古賀達也一覧

第3039話 2023/06/11

律令制都城論と藤原京の成立(4)

 ―「倭京」の成立と論理―

 新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』(注①)には、藤原宮(大宮土壇)に先行して造営された条坊は「倭京条坊」であり、〝藤原京以前に「倭京」と呼ばれた条坊都市が当地にあった〟とする仮説が示されています(注②)。そして、「倭京」創建を孝徳期~斉明期とします。その根拠として、『日本書紀』孝徳紀や天武紀などに見える「倭京」記事を挙げています。ですから、この仮説は文献史学の分野である『日本書紀』の新解釈に依っており、考古学的エビデンスを根拠としたわけではありません。
古田学派では倭京を九州王朝の王都、太宰府条坊都市のこととする理解が主流です(注③)。その根拠は九州年号の「倭京(618~622年)」です。また、「倭京」の直前の年号「定居(611~617年)」も、倭京造営にあたり、多利思北孤がその地を王都建設予定地に定めたことによると理解されています(注④)。従って、倭京とは7世紀前半に造営された倭国の新都(太宰府条坊都市)の名称であり、それに伴う九州年号と考えられています。
他方、『日本書紀』には孝徳白雉四年(653)~天武元年(672)の期間にのみ「倭京」記事が散見します。これらの倭京記事を根拠に「倭京条坊」の造営時期を孝徳期~斉明期とされたようですが、「孝徳白雉四年(653)」の頃は太宰府条坊都市「倭京」が九州王朝(倭国)の王都として機能していたと考えられますから、『日本書紀』に見える「倭京」を「藤原宮先行条坊にあった京」のことと理解するのは困難ですし、論証も成立していません。これは『日本書紀』の記事を史実として、そのまま信用してもよいのかという、文献史学における論証の問題であり、新庄説は論証不十分と云わざるを得ないのです。
もちろん、『日本書紀』編者は九州年号の「倭京」を知っているはずですし、九州王朝の国名が「倭」であったことも知っています。そして王朝交代直前の7世紀末頃には、自らの中枢領域である大和を「倭国」と称したことが藤原宮出土「倭国所布評」木簡により判明しています(注⑤)。『日本書紀』の史料批判や論証はこうしたことを前提に行わなければなりません。(つづく)

(注)
①新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。
②湊哲夫『飛鳥の古代史』(星雲社、2015年)94~111頁に類似の諸仮説が紹介されている。
③古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年。『古代に真実を求めて』12集(明石書店、2009年)に再録。
『発見された倭京 ―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集)明石書店、2018年。
④同「太宰府建都年代に関する考察 九州年号『倭京』『倭京縄』の史料批判」『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房。2012年)所収。
正木 裕「盗まれた遷都詔 聖徳太子の『遷都予言』と多利思北孤」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(古田史学の会編・明石書店。2015年)所収。
⑤古賀達也「洛中洛外日記」447話(2012/07/22)〝藤原宮出土「倭国所布評」木簡〟
同「洛中洛外日記」464話(2012/09/06)〝「倭国所布評」木簡の冨川試案〟
同「藤原宮出土『倭国所布評』木簡の考察」『東京古田会ニュース』168号、2016年。


第3038話 2023/06/10

『九州王朝の興亡』いよいよ発刊!

   特価販売も実施!

九州王朝の興亡

古代に真実を求めて 古田史学論集第二十六集
九州王朝の興亡 2023年 明石書店

『九州王朝の興亡』(『古代に真実を求めて』26集、明石書店)が今月15日付けで発刊されます。「古田史学の会」賛助会員(2022年度、年会費5,000円)には順次送付しますので、もうしばらくお待ちください。経費削減のため、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、会計担当、高松市)がお一人で発送作業を行っていますので。
同書は古田先生の第二著『失われた九州王朝』(朝日新聞社、1973年)の出版50周年を記念して、「九州王朝の興亡」を特集テーマとした一冊です。表紙のデザインには大宰府政庁の鬼瓦を採用しました。迫力があり、美しいデザインで、わたしはとても気に入っています。古田学派の最新の九州王朝研究を収録しており、とりわけ巻頭論文二編は優れたものです。

