古賀達也一覧

第2184話 2020/07/13

九州王朝の国号(10)

 六世紀末から七世紀初頭の九州王朝が「倭国」から「大委国」へと国号を変更したとする拙論は、同時代の史料(『法華義疏』)に見える「大委国」と『隋書』夷蛮伝に見える「俀」の字を根拠に成立しています。そこで次の検討課題は七世紀後半の国号です。白村江戦敗北による唐軍の筑紫進駐や「壬申の大乱」、そして大和朝廷との王朝交替へと続く激動の時代であり、国号についても難しい問題があります。
 古田説では、「倭国」を名乗った九州王朝から701年の王朝交替により「日本国」を名乗った大和朝廷の創立という大きな歴史認識があります。ところがそれよりも30年前の671年(天智十年)に、天智天皇の近江朝が「日本国」を名乗ったとする古田先生の論文があります。「日本国の創建」(『よみがえる卑弥呼』駸々堂、1987年)という論文で、古田学派内でもあまり注目されてきませんでしたし、古田先生ご自身もその論文について触れることは、わたしの知る限りではありませんでした。
 他方、『失われた九州王朝』(朝日新聞社、1973年)では、『旧唐書』日本国伝の記事を根拠に大和朝廷が「日本」を名乗る以前に九州王朝が「日本」を名乗ったとされており、「日本国の創建」で発表された天智天皇による671年の日本国創建説とは相容れません。『失われた九州王朝』「第四章 隣国史料にみえる九州王朝」には次のように記されています。

【以下、引用】
(一)「委奴国」や「卑弥呼」より、「多利思北孤」にいたる連綿たる九州王朝が「倭国」の中心王朝である(一時「俀国」とも名乗った)『隋書』。
(二)その倭国が「日本」と自ら国号を改称した。
(三)近畿大和の一小国だった天皇家がこれを征服し、併合した。
(四)そのとき、天皇家は、国号を九州王朝から「継承」し、やはり「日本国」と称した。
 つまり、「日本」と名乗った最初は、天皇家ではなく、九州王朝だ、というのである。
【引用終わり】

 以上のように、「日本」の国号を最初に名乗ったのが九州王朝とする説と近畿天皇家の天智天皇(近江朝)とする相容れない二説が古田説として併存しているのです。ところが、近年、この矛盾を解決できる仮説が発表されました。正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の「九州王朝系近江朝」という新説です。(つづく)


第2183話 2020/07/12

九州王朝の国号(9)

 『隋書』夷蛮伝に見える「俀国」の「俀」の字の由来について、古田先生は、五世紀以来、「タイ国」という名称を用いた九州王朝が「倭」に似た文字の「俀」と一字で表記したとされました。その背景として「倭」の字の音韻変化(ゐ→わ)があると示唆されました。
 この中国での音韻変化を九州王朝の国号表記変更の背景とすることは拙論と同じですが、「俀」への変更を九州王朝側が行ったとすることと、元々の国号表記を「大倭」とする点が異なります。拙論では多利思北孤時代の九州王朝の国号は「大委」で、隋の天子への国書にも「大委国」と表記したと考えています。もちろん、その史料根拠は『法華義疏』冒頭に見える「大委国」です。
 それではなぜ『隋書』では「倭」(帝紀)や「俀」(夷蛮伝)とされたのでしょうか。古田先生は両者を別国(倭=近畿天皇家、俀=九州王朝)とされましたが、古田学派の論者からは両者ともに九州王朝のこととする見解が近年発表されています。しかし「俀」表記の理由については見解の一致を見ていません。他者を納得させ得るほどの有力説がまだ出ていないのかもしれません。
 わたしの判断では、夷蛮伝に「俀」の字が採用された理由は、「大委」の尊称「大」を夷蛮の国号表記として不適切と『隋書』編纂者が判断し、「大委」の中国語音「た・ゐ」表記に、「倭」に似た字の「俀」が選ばれたのではないかと考えています。
 他方、帝紀では、同じく「大委国」という国号では、尊称「大」の使用と、唐代北方音で彼らが「倭」(wa)と読んでいた九州王朝の呼称が「委」(wi)となり、それらを不適切と判断し、『三国志』以来の表記「倭」が採用されたものと思います。すなわち、九州王朝が音韻変化した「倭」(wa)を忌避して、「委」(wi)の字を採用(再使用)したのとは真逆の動機が『隋書』編纂者側に発生したこととなります。
 しかしながら、夷蛮伝と帝紀で表記が異なった理由はまだわかりません。今後の研究や論争推移を見守りたいと思います。(つづく)


