古賀達也一覧

第2396話 2021/03/01

「蝦夷国」を考究する(11)

 ―多元史観でみる多賀城―

郡山遺跡(仙台市)を蝦夷国衙ではないかとする仮説を「洛中洛外日記」2393話(2021/02/27)〝「蝦夷国」を考究する(10) ―郡山遺跡(仙台市)、蝦夷国衙説―〟で提起しましたが、実は多賀城も同様の可能性を持っていることに気づきました。それは次の考古学的知見と考察によります。

(1)多賀城遺構はⅠ期からⅣ期が出土している。Ⅰ期が創建期の遺構で、通説では多賀城碑に見える神亀元年(724年)の大野東人によるものとされ、Ⅱ期は同じく多賀城碑に見える天平宝字六年(762年)藤原朝獦の「修造」によるものとされている。

(2)政庁とそれを囲む内郭、政庁南門から南へのびる大路は正方位にそって建造されているが、外郭は正方位をとらず、その南辺は時計回りに7度傾いている。更に外郭南門の南500mほどの位置で交差する東西の大路も、外郭南辺と同方向に傾いている。これは設計思想が異なる別勢力による造営の可能性を示唆している。あるいは、政庁などの正方位造営物に先だって、外郭やそれに伴う建築物が造営されていた可能性をうかがわせる(多賀城に先立つ「多賀柵」の成立か)。

(3)創建時のⅠ期に使用された瓦は、多賀城から30~40km程北の大崎地区の瓦窯から供給されている。いわば蝦夷国との〝最前線〟付近とされる瓦窯から供給されていることになる。他方、多賀城の南方にあり、多賀城よりも古い郡山遺跡(仙台市)の瓦はその近隣の瓦窯から供給されている。この状況について、「それにしても重貨である瓦を、わざわざ大崎地方から多賀城に大量に運ぶということは、まったく異例のことである。」「ほかの時期には例をみない刮目すべき事実である。」(注①)と見られていた。

(4)そのため、「大崎地区で生産された瓦が、そこから三〇~四〇キロほど南に位置する多賀城へ大量に運ばれているということは、この時期には大崎地方に大規模な瓦の生産組織が構築されて、その後方に位置する多賀城すらも、大崎地方を中心とする瓦の生産――供給体制に組み込まれた」(注①)と説明(解釈)されるようになった。なお、「その後方に位置する多賀城」とは、〝最前線〟の大崎地方から見た表現である。

(5)この大崎地方や牡鹿地方の多くの城柵・郡家などの官衙や官衙付属寺院の造営と多賀城Ⅰ期の造営は同時期に一体のものとして進められてきたとされ、「そのうち、名生舘遺跡・伏見廃寺跡・色麻町一の関遺跡・菜切谷廃寺などからは、多賀城創建期の瓦よりも古い七世紀末~八世紀初頭の時期の瓦が出土している。また赤井遺跡でも、七世紀後半に遡る土器が出土している。これらの事実は、少なくとも七世紀末ごろまでに、多賀城創建期と同様に大崎地方から牡鹿地方にかけての地域が中央政府の支配下に組み込まれていたことを示すものである。」(注①)とされるようになった。

(6)「七世紀末頃まで」という九州王朝の時代に、九州王朝軍であれ、後の〝大和朝廷〟の軍であれ、宮城県北部の大崎・牡鹿地方まで侵攻・支配したことをうかがわせる記事は、『日本書紀』にはみえない。また、白村江戦敗北後の九州王朝に東北地方まで侵攻できる軍事力が残っていたとは考えにくい。近畿天皇家も同様で、〝壬申の乱〟などの国内戦を戦い、国内最大規模の藤原京造営を行っている。そうした王朝交代前の時期に、宮城県北部まで侵攻・支配できていたとは考えにくく、七世紀における〝陸奥国〟からの荷札木簡も出土していない。

(7)多賀城の付属寺院とされる多賀城廃寺は観世音寺式伽藍配置であり、その2kmほど西側からは「観音寺」と墨書された土器が出土しており、同寺は「観音寺」あるいは「観世音寺」と呼ばれていたと考えられている。このことは多賀城・多賀城廃寺(観世音寺)と太宰府・観世音寺との関係をうかがわせる。ともに、蝦夷国と九州王朝(倭国)による「鎮護国家」のための寺院ではあるまいか(注②)。

(8)以上の所見と考察によれば、創建多賀城・多賀城廃寺と宮城県北部の柵・寺院跡の造営は蝦夷国によるものではなかったか。九州王朝の滅亡により、新たな列島の代表権力者となった大和朝廷の脅威にさらされた蝦夷国が、国衙であった郡山遺跡から、より安全な北部の丘陵地帯に多賀城を創建し、大崎・牡鹿地方にも防衛施設(柵)を造営、あるいは強化修築したのではないか。

以上のような仮説をわたしは検討中です。同地方の遺跡調査報告書の精査途中(注③)ですので、誤解や不十分な点があることと思います。引き続き調査検討を続けますので、皆さんからのご批判とご教導をお待ちしています。(つづく)

(注)
①熊谷公男「養老四年の蝦夷の反乱と多賀城の創建」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第84集、2000年3月)。この論文を正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からご紹介いただいた。
②貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(『日本考古学』30号、2010年。
③『宮城県多賀城跡調査研究所年報』を中心に精査中。


第2393話 2021/02/27

「蝦夷国」を考究する(10)

 ―郡山遺跡(仙台市)、蝦夷国衙説―

 考古学の分野から蝦夷国を見たとき、多賀城とともに最も注目されるのが郡山遺跡(仙台市)です。旧名取郡域に相当する仙台市南部から出土した同遺跡は、七世紀中頃から八世紀初頭までの短期間存続したとみられ、古いⅠ期官衙と七世紀末に立て替えられたⅡ期官衙と寺院に分けられます。文献には見えないことから、その性格については名取柵・名取郡衙・陸奥国衙など諸説あるようです。
 Ⅰ期の遺構は官舎や倉庫とそれを囲む塀などからなっており、外郭は不明とのこと。その建物の向きは真北から30度ほど東偏しています。Ⅱ期官衙はほぼ正方形地割で南北正方位にあわせて立てられています。その南には寺院跡があり、官衙と寺院がセットになっているという、東北地方の柵の一般的傾向と同じです。しかし、外郭は直径30cmほどのクリ材の約6,000本の丸太を隙間無く一列に立て並べた塀で、地上7~8mの高さであったと推定されています(注①)。
 この郡山遺跡をわたしが注目した理由は次の点です。

