古賀達也一覧

第2337話 2021/01/02

二倍年齢研究の実証と論証(3)

『延喜二年阿波国戸籍』の実証と論証

 昨年11月の八王子セミナーでは、最初に『延喜二年(902)阿波国板野郡田上郷戸籍断簡』研究の経緯を紹介しました。当時としては超高齢者群の存在を示すその年齢記事(史料事実)を根拠に、実証的に二倍年暦(二倍年齢)表記ではないかとする作業仮説の当否を検討しました。その結果、実証的な判断により提起したこの仮説を是とする論証が成立せず、後に撤回に至った研究経緯を説明しました。この研究事例における史料事実と実証と論証について説明します。

 延喜二年(902年)成立の『阿波国板野郡田上郷戸籍断簡』に当時としては有り得ないような多くの長寿者が記されており、阿波国ではこの時代まで二倍年齢表記が残存していたのではないかと疑ったのが研究の始まりでした(暦は一倍年暦の時代)。その年齢分布(史料事実)は次の通りです。

【延喜二年阿波国板野郡田上郷戸籍断簡】
年齢層  男 女 合計  (%)
1~ 10 1 0 1 0.2
11~ 20 5 1 6 1.5
21~ 30 8 15 23 6.6
31~ 40 4 34 38 9.3
41~ 50 8 71 79 19.2
51~ 60 2 61 63 15.3
61~ 70 1 70 71 17.3
71~ 80 8 59 67 16.3
81~ 90 6 34 40 9.7
91~100 5 13 18 4.4
101~110 1 3 4 1.0
111~120 1 0 1 0.2
合計 50 361 411 100.0
※出典:平田耿二『日本古代籍帳制度論』1986年、吉川弘文館

 同戸籍は現代の日本社会以上の高齢者分布を示しており、高齢層の寿命はとても十世紀初頭の日本人の一般的な寿命とは考えられません。そこで、わたしはこの高齢表記を二倍年暦を淵源とする二倍年齢ではないかと考えました。すなわち、暦法は一倍年暦に変更されても、人の年齢計算は1年で2歳とする、古い二倍年齢表記が阿波国では継続採用されていたのではないかと思ったわけです。

 他方、子供の数が少ない同戸籍の記述(史料事実)に基づく実証として、次ような見解も提起されていました。「邪馬台国」阿波説を唱える研究者による次の記事です(注)。

 「(前略)大倭の地へ王都が移遷されて以来、中世源平時代はもとより室町時代迄でも阿波では成年男子は都へ出仕する義務がありました。天皇家の周辺をささえたのは阿波人であったのは姓氏録を研究するだけで明白です。それぞれの血脈に従い、能力に応じた官職についていました。現在でいう停年になれば故里に帰ってきます。(中略)人はいうに及ばず、農水産物衣類まで阿波に依存して成り立っていたのです。」岩利大閑『道は阿波より始まる その二(増補版)』6頁

 子供の数が極端に少ないという、他の古代戸籍とは真逆の史料事実をそのまま歴史事実として受け入れたために、「阿波では成年男子は都へ出仕する義務がありました」とする解釈を導入せざるを得なかったものと思われます。しかし、同戸籍で極端に少ないのは「成年男子」だけではなく、1歳から20歳までの「少年少女」もそうなのですから、この解釈では史料事実を充分に説明できません。すなわち、論証が成立していません。ですから、学問的な実証にも至らず、仮説としても成立していないのです。

 このような事例は、古代諸史料に見える「九十歳」とか「百歳」という、当時としてはあり得にくい年齢記事を〝史料事実〟として疑いもせずにそのまま実年齢と理解し、〝史料事実に基づく実証〟と称して仮説を提起し、論を進めることの危険性をご理解いただける典型的なケースではないでしょうか。実は似たような誤りを、同戸籍についてわたしもおかしそうになりました。(つづく)

(注)岩利大閑『道は阿波より始まる その二(増補版)』昭和61年(1986)、京屋社会福祉事業団。


第2336話 2021/01/01

二倍年齢研究の実証と論証(2)

 ―事実と実証と論証―

 歴史研究においては実証であれ論証であれ、確かな史料事実に基づいて行わなければなりません。しかし、史料事実そのものが何かを証明してくれるわけではありません。茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)の論稿(注①)では、そのことを次のように説明しています。

