川市・竹村順弘)
  ○水野代表報告
   古田氏近況・会務報告・本朝皇胤紹運録「持統天皇大化三年」の発見・他(奈良市・水野孝夫)
 
  〔古田史学の会・講演会〕
  1). 天子宮の調査報告(武雄市・古川清久)
  2). 前期難波宮、九州王朝副都説の展開─大化改新詔の真実─(京都市・古賀達也)


第175話 2008/05/12

再考、難波宮の名称

 163話で、 前期難波宮は「難波宮」と呼ばれていたとする考えを述べましたが、4月の関西例会で正木裕さん(本会会員、川西市)から、孝徳紀白雉元年と二年条に見える味経宮(あじふのみや)が前期難波宮ではないかとの異論が出されました。その主たる根拠は、白雉二年に味経宮で僧侶2100余人に一切経を読ませたり、2700余の燈を燃やしたりという大規模な行事が行えるのは、前期難波宮しかない。更にそこで読まれた安宅・土側経は、翌年完成する難波宮の地鎮に相応しい経典であるというものでした。
 この説明を聞いて、成る程と思いました。というのも、わたし自身も味経宮は前期難波宮ではないかと考えた時期があったからです。ただ、孝徳紀を読む限り、白雉改元の儀式が味経宮でのこととは断定できず、『続日本紀』に見える「難波宮」説を採ったのでした。
 しかし、正木さんの異論を聞いて、再考したところ、『万葉集』巻六の928番歌にある

「味経の原に もののふの 八十伴の男は 庵して 都なしたり」

が、聖武天皇の時代の後期難波宮を示していることから、後期難波宮が「味経の原」にあったこととなり、同じ場所にあった前期難波宮も味経の原にあった宮、すなわち味経宮であるという理解が可能となることに、遅まきながら気づいたのです。なお、この歌には「長柄の宮」という表現もあり、難波宮は「長柄の宮」とも呼ばれていたようです。
 そして、ここでは「長柄豊碕宮」と呼ばれていないことが注目されます。前期と後期難波宮は「長柄豊碕宮」とは別であるということは、この歌からも言えるのではないでしょうか。ちなみに、この歌を笠朝臣金村が読んだのは、『日本書紀』成立直後の頃と推定できますから、孝徳紀の「難波長柄豊碕宮」という記事を知っていた可能性、大です。それにもかかわらず、「難波長柄豊碕宮」とはしないで、「味経の原」「長柄の宮」と読んでいることは同時代史料として、重視しなければなりません。
   以上のことから、正木さんの異論、「前期難波宮の名称は味経宮」説は検討されるべき有力説と思われます。


第172話 2008/05/01

聖武詔報「白鳳以来、朱雀以前」の論理

 わたしは今日からゴールデンウィークです。先週の土曜日に明日香村の万葉文化館までドライブしてきましたので、今回は自宅でのんびりする予定です。

 さて、3月の関西例会で「聖武詔報の再検討−『白鳳以来、朱雀以前』の新理解−」という研究を発表したのですが、九州年号である白鳳と朱雀が近畿天皇家の詔報として『続日本紀』神亀元年条(724)に記されていることは、九州年号実在説の直接証拠ともいうべきものです。このことを古田先生は30年来指摘されているのですが、大和朝廷一元史観を「飯の種にしている古代史学界は沈黙を守ったままであることは、ご存じの通りです。まったく非学問的態度であると言わざるを得ません。この聖武天皇による「証言」は九州王朝を滅ぼした側のトップの発言であり、公式記録『続日本紀』に採用された記録であるだけに、その意味は重要であり、プロの学者であれば理解できないはずがありません。
 にもかかわらず、この白鳳と朱雀は『日本書紀』に記された白雉と朱鳥を、よりおめでたい鳥の名前に改変したものという、何の史料根拠もないへんてこな旧説(屁理屈)で、プロの学者達はすませているのです。おめでたいのは彼らの頭かもしれませんが、彼らは九州王朝説はなかったことにしたい、古田武彦はいなかったことにしよう、という「共同謀議」のまま30年来頑張っているのですが、何とも痛ましい限りです。プロの学者として恥ずかしくないのでしょうか。
 このような態度は、自然科学では実験データの無視・改竄に相当するもので、およそ許されることではありません。企業研究では、まずそのような研究者(社員)はクビでしょう。わたしは職業柄、いろんな自然科学系の学会発表を聴講してきましたが、このような発表は未だ聞いたことがありません。日本古代史学界は「学問」の学界ではない、そのような疑惑さえ生じさせる惨状です。わたし自身、彼らが古田説を知ってて無視・排除する現場を少なからず見てきていますし、古田先生からは更に多くの「実例」をお聞きしています。本当に酷いものです。(つづく)


