古賀達也一覧

第2134話 2020/04/13

「大宝二年籍」断簡の史料批判(10)

 わたしが古代戸籍研究に入った目的は、二倍年暦の痕跡調査のためでした。古田先生が『三国志』倭人伝に見える倭人の長寿記事(その人の寿考、或いは百年、或いは八・九十年)に着目され、弥生時代における倭国の二倍年暦(一年に二歳年をとる)の存在という仮説を提起され、その後、『古事記』『日本書紀』の天皇の長寿年齢も二倍年暦によるものが見られるとされました。その研究を受けて、日本列島でいつ頃まで二倍年暦が採用されていたのかを調査していて、古代戸籍にわたしは注目したのです。
 一応の目安としては、九州年号「継体」が建元(517年)された六世紀初頭には一倍年暦の暦法が採用されていたと考えられますが、他方、人の寿命についてはそれまでの二倍年暦に基づいた謂わば「二倍年齢」による年齢計算がなされていた可能性についても留意が必要でした。その場合、一倍年暦による暦法と「二倍年齢」による年齢表記が史料中に併存するはずと考えていました。その一例として、継体天皇の寿命が『古事記』では43歳、『日本書紀』では82歳と記されており、両書の差が「二倍年齢」によるものと考えられます。このことから、六世紀前半には「二倍年齢」の採用が継続されていたと思われます。
 そこで、次にわたしは六世紀後半から七世紀にかけての「二倍年齢」採用の痕跡を探るために、「大宝二年籍」断簡の年齢表記の精査を行いました。(つづく)


第2132話 2020/04/11

南秀雄さんから「研究紀要」を頂きました

 昨年6月、I-siteなんばで開催された古代史講演会(「古田史学の会」共催)で、「日本列島における五~七世紀の都市化 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地」というテーマで講演していただいた考古学者の南秀雄さん(大阪市文化財協会・事務局長)から『大阪市文化財協会 研究紀要 21号』(2020年3月)を御贈呈いただきました。
 同書には南さんらの論文「難波堀江の学際的検討」が掲載されています。同論文は『日本書紀』仁徳紀に記されている「難波堀江掘削」記事の実態に迫った学際的研究で、大阪の考古学者を始め地質学・堆積学・河川工学の研究者が参加されています。詳細については精読させていただいてから、紹介したいと思います。
 『古田史学会報』155号や「洛中洛外日記」の「法円坂巨大倉庫群の論理」1923~1927話(2019/06/16-20)でも触れましたが、昨年六月の南さんの講演で、わたしが特に注目したのは次の点でした。

 「古墳時代の日本列島内最大規模の都市は大阪市上町台地北端と博多湾岸(比恵・那珂遺跡)、奈良盆地の御所市南郷遺跡群であるが、上町台地北端と比恵・那珂遺跡は内政・外交・開発・兵站拠点などの諸機能を配した内部構造がよく似ており、その国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如くである。」

 古墳時代において、日本列島内最大規模の都市で七世紀には前期難波宮がおかれた大阪市上町台地北端と九州王朝の中枢地域である博多湾岸(比恵・那珂遺跡)が「国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如く」とする指摘は重要です。
 前期難波宮九州王朝複都説に反対される論者の中には、古代の筑紫と難波の関係を疑問視する意見もあるようですが、南さんら考古学者の指摘を無視することなく真摯に受け止めていただきたいと願っています。


第2131話 2020/04/10

「大宝二年籍」断簡の史料批判(9)

