藤原京一覧

第1458話 2017/07/16

前期難波宮「天武朝」造営説への問い(8)

 前期難波宮と藤原宮の差は出土土器の年代だけではありません。それは一元史観の学界でも論争が続いた都城様式差という問題です。
 倭国(九州王朝)も大和朝廷も王宮や王都の設計にあたり、中国の様式を取り入れているのですが、王宮には律令官制を前提とした左右対称の朝堂院様式が前期難波宮に最初に採用されています。王都(都城)についても条坊制の街区を太宰府や前期難波宮(後期難波宮からとする説もあります)、藤原京(『日本書紀』は新益京とする)、更には平城京・平安京に採用されています。そして、条坊都市の北側に王宮を置く「北闕型」と条坊都市の中央に置く「周礼型」が採用されています。
 この王宮を条坊都市の北に置くのか中央に置くのかは、その造営者の政治思想が反映していると考えられており、古田先生は「北闕型」を北を尊しとする「北朝様式」と見なされていました。本テーマで問題としている前期難波宮は上町台地の北端に位置し、「北闕型」の王都ですが、藤原宮は中央に王宮を置く「周礼型」で、この違いは両者の政治思想の差を反映していると考えざるを得ません。
 したがって、前期難波宮「天武朝」造営説では、同時期に政治思想が異なる都城、前期難波宮と藤原宮を天武は造営したことになり、そのことの合理的な説明ができません。このように、前期難波宮(京)と藤原宮(京)の都城様式の違いを、前期難波宮「天武朝」造営説では説明できないのです。このこともわたしは指摘してきたのですが、「天武朝」造営説論者からの応答はありません。なぜでしょうか。(つづく)


第1376話 2017/04/24

『古田武彦の古代史百問百答』百考(1)

 古田武彦先生が亡くなられて一年半が過ぎました。わたし自身の気持ちの整理も少しずつついてきましたので、古田先生の学問学説やその基底をなしたフィロロギーなど学問の方法について振り返る時間が増えてきた昨今です。
 中でも晩年の古田先生の学説や学問的関心事などを要領よくまとめられた『古田武彦の古代史百問百答』(東京古田会編、ミネルヴァ書房刊。2015年4月)を集中して読み直しています。今回、あらためて気づいたことや懐かしく蘇った記憶についてご紹介していきたいと思います。

 同書223頁に次のような記述があります。わたしはここを読んで、当時の情景をはっきりと思い出しました。

 「その間、藤原宮の大極殿問題を発端とする、古賀達也氏(古田史学の会)との(論争的)応答や西村秀己氏(同上)の(「七〇一」禅譲)説などが、大きな刺激となりました。改めて、詳述の機を得たいと思います。」(223頁)

 古田先生のいう(論争的)応答とは、藤原宮の中心部を神社(鴨公神社が鎮座)と見るのか、王宮(701年以後は大極殿)と見るのかという数回にわたる応答でした。双方相譲らず、という結果だったと記憶しています。古田先生が亡くなられる10年ほど前から、わたしは様々なテーマで先生と意見交換を行いました。ときに激しい論争となったことも何回かありました。もちろん、先生に対して礼儀正しく応答したつもりですが、うるさがられたことでしょう。今となっては懐かしい思い出であり、得難い経験でした。
 古田先生は藤原宮の考古学的復元図に対して、大極殿は現代の学者による作図であり、現地にあるのは鴨公神社だと考えておられました。そのことが314頁に次のように記されています。

 「藤原京、難波京、近江京には大極殿はありません。藤原京、難波京共にあるべきであろうと思われる位置に、学者が作図して公にされています。藤原京はその位置には鴨公神社があります。大極殿の記録伝承はありません。近江京も当然無いと考えています。」(314頁)

 これに対して、藤原宮は発掘調査が行われており、その出土事実に基づいて復元図が作成されているとわたしは反論し、中公新書『藤原京』(木下正史著、2003年)を紹介しました。その後、古田先生との応答で、701年以降であれば文武天皇等が藤原宮の宮殿を「大極殿」と呼んだ可能性もあるということで、両者納得するに至りました。
 こうした古田先生との(論争的)応答の詳細については、わたしは今まで文章にすることはほとんどありませんでした。もし公にしたら、「古田と古賀が対立している」などとネットなどで反古田派による古田バッシングの材料に悪用されるのは目に見えていたからです。また、古田先生と異なる意見をわたしが発表すると、本来であれば純粋な学問論争ですので何の問題もないはずなのですが、非難される懸念もありましたので、こうしたテーマは慎重に取り扱ってきました。
 『古田武彦の古代史百問百答』でも次のように古田先生は記されています。

