古賀達也一覧

第3140話 2023/10/19

倭人伝に見える二つの「邪馬」国

 過日(10月14日)の「古田史学リモート勉強会」(注①)で、「吉野ヶ里出土石棺と卑弥呼の墓」を発表しました。その中で、女王国の本来の国名は「邪馬国」であるとする、下記の古田説を紹介しました。

 〝「邪馬壹国」という国名は、どのような構成をもっているのであろうか。
この問題は「やまゐ国」と読みうることの確定した直後、直ちに発生すべき問いである。

  この問題を分析するための、絶好の史料が『三国志』東夷伝の中にあらわれている。それは濊伝中のつぎの記事である。(中略)

  正始八年、濊国中の不耐の地の候王が貢献してきたのに対して、魏の天子はこれに「不耐濊王」という称号を与えたというのである。その意味するところは、濊の中の不耐の地の候王をもって、濊国全体の王と認める、ということなのである。(中略)

  こうしてみると、「邪馬壹国=邪馬倭(やまゐ)国」の名称が意味したその構成が明らかとなってくる。

  すなわち、卑弥呼の国は「邪馬国」であり、その居城は「邪馬城」とよぶべき地であった。その「邪馬」の女王に対して、倭(ゐ)国を代表する資格を認可したのが「邪馬倭国」の名称なのである。〟『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞社版、「不耐濊王」の国、353~537頁。

 質疑応答で、関東から参加されている奥田さんから意表をつく質問がありました。それは、倭人伝に記された「邪馬国」(注②)は女王国の「邪馬壹国」と同じ国と見なしてもよいか、というご質問です。倭人伝中に「奴国」が二つ見えることは著名で、それが同一国か否かで諸説あることは知っていましたが、「邪馬壹国」=「邪馬」+「壹(倭)」とする古田説に準拠すれば、どちらも本来は「邪馬国」となりますから、それらを別国とするのか同一国とするのかという疑問が生じるわけです。そのような問題が発生することに、奥田さんから質問されるまで気付きませんでした。

 わたしからは「邪馬壹国」は〝倭国を代表する邪馬国〟の意味を持つ「邪馬壹国」と称され、「邪馬国」は女王国以北の国々の一つと理解すべきと返答しました。この問題は、倭人伝文脈上からもこうした理解でよいと考えていますが、改めて「邪馬壹国」「邪馬国」の「邪馬」が当時の倭語の一般名詞であったことに思い至りました。

 ずいぶん昔に古田先生からお聞きしたことですが、『三国志』時代の音韻復元はまだ成功していませんが、倭人伝に記された倭国内の文物の名前に用いられた漢字は、現代日本でも同じ音で使用されているケースがあることから、これを利用して音韻(上古音)復元研究が可能ではないかと思われます。その一例が「邪馬壹国」「邪馬国」の「邪馬」です。おそらくこの「邪馬」はヤマと発音し、意味は「山」だと思います。そして、「奴国」の「奴」はノかヌと発音し(注③)、意味は「野」あるいは格助詞の「の」ではないでしょうか。ナと訓む説は根拠不明ですし、ドと濁音で発音するのは後代の北方系長安音のように思います。ちなみに、わたしは倭人伝の音韻は南朝系呉音と考えています(注④)。(つづく)

(注)
①各地の研究者と情報交換や勉強を目的として、「古田史学リモート勉強会」を開催している。
②倭人伝に女王国以北の国々として次の記載がある。
「自女王國以北、其戸數道里可得略載。
其餘旁國遠絶、不可得詳。次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國、次有奴國。此女王境界所盡。」
③倭人伝の「奴」をノと発音する説が中村通敏氏より発表されている。
中村通敏『奴国がわかれば「邪馬台国」がわかる』海鳥社、2014年。
古賀達也「洛中洛外日記」780話(2014/09/06)〝奴(な)国か奴(ぬ)国か〟
同「洛中洛外日記」827話(2014/11/23)〝「言素論」の可能性〟
同「洛中洛外日記」1507話(2017/09/24)〝倭人伝の「奴」国名と現代日本の「野」地名〟
④古賀達也「倭人伝の音韻は南朝系呉音 ―内倉氏との「論争」を終えて―」『古田史学会報』109号、2012年。