【巻頭論文】
◎正木裕さん「倭国(九州王朝)略史」
◎谷本茂さん「古代日中交流史研究と『多元史観』」

なお、「古田史学の会」では本書の特価販売を実施します。下記の郵便口座に特価代金(2,200円/1冊)を振り込んでいただきますと、入金を確認次第、発送します。定価は2,200円+税ですが、消費税と送料を割り引かせていただきます。なお、当会の在庫(約40冊)がなくなり次第、あるいは年内で特価販売は打ち切りますので、その後は書店などでお買い求めください。在庫状況については、古田史学の会ホームページ「新古代学の扉」でお確かめ下さい。
郵便口座番号は次の通りです。「『九州王朝の興亡』○冊希望」と記入し、お名前・郵便番号・ご住所・電話番号を明記し、代金を振り込んで下さい。特別価格は1冊 2,200円です。

口座記号:01010-6
口座番号:30873
加入者名:古田史学の会

※お振り込み後、2週間以上経過しても本が届かない場合は、下記までお問い合わせ下さい。
古賀達也 ℡ 075-251-1571 E-mail: kogatty@kyoto.zaq.jp

今回からわたしが書籍担当をさせていただくことになりました。近々、『九州王朝の興亡』以外の在庫特価販売もスタートします。対象書籍・特価など、ホームページでお知らせします。お買い上げいただければ幸いです。


第3037話 2023/06/09

律令制都城論と藤原京の成立(3)

 新庄宗昭さんが『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』(注①)で発表された諸仮説の大半については、わたしも同意見です。他方、新庄説のなかでも最も賛成できないテーマが、藤原京条坊の造営開始年代を孝徳期~斉明期(新庄説)とするのか、天武期(通説)とするのかです。最大で約30年もの差異がありますので、考古学的出土物(エビデンス)により、どちらが妥当かは明らかになると思います。

 藤原宮と藤原京の造営経緯を簡単に言えば、藤原京条坊造営開始が先行し、一旦造った条坊道路や側溝などを埋め立てて、その上に藤原宮(大宮土壇)が造営されています。通説ではその年代を、天武期に条坊の造営が開始され、持統期に藤原宮が創建されたとします。

この年代観の根拠となったのが、藤原宮下層から出土した干支木簡です。「壬午年」「癸未年」「甲申年」と干支で年紀を記した木簡が三点あり、天武十一年(682)、天武十二(683)、天武十三年(684)に相当します。これらの木簡は藤原宮下層の大溝底部堆積層から出土しており、この大溝は藤原宮下層条坊道路を掘削して造られたことが判明しています。従って、下層条坊の造営開始は天武十三年以前と考えることができ、更に下層遺構出土土器が藤原宮時代(694~710年頃)の土器よりも古い様相を示していることも、干支木簡の年次と整合しています。

 更に下層条坊遺構(西方官衙南区画外)の井戸に使用されたヒノキ板が出土しており、年輪年代測定により682年に伐採されたことがわかっています。また、下層条坊の側溝出土土器(須恵器坏B)の年代観からも、「七世紀第三・四半期より早くはならない。」(注②)と見られています。考古学エビデンスである干支木簡(683~684年)や年輪年代(682年伐採)、出土土器(須恵器坏B)編年に基づけば、下層条坊の造営は天武期頃とするのが適切であり、孝徳期・斉明期とするのはさすがに無理とわたしは考えています(注③)。(つづく)

(注)
①新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。
②木下正史『藤原京』中公新書、2003年。
③古賀達也「藤原宮下層条坊と倭京」『多元』172号、2022年。