 「なかでも、印象に残ったのは、村岡さんの敬愛した本居宣長について、
 『本居さんは言っています。「師の説に、な、なづみそ。」と。自分の先生の説に“こだわる”な、と言うのです。それが学問なんですね。』
という言葉は、くりかえし聞きました。
 これが、わたしの村岡さんから学んだ『学問の精神』です。昨年(二〇〇五年)『新・古代学』(新泉社)の第八集(最終号)に載せた『村岡学批判』は、その表現です。
 もっとも、『師の意見』(A)と『師に反した自分の意見』(B)と、いずれが是か。それは後代の研究史が明らかにすることでしょう。
 慎重に、心をこめて、これをなすべきこと、それは当然のことです。」(344〜345頁)

 『古田武彦の古代史百問百答』百考をこれから連載するにあたり、慎重に、心をこめて、これをなしたいと思います。(つづく)


第1285話 2016/10/13

『古田史学会報』136号のご案内

 『古田史学会報』136号が発行されましたので、ご紹介します。

 本号には九州王朝都城論に関する基本的で重要な論稿が掲載されました。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の「古代の都城 -宮域に官僚約八千人-」です。7世紀における律令制度に基づく全国支配に必要な宮域(王宮・官衙)の規模を、『養老律令』に記載された中央官僚定員数や平安京や前期難波宮の宮域を図示し、八千人にも及ぶ官僚を収容できることが必要条件であると指摘されました。

 この服部さんの指摘により、今後、律令時代の九州王朝の都城候補を論ずるときは、これだけの規模の王宮・官衙遺構の考古学的出度事実の提示が不可欠となったのです。この規模の都城遺構を提示できないいかなる仮説も成立しません。ちなみに、この規模を有す7世紀における王都は太宰府と前期難波宮(難波京)、そして藤原宮(新益京)だけです。近江大津宮は王宮の規模は巨大ですが、周囲の都市化が進んでいるためか官衙遺構や条坊都市は未発見です。

 わたしからは「九州王朝説に刺さった三本の矢(中編)」と「『肥後の翁』と多利思北孤」を発表しました。九州王朝の兄弟統治の一例として、筑後の多利思北孤と鞠智城にいた「肥後の翁」を兄弟の天子とする仮説です。

 西村秀己さん(『古田史学会報』編集部)は古代官道南海道の変化が、九州王朝から大和朝廷への王朝交代に基づくことを報告されました。とても面白いテーマです。

 上田市の吉村八洲男さんは『古田史学会報』初登場です。古代信濃国の多元史観による研究です。このテーマは「多元的古代研究会」や「東京古田会」では活発に論議されています。「古田史学の会」でも関心が深まることが期待されます。

 136号に掲載された論稿・記事は次の通りです。

『古田史学会報』136号の内容
○古代の都城 -宮域に官僚約八千人- 八尾市 服部静尚
○「肥後の翁」と多利思北孤 -筑紫舞「翁」と『隋書』の新理解- 京都市 古賀達也
○「シナノ」古代と多元史観 上田市 吉村八洲男
○九州王朝説に刺さった三本の矢(中編) 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学Ⅵ 倭国通史私案②
九州王朝(銅矛国家群)と銅鐸国家群の抗争  古田史学の会・事務局長 正木裕
○〔書評〕張莉著『こわくてゆかいな漢字』 奈良市 出野正
○南海道の付け替え 高松市 西村秀己
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○『邪馬壹国の歴史学』出版記念福岡講演会のお知らせ
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己


第808話 2014/10/23

「老司式瓦」から

 「藤原宮式瓦」へ

 図書館で山崎信二著『古代造瓦史 -東アジアと日本-』(2011年、雄山閣)を閲覧しました。山崎さんは国立奈良文化財研究所の副所長などを歴任された瓦の専門家です。同書は瓦の製造技術なども丁寧に解説してあり、良い勉強になりました。
 同書は論述が多岐にわたり、理解するためには何度も読む必要がある本ですが、その中でわたしの目にとまった興味深い問題提起がありました。それは次の一節です。