延喜二年『阿波国戸籍』を例に挙げて、古代戸籍における偽籍という問題と、その偽籍に「二倍年齢」による「年齢加算」の痕跡がある可能性について論じました。そして、古代戸籍にも史料批判が必要であり、そこに記された高齢表記をそのまま「実証」として、古代人の年齢の根拠とすることの学問的危険性について注意を促しました。
 そこでようやく本シリーズのテーマとした「大宝二年籍」断簡の史料批判に入ります。現存最古の戸籍である「大宝二年籍」は、延喜二年『阿波国戸籍』のような極端な偽籍はないようなのですが、それでもこれまでの研究では様々な問題点が指摘され、その解釈について諸説が出されています。特に、同じ大宝二年の造籍であるにもかかわらず、筑前・豊前の西海道戸籍と美濃国戸籍とでは様式が大きく異なっており、より規格が統一された西海道戸籍は大宰府により『大宝律令』に基づいて造籍され、美濃国戸籍は古い飛鳥浄御原令に基づいたとされています。(つづく)


第2127話 2020/04/06

「大宝二年籍」断簡の史料批判(8)

 延喜二年『阿波国戸籍』に古い「二倍年齢」の痕跡があることを紹介しましたが、実はこの時代にも民衆の間では「二倍年齢」で年齢計算されていたのではないかと思われる史料があります。それは、平安時代を代表する学者・詩人であり、有能な政治家でもあった菅原道真の漢詩「路遇白頭翁」(路に白頭翁に遇ふ)です。ちなみに菅原道真は、仁和二年(886)から寛平二年(890)までの四年間、讃岐国司の長官である「讃岐守(さぬきのかみ)」として讃岐で時を過ごしています。延喜二年(902)の造籍の十年ほど前で、ほぼ同時代の成立です。
 『菅家文草』に収録されている「路遇白頭翁」は、讃岐の国司となった道真と道で出会った白髪の老人との問答を漢詩にしたものです。その老人は自らの年齢を「九十八歳」と述べ、道真は次のように問います。
 「その年で若々しい顔なのはどのような仙術ゆえか。すでに妻子もなく、また財産もない。姿形や精神について詳しく述べよ。」

 すなわち、都から讃岐に赴任した道真には、道で出会った老人がとても「九十八歳」には見えなかったことがわかります。わたしはこの「路遇白頭翁」の年齢記事と延喜二年『阿波国戸籍』の超長寿者を根拠に、九~十世紀の讃岐や阿波には「二倍年暦」「二倍年齢」が遺存していたとする研究「西洋と東洋の二倍年暦 補遺Ⅱ」を「古田史学の会」関西例会(2003年4月19日)で発表したことがあります。その論証や結論に自信がなかったこともあり、今まで論文発表してきませんでした。今回のテーマで延喜二年『阿波国戸籍』について論じたこともあり、「洛中洛外日記」で紹介することにしました。(つづく)