第3139話 2023/10/18

『九州倭国通信』No.212の紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.212が届きました。同号には拙稿「九州王朝の国分寺(国府寺) ―告貴元年(五九四)建立―」を掲載していただきました。古代に於いて、九州王朝(倭国)と大和朝廷(日本国)による新旧二つの国分寺(国府寺)があることを紹介した論稿です(注)。特に読者の多くが九州の方ですから、豊後国風土記と肥前国風土記に見える九州年号の告貴元年の詔勅により建立された国府寺の痕跡について詳しく解説しました。

 また、『古代に真実を求めて』特価販売の案内を一頁を割いて掲載して頂きました。有り難いことです。なお、来年1月14日(日)の同会月例会で講演させていただくことになりました。テーマは「吉野ヶ里出土石棺と卑弥呼の墓」と「九州年号金石文の紹介」を予定しています。「九州古代史の会」と「古田史学の会」の友好関係が一層深まることを願っています。

(注)次の拙稿でも紹介しており、ご参照下さい。
「『告期の儀』と九州年号『告貴』」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)明石書店、2017年。

参照「国分寺」一覧

「洛中洛外日記」718話(2014/05/31)〝「告期の儀」と九州年号「告貴」〟
「洛中洛外日記」809話(2014/10/25)〝湖国の「聖徳太子」伝説〟
「洛中洛外日記」1018話(2015/08/09)〝「武蔵国分寺」の多元論〟
「洛中洛外日記」1022話(2015/08/13)〝告貴元年の「国分寺」建立詔〟
「洛中洛外日記」1026話(2015/08/15)〝摂津の「国分寺」二説〟
「洛中洛外日記」1049話(2015/09/09)〝聖武天皇「国分寺建立詔」の多元的考察〟
「洛中洛外日記」1136話(2016/02/09)〝一元史観からの多層的「国分寺」の考察〟


第3138話 2023/10/17

七世紀の都城の朱雀大路の幅

八王子セミナー(11月11~12日、注①)に備えて藤原宮(京)研究を続け、「洛中洛外日記」でも紹介してきました(注②)。そのなかで注目したのが、王宮を起点として南北にはしる朱雀大路の幅の比較です。各条坊都市の道路幅を本稿末尾に掲載しました(調査途中)。朱雀大路の幅は次の通りです。

□朱雀大路幅
【前期難波宮】(652年創建) 側溝芯々間 約33m
【大宰府政庁Ⅱ期】(670年頃。通説では八世紀初頭) 路面幅 約36m  側溝芯々間 約37.8m
【藤原京】(694年に遷都) 側溝芯々間 24m
※藤原宮下層朱雀大路部分 16~17m
※右郭二坊大路(長谷田土壇) 16~17m
【平城京】(710年に遷都) 路面幅か 約75m

わたしが九州王朝の東西の王都(両京制)と考える前期難波宮(652年)と大宰府政庁Ⅱ期(670年頃)の朱雀大路幅(側溝芯々間距離)は約33mと約37.8mであり、時代と共に拡大しますが、その後に創建された藤原宮(694年遷都)は24mであり、縮小します。ところが王朝交代後の大和朝廷の平城京は約75mと最大化しています。

このことから、近畿天皇家が朱雀大路の規模に無関心であったとは考えられません。しかし、王朝交代直前に造営した藤原宮(大宮土壇)は当時最大規模の王宮でありながら、朱雀大路は前期難波宮(約33m)よりも太宰府条坊都市(約37.8m)よりもかなり小さめの24mです。

この出土事実が何を意味し、王朝交代に関する諸仮説のなかで、どの仮説と最も整合するのかを検証することにより、より優れた仮説が明らかとなり、いずれその方向に王朝交代研究が収斂するのではないでしょうか。

(注)
①正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」。公益財団法人大学セミナーハウスの主催。実行委員会に「古田史学の会」(冨川ケイ子氏)が参画している。
②古賀達也「洛中洛外日記」3129~3134話(2023/10/02~07)〝藤原京「長谷田土壇」の理論考古学(一)~(五)〟

【前期難波宮道路幅】(652年創建) 側溝芯々間距離
□朱雀大路幅 約33m
□西二路(大路)の幅が約14m

【大宰府政庁Ⅱ期道路幅】(670年頃。通説では八世紀初頭)
□朱雀大路(路面幅) 約36m  (側溝芯々間)約37.8m
□条坊南端の二十二条大路(路面幅) 約8m (側溝芯々間)約10m