第2182話 2020/07/11

九州王朝の国号(8)

 『隋書』には九州王朝の国号が「委」ではなく、帝紀には「倭」、夷蛮伝には「俀国」とあります。この「俀」の由来について、古田先生は『失われた九州王朝』(第三章 四、『隋書』俀国伝の示すもの)で次のように説明されています。

【以下、引用】
〈三国志〉
 邪馬壹国=山(やま)・倭(ゐ)国(倭国の中心たる「山」の都)
〈後漢書〉
 邪馬臺国=山(やま)・臺(たい)国(臺国〔大倭(たいゐ)国〕の中心たる「山」の都)
〈隋書〉
邪靡堆=山(やま)・堆(たい)(堆〔大倭〕の中心たる「山」の都)
 〈中略〉
 右のように、五世紀以来、「タイ国」という名称が用いられていたのが知られる。おそらく「大倭(タ・ヰ)国」の意味であろう。これを『後漢書』では「臺国」と表記し、今、『隋書』では「倭」に似た文字を用いて、「俀国」と表記したのである。このように一字で表記したのは、中国の一字国号にならったものであろう。なお、「倭」の字に中国側で「ゐ→わ」という音韻変化がおこり、「倭」を従来通り「ゐ」と読みにくくなった。このような、漢字自体の字音変化も、「俀」字使用の背景に存しよう。
【引用、終わり】

 このように古田先生は九州王朝の国号変化の背景に「倭」の音韻変化(ゐ→わ)を示唆されています。このことを紹介しておきたいと思います。(つづく)


第2180話 2020/07/03

「倭」と「和」の音韻変化について(2)

 「倭」の字の音韻変化については一応の「解答」は出せたのですが、それではなぜ古くから使用された「和」の字に換わって「倭」が使用されたのかという新たな疑問がわたしの中で生まれました。その疑問解決の一助となったのが、森博達さんによる『日本書紀』研究でした。

 ご存じの方も多いと思いますが、森博達さんは、『日本書紀』は各巻ごとに正格漢文で書かれているα群と和風漢文で書かれているβ群とに分けることができ、前者は中国人史官により述作され、後者は日本人史官によって述作されたとする説を発表され、その研究は学界で高い評価を得ました。そして、一般読者向けに書かれた『日本書紀の謎を解く 述作者は誰か』(中公新書、1999年)は古代史ジャンルでのベストセラーとなりました。

 『日本書紀』雄略紀の歌謡から、「わ」表記に「倭」の字が使用され始めていることが気になり、森説のα群β群と照合したところ、歌謡に「倭」の字が採用されている巻(雄略紀、継体紀、皇極紀、斉明紀)は全てα群でした。他方、「和」の字が採用されている巻(神武紀、神功紀、応神紀、仁徳紀、允恭紀、推古紀、舒明紀)は何れもβ群に属しています。

森説では、α群の各巻は中国人史官が編纂したものであり、「α群の表記者は当時の北方音に全面的に依拠し、中国原音によって日本語の歌謡を音訳しました。」(『日本書紀の謎を解く』第二章第五節「α群歌謡中国人表記説」103頁)とされています。この「当時の北方音」とは長安を中心とする七世紀後半から八世紀初頭の唐代北方音のことです。

