大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(5)
正木さんによる小郡・朝倉・久留米地域の広域「アスカ」説に続いて、近年発表されたのが服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)による太宰府「飛鳥浄御原宮」説です。同説は「古田史学の会」主催『発見された倭京』出版記念大阪講演会後の懇親会席上で最初に発表されたのですが、そのときの様子を「洛中洛外日記」1748話で次のように紹介しました。
【以下、転載】
古賀達也の洛中洛外日記
第1748話 2018/09/09
飛鳥浄御原宮=太宰府説の登場(1)
〔前略〕
講演会終了後、近くのお店で小林副代表・正木事務局長・竹村事務局次長ら「古田史学の会・役員」7名により二次会を行いました。そこでは「古田史学の会」の運営や飛鳥浄御原についての学問的意見交換などが行われたのですが、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から、飛鳥浄御原宮=太宰府説ともいうべき見解が示されました。服部さんによれば次のような理由から、飛鳥浄御原宮を太宰府と考えざるを得ないとされました。
①「浄御原令」のような法令を公布するということは、飛鳥浄御原宮にはその法令を運用(全国支配)するために必要な数千人規模の官僚群が政務に就いていなければならない。
②当時、そうした規模の官僚群を収容できる規模の宮殿・官衙・都市は太宰府である。奈良の飛鳥は宮殿の規模が小さく、条坊都市でもない。
③そうすると「飛鳥浄御原宮」と呼ばれた宮殿は太宰府のことと考えざるを得ない。
概ねこのような論理により、飛鳥浄御原宮=太宰府説を主張されました。正木さんの説も「広域飛鳥」説であり、太宰府の「阿志岐」や筑後の「阿志岐」地名の存在などを根拠に「アシキ」は本来は「アスカ」ではなかったかとされています。今回の服部新説はこの正木説とも対応しています。
この対話を聞いておられた久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)から、太宰府の観世音寺の山号は「清水山」であり、これも「浄御原」と関係してるのではないかという意見が出されました。
こうした見解に対して、わたしは「なるほど」と思う反面、それなら当地にずばり「アスカ」という地名が遺存していてもよいと思うが、そうした地名はないことから、ただちに服部新説や正木説に賛成できないと述べました。なお、古田先生が紹介された小郡市の小字「飛鳥(ヒチョウ)」は規模が小さすぎて、『日本書紀』などに記された広域地名の「飛鳥」とは違いすぎるという理由から、「飛鳥浄御原宮」がそこにあったとする根拠にはできないということで意見が一致しました。(後略)
【転載、終わり】
近年の古田学派研究者による最高の学問的貢献と言っても過言ではない、服部さんの「律令制宮都の論理」は単純で強力な論理性(ロジック)に支えられており、「豊前王朝説」や「伊予紫宸殿王都説」などを成立困難としています。この「律令制宮都の論理」を援用して、飛鳥浄御原宮=太宰府説が服部さんにより発表されたのです。
こうして、新旧の古田説、正木説、服部説が出そろい、わたしの多元的「飛鳥」研究も佳境に入りました。このように異なる意見が自由に発表され、真摯な論争・応答の交換こそ、学問研究にとって必須であり、古田学派らしい学問的寛容の精神の発露です。異なる意見を〝師の説と異なる〟あるいは〝通説と異なる〟と排除したり、自説への批判に対して怒り出すというような姿勢は、それこそ古田先生の学問的精神に反するというものです。自戒したいと思います。(つづく)