【藤原京道路幅】(694年に遷都) 側溝芯々間距離
□朱雀大路 24m
□六条大路(宮城の南を東西に通る) 21m
□二条(坊)・六条(坊)などの偶数大路 16~17m
□三条(坊)・五条(坊)などの奇数大路 9m
□条(坊)大路の中間にある小路 6~7m
※各条・各坊の数値は岸俊男説による。

【平城京道路幅】(710年に遷都)
□朱雀大路 約75m


第3137話 2023/10/16

九州・畿内に濃密分布した「均等名」

 「卑弥呼の墓」候補、須玖岡本遺跡地域にある熊野神社所在地の旧地名「筑前国・那珂郡・須玖村・字岡本山」(古田武彦説、注①)の調査のため、『明治前期 全国村名小字調査書』(注②)を読んだことがありす。その福岡県の巻に「筑前国字小名聞取帳」が収録されており、当時(明治二年)の行政区画単位として「国・郡・町村・小名・字」の順で地名が記されています。表記様式を精査すると、町村内の小区画として、「小名]と「字」は併存しているようでした。

 過去に「○○みょう」という「みょう(名・明など)」地名の調査をしたことがあり(注③)、「筑前国字小名聞取帳」の「小名」という行政区画に興味を覚えました。『ウィキペディア』によれば、「小名(しょうみょう)」に次の解説がありました。本稿末尾に転載していますが、要点を抜粋します。

(1) 7世紀末から8世紀初頭に始まった律令制だが、9・10世紀ごろになると、律令制を支えていた人民把握システムが存続できなくなったため、政府は土地(公田)を収取の基礎単位とする支配体制を構築するようになった(王朝国家制)。これにより、まず国衙の支配する公田が、名田または名(みょう)と呼ばれる支配・収取単位へと再編成された。

(2) 荘園内の名田の規模は地域によって大きな差異があり、畿内や九州では、面積1~2町程度のほぼ均等な名田から構成される例が非常に多かった。このような荘園を均等名荘園(きんとうみょう-)といい、12世紀から14世紀にかけて多く見られた。畿内諸国や九州では荘園領主の権力が強く及んでおり、名田を均等化して百姓へ割り振ったのである。

 この解説によれば、「名」の淵源(公田)が七世紀末から八世紀の律令制にあり、平安時代になると荘園経営のために均等名荘園(きんとうみょう-)という制度が発生し、それが畿内諸国と九州に非常に多いということです。このことは、律令制下の土地区画がいつの頃からか「名」「名田」と呼ばれていたことを示唆します。

 そうであれば、「均等名」制や九州や四国に多く分布する「みょう」地名の淵源も、九州王朝時代から大和朝廷への王朝交代時期まで遡る可能性がありそうです。そう考えなければ、畿内と九州に非常に多く分布したという「均等名」荘園の説明がつかないように思われます。わたしには未知の研究分野ですので、〝素人の思いつき〟に終わるかも知れませんが、研究論文を読んでみたいと思います。

(注)
①古田武彦「邪馬壹国の原点」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、1987年。ミネルヴァ書房より復刻。
古賀達也「洛中洛外日記」734話(2014/06/22)〝邪馬壹国の「やま」〟
同「洛中洛外日記」3114話(2023/09/15)〝『筑前国続風土記拾遺』で探る卑弥呼の墓〟
②『明治前期 全国村名小字調査書』第4巻 九州、ゆまに書房、1986年。
③古賀達也「洛中洛外日記」969話(2015/06/04)〝「みょう」地名の分布〟
「九州・四国に多い「みょう」地名」『古田史学会報』129号、2019年。