 『日本書紀』編纂に於いて、渡来唐人がα群を著述したとする森説に従えば、それまで「和」の字で「わ」表記されていた古代歌謡が唐代北方音で書き改められたこととなるのです。唐代北方音では「和」は「ka」「kwa」ですから、そのため「わ(和)れ」「わ(和)が」という従来表記では「かれ」「かが」のような発音になり、本来の意味とは異なってしまいます。そこで、唐代北方音では「わ」の音である「倭」の字に換えたものと思われます。すなわち、一部の例外を除きα群歌謡の「わ」の音が一斉に「和」から「倭」に置き換わっているのは、それまでの南朝系音(日本呉音)から唐代北方音(日本漢音)の採用による、「和」と「倭」の音韻変化の発生が理由であると考えられるのです。

 ちなみに、現代日本でも「和尚」の訓みに、「わじょう」「かしょう」「おしょう」があり、それぞれ「呉音」「漢音」「中世唐音(十二~十六世紀頃の南方杭州音)」と森さんは説明されています(『日本書紀の謎を解く』60~61頁)。

 この森説は先に詳述したわたしの推察結果と対応しており、拙論を支持する有力説と感じました。更に、拙論では不明とした古代歌謡の「わ」表記に「倭」が採用された時期は、『日本書紀』編纂時であることになります。以上のように、古代歌謡に痕跡を残す「倭」の音韻変化について、拙論(作業仮説・思いつき)は森説という強力な援軍を得て、学問的な仮説になったのではないでしょうか。


第2179話 2020/07/01

「倭」と「和」の音韻変化について(1)

 「洛中洛外日記」に連載中の「九州王朝の国号」について、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から、『日本書紀』歌謡における「倭」の音韻変化とその成立時期の理解についてご指摘が寄せられました。九州王朝の国号変化をテーマとする同シリーズの主旨や目的と離れますし、専門的になりすぎることもあって、この音韻変化の説明には深入りしなかったのですが、この機会にわたしの理解を詳述したいと思います。
 古代中国語音韻研究では、「倭」の字の発音が変化(音韻変化、音声変化)していることが知られています。音韻学上の正式な表現ではありませんが、「wi」「wei」から「wa」「wo」に変化したとされています。その影響や痕跡が『古事記』『日本書紀』に残されており、その時期は『日本書紀』成立以前、恐らくは六~世七紀頃ではないかと「九州王朝の国号(6)」で論じました。また、中国での音韻変化発生の理由として、南朝から北朝への権力交替が考えられ、南朝に臣従していた九州王朝の独立や北朝との交流により、その音韻変化の影響が日本にも及んだと推察しました。
 古代日本語で詠われた歌が一字一音の漢字で表記されている『記紀』歌謡の分析により、この音韻変化をとらえることが可能で、今回の拙論「九州王朝の国号」は次のような論理展開に基づいています。

①『古事記』に掲載された歌謡の、たとえば「われ」「わが」という言葉の「わ」の表記に使用されている漢字は「和」であり、その訓みは現代日本まで続いている。
②『日本書紀』も神武歌謡などでは「和」が使用されているが、雄略紀や継体紀などの歌謡では「倭」の字が使用されており、若干の例外を除き「和」は使用されなくなっている。
③この『日本書紀』の史料状況からも、「wi」と読まれていた「倭」の字が、『日本書紀』成立以前に「wa」へと音韻変化していることがわかる。
④『古事記』と『日本書紀』の「わ」表記の差から、『古事記』は「わ」の音に「和」の字を使用した古代歌謡史料を採用しており、『日本書紀』編者は何らかの理由で「和」と「倭」を併用したと考えざるを得ない。
⑤『古事記』と『日本書紀』の「わ」表記の漢字使用状況の差から、元々は、「わ」表記に「和」の字を使用した時間帯があり、その後、「倭」の音韻変化により、「わ」表記に「倭」の字も使用されるようになったと考えられる。
⑥『日本書紀』では神武歌謡などの古い時代の歌謡に「和」が使用され、そこでは「倭」との混用がされていないことも、「和」表記が先行し、その後、音韻変化した「倭」表記の採用が開始されたとする理解に有利である。
⑦付言すれば、『日本書紀』に記された歌謡がその天皇紀の時代のものかどうかは別途論証が必要だが、神武東征説話やそこでの歌謡が天孫降臨説話の転用であることがわかっており、神武の時代ではないものの、九州王朝内で伝承された天孫降臨時代の古い歌謡である。
⑧恐らく、九州王朝内で伝承・記録された古代歌謡には「和」が採用されており、『古事記』や神武紀などはその用法を引き継ぎ、他方、雄略紀・継体紀などの歌謡には音韻変化後の「倭」の字を採用したと考えることができる。
⑨ただし、「倭」の音韻変化の時期とそれを歌謡の「わ」表記に採用し始めた時期は未詳であり、とりあえずは「『日本書紀』成立以前」のこととし、可能性としては九州王朝が南朝から独立し、北朝(北魏、隋、唐など)と交流し始めた六~七世紀頃としておくのが学問的に慎重な姿勢である。