(1)七世紀中頃から八世紀初頭の遺跡であり、九州王朝の時代に遡るものである。

(2)その時代での東北地方の他の柵よりも規模が大きく、蝦夷国を代表する官衙にふさわしい。

(3)それにもかかわらず、大和朝廷側の史書『日本書紀』や『続日本紀』に記されていない遺跡である。蝦夷国の存在を『日本書紀』『続日本紀』が隠していることに対応している。

(4)九州王朝から大和朝廷への王朝交代の直前にあたる七世紀末頃に、Ⅰ期官衙は正方位のⅡ期官衙に建て替えられ、高さ7~8mの頑強な丸太塀に囲まれている。すなわち、何らかの必要が発生し、防衛力を強化したと考えられる。このことは、八世紀に入ると蝦夷国が大和朝廷の東山道軍・東海道軍の侵攻(注②)を受けていることと無関係ではないように思われる。

(5)Ⅱ期官衙の南に寺院が併設されている。多量の瓦片や「学生寺」と書かれた木簡が当遺跡から出土している。出土した寺院様式は観世音寺式(注③)とされており、九州王朝との主従関係をうかがわせる。

 以上のような理由から、わたしは郡山遺跡は蝦夷国衙ではないかと考えています。なかでも、(5)で指摘した寺院様式が観世音寺式であることは示唆的です。というのも、貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(注④)によれば、古代における「鎮護国家の観世音寺式伽藍配置」の寺院が日本列島に12箇所発見されており、大宰・総領の支配地域や古代山城の分布と多くが重なっているとされています。九州王朝の都城である大宰府政庁・観世音寺と同様に、郡山遺跡も蝦夷国における「鎮護国家の伽藍配置」(注⑤)寺院を持つ国衙だったのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①高橋崇『蝦夷(えみし) 古代東北人の歴史』中公新書、1986年。
②多賀城碑には、神龜元年(724年)に「按察使兼鎭守將軍」の大野朝臣東人が多賀城(多賀柵)を置き、天平寶字六年(762年)には「東海東山節度使」「按察使兼鎭守將軍」の藤原朝獦が修造したとある。
③回廊内に金堂(西側)と五重塔(東側)が東西に並ぶ様式。
④貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(『日本考古学』30号、2010年。
⑤「鎮護国家の伽藍配置」について、次の拙稿があるので参照されたい。
古賀達也「洛中洛外日記」1178話(2016/05/01)〝観世音寺式寺院の意義に新説か〟
古賀達也「洛中洛外日記」1179話(2016/05/03)〝観世音寺の創建年と瓦の相対編年〟
古賀達也「洛中洛外日記」1182話(2016/05/05)〝「鎮護国家の伽藍配置」の明暗(1)〟
古賀達也「洛中洛外日記」1186話(2016/05/13)〝「鎮護国家の伽藍配置」の明暗(2)〟


第2392話 2021/02/26

「蝦夷国」を考究する(9)

 ―「評制」時代の蝦夷国―

 蝦夷国と倭国(九州王朝)の関係は時代と共に変化していることを『日本書紀』等を史料根拠に説明し、多利思北孤の時代を含む六世紀後半から七世紀前半頃の両国は比較的安定した関係にあったとしました。今回は「評制」の時代、七世紀後半の両国関係について検討します。

 七世紀後半には木簡の出土量が飛躍的に増えますから、『日本書紀』だけではなく、木簡を主要史料として蝦夷国研究をすることが可能となります。幸いにも飛鳥地域(飛鳥池遺跡・石神遺跡・苑地遺跡・他)と藤原宮(京)地域からは約45,000点の木簡が出土しており、そのなかには350点ほどの評制時代の荷札木簡(注①)がありますので、飛鳥宮時代(天智・天武・持統)と藤原宮時代(持統・文武)の近畿天皇家の影響力が及んだ範囲(献上する諸国)を確認することができます。すなわち、九州王朝時代の七世紀後半、〝近畿天皇家の宮殿〟(注②)に産物を献上した諸国・諸評がわかるという、同時代史料群が当地にはあるのです。これを九州王朝や蝦夷国の研究に使用しない手はありません。
この全数調査結果は別途「洛中洛外日記」にて、主観を交えない客観的データベースとして報告し、読者の皆さんが研究に利用できるようにしたいと考えています。

 今回の蝦夷国研究に関わる所見として、飛鳥宮地域や藤原宮(京)へ諸国から持ち込まれた評制下木簡の二つの事実に注目しています。一つは以前にも指摘しましたが(注③)、九州(西海道)諸国からの荷札木簡が出土していない。二つは陸奥国・越後国からの荷札木簡も出土していないということです(注④)。すなわち、七世紀後半という時間帯において、倭国(九州王朝)の直轄領域である九州島と蝦夷国の領域と思われる陸奥国・越後国からは飛鳥宮や藤原宮へ産物が献上された痕跡がないのです。このことが何を意味しているのか、検討が必要ですが、王朝交代直前の大和の勢力と蝦夷国が〝疎遠〟だったのかもしれません。

 なお、九州島と蝦夷国とでは基本的な事情が異なると思われます。すなわち、太宰府からは九州内の「評」木簡(注⑤)が出土しており、九州で評制が施行されていたことが確実ですが、蝦夷国(陸奥国)内では評制が採用されていたのかどうか、出土木簡からは判断できません。倭国(九州王朝)と蝦夷国は別国ですから、蝦夷国が倭国の評制を採用していたとは考えにくいように思います。(つづく)

(注)
①市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)所収「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」による。
②王朝交代に至る一時期、藤原宮や飛鳥宮に九州王朝の天子がいたとする作業仮説が西村秀己氏等から出されていることもあり、本稿では「〝近畿天皇家の宮殿〟」という〝〟付き表記を使用した。
③古賀達也「洛中洛外日記」123話〝藤原宮の「評」木簡〟(2007/02/25)
古賀達也「藤原宮出土木簡の考察」(『古田史学会報』80号、2007年6月)
④上記①によれば、越前国・越中国からの荷札木簡は飛鳥池遺跡・石神遺跡・苑地遺構から出土している。
⑤「久須評大伴マ」木簡が大宰府跡から出土している。


第2391話 2021/02/25

「蝦夷国」を考究する(8)

 ―多利思北孤の時代の蝦夷国―

 蝦夷国と倭国(九州王朝)の関係は時代と共に変化していることが『日本書紀』の記事から見えてきます。その初期の頃の様子が、「日本武尊」(実は九州王朝の東山道軍)による蝦夷(日高見國)征討譚として、次の景行紀に現れます。時代的には五世紀頃ではと、わたしは推定しています。