【名田】『ウィキペディア(Wikipedia)』から転載
名田(みょうでん)は、日本の平安時代中期から中世を通じて見られる、荘園公領制における支配・収取(徴税)の基礎単位である。名(みょう)とも呼ばれるが、名と名田を本来は別のものとする見方もある。
《沿革》
7世紀末から8世紀初頭に始まった律令制では、人民一人ひとりを租税収取の基礎単位としていた。しかし、9・10世紀ごろになると、律令制を支えていた人民把握システム(戸籍・計帳の作成や班田の実施など)が次第に弛緩していき、人別的な人民支配が存続できなくなっていた。そのため、政府は土地(公田)を収取の基礎単位とする支配体制を構築するようになった(王朝国家制)。これにより、まず国衙の支配する公田が、名田または名(みょう)と呼ばれる支配・収取単位へと再編成された。名田を基礎とする支配・収取体制を名体制という。
(中略)
名田の制度は、11世紀ごろから、当時一円化して領域性を高めた荘園にも採用・吸収されていく。荘園内の耕作地は、名田へと再編成され、荘民となった田堵が名田経営を行うようになった。荘園内の名田の規模は地域によって大きな差異がある。畿内や九州の荘園では、面積1~2町程度のほぼ均等な名田から構成される例が非常に多かった。このような荘園を均等名荘園(きんとうみょう-)といい、12世紀から14世紀にかけて多く見られた。畿内諸国や九州では荘園領主の権力が強く及んでおり、領主が荘園経営を効率的に行うため、名田を均等化して百姓へ割り振ったのである。一方、畿内や九州以外の荘園の様子を見ると、数町以上の広い名田、面積が不均等な名田から構成されていることが多かった。畿内・九州以外では、荘園領主(本所)の所在地から距離的に遠かったこともあって、本所権力の作用があまり及ばなかったためである。
《由来》
名田という用語は、田堵や名主が自らの経営する土地を明示するために、その土地へ名称をつけたことに由来する。名田の名称を、田堵本人の名前と同じとする場合が多く、人名のような名田の例は日本各地に見られる。現代でも名田に由来する地名が残存しており、特に西日本に多い。例:恒貞(つねさだ)、国弘(くにひろ)、弘重(ひろしげ)など。


第3136話 2023/10/15

九州と北海道に分布しない

        「テンノー」地名

 今日、上京区枡形商店街の古書店で『地名の語源』(注①)を購入しました。46年前に出版された本ですが、地名研究の方法や地名の発生経緯まで論じた優れものでした。早速、研究中の「天皇」地名(注②)の項を読んでみると、次のような興味深い説明がありました。

 「テンノー (1)天王信仰(牛頭天王、素盞鳴尊)にちなむ。(2)*テンジョー(高い所)と同義のものもあるか。九州と北海道以外に分布。〔天王・天王寺・天皇・天皇田・天皇原・天皇山・天王山・天野(テンノ)山〕」

 わたしが驚いたのが「九州と北海道以外に分布」という説明部分です。なぜ九州に分布しないのか、その理由はわかりませんが、古代九州王朝と関係するのでしょうか。それにしても、天王信仰(牛頭天王、素盞鳴尊)にちなむ「天王」地名もないということですから、不思議な現象です。

(注)
①鏡味完二・鏡味明克『地名の語源』角川書店、昭和52年。
②古賀達也「洛中洛外日記」3123~3127話(2023/09/25~30)〝『朝倉村誌』の「天皇」地名を考える (1)~(3)〟
同「洛中洛外日記」3126話(2023/09/29)〝全国の「天皇」地名〟


第3135話 2023/10/12

『古田史学会報』178号の紹介

 『古田史学会報』178号が発行されました。拙稿〝『隋書』俀国伝の都の位置情報 ―古田史学の「学問の方法」―〟を掲載して頂きました。これはフィロロギーの方法を、『隋書』俀国伝の都の位置情報認識研究に採用したものです。すなわち、『隋書』成立当時の「俀国伝」読者がどのようにして俀国の都の位置認識を構成するのか、そして『隋書』編者は読者にどのような理解を促しているのかを考察し、それらを現代の研究者が再認識するという学問の方法について論じました。

 一面には正木さんの力作〝「二倍年暦」と「皇暦」から考える「神武と欠史八代」〟が掲載。皇暦と実年代との対応については、多くの先行研究があります。多元史観・古田史学でも二倍年暦の概念を採用する、皇暦の実年代研究がなされてきましたが、管見ではまだ誰も全体的に整合性のある仮説提起に成功していません。今回の正木稿ではかなり成功しているように見え、今後の論争や研究により、同説の復元精度が検証されるものと期待しています。

 本号で最も注目したのが日野智貴さんの〝覚信尼と「三夢記」についての考察 豅弘信論文への感想〟でした。親鸞の「三夢記」は永く偽作とされてきたのですが、古田先生の研究により真作とされました。その古田説を批判して偽作とする論文が豅(ながたに)弘信さんにより発表されたのですが(注①)、古田先生最晩年のことでもあった為か、先生から応答はなされていませんでした。そこで、日野さんが代わって反論されたものです。

 この日野論文については「洛中洛外日記」(注②)で紹介しましたが、豅さんの批判はいずれも偽作と断定できるような証明力はないことを明らかにされ、親鸞と末娘の覚信尼の関係性についても考察されたものです。近年の古田学派では古田親鸞論に関する研究や論文発表がほとんど見られなくなり、残念に思っていたのですが、日野さんのような若き学究が現れ、冥界の先生も喜んでおられることと思います。