〝「事実」というものはただその「事実」を表現しているだけで、それ以上のことにはなにも語りません。〟『倭国古伝』207頁

 その上で、実証と論証の関係を次のように説明しています。

〝「事実」についての論理展開があってはじめて、仮説的な真実が発見され、それが「実証」として働き、さらなる「論証」によって「実証」の信頼度が増す、という構造になっていたと思います。これこそが、村岡氏や古田氏が目指していた学問の方法でしょう。〟(同上)

 この実証と論証の関係について、加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)は、私へのメールで次のように述べられました。

 「実証を実証たらしめるには精緻な論証が不可欠ですから、村岡先生の言葉(注②)は当たり前のことを言っているようにしか思えず、そんなに問題にされること自体不思議な気がします。
 例えば、日本書紀の記事を実証として使えるようにするために,古田先生を始め学派の人達(貴殿も)がどれ程の論証を尽くしたか、を考えればすぐ分かることのように思えるのですが」

 この加藤さんの指摘は、茂山さんの説明と意味するところは同じです。このことを二倍年暦(二倍年齢)研究を例に説明します。(つづく)

(注)
①茂山憲史「『実証』と『論証』について」、『倭国古伝』(『古代に真実を求めて 22集』古田史学の会編・明石書店、2019年)所収。
②「学問は実証よりも論証を重んずる」(古田武彦先生が紹介された村岡典嗣先生の言葉)


第2335話 2020/12/31

二倍年齢研究の実証と論証(1)

 ―はじめに―

 歴史研究においては史料事実に基づく実証と、同じく史料事実に基づく論証という、性格が異なる証明方法があります。両者の論理学的関係性については、茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部)による優れた解説があります(注①)。また、山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)のブログ「sanmaoの暦歴徒然草」には異なる視点からの考察があり、示唆を受けました(注②)。わたしも「洛中洛外日記」で〝学問は実証よりも論証を重んじる〟〝「実証主義」から「論理実証主義」へ〟などを連載しました(注③)。なお、〝学問は実証よりも論証を重んじる〟は古田先生ご生前に『古田史学会報』でも発表しており、先生には読んでいただいています。
 本年11月に開催された八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2020)において、わたしは古代戸籍における二倍年暦(二倍年齢)の痕跡という新しい分野の研究を発表しましたが、そこでも実証と論証の関係性について丁寧な説明が必要と痛感しました。そこで、令和三年を迎えるにあたり、二倍年暦研究を対象として、このテーマを改めて詳述することにします。
 それでは「洛中洛外日記」読者の皆様、一年間のご愛読に感謝し、令和三年が実り多き年となるよう祈念しながら、本年最後のご挨拶といたします。良いお年をお迎え下さい。

(注)
①茂山憲史「『実証』と『論証』について」、『古田史学会報』147号(2018年8月)所収。
 茂山憲史「『実証』と『論証』について」、『倭国古伝』(『古代に真実を求めて 22集』古田史学の会編・明石書店、2019年)所収。
②山田春廣〝学問は実証よりも論証を重んじる ―「実証主義」は「教条主義」、科学は「仮説主義」―〟、ブログ「sanmaoの暦歴徒然草」(2018年5月9日)掲載。
③古賀達也〝学問は実証よりも論証を重んじる(1)~(9)〟、「洛中洛外日記」622~639話(2013年11月19~12年29日)掲載。
 古賀達也「学問は実証よりも論証を重んじる」、『古田史学会報』127号(2015年4月)所収。『古代に真実を求めて』19集(古田史学の会編・明石書店、2016年)に転載。
 古賀達也〝「実証主義」から「論理実証主義」へ(1)~(5)〟、「洛中洛外日記」1832~1855話(2019年2月1日~3月10日)掲載。


第2333話 2020/12/29

「秋月系図」に見る別伝承習合の痕跡

 『群書系図部集 第七』の「大蔵氏系図」(注①)などに見える「阿智王伝承」や「阿智使主伝承」は、本来は別伝承であったものが〝習合〟されたものとわたしは考えています。その痕跡が最もよく遺っているのが、同じく『群書系図部集 第七』に収録されている「秋月系図」です。既に紹介したように、秋月氏は九州王朝に仕えた千手氏の主家であり、両氏が同族であることが別の系図(注②)に記されています。
 「秋月系図」では、阿智王の次代の高貴王(「又名阿多倍」とある)には長文の傍注があり、そこには時代が異なる二つの説話が記されています。ひとつは、阿多倍は「都賀使主」を号し、大臣を任じ、「嫁斉明天皇産三王子。其中子志拏直賜大蔵姓。」とあるように、高貴王(阿多倍)は「斉明天皇」と結婚し、三人の子供が生まれ、その次男の志拏直が大蔵姓を賜ったという不思議な伝承です。
 その記事に続いて、阿智王が「応神天皇」の御世に七姓の氏族と共に帰化したという伝承が記されています。この伝承は『続日本紀』延暦四年六月条に見える、坂上大忌寸(いみき)苅田麿による宿禰姓への改姓を願う上表文の引用であり、「応神天皇(誉田天皇)」時代の帰化という部分は『日本書紀』応神紀二十年条の次の記事と類似しています。