○『日本書紀』景行四十年是歳条
 蝦夷国既に平らけて、日高見國より還りて、西南、常陸を歴(へ)、甲斐國に至りて、酒折宮に居(ま)します。

 このように倭国(九州王朝)と蝦夷国は戦争状態になったのですが、六世紀後半頃までには一定の安定した〝主従関係〟になったと思われる記事が次の敏達紀に突然のように現れます。

○『日本書紀』敏達十年(581年)閏二月条
 十年の春閏二月に、蝦夷数千、邊境に冦(あたな)ふ。
 是に由りて、其の魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)等を召して、〔魁帥は、大毛人なり。〕詔(みことのり)して曰はく、「惟(おもひみ)るに、儞(おれ)蝦夷を、大足彦天皇の世に、殺すべき者は斬(ころ)し、原(ゆる)すべき者は赦(ゆる)す。今朕(われ)、彼(そ)の前の例に遵(したが)ひて、元悪を誅(ころ)さむとす」とのたまふ。
 是(ここ)に綾糟等、懼然(おぢかしこま)り恐懼(かしこ)みて、乃(すなわ)ち泊瀬の中流に下て、三諸岳に面(むか)ひて、水を歃(すす)りて盟(ちか)ひて曰(もう)さく、「臣等蝦夷、今より以後子子孫孫、〔古語に生兒八十綿連(うみのこのやそつづき)といふ。〕清(いさぎよ)き明(あきらけ)き心を用て、天闕(みかど)に事(つか)へ奉(まつ)らむ。臣等、若(も)し盟に違はば、天地の諸神及び天皇の霊、臣が種(つぎ)を絶滅(た)えむ」とまうす。

 この記事は三段からなっており、一段目は蝦夷国と倭国との国境付近で蝦夷の暴動が発生したというものです。二段目は、倭国の天子が蝦夷国のリーダーとおぼしき人物、魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)等を呼びつけて、「大足彦天皇(景行)」の時のように征討軍を派遣するぞと恫喝します。そして三段目では、綾糟等は詫びて、これまで通り「臣」として服従することを盟約する、というものです。
 いわば、国境紛争解決の外交記事ともいうべき内容ですが、ここで注目されるのが、綾糟らは自らを倭国(九州王朝)の「臣」と称し、そのことを『日本書紀』は記述したという史料事実です。すなわち、倭国(九州王朝)と蝦夷国は、「天子(天皇)」とその「臣」という形式をとっていることを現しています。これは倭国(九州王朝)を中心とする日本版中華思想として、蝦夷国を冊封していたのではないでしょうか。その根拠として、斉明紀に次の記事がみえます。

○『日本書紀』斉明元年七月条(655年) ※〈〉内は細注。
 難波朝に於いて、北〈北は越ぞ〉の蝦夷九十九人、東〈東は陸奥ぞ〉の蝦夷九十五人に饗(あへ)たまふ。併せて百済の調使一百五十人に設(あへ)たまふ。仍(なほ)、柵養(きこう)の蝦夷九人、津刈の蝦夷六人に、冠各二階授く。

○『日本書紀』斉明五年条(659年)
 秋七月の丙子の朔戊寅に、小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥を遣はして、唐国に使せしむ。仍りて道奥の蝦夷男女二人を以て、唐の天子に示す。……
 伊吉連博徳書に曰はく「……天子問ひて曰はく、『此等の蝦夷国は、何(いづれ)の方に有りや』とのたまう。使人謹みて答へまうさく、『国は東北に有り』とまうす。天子問ひて曰はく、『蝦夷は幾種ぞや』とのたまう。使人謹みて答へまうさく、『類三種有り。遠き者を都加留(つかる)と名づけ、次の者をば麁蝦夷(あらえみし)と名づけ、近き者をば熟蝦夷(にきえみし)と名づく。今此は熟蝦夷なり。歳毎に、本国の朝に入貢す』とまうす。(後略)」……

 斉明元年条の記事によれば、倭国の都(複都の一つ)〝前期難波宮〟で蝦夷や百済からの使者を饗応しており、同五年条では唐の天子に対して、倭国の使者が「今此は熟蝦夷なり。歳毎に、本国の朝に入貢す」と、蝦夷国が倭国に毎年朝貢していると述べています。
 これらの記事から六世紀頃から七世紀中頃までは、倭国(九州王朝)と蝦夷国(熟蝦夷)とは冊封体制下の主従関係にあり、比較的平和な関係が続いていたと思われます。このことを支持する国外史料に『隋書』俀国伝があります。同伝には次の記事があります。

○『隋書』俀国伝
 …其國境東西五月行南北三月行各至於海。(其の國の境、東西は五月行。南北は三月行。それぞれ海に至る。)
 …雖有兵無征戰。(兵有れども征戰無し)

 古田先生は「東西五月行」「南北三月行」という国の領域を、筑紫から本州(東北地方を含む)までと、対馬・壱岐・筑紫から琉球方面に至る範囲とされました(注)。そうであれば東北地方(蝦夷国)や南方の島国(屋久島・種子島・奄美大島・沖縄など)も自国の領域と認識していたことになり、その前提の一つとして蝦夷国との冊封体制という関係があったのではないでしょうか。
 また、「征戰無し」とあることから、これらの領域の国々と平和裏に共存していたと考えざるを得ません。
 こうした『隋書』の記事からも、九州王朝の天子・阿毎多利思北孤の時代(在位:589~622年)の倭国(九州王朝)と蝦夷国との比較的平和な関係をうかがい知ることができます。(つづく)

(注)古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和48年(1973)。ミネルヴァ書房から復刊。


第2388話 2021/02/22

「蝦夷国」を考究する(7)

―『日本書紀』に見える蝦夷国の三領域―

 次の『日本書紀』景行紀に記された「日高見国」が蝦夷国の旧名と思われますが、その領域についても推定できる記事があります。

○『日本書紀』景行四十年是歳条
 蝦夷国既に平らけて、日高見國より還りて、西南、常陸を歴(へ)、甲斐國に至りて、酒折宮に居(ま)します。

 この蝦夷征討からの帰還記事によれば、日高見国は常陸(現、茨城県)の東北にあることがわかります。ただし、その領域がどの範囲にまで及ぶかはこの記事からは不明です。ところが斉明紀の次の蝦夷国から唐への〝朝貢〟記事から、その領域などをうかがうことができます。関係部分を抜粋します。

