九州年号一覧

第3030話 2023/06/03

九州年号「大化」「大長」の原型論 (10)

 九州王朝の記憶が失われた後代において、各史料編纂者が考えた末に、九州年号最後の大長を大和朝廷最初の大宝元年に接続した各種年号立てが発生したとする作業仮説の検証過程を本シリーズで解説しました。その検証の結果、大長は701年以後に実在した九州年号であり、本来の姿は「朱鳥(686~694年)→大化(695~703年)→大長(704~712年)」になるとしました。これであれば、『二中歴』の年号立て「朱鳥(686~694年)→大化(695~700年)→大宝元年(701年)」を維持しながら、大長(704~712年)の存在と整合することから、基本的に論証は完成したと考えました。
一旦こうした仮説が成立すると、それまで誤記誤伝として斥けられてきた次の九州年号記事の存在がむしろ実証的根拠となり、自説は九州年号研究での有力説とされるに至りました。

○「大長四年丁未(七〇七)」『運歩色葉集』「柿本人丸」
○「大長九年壬子(七一二)」『伊予三島縁起』

 この他にも愛媛県松山市の久米窪田Ⅱ遺跡から出土した「大長」木簡も実見調査しましたが、こちらは「大長」を年号と確認するまでには至りませんでした(注①)。
そして九州年号「大長(704~712年)」実在説は、九州王朝から大和朝廷への王朝交代研究に貢献することになります。直近では正木裕さん(古田史学の会・事務局長)による研究があり(注②)、注目されます。(おわり)

(注)
①古賀達也「九州年号『大長』の考察」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)、2017年。初出は『古田史学会報』120号、2014年。
②正木裕「消された和銅五年(七一二)の『九州王朝討伐譚』」『古田史学会報』176号に掲載予定。


第3023話 2023/05/25

九州年号「大化」「大長」の原型論 (8)

 大長は701年以後に実在した九州年号であり、九州王朝についての記憶が失われた後代において、九州年号最後の大長を大和朝廷最初の年号である大宝元年に接続するため、各史料編纂者が下記のような思い思いの位置に大長を移動させたと考えました。

(a) 692年壬辰を大長元年とする丸山モデル。大長九年まで続く。
(b) 695年乙未を大長元年とするタイプ。大長六年まで続く。
(c) 698年戊戌を大長元年とするタイプ。大長三年まで続く。

 これら3タイプの大長は元年の位置は異なりますが、いずれも大長が最後の九州年号であり、その直後に大宝元年(701)が続いており、大長の直前の九州年号は大化という共通点があります。これらの史料情況から、大長の本来型は次のようなものと推論できます。

(1) 九州年号の最末は、大化→大長と続いている。大化と大長の間に他の九州年号を持つ史料は見えない。
(2) 大長は9年間続いたと考えられる。これよりも長い大長の史料は見えない。
(3) 同様に大化も最長9年間続く史料(注①)が見え、九州年号の末期は大化九年→大長九年であったと考えられる。
(4) 上記の推論結果を『二中歴』の朱鳥(686~694年)・大化(695~700年)を起点として復元すると、朱鳥(686~694年)→大化(695~703年)→大長(704~712年)となり、それぞれ9年間続いている(注②)。

 論証の結果、以上の復元案に至りました。こうして大長は701年の王朝交代後に実在した〝最後の九州年号〟とする仮説が成立したのです。なお、686年丙戌を大化元年とする丸山モデルですが、実は寺社縁起などの実用例として、686年丙戌を大化元年とするものは見つかっていません。そして、実際に使用された痕跡がなかったことを丸山氏自身も自説の弱点として認めていたのです(注③)。(つづく)

(注)
①『箕面寺秘密縁起』(『修験道史料集Ⅱ』)に「持統天皇御宇大化九秊乙未二月十日」とある。『峯相記』には「大化八年」の記事が見えるとのこと(『市民の古代』第11集所収〝「九州年号」目録〟による)。
②最末期の三つの九州年号がいずれも9年間続いていることについて、偶然のことか、意図的な改元なのか、未だ結論を持っていない。
③丸山晋司『古代逸年号の謎 ―古写本「九州年号」の原像を求めて―』株式会社アイ・ピー・シー刊、1992年。同書84頁に次のように述べている。
「寺社縁起などでの丙戌大化の実用例は遺憾ながら見つけ出せていない。このことは丙戌大化原型説の弱点である。」


第3020話 2023/05/19

九州年号「大化」「大長」の原型論 (7)

 『二中歴』以外のほとんどの九州年号群史料に見える大長ですが、それら大長を持つ史料には、692年を大長元年とする丸山モデルとは異なるタイプがあることにも注目していました。丸山晋司さんが採集された資料(注)によれば次の通りです。

(a) 692年壬辰を大長元年とする丸山モデル
『興福寺年代記』(中の一説)1615年成立。他
(b) 695年乙未を大長元年とするタイプ
『王代年代記』1448年成立。他
(c) 698年戊戌を大長元年とするタイプ
『海東諸国記』1471年成立。『続和漢名数』「日本偽年号」貝原益軒著、1695年成立。他