 「このように筑前・肥後・大和の各地域において「老司式」「藤原宮式」軒瓦の出現とともに、従来の板作りから紐作りへ突然一斉に変化するのであ る。これは各地域において別々の原因で偶然に同じ変化が生じたとは考え難い。この3地域では製作技法を含む有機的な関連が相互に生じたことは間違いないと ころである。」(258頁)

 このように断言され、「そこで、まず大和から筑前に影響を及ぼしたとして(中略)老司式軒瓦の製作開始は692~700年の間となるのである。 (中略)このように、老司式軒瓦の製作開始と藤原宮大極殿瓦の製作開始とは、ほぼ同時期のものとみてよいのである。」とされたのです。ここに大和朝廷一元史観に立つ山崎さんの学問的限界を見て取ることができます。すなわち、逆に「筑前から大和に影響を及ぼした」とする可能性やその検討がスッポリと抜け落ちているのです。
 九州の考古学者からは観世音寺の「老司1式」瓦が「藤原宮式」よりも先行するという見解が従来から示されているのですが、奈良文化財研究所の考古学者には「都合の悪い指摘」であり、見えていないのかもしれません。ちなみに、山崎さんが筑前・肥後・大和の3地域の「有機的関連」と指摘されたのは軒瓦の製作 技法に関することで、次のように説明されています。

 「筑前では、「老司式」軒瓦に先行する福岡市井尻B遺跡の単弁8弁蓮華文軒丸瓦・丸瓦・平瓦では板作りであるが、観世音寺の老司式瓦では紐作りとなり、筑前国分寺創建期の軒平瓦では板作りとなる。
 肥後では、陣内廃寺出土例をみると、創建瓦である単弁8弁蓮華文軒丸瓦、重弧文軒平瓦では板作りであり、老司式瓦では紐作りとなり、その後の均整唐草文軒平瓦の段階でも紐作りが存続している。
 大和では、飛鳥寺創建以来の瓦作りにおいて板作りを行っており、藤原宮の段階において、初めて偏行唐草文軒平瓦の紐作りの瓦が多量に生産される。また、藤原宮と時期的に併行する大官大寺塔・回廊所用の軒平瓦6661Bが紐作りによっている。」(258頁)

 ここでいわれている「板作り」「紐作り」というのは瓦の製作技法のことで、紐状の粘土を木型に張り付けて成形するのが「紐作り」で、板状の粘土を木型に張り付けて成形するのが「板作り」と呼ばれています。山崎さんの指摘によれば、初期は「板作り」技法で、その後に「紐作り」技法へと変化するのですが、その現象が筑前・肥後・大和で「突然一斉に変化する」という事実に着目され、この3地域は有機的な関連を持って生じたと断定されたのです。
 この事実は九州王朝説にとっても重要であり、九州王朝説でなければ説明できない事象と思われるのです。列島の中心権力が筑紫から大和へ交代したとする九州王朝説であれば、うまく説明できますが、山崎さんらのような大和朝廷一元史観では、なぜ筑前・肥後と大和にこの現象が発生したのかが説明できませんし、 現に山崎さんも説明されていません。
 影響の方向性もおかしなもので、なぜ大和から筑前・肥後への影響なのかという説明もなされていません。わたしの研究によれば影響の方向は筑紫から大和です。なぜなら観世音寺の創建が670年(白鳳10年)であることが史料(『勝山記』他)から明らかになっていますし、これは観世音寺の創建瓦「老司1式」 が「藤原宮式」よりも古いという従来の考古学編年にも一致しています。
 したがって、筑前・肥後・大和の瓦製作技法の「有機的相互関連」を示す「突然の一斉変化」こそ、王朝交代に伴い九州王朝の瓦製作技法が大和に伝播し、藤原宮大極殿造営(遷都は694年)のさいに採用されたということになるのです。このように、山崎さんが注目された事実こそ、九州王朝説を支持する考古学的史料事実だったのです。