 178号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』178号の内容】
○「二倍年暦」と「皇暦」から考える「神武と欠史八代」 川西市 正木 裕
○さまよえる拘奴国と銅鐸圏の終焉 吹田市 茂山憲史
○俀国伝と阿蘇山 姫路市 野田利郎
○覚信尼と「三夢記」についての考察 豅弘信論文への感想 たつの市 日野智貴
○『隋書』俀国伝の都の位置情報 ―古田史学の「学問の方法」― 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学・四十四 「倭奴国」と「邪馬壹国・奴国」① 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己

(注)
①豅弘信「『三夢記』考」『宗教研究』84-3、2010年。真宗大谷派西念寺公式サイトにも掲載。
②古賀達也「洛中洛外日記」3092話(2023/08/13)〝親鸞「三夢記」研究の古田論文を読む〟


第3134話 2023/10/07

藤原京「長谷田土壇」の理論考古学 (五)

 ―「長谷田土壇」下層条坊の有無―

 藤原宮下層から出土した「先行条坊」に対応する「先行王宮」の有力候補に長谷田土壇がなりうるのか、どのような調査で確認できるでしょうか。それには、「長谷田土壇」下層に先行条坊跡があるのかを発掘調査で確認するという方法があります。この場合、西二坊大路の部分だけの調査でも明らかになりますので、大規模な発掘調査は必ずしも必要ではありません。もしかすると、既に対象地区の発掘がなされているかもしれませんので、引き続き調査報告書を探索したいと思います。

 もし、長谷田土壇下に先行条坊がなければ、それは条坊造営時、その地に西二坊大路を跨ぐ大型建築物を創建する計画があったことを意味します。従って、その大型建築物は先行条坊を埋め立てて造営した藤原宮(大宮土壇)に先行するものと判断できます。しかも長谷田土壇からは古瓦が出土しており、近隣には礎石が遺っていることから(注)、瓦葺きで礎石作りの大型建築物が条坊都市造営時に造られた可能性が高くなります。

 逆に、長谷田土壇下層からも先行条坊が検出されれば、藤原宮と同様に条坊完成後にその条坊を埋め立てて創建された建物があったことになります。その場合、瓦葺き礎石造りの建物ですから、寺院の可能性が発生します。しかし、条坊を埋め立ててまで寺院を造る必要があるのか疑問は残ります。条坊道路の枠内に造ればよいのですから。(つづく)

(注)古賀達也「洛中洛外日記」546話(2013/03/31)〝藤原宮へドライブ〟で次の情報を紹介した。
「橿原考古学研究所附属博物館に行き、長谷田土壇の発掘調査報告書の有無について問い合わせましたが、あいにく学芸員の方が不在でしたので、後日連絡していただくことになりました。

 そのとき、長谷田土壇がある醍醐集落から礎石が発見されていることを教えていただきました。礎石は道路沿いの小川の淵に露出しており、見ることができるとのこと」


第3133話 2023/10/06

藤原京「長谷田土壇」の理論考古学 (四)

 ―「朱雀大路」道路幅の論理―

 藤原宮下層から出土した「先行条坊」に対応する「先行王宮」の有力候補の長谷田土壇ですが、その地に藤原宮(大宮土壇)に先行する王宮が存在していたのか否かは考古学発掘調査により解明できるのですが、当地の調査記録をまだ見いだせていません。表面観察により、土壇が遺り、古瓦が散在するとのことですので(注①)、有力候補地ではあります。そこで、当地が「先行王宮」であったと判断するためにはどのような方法が有効なのかについて考察します。
条坊都市は王宮を中心として、南北に朱雀大路が通り、条坊内の他の大路よりも道路幅が広いことが知られています。藤原宮の場合も同様で、各道路幅は次の通りです。

【藤原京道路幅】側溝中心間距離
□朱雀大路 24m
□六条大路(宮城の南を東西に通る) 21m
□二条(坊)・六条(坊)などの偶数大路 16~17m
□三条(坊)・五条(坊)などの奇数大路 9m
□条(坊)大路の中巻にある小路 6~7m
※各条・各坊の数値は岸俊男説による。

