古賀達也一覧

第3447話 2025/03/12

『三国志』

「天柱山高峻二十余里」の論点 (2)

 ―山高を「里」で表す『水経注』―

 『三国志』に短里(一里76~77m)が採用されている例として『三国志』の「天柱山高峻二十余里」〔魏志張遼伝〕があります。これに対して、〝山の高さを「里」では表すことはなく、「丈」で表すものであることから、この「二十余里」は天柱山までの距離〟とする批判が出されましたが、山の標高を「里」で表記する例は少なからずあることを古田先生は『邪馬一国の証明』(注①)で紹介しました。そして、「水経注には、山高に「里」を用いた例が頻出している。」としています。

 『水経注』四十巻は、六世紀前半に北魏の酈道元(れきどうげん)が撰述した地理書で、河川の位置や歴史などが詳述されています。その構成は、『水経』という三世紀頃までに成立した簡単な河川誌に、多くの文献の引用と酈道元の注釈が加わったものです。酈道元自身の執筆部分の里数値は長里ですが、諸文献からの引用部分の里数値はその時代の里単位が使用されているようですので、個別に検討が必要です。
その『水経注』全四十巻を数年ぶりに一日かけて読みました(注②)。見落としがあるかもしれませんが、山や嶺の高さに「里」が使われている次の例を見つけました。多くはありませんが、「山高」を「丈」で表す例もありました。

❶河水重源有三、非惟二也。一源西出捐毒之國、蔥嶺之上、西去休循二百餘里、皆故塞種也。南屬蔥嶺、「高千里」。(卷二 河水)

❷水出垣縣北教山、南逕輔山、「山高三十許里」、上有泉源、不測其深、山頂周圓五六里、少草木。(卷四 河水)

❸汾水又逕稷山北、在水南四十許里、山東西二十里、南北三十里、「高十三里」、西去介山十五里。山上有稷祠、山下稷亭。(卷六 汾水)

❹許慎《説文》稱從邑、癸聲。河東臨汾地名矣、在介山北、山即汾山也。其山特立、周七十里、「高三十里」。文穎*言在皮氏縣東南、則可「高三十里」、乃非也。今準此山可「高十餘里」、山上有神廟、廟側有靈泉、祈祭之日、周而不耗、世亦謂之子推祠。(卷六 汾水)
※文穎*は魏の官僚。『三国志』の著者陳寿は西晋の官僚で、二人は同時代の人物。

❺水西出廣昌縣東南大嶺下。世謂之廣昌嶺、「嶺高四十餘里」、二十里中委折五迴、方得達其上嶺、故嶺有五迴之名。(卷十一 滱水)

❻泃水又左合盤山水、水出山上、其山峻險、人跡罕交、去山三十許里、望山上水、可「高二十餘里」。(卷十四 鮑丘水)

❼《搜神記》曰、雍伯、洛陽人、至性篤孝、父母終殁、葬之於無終山、「山高八十里」、而上無水、雍伯置飲焉、有人就飲、與石一斗、令種之、玉生其田。(卷十四 鮑丘水)

❽漢水又東南逕瞿堆西、又屈逕瞿堆南、絶壁峭峙、孤險雲高、望之形若覆唾壺。「高二十餘里」、羊腸蟠道三十六迴、《開山圖》謂之仇夷、所謂積石嵯峨、嶔岑隱阿者也。(卷二十 漾水)

❾《鄒山記》曰、徂徠山在梁甫、奉高、博三縣界、猶有美松、亦曰尤徠之山也。赤眉渠帥樊崇所保也、故崇自號尤徠三老矣。山東有巢父廟、「山高十里」、山下有陂、水水方百許步、三道流注。(卷二十四 汶水)

❿泗水南逕高平山、山東西十里、南北五里、「高四里」、與衆山相連。其山最高、頂上方平、故謂之高平山、縣亦取名焉。(卷二十五 泗水)

⓫沅水又東、夷水入焉、水南出夷山、北流注沅。夷山東接壺頭山、「山高一百里」、廣圓三百里。(卷三十七 沅水)

 このように、酈道元自身の文や諸時代成立の引用文献中に、山の高さの表記に「里」が少なからず使われており、『三国志』の天柱山記事に「里」が使われていてもなんら不思議ではありません。従って、〝山の高さを「里」では表すことはない〟とする批判は的外れなのです。(つづく)

(注)
①古田武彦『邪馬一国の証明』角川書店、昭和五五年(一九八〇)。ミネルヴァ書房より復刻。
②調査に当たり、WEB版「中國哲學書電子化計劃」の『水経注』を利用した。


第3446話 2025/03/11

『三国志』

「天柱山高峻二十余里」の論点 (1)

 『三国志』には編纂当時の公認里単位として、短里(一里76~77m)が採用されているとする魏・西晋朝短里説を古田先生は発表し、その一例として『三国志』の「天柱山高峻二十余里。」〔魏志張遼伝〕をあげました。それをわたしは次のように紹介しました(注①)。