第692話 2014/04/11

近畿天皇家の律令

 第691話で、 藤原宮で700年以前の律令官制の官名と思われる木簡「舎人官」「陶官」が出土していることを紹介しましたが、実はこのことは重大な問題へと進展する可能性を示しています。すなわち、藤原宮の権力者は「律令」を有していたという問題です。一元史観の通説では、これを「飛鳥浄御原令」ではないかとするのですが、九州王朝説の立場からは「九州王朝律令」と考えざるを得ないのです。
 たとえば、威奈大村骨蔵器銘文には「以大宝元年、律令初定」とあり、近畿天皇家にとっての最初の律令は『大宝律令』と記されています。この金石文の記事を信用するならば、700年以前の藤原宮で採用された律令は近畿天皇家の律令ではなく、「九州王朝律令」となります。そうすると、当時の日本列島では最大規模の朝堂院様式の宮殿である藤原宮で「九州王朝」律令が採用され、全国統治する官僚組織(「舎人官」「陶官」など)が存在していたことになります。ということは、藤原宮は「九州王朝の宮殿」あるいは「九州王朝になり代わって全国統治する宮殿」ということになります。「藤原宮には九州王朝の天子がいた」と する西村秀己説の検討も必要となりそうです。
 九州王朝の実像を解明るためにも、藤原宮出土木簡の研究が重要です。わたしは「多元的木簡研究会」の創設を提起していますが、全国の古田学派研究者の参画をお待ちしています。


第691話 2014/04/08

近畿天皇家の宮殿

 このところ特許出願や講演依頼(繊維機械学会記念講演会)を受け、その準備などで時間的にも気持ち的にも多忙な日々が続いています。若い頃よりもモチベーション維持に努力が必要となっており、こんなことではいけないと自らに言い聞かせている毎日です。

 さて、701年を画期点とする九州王朝から近畿天皇家への王朝交代の実体について、多元史観・古田学派内でも諸説が出され、白熱した論議検討が続けられています。「古田史学の会」関西例会においても「禅譲・放伐」論争をはじめ、様々な討議が行われてきました。
 そこで、701年以前の近畿天皇家の実体や実勢を考える上で、その宮殿について実証的に史料事実に基づいて改めて検討してみます。もちろん『日本書紀』 の記事は、近畿天皇家の利害に基づいて編纂されており、そのまま信用してよいのかどうか、記事ごとに個別に検討が必要であること、言うまでもありません。 従って、金石文・木簡・考古学的遺構を中心にして考えてみます。
 『日本書紀』の記事との関連で、700年以前の近畿天皇家の宮殿遺構とされているものには、「伝承飛鳥板葺宮跡」(斉明紀・天武紀)、「前期難波宮遺 構」(孝徳紀)、「近江大津宮遺構(錦織遺跡)」(天智紀)、「藤原宮遺構」(持統紀)などがよく知られています。「前期難波宮」と「近江大津宮」については、九州王朝の宮殿ではないかとわたしは考えていますので、近畿天皇家の宮殿とすることについて大きな異論のない「伝承飛鳥板葺宮跡」と「藤原宮遺構」 について今回は検討してみます(西村秀己さんは、「藤原宮」には九州王朝の天子がいたとする仮説を発表されています)。
 幸いにも両宮殿遺構からは多量の木簡が出土しており、両宮殿にいた権力者の実像が比較的判明しています。たとえば「伝承飛鳥板葺宮跡」の近隣にある飛鳥池遺跡から出土した木簡には「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」などと共に、「詔」の字が記されたものも出土していることから、その地の権力者 は「天皇」を名乗り、「詔勅」を発していたことが推測されます。
 「藤原宮遺構」からは700年以前の行政単位である「評」木簡が多数出土しており、その「評」地名から、関東や東海、中国、四国の各地方から藤原宮へ荷物(租税か)が集められていたことがわかります。これらの史料事実から、700年以前の7世紀末に藤原宮にいた権力者は日本列島の大半を自らの影響下にお いていたことが想定できます。
 その藤原宮(大極殿北方の大溝下層遺構)からは700年以前であることを示す「評」木簡(「宍粟評」播磨国、「海評佐々理」隠岐国)や干支木簡(「壬午年」「癸未年」「甲申年」、682年・683年・684年)とともに、大宝律令以前の官制によると考えられる官名木簡「舎人官」「陶官」が出土しており、 これらの史料事実から藤原宮には全国的行政を司る官僚組織があったことがわかります。7世紀末頃としては国内最大級の礎石造りの朝堂院や大極殿を持つ藤原宮の規模や様式から見れば、そこに全国的行政官僚組織があったと考えるのは当然ともいえます。
 こうした考古学的事実や木簡などの史料事実を直視する限り、701年以前に近畿天皇家の宮殿(「伝承飛鳥板葺宮跡」「藤原宮遺構」)では、「詔勅」を出したり、おそらくは「律令」に基づく全国的行政組織(官僚)があったと考えざるを得ないのです。九州王朝から近畿天皇家への王朝交代について論じる際は、 こうした史料事実に基づく視点が必要です。