 以上のような考察の結果、「倭」の字の音韻変化と『記紀』歌謡への採用過程について、一応の「解答」は出せたのですが、森博達さんの『日本書紀』研究の成果を援用することにより、更に理解は進展しました。(つづく)


第2168話 2020/06/06

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(9)

 倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論として、「南、至る邪馬壹国。女王之所。(そこへの行程は)都(す)べて水行十日陸行一月」との訓みを思いついたのは2004年頃でした。この訓みが成立するのか古田先生と検討してから16年経ちました。そのとき成立困難との結論に至りましたが、今回もまた同様でした。しかし、今回はより深く認識することができ、同時に『三国志』全編を読み通しましたので、様々なことに気づき、有意義でした。
 わたしの仮説(思いつき)を積極的に支持する、ある数値を「合計して」という確実な用例はみつかりませんでしたが、「都」の字は、「みやこ(名詞)」「みやことする(動詞)」の意味と、「統べる」「統括する」の意味で使用されていることが確認できました。同時に「女王之所都」〔女王の都(みやこ)する所〕の「之所」について、どのような用例があり、どのような文法ルールを持っているのかを今回調べてみました。
 「之所」という用例は『三国志』にはそれほど多用されていませんが、各所に散見されることから、特殊な用例ではないようです。東夷伝中の印象的な用例としては次の記事があります。

 「長老説有異面之人、近日之所出」(三 840頁、魏書)

 これは粛慎の長老の言葉ですが、「近日之所出」(日が出る所に近し)のように「女王の都(みやこ)する所」と同様に、「之所」の直後に「出」という動詞が続きます。次に紹介する用例でも同様ですが、「之所」の直後に動詞が続くのが文法ルールのようです。

 「周公之所以用、大舜之所以去」「在陛下之所用」(二 503頁、魏書)
 「不以舜之所以事」(三 572頁、魏書)

 これとは別に、「之」の字がなく、「所」だけで、その後に動詞が続く用例は多数ありますが、「之」の有無にどのような意味の差があるのかは、まだわかりません。勉強はこれからも続きます。(おわり)


第2167話 2020/06/05

『東京古田会ニュース』192号の紹介

先日、『東京古田会ニュース』192号が届きました。本号には拙稿「観世音寺の史料批判 ―創建年を示す諸史料―」を掲載していただきました。観世音寺の創建を七世紀後半の白鳳時代(正確には白鳳10年、670年)とする各種史料を紹介し、その結果、太宰府条坊成立が観世音寺創建に先行するという井上信正説(太宰府市教育委員会)により、九州王朝(倭国)の首都太宰府条坊都市が大和朝廷(日本国)の藤原京条坊都市よりも早く造営されたことになると指摘した論稿です。
 コロナ禍により、「東京古田会」も今年の会員総会開催を断念されたため、同会決算書や事業報告などが同封されていました。コロナ禍の中で、どのようにして研究会活動を継続するのか、わたしたち「古田史学の会」にとっても試練のときを迎えていますが、それは同時に新時代の歴史研究のあり方を他に先駆けて提案・構築できるチャンスでもあります。皆さんからの画期的な提言やアイデアを求めます。