 〝天柱山の高さ1860m÷21~24里=89m~78m(余を1~4とする)。中国本土で短里が使用されている明確な例。周辺の平野との標高差であれば、さらに76mに近づく。これが長里(435m)であれば天柱山はエベレストを凌ぐ9000m級の超高山となり、実測値と全くあわない。『三国志』編集時代の魏・西晋の公認里単位が長里では有り得ないことを示す。〟

 このことを「古田武彦記念古代史セミナー」実行委員会で紹介したところ、ある実行委員から二つの指摘がなされました。一つは、山の高さを「里」では表すことはなく、「丈」で表すものであることから、この二十余里は天柱山に向かう距離のこととするものでした。

 こうした批判が数十年前にあったことは知っていましたが、古田先生から反論がなされ、とうの昔に決着済みと思っていたので、セミナー実行委員から出されたことにちょっと驚きました。具体的な反論の出典を記憶していなかったので、調べたうえで返答することにしました。その調査結果は次の通りです。
山の標高を「里」で表記する例は少なからずあり、古田先生は次の例を『邪馬一国の証明』(注②)で、45年前(昭和55年)に示されていました。

〝○文穎曰く、「(介山」)其の山特立し、周七十里、高三十里」。(『漢書』武帝紀、注)
文穎は三世紀、後漢末から魏朝にかけての人だ。ここ(山西省)は二〇〇〇メートル前後の高度だから、短里(約二一五〇メートル)でほぼ妥当する。(中略)もしこれが長里なら、一三〇五〇メートルだ。エベレストなど問題にならぬ超高山となろう。(中略)
他の例をあげよう。
○(永昌郡)博南県、山高四十里(『華陽国志』『邪馬壹国の論理』二三七ページ所収、参照)。
○騶山有り、高五里、秦始皇、石を刻す(『後漢書志』郡国志二、注。篠原俊次氏のご教示による。ただし、これは「短里」の例ではない)。
なお、水経注には、山高に「里」を用いた例が頻出している(同右)。〟

 これ以外にも、わが国における短里研究の第一人者である谷本茂さん(古田史学の会・会員、『古代に真実を求めて』編集部)から次のご教示を得たので紹介します。

〝『海島算経』に、島の峰の高さを測る方法の問題があり、「答曰 島高四里五十五歩」とあります。島の峰までの距離と解することはできません。
山の高さか山頂近くまでの距離なのか、議論が生じ易い論点だと思いますが、少なくとも、〝山の高さは「丈」で表すもので、「里-歩」では表さない〟という主張は史料に反例が幾つもあるのですから、成り立たないと思います。
また、山道(登山道)の距離を表す場合には、例えば、漢書注[漢書25郊祀志5上] 如淳曰…泰山從南面直上歩道三十里車道百里のように説明されています。(この例は短里での登山道の距離の例であることが分かりました。)
文頴も如淳も魏の官僚ですから、「短里」や山の高さ表記の認識を共有していたと考えて大過ないのではないでしょうか。〟

 わたしは、「学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる」との信条を持っていますので、古田説や短里説への批判も歓迎しますし、〝兄弟子〟からのご教示には深く感謝しています。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3429話(2025/02/13)〝『三国志』短里説の衝撃 (4) ―『三国志』の中の短里―〟
②古田武彦『邪馬一国の証明』角川書店、昭和五五年(一九八〇)。ミネルヴァ書房より復刻。

「天柱山高峻二十余里。」〔魏志張遼伝〕に関して、
古田武彦氏の発言は、ホームページで全文検索エンジンで検索してください。

 


第3445話 2025/03/10

『多元』186号の紹介

 友好団体である多元的古代研究会の会報『多元』186号が届きました。同号には拙稿〝飛鳥宮内郭から長大な塀跡出土〟を掲載していただきました。同稿は、2023年11月に報道された飛鳥宮第一期(舒明天皇の飛鳥岡本宮)遺構(塀跡)発見の紹介と、同遺構の火災の痕跡が『日本書紀』記事「六月、岡本宮に災(ひつ)けり。天皇、遷(うつ)りて田中宮に居(ま)します。〔舒明八年〕」と一致することについて考察したものです。そして、次のように論じました。

 「九州王朝説論者も、飛鳥宮跡が指し示す近畿天皇家王宮の規模(飛鳥宮跡Ⅱ期・Ⅲ期は大宰府政庁Ⅰ期・Ⅱ期よりも大規模)や建築様式の変遷に注目すべきだ。多元史観・九州王朝説の中での、近畿天皇家(後の大和朝廷)の適切な位置づけが必要であることを今回の出土は示唆している。なかでも考古学的出土事実と『日本書紀』の飛鳥宮記事が対応することは、『日本書紀』当該記事の信頼性を高めており、それに関連する記事も史実である可能性が高くなることに留意しなければならない。」