 元年の位置は異なりますが、いずれのタイプも大長が最後の九州年号であり、その直後に大宝元年(701)が続いているという共通点があります。この史料情況から、大長を後代偽作とするには位置や年数に統一性がなく、最後の九州年号とするために偽作したとする理解は困難と思いました。ある人物により大長が偽作され、どこかにはめ込まれたのであれば、このようにバラバラな史料情況にはならないはずです。

 そこで、大長は701年以後に実在した九州年号であり、九州王朝についての記憶が失われた後代において、最後の九州年号の大長を大和朝廷最初の年号である大宝元年に接続するため、各史料編纂者が思い思いの位置に移動させたために発生した現象ではないかと考えたのです。(つづく)

(注)丸山晋司『古代逸年号の謎 ―古写本「九州年号」の原像を求めて―』株式会社アイ・ピー・シー刊、1992年。


第3019話 2023/05/18

九州年号「大化」「大長」の原型論 (6)

 二つの同時代九州年号金石文、「朱鳥三年戊子(688年)」銘を持つ鬼室集斯墓碑と「大化五子年(700年)」土器により丸山モデルは成立し難く(注)、『二中歴』年代歴の九州年号が最も原型に近いという結論に至りました。ところがこの過程で大きな疑問が生じました。それは、『二中歴』以外のほとんどの九州年号群史料に見える大長とは何なのか。大長を後代の造作(偽造)とするのであれば、その動機は何なのか。どのような必要性があって大長を造作したのかという疑問です。そして、この疑問に悩みながら『二中歴』原型説を受け入れたのですが、大長問題を解決しなければ九州年号研究は発展しないと、わたしは考え続けました。

 というのも、『二中歴』が九州年号の原型として先にあり、後に大長が〝偽造〟挿入されて丸山モデル型が発生したとするのであれば、それには次のような過程を経なければならないからです。

《『二中歴』型から丸山モデル型への変更過程》
(1) 大長の9年間を700年以前に割り込ませるために、朱鳥の9年間(686~694)を削除する。
(2) 削除した朱鳥年間に大化の6年間(695~700)を遡らせ、元年を丙戌とする位置(686~691)に貼り付ける。
(3) 上記の操作の結果できた大宝元年(701)までの隙間に、〝偽造〟した大長の9年間(692~700)を貼り付ける。

 上記の操作と〝大長の偽造〟の結果、『二中歴』と丸山モデルという二種類の年号立てが、後世の九州年号史料中に併存したと考えなければなりません。しかし、そうまでして大長を〝偽造〟し、大宝の直前に入れる必要性が不明なのです。なぜなら、『二中歴』年代歴には大化六年(700)の次に大宝元年(701)が続いており、年号史料として矛盾も支障もないからです。(つづく)

【二中歴】⇒【丸山モデル】
西暦 干支 年号    年号
686 丙戌 朱鳥    大化
692 壬辰       大長
695 乙未 大化
700 庚子 同六年   同九年
701 辛丑 (大宝)   (大宝)

(注)古賀達也「二つの試金石 — 九州年号金石文の再検討」『「九州年号」の研究』古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年。


第3016話 2023/05/15

九州年号「大化」「大長」の原型論 (5)

 当初、わたしは丸山モデルを支持していたのですが、古田先生による『二中歴』原型説の提唱があり、再検討を行いました(注①)。その結果、丸山モデルは成立し難いという結論に至りました。理由は次の通りです。

 丸山モデルの特徴は、元年を692年壬辰とする大長を最後の九州年号とすることの他に、『日本書紀』や『二中歴』に見える朱鳥がないということでした。その部分だけを見ると、『二中歴』の朱鳥年間(686~694年の9年間)が消えて、その位置(686~691年)に『二中歴』の大化の6年間(695~700年)がずれ上がり、大化の後に大長の9年間(692~700年)が割り込んでいます。このように、朱鳥が消えて大長が大宝の直前に割り込むというのが丸山モデルの特徴です(注②)。ところが、現存する二つの同時代九州年号金石文が丸山モデルの特徴を否定するのです。

 二つの同時代九州年号金石文とは、「朱鳥三年戊子(688年)」銘を持つ鬼室集斯墓碑(注③)と「大化五子(700年)」年土器(注④)のことです。検討の結果、両金石文は同時代金石文であり、『二中歴』の朱鳥と元年が同じ686年である「朱鳥三年戊子」銘により、九州年号に朱鳥が存在していたことを疑えませんし、七世紀末に大化年号が使用されていたことを示す「大化五子(700年)」年土器により、丸山モデルの大長(692~700年)は否定されることになります。また、丸山さんが自説の根拠とされた大長の実用例も子細に見ると、『運歩色葉集』の「大長四季丁未(707)」と『伊予三島縁起』の「天武天王御宇大長九年壬子(712)」は丸山モデルの大長元年692年壬辰とは異なり、704年甲辰を元年としており、決して丸山モデルを支持していたわけではないのです。従って、丸山モデルに代わって、古田先生が提唱した『二中歴』原型説が有力視されるに至りました。(つづく)