第2162話 2020/05/29

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(8)

 『三国志』(中華書局本)本文に見える「都」で、名詞の「みやこ」や動詞の「みやこする」ではなく、「全て」「全ての」という意味で使用されていると考えられる次の例について、訳を検討してみました。

(9)「景初中、受詔作都官考課」(三 619頁、魏書)
《訳案》
①景初(年)中、詔を受けて都(すべて)の官の考課を作る。
②景初(年)中、詔を受けて官を都(す)べる考課を作る。
③景初(年)中、詔を受けて都官(とかん)の考課を作る。

(28)「詔立都講祭酒」(五 1136頁、呉書)
《訳案》
①詔す、都(すべて)の講に祭酒を立てよ。
②詔す、講を都(す)べる祭酒を立てよ。
③詔す、都講(とこう)に祭酒を立てよ。

(33)「身長八尺、儀貌都雅」(五 1216頁、呉書)
《訳案》
①身長は八尺、儀貌(容貌)は都(すべて)雅(みやび)なり。
②身長は八尺、儀貌(容貌)は都雅(とが)なり。

 なお、(9)(28)については、「都官」を「みやこの官僚たち」、「都講」を「みやこの講」と訓めないこともありませんが、〝みやこの「官」や「講」〟という表記は『三国志』中の他には見えませんので採用しませんでした。また、「都(す)べる」と訓む場合は、日本語では「統(す)べる」の表記が通常で、その意味は「統括する」です。『三国志』でも「統括する」の意味には「統」の字がよく使われています。
 他方、『後漢書』や漢和辞典類には「都官」「都講」「都雅」という熟語が見え、「都官:役職名(『後漢書』)」「都講:塾頭」「都雅:みやび」などが見えます。このことを加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)からご教示いただきました。この点を重視すると、「都講」の訓みは「講を統(す)べる」「講を統括する」が適切となります。あるいは、『三国志』編纂時代には「都督」「都尉」などのように、「都講」という役職名が既に成立していたのかもしれません。また、同様に「都雅」という二字で「みやび」という意味が『三国志』の時代に成立していた可能性も考慮する必要がありそうです。
 引き続き検討を進めますが、今回の『三国志』調査においては「全て」「全ての」という意味で「都」の字が使用される確かな例(他の字義では意味が通らないケース)は今のところ見つかっていません。また、わたしの仮説を積極的に支持する、ある数値を「合計して」という確実な用例はみつかりませんでした。現時点での結論としては、「都」の字は、「みやこ(名詞)」「みやことする(動詞)」の意味と、「統べる」「統括する」の意味で使用されていることが確認できました。(つづく)


第2159話 2020/05/24

正木裕さんが八王子セミナー2020で発表

 本年11月、古田先生の『「邪馬台国」はなかった』発刊50周年記念として開催される八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2020)で研究発表することを「洛中洛外日記」2154話〝八王子セミナー2020 発表タイトルと要旨〟でお知らせしました(【演題】古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「大宝二年籍」「延喜二年籍」の史料批判―)。
 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)も研究発表されることになり、わたしのFACEBOOKにテーマと要旨がコメントされました。下記の通りです。同テーマは関西でも好評の正木さんの〝鉄板〟研究です。とても有意義で面白そうなセミナーになりそうです。

【演題】裏付けられた「邪馬壹国の中心は博多湾岸」

【要旨】故古田武彦氏が唱えられた「邪馬壹国の中心は博多湾岸である」ことの正しさを、様々な考古学上・文献上の「新たな発見・知見」にもとづいて証明する。

※正木さんからの追加コメント
 邪馬「台」国はなかった以降、特に近年、古田氏がふれることが出来なかった様々な考古学的発見や文献の発掘により博多湾岸邪馬壹国説はその信頼度を増しています。セミナーでは、ヤマト一元説が無視・スルーしてきた「新証拠」を紹介し、改めて古田説を裏付けていく予定です。


第2158話 2020/05/23

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(7)