 同号の一面には、和田事務局長による「安藤哲朗前会長を悼む」が掲載されていました。古田先生や古田説のことをよく知る古田史学第一世代の物故が続き、わたしも心が痛みます。生前、安藤さんから預かっていた未発表原稿は遺稿となりましたが(注)、多元的古代研究会で発行される論集に収録していただけるとのこと。十数年、大切に保管していてよかったと思いました。

 和田さんの追悼文には、わたしが知らなかった次の逸話が記されていました。

 〝安藤さんは「動より静の人」でした。発言はつねに必要にして最小、率先して人の先に立つことはまれでした。初代の高田カツ子会長が急逝された際にも、会長職を固辞され、古田先生が懸命に説得されたとも聞きました。〟

 今頃は冥界で、遺稿に示された古田説とは異なる自説を、もの静かに古田先生に語られているような気がします。

(注)古賀達也「洛中洛外日記」3418話(2025/01/30)〝安藤哲朗氏のご逝去を悼む〟


第3444話 2025/03/07

唐詩に見える王朝交代の列島 (5)

 ―王維の詩の「九州」は九州島か―

 中小路駿逸先生は、唐詩に表れる「扶桑」「扶桑の東」「扶桑の東の更に東」に着目したのですが、古田先生は王維の詩に見える「九州」に注目し、それを九州王朝の故地である「九州島」、あるいは「九州王朝」そのものを意味するとされました(注①)。前話で紹介した❷《秘書晁監の日本國に還るを送る》の詩です。

❷《秘書晁監の日本國に還るを送る》王維(699?~759?年)
積水不可極 安知滄海東
九州何處所 萬里若乘空 →「所」を「遠」「去」とする版本がある。
向國唯看日 歸帆但信風
鼇身映天黑 魚眼射波紅
郷樹扶桑外 主人孤島中 →郷樹扶桑は外(古田説による)
別離方異域 音信若為通
(巻一二七)

 これは、唐の官僚(秘書)として勤めていた阿倍仲麻呂が帰国する際の送別の式で王維が作ったとされる詩です。古田先生はこの詩の「九州何處所」を〝九州は何処(いずれ)の所ぞ〟と読み、この九州を九州島のこととされました。すなわち、仲麻呂は九州王朝の故地で唐詩で扶桑とよばれる九州島に帰ると理解したのです。すなわち、仲麻呂九州出身説です。それに対応するように、「郷樹扶桑外」も通説の〝郷樹扶桑の外〟ではなく、〝郷樹扶桑は外〟と読み、仲麻呂の故郷にある樹、扶桑(九州島を意味する)は中国から遠く離れた「外」にあると解釈しました。扶桑=外(遠地)とする理解です。

 この古田先生の解釈に対して、中小路先生はそのような読みは成立しないと批判されました(注②)。(つづく)

(注)
①古田武彦「日中関係史の新史料批判 ―王維と李白―」『古田武彦講演集98』古田史学の会編、1991年。
古田武彦・福永晋三・古賀達也「九州の探求」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』2000年、明石書店。
②中小路駿逸「王維が阿倍仲麻呂に贈った詩にあらわれる「九州」、「扶桑」および「孤島」の意味について」『中小路駿逸遺稿集 九州王権と大和王権』海鳥社、2017年。


第3443話 2025/03/05

唐詩に見える王朝交代の列島 (4)

 「扶桑」「扶桑の東」「扶桑の東の更に東」

 中小路駿逸先生は、唐詩に表れる「扶桑」「扶桑の東」「扶桑の東の更に東」に着目し、それは日本列島に複数の領域(王権)が併存していたことを表していると指摘しました(注①)。その根拠となった代表的な唐詩を『全唐詩』より紹介します。

❶《崔載華に同じて日本の聘使に贈る》劉長卿(710?~785?年)
憐君異域朝周遠 積水連天何處通
遙指來從初日外 始知更有扶桑東 →始て知る更に扶桑の東有ることを
(巻一五〇)

❷《秘書晁監の日本國に還るを送る》王維(699?~759?年)
積水不可極 安知滄海東
九州何處遠 萬里若乘空
向國唯看日 歸帆但信風
鼇身映天黑 魚眼射波紅
郷樹扶桑外 主人孤島中 →郷樹扶桑の外
別離方異域 音信若為通
(巻一二七)

❸《日本の使の還るを送る》徐凝(生没年不詳) 九世紀初頭の詩
絶國將無外 扶桑更有東 →扶桑更に東有り
來朝逢聖日 歸去及秋風
夜泛潮回際 晨征蒼莽中
鯨波騰水府 蜃氣壯仙宮
天眷何期遠 王文久已同
相望杳不見 離恨托飛鴻
(巻四七四)

❹《日本國の僧敬龍の歸るを送る》韋莊(836~910年)
扶桑已在渺茫中 家在扶桑東更東 →家は扶桑の東の更に東に在り
此去與師誰共到 一船明月一帆風
(巻六九五)