 「二十年の秋九月に、倭漢直の祖阿知使主、其の子津加使主、並に己が黨類(ともがら)十七縣を率て、来歸(まうけ)り。」

 この二つの伝承のうち、七世紀中頃の来日伝承を持つ史料は「秋月系図」「大蔵氏系図」「田尻系図」(注③)などの筑前の氏族の系図で、九州王朝の家臣となった大蔵氏系氏族に限られているようです。この系列の伝承で興味深いのが、先の「秋月系図」の傍注にあるように、来日した阿多倍が「斉明天皇」と結婚したという点です。「大蔵氏系図」では「阿多王妻以敏達天皇之孫茅渟王之女」とあり、来日した阿多倍(阿多王)が敏達天皇の子の茅渟王の娘(斉明に相当)を妻にしたとあります。恐らく、来日した阿多倍が「九州王朝の皇女」を妻にしたという本来の伝承が、九州王朝の存在が忘れられた後世において、近畿天皇家の「斉明」や「茅渟王之女」に書き換えられたものと思われます。

(注)
①『群書系図部集 第七』「大蔵氏系圖」(昭和六十年版)
②東京大学史料編纂所蔵『美濃國諸家系譜』「秋月氏系図」
③『群書系図部集 第七』「田尻系圖」(昭和六十年版)


第2332話 2020/12/24

「中宮天皇」は倭姫王か

 野中寺に伝わる弥勒菩薩銘(注①)の「中宮天皇」を九州王朝の天子(筑紫君薩夜麻)の奥さんとする仮説を10年ほど前の「古田史学の会」関西例会で発表したことがあります(注②)。そのときのことを「洛中洛外日記」327話(2011/07/23)〝野中寺弥勒菩薩銘の中宮天皇〟で次のように紹介しました。

 〝中宮天皇の病気平癒を祈るために造られた弥勒菩薩像のようですが、銘文中の中宮天皇について、一元史観の通説では説明困難なため、偽作説や後代造作説なども出ている謎の仏像です。
造られた年代は、その年干支(丙寅)・日付干支から666年と見なさざるを得ないのですが、この年は天智五年にあたり、天智はまだ称制の時期で、天皇にはなっていません。斉明は既に亡くなっていますから、この中宮天皇が誰なのか一元史観では説明困難なのです。

 従って、大和朝廷の天皇でなければ九州王朝の天皇と考えたのですが、この時、九州王朝の天子薩夜麻は白村江戦の敗北より、唐に囚われており不在です。 そこで、「中宮」が後に大和朝廷では皇后職を指すことから、その先例として九州王朝の皇后である薩夜麻の后が中宮天皇と呼ばれ、薩夜麻不在の九州王朝内で代理的な役割をしていたのではないかと考えたのです。〟

 ここまでを作業仮説として提起していたのですが、それ以上は進展していませんでした。ところが先日(12月21日)、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)とインターネット通話で九州王朝トップ(倭王)の称号や天皇号の位置づけについて意見交換していたときに、この中宮天皇は天智の皇后で九州王朝の皇女と考えられている倭姫王のことではないかというアイデアが浮かんだのです。これは正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が近年発表された九州王朝系近江朝説とも関連したものです。このアイデアについて日野さんに意見を求めたところ、近畿天皇家一元史観の学界内に中宮天皇を倭姫王とする説が既にあるとのことでした。

 そこで、古田学派内での先行説の有無を調べるために、正木裕さんに確認したところ、昨日開催された「水曜研究会」(注③)で同様の意見が参加者(服部静尚さん他)から出されたとのことでした。こうした研究動向を知り、仮説として成立しそうなアイデアであることに自信を得ました。これからは各研究者による様々な論証が試みられることと期待しています。

(注)
①同銘文は次の通り(異説あり)。
「丙寅年四月大朔八日癸卯開記 栢寺智識之等 詣中宮天皇大御身労坐之時 誓願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等 此教可相之也」
②古賀達也「中宮天皇と不改常典」(古田史学の会・2011年7月度関西例会)
③古田史学の会・会員有志による研究会(会場:豊中倶楽部自治会館)。毎月一度、水曜日に開催されることからこの名称が付けられた。