○『日本書紀』斉明五年条(659年)
 秋七月の丙子の朔戊寅に、小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥を遣はして、唐国に使せしむ。仍りて道奥の蝦夷男女二人を以て、唐の天子に示す。……
 伊吉連博徳書に曰はく「……天子問ひて曰はく、『此等の蝦夷国は、何(いづれ)の方に有りや』とのたまう。使人謹みて答へまうさく、『国は東北に有り』とまうす。天子問ひて曰はく、『蝦夷は幾種ぞや』とのたまう。使人謹みて答へまうさく、『類三種有り。遠き者を都加留(つかる)と名づけ、次の者をば麁蝦夷(あらえみし)と名づけ、近き者をば熟蝦夷(にきえみし)と名づく。今此は熟蝦夷なり。歳毎に、本国の朝に入貢す』とまうす。(後略)」……
 難波吉士男人書に曰はく、「大唐に向(ゆ)ける大使、嶋に触(つ)きて覆(くつがへ)る。副使、親(みずか)ら天子に覲(まみ)えて、蝦夷を示し奉る。是に、蝦夷、白鹿の皮の一つ、弓三つ、箭八十を、天子に献る」と。

 この記事によれば蝦夷国は九州王朝(倭国)の東北にあり、遠くから順に「都加留」「麁蝦夷」「熟蝦夷)」と「名づく」とあり、少なくとも三ヶ国、あるいはその〝連合国〟と認識されていたようです。「都加留」は本州北端の津軽半島付近と思われますが、他の二つには「麁蝦夷」「熟蝦夷」と「蝦夷」の二字が付けられており、「都加留」にはありません。この差が何を意味するのかは今のところ不明です。
 「麁蝦夷」「熟蝦夷」の領域ですが、後の律令制下では東北地方に陸奥国と出羽国が置かれますから、この両国に対応するのではないでしょうか。付されている「麁(あら)」と「熟(にき)」の語感から、比較的早く九州王朝(倭国)や大和朝廷(日本国)に併合された出羽国(越後国付近も含むか)が「熟蝦夷」と名づけられ、九世紀以降も抵抗を続けた陸奥国が「麁蝦夷」ではないかと推定しています。あるいは福島県あたりを「熟蝦夷」、宮城県以北を「麁蝦夷」としたのかもしれません。この件については先行説を調査中です。
 なお、斉明紀元年(656年)七月条に見える次の記事には、難波朝(前期難波宮)で「北〈北は越ぞ〉の蝦夷九十九人」「東〈東は陸奥ぞ〉の蝦夷九十五人」を饗応し、「津刈の蝦夷六人に、冠各二階授く」とあることから、この時期、東北地方の日本海側と津軽地方の蝦夷と九州王朝(倭国)との関係は比較的良好だったようです。

○『日本書紀』斉明元年七月条(655年) ※〈〉内は細注。
 難波朝に於いて、北〈北は越ぞ〉の蝦夷九十九人、東〈東は陸奥ぞ〉の蝦夷九十五人に饗(あへ)たまふ。併せて百済の調使一百五十人に設(あへ)たまふ。仍(なほ)、柵養(きこう)の蝦夷九人、津刈の蝦夷六人に、冠各二階授く。

 このように、太平洋側の蝦夷国(後の陸奥国)よりも、日本海側の蝦夷国(後の出羽国)の方が九州王朝(倭国)と比較的良好な関係にあった理由として、北の大国「粛慎」との緊張関係、すなわち倭国と蝦夷国共通の脅威、粛慎国が存在したため、両国は同盟を結び、徐々に蝦夷国(越と津軽)が倭国に併合されていったのではないでしょうか。それらの蝦夷が九州王朝(倭国)に随行して唐に朝貢した熟蝦夷だったと思われます。(つづく)


第2384話 2021/02/18

「蝦夷国」を考究する(4)

 ―『続日本紀』〝失われた蝦夷国〟―

 新野直吉さんの論稿「古代における『東北』像 ―その虚像と実像―」(注①)では『続日本紀』の記事などを史料根拠として、多賀城碑に見える「蝦夷國」を〝日本の中の北方の一部族〟とされ、〝北に独立国があったということではない〟とされました。
 本シリーズの(2)「『日本書紀』『冊府元亀』の蝦夷国」で紹介したように、『日本書紀』斉明五年条(659年)には明確に唐へ朝貢する国家としての「蝦夷国」の記事が見られます。

○『日本書紀』斉明五年条(659年)
 秋七月の丙子の朔戊寅に、小錦下坂合部連石布・大仙下津守連吉祥を遣はして、唐国に使せしむ。仍りて道奥の蝦夷男女二人を以て、唐の天子に示す。……
 伊吉連博徳書に曰はく「……天子問ひて曰はく、『此等の蝦夷国は、何(いづれ)の方に有りや』とのたまう。使人謹みて答へまうさく、『国は東北に有り』とまうす。天子問ひて曰はく、『蝦夷は幾種ぞや』とのたまう。使人謹みて答へまうさく、『類三種有り。遠き者を都加留(つかる)と名づけ、次の者をば麁蝦夷(あらえみし)と名づけ、近き者をば熟蝦夷(にきえみし)と名づく。今此は熟蝦夷なり。歳毎に、本国の朝に入貢す』とまうす。……」

 この斉明五年条(659年)の外交記事は、中国側史料『冊府元亀』にも「蝦夷国」のこととして記されています。

○『冊府元亀』外臣部、朝貢三
 (顕慶四年、659年、高宗)十月、蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す。

 このように斉明五年条(659年)の記事だけですが、『日本書紀』には「蝦夷国」という表記があります。この他にも、崇峻二年七月条に「蝦夷の国の境」という次の記事が見えますが、これは〝蝦夷国の境〟と理解するべきです(注②)。

○崇峻二年七月条(589年)
 二年の秋七月の壬辰の朔に、近江臣満を東山道の使に遣して、蝦夷の國の境を觀(み)しむ。宍人臣鴈(かり)を東海道の使に遣して、東の方の海に濱(そ)へる諸国の境を觀しむ。阿倍臣を北陸道の使に遣して、越等の諸国を觀しむ。

 この記事によれば、東山道の先に「蝦夷国」との国境があったことがわかります。他方、東海道の「東方濱海諸国境」と北陸道方面の「越等諸国境」は「諸国」(複数国)表記であり、東山道の「蝦夷国境」が「蝦夷諸国境」とされていないことは重視すべきです。この記事は、「蝦夷」を〝日本の中の北方の一部族〟の集合体とする理解を否定するのです。
 ところが『続日本紀』になると「蝦夷」表記はあるのですが、「蝦夷国」という〝国号〟表記は見えないようです(注③)。『日本書紀』が九州王朝(倭国)の存在を隠したのと同様に、九州王朝から大和朝廷への王朝交代後(正確には文武以後)の歴史を記した『続日本紀』では「蝦夷国」の表記を採用せず、〝蝦夷国はなかった〟ことにしたのではないでしょうか。
 ですから、蝦夷国の〝国家〟として実態を解明するためには多賀城碑を含む考古学的史料と『日本書紀』の記述をとりあえず文献史料として使用せざるを得ないようです。〝失われた蝦夷国〟への考究は続きます。(つづく)