第597話 2013/09/19

文字史料による「評」論(2)

 今、上海の浦東国際空港でフライト待ちです。今日は中秋の名月ということで、中国は祝日で会社もお休みです。そのかわり 22日の日曜日が「振り替え平日」だそうです。おもしろい制度ですね。近年制定された祝日とのことで、家族そろって名月を見る日だそうです。ホテルの朝食にも名物の月餅(げっぺい)が出ました(追記:JALの機内食でも出ました)。そういえば、昨晩見た上海の満月はみごとでした。以前と比べると上海の空も きれいになったようです。

 今日帰国しますが、16日の日は台風のおかげで関空に行けず、中国出張が一日遅れたので、楽しみにしていた武漢行きはキャンセルとなりました。

 さて、近年もっとも衝撃を受けた「評」史料の一つが、藤原宮出土の「倭国所布評」木簡でした。「洛中洛外日記」第447話「藤原宮出土『倭国所布評』木簡」で紹介しましたが、藤原宮跡北辺地区遺跡から出土した「□妻倭国所布評大野里」(□は判読不明の文字)と書かれた木簡です。奈良文化財研究所のデータベースによれば、「倭国所布評大野里」とは大和国添下郡大野郷のことと説明されています。

 近畿天皇家の中枢遺構から出土した「評」木簡ですが、700年以前すなわち九州王朝(評制)の時代に、近畿天皇家は自らの中枢領域(現奈良県に相当か) を「倭国」と表記していたのです。「倭国」とは当然のこととして九州王朝の国名であり、その国名を近畿天皇家が自らの中枢領域の地名表記に用いることができたということは、700年以前に既に列島内ナンバーワンの「国名」使用が近畿天皇家には可能であったということを示します。

 この史料事実からどのような仮説が導き出され、その仮説の中でもっとも有力な仮説を検討する必要性を感じています。まずは古田学派内で多くの作業仮説が出され、それらの中から相対的に最も合理的で優れた論証(わたしがいうところの相対論証)と仮説の絞り込みが必要です。読者や研究者の皆さんの仮説提起をお待ちしています。(つづく)


第547話 2013/04/03

新益京(あらましのみやこ)の意味

 今朝は名古屋市に来ています。名古屋駅前の桜通りを歩いたのですが、「桜通り」の名称ほどには桜の木は多くありません。それでも交差点の角々にある満開の桜は、おりからの強風で花びらを散らし、文字通りの桜吹雪の状態です。
 今日の午前中は名古屋で、午後からは三重県四日市市で、夜は愛知県一宮市で仕事です。世間ではアベノミクスとやらで気分だけは「好景気」のようですが、 物価上昇が先行し、国民所得は二~三年後にしか上がらないでしょうから、その間、シュリンクした国内マーケットは厳しさを増すようにも思われます。          

 さて、藤原京と呼ばれている大和朝廷の都ですが、『日本書紀』持統紀には「新益京(あらましのみやこ)」と記されており、「藤原京」という名称はありません。他方、宮殿は「藤原宮」と記されています。
 この藤原宮下層遺構からは多数の木簡や土器が出土しており、その中の紀年銘木簡「壬午年(天武十一年・六八二)」「癸未年(天武十二・六八三)」「甲申年(天武十三年・六八四)」から、藤原京の造営が天武の時代に既に始まっていたことがわかっています。この藤原宮下層から条坊道路や側溝が発見されたこと から、藤原京造営時にはここ(大宮土壇)に王宮を造ることは想定されていなかったことが推定できます。
 こうした考古学的出土事実から、わたしは喜田貞吉が提起した「長谷田土壇」説に注目し、藤原京造営時の王宮は長谷田土壇にあったのではないかとするアイデア(思いつき)に至りました。この「思いつき」を「仮説」とするためには、長谷田土壇の考古学的調査が必要です。
 この王宮の位置が変更されたとする「思いつき」が正しければ、「藤原京」のことを『日本書紀』では王宮(藤原宮)の名称とは異なる「新益京」とした理由もわかりそうです。それは、長谷田土壇から南東に位置する大宮土壇への王宮の移動(新築か)により、条坊都市もそれに伴って東側へ拡張されたこととなり、 その拡張された新たな全京域を意味する「新益京(あらましのみやこ)」という名称を採用したのではないでしょうか。このように考えれば、藤原宮(大宮土壇)を中心点として、「藤原京」がいびつな形の条坊都市になっていることも説明できます。ただし、このアイデアは先の「思いつき」を前提とした「思いつき」ですので、これから慎重に調査検討していきたいと思います。