第2331話 2020/12/23

阿智王伝承と阿智使主伝承

 『群書系図部集 第七』の「大蔵氏系図」(注①)には、阿智王と阿智使主、高尊王・高貴王と阿多倍のように、同一人物に複数の名前があることから、「洛中洛外日記」2329話(2020/12/21)〝群書類従「大蔵氏系図」の史料批判〟において、〝名前も前文では「阿智王」「阿多倍=高尊王」、系図では「阿智使主」「高貴王」と微妙に異なっており、本当に同一人物の伝承なのか用心する必要もあります。〟と指摘しました。この問題について検討したところ、本来は別伝承であった「阿智王伝承」と「阿智使主伝承」が〝習合〟されていた可能性が高まりました。
 阿智王や阿智使主に関する伝承はいくつかの史料(注②)に見えますが、主には次のような差異があります。

(1)代表的な始祖の名前が「阿智王(あちおう)」と「阿智使主(あちのおみ)」
(2)その子供の名前が「阿多倍」と「都賀使主(つがのおみ)」
(3)来日の時期が「孝徳期」と「応神期」
(4)来日した人物が「阿智王・阿智使主」と「阿多倍」
(5)帰化した類族数が「十七縣」と「七縣」

 これらの差異が史料毎に様々なバリエーションで伝承されており、一見すると整合性や規則性はありません。しかし、この中で決定的な差異は(3)の来日年代です。孝徳期(七世紀中頃)と応神期(『日本書紀』紀年では三世紀後半頃)ですから、誤記誤伝のレベルではありませんので、本来は別々の伝承があったと考えざるを得ないのです。

(注)
①『群書系図部集 第七』「大蔵氏系圖」(昭和六十年版)
②管見では、阿智王・阿智使主を始祖とする伝承記事が次の史料にある。『日本書紀』(応神紀二十年条)、『新撰姓氏録』、『続日本紀』(光仁紀・宝亀三年条、桓武紀・延暦四年条)、「大蔵氏系図」、「坂上系図」、「秋月系図」、「田尻系図」。


第2330話 2020/12/22

群書類従「伊香氏系図」の二倍年齢

 九州王朝の家臣「千手氏」「大蔵氏」調査のため、群書類従の系図を久しぶりに読みなおしました。同書は『群書系図部集』七冊本として続群書類従完成会より発行されたもので、編纂者は江戸時代の学者、塙保己一(はなわ ほきいち、1746~1821年)です。
 前に読んだ時は気づかなかったのですが、『群書系図部集 第七』の「伊香氏系図」(注①)に二倍年齢と考えざるを得ない記事がありましたので紹介します。同系図は冒頭の「伊香津臣命」から「伊香宿禰豊厚」「伊香宿禰豊氏」兄弟へと続き、それ以降は兄の「伊香宿禰豊厚」の子孫へと続いています。その兄弟の傍注に次の記事が見えます。

 「伊香宿禰豊厚
  天武天皇御宇白鳳十年辛巳以伊香字卽賜姓。此兄馮爲伊香郡開發願主也。歳百卅七。」
 「伊香宿禰豊氏
  歳百五。」

 この記事から、次の三点が読み取れます。

(1)伊香津臣氏は「天武白鳳十年」辛巳(681)に「宿禰」姓をもらった
(2)近江国伊香郡(評)の有力者、伊香宿禰兄弟の
(3)没年齢が兄137歳、弟105歳

《解説》
(1)この白鳳は天武元年(672)を白鳳元年とする、後世の改変型九州年号。本来の九州年号(注②)白鳳は元年が661年で、23年間続く。同系図によれば、伊香宿禰豊厚の子供の厚彦が大宝(701~703年)時代、厚彦の子供の厚持が和銅(708~714年)時代とされていますから、年代的に矛盾はありません。
(2)「近江国風土記逸文」(注③)に近江国伊香郡の羽衣伝承があり、伊香刀美(伊香津臣と同人物とされる)という人物名が見える。
(3)このような超高齢表記は、古くから倭国で採用されていた二倍年齢と考えざるを得ない。従って、一倍年齢の68.5歳、52.5歳に相当する。