(注)
①新野直吉「古代における『東北』像 ―その虚像と実像―」『日本思想史学』第30号、日本思想史学会編、1998年。
②『日本書紀索引』(吉川弘文館、1969年)は、崇峻二年条の「蝦夷国境」を「蝦夷国」(地名)の項目ではなく、「蝦夷」(件名)に入れている。これは、〝蝦夷は国に非ず〟とする通説に基づいた分類ではあるまいか。
③『続日本紀索引』(吉川弘文館、1967年)によれば、『続日本紀』中に「蝦夷国」(地名)はみえない。この点、『日本書紀索引』と同様の分類がなされていないか、精査が必要と考えている。


第2379話 2021/02/13

多賀城碑「東海東山節度使」考(4)

―田中巌さんの〝東の国界〟説―

 多賀城碑文の里程距離の齟齬、すなわち多賀城からほぼ同距離に位置する「常陸國界」と「下野國界」が、碑文では「四百十二里」「二百七十四里」と大きく異なっている問題について、古田先生はそれら里程を両国の〝西の国界〟までの距離とする理解により、距離が妥当になるとする説を『真実の東北王朝』(注①)で発表されました。この古田説に対して、わたしは違和感を抱いてきたのですが、それに代わる仮説を提起できないでいました。そのようなときに田中巌さん(東京古田会・会長、発表当時は同会々員)による新説(注②)が発表されたのです。
 わたしが理解した田中説(〝東の国界〟説)の要点と論理性は次の通りです。

(1)多賀城から「常陸國界」と「下野國界」への古代官道実距離を求めるにあたり、直線距離や新幹線・高速道路でもなく(非現実性の排除)、複数のルートがある自動車道路でもなく(ルート選択における恣意性の排除)、地方都市を経由しながら進むJR在来線の路線距離を採用した。

(2)それに基づいて、次の距離を算出した。※1里を550mとする(注③)。
○多賀城(国府多賀城駅)から常陸國界(常陸大子駅)までの距離223.6km(406里)
 ※国府多賀城駅→仙台駅→郡山駅→水郡線常陸大子駅〔勿来関より内陸で南へ入る〕
○多賀城(同上)から下野國界(須賀川駅)までの距離148.4km(269里)
 ※国府多賀城駅→仙台駅→郡山駅→在来線須賀川駅
○多賀城(同上)から京(奈良駅)までの距離862.6km(1568里)
 ※国府多賀城駅→仙台駅→東京駅→中央線塩尻駅→名古屋駅→奈良駅

(3)上記(2)の計算里数が碑文の里数と対応している。古田説(〝西の国界〟説)では、「常陸國界」「下野國界」までは1里が約1km、「京」までは約0.5kmとなり、里単位に統一性がない。

《碑文里数》     《田中説による計算里数》
「常陸國界四百十二里」   406里
「下野國界二百七十四里」  269里
「京一千五百里」     1568里

 以上のように、田中説は客観性が担保され、構成論理に矛盾がない唯一の仮説であり、現状では最有力説とわたしは考えています。従って碑文にある「西」の字は、京やこれらの国々(蝦夷國、常陸國、下野國、靺鞨國)が多賀城の「西」にあるということを示しているわけで、そうした理解が最も単純で、碑文を読む人もそのようにとらえると思われるのです。
 また、碑文後段に記された藤原朝獦の官職名が「東海東山節度使」とあることは、東海道・東山道の奥(道の奥)まで東へ東へと侵攻したことを示しているのですから、出発地の「京」を含めて途中の通過地(注④)は多賀城の西にあることを「西」の字は示しているとするのが最も平明な碑文理解ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂出版、1991年。後にミネルヴァ書房から復刊。
②田中巌「多賀城碑の里程等について」。『真実の東北王朝』ミネルヴァ書房版(2012年)に収録。
③奈良時代の一里は535mと復原されており、田中説で採用された550mに近い。このことは田中論稿「多賀城碑の里程等について」で紹介されている。
④この場合の「西」とは大方向としての「西」とする古田先生の理解が妥当と思われる。なお、通過地ではない「靺鞨國界三千里」が碑文に記されている理由については今後の研究課題であるが、藤原朝獦にとって何らかの必要性があったのではあるまいか。


第2378話 2021/02/12

能楽「綾鼓」の発祥地、朝倉市

 一昨日、京都府立図書館を訪れ、取り寄せていただいた『朝倉風土記』(注①)を閲覧しました。同書を見てわかったのですが、著書というよりも編著書という性格のものでした。内容は、筑前の地誌の朝倉に関係する部分の引用と著者の補注などからなっており、そのことが同書冒頭の「全巻の構成」に記されています。

 「本文は
 明治維新前に編纂された郷土資料の文献
 ▲朝倉紀聞 古賀高重編 元禄七年(西暦一六九四年) (本書は上座郡のみ記載)
 ◉筑前国続風土記 貝原益軒編 元禄十六年(西暦一七〇三年)
 ○筑前国続風土記附録 加藤一純・鷹取周成編 寛政十年(西暦一七九八年)
 ◇筑前国続風土記拾遺 青柳種信編 文政十三年(西暦一八三〇年) (夜須郡の秋月領分を欠く)
 △太宰管内志 伊藤常足編 天保十二年(西暦一八四一年)
の五書を、各固有村別、事項別に分別対比して載録した。続風・管内の二書は刊本により、紀聞・附録・拾遺の三書は写本によった。」

 このような説明があるのですが、わたしは『朝倉紀聞』以外の四書は持っていますので、その四書の引用記事は既に読んだ記憶がありました。そこで、『朝倉紀聞』からの引用部分を中心に精査しました。その結果、いくつか興味深い記事を見つけましたので、その一つ、「天智天皇の宮人源太」の伝承を紹介します。
 同書「宮野村篇 須川村」の項に次の記事がみえます。