第171話 2008/04/27

九州王朝の白鳳六年「格」

 大和朝廷に先だって九州王朝が律令を制定していたことを古田先生が指摘されていますが(「磐井律令」)、それであれば律令体制下の行政命令に相当する「格 きゃく」も存在していたものと推定されます。大和朝廷の史料では、『類従三代格』などが著名ですが、九州王朝系の「格」の痕跡をこの度「発見」することができました。
 4月の関西例会でも発表したのですが、『日本後紀』延暦十八年(799)十二月条に、亡命百済人等の子孫による賜姓を請う記事があり、その中で祖先が百済から亡命した際、当初、摂津職(難波)に安置され、その後の「丙寅歳正月廿七日格」にて甲斐国に移住を命じられたと述べています。この丙寅歳は666年に相当し、九州年号の白鳳六年のことです。この時代は九州王朝の時代ですから、「丙寅歳正月廿七日格」は九州王朝が発した「格」ということになります。
 更に言うならば、最初に留めおかれた所が「摂津職」とありますから、大和朝廷の『養老律令』などで規定された「摂津職」は、その淵源が九州王朝律令にあったこととなります。従来は、難波宮があったため大和朝廷は摂津を「国」ではなく、「職」にしたと理解されてきましたが、九州王朝の時代から既に「摂津職」とされていたことは、わたしの前期難波宮九州王朝副都説に対応しており、思いがけない発見となりました。すなわち、九州王朝は副都がある摂津を「職」と命名位置づけていたことになるのです。『日本後紀』の九州王朝「格」記事は、摂津職の淵源まで、明らかにしてくれたのでした。


第155話 2007/12/16

藤原宮の冨本銭

 昨日の関西例会で、藤原宮から出土した地鎮祭用と思われる壺に納められた9枚の冨本線について、わたしの見解を述べました。飛鳥池工房跡から出土した冨本銭の発見は、古代貨幣研究に重要な一石を投じましたが、今回の藤原宮跡から出土した冨本銭も、更に貴重な問題を提起しました。

 飛鳥池の冨本銭発見は、『日本書紀』天武12年条の銅銭記事が歴史事実であったことを指し示したのですが、ならば同時に記された銀銭の存在も歴史事実と考えざるをえません。しかし、今回の地鎮祭で用いられたと思われる壺にあったのは銅銭の冨本銭でした。なぜ、より価値の高い銀銭ではなく、冨本銅銭が用いられたのでしょうか。
 それは、その銀銭が大和朝廷ではなく九州王朝の貨幣だったからと思われます。先の天武12年条の記事は銀銭の使用を禁じ、銅銭を用いるようにと命じた記事なのですが、これは九州王朝の銀銭に変わって、自らが飛鳥池で鋳造した冨本銭を流通させるという意味だったのです。このように考えることにより、『日本書紀』の記事や藤原宮出土の冨本銭の意味が明らかになるのです。
 持統らは自らの宮殿建設にあたり、九州王朝の銀銭に代えて、自ら鋳造した冨本銭を用い、王権の安泰と新たな列島の代表者たらんとする意志と願いを込めたのではないでしょうか。9枚の冨本銭と、一緒に入っていた9個の水晶玉は、九州王朝にかわり、自らが「九州」(日本列島)を統治するという政治的野心の現れと思われるのです。
   なお、関西例会の発表内容は次の通りでした。
 