 『三国志』(中華書局本)に見える「都」には動詞と名詞、そして「全て」の意味を持つ用例がありました。特に三国時代(後漢末期)の遷都記事に関わるものとして、190年の「長安」遷都関連記事(1)(7)(25)、196年の「許」遷都関連記事(2)(3)(4)(6)(10)(11)、呉の遷都記事(26)(27)(30)(31)(30)(39)(41)(42)(43)(45)(46)(47)があり、いずれも「みやこする」(文語的表現)「みやことする」(口語的表現)と訓むのが妥当と思われます。
 他方、注目すべきは倭国と高句麗の次の「都」関連記事です。

(17)「儉遂束馬縣車、以登丸都、屠句麗所都、斬獲首虜以數千」「刊丸都之山」魏書毋丘儉(カンキュウケン)伝(三 762頁)
(20)「南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日陸行一月」魏書倭人伝(三 855頁)

 共に「所都」という表記で、丸都が高句麗の都であること、邪馬壹国が女王の都であることを説明する文脈で使用されており、「都」を動詞とする「みやこする所」「みやことする所」の訓みが最も適切で、記事の意味を的確に表しています。なお、倭人伝(20)には「女王之所都」と「之」の字があり、毋丘儉伝(17)「屠句麗所都」にはありません。この差異により文意にどのような影響が出るのか、今のところよくわかりません。(つづく)


第2157話 2020/05/22

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(6)

 『三国志』(中華書局本)を久しぶりに全巻読み通しました。わたしの好みでもありますが、「蜀書」姜維伝を読むと、なぜか胸が熱くなりました。横山光輝さんの漫画『三国志』に描かれた姜維の印象が強いこともあり、わたしは諸葛孔明と姜維のファンです。
 『三国志』での「都」の字は、「都督」「都尉」などの役職名や行政名称の「京都」、地名の「成都」「陽都」「武都」などに使用される例が多いのですが、今回のテーマに関係しそうな、それ以外の「都」の例を下記に紹介します。見いだした全てを記載はしていませんし、重要な使用例の見落としがあるかもしれません。その場合はご教示下さい。