 「源太塚 上須川にあり。里諺に曰。天智天皇の宮人と云し者、桂の池に身を沈め死す。其霊魂、暫く散せずして、此塚穴に形を現し、人に仇せり。故に号けて源太塚と云。昔、行脚の僧、入地の桂池に至て吟詠して曰。曽比鉄牛皇后心、空教源太至冥沈、声明身後異綾鼓、載在口碑古今と。古歌に、
  小山田の苗代水は絶へずとも
    心の池のいひは放たじ
此歌は源太が読むと云。此事、綾鼓と云謡にも見へたり。(紀聞)」25頁
 「○カミスガワ小塚〔穴の口四尺、入二間、中に隔あり〕村民は源太塚といふ。(附録)」25頁
 「◇源太塚 上須川に在。石窟なり。入五間、中に隔あり。此塚の事、南淋寺縁起、朝倉紀聞等に怪説あり。いたつかはしければ漏しつ。(拾遺)」25~26頁

 「大福村篇 入地村」の項にも次の記事がみえます。

 「恋木社 福成神社の東四町斗に有り。里民の俗説に曰く、天智天皇の寵妃橘媛女御、天皇と共に桂の池に御遊有り。時に御庭掃の源太と云る老人、女御を恋慕す。橘媛、聞て、官人をして老人に語しめて曰るは彼池の桂木に鼓を掛置くべし。老人来て是を撃て。其音出し時、必相見んと有しかば、老人、大に悦て、終夜打とも其音出ず。夜明て是を見るに、綾を以て製せし鼓也。故に鳴事なし。老人悲み恨て、終に此池に身を投て死す。其後、老人が霊魂散ぜずして、時々現て人を悩す。女御も又狂気し給ひ、終に桂池に沈みて失給ふ。是に社を立て、恋の木社と云。福成の本社の祭礼の日、酒饌を供て是を祭る。(紀聞)」66頁
 「◇古墓 恋の木といふ池にあり。源太といふ者の霊を祭るといふ。朝倉記に、天智帝の時、下部源太といふ者の事績を載たり。妄説にして取にたらず。(拾遺)」66頁

 以上の伝承が記されていますが、「此事、綾鼓と云謡にも見へたり。(紀聞)」とあるように、これは能楽の「綾鼓(あやのつづみ)」とほぼ同じ内容です。能楽「綾鼓」は筑前の木の丸殿が舞台とされており、恐らくは「天智天皇伝承」として伝えられたものと思われます。『朝倉風土記』で紹介された伝承では、主役の老人は天智天皇の宮人(御庭番)の「源太」、女御を「橘媛」(注②)と具体的な名前を伝えており、この伝承が能楽「綾鼓」の原型と思われます。
 他方、筑前黒田藩の地誌『筑前国続風土記拾遺』では、同伝承の紹介はするものの、「怪説」「妄説」として退けています。本来は天智天皇ではなく、九州王朝の天子とその御庭番「源太」に関わる伝承が本来の姿と思います。
 参考までに、能楽「綾鼓」に関するウィキペディアの解説を転載します。作者不明ということにも、この伝承の古さを感じます。

追記 本稿執筆直後、能楽「綾鼓」について、九州王朝の都、太宰府が舞台であったとする説を既に正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が講演会で発表されていたことを知りました。謡曲や能楽に堪能な正木さんならではの先見性です。

【以下、転載】
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 『綾鼓』(あやのつづみ)は、能楽作品のひとつである。作者は不明だが、少なくとも世阿弥かそれより以前に創作された執心男物の作品である。室町時代に上演記録は無く、江戸時代の後期以降に宝生流が上演し、明治時代になると金剛流も正式に所演曲とした。

《あらすじ》
 筑前国の木の丸の皇居に仕えている臣下の者がいる。そこには桂の池と言う大きな池があり、管弦楽が催されている。そこで臣下の者が言うには、庭掃きをしている老人が女御の姿を見て心乱すほどの恋に落ちてしまったという。それを知った女御は不憫に思い、桂の木に鼓を掛けて老人に打たせ、音が皇居に届けば姿を見せようと言われたので、そのことを臣下は老人に伝えた。老人は、この鼓の音を鳴らせばそれが恋心の慰めになると思い打つが、音は鳴らない。老人はこの年で心を乱すような恋をしたはかなさを思いつつも、思っている方が忘れようとするよりも良いと思うのであった。人間はいつどうなるかなどわからないものであり誰も教えてくれはしないけれど、もしわかれば恋に迷う事などなかったであろうと思いつつも、鼓の音が出れば心の闇も晴れると思い昨日も今日も打ち続けるが音は出ない。鳴る神でさえ思う仲を裂けぬと聞くのに、それほどまでに縁がなかったのだろうかと我が身を恨み人を恨み、もう何のために生きているのかわからないと思い、憂うる身を池に投げて死んでしまった。
 それを聞いた臣下は、女御に老人が身を投げた事を告げ、このような者の執心は恐ろしいゆえ池に出てご覧下さいと言う。女御が池に出てみると池の波の打つ音が鼓の音に聞こえてきた。臣下は女御が普通ではないと思ったが、女御は、そもそも綾の鼓は音が出るはずが無く、その鳴らないものを打てと言ったときから普通ではないのですと言い、なおも鼓の音が聞こえてくるのである。そして怨霊となった老人が現れ、愚かなる怨みと嘆きであるが、この強い怒りは晴れるものではないと言い、ついに魔境の鬼となってしまったのだという。そして鳴らない鼓の音を出せとは、恋の思いを尽くさせて果てよという事だったのかと女御を責めた。この鼓が鳴るはずがない、打ってみなさいと笞をふりあげて女御に迫り、女御は悲しいと叫ぶのであった。冥途の鬼の責めもこのようなものかと、それでもこれほどの恐ろしさでは無いと思える程の恐ろしさであり、因果とはいえどのようになってしまうのでしょうと言った。怨霊は、このように因果ははっきりと現れるものだと言った。そして女御に祟り笞で打ち据えるうちに池の水は凍り、大紅蓮地獄のようになり、身の毛もよだつ悪蛇となって現れているという。そうして恨めしい、なんと恨めしい女御だと言いながら、恋の淵のように深い池に入って行った。

《登場人物》
前シテ 老人
後シテ 老人の怨霊
ツレ 女御
ワキ 臣下
アイ 従者

《作者・典拠》
 世阿弥の『三道』に「恋重荷、昔、綾の太鼓なり」とあることから、この「綾の太鼓」が『綾鼓』そのものとする説がある。一方で「綾の太鼓」という古曲を改訂して『綾鼓』になったという説もある。いずれにしても作者は不明である。なお、世阿弥が改作をしている。また、『恋重荷』は世阿弥作とされているので、少なくともそれ以前に作られた曲であるのは間違いないと言われている。