 これらは日本国に帰る使者・僧を唐の官人が送る詩ですから、そこに見える「扶桑」「扶桑の東」「扶桑の東の更に東」という地理情報は、日中両国の知識人の共通認識と考えられます。そして、日本国の使者が帰る領域は「扶桑」の東にあるように記され、❹《日本國の僧敬龍の歸るを送る》の場合は「家は扶桑の東の更に東に在り」とあることから、僧敬龍の家は最も東の領域にあるわけです。

 そして、「扶桑」とは「元来、それは太陽がそこから昇る木、またはその木のある場所であろう」と中小路先生はされ、『隋書』俀国伝に見える「日出づる処の天子」の国、すなわち九州王朝(倭国)のこととしました。そうすると、その東にあるのが大和朝廷(日本国)、更にその東にあるのが毛人の国(蝦夷国か、注②)となります。

 このように、唐詩に見える日本列島の姿は、西から九州王朝(扶桑)、大和朝廷(扶桑の東)、蝦夷国(扶桑の東の更に東)であり、七~九世紀(唐代)の多元的古代像に対応しているのです。(つづく)

(注)
①中小路駿逸「唐詩の日本古代史像 ―「扶桑の東」をめぐって―」『日本文学の構造 ―和歌と海と宮殿と―』桜楓社、1983年。
②『旧唐書』日本国伝に次の記事がある。
「東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國。」

【写真】劉長卿、王維、徐凝。


第3442話 2025/03/03

唐詩に見える王朝交代の列島 (3)

 ―扶桑(九州王朝)・扶桑の東(大和朝廷)・扶桑の東の更に東(蝦夷国か)―

古田学派に多大な影響を与えた中小路駿逸先生の唐詩研究の概要は次の通りです。

「七世紀まで、中国歴代の王朝が日本列島の中心的権力と見なし通交相手としてきたのは、九州に都する国であり、その国と、〝より東に都する〟大和朝廷の国との〝交替〟は、唐代にはいってから起こっている。――私の逢着した唐詩の例は、こういう日本古代史像を示している。」『日本文学の構造』(注①)196~197頁

具体的には、唐詩に見える「扶桑」などの詩句の分析を次のようにまとめられました(注②)。

一 「扶桑」、「若木」、「天」、「大荒」、「祖州」、「亶州」、および「蓬莱」と、さまざまなイメージを用いて、日本の地の位置および態様の大体が表現されている。

二 「蓬莱」型以外の五つにおいては、日本の地が東西二つに(唐末期には「扶桑」型において三つに)区分されている。

三 阿倍仲麻呂、空海、橘逸勢、円仁といった、畿内の地に帰ることの明らかな人々の帰着地、すなわち畿内が、日本の地のなかでも西から二つ目の、すなわち「何かの東の更に東」でなく「何かの東」の地域と、明らかに呼ばれている。

四 東海中の既知の地のさらに東に位置するものとして、〝畿内〟の地が知られるという、〝第一の変化〟が起こったのが唐代に入ってのちであること、『旧唐書』の記載に対応するこの変化が日本・唐双方の人間にとって共通の認識であったことは、劉長卿の詩句に最も端的に示されている。

五 「大山」よりもさらに東に日本国の領域がのびているという、〝第二の変化〟は、唐末ごろまでに生じていることが、韋荘の詩句に示されている。この、〝第二の変化〟は『旧唐書』にも見えず『新唐書』にもなお見えぬ事項であり、両『唐書』に用いられた史料よりものちの層に属する、より新しい知識と考えられる。

そして、次の結論に至ります。

「これらが、日本人と中国人の共通の認識として唐詩に示され、かつ中国の史書の記載と対応して矛盾しない日本像なのである。
この日本像が日本国内で八世紀以前に作られた諸書の記載内容と対応して矛盾しないことを、私はすでにいくつもの論考で述べた。」(注③)

この中小路先生が紹介する、唐詩に見える日本列島の姿は、西から九州王朝(扶桑)、大和朝廷(扶桑の東)、蝦夷国か(扶桑の東の更に東)という多元的古代像を示唆しているのです。(つづく)

(注)
①中小路駿逸『日本文学の構造 ―和歌と海と宮殿と―』桜楓社、1983年。
②中小路駿逸「唐詩の日本古代史像・補足 ―阿倍仲麻呂・空海・橘逸勢・円仁・円載らの参与」『追手門学院大学文学部アジア文化学科年俸』一(十三)号、1998年。
③同注②


第3441話 2025/03/02

唐詩に見える王朝交代の列島 (2)

中小路駿逸氏から学んだ「論証とは何か」

 わたしが古田門下に入門した三十歳の頃、古田先生は東京の昭和薬科大学で教授をされており、直接教えを請えるのは年に二度ほどの大阪講演会(市民の古代研究会主催)のときくらいでした。そのため、1987年から大阪の追手門学院大学で文学部教授をされていた中小路駿逸先生(注①)からは、何かと教えていただきました。