  〔古田史学の会・12月度関西例会の内容〕
  ○研究発表
  1). 淡海乃海・近江の道(豊中市・木村賢司)
  2). 岐須美々命と石窟の土蜘蛛(大阪市・西井健一郎)
  3). 「実測値」と「机上の計算値」(交野市・不二井伸平)
  4). 「明日香村発掘調査報告会2007/12/08」に参加して(木津川市・竹村順弘)
  5). 「丁亥年」刻字紡錘車の史料批判(京都市・古賀達也)
  6). トロイの木馬(相模原市・冨川ケイ子)
  7). 書紀から導かれる「斉明死去」以降の歴史の真実(川西市・正木裕)
  8). 沖ノ島5(生駒市・伊東義彰)
 
  ○水野代表報告
   古田氏近況・会務報告・天草の古名「苓州」・他(奈良市・水野孝夫)


第152話 2007/11/18

『古代出雲への旅』を読む

 関和彦著『古代出雲への旅』(中公新書)を読んでいます。『出雲風土記』に基づいて江戸時代に神社巡りをした小村和四郎の旅行記の発見から、その追跡実地調査を記した読みやすく面白い本でした。特に、短里で記されている『出雲風土記』を長里で理解したため、現地の実状と一致しない様子などが、興味深く読めました。と同時に、わたしも出雲の国を巡ってみたくなりました。どなたか、短里の概念で『出雲風土記』を実地調査されてはいかがでしょうか。きっと、新発見があるはずです。
   昨日の関西例会では下記の発表がありましたが、常連の正木さん、冨川さんは快調に新発見をものにされており、頼もしい限りです。伊東さんの沖ノ島遺跡の報告も興味深い内容でした。
   インターネットを見られての初参加の方もあり、早速、本会にご入会いただきました。この日は大阪で3軒ハシゴして、今日は昼まで寝てしまいました。
 
  〔古田史学の会・11月度関西例会の内容〕
  ○研究発表
  1). 太寿・極寿(豊中市・木村賢司)
  2). 藤原不比等の実像(奈良市・飯田満麿)
  3). 第4回古代史セミナー・古田武彦の報告(豊中市・大下隆司)
  4). 明日香皇子の出征と書紀・万葉の分岐点(川西市・正木裕)
  5). 「近江大津御宇天皇代」の挽歌九首を読む(相模原市・冨川ケイ子)
  6). 沖ノ島3(生駒市・伊東義彰)
  7). 東日流王朝in『真澄全集』/「東日流」の巻(奈良市・太田斉二郎)
 
  ○水野代表報告
   古田氏近況・会務報告・伊勢州は西海道にあった・他(奈良市・水野孝夫)

 


第149話 2007/10/21

「水間君は倭王武」説

 昨日の10月例会の発表は次の通りでした。また、故林俊彦さんを偲んで、参加者全員による黙祷を行いました。ホームページを見て初めて参加された方も2名おられ、盛況でした。研究発表では林さんから教えていただいた滋賀県の甲良神社の伝承などから、雄略紀10年に登場する水間君は倭王武ではないかとする仮説を、わたしは発表しました。いわば林さんへの追悼研究発表となりました。

〔古田史学の会・10月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 遅ればせながら「一」の島(豊中市・木村賢司)
2). コバタケ珍道中・九州編(木津町・竹村順弘)
3).「魏晋朝短里」説とその論理(神戸市・田次伸也)
4). 『讃留霊公胤記』の紹介(向日市・西村秀己)
5). 甲良神社と水間君(京都市・古賀達也)
6). 百済の「大后」(相模原市・冨川ケイ子)
7). 薩夜麻の「冤罪」3(川西市・正木裕)
8). 磐余彦、東征する「五百箇・気吹と膽駒山(大阪市・西井健一郎)

○水野代表報告
  古田氏近況・会務報告・延喜式祝詞「出雲国造神賀詞」の解釈・他(奈良市・水野孝夫)