(注)
①古賀益城著『朝倉風土記』昭和59年(1984)、聚海書林。昭和39年(1964)に朝倉郡公民舘連合会から非売品として発行されている。この度、朝倉市図書館蔵書を取り寄せていただいた。
②『日本書紀』天智七年二月条に天智の妃の一人として、「阿倍倉梯麻呂大臣の女有り、橘娘と曰ふ。飛鳥皇女と新田部皇女とを生めり。」の記事がみえる。


第2377話 2021/02/11

『史記』天官書、「中宮」か「中官」か(6)

 本シリーズでは『史記』天官書の原文が「中宮」か「中官」かという問題を扱ってきましたが、このような場合は通常の文献研究では原本調査や原本に近い写本・刊本の調査を真っ先に行うのですが、『史記』に関してはそうした基本的な調査がかなり困難なのです。というのも、今から二千年以上前に竹簡に書かれたものですから、原本はもとより、それに近い写本・刊本の遺存など望むべくもないからです。
 そのため、はるか後世の注釈書に記された『史記』本文部分の記録によらなければなりません。しかもその注釈書は、現存最古のものでも南宋代まで時代が下がるという状況です。それならばその南宋版の現物を見たいと思い、調べたところ、なんとわが国にあることがわかりました。
 それは「南宋慶元黄善夫本」と呼ばれており、国宝に指定されていました。国宝なので現物は無理でしょうから、その影印本だけでもなんとかして見たいと思い、京都府立図書館の館員さんに調査を頼み込んだところ、何と自宅のパソコンからweb上で閲覧可能であることを突き止めていただいたのです。丁重に館員さんにお礼を述べ、急いで自宅に戻り、パソコンで検索しました。それは国立歴史民俗博物館のホームページに収録されており、全巻の閲覧が可能でした。URLは下記の通りです。

https://khirin-a.rekihaku.ac.jp/database/sohanshiki
国立歴史民俗博物館 データベース

 同サイトには「南宋慶元黄善夫本」について次の解説がありましたので転載します。なお、こうしたことは中国古典の研究者・専門家には常識のことと思います。

【以下、転載】
 南宋時代(南宋慶元年間(1195~1201)刊か) 前漢の司馬遷(前135?~)による黄帝から漢代までの歴史書。「三史」と通称される『史記』『漢書』『後漢書』の一つ。全130巻からなり、本紀(帝王の事績)・表(年表)・書(制度沿革)・世家(諸侯の系譜と事績)・列伝(人物伝)の五部に分かれる。中国だけでなく日本でも必読書として重んじられた。これらは当初、竹木などに手書きされていたが、宋時代には書道大家の書風をまね、厳密な校正を加えた印刷出版物となり(宋版)、南宋時代には黄善夫のような民間の出版家も出現した。
 袋綴冊子本 印記「興学亭印」(朱方印) 「水光邱青」(黒印 朱印 青印)
史記集解・索隠・正義の三注合刻本で、全130巻完存した現存最古本。「建安黄善夫刊/于家塾之敬室」の刊記があり、建安(現在福建省)で刊行。石清水八幡宮耀清・月舟寿桂・直江兼続・上杉藩校興譲館伝来。
【転載おわり】

 同サイトで、真っ先に『史記』天官書を閲覧し、「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」「員官」「五官」の部分を調べたところ、その通りとなっていました。よって、明治書院版の『新釈漢文大系 史記』や大正時代に出版された『国譯漢文太成 経子史部 第十四巻』が正しいことが判明しました。そこで、現存版本による実証的な調査はこの辺で一応の終わりとなります。
 しかし、論証をより重視する学問としては、ここからが真の研究領域となります。それは、なぜ「中宮」「東宮」「西宮」「南宮」「北宮」の総称が「五宮」ではなく、「五官」とされているのかという問題の解明です。しかも現存最古とはいえ、「南宋慶元黄善夫本」は『史記』成立の約千三百年後の版本であり、しかも「宮」と「官」という、よく似た字体の使い分けを問題とするのですから、誤写誤伝の可能性と常に隣り合わせのテーマでもあり、真実解明は容易ではありません。(つづく)


第2376話 2021/02/11

多賀城碑「東海東山節度使」考(3)

―〝西の国界〟説への違和感―

 古田先生は著書『真実の東北王朝』(注①)において、多賀城「蝦夷国内」説とともに多賀城碑が偽作ではないとする緒論を発表されました。特に重要な点は次の論証でした。

(1) 碑文の刻字や文字配列が稚拙であることを根拠とした江戸期における偽作とする説(実証)に対して、偽作であればこのような不格好な碑面ではなく、本物らしく立派なものを造るはずであり、それは逆に偽作ではない根拠であると論理的な反証(論証)をされた。

(2) 碑文の藤原朝獦の官位「從四位上」が『続日本紀』の記事「從四位下」と異なっているという偽作説(実証)に対して、後代史料よりも同時代金石文が優先するという史料批判の基本原則を明示(論理的反証)された。

(3) 多賀城からほぼ同距離に位置する「常陸國界」「下野國界」の里程について、碑文では「四百十二里」「二百七十四里」と大きく異なっていることを根拠とする偽作説に対して、碑文上部に記された「西」を根拠に〝西の国界〟という視点を提示され、それぞれの〝西の国界〟からの距離であれば碑文の里程は妥当とされた。

 いずれも偽作説に対する優れた反証であり、学問的にも貴重な論点ですが、(3)についてはわたしは違和感がありました。〝西の国界〟説に対していだいた違和感の一つは、各里程記事の冒頭にある「去」の一字でした。

【多賀城碑文の里程記事部分】
西
 多賀城
  去京一千五百里
  去蝦夷國界一百廿里
  去常陸國界四百十二里
  去下野國界二百七十四里
  去靺鞨國界三千里

 この「去」の字により、行程方向は〝京・各国界から多賀城へ(西から東へ)〟であり、たとえば「常陸國界」が〝西の国界〟であるとすると、その行程は「常陸国の西の国界」→「常陸国内」→「常陸国の東の国界」→「蝦夷国界」→「多賀城」となり、それこそ〝冗長〟です。多賀城への距離を示すのであれば「常陸国の東の国界」からでよく、既知である東海道諸国に含まれる「常陸国の西の国界」から「去る」必要はありません。「下野國界」についても同様です。
 さらに、「去靺鞨國界三千里」も同様に〝西の国界〟と理解すると、その行程は、「靺鞨国の西の国界」→「靺鞨国内」→「靺鞨国の東の国界」を含むことになり、そうなると距離はとても「三千里」に収まらないのではないでしょうか。(注②)
 こうした疑問があり、古田説中の〝西の国界〟説には違和感があったのです。しかし、距離の齟齬について解決できる代案が思いつかず、反対するまでには至りませんでした。そのようなときに知ったのが、田中巌さん(東京古田会・会長、発表当時は同会々員)の研究「多賀城碑の里程等について」(注③)でした。(つづく)