第3036話 2023/06/09

実在した「東日流外三郡誌」編者

―和田家墓石と長円寺過去帳の証言―

 6月17日(土)の午前中に開催される「古田史学の会」関西例会で(午後は『九州王朝の興亡』出版記念講演会)、わたしは「和田家文書の明治写本と大正写本」というテーマを発表します。内容は、昭和61年頃にテレビ東京で放送された、文書所蔵者の和田喜八郎氏が登場する番組「みちのく黄金伝説の謎を求めて」(注①)の紹介がメインです。同番組中に五所川原市飯詰の長円寺(注②)にある和田家の墓石が映っており、同墓石や長円寺の過去帳を古田先生と調査したときのことを思い出しました。

 和田家文書偽作論者は「和田家は明治22年以前は飯詰村には住んでいなかった」と主張していましたが、現地調査により和田家が江戸時代から飯詰にあったことを確認できました(注③)。和田氏宅の近くにある長円寺に和田家墓地があり、文政十二年(1829年)に建てられた墓石が存在します。その表には四名の戒名と内三名の没年が彫られています。次のように読めました。
()内は古賀注。

慈清妙雲信女 安永五申年十月(以下不明)
智昌良恵信士 文化十酉年(以下不明)
安昌妙穏信女 文化十四丑年(以下不明)
壽山清量居士 (没年記載なし)

裏面は次のようです。

文政丑五月建(一字不明、「之」か)和田氏

壽山清量居士(和田吉次と思われる)が存命の文政十二年(1829)に建立した墓碑でしょう。

 他方、長円寺の過去帳(原本は火災で焼失したとのこと。五所川原市教育委員会によるコピー版によった。)には「智昌良恵信士 文化十年十一月 下派 長三郎」「安昌妙穏信女 同年(文化十四年)十月下派 長三郎」との記載があり、墓石の戒名・没年と一致しています。長円寺御住職の説明では、「下派」とは「下派立(しもはだち)」の略であり、「長三郎」は喪主とのこと。ちなみに、和田家当主は「長三郎」を襲名しており、この長三郎は「和田氏」墓石との関連から、和田長三郎のことであり、時代からして和田吉次のこととなります。下派立とは長円寺や和田家がある旧地域名のことです。こうして飯詰村下派立に和田家が江戸時代から住んでいたことを金石文(和田家墓石)と長円寺過去帳の一致から証明できたのです。

 この他、同過去帳には「和田権七」や明治の「和田長三郎(末吉か)」の名前も見え、和田家歴代当主の名前が、和田家文書の記事と一致していることも確認できました(注④)。

 この調査は和田家が江戸時代から当地にあったことを証明するために行ったのですが、このことは、東日流外三郡誌の編者の一人、和田長三郎吉次の実在を意味しており、当調査の重要性に改めて気付くことができました。もう一人の編者、秋田孝季についても調査を続けています。

(注)
①「土曜スペシャル ミステリアス・ジャパン みちのく黄金伝説の謎を求めて」、テレビ東京・キネマ東京作成。MCは中尾彬氏。
②長円寺は曹洞宗の寺院で、和田家宅の近傍にある。
③古賀達也「和田家文書現地調査報告 和田家史料の『戦後史』」『古田史学会報』3号、1994年。
④長三郎吉次→長三郎権七→長三郎末吉→長作→元市→喜八郎。


第3035話 2023/06/08

吉野ヶ里出土石棺墓が示唆すること (2)

 ―蓋裏面に刻まれた「×」印―

吉野ヶ里遺跡の〝謎のエリア〟から出土した石棺墓に関するニュースが連日のように報道されています。その中で注目したのが、石棺の蓋には線刻が認められ、裏面にも「×」印が刻まれていたことです。外からは見えない蓋の裏側に刻まれていた「×」印について、よく似た事例が弥生時代の出土品にあることを思い出しました。それは、島根県の荒神谷遺跡出土銅剣と加茂岩倉遺跡出土銅鐸に記された「×」印です(注①)。
銅剣は柄に埋め込む部分(茎)に、銅鐸はひもで吊す鈕の部分に「×」印があり、いずれも使用時には見えなくなる、あるいは見えにくくなる部分です。これらの「×」印は、石棺の蓋の内側という、目に触れなくなる部分に刻まれた「×」印と同類の何らかの思想に基づいたものと思うのです。古田先生は銅剣と銅鐸の「×」印には発見当初から関心を示されており、次のように述懐されています。

