近江朝廷(近江京)一覧

「近江朝年号」の研究 正木裕
http://furutasigaku.jp/jfuruta/sinjit20/oumityne.html
九州王朝を継承した近江朝廷 — 正木新説の展開と考察 古賀達也
http://furutasigaku.jp/jfuruta/sinjit20/keisyoum.html

第2978話 2023/04/02

菅谷文則著

『大安寺伽藍縁起并流記資財帳を読む』

  を読む

 本日の橿原市でのシンポジウム(注①)は、満席で入りきれない方も出るほどの大盛況でした。奈良県民の皆さんは土地柄からか歴史に関心が高く、ご質問の内容も深いものでした。
会場の橿原文化会館に早めに着きましたので、お隣にある近鉄百貨店内のジュンク堂書店で歴史関連書籍の棚を見てきました。今、研究を続けている大安寺関連の本が並んでいましたので、その中から菅谷文則著『大安寺伽藍縁起并流記資財帳を読む』(注②)を買いました。著者の菅谷文則さん(1942~2019年)は橿原考古学研究所々長を務めた考古学者です。同書は菅谷さんの講演内容を森下恵介さん(橿原考古学研究所共同研究員)がとりまとめたものとのこと。
同書を読み始め、真っ先に確認したのが菅谷さんが同縁起中の「仲天皇」と「袁智天皇」を誰のこととしているのかです。結論のみを言えば、「仲天皇」を天智の妃の倭姫命、「袁智天皇」を皇極太上天皇としています。この比定の根拠や理由は、同書には示されていないようです。「仲天皇」を倭姫命とすることは理解できますが、「袁智天皇」を皇極とする説は微妙です。引き続き、検討します。

(注)
①「シンポジウム 徹底討論 真説・藤原京」古代大和史研究会(原幸子会長)主催、古田史学の会後援。
②菅谷文則著『大安寺伽藍縁起并流記資財帳を読む』東方出版、2020年。


第2972話 2023/03/23

『大安寺伽藍縁起』の

  仲天皇と袁智天皇 (3)

 『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平十九年・747年作成)に見える「仲(なか)天皇」について考察を続けます。諸説ある中で、仲天皇は九州王朝の「天子」の下でのナンバーツー「天皇」であり、天智の皇后、倭姫王とする説が最有力ではないかと、わたしは考えています。また、野中寺の彌勒菩薩像名にある「中宮天皇」を倭姫王とする服部説(注①)も有力です。これらの比較的有力な説が整合するような論証や傍証が必要ですが、今のところ次の諸点に注目しています。

(a) 九州王朝系近江朝(注②)の年号「中元」(668~671年)と「仲天皇」「中宮」の「中(仲)」(ちゅう・なか)が共通するのは偶然ではなく、中宮に居した天皇なので「仲天皇」「中宮天皇」と呼ばれ、その元号も「中元」(注③)としたのではあるまいか。あるいは、「仲天皇」が居していた宮なので「中宮」と呼ばれたのかもしれない。

(b) 『養老律令』などには、庚午年籍(天智十年・670年)の造籍が「近江大津宮天皇」によるものとされている。これは野中寺彌勒菩薩像銘の「丙寅年(666年)・中宮天皇」の在位中と思われることから、庚午年籍を造籍した「近江大津宮天皇」とは「中宮天皇=仲天皇=倭姫王」と理解できる(注④)。この九州王朝系の仲天皇が造籍を命じたので、全国の国造・評督らは従ったのではあるまいか。

(c) 庚午年籍造籍時(670年)、唐の筑紫進駐軍は造籍を妨害・阻止していないことが、九州諸国の庚午年籍の存在が『続日本紀』(注⑤)に見えることから明らかである。従って、造籍主体の仲天皇(近江大津宮天皇)は〝反唐〟勢力ではなかったと考えられる。

 以上の仮説を積み上げる作業を続けています。ひとつでも不適切であれば構想の全体像が崩れますので、現時点では決めつけることはせずに慎重に進めたいと思います。(つづく)