 本年11月の八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2020)において、わたしは〝古代戸籍に見える二倍年暦の影響 ―「延喜二年籍」「大宝二年籍」の史料批判―〟というテーマで、倭国の二倍年暦(二倍年齢)の影響が「庚午年籍」(670年)造籍に及んだ可能性について報告しました。そして、今後の課題として、七世紀後半における二倍年齢の痕跡を他の史料でも探索するとしました。そして偶然にも系図調査により、白鳳時代の二倍年齢記事の発見に繋がりました。
 この伊香宿禰たちが近江国伊香郡(評)の有力者であることも示唆的です。「大宝二年籍」の中でも二倍年齢の痕跡が見られるのが「御野国戸籍」であることから、御野(美濃)国の隣国である近江国伊香郡(評)で二倍年齢が七世紀後半においても使用されていたことは重要な発見と思われます。「大宝二年籍」でも西海道戸籍(筑前、豊前)には二倍年齢使用の明確な痕跡がなかったことから、一倍年暦の時代に二倍年齢使用が続いた地域と完全に暦も年齢計算も一倍年暦に変更した地域との差(注④)があることを八王子セミナーで指摘したのですが、その傍証にもなる今回の発見でした。

(注)
①『群書系図部集 第七』「伊香氏系圖」(昭和六十年版)。
②『二中歴』所収「年代歴」等による。『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年)を参照されたい。
③日本古典文学大系『風土記』457頁(岩波書店、1958年)。
④九州王朝の都(太宰府)があった筑前などは暦法先進地域として、二倍年暦(二倍年齢)から一倍年暦(一倍年齢)への変更がよりはやく完全に進められたと思われる。


第2329話 2020/12/21

群書類従「大蔵氏系図」の史料批判

 「洛中洛外日記」2328話(2020/12/20)〝「千手氏」始祖は後漢の光武帝〟で紹介した『群書系図部集 第七』の「大蔵氏系図」(注①)ですが、少し気がかりな点があり、改めて内容を精査しました。
 「大蔵氏系圖」は前文と系図部分からなっており、よく読むとその内容が異なっていることに気づきました。先に紹介したように、同系図では、後漢最後の獻帝(山陽公)の子が石秋王、その子が阿智使主、阿智使主の子が高貴王とあります。ところが、前文では次のようであり、石秋王と阿智王(阿智使主)が親子とはされていないようなのです。

 「(前略)石秋王之裔孫曰阿智王。有子曰阿多倍。本號高尊王。始入日本国。任准大臣。(後略)」群書類従系圖部八十一「大蔵氏系圖」

 また、名前も前文では「阿智王」「阿多倍=高尊王」、系図では「阿智使主」「高貴王」と微妙に異なっており、本当に同一人物の伝承なのか用心する必要もあります。
 このように、阿智使主(阿智王)は石秋王の「子」ではなく、「裔孫」とされています。ですから、両者の間には何代かの名前が省略されているわけです。その証拠に、石秋王は後漢最後の獻帝(山陽公)の子とされており、三世紀の人物です。この前文にも、「山陽公薨。時年五十四。當本朝神功皇后卅五年。」とあり、山陽公の没年が「神功皇后卅五年」(西暦235年)に当てられています。
 他方、系図では「阿智使主」(阿智王)の傍注に「孝徳天皇之御宇率十七縣人夫帰化」とあり、「阿智使主」やその次代の「高貴王」が七世紀中頃の人物とされています。ですから、獻帝(山陽公)と阿智王の関係を「子」ではなく、「裔孫」とする前文の記事は正確な表現と考えざるを得ません。
 他方、後漢の皇帝や阿智王を先祖とする「坂上系圖」(注②)には、阿智王を応神の時代の人物として記されており、後代において系図年代が混乱していることがうかがえます。従って、現時点では「大蔵氏系圖」が比較的正しく伝えているように思われます。群書類従以外にも関係する系図がありますから、それらを精査したいと考えています。

(注)
①『群書系図部集 第七』「大蔵氏系圖」(昭和六十年版)
②『群書系図部集 第七』「坂上系圖」(昭和六十年版)


第2326話 2020/12/18

九州王朝の家臣「千手氏」調査

 「洛中洛外日記」2325話(2020/12/17)〝「鬼滅の刃」と『竈門山舊記』〟で紹介した九州王朝の家臣と思われる「千手氏(せんず氏)」の調査を進めています。『竈門山舊記』に見える次の記事から、わたしの調査は始まりました。

 「天皇御廟嘉麻郡千種寺ニ有ト云。又ハ内智(うち)山トモ云。異説甚(はなはだ)多シ。」『竈門山舊記』(五来重編『修験道史料集』Ⅱ)