(注)
①古賀達也「二つの試金石 — 九州年号金石文の再検討」『「九州年号」の研究』古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年。
②丸山モデルと『二中歴』の比較(七世紀後半部分)
【丸山モデル】 【二中歴】
西暦 干支 年号   年号
652 壬子 白雉   白雉 ※『日本書紀』では白雉元年は650年庚戌。
661 辛酉 白鳳   白鳳
684 甲申 朱雀   朱雀
686 丙戌 大化   朱鳥 ※『日本書紀』では朱鳥元年の1年のみ。
692 壬辰 大長
695 乙未      大化 ※『日本書紀』では大化元年は645年乙巳。
700 庚子 同九年  同六年
701 辛丑 (大宝)  (大宝) ※大和朝廷の年号へと続く。
③滋賀県蒲生郡日野町、鬼室集斯神社蔵。
④茨城県坂東市(旧岩井市)出土。冨山家蔵。


第3009話 2023/05/06

九州年号「大化」「大長」の原型論 (3)

本稿を新青森駅に向かう東北新幹線(はやぶさ17号)車中で書いています。
『二中歴』には「大長」がなく、最後の九州年号は「大化」(695~700)で、その後は近畿天皇家の年号「大宝」へと続きます。ところが、『二中歴』以外の九州年号群史料では「大長」が最後の九州年号で、その後に「大宝」が続きます。そして、「大長」が700年以前に「入り込む」形となったため、その年数分だけ、たとえば「朱鳥」(686~694)などの他の九州年号が消えたり、短縮されたりしています。

このように最後の九州年号を「大化」とする『二中歴』と、「大長」とするその他の九州年号史料という二種類が後代に併存するのですが、この状況を説明するため、「大長」は704~712年に存在した最後の九州年号とする下記の仮説(3)に至りました(注①)。それ以外の仮説が成立し得ないことから、基本的に論証は完了したと、わたしは考えました(注②)。

【古賀説】(3) 大和朝廷への王朝交代後(701年)も九州年号は、「大化」(695~703年)を経て「大長」(704~712年)まで続く。

 他方、『二中歴』以外の九州年号群史料には様々な年号立てが見えることから、古賀説は論証不十分とする疑義も寄せられました。その説明を「洛中洛外日記」〝九州年号「大化」の原型論〟(注③)で始めたのですが、多忙のため途中で連載が止まったままとなっていました。そこで、今回の新連載〝九州年号「大化」「大長」の原型論〟を始めました。まず、自説の論理構造を詳述します。自説成立の大前提となる命題と解釈はつぎの通りです。

(A) 後代における九州年号群史料編纂者の認識は、次の二つの立場のいずれかに立つ。
《1》九州年号は実在した。
《2》年号を公布できるのは大和朝廷だけであるから、九州年号は偽作であり実在しない。偽年号・私年号の類いとして紹介する。江戸期の貝原益軒(注④)や戦後の一元史観の学者(注⑤)がこの立場に立つ。

(B)〝《1》九州年号は実在した〟との立場に立つ人は、更に次の二つに分かれる。
《1-1》九州年号は大和朝廷の正史には見えないので、それ以外の勢力(南九州の豪族、筑紫の権力者)による年号とする。鶴峯戊申、卜部兼従など(注⑥)。
《1-2》正史から漏れた大和朝廷の年号とする。新井白石など(注⑦)。

(C)《1-1》の立場に立つ編者は、九州年号を大和朝廷の年号と整合(大宝元年への接続など)させる必要がなく、原本を改変する動機がない。従って、九州年号をそのまま書写・転記したであろう。
その例として鶴峯戊申『襲国偽僣考』がある。同書に見える最後の九州年号は「大長」だが、「文武天皇大寶二年。かれが大長五年。」(702年)とあり、大和朝廷の年号「大宝」と九州年号「大長」が、701年以後も併存したとする鶴峯の認識がうかがえる(注⑨)。ただし「大長元年」の位置は698年とされ、古賀説(3)の704年とは異なる。

(D)《1-2》の場合、『続日本紀』に見える「大宝」(701~704年)建元以前の年号と理解するはずであり、もし九州年号が「大宝年間」と重なっていれば、重ならないように九州年号の末期部分を改訂する可能性が大きい。