第546話 2013/03/31

藤原宮へドライブ
       
       
         
            

 昨日は飛鳥までドライブしました。午前中は万葉文化館を見学し、館内の食堂で昼食をとりました。その後、橿原考古学研究
所附属博物館に行き、長谷田土壇の発掘調査報告書の有無について問い合わせましたが、あいにく学芸員の方が不在でしたので、後日連絡していただくことにな
りました。
               そのとき、長谷田土壇がある醍醐集落から礎石が発見されていることを教えていただきました。礎石は道路沿いの小川の淵に露出しており、見ることができるとのことなので、早速醍醐集落に向かいました。
             
 醍醐集落は藤原宮跡の北側にあり、その内裏部分に位置する醍醐池は桜の名所で、花見客で賑わっていました。醍醐池の北側にある醍醐集落まで行き、小川沿
いの礎石を見つけることができました。コンクリートの護岸壁に埋め込まれた状態の大きな礎石二つが露出していました。そこにあった説明板によると、この礎
石は藤原宮を囲む大垣の十二門の内の北西に位置する「海犬養門」の礎石とのことでした。したがって、位置的にも長谷田土壇とは異なっていました。藤原宮の
礎石は全て平城宮造営のために移動転用されたと思っていたのですが、大垣の門の礎石が残っていたことに驚きました。
             
 こうして今回のドライブでは長谷田土壇を見つけることはできませんでしたが、周囲の土地勘が少しはできて有意義でした。ただ、昨日は黄砂の飛散が多く
て、車に黄砂がびっしりと付着するほどでした。また同地を調査旅行したいと思います。それにしても、こんな狭隘な地域の王者が日本列島の代表者(大和朝
廷)となったことが何とも不思議です。古代において、それを可能とした何が起きたのでしょうか。


第545話 2013/03/29

藤原宮「長谷田土壇」説
       
       
         
            

 今日は八重洲のブリヂストン美術館内のお店で昼食をとっています。フラスコ画が展示してあり、おちついた雰囲気のお店なのでとても気に入っています。午後、もう一仕事してから京都に帰ります。

            

 藤原宮跡が発掘された大宮土壇ですが、古くは江戸時代の学者、賀茂真淵が藤原宮「大宮土壇」説を唱えました。真淵のこの説は弟子の本居宣長や孫弟子の上田秋成に受け継がれ、明治時代には飯田武郷に引き継がれ定説となりました。
             
 こうした流れの中にあって、大正時代に入ると喜田貞吉による、藤原宮「長谷田土壇」説が登場します。喜田貞吉は、法隆寺再建・非再建論争で著名な学者で
すが、『日本書紀』の記述(法隆寺全焼)を根拠に再建説を主張し、後に若草伽藍の発掘により、その正しさが証明されたことは研究史上有名です。
             
 藤原宮を「長谷田土壇」とした喜田貞吉説の主たる根拠は、大宮土壇を藤原宮とした場合、その京域(条坊都市)の左京のかなりの部分が香久山丘陵にかかる
という点でした。ちなみに、この指摘は現在でも「有効」な疑問です。現在の定説に基づき復元された「藤原京」は、その南東部分が香久山丘陵にかかり、いび
つな京域となっています。ですから、喜田貞吉が主張したように、大宮土壇より北西に位置する長谷田土壇を藤原宮(南北の中心線)とした方が、京域がきれい
な長方形となり、すっきりとした条坊都市になるのです。
            
 こうして「長谷田土壇」説を掲げて喜田貞吉は「大宮土壇」説の学者と激しい論争を繰り広げます。しかし、この論争は1934年(昭和九年)から続けられ
た大宮土壇の発掘調査により、「大宮土壇」説が裏付けられ、決着を見ました。そして、現在の定説が確定したのです。しかしそれでも、大宮土壇が中心点では
条坊都市がいびつな形状となるという喜田貞吉の指摘自体は「有効」だと、わたしには思われるのです。(つづく)


第544話 2013/03/28

二つの藤原宮
       
       
         
            