 ここで「天智天皇」とされているのは九州王朝の最後の天子、筑紫君薩野馬のことと思われます。ウィキペディア「千手村(福岡県)」を調べたところ、次ぎのように説明されていました。

 「『千手』の名の起こりは村内にあった千手寺に依る。千手寺は天智天皇に付き従って九州に下った千手氏の菩提寺であり、九州征伐まで代々千手氏が当地を治めていた。」ウィキペディア「千手村(福岡県)」

 廟嘉麻郡千種寺とは嘉穂市にある千手寺のことで、旧嘉麻郡に属していました。千手寺は〝天智天皇に付き従って九州に下った千手氏の菩提寺〟とされています。この伝承が正しければ、「千手氏」は九州王朝の薩野馬に仕えた家臣となります。そこで、この記事の出典調査に進みました。
 『筑前国続風土記』(注①)に次の記事があります。以前から注目していた記事です。

 「千手
 村中に千手寺あり。これに依て村の名とす。本尊千手観音也。此寺山間にありて閑寂なる境地也。其側に石塔有。里民は天智天皇の陵なり。天智天皇の御子に嘉麻郡を賜りし事あり。其人天皇の崩し玉ふ後に、是を立給ふといふ。然れども梵字なと猶(なお)さたかに見ゆ。さのみ久しき物には非ず。いかなる人の墓所にや。いふかし。(後略)」貝原益軒『筑前国続風土記』巻之十二 嘉麻郡(昭和60年版)

 千手村に「天智天皇」伝承やその「御陵」の伝承があったことがわかります。しかし、千手村の名前が千手寺に由来しているということであれば、千住氏が「千手」を名乗ったのは、同地に土着してからと思われますので、「天智天皇」に仕えていたときの名前は別にあったはずです。そこで、千住氏の元の名前について調査することにしました。
 なお、webで「千手」姓の分布を調べたところ、福岡県と宮崎県に二大分布圏があり、近畿や他地域に濃密分布は見られません(注②)。このことは、「千手」姓が嘉麻郡千手村に由来したものであることを示しています。宮崎県の濃密分布は、戦国時代に千住氏の主家、秋月氏の領地替えに伴って、嘉麻郡から日向に移動したためとされています。(つづく)

(注)
①貝原益軒『筑前国続風土記』寶永六年(1709)成立。
②webサイト「日本姓氏語源辞典」によれば、「千手」姓の分布状況は次の通り。
〔県別分布〕
1.福岡県 約200人
2.宮崎県 約 60人
3.大阪府 約 30人
4.長崎県 約 20人
4.千葉県 約 20人
総数   約500人

〔市町村別分布〕
1.宮崎県児湯郡高鍋町   約30人
2.福岡県北九州市八幡西区 約30人
2.福岡県北九州市小倉南区 約30人
2.福岡県田川郡福智町   約30人
5.福岡県田川市      約30人


第2325話 2020/12/17

「鬼滅の刃」と『竈門山舊記』

 昨今、超人気の「鬼滅の刃(きめつのやいば)」(注①)の作者、吾峠呼世晴さん(ごとうげ こよはる、1989年5月5日~)が福岡県出身と知り、主人公の名前が竈門炭治郎(かまど たんじろう)であることから、太宰府の竈門山(宝満山、御笠山ともいう)に鎮座する竈門神社と何か関係があるのではないかと感じました。というのも、「洛中洛外日記」409話(2012/05/06)〝「竈門山旧記」の太宰府〟で紹介したように、「竈門神社」という名前や、同神社が太宰府の「鬼門」にあたることなどがその理由です。同神社の由来や歴史を記した『竈門山舊記』に次の記事が見えます。

 「天智天皇ノ御宇、都ヲ太宰府ニ建玉ウ時、鬼門ニ當リ、竈門山ノ頂ニ八百萬神之神祭リ玉ヒ」
 「太宰ノ府ト申ハ水城ヲ以テ惣門トシ片野ヲ以テ後トス。今ノ太宰府ハ往昔ノ百分一ト可心得、内裏ノ四礎今ニ明ケシ。」
 『竈門山舊記』(五来重編『修験道史料集』Ⅱ)

 天智天皇の時代に太宰府に都が造られ、水城が惣門にあたり、当時は今の百倍の規模という伝承が記された貴重な記録です。この『竈門山舊記』の成立年代は不明ですが、延寶八年(1680)までの記事が記されており、成立はこれ以後となります。ここで「天智天皇」とされているのは九州王朝の最後の天子、筑紫君薩野馬のことと思われますが、その陵墓についても次のように記されています。