(注)
①服部静尚「七世紀後半に近畿天皇家が政権奪取するまで」『古田史学会報』157号、2020年。
同「中宮天皇 ―薬師寺は九州王朝の寺―」『古代史の争点』(『古代に真実を求めて』25集)古田史学の会編、2022年、明石書店。
②正木 裕「『近江朝年号』の実在について」『古田史学会報』133号、2016年。
③多利思北孤の年号として「法興」が知られているが、法隆寺釈迦三尊像光背銘には「法興元」とあり、年号表記の様式として「中元」も同一と思われる。
④「近江大津宮天皇」を「中宮天皇」のこととする、服部静尚氏の先行研究(注①)がある。
⑤『続日本紀』に見える次の記事が見える。
「筑紫諸国の庚午年籍七百七十巻、官印を以てこれに印す。」『続日本紀』神亀四年七月条(727)。


第2970話 2023/03/20

続・異形の王都、近江大津宮

 「洛中洛外日記」2967話(2023/03/17)〝異形の王都、近江大津宮
〟で考察したように、律令制国家の一大事業である全国的戸籍(庚午年籍)の造籍が近江大津宮天皇(天智)により670年(天智九年、白鳳十年)に行われているにもかかわらず、律令制王都に不可欠な巨大条坊を近江大津宮は備えていません。そこで、九州王朝の複都、難波京(前期難波宮)が依然として行政の中枢にあり、従って数千人の律令制官僚群は難波で執務していたと考えるに至りました。従って、庚午年籍の造籍実務は前期難波宮の官僚群(中務省か)によりなされたことになります。
こうした理解と関連しそうな事象が、『日本書紀』天武紀上の〝壬申の乱(天武元年・672年)〟記事に見えます。乱の勃発により、近江朝側(大友皇子)は、吉備国と筑紫国大宰に「符(おしてのふみ)」(注①)を発し、味方につくよう命じますが不首尾に終わります。ここで不審に思ったのですが、なぜ難波宮に使者を派遣しなかったのでしょうか。更に、壬申の乱では難波宮争奪戦が行われた形跡も見えず、難波宮は壬申の乱においてどのような立ち位置なのかも『日本書紀』からは不明でした。単純化して考えると、次のようなケースがあります。

(a) この時期の難波宮は機能しておらず、官僚群も近江大津宮に移動していた。だから、使者を派遣する必要もなかった。
(b) 難波宮は機能していて、その官僚群の上司らは近江大津宮にいた。従って、難波宮の官僚群は近江朝の部下だったので使者を派遣するまでもないと近江朝は判断した。
(c) 難波宮の官僚群は表面上は近江朝の上司らに従ったが、天武側には中立の意向を伝えていたので、争奪戦は起こらなかった。

 この内、(a)のケースは、既に指摘してきたように近江大津宮に巨大条坊がないため、除外できます。そうすると、(b)(c)あたりが可能性として残りますが、前期難波宮自身が三方を海や川、河内湾(湖か)に囲まれた要衝の地にありますから、大勢が決するまで日和見を決め込んだのかも知れません。少なくとも『日本書紀』には味方についたとも敵にまわったとも書かれていませんし、そもそも難波京に残った有力者らしき人物も不明です(注②)。この点も今後の研究課題のようです。

(注)
①「符(おしてのふみ)」とは上級の官庁から下級の官庁へ出す文書。
②『続日本紀』に散見する「壬申の功臣」記事の精査により、判明するかも知れない。


第2967話 2023/03/17

異形の王都、近江大津宮

 律令制王都に必要な五つの絶対条件(注①)から見た近江大津宮(近江京)に、都として必要な巨大条坊都市が見当たらないことについて考察を続けます。
近江大津宮(近江京)に関係する重要な論文「日本国の創建」(注①)が古田先生から発表されています。これは古田先生の数ある論文の中でも非常に異質であるにもかかわらず、古田説の中での位置づけが難解で、古田学派の研究者からもほとんど注目されてきませんでした。その冒頭には次のように記されています。