以上のように編纂者の認識を分類しました。従って、自説が正しければ(D)による改訂の痕跡があるはずで、本来の九州年号から改訂形に至る認識をたどることができると考えました。そこで、数ある九州年号群史料を採録した丸山晋司さんの労作『古代逸年号の謎 ―古写本「九州年号」の原像を求めて―』(注⑧)に掲載された諸史料の年号立てを精査し、それら全てが自説(3)から改訂された姿と見なしうることを確認しました。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3006話(2023/05/05)〝九州年号「大化」「大長」の原型論 (1)〟
②九州年号に関する日野智貴氏(古田史学の会・会員、たつの市)とのある日の対話で、「古賀説〝701年以後も九州年号は継続した〟の提起により、九州年号研究は基本的に完結したと思った」という日野氏の発言が印象深く、忘れ難い。この仮説が王朝交代期の実態に迫る上で、重要な視点を有すことを、氏は深く理解されていたようである。
③古賀達也「洛中洛外日記」1516~1518話(2017/10/13~16)〝九州年号「大化」の原型論(1)~(3)〟
④貝原益軒『続和漢名数』元禄五年(1692)成立。
⑤久保常晴『日本私年号の研究』吉川弘文館、1967年。
所功『年号の歴史〔増補版〕』雄山閣、平成二年(1990)。
⑥卜部兼従(宇佐八幡宮神祇)『八幡宇佐宮繋三』1617年成立。同書には九州年号を「筑紫の年号」とする認識が示されている。
鶴峯戊申『襲国偽僣考』文政三年(1820)成立。「やまと叢誌 第壹号」(養徳會、明治二一年、1888年)所収。
同『臼杵小鑑』文化三年(1806)成立。
⑦新井白石「安積澹泊宛書簡」『新井白石全集』第五巻
⑧丸山晋司『古代逸年号の謎 ―古写本「九州年号」の原像を求めて―』株式会社アイ・ピー・シー刊、1992年。
⑨古賀達也「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」『「九州年号」の研究』所収。古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』78号、2007年。


第3008話 2023/05/06

九州年号「大化」「大長」の原型論 (2)

 前話では九州年号研究のエポックとして次の4点を紹介しました。

(1) 九州王朝(倭国)により公布された九州年号(倭国年号)実在説の提起。
(2) 『二中歴』「年代歴」の九州年号が最も原型に近いとする。
(3) 大和朝廷への王朝交代後(701年)も九州年号は、「大化」(695~703年)を経て「大長」(704~712年)まで続く。
(4) 九州年号「白雉元年」(652年)を示す、「元壬子年」木簡の発見。

 このなかの(1)(2)(3)は主に論証に属し、(4)が出土木簡の解釈であり、どちらかというと実証に属するテーマでした。なかでも(3)は論証(701年以後の九州年号「大長」の存在)が先行し、後に実証(「大長」年号史料と写本の発見)が後追いしたという研究で、わたしにとっては古田先生の学問の方法を理解する上でも思い出深い経験でした。そのことを「学問は実証よりも論証を重んじる」(注①)で次のように紹介しました。長くなりますが、当該部分を転載します。

〝九州年号「大長」の論証

 九州年号研究の結果、『二中歴』に見える「年代歴」の九州年号が最も原型に近いとする結論に達していたのですが、わたしには解決しなければならない残された問題がありました。それは『二中歴』以外の九州年号群史料にある「大長」という年号の存在でした。

 『二中歴』には「大長」はなく、最後の九州年号は「大化」(六九五~七〇〇)で、その後は近畿天皇家の年号「大宝」へと続きます。ところが、『二中歴』以外の九州年号群史料では「大長」が最後の九州年号で、その後に「大宝」が続きます。そして、「大長」が七〇〇年以前に「入り込む」形となったため、その年数分だけ、たとえば「朱鳥」(六八六~六九四)などの他の九州年号が消えたり、短縮されていたりしているのです。

 こうした九州年号史料群の状況から、『二中歴』が原型に最も近いとしながらも、「大長」が後代に偽作されたとも考えにくく、二種類の対立する九州年号群史料が後代史料に現れている状況をうまく説明できる仮説を、わたしは何年も考え続けました。その結果、「大長」は七〇一年以後に実在した最後の九州年号とする仮説に至りました。その詳細については「最後の九州年号」「続・最後の九州年号」(『「九州年号」の研究』所収)をご覧ください(注②)。具体的には「大長」が七〇四~七一二年の九年間続いていたことを、後代成立の九州年号史料の分析から論証したのですが、この論証に成功したときは、まだ「実証(史料根拠)」の「発見」には至ってなく、まさに「論証」のみが先行したのでした。そこで、わたしは「論証」による仮説をより決定的なものとするために、史料(実証)探索を行いました。

九州年号「大長」の実証

 最後の九州年号を「大化」とする『二中歴』と、「大長」とするその他の九州年号群史料の二種類の九州年号史料が存在することを説明できる唯一の仮説として、「大長」が七〇四~七一二年に存在した最後の九州年号とする仮説を発見したとき、それ以外の仮説が成立し得ないことから、基本的に論証が完了したと、わたしは考えました。「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡先生の言葉通りに、九州年号史料の状況を論証できたので、次に九州年号史料を精査して、この「論証」を支持する「実証」作業へと進みました。

 その結果、『運歩色葉集』の「柿本人丸」の項に「大長四年丁未(七〇七)」、『伊予三島縁起』に「天長九年壬子(七一二)」の二例を見い出したのです。ただ、『伊予三島縁起』活字本には「大長」ではなく「天長」(注③)とあったため、「天」は「大」の誤写か活字本の誤植ではないかと考えていました。そこで何とか原本を確認したいと思っていたところ、齊藤政利さん(「古田史学の会」会員、多摩市)が内閣文庫に赴き、『伊予三島縁起』写本二冊を写真撮影して提供していただいたのです。その写本『伊予三島縁起』(番号 和34769)には「大長九年壬子」とあり、「天長」ではなく九州年号の「大長」と記されていたのです。
「論証」が先行して成立し、それを支持する「実証」が「後追い」して明らかとなり、更に「大長」と記された新たな写本までが発見されるという、得難い学問的経験ができたのです。こうして村岡先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」を深く理解でき、学問の方法というものがようやく身についてきたのかなと感慨深く思えたのでした。
〟「学問は実証よりも論証を重んじる」『古田武彦は死なず』