 長谷田土壇の中を南北に通る大路は西二坊大路ですが、その道幅は16~17mです。これは朱雀大路の21mより狭いのですが、藤原宮下層の朱雀大路の位置にある先行条坊の幅は16~17mですので、西二坊大路(偶数大路)と同規格です。従って、条坊造営当初の「先行王宮」を長谷田土壇と考えた場合、その南北大路が他の偶数大路と同規模となり、「先行朱雀大路」にはふさわしくありません。この点は、長谷田土壇説の弱点と言えそうです。

 たとえば、九州王朝の東都(太宰府は西都)と考える前期難波宮の場合、その朱雀大路の幅は約33m(注②)、西二路(大路)の幅が約14m(注③)と推定されており、難波京朱雀大路の幅が藤原京よりも大きいこともわかっています。この〝朱雀大路の幅〟という出土事実は、長谷田土壇「先行王宮」説にとって不利な事実です。そしてそれは、長谷田土壇を九州王朝の王宮跡とする作業仮説の成立も同様に困難にしています。(つづく)

(注)
①木下正史『藤原京 よみがえる日本最初の都城』(中公新書、2003年)には次のように長谷田土壇を紹介する。
「鷺巣神社の真北約一キロ、醍醐町集落の西はずれの小字「長谷田」に、周囲約一八メートル、高さ約一・五メートルの土壇がある。古瓦が出土し、近くで礎石も発見されている。」
②日経新聞web版(2015年4月2日)に次の記事がある。
〝難波京の朱雀大路か 側溝を確認、道幅推定33メートル
大阪市にあった難波京のメーンストリート「朱雀大路」の側溝とみられる溝跡が同市中央区で見つかり、大阪市博物館協会大阪文化財研究所が1日までに明らかにした。これまで見つかっていない難波京朱雀大路の一部の可能性がある。道幅は藤原京(奈良県橿原市、694~710年)の約24メートルを上回り、推定約33メートルとみられるという。
京の中枢部に当たる難波宮は、7世紀中ごろの孝徳天皇の時代から整備された前期と、聖武天皇が726年から造営した後期に分かれる。
昨年の発掘調査で溝を発見。1993年に見つかった前期難波宮の朱雀門跡から南に約140メートルの地点にあった。
溝は幅2.2~2.8メートル、深さ50センチで、長さ南北9メートル分を確認した。位置や方向から朱雀大路の西側溝の可能性が高いと判断した。
同研究所によると、溝は難波宮の中軸線から約16.35メートル離れていることから朱雀大路の幅は推定で約32.7メートルとなる。平城京の朱雀大路の幅は約75メートル。積山洋学芸員は「朱雀大路の跡が実際に見つかり、幅も推定できた意義は大きい」と話している。〔共同〕〟
③平田洋司「四天王寺南方から見つかった難波京条坊跡」『葦火』168号、2014年。


第3132話 2023/10/05

藤原京「長谷田土壇」の理論考古学 (三)

 藤原宮下層から出土した「先行条坊」により、藤原宮(京)研究は新たな問題に直面しました。それは、藤原宮(大宮土壇、橿原市高殿)よりも藤原京条坊都市が先行して造営されていたことを意味し、それならば条坊造営時には別の場所に「先行王宮」があったのではないかという可能性です。この「先行王宮」候補地として、喜田貞吉が提唱していた長谷田土壇(橿原市醍醐)をわたしは作業仮説として「洛中洛外日記」で提案しました。

 〝藤原宮には考古学的に大きな疑問点が残されています。それは、あの大規模な朝堂院様式を持つ藤原宮遺構の下層から、藤原京の条坊道路やその側溝が出土していることです。すなわち、藤原宮は藤原京造営にあたり計画的に造られた条坊道路・側溝を埋め立てて、その上に造られているのです。
この考古学的事実は王都王宮の造営としては何ともちぐはぐで不自然なことです。「都」を造営するにあたっては当然のこととして、まず最初に王宮の位置を決めるのが「常識」というものでしょう。そしてその場所(宮殿内)には条坊道路や側溝は不要ですから、最初から造らないはずです。ところが、現・藤原宮はそうではなかったのです。この考古学的事実からうかがえることは、条坊都市藤原京の造営当初は、現・藤原宮(大宮土壇)とは別の場所に本来の王宮が創建されていたのではないかという可能性です。
実は藤原宮の候補地として、大宮土壇とは別にその北西にある長谷田土壇も有力候補とされ、戦前から論争が続けられてきました。〟(注①)
〝藤原宮を「長谷田土壇」とした喜田貞吉説の主たる根拠は、大宮土壇を藤原宮とした場合、その京域(条坊都市)の左京のかなりの部分が香久山丘陵にかかるという点でした。ちなみに、この指摘は現在でも「有効」な疑問です。現在の定説に基づき復元された「藤原京」は、その南東部分が香久山丘陵にかかり、いびつな京域となっています。ですから、喜田貞吉が主張したように、大宮土壇より北西に位置する長谷田土壇を藤原宮(南北の中心線)とした方が、京域がきれいな長方形となり、すっきりとした条坊都市になるのです。〟(注②)