【「路遇白頭翁」口語訳】
 ※ブログ「山陰亭」より引用させていただきました(句読点は古賀が付記)。

「道で白髪頭の老人に出会う」

 道で白髪頭の老人に出会う。頭髪は雪のように白いのに、顔は(若者のように)赤味を帯びている。
 自ら語る。
 「歳は九十八歳。妻も子もなく、貧しい一人暮らし。茅で葺いた柱三間の貧居が南の山のふもとにあり、(土地を)耕しもせず商いもせず、雲と霧の中で暮らしております。財産としては家の中に柏の木で作った箱が一つ。箱の中にあるのは竹籠一つでございます。」
 老人が話を終えたので、私は問うた。
 「その年で若々しい顔なのはどのような仙術ゆえか。すでに妻子もなく、また財産もない。姿形や精神について詳しく述べよ。」
 老人は杖を投げ出して(私が乗っている)馬の前で一礼し、丁寧に(私の言葉を)受けて語る。
 「(それでは私が元気な)理由をお話し致します。(今から十年ほど前の)貞観の末、元慶の始め(の頃は)、政治に慈悲(の心)はなく、法律も不公平に運用されていました。旱魃が起きても(国司は減税措置を取るよう朝廷に)申請することもせず、疫病で死ぬ者がいても(役人は食料を援助して)哀れむことはありませんでした。(かくして国内全域が荒廃し)四万余りの民家にいばらが生え、十一県に炊事の煙が立たなくなりました。
 (しかし)偶然(ある)太守に出会いました。(それは)「安」を姓とする方〈現在の上野介(安倍興行)のことである〉(安様は)昼夜奔走して村々を巡視されました。(すると)はるばる名声に感じ入って、(課税を逃れて他国へ)逃亡した者も帰還し、広く物品を援助し、疲弊した者も立ち上がりました。役人と民衆が向かい合い、下の者は上の者をたっとび、老人と若者が手をつなぎ合い、母は子(の孝行心)を知りました。
 さらに太守を得ました。(それは)「保」を名に持つ方〈現在の伊予守(藤原保則)のことである〉(彼は)横になったまま滞ることなく政務を執り、国内は平和になりました。春は国内を巡視しなくとも生気が隅々まで届き、秋は実り具合を視察しなくても豊作となりました。天が二つに袴が五本と通りには称讃の言葉。黍はたわわに麦はふた股と、道には(喜びの)声。
 翁めは幸運にも保様と安様の徳に出会い、妻がおらずとも耕さずとも心はおのずと満ち足りております。隣組の人が衣服を提供してくれますので、体はとても温かく、近所の人と一緒に食事をしますので食べ物にも事欠きません。楽しみはその(貧しいながら悠々自適の生活の)中にあって、憂いや憤懣を断ち、心中には余計な思いもなく、体力を増します。(それゆえ)鬢(耳周辺の髪)のあたりが白くなることにも気付かず、自然と顔が(若々しく)桃色になるのです。」と。
 私は 老人の語った言葉を聞き、礼を述べて老人を帰らせ(話の内容を)振り返って思う。「安」を姓とする人には私の兄の(ような)恩義がある。「保」を名に持つ人には私の父の(ような)慈愛がある。(この国には)すでに父兄の恩愛が残っている。どうか(私も彼等の)積み重ねた善行(の遺産)によって上手く治めたいものだ。(だが)とりわけ昔どおりには行かないのはどの事柄だろう。
 (詩の題材となる)明るい月や春の風は時世にそぐわない。(興行殿の)奔走をまねようとしても身体が皆ままならず、(保則殿の)臥聴に倣おうとしても(そこまで)年齢を重ねていない。その他の政治の手法にも変更がないことはないだろう。奔走する合間に私は(政務の一端として)詩を詠もう。


第2126話 2020/04/05

「大宝二年籍」断簡の史料批判(7)

 延喜二年(902)『阿波国戸籍』には各種の偽籍がなされていると考えられます。たとえば、班田の没収を避けるため、死亡者を除籍せずに年齢加算し登録するという偽籍による高齢者の「増加」現象。兵役や徴用を逃れるために男子を戸籍に登録しない、あるいは女性として登録するという偽籍による女性比率の「増加」現象。そして、婚姻による他家への転籍者を除籍せず、班田を維持するための偽籍による高齢女性の「増加」現象。更には、班田受給年齢の六歳にはやく到達するため、「二倍年齢」による年齢加算という偽籍による幼年者「減少」現象などの痕跡が見て取れます。
 「粟凡直成宗」の戸(家族)の戸主の両親(父98歳、母107歳)が飛び抜けた超長寿として偽籍されている理由は不明ですが、父が「従七位下粟凡直田吉」として登録されていることから、「従七位下」という位階を持つために偽籍されたのかもしれません。この偽籍によりどのようなメリットがあるのかはわかりませんが、たとえば五位以上であれば「位田」が受給できますから、「従七位下」でも何らかの特典があったのかもしれません。今後の研究テーマにしたいと思います。
 延喜二年『阿波国戸籍』のように、偽籍が顕著に認められるケースもあれば、それほどでもない戸籍もあります。しかし、古代戸籍を歴史研究の史料として使用する場合は、この偽籍の可能性を充分に検討したうえで使用しなければなりません。文献史学における基本作業としての「史料批判」が古代戸籍にも不可欠なのです。すなわち、「史料批判」というどの程度真実が記されているのかという基本調査が必要です。ある古代戸籍に長寿者が記録されているという「史料事実」を無批判に採用して、その時代の寿命の根拠とすることは学問的手続きを踏んでおらず、その結論は学問的に危ういものとなるからです。(つづく)