 昨晩から東京に来ています。京都御所の桜はようやく開花し始めましたが、東京の桜はもう散り始めており、日本列島内の花
模様の違いを楽しんでいます。今、赤坂のカフェで昼食を兼ねた遅い朝食をとりながら、洛中洛外日記を執筆中ですが、このところ前期難波宮や賀正礼について
の連載が続いていますので、今回は前期難波宮からちょっと離れて、藤原宮と藤原京について書くことにします。
             
 三月の関西例会でも発表したのですが、藤原宮には考古学的に大きな疑問点が残されています。それは、あの大規模な朝堂院様式を持つ藤原宮遺構の下層か
ら、藤原京の条坊道路やその側溝が出土していることです。すなわち、藤原宮は藤原京造営にあたり計画的に造られた条坊道路・側溝を埋め立てて、その上に造
られているのです。
             
 この考古学的事実は王都王宮の造営としては何ともちぐはぐで不自然なことです。「都」を造営するにあたっては当然のこととして、まず最初に王宮の位置を
決めるのが「常識」というものでしょう。そしてその場所(宮殿内)には条坊道路や側溝は不要ですから、最初から造らないはずです。ところが、現・藤原宮は
そうではなかったのです。この考古学的事実からうかがえることは、条坊都市藤原京の造営当初は、現・藤原宮(大宮土壇)とは別の場所に本来の王宮が創建さ
れていたのではないかという可能性です。
               実は藤原宮の候補地として、大宮土壇とは別にその北西にある長谷田土壇も有力候補とされ、戦前から論争が続けられてきました。(つづく)

            

 さて、次の仕事(化成品工業協会の会合)までちょっと時間がありますので、これから赤坂サカスと日枝神社でプチ花見をしてきます。


第485話 2012/10/20

大化改新詔の宮は何処?

 今日の関西例会も優れた面白い研究発表が続きました。初めての参加者も増え、初心者にも楽しんでいただけたようです。毎月の会場確保は大変です が、大下さん西井さんや正木さんらのご尽力もあり、何とか会場を確保しています。今回は初めて「エル大阪」という会場を正木さんに確保していただきまし た。関係各位には感謝にたえません。
 今回は木簡研究に関する報告が正木さんや冨川さんからなされ、理解が進みました。正木さんの発表では、藤原宮の回廊が完成するのは大宝三年(703)以 降であることが改めて指摘されたのですが、それを聞いた原幸子さん(古田史学の会々員・奈良市)から休憩時間に、「それでは大化改新詔が出された宮殿はどこなのですか」と問われ、わたしは考え込みました。
 わたしの説では大化二年の改新詔は九州年号の大化二年(696)のことであり、藤原宮で出されたと考えていたのですが、藤原宮出土木簡の研究から、大化二年(696)には藤原宮回廊が未完成であったことが判明したので、それではどこで大化改新詔が出されたのかわからなくなったのです。
 例会後の懇親会で、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)にこのことをたずねると、「回廊は未完成でも大極殿などは完成していたと考えれば問題ない」との返答が返ってきました。確かにそうかもしれませんが、まだよくわかりません。歴史研究には様々な説が「相対的」な論証力を持ち、優劣付けがたいケースがあります。結論を急がず、検討を続けたいと思います。
 こうした甲論乙駁により、自分一人で行う研究に比べ、例会などによる「論争」は自らの説の弱点や誤りにも気づかされることがあり、大変有意義です。関西例会の有り難みを噛みしめる今日この頃です。
 例会発表のテーマは次の通りでした。なかでも岡下さんの聖徳太子と九州年号の研究は刺激的でした。会報への投稿が期待されます。正木さんのプロジェクターを使用した発表は、九州王朝説への理解を助け、説得力のあるもので、ことのほか好評でした。

〔10月度関西例会の内容〕
1). 九州王朝の近畿侵入譚(木津川市・竹村順弘)
2). 人麿はジェノバラインを知っていた・2(明石市・不二井伸平)
3). 藤原京出土木簡について(川西市・正木裕)
4). 楽浪郡と平壌出土戸口簿(相模原市・冨川ケイ子)
5). 「真宗と九州年号」を読んで(京都市・岡下英男)
6). 「正法輪蔵」のなかの九州年号(京都市・岡下英男)
7). 久留米大学講演「九州王朝論の新展開 — 最近の考古学的発見と九州王朝」(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・古田先生京都講演会「森嶋学と古代史」・TV大学市民講座「幕末維新期の鳩居堂」他・日本触媒姫路の爆発事故・別府市HPに水野孝夫の名前・その他