〝(一九九六年)十二月十六日、念願の出雲へ向った。松江市・斐川町と、なつかしい旅だった。(中略)加茂町の教育委員会社会教育主事の吾郷和宏さんが現場へ案内して下さった。そこには銅鐸が横むき、「ひれ」が上、の形で土中に露出している。二個だ。その手前に削ぎ取られて銅鐸の形にくぼみ、青ずんだ土があった。なまなましい。

降りてくると、意外にも、ジャーナリズムの人々に取り巻かれた。感想を聞かれた。わたしは答えた。

「この前の荒神谷と今回の加茂岩倉とは、埋納の時期がちがうと思います。

第一、埋納の場所が、荒神谷の方は数メートル上の途中の土にあったのに対し、今回の方は十五~六メートルも上の頂上ですね。場所の状況が全くちがっています。

第二、荒神谷は『剣』、わたしはこれは「矛」だと思っていますが、ともあれ『武器型祭祀物』が三五八本もあって、中心になっています。筑紫矛もありました。ところが、今回は、ほぼ近い時期の『中広形』や『広形』の矛(九州)、また『平剣』(瀬戸内海領域)が全く出土していません。銅鐸だけです。この点、対照的です。

第三、もし両者が同時期の埋納なら、荒神谷の『小型銅鐸』も、今回の大・中銅鐸と“重ね入れ”になっててもいいのに、そうなっていない。(今回は、大・中“重ね入れ”です。)

第四、昨日報道された「×」印も、その“状態”が全くちがいます。
1. 荒神谷では、九十パーセント以上、「×」がつけられていたのに、今回は、今のところ一つだけ。「右、代表」の形です。
2. 荒神谷では、六個の銅鐸には全く「×」がないのに、今回は銅鐸につけられています。
3. 一番肝心のことがあります。荒神谷の場合、下の端の「柄」のところに「×」がつけられています。ここには「木の柄」がかぶせて使われるわけですから、儀式の場などで使うときにはこの『×』は『見えない』わけです。製造者だけに“判る”という仕組みです。
ところが今回のは、銅鐸の表面でデザインを“汚(けが)している”わけですから、儀式の場などでは、使いにくい状態です。
ですから、埋納直前にこの『×』が入れられ、“外部からの侵入、取り出し者”のないように、マジカルに『祈念』したもののように見えます。(中略)
要するに、荒神谷と加茂岩倉とは別集団です。もし『同一集団』という言葉を使うなら『歴史的同一集団』です。加茂岩倉の集団の人々は、荒神谷の『×』印入りを、『伝承』として知っていたわけです。ですから『荒神谷の後継者』と考えていいでしょう。」

以上であった。右のポイントを言葉にすれば、荒神谷の方は製造工房をしめし、「使われるための×印」、加茂岩倉の方は「使われないための×印」と言えるのではないか。マジカルな意志は両者ともあるだろうが、見た目には同じ「×」印でも、その目的がおのずから別だ。〟(注②)

このときの出雲紀行(加茂岩倉遺跡訪問)は、当地の関係者からの「出土により現地は大騒ぎになっているので、マスコミに知られないように来てほしい」との要請により、先生一人〝お忍び〟で行かれました。「意外にも、ジャーナリズムの人々に取り巻かれた」とあるのは、そうした背景があったことによるものです。著名な歴史学者の古田先生の訪問をマスコミはキャッチしていたようです。
そしてその調査報告を『古田史学会報』で発表したいと、事前に先生から要請されていたので、会報編集・発行を担当していたわたしは、発行日を年末(12月28日)ぎりぎりまで遅らせ、紙面1頁をあけて先生の原稿を待っていたことを思い出しました。先生も1頁分の字数内で原稿を書かれました。
ちなみに古田先生は、荒神谷遺跡での埋納を〝天孫降臨ショック〟、加茂岩倉遺跡での埋納を〝神武ショック〟(神武~崇神の大和占拠、銅鐸圏侵攻)と呼ばれ、それぞれ天孫族・倭国からの侵入を受けて、神聖な銅鐸や銅剣・銅矛を地中に隠したのではないかと考えておられました(注③)。
吉野ヶ里の石棺蓋の「×」印と銅鐸圏(出雲)での「×」印にどのような関係があるのか、古代日本思想史上の課題でもあり、石棺内の調査を興味深く見守っています。吉野ヶ里の有力者に相応しい金属器の出土が期待されます。(つづく)