 他方、一元史観の通説に基づく考古学者たちは、藤原宮下層先行条坊の存在理由に〝苦肉〟の解釈(注③)を試みましたが、いずれも矛盾をかかえており、成功していません。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」544話(2013/03/28)〝二つの藤原宮〟
②同「洛中洛外日記」545話(2013/03/29)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟
③藤原宮造営予定地に条坊を施工した理由の説明として、藤原宮の位置が条坊敷設当初には決まっていなかったとする説がある(宮地未定説)。先行条坊が宮外の藤原京条坊と同規格で作られており、藤原宮の下層に建物や塀が建てられ、宮外と同じように坪内が利用された時期があり、当初その場所が藤原宮になることが決定していなかったと考える説。しかし、京の造営という国家的計画が、宮地未定のまま進められたというのは不自然。
これに対し、藤原宮は先行条坊を基準に設計されており、先行条坊は宮・京を設計するための測量成果を土地に記すという意味もあり、宮建設予定地に条坊施工がなされていることは不自然ではないとする説もある(測量基準説)。この説では、宮内にくまなく条坊側溝を掘削した理由を説明できない。藤原宮造営時、既に先行条坊の側溝は埋め立てられており、埋め立てから藤原宮の建設開始までには数年の時間があくことも、測量基準説には不都合な事実である。


第3131話 2023/10/04

『東京古田会ニュース』No.212の紹介

 『東京古田会ニュース』212号が届きました。拙稿「数学の証明と歴史学の証明 ―荻上紘一先生との対話―」を掲載していただきました。これは古代史研究ではなく、学問論に関するものです。昨年の八王子セミナーのおり、追加でもう一泊したので、数学者の荻上先生と対話する機会をいただき、そのやりとりを紹介した論稿です。

 わたしが専攻した化学(有機合成・錯体化学)は〝間違いを繰り返し、新説を積み重ねながら「真理」に近づいてきた。したがって自説もいずれは間違いとされ、乗り越えられるはずだと科学者は考え、自説が時代遅れになることを望む領域〟でしたが、数学は〝一旦証明されたことは未来に渡って真実であり、変わることはなく、そのことを全ての数学者が認め、ある人は認め、別の人は反対するということはあり得ない〟領域とのこと。このような化学・歴史学と数学の性格の違いを知り、とても刺激的な対談でした。

 当号の一面には讃井優子さんの「三多摩の荒覇吐神社巡り」が掲載されており、関東にある研究団体だけに、和田家文書や荒覇吐神への強い関心がうかがえます。安彦会長からも「和田家文書備忘録2 阿部比羅夫の蝦夷侵攻」という『北鑑』の研究が発表されています。『北鑑』は『東日流外三郡誌』の続編的性格を持つ和田家文書で、わたしも基礎的な史料批判を進めているところです。ちなみに、安彦さんのご協力も得て、『東日流外三郡誌の逆襲』(仮題)という本の発行に向けて執筆と編集作業を進めています。順調に運べば、来春にも八幡書店から発刊予定です。ご期待下さい。


第3130話 2023/10/03

藤原京「長谷田土壇」の理論考古学 (二)

 〝もうひとつの藤原宮〟の可能性を持つ「長谷田土壇」(橿原市醍醐)ですが、長谷田土壇説を提起した喜田貞吉の根拠や論理性は優れたものです。喜田の長谷田土壇説について、木下正史さんは著書『藤原京』(注①)で次のように紹介しています。