 本稿を津軽に向かう新幹線車中で書いています。車窓からは富士山が見えてきました。残念ながら山頂は雲に隠れています。(つづく)

(注)
①古賀達也「学問は実証よりも論証を重んじる」『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)古田史学の会編、明石書店、2016年。
②同「最後の九州年号 ―『大長』年号の史料批判」『「九州年号」の研究』所収。古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』77号、2006年。
「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」『「九州年号」の研究』所収。古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』78号、2007年。
③近畿天皇家の年号に「天長」(824~834年)があり、そのため、後代に於いて「大長」が「天長」に改変書写されたものと思われる。内閣文庫本には、「大長」とした『伊予三島縁起』写本(番号 和34769)と「天長」に改変された異本(番号 和42287)がある。齊藤政利氏のご教示による。
同「洛中洛外日記」599話(2013/09/22)〝『伊予三島縁起』にあった「大長」年号〟を参照されたい。


第3006話 2023/05/05

九州年号「大化」「大長」の原型論 (1)

五十年にも及ぶ九州年号研究において、いくつかの画期を為す進展がありました。私見では次のエポックです。

(1) 九州王朝(倭国)により公布された九州年号(倭国年号)実在説の提起(注①)。
(2) 『二中歴』「年代歴」の九州年号が最も原型に近いとする(注②)。
(3) 大和朝廷への王朝交代後(701年)も九州年号は、「大化」(695~703年)を経て「大長」(704~712年)まで続く(注③)。
(4) 九州年号「白雉元年」(652年)を示す、「元壬子年」木簡の発見(注④)。

(1)は古田先生による九州王朝説の花形分野ともいえる先駆的研究です。わたしが古田門下となって最初に挑戦したテーマがこの九州年号でした。
(2)は、その中心的課題としての九州年号の原型論(年号立て、用字)研究の成果として、『二中歴』に採録された「年代歴」冒頭部分の継体元年(517)に始まり大化六年(700)で終わる九州年号群が本来の九州年号の姿をより遺しているとする古田先生の見解です。
(3)は、九州年号の「大化」「大長」が701年を越えて続いたとする、わたしの研究です。
(4)は、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「三壬子年」と当初発表された木簡(『日本書紀』の「白雉三年壬子」のこととする。注⑤)の文字が実は「元壬子年」であり、九州年号の白雉元年壬子を意味する〝九州年号木簡〟であるという発見です。わたしがそのことに気づき、古田先生らと共に同木簡を実見して、「三」ではなく「元」であることを確認しました。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(一九七三)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古田武彦「補章 九州王朝の検証」『失われた九州王朝 天皇家以前の古代史』ミネルヴァ書房、2010年。
古賀達也「九州年号の史料批判 『二中歴』九州年号原型論と学問の方法」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)明石書店、2017年。
③古賀達也「最後の九州年号 ―『大長』年号の史料批判」『「九州年号」の研究』所収。古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』77号、2006年。
「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」『「九州年号」の研究』所収。古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』78号、2007年。
同「九州年号『大長』の考察」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)、2017年。
同「洛中洛外日記」1516~1518話(2017/10/13~16)〝九州年号「大化」の原型論(1)~(3)〟
④古賀達也「木簡に九州年号の痕跡 「三壬子年」木簡の史料批判」『古田史学会報』74号、2006年。『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)に収録。
古田武彦「三つの学界批判 九州年号の木簡(芦屋市)」『なかった 真実の歴史学』第二号、ミネルヴァ書房、2006年
古賀達也「『元壬子年』木簡の論理」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
⑤『木簡研究』第十九号(1997)には次のように報告されている。
「子卯丑□伺(以下欠)」
「 三壬子年□(以下欠)」
「年号で三のつく壬子年は候補として白雉三年(六五二)と宝亀三年(七七二)がある。出土した土器と年号表現の方法から勘案して前者の時期が妥当であろう。」


第3000話 2023/04/28

九州年号「大化」年間に

   編纂された「大宝律令」 (2)

 井上光貞説では、「大宝律令」の編纂開始は文武四年(697)、九州年号の大化三年からとされています。すなわち、「大宝律令」は九州王朝の時代、大化年間に編纂された言わば〝大化律令〟とでも称すべきものなのです。この理解(史実)は様々な問題を惹起します。その一例を紹介します。
『令集解』戸令には下記のように「古記同之」とあることから、古記とされた「大宝戸令」には、行政単位「郡」を採用したことがわかります。