(注)
①荒神谷遺跡出土銅剣358本中344本に、加茂岩倉遺跡出土銅鐸39個中13個に「×」印が刻まれていた。(雲南市ホームページの解説による)
②古田武彦「出雲紀行 ―使うための「×」と、使わないための「×」。―」『古田史学会報』17号、1996年。
③古田武彦「出雲銅鐸に関するデスクリサーチ 神武ショックと銅鐸埋納」『多元』16号、1997年。『古田史学会報』17号に転載。


第3034話 2023/06/07

吉野ヶ里出土石棺墓が示唆すること (1)

―吉野ヶ里の日吉神社と須玖岡本の熊野神社―

吉野ヶ里遺跡の〝謎のエリア〟から出土した石棺墓が注目されています。〝謎のエリア〟とは同遺跡北地区にあった日吉神社のエリアで、今回初めて発掘調査されました。甕棺墓が多数出土した吉野ヶ里から石棺墓が出土したことにより、当地域の有力者の墓と見られています。
三十年ほど前、わたしは古田先生と吉野ヶ里遺跡を訪れたことがあります。その当時から古田先生は同遺跡地域に鎮座する日吉神社に注目されていました。それは次のような理由からでした(注①)。

(1)『三国志』倭人伝に見える倭国の中心国「邪馬壹国」の本来の国名部分は「邪馬」である(注②)。
(2) この「邪馬」国名の淵源について古田先生は、弥生時代の須玖岡本遺跡で有名な春日市の須玖岡本(すぐおかもと)にある小字地名「山(やま)」ではないかとされた。
(3) 須玖岡本遺跡からはキホウ鏡など多数の弥生時代の銅製品が出土しており、当地が邪馬壹国の中枢領域と思われ、「須玖岡本山」はその丘陵の頂上付近に位置する。
(4) そこには熊野神社が鎮座しており、卑弥呼の墓があったのではないか。日本では代表的寺院を「本山(ほんざん)」「お山(やま)」と呼ぶ慣習があり、この小字地名「山」も宗教的権威を背景とした地名ではないか。そしてその権威としての「山」地名が「邪馬国」という広域国名となり、倭人伝に邪馬壹国と表記されるに至ったのではないか。
(5) 神社は神聖な地に造営されるのが通常であることから、吉野ヶ里遺跡の日吉神社にも重要な遺構があると推定できる。

この度の石棺墓出土の報道に触れ、30年前にうかがった古田先生のご意見、眼力(論理力)が正しかった事が明白となりました。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1805話(2018/12/19)〝「邪馬国」の淵源は「須玖岡本山」〟
②この古田説を次の「洛中洛外日記」で紹介した。
同「洛中洛外日記」1803~1804話(2018/12/18~19)〝不彌国の所在地(1)~(2)〟


第3033話 2023/06/06

律令制都城論と藤原京の成立(2)

新庄宗昭さんの力作『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』を改めて精読しました(注①)。新庄説と通説との最大の違いは、藤原京条坊の造営開始年代を孝徳期~斉明期とすることです。通説では天武期とします。最大で約30年もの差異がありますが、わたしは通説を支持しています。この問題については後述することにして、新庄説とわたしの説の一致点に興味を覚えました。両者には次のような一致点があります。