〝一九一三(大正二)年、喜田は藤原宮と京に関する優れた問題意識と理論を背景に斬新な新説を打ち出す。まず大宝令職員令にみえる左・右両京職の下に「坊令」一二人を置く、という規定に注目する。坊令は四坊ごとに一人置く規定だから、藤原京は南北一二単位、東西は朱雀大路を中心に左右両京をそれぞれ四単位に分割する碁盤目状の街区からなっており、その「坊」の一単位は令大尺の七五〇尺(約二六五メートル)になるはずだ、と考えた。(中略)
大宮土壇を中心として、南北一二条、左右京各四坊の京の範囲を現地に当てはめると、左京のかなりの部分が香具山などの丘陵地にかかってしまう。喜田は、藤原京=大宮土壇説は不都合だと考え、『扶桑略記』などが記す「鷺巣坂」に注目する(注②)。(中略)式内社鷺巣神社は、畝傍・香具山両山のほぼ中央にあり、ここに朱雀大路が通っていたのではないか。神社の北にある小字「門の脇」は朱雀門に関わる地名だろう。鷺巣神社の真北約一キロ、醍醐町集落の西はずれの小字「長谷田」に、周囲約一八メートル、高さ約一・五メートルの土壇がある。古瓦が出土し、近くで礎石も発見されている。「長谷田土壇」は藤原宮の建物跡で、大宮土壇は記録に残っていない寺院跡とみるべきだろう。〟『藤原京』14~16頁

 このように喜田の長谷田土壇説を説明し、木下さんは次のように絶賛します。

 〝喜田説は、地形や地名、古代の道路、文献史料などを綿密に、また多角的に検討し、それらを総合して打ち出した説得力ある論考であった。(中略)藤原京の構造復元に果たした意義は大きく、今なお光彩を放つ研究成果である。〟『藤原京』18頁

 わたしもこの見解に賛成です。そしてこの喜田の長谷田土壇説の再評価をうながす発見がありました。それは大宮土壇の藤原宮下層から出土した「先行条坊」です。この発見は、決着を見たはずの「藤原宮」所在地論争の新たな出発点となりました。(つづく)

(注)
①木下正史『藤原京 よみがえる日本最初の都城』中公新書、2003年。
②『扶桑略記』や『釈日本紀』によると、藤原宮は「鷺巣坂」の北にあると記されている。


第3129話 2023/10/02

藤原京「長谷田土壇」の理論考古学(一)

八王子セミナー(11月11~12日、注①)の開催日が近づいてきました。同セミナーで討議予定の藤原宮(京)研究において、特に注目されている〝もうひとつの藤原宮〟問題、「長谷田土壇」について論究することにします。

藤原宮の所在地については江戸時代ら大宮土壇(橿原市高殿)が有力視されてきましたが、喜田貞吉(注②)が長谷田土壇説(橿原市醍醐)を発表し、その根拠や論理性が優れていたため、論争へと発展しました。その後、大宮土壇の発掘が開始され、大型宮殿遺構が出土したことにより、この論争は決着がつき、今日に至っています。

しかし、わたしは喜田貞吉の指摘した論理性は今でも有力とする見解を「洛中洛外日記」(注③)で表明しました。

〝藤原宮を「長谷田土壇」とした喜田貞吉説の主たる根拠は、大宮土壇を藤原宮とした場合、その京域(条坊都市)の左京のかなりの部分が香久山丘陵にかかるという点でした。ちなみに、この指摘は現在でも「有効」な疑問です。現在の定説に基づき復元された「藤原京」は、その南東部分が香久山丘陵にかかり、いびつな京域となっています。ですから、喜田貞吉が主張したように、大宮土壇より北西に位置する長谷田土壇を藤原宮(南北の中心線)とした方が、京域がきれいな長方形となり、すっきりとした条坊都市になるのです。
こうして「長谷田土壇」説を掲げて喜田貞吉は「大宮土壇」説の学者と激しい論争を繰り広げます。しかし、この論争は1934年(昭和九年)から続けられた大宮土壇の発掘調査により、「大宮土壇」説が裏付けられ、決着を見ました。そして、現在の定説が確定したのです。しかしそれでも、大宮土壇が中心点では条坊都市がいびつな形状となるという喜田貞吉の指摘自体は「有効」だと、わたしには思われるのです。〟(つづく)

(注)
①正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」。公益財団法人大学セミナーハウスの主催。実行委員会に「古田史学の会」(冨川ケイ子氏)が参画している。
②喜田貞吉(きた・さだきち、1871~1939年)は、第二次世界大戦前の日本の歴史学者、文学博士。考古学、民俗学も取り入れ、学問研究を進めた。法隆寺再建論争で、再建説を主張したことは有名。
③古賀達也「洛中洛外日記」544話(2013/03/28)〝二つの藤原宮〟
同「洛中洛外日記」545話(2013/03/29)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