 当時、わたしは化学会社に勤務しており、学生時代の専攻が有機合成化学だったこともあり(注②)、まったく異分野の文献史学において、「論証する」とはどういうことなのかさえも知りませんでした。化学の場合、実験により再現性を確認できれば、一応、仮説(想定した反応式や分子構造)を証明したことになり、その実験方法(反応条件)と実験結果(分析機器による測定データ)を提示することにより、化学論文としての最低要件は満たせます。ところが歴史学の場合、再現性試験は不可能ですし、文献(テキスト)をエビデンスとして採用することの当否も不確かです。ですから、古田先生の著書に記された〝目が覚めるような論証と結論〟に感動し、深く同意はできるものの、自ら歴史研究を行うことや論文執筆など、全くやり方がわからなかったのです。

 そこで中小路先生に、「論証するとは、どういうことなのでしょうか。どうすれば論証したことになるのでしょうか」と、恥ずかしながら尋ねてみました。中小路先生の返答は、「ああも言えれば、こうも言える、というのは論証ではありません」というものでした。これはこれで難解な答えですが、このことを理解できるようになるまで十年ほどかかりました。ですから、わたしは古田門下では、あまりできのよい〝弟子〟ではなかったようです。古田先生からもよくしかられました。

 話を戻しますが、中小路先生は中国古典文学にも詳しく、唐詩の研究により、唐の詩人たちは唐代の日本列島に複数の王権が併存すると認識していたことを発表されました(注③)。

 「七世紀まで、中国歴代の王朝が日本列島の中心的権力と見なし通交相手としてきたのは、九州に都する国であり、その国と、〝より東に都する〟大和朝廷の国との〝交替〟は、唐代にはいってから起こっている。――私の逢着した唐詩の例は、こういう日本古代史像を示している。」『日本文学の構造』196~197頁

 この主張は、古田先生の多元史観・九州王朝説と整合するとされました。こうした中小路先生の唐詩研究は、当時の古田学派に多大な影響を与えました。(つづく)

(注)
①中小路駿逸(なかこうじ しゅんいつ)、1932~2006年。京都大学文学部文学科卒(国文学専攻)。明石高専教諭、愛媛大学教授などを歴任し、1987年に追手門大学文学部教授(国文学・国語学担当)に就任。2006年、同大学名誉教授。著書に『日本文学の構造 ―和歌と海と宮殿と―』(桜楓社、1983年)、『中小路駿逸遺稿集 九州王権と大和王権』(海鳥社、2017年)がある。
②久留米高専・工業化学科卒。鳥井昭美研究室でアクリジン関連化合物の合成と反応性について研究した。
③中小路駿逸『日本文学の構造 ―和歌と海と宮殿と―』桜楓社、1983年。


第3440話 2025/03/01

唐詩に見える王朝交代後の列島 (1)

 二月の「古田史学リモート勉強会」(古賀主宰)や多元的古代研究会の「リモート研究会」で、『旧唐書』倭国伝・日本国伝や飛鳥・藤原京出土評制荷札木簡(七世紀後半)などを根拠として、七世紀後半から八世紀にかけての王朝交代期の倭国(九州王朝)と日本国(大和朝廷)の領域について研究発表しました。その結論として、701年の王朝交代によって、直ちに倭国(九州王朝)が滅んだわけではないようだと述べました。発表で使用したパワポより転載します(注①)。

〝【結論】
(1) 『旧唐書』倭国伝・日本国伝に記された両国の記事は、七世紀後半~八世紀の認識(状況)を表している。
(2) 従来、誇大で信用できないとされた倭国の領域「東西五月南北三月」「五十余国」は倭国の公式情報であり、妥当な表現である。
(3) 日本国伝の「日本舊小国、併倭国之地」とは倭国の滅亡(併呑)ではなく、飛鳥・藤原出土荷札木簡が示す領域の律令諸国としての併合。九州島(倭国)は王朝交代後は西海道として大宝律令に組み込まれた。
(4) その為、倭国は大宰府を中心とする西海道として〝半独立〟のような状態がその後もしばらくは続いたようだ。このことを示す史料として、万葉集の筑紫記事(赤尾説)や空海の『御遺告』、『三国史紀』などがある。
(5) この状態を『旧唐書』倭国伝・日本国伝は表しており、倭国伝に倭国の滅亡記事が見えないのはこのことを示唆している。〟

 古田史学の門をたたき、滅亡後の九州王朝研究を続けてきたのですが、当初は、『旧唐書』倭国伝に倭国の滅亡記事が見えないことを不審に思い、空海の遺言に遺された〝唐からの帰国記事「大同二年(807)、わが本国に帰る」の一年差の謎(空海の筑紫への帰国は大同元年)〟に迫った研究(注②)、『三国史記』新羅本紀に記された日本国との国交記事が日本側史料と一致しないことの研究(注③)などを発表し、九州王朝は701年の王朝交代後もしばらくは九州の地で〝半独立〟していたのではないかとしました。