【新庄説と古賀説の一致点】
(1) 前期難波宮(難波京)を九州王朝(新庄さんは「上位権力X」「鼠」「倭」と表現)による652年創建の王宮・王都とする。(注②)
(2) 藤原京条坊(新庄さんは「先行条坊」「倭京条坊」と表現)創設当初の中枢遺構が長谷田土壇にあった可能性(喜田貞吉説)を指摘。(注③)
(3) 持統紀に見える「新益京」を、藤原宮(大宮土壇)創建により、同宮を周礼型の中心地となるように京域を拡大したことによる名称とする。(注④)
(4) 難波(難波津)には前期難波宮創建以前に既に九州王朝が進出していた。(注⑤)

以上の一致点は九州王朝説にとっていずれも重要なテーマであり、新庄説の登場はとても心強く思いました。(つづく)

(注)
①新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。
②古賀達也「前期難波宮は九州王朝の副都」『古田史学会報』85号、2008年。『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年)に収録。
③古賀達也「洛中洛外日記」544話(2013/03/28)〝二つの藤原宮〟
同「洛中洛外日記」545話(2013/03/29)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟
④同「洛中洛外日記」547話(2013/04/03)〝新益京(あらましのみやこ)の意味〟
⑤同「洛中洛外日記」1268話(2016/09/07)〝九州王朝の難波進出と狭山池築造〟
「難波の都市化と九州王朝」『古田史学会報』155号、2019年。


第3032話 2023/06/05

「富岡鉄斎文書」三編の調査(3)

 ―長楽寺の石盤銘を拝観―

今朝は円山公園の南西にある長楽寺(注①)を妻と二人で訪問し、富岡鉄斎の文が彫られている石盤銘を拝観しました。石製の水盥側面に彫られた銘文を一字ずつ視認し、北山愚公さんのブログ「長楽寺の手洗い石盤について」(注②)で紹介された下記の銘文に誤りがないことを確認しました。なお、「楽」は旧字体の「樂」と確認できたので修正しました。

長樂 寺後 山上 有賴 氏及 名家 墳塋 行人 欲拜 之者 毎憂 無水 可以 盥漱 乃與 寺僧 相謀 敬造 石盤 幷設 竹筧 導引 菊溪 清水 常盈 盤中 以備 其用 大正 八年 四月 長樂 寺壽 山代 圓山 左阿 彌辻 道仙 妻壽 美(敬) 造 鐡(齋) 百(錬) 記

()で囲んだ末尾下段の3字(敬、齋、錬)は摩滅により判読しにくかったのですが、同寺ご住職にご協力いただき、文字の痕跡を確認できました。
久しぶりに訪れた祇園花見小路界隈は外国人観光客が目立ち、艶やかな振り袖姿のお嬢さんたちのほとんどは外国語を話していました。(つづく)

(注)
①長楽寺は最澄が延暦二四年(805年)に開基したと伝えられ、室町時代以降は時宗(遊行派)の寺院。山号は黄台山。円山公園の東南方に位置する。
「北山愚公のブログ」
http://hokusan-gukou.cocolog-nifty.com/blog/2009/08/post-8a4b.html


第3031話 2023/06/04

律令制都城論と藤原京の成立(1)

 本年11月に開催される〝八王子セミナー2023〟にて(注①)、「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」という演題で発表予定でしたが(注②)、セミナー実行委員会の橘高修さん(東京古田会・副会長)より演題と発表要旨を変えて欲しいとの要請がありました。そこで、Skypeで2時間ほど面談し、その事情などをお聞かせ頂いたところ、同じセッションで発表される新庄宗昭さんの藤原京成立論に対応した内容とし、パネルディスカッションにて論議を深めて欲しいとのことでした。たしかに発表者が自説を述べ合うだけではなく、共通の論点で論議するという趣旨には大賛成で、今までのセミナーにはない面白い企画と思い、了承しました。
そこで、演題と要旨を次のように修正し、発表内容も企画意図にあわせることを約束しました。

《演題》律令制都城論と藤原京の成立 ―中央官僚群と律令制土器―

《要旨》大宝律令で全国統治した大和朝廷の都城(藤原京)では約八千人の中央官僚が執務した。それを可能とした諸条件(官衙・都市・他)を抽出し、倭国(九州王朝)王都と中央官僚群の変遷、藤原京成立の経緯を論じる。