〝凡郡以廿里以下。十六里以上。爲大郡。(中略)〔古記同之。〕〟『令集解』巻第九 戸令一(注①)。〔〕内は細注。

 これは戸令の一部ですが、「大宝戸令」編纂時の七世紀末は九州王朝が制定した行政単位「評」の時代です。ところが、ここでは既に「郡」としていますから、大化三年(697)頃、近畿天皇家は王朝交代後に「評」から「郡」に変更する意志を固めていたことがうかがえます。従って、荷札木簡などが701年以降は全国一斉に「郡」表記に変更されているという出土事実もあり、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代がほぼ平和裏に、周到な準備のもとに行われたと理解せざるを得ません。
こうした王朝交代直前の権力移行準備が九州年号「大化」年間に行われていることを考えると、この「大化」という年号の字義「大きく化す」にも注目せざるを得ません。これは王朝交代を前提にした年号かもしれません。そうであれば、「大化」への改元を実質的に決めたのは持統ら近畿天皇家だったのかもしれません。九州年号で見ると、持統の藤原宮遷都が朱鳥九年(694)十二月になされており、その翌年には「大化」へ改元しています。すなわち、大化年間の藤原宮では〝大いなる変化〟=王朝交代へとまっしぐらに突き進んでいたのではないでしょうか。
こうした推定が正しければ、大化九年の翌年(704)に九州年号は「大長」に改元されていますが、この「大長」の字義にも何かいわくがありそうです。もしかすると「大長」は、王朝交代を快く思わない九州王朝の残存勢力により、〝大いに長ず〟という希望を込めた年号だったのでしょうか。しかし、大長九年(712)で九州年号は終わりを告げています。その年に九州地方で反乱があり、大和朝廷により鎮圧された痕跡が『続日本紀』に見えます(注②)。その後も九州王朝の残影が『万葉集』などに遺されているようです(注③)。稿を改めて紹介したいと思います。(おわり)

(注)
①『国史大系 令集解 第二』吉川弘文館、昭和四九年(1974)。
②古賀達也「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』78号、2007年。
③赤尾恭司氏(多元的古代研究会・会員、佐倉市)が「古田史学リモート勉強会(2023年4月8日)」他で、「天平時代の「筑紫」の様相…西海道節度使に関する万葉歌を手掛かりとして」を発表している。


第2999話 2023/04/28

九州年号「大化」年間に

   編纂された「大宝律令」 (1)

九州王朝律令の研究をしていて、改めて気付いたことがありました。それは、大和朝廷の最初の律令、「大宝律令」は九州王朝の時代、七世紀末に編纂されたという事実です。具体的には九州年号の大化年間(695~703年。注①)、おそらくは文武天皇即位前後の697~700年頃に撰定作業が行われたと考えられています。なお、「大宝律令」が大和朝廷にとって初めての律令であることについて、『古代は輝いていたⅢ』(注②)に古田先生による次の指摘があります。

〝その一つは、大宝元年(七〇一)に「律令を撰定す。是に於て始めて成る」(『続日本紀』文武天皇)の記事であり、その二は、「大宝元年を以て律令初めて定まる」(威奈大村骨蔵器、慶雲四年=七〇七)の金石文だ。両者そろって“七世紀以前に、近畿天皇家制定の律令なし”の事実を、率直に告白していたのである。〟(ミネルヴァ書房版、316頁)

この「大宝律令」の撰定時期について、岩波の新日本古典文学大系『続日本紀 一』(注③)では次のように説明されています。

〝井上光貞は撰定の過程を以下のように整理している(「日本律令の成立とその注釈書」『著作集』一)。大宝令の撰定事業は、文武の即位直後もしくはその少し前の立太子直後に開始され、文武四年三月以前にその編纂は終わっており、文武四年三月の(1)においてそれを朝廷官人に披露するとともに、大宝律の撰成に入り、同年六月の(2)において大宝令の編纂終了にともなう編纂者への賜禄の儀が行われた。〟(『続日本紀 一』287頁)

ここでの(1)(2)とは次の『続日本紀』の記事です。

(1)文武四年(700)三月甲子、詔諸王臣読習令文。又撰成律条。
(2)文武四年(700)六月甲午、勅浄大参刑部親王、…等、撰定律令。賜禄各有差。

「大宝令の撰定事業は、文武の即位直後もしくはその少し前の立太子直後に開始され、文武四年三月以前にその編纂は終わっており」とする井上光貞説によれば、文武立太子の持統十一年(697)二月か、即位した文武元年(697)八月の直後に大宝令の編纂が開始されており、その年は九州年号の大化三年に当たります。そして大宝律令編纂を完了したのが文武四年(700)で、これは大化六年に当たります。(つづく)

(注)
①701年の王朝交代後も九州年号「大化七年~九年(701~703年)」「大長元年~九年(704~712年)」が続いたとする次の拙稿がある。
「最後の九州年号 ―『大長』年号の史料批判」『「九州年号」の研究』、古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』77号、2007年。
「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」同上。初出は『古田史学会報』78号、2007年。
「九州年号の史料批判 ―『二中歴』九州年号原型論と学問の方法―」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』『古代に真実を求めて』20集、明石書店、2017年。
「九州年号『大長』の考察」同上。初出は『古田史学会報』120号、2014年。
②古田武彦『古代は輝いていたⅢ』朝日新聞社、昭和六十年(一九八五)。ミネルヴァ書房より復刻。
③新日本古典文学大系『続日本紀 一』岩波書店、1989年。