 このような問題意識と研究経緯があり、八世紀の九州王朝の残影についての中小路駿逸先生の唐詩研究の著書(注④)を改めて精読することにしました。(つづく)

(注)
①古賀達也「『旧唐書』倭国伝の領域 ―東西五月行と五十餘国―」多元的古代研究会・リモート研究会、令和七年(2025)2月21日(金)
②古賀達也「空海は九州王朝を知っていた」『市民の古代』13集、新泉社、1991年。
③古賀達也「二つの日本国」『古代史徹底論争』駸々堂出版、1993年。
④中小路駿逸『日本文学の構造 ―和歌と海と宮殿と―』桜楓社、1983年。
同『中小路駿逸遺稿集 九州王権と大和王権』海鳥社、2017年。


第3439話 2025/02/27

『三国志』短里説の衝撃〔余話〕

 ―陳寿を信じとおす、とは何か―

 8回続けた〝『三国志』短里説の衝撃〟ですが、思いのほか好評だったようで「古田史学の会」HPのアクセス件数も増えました。同シリーズの学問的核心は、〝倭人伝の行程や里程記事は信用できない〟と言い続け、しかし結論だけは〝「邪馬台国」は畿内で決まり〟とする「邪馬台国」畿内説論者が採用した方法(倭人伝不信論と原文改定)に対して、『三国志』の著者陳寿を信じとおし、原文の合理的解釈を求めるという古田武彦先生の学問の方法との違いにありました。陳寿を信じとおした古田先生は、魏・西晋朝短里説や邪馬壹国博多湾岸説、倭人の二倍年暦説など従来にない仮説群へと至り、倭人伝を原文のまま読んで、合理的に解釈することに成功しました。

 このことを象徴するように、古田古代史学の第一著『「邪馬台国」はなかった』(注①)の序文末尾には次の一文があります。

「しかし、だれも本当に信じなかった。『三国志』魏志倭人伝の著者陳寿のことを。

 シュリーマンがホメロスを信じたように、無邪気に、そして徹底的に、陳寿のすべての言葉をまじめにとろうとした人は、この国の学者、知識人の中にひとりもいなかったのである。

 かれらおびただしい学者群のあとで、とぼとぼとひとり研究にむかったわたしの、とりえとすべきところがもしあるとすれば、それはたった一つであろう。

陳寿を信じとおした。――ただそれだけだ。

 わたしが、すなおに理性的に原文を理解しようとつとめたとき、いつも原文の明晰さがわたしを導きとおしてくれたのである。
はじめから終わりまで陳寿を信じ切ったら、どうなるか。

 その明白な回答を、読者はこの本によって、わたしからうけとるであろう。」

 この「陳寿を信じとおす」という言葉は、かなり挑発的です。エビデンスや既成概念を疑うことから始まる学問研究の世界では、「信じる」という表現がネガティブなものと受け取られかねず、そのことをわかったうえで、古田先生はあえてこの言葉で序文を締めくくったのです。それは、倭人伝の原文を自説に都合良く書き変えても(邪馬壹国→邪馬台国、南に至る→東に至る)、みんなやっていることだから誰からも咎められないという、日本古代史学界の〝宿痾〟への果敢な挑戦だったのです。これは古田武彦という人物だけが成し得たことでした。

 この「陳寿を信じとおす」という言葉の真意が、古田古代史学第二著『失われた九州王朝』(注②)の、やはり序文で次のように述べられています。

「〝陳寿を信じとおす〟わたしは、前の本の序文でそう言った。陳寿は『三国志』の著者である。わたしの用法では、〝信じる〟とは〝盲信する〟の反対語だ。『三国志』に真正面から立ち向かい、その一字一句、綿密に調べ抜く。そして、科学的に実証することなしに安易な「原文改定」を行わない。――これが〝陳寿を信じる〟わたしの立場だった。

 だから、この研究方法はそのまま『三国志』以外の中国史書に対するわたしの立場である。『後漢書』『宋書』『隋書』『旧唐書』、それらの語る倭国像に対し、わたしは耳を傾けつくそうとしたのである。」

 古田学派の研究者であれば、〝陳寿を信じとおす〟という言葉の真の意味、すなわち文献史学の学問の方法(史料批判)を理解していただけるのではないでしょうか。この学問の方法の違いによって、古田史学(多元史観)が持つ説得力は際立っているのです。

(注)
①古田武彦著『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻。
②古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、1972年。ミネルヴァ書房より復刻。