「実証主義の立場では、日本国の成立は『天智十年(六七一)』である。隣国の史書がこれを証言し、日本書紀もまたこれを裏付ける。」

 これは天智十年に日本国が成立したとする仮説で、その主体は天智天皇とされています。この新説と701年に九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)へ王朝交代したとする従来の九州王朝説とが、はたして整合するのだろうかと、わたしには難解な内容でした。後に、正木裕さんの「九州王朝系近江朝」説(注②)の登場により、ようやく九州王朝説との縫合が可能になったと思われました。
また、律令制国家の一大事業である全国的戸籍(庚午年籍)の造籍が近江大津宮天皇(天智)により670年(天智九年、白鳳十年)に行われています。すなわち、「日本国の創建」も「全国的戸籍の造籍」も中央集権的な律令体制を前提としているはずですから、近江大津宮は律令制王都であると、わたしは理解してきました。ところが、今回の分析手法(注③)によれば、「巨大条坊都市の存在」という、律令制王都としての絶対条件の一つを近江大津宮は満たしていないことに気付き、愕然としたのです。
そこで、改めて当時の情勢を見たとき、九州王朝の複都、難波京(前期難波宮)が健在であることに着目しました。『日本書紀』によれば、前期難波宮は朱鳥元年(686)に焼亡していますから、天智の時代は機能していたと考えられます。前期難波宮で執務する八千人近くの官僚や、その家族・従者・商工業者・兵士ら数万人が居住する巨大条坊都市難波京が健在であったことは、考古学的にも証明されています。大阪歴博の考古学者、佐藤隆さんの「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(注④)に次の記述があります。

「考古資料が語る事実は必ずしも『日本書紀』の物語世界とは一致しないこともある。たとえば、白雉4年(653)には中大兄皇子が飛鳥へ“還都”して、翌白雉5年(654)に孝徳天皇が失意のなかで亡くなった後、難波宮は歴史の表舞台からはほとんど消えたようになるが、実際は宮殿造営期以後の土器もかなり出土していて、整地によって開発される範囲も広がっている。それに対して飛鳥はどうなのか?」
「難波Ⅲ中段階は、先述のように前期難波宮が造営された時期の土器である。続く新段階も資料は増えてきており、整地の範囲も広がっていることなどから宮殿は機能していたと考えられる。」

 佐藤さんのこの指摘は、考古学者から発せられた本格的な『日本書紀』批判(既存の文献史学批判)であるとわたしは紹介し(注⑤)、「古田史学の会」講演会にもお招きし、講演していただきました(注⑥)。

 以上の事実を直視すれば、行政の中枢は依然として難波京(前期難波宮)にあり、従って数千人の律令制官僚群は難波で執務していたと考えざるを得ません。(つづく)

(注)
①古田武彦「日本国の創建」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、一九八七年。ミネルヴァ書房より復刻。
②正木 裕「『近江朝年号』の実在について」『古田史学会報』133号、2016年。
③古賀達也「洛中洛外日記」2966話(2023/03/16)〝律令制王都諸説の比較評価〟
④佐藤隆「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」大阪歴博『研究紀要』15号、2017年。
⑤古賀達也「洛中洛外日記」1407話(2017/05/28)〝前期難波宮の考古学と『日本書紀』の不一致〟
⑥同「洛中洛外日記」2656話(2022/01/07)〝令和四年新春古代史講演会の画期〟


第2966話 2023/03/16

律令制王都諸説の比較評価

 律令制王都には少なくとも五つの絶対条件(注①)を備えていなければならないことに気づき、古田学派内で論議されている諸説ある七世紀の王都について比較評価してみました。もっと深い考察が必要ですが、現時点では次のように考えています。◎(かなり適切)、○(適切)、△(やや不適切)、×(不適切)で比較評価を現しました。

(1)官衙 (2)都市 (3)食料 (4)官道 (5)防衛
倭京(太宰府)  △   〇    〇    〇    ◎
難波京     ◎   ◎    〇    〇水運  ◎
近江京     〇   ×    〇    〇水運  〇
藤原京     ◎   ◎    〇    〇    ◎
伊予「紫宸殿」  ×   ×    〇    〇水運  ×

 伊予「紫宸殿」説は、愛媛県西条市の字地名「紫宸殿」の地を九州王朝の「斉明」天皇が白村江戦の敗北後に遷都したとする説で、古田先生や合田洋一さんが唱えたもので、王都遺構は未検出です(注②)。
実は、今回の5条件による評価結果に、わたしは驚きました。近江京の評価が思いのほか低かったからです。その理由は、当地の発掘情況や地勢的にも琵琶湖と比良山系に挟まれた狭隘の地であることから、八千人にも及ぶ律令制官僚やその家族が居住可能な巨大条坊都市はありそうもないことです。
わたしは以前に「九州王朝の近江遷都」(注③)を発表していましたし、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は「九州王朝系近江朝」説(注④)を発表しています。ですから、近江京が王都であったことを疑ってはいません。しかし、今回の考察によれば近江京は律令制王都の条件を満たしていません。このことをどのように理解するべきでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2963話(2023/03/13)〝七世紀の九州王朝都城の絶対条件〟において、律令制王都の絶対条件として次の点をあげた。
《条件1》約八千人の中央官僚が執務できる官衙遺構の存在。
《条件2》それら官僚と家族、従者、商工業者、首都防衛の兵士ら数万人が居住できる巨大条坊都市の存在。
《条件3》巨大条坊都市への食料・消費財の供給を可能とする生産地や遺構の存在。
《条件4》王都への大量の物資運搬(物流)を可能とする官道(山道・海道)の存在。
《条件5》関や羅城などの王都防衛施設や地勢的有利性の存在。