(注)
①古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂出版、1991年。後にミネルヴァ書房から復刊。
②古田先生は『真実の東北王朝』において、多賀城から「靺鞨国の西の国界」までの距離を三千里とすることに対して、「当たらずといえども、遠からず」とされている。
③田中巌「多賀城碑の里程等について」。『真実の東北王朝』ミネルヴァ書房版(2012年)に収録。


第2375話 2021/02/10

多賀城碑「東海東山節度使」考(2)

―「常陸國界」「下野國界」記載の理由―

 多賀城碑の「東海東山節度使」を〝東海道と東山道を重ねてひとりの節度使とする形も、古賀説の「目的地が同じだから」という論理につながる〟とする茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)のご指摘により、同碑文に対する理解が深まりました。その一つが、碑文前半にある多賀城からの各里程距離として、「常陸國界四百十二里」「下野國界二百七十四里」が記載された理由です。碑文には次の里程記事があります。

西
 多賀城
  去京一千五百里
  去蝦夷國界一百廿里
  去常陸國界四百十二里
  去下野國界二百七十四里
  去靺鞨國界三千里

 この内、「常陸國界」は東海道の終着点、「下野國界」は東山道の終着点です。わたしの理解では両官道は蝦夷国へ至る九州王朝官道の終着点であり、二つの軍事行政管轄地域の総称です。それが八世紀の大和朝廷にも引き継がれ、その二つの官道の〝総司令官〟として藤原惠美朝臣朝獦(以下、「藤原朝獦」とする)が「東海東山節度使」として多賀城に軍事侵攻したことを誇ったのが同碑建碑の真の目的だったのではないでしょうか。
 すなわち、陸軍を主体とする東山道軍と水陸両軍を主体とする東海道軍を指揮した藤原朝獦は、両終着点からそれぞれ「四百十二里」「二百七十四里」の地点(多賀城)まで侵攻し、神龜元年(724年)に大野朝臣東人が建造した多賀城を修築したと誇り、その地は「蝦夷國界」から「一百廿里」〝東〟へ入った所でもあると記したわけです(注①)。おそらく、「常陸國界」と「下野國界」にあった蝦夷国との「國界」(国境線)を多賀城の西「一百廿里」のラインまで北上させたことを誇ったのがこの里程記事だったと思われるのです。
 そうすると、「常陸國界」「下野國界」とは古田説(注②)の〝西の国界〟ではなく、蝦夷国との旧国境線である〝東の国界〟ということになります。実はこのことを実証的に証明した優れた研究があります。田中巌さん(東京古田会・会長)の「多賀城碑の里程等について」(注③)です。(つづく)

(注)
①多賀城を蝦夷国内にあると論証したのは古田武彦氏である。
 古田武彦『真実の東北王朝』駸々堂出版、1991年。後にミネルヴァ書房から復刊。
②同①。
③田中巌「多賀城碑の里程等について」。『真実の東北王朝』ミネルヴァ書房版(2012年)に収録。


第2374話 2021/02/09

多賀城碑「東海東山節度使」考(1)

―茂山憲史さんからのメール―

 今春発行予定の会誌『卑弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)の再校を行っていますが、校閲していただいている茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)より拙稿「九州王朝官道の終着点 ―山道と海道の論理―」の誤り(多賀城碑の誤引用)を指摘するメールが届きました。下記の内容ですが、わたしはこのご指摘に含まれる重要論点に気づき、驚きました。

【茂山さんからのメール要約】
 今回は、校正というよりご相談です。
「東山道節度使」➔ 「東海(道)東山(道)節度使」
案について、厳密に考える必要はないとも思うのですが、原碑に「道」はありませんから、考えてみました。
 東海道と東山道を重ねてひとりの節度使とする形も、古賀説の「目的地が同じだから」という論理につながる気がしました。
いかがでしょうか?
 茂山憲史

 このメールにある「原碑」とは多賀城碑のことで、拙稿では碑文(注①)を紹介しておきながら、「東海東山節度使」を「東山道節度使」と誤引用していることをご指摘いただいたものです。もちろん再校で訂正させていただきますが、わたしが驚いたのはメール後半の〝東海道と東山道を重ねてひとりの節度使とする形も、古賀説の「目的地が同じだから」という論理につながる気がしました。〟という部分でした。わたしはこの多賀城碑文の「東海東山節度使」が持つ、拙稿にとって重要な意味に気づいていなかったのです。
 そもそも拙稿の主要論点は、山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)の秀逸な論文「『東山道十五國』の比定 ―西村論文『五畿七道の謎』の例証―」「東山道都督は軍事機関」(注②)や肥沼孝治さん(同、所沢市)の「古代日本のハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か?」(注③)で提起された九州王朝官道の全容と、それぞれの官道が九州王朝の〝方面軍〟としての軍事行政機能を有しているという仮説に基づき、その〝方面軍〟の目的地についてでした。拙稿では各官道の目的地を最終的には次のようにしました。

【九州王朝(倭国)の七道】(案)
○「東山道」「東海道」→「蝦夷国」(多賀城を中心とする東北地方)
○「北陸道」「北海道」→「粛慎国」(ロシア沿海州と北部日本海域)
○「西海道」→「百済国」(朝鮮半島の西南領域)
○「南海道」→「流求國」(沖縄やトカラ列島・台湾を含めた領域)
○「大海道」(仮称)→「裸国」「黒歯国」(ペルー、エクアドル)

 今回の茂山さんの指摘は、この仮説に対応した表記として多賀城碑の「東海東山節度使」を理解され、〝東海道と東山道を重ねてひとりの節度使とする形も、古賀説の「目的地が同じだから」という論理につながる〟とされたものです。茂山さんが提示されたこの視点により、多賀城碑文そのものに対する、わたしの理解が更に深まったのです。(つづく)

(注)
①多賀城碑碑文
「西
 多賀城
  去京一千五百里
  去蝦夷國界一百廿里
  去常陸國界四百十二里
  去下野國界二百七十四里
  去靺鞨國界三千里
 此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將
 軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置
 也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山
 節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守
 將軍藤原惠美朝臣朝獦修造也
  天平寶字六年十二月一日」
②山田春廣「『東山道十五國』の比定 ―西村論文『五畿七道の謎』の例証―」(『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』古田史学の会編・明石書店、2018年)
 山田春廣「東山道都督は軍事機関」(同上)
③肥沼孝治「古代日本のハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か?」(同上)