第3438話 2025/02/26

『古代に真実を求めて』29集の原稿募集

2026年春発行予定の『古代に真実を求めて』29集の原稿を募集します。投稿規定は次の通りです。新たに採用した規定もありますので、投稿の際はご留意下さい。

❶29集の特集テーマは「藤原京と古代都城」です。古田史学・多元史観の継承発展に寄与できる論文をご投稿ください。

❷特集論文・一般論文(一万五千字以内)、フォーラム(随筆・紀行文など。五千字以内)、コラム(解説小文。二千字程度)を募集します。投稿は一人四編までとします〔編集部からの依頼原稿を除く〕。
論文は新規の研究であること。他誌掲載論文、二重投稿、これに類するものは採用しません。それとは別に、編集部の判断に基づき、他誌掲載稿を転載することがあります。

❸採用稿を本会ホームページに掲載することがありますので、ご承諾の上、投稿してください。

❹投稿締め切り 令和7年(2025)9月末。原稿は最終稿を投稿して下さい。投稿締切後の修正には原則として応じません。編集部から、採用予定稿の修正を求める場合があります。

❺原稿はワード、またはテキストファイル形式で提出して下さい。ワードの特殊機能(ルビ、段落自動設定など)は使用しないで下さい。ルビは()内に赤字で付記してください〔例 古田史学(ふるたしがく)〕。原稿は縦書仕様とし、アラビア数字を漢数字にするなど、適切に対応してください。

❻掲載する写真や表は、文書ファイルとは別に写真ファイル・エクセルファイルとして提出して下さい(ワード掲載写真は画像が不鮮明になるため)。その際、写真・表の掲載位置を原稿中に赤字で指示してください。
写真や図表などの転載・転用は、他者の著作権や版権に留意し、必要であれば転載許可申請などに対応できるよう、事前に準備して下さい。

❼投稿先 古賀達也まで。原稿はe-mailでお寄せ下さい。メールアドレスは『古田史学会報』に掲載しています。


第3437話 2025/02/25

『三国志』短里説の衝撃 (8)

 ―一元史観が生んだ虚構「畿内説」―

 「邪馬台国」畿内説は、長里説(435m)では説明できない倭人伝の行程・里程記事を合理的に説明できる短里説(76~77m)の存在には触れず、〝倭人伝の行程や長里による里程記事は信用できない〟と、手を変え品を変えて言い続け、しかし結論だけは〝「邪馬台国」は畿内で決まり〟とします。この畿内説は、客観的で合理的な証明を経ていない近畿天皇家一元史観という「史観」が生んだ虚構です。そのことが仁藤敦史さんの論稿中(注①)にも現れています。たとえば次の記事です。

〝さらに、『三国志』以降の中国正史も、卑弥呼王権と「倭の五王」以降のヤマト王権を基本的に連続するものとして記述している点も傍証となる。すなわち、『梁書』倭伝は、「復た卑弥呼の宗女台与を立てて王と為す。其の後復た男王を立て、並びに中国の爵命を受く。晋安帝の時、倭王賛有り」と記して、台与と倭の五王を連続的に記す。また『隋書』倭国伝には「邪馬堆に都す。則ち魏志の所謂邪馬台なる者なり」として邪馬台国はヤマト王権がある大和に所在したとする。このように中国史書は邪馬台国が大和に所在したと解している。〟『卑弥呼と台与』19頁

 この文章から、仁藤さんは何の疑いも持たず、確たる証明もなく、古代中国史書(『三国志』『梁書』『隋書』など)に記された「倭」「倭国」をヤマト王権(後の大和朝廷)のこととし、それを「邪馬台国」畿内説の傍証とされていることがわかります。

 しかも仁藤さんにとって好都合なことに、この「史観」が日本古代史学界の〝不動の通念(岩盤規制)〟であるため、自説が一元史観(注②)という「史観」を前提としていることや、「史観」成立のための客観的で合理的・論理的な説明なしで著述・発言できるという、圧倒的有利な立ち位置にあることに支えられています。この学界の状況を中小路俊逸氏(1932-2006。追手門大学文学部教授)は次のように厳しく指弾してきました。

〝肝心カナメのカンどころ、「一元通念」を「論証を経ざるもの」とした古田氏の指摘、日本古代史の研究史のなかで古田氏の学の位置を決定した理論上の「定礎」を「是」なりと明言するかしないかという、大事の一点が棚上げされ、覆われ、隠され、忘れられてしまい、結果は「学理上無効な一元通念が無期限に安泰」となること、明白だからである。「一元通念」を「非」とするか。この件を伏せて言わないか。この規準が明晰かつ有効であることを私は確信していた。〟(注③)

〝古田武彦の名前を伏せて古田説とそっくりで、それでいてどこか違う説を言い出す学者が出てきた。目的はただ一つ、大和朝廷よりも格が上だった九州王朝の存在という肝要の一点を伏せること。そして有史以来初めてその事を指摘した古田武彦の名前を研究史から抹殺することです。この動きがいよいよ始まりました。この策動を許してはなりません。〟(注④)