 橘高さんの要請に応えるべく、新庄さんの力作『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』を改めて精読しました(注③)。(つづく)

(注)
①正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」で公益財団法人大学セミナーハウスの主催。実行委員会に「古田史学の会」(冨川ケイ子氏)も参画している。
②古賀達也「洛中洛外日記」2980話(2023/04/06)〝八王子セミナー2023の演題と要旨(案)〟
③新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。


第3030話 2023/06/03

九州年号「大化」「大長」の原型論 (10)

 九州王朝の記憶が失われた後代において、各史料編纂者が考えた末に、九州年号最後の大長を大和朝廷最初の大宝元年に接続した各種年号立てが発生したとする作業仮説の検証過程を本シリーズで解説しました。その検証の結果、大長は701年以後に実在した九州年号であり、本来の姿は「朱鳥(686~694年)→大化(695~703年)→大長(704~712年)」になるとしました。これであれば、『二中歴』の年号立て「朱鳥(686~694年)→大化(695~700年)→大宝元年(701年)」を維持しながら、大長(704~712年)の存在と整合することから、基本的に論証は完成したと考えました。
一旦こうした仮説が成立すると、それまで誤記誤伝として斥けられてきた次の九州年号記事の存在がむしろ実証的根拠となり、自説は九州年号研究での有力説とされるに至りました。

○「大長四年丁未(七〇七)」『運歩色葉集』「柿本人丸」
○「大長九年壬子(七一二)」『伊予三島縁起』

 この他にも愛媛県松山市の久米窪田Ⅱ遺跡から出土した「大長」木簡も実見調査しましたが、こちらは「大長」を年号と確認するまでには至りませんでした(注①)。
そして九州年号「大長(704~712年)」実在説は、九州王朝から大和朝廷への王朝交代研究に貢献することになります。直近では正木裕さん(古田史学の会・事務局長)による研究があり(注②)、注目されます。(おわり)

(注)
①古賀達也「九州年号『大長』の考察」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)、2017年。初出は『古田史学会報』120号、2014年。
②正木裕「消された和銅五年(七一二)の『九州王朝討伐譚』」『古田史学会報』176号に掲載予定。


第3029話 2023/06/02

上岡龍太郎さんの思い出

 本日、上岡龍太郎さんの訃報に接しました。心より哀悼の意を捧げます。上岡さんは京都市ご出身のタレントで、トーク番組やバラエティーでのお笑いの芸は天才と評されていました。人気も実力も絶頂期の58歳で突然のように芸能界を引退され、以来、テレビやラジオ番組に出られることはなかったと聞いています。また、読書家でその博覧強記ぶりはよく知られていました。
そんな上岡さんに初めてお会いしたのは、信州諏訪湖畔にある昭和薬科大学諏訪校舎で、平成三年(1991)八月五日のことでした。古田先生の提唱により開催された「古代史討論シンポジウム 『邪馬台国』徹底論争 ―邪馬壹国問題を起点として―」(8月1日~6日、東方史学会主催)の実行委員会にわたしは「市民の古代研究会」事務局長として参画し、講演者として来場された上岡さんらと打ち合わせする任務についていました。上岡さんの印象はテレビで見るよりもスマートで端正なお顔立ちでした。また、言葉も態度も丁寧で、芸能人としての〝上岡龍太郎〟の印象とは全く異なっていました。
予定では上岡さんの持ち時間は1時間で、その後が皇學館大学の田中卓先生(1923~2018年)でした。確認のため、そのスケジュールを説明すると、上岡さんは「わたしは30分で結構です。その分、専門家の皆さんの発表時間に使って下さい。」とのこと。そして、その言葉通り、軽妙なトークで会場を盛り上げると、ぴったり30分で話を終えられたのです。しかも、時計も見ずにです。さすがはプロフェッショナル、見事な話芸を見せて頂き、感激したことを今でもはっきりと覚えています。その内容は『「邪馬台国」徹底論争』第3巻(新泉社、1993年)に収録されています。
その後も、上岡さんとは古田先生の講演会々場でときおりお会いしました。わたしが受付をやっていると、突然ふらっと現れて「カミオカです」と小声で挨拶されるのですが、どちらのカミオカさんだろうかと見るとあの上岡龍太郎さんでした。いつも物静かな感じで〝芸能人オーラ〟は全く見せない方でした。電話での会話は別にして、最後にお会いしたのは、平成十四年(2002)二月二一日、嵐山の料亭だったと記憶しています。そのときの写真を見てみますと、机を挟んで古田先生と熱心に対話されており、本に掲載するための対談風景のようですが、残念ながらその内容を思い出せません。なお、このときとは別に、『新・古代学』第1集(新泉社、1995年)に両者の対談録「上岡龍太郎が見た古代史」が掲載されています。
上岡さんは道義に篤い方でしたし、古田先生のことを敬愛しておられ、「古田先生には学恩ではなく芸恩を感じている」と仰っていました。きっと今頃は冥界で先生と対話を楽しまれていることでしょう。心よりご冥福をお祈りします。