②古田武彦『古田武彦の古代史百問百答』ミネルヴァ書房、平成二七年(二〇一五)。
合田洋一『葬られた驚愕の古代史』創風社出版、2018年。
③古賀達也「九州王朝の近江遷都」『古田史学会報』61号、2004年。
④正木 裕「『近江朝年号』の実在について」『古田史学会報』133号、2016年。


第2918話 2023/01/16

多元史観から見た古代貨幣「無文銀銭」

七世紀以前の九州王朝(倭国)時代の貨幣として、最も古いものが無文銀銭です。重量が約10gに調整されていることから、銀地金としての価値に基づく、秤量貨幣として使用されたものと思われます。
出土分布の中心は難波であり、次いで崇福寺遺跡から12枚出土(注①)した滋賀県や奈良県です。残念ながら、無文銀銭も九州からの出土は確認できていません。九州王朝(倭国)の時代、七世紀以前の貨幣であるにもかかわらず、近畿地方からの出土が中心であり、九州王朝説の立場からは説明困難な事実です。この点、前期難波宮を九州王朝の複都の一つとする説(注②)や、九州王朝近江遷都説(注③)、九州王朝系近江朝説(注④)であれば、こうした出土事実をうまく説明できます。
他方、『日本書紀』顕宗紀には不思議な銀銭記事があります(注⑤)。

○「冬十月戊午朔癸亥(6日)に、群臣に宴(とよのあかり)したまふ。是の時に、天下、安く平かにして、民、徭役(さしつか)はるること無し。歳比(しきり)に登稔(としえ)て、百姓殷(さかり)に富めり。稲斛(ひとさか)に銀銭一文をかふ。馬、野に被(ほどこ)れり。」『日本書紀』顕宗二年(486年)十月条。

通説では、この銀銭記事は『日本書紀』編者による脚色であり、『後漢書』明帝紀からの転用とされています。しかし、当該部分を比較すると、『日本書紀』編者は理由があって「銀銭一文」記事を採用したと考えざるを得ません。

○「是歳、天下安平、人無徭役、歳比登稔、百姓殷富、粟斛三十、牛羊被野」『後漢書』明帝紀
○「是時、天下安平、民無徭役、歳比登稔、百姓殷富、稲斛銀銭一文、馬被野」『日本書紀』顕宗紀

両者を比較して注目されるのが、「粟斛三十」→「稲斛銀銭一文」と、「牛羊被野」→「馬被野」です。当時の日本列島に牛や羊が野に放たれるほどいたとは思えませんから、「馬」に書き変えたものと思われます。あるいは馬が活躍する時代であったため、「馬」にしたのではないでしょうか。すなわち、日本列島の実情に沿った表現に〝正しく〟修正されていると言えます。そうであれば、「粟斛三十」から「稲斛銀銭一文」への修正も歴史事実、あるいは史料事実に基づいたものではないでしょうか。「粟」から「稲」への変更は、水田稲作が盛んな日本列島にふさわしい修正ですから、「稲斛」が「銀銭一文」に相当するという修正記事も、歴史事実を反映したものと考えるのが史料批判の結果、穏当な解釈と思われます。
この理解が正しければ、「馬」や「銀銭」記事が顕宗二年(486年)という時代に入れられた理由もあったはずです。この五世紀末頃という時代は〝倭の五王〟(『宋書』)の一人、倭王武の治世です。軍事力とそれを支える経済力を背景に、倭王武は日本列島各地や朝鮮半島へ侵攻しており、その象徴的表現が「馬」(騎馬軍団)であり、「銀銭」と考えることができます。そうであれば、「稲斛」と交換した「銀銭一文」こそ、九州王朝(倭国)の無文銀銭だったのではないでしょうか。無文銀銭は銀地金として、銀象嵌(注⑥)や銀細工の原材料にもなり、各地の豪族に喜ばれたはずです。倭国の「銀本位制」(古田先生談)は、この時代まで遡ることが可能かもしれません。(つづく)