第2125話 2020/04/04

「大宝二年籍」断簡の史料批判(6)

延喜二年(902)『阿波国戸籍』に見える「粟凡直成宗」の戸(家族)の戸主の両親(父98歳、母107歳)の超長寿は、少年期における「二倍年齢」計算による偽籍(年齢操作)を想定すれば説明が一応は可能と考えました。すなわち、両親が幼少期の頃は律令に規定された暦法(一倍年暦)とは別に、古い二倍年暦を淵源とする「二倍年齢」という年齢計算法が記憶されており、阿波地方の風習として存在していたのかもしれないとしました。この推定と類似した現象が南洋のパラオに遺っていることを古田先生が紹介されています。
 『古代史の未来』(明石書店、1998年)の「24 二倍年暦」において、古田先生は古代日本や中国で採用された二倍年暦の発生地を南太平洋領域(パラオ)とされ、「パラオ→日本列島→黄河領域」という二倍年暦の伝播ルートを提唱されました。そして、「25 南方民族征服説」ではパラオに現存する墓石の写真を掲載し、「パラオの習俗(二倍年暦) ― 墓石に1826生、1977没」と紹介されています。古田先生からお聞きしたのですが、パラオでは近年でも年齢を「二倍年齢」で計算する習俗が遺っており、この墓石のケースでは、1977年に「二倍年齢」の151歳(一倍年暦での75.5歳)で没した人の生年を、一倍年暦での151歳と誤解して逆算し、その結果、「1826生」と墓石に記されたものと考えられます。
 このように、新しい一倍年暦と古い習俗「二倍年齢」が併存している社会(パラオ)ではこのような現象が発生しうるのです。延喜二年『阿波国戸籍』の超長寿表記も、偽籍と共にこの可能性も考慮する必要があるのです。(つづく)


第2124話 2020/04/03

「大宝二年籍」断簡の史料批判(5)

 延喜二年(902)『阿波国戸籍』に見える長寿者の多さを、二倍年暦を淵源とする「二倍年齢」表記として説明することは困難と一旦は考えたのですが、たとえば同戸籍中に見える「粟凡直成宗」の戸(家族)を精査すると、戸主(粟凡直成宗)の両親(父98歳、母107歳)だけが存在し得ないような長寿であることから、没後も班田没収を避けるため除籍せず、造籍時に年齢加算して登録するという偽籍が為されたと考えざるを得ません。しかし、両親以外の家族の年齢は通常の一倍年暦による年齢構成であることから、何らかの年齢操作が両親を中心に行われたようにも思われます。更に、両親とその子供たちとの年齢も離れすぎており、不自然でした。
 そこで一案として、両親が成人する頃までは「二倍年齢」で年齢表記がなされ、その後は通常の一倍年暦により造籍時に年齢加算登録されたというケースを推定してみました。具体的には次のようです。
 戸主の姉(宗刀自賣。長女か)の年齢が68歳ですから、母の出産年齢は107-68=39歳です。これが「二倍年齢」表記であれば半分の19.5歳であり、初産年齢(長女を出産)として問題ないと思われます。
 次に長女(宗刀自賣)と二人目の子供である長男(戸主)の年齢差が11歳ありますので、やや間が開いているように思われます。そこで、長女の年齢もしばらくは「二倍年齢」で計算されていたと考えれば、その年齢差は5.5歳となり、ややリーズナブルとなります。もちろん両者の誕生の間に兄弟姉妹が生まれていたが、延喜二年の造籍時には亡くなっていたケースもありますので、実際に11歳差だったのかもしれません。
 このような少年期の「二倍年齢」計算による偽籍(年齢操作)を想定すれば、戸主の両親のみの超長寿の説明が一応は可能です。もしそうであれば、両親が幼少期の頃は律令に規定された暦法(一倍年暦)とは別に、古い二倍年暦を淵源とする「二倍年齢」という年齢計算法が記憶されており、阿波地方の風習として存在していたのかもしれません。現代日本でも、わたしが子供の頃には「満年齢」と「数え年齢」が併存していたようにです。(つづく)