(1)「(初平元年)二月、卓聞兵起、乃徙天子都長安。卓留屯洛陽、遂焚宮室」(一 7頁、魏書)
(2)「天子都許、拜洪諫議大夫」(一 278頁、魏書)
(3)「太祖議奉迎都許」「太祖遂至洛陽、奉迎天子都許」(二 310頁、魏書)
(4)「太祖迎天子都許」(二 322頁、魏書)
(5)「伍員絶命於呉都」(二 376頁、魏書)
(6)「天子都許、以(日/立)為尚書」(二 428頁、魏書)※(日/立):「日」の下に「立」
(7)「是時董卓遷天子都長安、卓因留洛陽」(二 466頁、魏書)
(8)「趙都賦」「許都」「洛都賦」(三 618頁、魏書)
(9)「景初中、受詔作都官考課」(三 619頁、魏書)
(10)「建安初、太祖迎天子都許」(三 665頁、魏書)
(11)「太祖始迎獻帝都許」(三 668頁、魏書)
(12)「時新都洛陽」(三 678頁、魏書)
(13)「凡帝王徙都立邑」(三 711頁、魏書)
(14)「都城禁衛」「都圻之内」(三 718頁、魏書)
(15)「時都畿樹木成林」(三 744頁、魏書)
(16)「楚王彪長而才、欲迎立彪都許昌」(三 758頁、魏書)
(17)「儉遂束馬縣車、以登丸都、屠句麗所都、斬獲首虜以數千」「刊丸都之山」(三 762頁、魏書)
(18)「積穀干許都以制四方」(三 775頁、魏書)
(19)「都於丸都之下」(三 843頁、魏書)
(20)「南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日陸行一月」(三 855頁、魏書)
(21)「興復漢室、還干舊都」(四 920頁、蜀書)
(22)「曹公議徙許都以避其鋭」(四 941頁、蜀書)
(23)「陛下大軍、金鼓以震、當轉都宛、鄧、若二敵不平、軍無還期」(四 993頁、蜀書)
(25)「卓尋徙都西入關、焚燒雒邑」(五 1097頁、呉書)
(26)「權自公安都鄂、改名武昌」(五 1121頁、呉書)
(27)「權遷都建業」(五 1135頁、呉書)
(28)「詔立都講祭酒」(五 1136頁、呉書)
(29)「此都無所損、君意特有所忌故耳」(五 1160頁、呉書)
(30)「從西陵督歩闡表、徙都武昌」(五 1164頁、呉書)
(31)「晧還都建業」(五 1166頁、呉書)
(32)「呉都言掘地得銀」「呉都言臨平湖自漢末草穢壅塞」「楚九州渚、呉九州都、揚州士、作天子、四世治、太平始」(五 1171頁、呉書)
(33)「自權西征、還都武昌」「身長八尺、儀貌都雅」(五 1216頁、呉書)
(34)「自今蔽獄、都下則宜諮顧雍」(五 1239頁、呉書)
(35)「事畢還都」(五 1250頁、呉書)
(36)「後召還都、拜(津)右護軍、曲領辭訟」(五 1287頁、呉書)
(37)「權破羽還、都武昌」(五 1310頁、呉書)
(38)「及還都建業」(五 1311頁、呉書)
(39)「黄龍元年、權遷都建業」(五 1340頁、呉書)
(40)「及求詣都」「葬送東還、詣都謝恩」「太元元年、就都治病」(五 1354頁、呉書)
(41)「權遷都建業」(五 1364頁、呉書)
(42)「又恪有徙都意、使治武昌宮、民間或言欲迎和。及恪被誅、孫峻因此奪和璽綬、徙新都、又遣使者賜死」(五 1370頁、呉書)
(43)「晧徙都武昌」(五 1400頁、呉書)
(44)「非王都安國養民之處」(五 1401頁、呉書)
(45)「既定荊州、都武昌」(五 1411頁、呉書)
(46)「權下都建業」(五 1414頁、呉書)
(47)「初、權黄龍元年遷都建業」(五 1434頁、呉書)
(48)「北方都定之後、操率三十萬衆來向荊州」(五 1436頁、呉書)
(49)「太元元年、權寝疾、詣都」(五 1443頁、呉書)
(50)「而都下諸官、所掌別異」「定送到都」(五 1468頁、呉書)

 ※『三国志』中華書局本(2000年北京第15次印刷)

 以上のような「都」の用例が見られました。(20)「南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日陸行一月」が今回のテーマである倭人伝の記事です。なお、『三国志』本文中で夷蛮の諸国に「都(みやこ)」記事があるのは、毋丘儉(カンキュウケン)伝(17)「儉遂束馬縣車、以登丸都、屠句麗所都」と倭人伝(20)と高句麗伝(19)だけです。このことを検討会で古田先生が指摘されたのを懐かしく思い出しました。(つづく)


第2155話 2020/05/20

倭人伝「南至邪馬壹国女王之所都」の異論異説(5)

 

 話題を「南至邪馬壹国女王之所都」の「都」の字義に戻します。

 わたしの仮説が成立するのかどうかを古田先生と検討したときのことを紹介します。「南、至る邪馬壹国。女王之所。(そこへの行程は)都(す)べて水行十日陸行一月」と訓む私案について、最大の問題となったのが、「女王之所」をどう訓むのかということでした。

 たとえば、「之」の字義に「行く」という意味もあり、そのような他の字義での訓みや理解について古田先生と検討を続けました。しかし、結論としては妥当な訓みが成立しそうもなく、わたしの仮説はペンディングとなり、とりあえずは通説の訓み「南、至る邪馬壹国。女王之都する所」でよいということになりました。

 今回、わたしは久しぶりに『三国志』(中華書局本ですが)を全巻読破し、「都」の用例調査を改めて行い、特に「都」の「合計する」「全て」という使用例を探しました。(つづく)