 「天皇御廟嘉麻郡千種寺ニ有ト云。又ハ内智(うち)山トモ云。異説甚(はなはだ)多シ。」同前

 廟嘉麻郡千種寺とは嘉穂市にあった千手村(せんずむら)の千手寺のことで、旧嘉麻郡に属していました。千手寺は〝天智天皇に付き従って九州に下った千手氏の菩提寺〟であり、九州征伐まで代々千手氏が当地を治めていたとされています(注②)。この伝承が正しければ、九州王朝の薩野馬に仕えた家臣「千手氏」の存在が明らかになったわけで、九州王朝史研究の手がかりとなりそうです。
 話を「鬼滅の刃」に戻しますと、「竈門」の候補地として、他にも筑後市の溝口竈門神社と大分県別府市の八幡竈門神社があるそうで、現在は「聖地巡り」として、「鬼滅の刃」ファンの人気観光スポットになっているそうです。web上でも多くのサイトで紹介されており、最有力候補は溝口竈門神社のようです。確かに状況証拠(下記参照)を見ると、わたしもそのように思います。
 いずれにしても、九州王朝に関係する神社に関心が高まることはよいことです。わたしは九州王朝の家臣「千手氏」について、更に調査したいと思います。

□宝満宮竈門神社(福岡県太宰府市)
○大宰府の鬼門封じとして建立された。
○上宮の宝満山で修行する修験者の着ている市松模様の装束が炭治郎の羽織の柄と合致する。
○同神社の石段の途中に金剛兵衛という刀鍛冶の墓がある。
○同神社の主祭神が、作中の医者「珠世(たまよ)」と同じ読みの玉依姫命(たまよりひめのみこと)。
○同市内の太宰府天満宮で、火で鬼をあぶり出す「鬼すべ」神事がある。
○作者が福岡県出身。

□溝口竈門神社(福岡県筑後市)
○単行本7巻で煉獄杏寿郎が竈門炭治郎を「溝口少年」と呼び間違えるシーンがある。
○同神社の主祭神が、作中の医者「珠世」と同じ読みの玉依姫命。
○同神社での神事は、同市内の恋木神社の神官が兼ねて行っており、これが恋柱の甘露寺蜜璃と関連付けられる。
○同神社の拝殿の欄間の模様が、炭治郎が使う剣術の型「水の呼吸」の描写と似ている。
○同神社の神事「きせる祭り」では、炭治郎を鍛えた鱗滝左近次の天狗の面に似たお面が用いられている。きせるに青竹が使われており、竈門禰豆子がくわえている青竹を連想させる。
○溝口地区で生産されている瓢箪、多く生息している彼岸花が作中に画かれている。
○筑後市には鬼にまつわる伝承や行事がある。子供たちが体中を黒く塗る奇祭「久富盆綱引」などは著名(注③)。
○作者が福岡県出身。

(注)
①ウィキペディアによれば、『鬼滅の刃』は吾峠呼世晴による日本の漫画。『週刊少年ジャンプ』(集英社)にて2016年11号から2020年24号まで連載され、シリーズ累計発行部数は単行本第23巻の発売をもって1億2000万部を突破している。2019年にテレビアニメ化され、2020年に映画化され大ヒットし、社会現象となった。
 物語の主人公、竈門炭治郎は亡き父親の跡を継ぎ、炭焼きをして家族の暮らしを支えていた。炭治郎が家を空けたある日、家族は鬼に惨殺され、唯一生き残った妹の竈門禰豆子も鬼と化してしまう。妹を人間に戻す方法を探すために戦う姿を描く剣戟奇譚。時は大正時代の設定。
②ウィキペディア「千手村(福岡県)」による。
③「洛中洛外日記」1324話(2017/01/20)〝筑後市の奇祭「久富盆綱引」とこうやの宮の御祭神〟で紹介しているので参照されたい。


第2323話 2020/12/16

新井白石の学問(1)

 小林秀雄さんの『本居宣長』を読んでいますと、段の「三十一」に新井白石(1657~1725年)について紹介されていました。そこには安積澹泊(あさか たんぱく、1656~1738年)や佐久間洞巌(さくま どうがん、1653~1736年)の名前が見え、懐かしく思いました。二十年ほど前に九州年号研究史の調査をしていたとき、京都大学文学部図書館で新井白石全集を読んだのですが、そのときに知った名前です。その調査に基づいて〝「九州年号」真偽論の系譜 新井白石の理解をめぐって〟(注①)を発表しました。
 白石は九州年号真作説ですが、九州年号を『日本書紀』から漏れた大和朝廷の年号と理解していました。ちなみに、偽作説の急先鋒だったのが筑前黒田藩の儒家、貝原益軒(1630~1714年)でした。江戸時代の方が九州年号について自由に学問的に論議しており、現在の学界とは大違いです。
 白石は九州年号について、水戸藩の知人、安積澹泊宛書簡で次のように問い合わせています。