【延喜二年『阿波国戸籍』、「粟凡直成宗」の戸】
戸主 粟凡直成宗 57歳
父(戸主の父) 従七位下粟凡直田吉 98歳
母(戸主の母) 粟凡直貞福賣 107歳
妻(戸主の妻) 秋月粟主賣 54歳
男(戸主の息子) 粟凡直貞安 36歳
男(戸主の息子) 粟凡直浄安 31歳
男(戸主の息子) 粟凡直忠安 29歳
男(戸主の息子) 粟凡直里宗 20歳
女(戸主の娘) 粟凡直氏子賣 34歳
女(戸主の娘) 粟凡直乙女 34歳
女(戸主の娘) 粟凡直平賣 29歳
女(戸主の娘) 粟凡直内子賣 29歳
孫男(戸主の孫) 粟凡直恒海 14歳
孫男(戸主の孫) 粟凡直恒山 11歳
姉(戸主の姉) 粟凡直宗刀自賣 68歳
妹(戸主の妹) 粟凡直貞主賣 50歳
妹(戸主の妹) 粟凡直宗継賣 50歳
妹(戸主の妹) 粟凡直貞永賣 47歳
(後略)


第2121話 2020/03/28

「大宝二年籍」断簡の史料批判(4)

 平田耿二さんは著書『日本古代籍帳制度論』(1986年、吉川弘文館)において、延喜二年(902)『阿波国戸籍』に見える長寿者の多さ、そして若年層と成人男子の少なさは、約三十年間に及ぶ「偽籍」という行為(死亡者の除籍を行わなかった)とその後の約四十年間に出生者の戸籍登録を徐々に行わなくなった結果であるとされました。それは延喜二年(902)に至る七十年間の造籍時(六年毎に造籍を実施)に「不正戸籍登録」が、それこそ「地方官僚」ぐるみで実施されたことを意味します。もはや中央政府の権威や権力が地方(阿波国)に及んでいなかったことを同戸籍は示しているのではないでしょうか。
 わたしは平田さんの研究を知り、同戸籍を「二倍年齢」の痕跡とする論文発表を断念しました。もし、これら先行研究を調べもせずに発表していたらと思うと、ぞっとします。まさに冷や汗ものでした。
 ところが、同戸籍に記された各戸の家族構成とその年齢を精査してみると、単に死亡者の年齢を造籍時に加算するという「偽籍」操作だけでは説明しにくい家族の存在に気づきました。たとえば次の「粟凡直成宗」の戸(家族)です。

戸主 粟凡直成宗 57歳
父(戸主の父) 従七位下粟凡直田吉 98歳
母(戸主の母) 粟凡直貞福賣 107歳
妻(戸主の妻) 秋月粟主賣 54歳
男(戸主の息子) 粟凡直貞安 36歳
男(戸主の息子) 粟凡直浄安 31歳
男(戸主の息子) 粟凡直忠安 29歳
男(戸主の息子) 粟凡直里宗 20歳
女(戸主の娘) 粟凡直氏子賣 34歳
女(戸主の娘) 粟凡直乙女 34歳
女(戸主の娘) 粟凡直平賣 29歳
女(戸主の娘) 粟凡直内子賣 29歳
孫男(戸主の孫) 粟凡直恒海 14歳
孫男(戸主の孫) 粟凡直恒山 11歳
姉(戸主の姉) 粟凡直宗刀自賣 68歳
妹(戸主の妹) 粟凡直貞主賣 50歳
妹(戸主の妹) 粟凡直宗継賣 50歳
妹(戸主の妹) 粟凡直貞永賣 47歳
(後略)