第3028話 2023/06/01

『東京古田会ニュース』No.210の紹介

 『東京古田会ニュース』210号が届きました。拙稿「『東日流外三郡誌』の考古学」を掲載していただきました。拙稿は福島城跡(旧・市浦村)の創建年次などについて論じたものです。東北地方北部最大の城館遺跡とされている福島城(旧・市浦村)は東京大学による調査(注①)により、14~15世紀の中世の城址と見なされてきましたが、他方、東日流外三郡誌には福島城の築城を承保元年(1074)とされていました(注②)。ところが、その後行われた発掘調査(注③)により、福島城は古代に遡ることがわかり、出土土器の編年により10~11世紀の築城とされ、東日流外三郡誌に記された「承保元年(1074)築城」が正しかったことがわかりました。この事実は東日流外三郡誌偽作説を否定するものとなりました。
当号には注目すべき論稿がありました。橘高修さん(東京古田会・副会長、日野市)による「古代史エッセー73 マクロ的に見た史観の推移」です。【皇国史観】【津田史学の登場】【皇国史観に対する津田の立場】【古田武彦の津田史学批判】【津田説から古田説へ】という小見出しからもわかるように、戦前から戦後、そして現在に至る日本古代史学の思潮を概説した好論です。特に津田史学の解説は興味深く拝読しました。
津田史学の特筆すべき業績に、皇国史観による『日本書紀』の解釈を否定したことがあります。戦前戦中は非難の対象となった津田史学でしたが、戦後は一転して評価されます。しかし、神話などを学問(史料批判)の対象から除外するという、行き過ぎた古代史学や戦後教育を生み出す一因にもなりました。こうした津田史学の影響を学問的に乗り越えたのが古田史学であり、フィロロギー(注④)という学問でした。
古田史学の歴史的意義を論じた橘高稿を読み、古田先生亡き後、改めて先生の学問やその方法、歴史的位置づけを確認することが、今日の古田学派にとって重要ではないかと考えさせられました。

(注)
①昭和30年(1955)に行われた東京大学東洋文化研究所(江上波夫氏)による発掘調査。
②『東日流外三郡誌』北方新社版第三巻、119頁、「四城之覚書」。
③1991年より三ヶ年計画で富山大学考古学研究所と国立歴史民俗博物館により同城跡の発掘調査がなされ、福島城遺跡は平安後期十一世紀まで遡ることが明らかとなった(小島道祐氏「十三湊と福島城について」『地方史研究二四四号』1993年)。
④古田武彦「アウグスト・ベエクのフィロロギィの方法論について〈序論〉」『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)古田史学の会編、明石書店、2016年。初出は『古代に真実を求めて』第二集、1998年。
古賀達也「洛中洛外日記」1370話(2017/04/15)〝フィロロギーと古田史学〟
茂山憲史「『実証』と『論証』について」『古代に真実を求めて』22集、2019年。初出は『古田史学会報』147号、2018年。