 「朝鮮の『海東諸国紀』(注②)という本に本朝の年号と古い時代の出来事などが書かれていますが、この年号はわが国の史書には見えません。しかしながら、寺社仏閣などの縁起や古い系図などに『海東諸国紀』に記された年号が多く残っています。干支などもおおかた合っているので、まったくの荒唐無稽、事実無根とも思われません。この年号について水戸藩の人々はどのように考えておられるのか、詳しく教えていただけないでしょうか。
 その時代は文字使いが未熟であったため、その年号のおおかたは浅はかなもので、それ故に『日本書紀』などに採用されずに削除されたものとも思われます。持統天皇の時代の永昌という年号も残されていますが(那須国造碑)、これなども一層の不審を増すところでございます。」(『新井白石全集』第五巻、284頁。古賀による現代語訳)

 このように、九州年号を偽作として無視する現代の日本古代史学界よりも、江戸時代の白石の姿勢の方が学問的態度ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「『九州年号』真偽論の系譜 新井白石の理解をめぐって」(『古田史学会報』60号、2004年2月5日)。後に『「九州年号」の研究』(古田史学の会編、2012年、ミネルヴァ書房)に転載。
②『海東諸国紀』(申叔舟著、1471年)には次の九州年号が記されている。
 「善化」「発倒」「僧聴」「同要」「貴楽」「結清」「兄弟」「蔵和」「師安」「和僧」「金光」「賢接」「鏡當」「勝照」「端政」「従貴」「煩転」「光元」「定居」「倭京」「仁王」「聖徳」「僧要」「命長」「常色」「白雉」「白鳳」「朱雀」「朱鳥」「大和」「大長」(『海東諸国紀』岩波文庫)


第2324話 2020/12/16

新井白石の学問(2)

 古田先生の九州王朝説は、主に『隋書』や『旧唐書』などの歴代中国史書を史料根拠として成立しています。そしてそれは、大和朝廷が自らの利益に基づいて編纂した『日本書紀』よりも、中国正史の夷蛮伝の方がその編纂目的から、可能な限り正確に夷蛮の国々の情報を記載しようとするばず、という論理的考察(論証)に基づいています。他方、従来説は『日本書紀』が描く日本列島の国家像の大枠(近畿天皇家一元史観)を論証抜きで是とすることにより成立しており、それに合わない中国史書の記述は信頼できないとして切り捨ててきました。
 こうした国内史料と海外史料の史料性格の違いなどから、日本古代史研究において海外史書を重視した学者が新井白石でした。白石が生まれた明暦三年(1657)、水戸藩では藩主徳川光圀の命により『大日本史』の編纂が開始されました。『大日本史』三九七巻は明治三九年(1906)に完成するのですが、白石はこの編纂事業に当初期待を寄せていました。しかし、その期待は裏切られ、友人の佐久間洞巌宛書簡の中で次のように厳しく批判しています(注)。

 「水戸でできた『大日本史』などは、定めて国史の誤りを正されることとたのもしく思っていたところ、むかしのことは『日本書紀』『続日本紀』などにまかせきりです。それではとうてい日本の実事はすまぬことと思われます。日本にこそ本は少ないかもしれないが、『後漢書』をはじめ中国の本には日本のことを書いたものがいかにもたくさんあります。また四百年来、日本の外藩だったとも言える朝鮮にも本がある。それを捨てておいて、国史、国史などと言っているのは、おおかた夢のなかで夢を説くようなことです。」(『新井白石全集』第五巻、518頁)

 日本古代史の真実を見極めるためには『日本書紀』『続日本紀』などの国内史料だけではなく、中国や朝鮮などの国外史料も参考にしなければならないという姿勢は、古田先生が中国史書の史料批判により九州王朝説を確立されたのと相通じる学問の方法です。江戸時代屈指の学者である白石ならではの慧眼です。比べて、日本古代史学界の現況は、白石がいうところの「おおかた夢のなかで夢を説くようなこと」をしている状態ではないでしょうか。(おわり)

(注)現代語訳は中央公論社刊『日本の名著第十五巻 新井白石』所収桑原武夫訳に拠った。