第2944話 2023/02/14

『甲斐叢記』のなかの九州年号「朱鳥」

山梨県笛吹市一宮町塩田の醫王山楽音寺(がくおんじ)の創建年代を九州年号の告貴元年(594年)に相当する推古二年創建とする史料調査のため、江戸期成立の地誌『甲斐国志』『甲斐名勝志』(注①)などを閲覧したことを「洛中洛外日記」で紹介してきました(注②)。その調査をしていて感じたことですが、たとえば戦国期成立の『勝山記』(注③)は九州年号が記された年代記なのですが、現時点までの調査では、甲斐国の他の地誌には九州年号がほとんど見えません。管見では、次の史料に朱鳥(686~694年)年号をようやく見つけました。

「熊野権現 北八代村 社領三十七石余 祭神三座 伊弉冊尊 事觧男 速玉男なり 社記曰 朱鳥年中 紀州より遷し奉りぬ 別當ハ熊野山千手院(後略)」『甲斐叢記』巻之三「熊野権現」(注④)

朱鳥年号は『日本書紀』に元年(天武紀の末年、686年)のみの年号として使用されており、この『甲斐叢記』編者は朱鳥を九州年号と認識していたとは思われません。当地で成立した『勝山記』が九州年号による年代記であることを考えると、当地の識者が九州年号の存在を知らないはずはなく、恐らく江戸期成立の地誌編纂において、意図的に九州年号を排除したのではないでしょうか。朱鳥については『日本書紀』に近畿天皇家の年号として記載されているため、『甲斐叢記』「熊野権現」では「社記曰 朱鳥年中 紀州より遷し奉りぬ」と、同神社「社記」の「朱鳥」記事を転載したと思われます。(つづく)

(注)
①『甲斐国志』松平定能編、文化十一年(1814年)。
『甲斐名勝志』萩原元克編、天明三年(1783年)。
②古賀達也「洛中洛外日記」2940~2943話(2023/02/10~13)〝甲斐の国府寺(医王山楽音寺)か (1)~(4)〟
③『勝山記』戦国期成立。甲斐國勝山冨士御室浅間神社の古記録で、九州年号「師安」元年(564年)~永禄六年(1563年)の記録。
④『甲斐叢記』大森善庵・快庵編、嘉永四年(1851年)~明治二六年(1893年)。


第2943話 2023/02/13

甲斐の国府寺(醫王山楽音寺)か (4)

山梨県笛吹市一宮町塩田の醫王山楽音寺(がくおんじ)の創建年代調査のため、国会図書館デジタルコレクションに収録されている『甲斐国志』(注①)に続いて、山梨県立図書館山梨デジタルアーカイブの『甲斐名勝志』(注②)も精査しましたが、それには醫王山楽音寺の項目が見当たりません。そこで、改めてweb検索をやり直したところ、なんと同寺ホームページとは別に、ご住職(内藤睦雄さん)によるホームページ(注③)があり、そこに創建年を「推古二年」とする次の記事が紹介されていました。

【以下、要約して転載】
▶美代咲村史
醫王山楽音寺(塩田小新田九四四)
宗旨 臨済宗(恵林寺末)
本尊 地蔵尊菩薩
開山 不詳
中興開祖
推古天皇二年甲寅年創立 天平十戊寅年 行基新タニ本尊地蔵尊及ヒ薬師如来ノ木像ヲ彫刻安置ス、構造ヲ広メ妙亀山楽音寺ト号シ自ラ開祖トナル、嵯峨天皇ノ御于醫王山ト改メ、勅額ヲ賜ル 後衰廃ニ帰スル当リ文永八辛未年鎌倉建長寺開山大覚師堂宇ヲ再興ス、是ヨリ同寺末派トナル 天正年度火災ニ罹リ右記録ハ勿論殿堂悉ク焼失ス 慶長年度ニ至リ之ヲ運築シ旧ニ復ス 明暦年中妙心寺ニ転シ当国東山梨郡松里村恵林寺末ニ属ス(後略)

▶東八代郡史(ママ)
醫王山楽音寺(同村塩田 臨済宗恵林寺末)
本尊は地蔵尊菩薩。創立を詳にせず。寺記に曰く、聖武天皇の御宇天平十二年、行基菩薩関東巡錫の時、塩田長者寛高の邸に留りて、丈け八寸の薬師如来を手刻し、以て病苦に悩める長者の娘を救へり。長者その霊験に感じ、新に伽藍を築きて薬師如来を安置す。行基更に日光月光及び十二神二天等の仏像を彫刻して配祀す。これ當寺の草創なりと。(中略)