 この戸主の粟凡直成宗(57歳)の両親(父98歳、母107歳)の年齢と、その子供たちの年齢(47~68歳)が離れすぎており、もしこれが事実なら、母親はかなりの「高齢出産」(出産年齢39~60歳)を続けたことになります。このような「高齢出産」は考えにくいため、この戸主の両親の年齢は、没後に年齢加算し続けたとする単純な「偽籍」ではうまく説明できないのです。そこで、わたしはこの両親の年齢は「二倍年齢」あるいは「二倍年齢」加算の結果ではないかと考えました。(つづく)


第2120話 2020/03/26

「大宝二年籍」断簡の史料批判(3)

 延喜二年(902)『阿波国戸籍』に見える、当時としては有り得ないような多くの長寿者は「二倍年齢」表記によるものではないかと考えたわたしは、古代戸籍に関する先行研究を調査しました。そうすると、律令支配体制が形骸化していた九~十世紀頃には、班田収受で得られた田畑の所有権を維持するために、造籍時に死亡者の除籍を届け出ず、年齢を書き加えて生きていることにするという「偽籍」行為が頻出していたことが研究により判明していることを知りました。研究の結論は当然のことながら、延喜二年『阿波国戸籍』に見える「高齢者」たちは既に亡くなっており、戸籍に登録されているからといって、その当時に長寿者がいたと判断することはできないというものでした。
 そこで、『阿波国戸籍』の長寿表記が「偽籍」という行為(死亡者の除籍を行わなかった)の結果なのか、「二倍年齢」表記によるものなのかを検討してみました。その結論は、「二倍年齢」表記と考えることは困難ではないかというものでした。たとえば、同戸籍から親子関係(特に母子関係)がわかる人物があり、もし「二倍年齢」であればその年齢差は、おおよそ一世代を二十年とするなら、二倍表記で四十歳ほどの年齢差が多いはずです。しかし、実際は通常の一世代差の二十歳差くらいでした。例えば八十歳の高齢者の子供の年齢が六十歳という具合です。もし「二倍年齢」であれば、八十歳(一倍年齢の四十歳)の親と四十歳(一倍年齢の二十歳)の子供というような年齢表記差になるはずですが、そうではありませんでした。
 また同戸籍の「偽籍」の痕跡として、子供や成人男子の数が極めて少ないということがあげられます。これも徴用・徴兵という義務から逃れるために、男子の戸籍登録をしなかったと推定されています。こうして、「偽籍」という概念により、長寿表記の謎が解決したと思われたのですが、更に同戸籍の年齢を精査すると、事態は複雑な問題へと発展しました。(つづく)


第2119話 2020/03/25

「大宝二年籍」断簡の史料批判(2)

 わたしが古代戸籍に関心を抱いた理由は、各種史料に見える古代人の長寿記事(二倍年齢表記)の存在により、「二倍年暦」の痕跡が古代戸籍に残っているのではないかという作業仮説(思いつき)が発端でした。具体的には、延喜二年(902)成立の『阿波国戸籍』に当時としては有り得ないような多くの長寿者が記されており、阿波国ではこの時代まで「二倍年齢」表記が残存していたのではないかと疑ったのが研究の始まりでした(暦は一倍年暦の時代)。その年齢分布は次の通りです。

 【延喜二年阿波国戸籍】
年齢層  男 女 合計  (%)
1~ 10 1 0 1 0.2
11~ 20 5 1 6 1.5
21~ 30 8 15 23 6.6
31~ 40 4 34 38 9.3
41~ 50 8 71 79 19.2
51~ 60 2 61 63 15.3
61~ 70 1 70 71 17.3
71~ 80 8 59 67 16.3
81~ 90 6 34 40 9.7
91~100 5 13 18 4.4
101~110 1 3 4 1.0
111~120 1 0 1 0.2
 合計 50 361 411 100.0