 「邪馬台国」畿内説は、畿内説論者自身も認めているように、『三国志』倭人伝という唯一の同時代エビデンスからは全く導き出すことができません。そのため、近畿天皇家一元史観という古代史学界の〝宿痾〟ともいうべき「史観」から生み出された虚構であることは学理上明らかなのです。
彼らが頼りとする考古学も、出土遺構や遺物からは、そこが倭人伝に記された倭国の都(邪馬壹国)であることを証明できませんし、畿内(奈良県)に至っては弥生時代を代表するような王権の痕跡(弥生王墓、大都市遺構など)や、中国との交流を示す金属器(銅鏡、鉄製品など)の出土もほとんどありません。ですから、畿内説は文献史学からも考古学からも成立する余地のない仮説なのです。唯一の〝根拠〟らしきものは、論証を経ていない近畿天皇家一元史観(戦後型皇国史観。注⑤)という未証明の「史観」であり、それは日本の古代史学界内でしか通用しない虚構と言わざるを得ません。

 ですから、自説に不都合な古田先生の多元史観・九州王朝説、そして短里説を排斥(無いことにする。注⑥)しなければならないという宿命を、「邪馬台国」畿内説は学問的〝宿痾〟として持っているわけです。このような排斥は、理系の学界ではおよそ認められるものではありません。(おわり)

(注)
①仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
②大和朝廷こそが神代の昔から列島の唯一の卓越した王権と主張する『日本書紀』の歴史観を基本的に是とし、それを根拠として中国史書の「倭国」は大和朝廷のこととする歴史認識。古田武彦氏はこれを一元史観と名付けた。中小路俊逸氏はこれを一元通念とよび、「根本の部分で論証を経ていない」と批判した。
③中小路峻逸「第一回総会にむけて 古田史学の会のために」『古田史学会報』8号、1995年。
④中小路峻逸「事務局だより」『古田史学会報』11号、1995年。
⑤古賀達也「洛中洛外日記」1314話(2016/12/30)〝「戦後型皇国史観」に抗する学問〟
「『戦後型皇国史観』に抗する学問 ―古田学派の運命と使命―」『季報 唯物論研究』138号、2017年。
⑥古田武彦著『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社、1971年)はマスコミからも注目をあび、朝日新聞社主催の「邪馬台国シンポジウム」のパネラーとして古田氏に参加要請がなされたが、「古田が参加するなら自分たちは参加しない」という他の一元史観のパネラーから圧力がかかり、二度にわたり古田氏抜きでシンポジウムが開催されたこともあった。

 また、滋賀大学で開催された古代の武器に関する学会に古田氏と共に参加したことがあったが、会場からの質問を受け付けるとき、何度も挙手を続ける古田氏を司会者は無視し続けた。他の質問者もなく古田氏のみが「お願いします」と挙手を続けるのだが、司会者の無視の態度を不審に思った会場の参加者からどよめきが起こり、とうとう司会者は古田氏を指名するに至った。古田氏の質問を認めたときの司会者のこわばった表情が忘れ難い。同学会の重鎮たちの顔色を気にしながらのことだったようである。


第3436話 2025/02/24

『古代に真実を求めて』28集の目次

 ―列島の古代と風土記―

 「列島の古代と風土記」をタイトルとする『古代に真実を求めて』28集の編集作業も大詰めを迎えています。発刊に先立って、同集の目次をお知らせします。どのような一冊となるのか、掲載論文名からその雰囲気を感じていただけることと思います。

列島の古代と風土記(『古代に真実を求めて』二十八集) 目次

〔巻頭言〕多元史観・九州王朝説は美しい 古賀達也

〔特集〕列島の古代と風土記
「多元史観」からみた『風土記』論 ―その論点の概要― 谷本 茂
『風土記』に記された倭国(九州王朝)の事績 正木 裕
筑前地誌で探る卑弥呼の墓 ―須玖岡本山に眠る女王― 古賀達也
【コラム】卑弥呼とは言い切れない風土記逸文にみられる甕依姫に関して 大原重雄
筑紫の神と「高良玉垂命=武内宿禰」説 別役政光
新羅国王・脱解の故郷は北九州の田河にあった 野田利朗
新羅来襲伝承の真実 ―『峯相記』と『高良記』の史料批判― 日野智貴
播磨国風土記の地名再考・序説 谷本 茂
『風土記』の「羽衣伝承」と倭国(九州王朝)の東方経営 正木 裕
『常陸国風土記』に見る「評制・道制と国宰」 正木 裕
【コラム】九州地方の地誌紹介 古賀達也
【コラム】高知県内地誌と多元的古代史との接点 別役政光

〔一般論文〕
「志賀島・金印」を解明する 野田利朗
「松野連倭王系図」の史料批判 古賀達也
喜田貞吉と古田武彦の批判精神 ―三大論争における論証と実証― 古賀達也

〔付録〕
古田史学の会 会則
古田史学の会 全国世話人名簿
友好団体
編集後記 古賀達也
第二十九集投稿募集要項 古田史学の会 会員募集