東八代郡御代咲村天神原
恵林寺末
臨済宗妙心寺派 楽音寺
一,本尊 地蔵尊菩薩
一,由緒 推古天皇二年甲寅年創立 天平十戊寅年 行基新タニ本尊地蔵尊及ヒ薬師如来ノ木像ヲ彫刻安置ス、構造ヲ広メ妙亀山楽音寺ト号シ自ラ開祖トナル、嵯峨天皇ノ御于醫王山ト改メ、勅額ヲ賜ル(中略)
一,堂宇 桁間九間半 梁間六間
一,庫裡 桁間七間半 梁間四間
一,仁王門 桁間三間 梁間弐間
一,仮仁王門 桁間三間半 梁間二間
一,通用門 桁間弐間 梁間壱間半
一,厠 桁間壱間半 梁間壱間
一,境内 千三拾五坪
一,境内仏堂 壱宇

薬師堂
本尊 薬師如来
由緒 不詳
建物 桁間六間 梁間四間

▶甲斐国史
巻之七十六
佛寺部 第四 八代郡 大石和筋
一,医王山 楽音寺 塩田村
臨済宗妙心寺末 同宗恵林寺末
御朱印 九百五十坪
本尊ハ薬師
共ニ行基ノ作 額ハ医王殿の三字聖武帝の勅額ヲ大覚ノ模寫ニ依る所。嘗テ夢想アリトテ、婦人血症ノ薬五香湯ヲ出ス(後略)

●臨済宗医王山楽音寺 東八代郡御代咲村字塩田
當寺は當国屈指の古刹にして其濫鷓を繹ぬるに人皇三十三代推古天皇の御宇甲寅二年塩田の長者上洛の際仏法興隆の叡旨を畏み法隆寺に詣りて精含建立の意志を述懐し佛像の得易からざるを歎息す偶々…
異人来りて其策志を遂行せしめんことを約す長者大に喜び匇々国に帰り経営惨憺土木の功を了り、一精舎を建立せり 時に異人飄然として来り一七日間夜を徹して七体の地蔵菩薩を彫刻し長者に興へ去て其行く所を知らず 是即ち當寺の本尊なり 其後聖武天皇の御宇天平一二戌寅年 行其菩薩関東巡錫の時塩田長者寛高の邸に滞留し丈八寸の薬師如来を手刻し病苦に悩める長者の娘を救ふ 長者其霊験に感じ新たに伽藍を増築して薬師如来を安置す 行基更に日光月光及び十二神二天等の仏像を彫刻して配祀す 長者嘗て黄金の寶亀を秘蔵せしを以て山号を妙亀山と命ず 後一醫生あり當山に参詣して薬師如来を信仰し一夜霊夢の中に薬剤の秘法を感得し上洛して衆人の病苦を救ふこと神の如し 時に聖武天皇不豫 醫薬寸効なし 偶々醫生の事天聴に達し詔して其薬を献ぜしむ 即ち霊薬の効空しからず 御全快ありしを以て御感斜めならず重賞あり 醫生之を固締し奉り當山薬師の霊験を上奏す 依て當寺を勅願寺に列し若干の荘園を下賜せらる 時に天平十七年十月なり 更に醫生を三位に叙し施築院に居らしむ 世人是を三位法眼と称す(以下略)
【転載、終わり】

出典が不明な引用文もありますが、『美代咲村史』(注④)には「推古天皇二年甲寅年創立」、〝東八代郡御代咲村天神原 恵林寺末 臨済宗妙心寺派 楽音寺〟の表題を持つ記事には「由緒 推古天皇二年甲寅年創立」とあります。
そして末尾の〝臨済宗医王山楽音寺 東八代郡御代咲村字塩田〟は最も詳しく、「當寺は當国屈指の古刹にして其濫鷓を繹ぬるに人皇三十三代推古天皇の御宇甲寅二年塩田の長者上洛の際仏法興隆の叡旨を畏み法隆寺に詣りて精含建立の意志を述懐し佛像の得易からざるを歎息す偶々・・・
異人来りて其策志を遂行せしめんことを約す長者大に喜び匇々国に帰り経営惨憺土木の功を了り、一精舎を建立せり 時に異人飄然として来り一七日間夜を徹して七体の地蔵菩薩を彫刻し長者に興へ去て其行く所を知らず 是即ち當寺の本尊なり」とあります。
『東八代郡誌』(注⑤)は「本尊は地蔵尊菩薩。創立を詳にせず。」として、創立年代ほ不詳としています。
以上のように、創建年代を記さなかったり不詳とする史料と、「推古二年甲寅年」(594年)とする史料の二系統の伝承があることがわかりました。江戸期成立の地誌『甲斐国志』『甲斐名勝志』には創建年代記事が見えず、より新しい大正・昭和期成立の郡誌・村史には「推古二年甲寅年」とありますから、その出典があるはずです。(つづく)

(注)
①『甲斐国志』松平定能編、文化十一年(1814年)、全124巻。
②『甲斐名勝志』萩原元克編、天明三年(1783年)。
③「臨済宗妙心寺派 医王山楽音寺」《楽音寺について》
http://www17.plala.or.jp/gakuonji/gakuAbH.html#AbH1
④『美代咲村史』伊東英俊著、昭和十三年(1938年)。
⑤『東八代郡誌』山梨教育会東八代支会編、大正三年(1914年)。