※出典:平田耿二『日本古代籍帳制度論』1986年、吉川弘文館

同戸籍はこのような現代日本社会以上の高齢者分布を示しており、高齢層の寿命はとても十世紀初頭の日本人の一般的な寿命とは考えられません。そこで、わたしはこの高齢表記を二倍年暦を淵源とする「二倍年齢」ではないかと考えたわけです。すなわち、暦法は一倍年暦に変更されても、人の年齢計算は一年で二歳とする、古い「二倍年齢」表記が阿波国では継続採用されていたのではないかと思ったのでした。ところがこれが大きな思い違い。早とちりでした。(つづく)


第2118話 2020/03/23

映画「ちはやふる」での「難波津の歌」

 先日、映画「ちはやふる -結び-」(2018年公開、同シリーズ2作目)をテレビで視ました。広瀬すずさん主演のこの映画は競技カルタと高校カルタ部という斬新な舞台設定で、青春映画として人気を博した作品です。原作は末次由紀さんによる同名のコミックで、映画脚本もよく練られていました。何よりも広瀬すずさんの可愛さと若さ、そしてカルタに挑む真剣な表情が全面的に表現されており、おりからの新型ウィルス騒動をしばし忘れさせてくれました。
 競技カルタといえば、近江神宮で毎年大会が開催されていることぐらいしかわたしは知らなかったのですが、映画の中でルール解説などもあり、勉強になりました。何よりも、競技開始のとき、最初に詠まれるのが古代史でも有名な「難波津の歌」であることを知り、感銘を受けました。その他の著名な和歌も詠まれており、いくつかは諳(そら)んじることができました。
 特に映画のタイトルでもある「ちはやふる」、そして「難波津の歌」は九州王朝研究でも注目されてきた古歌で、わたしも三十代の頃に研究テーマとしてきたものです。古田先生との共著『「君が代」うずまく源流』(新泉社、1991年)に掲載された拙稿「『君が代』『海行かば』、そして九州王朝」は「難波津」博多湾岸説に立った論文で、論証は拙いのですが、わたしにとって初めての著作であり、とても懐かしく大切な一冊です。
 そんなこともあって、映画「ちはやふる」を視て、三十年前のことをいくつも思い出しました。

《難波津の歌》『古今和歌集』仮名序
 難波津に 咲くやこのはな 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花 〈王仁〉
 ※競技カルタでは「今を春べと」と詠まれるそうです。

《「ちはやふる」の歌》『万葉集』巻七(1230)
 ちはやぶる 鐘の岬を過ぎぬとも 我は忘れじ 志賀の皇神(すめかみ) 〈作者未詳〉
 ※映画のタイトルは「ちはやふる」ですが、この歌は「ちはやぶる」と詠まれてきました。

《「ちはやふる」の歌》『古今和歌集』「小倉百人一首」
 ちはやふる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは  〈在原業平〉
 ※こちらは「ちはやふる」とされていますから、映画タイトルはこの歌に従ったものと思われます。


第2117話 2020/03/22

「大宝二年籍」断簡の史料批判(1)

 3月17日、京都駅前のキャンパスプラザ京都で開催された「市民古代史の会・京都」主催の講演会で、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が古代の「二倍年暦」について講演されました。古田先生が倭人伝研究で存在を明らかにされた「二倍年暦」について紹介され、その影響や痕跡が現代日本にも残っていることなどを資料に基づいて、初めて聞く人にもわかりやすく説明されました。
 そのとき紹介された古代史料に御野国(美濃国)の「大宝二年籍」断簡がありました。同戸籍断簡は、わが国に現存する最古(大宝二年、702年)の戸籍の一つで、御野国の他に筑前国と豊前国の大宝二年戸籍断簡が正倉院文書として残っており、当時の家族制度研究における基礎史料とされています。わたしも25年ほど前に古代戸籍研究を行ったことがあるのですが、勘違いや試行錯誤しながらの研究でした。良い機会ですので、当時の失敗談も含めて、古代戸籍の史料批判の難しさなどについて紹介することにします。(つづく)