(注)
①出土時は12枚と報告されているが、現存するのは11枚とのことである。
②古賀達也「洛中洛外日記」2596話(2021/10/17)〝両京制と複都制の再考 ―栄原永遠男さんの「複都制」再考―〟
③古賀達也「九州王朝の近江遷都」『古田史学会報』61号、2004年4月。『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年に収録。
同「洛中洛外日記」580話(2013/08/15)〝近江遷都と王朝交代〟
④正木裕「『近江朝年号』の実在について」『古田史学会報』133号、2016年4月。
古賀達也「九州王朝を継承した近江朝庭 — 正木新説の展開と考察」『古田史学会報』134号、2016年6月。『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』二十集。明石書店、2017年)に転載。
正木裕「『近江朝年号』の研究」(『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』二十集。明石書店、2017年)に転載。
⑤日本古典文学大系『日本書紀 上』岩波書店、1986年版。
⑥江田船山古墳(熊本県和水町)、稲荷台1号墳(千葉県市原市)、岡田山1号墳(島根県松江市)出土の銀象嵌鉄剣(太刀)などが著名である。


第2608話 2021/11/04

大化改新詔「畿内の四至」の諸説(4)

 佐々木高弘さんの「『畿内の四至』と各都城ネットワークから見た古代の領域認知 ―点から線(面)への表示―」(注①)には、畿内の四至以外にも重要な指摘がありました。それは大津京が畿内の外にあり、古代の都城ネットワークのなかでも異質の存在であるとの指摘です。近江大津宮が大和朝廷の畿内の外にあることは、今までも指摘されてきたことですが、歴史地理学の佐々木論文でも次のように記されています。

〝大津京を語る場合、当時の政治的問題や時代背景を無視できないのは周知のことであるが、ここでは図化されたものから論ずるにとどめる。
 第一に、大津京は畿外にあって王城の地「畿内」という定義をくずしている。(中略)「畿内の四至」の外に都城があるという絶対的な問題は解消できず、この時より従来の畿内制とは大きく変わって来ているという事が指摘できる。〟30~31頁

 ここで指摘されているように、大津京は畿内の定義をくずしており、従来の畿内制の概念とは大きく異なります。すなわち大津京は大和朝廷の畿内制から外れた都城ということです。これは近江大津宮を九州王朝の都とする古賀説(注②)や、同じく九州王朝系近江朝とする正木説に有利な指摘ではないでしょうか。
 歴史地理学にも多元史観を導入する事により、古代史研究に新たな視点や方法論が得られるように思われます。

(注)
①佐々木高弘「『畿内の四至』と各都城ネットワークから見た古代の領域認知 ―点から線(面)への表示―」『待兼山論叢』日本学篇20、1986年。
②古賀達也「九州王朝の近江遷都」『古田史学会報』61号、2004年4月。
③正木 裕「『近江朝年号』の実在について」『古田史学会報』133号、2016年4月。


第2429話 2021/04/10

百済人祢軍墓誌の「日夲」について (3)

 ―対句としての「日夲」と「風谷」―

 石田泉城さんの「『祢軍墓誌』を読む」(注①)では、百済人祢軍墓誌に見える「于時日夲餘噍」を「于時日、夲餘噍」(この時日、当該の餘噍は)とする新読解を発表されました。「本」と「夲」は別字であり、墓誌の「日夲」を国名の「日本」とはできないとしたため、こうした読解に至ったものと思われます。漢文の訓みとしては可能なのかもしれませんが、この訓みを否定することになる見解を東野治之さんが発表していますので紹介します。

 百済人祢軍墓誌の当該部分は次の通りです。

「于時日本餘噍據扶桑以逋誅風谷遺氓負盤桃而阻固」

 これを東野さんは次のように訓まれ、正格漢文として対句になっているとされました。(注②)

「時に日本の餘噍、扶桑に據りて以て誅を逋(のが)れ、風谷の遺氓、盤桃を負いて阻み固む。」

 この「日本の餘噍」と「風谷の遺氓」が対句になっており、「正格の漢文体で書かれた文章は、厳格な対句表現を特徴とする。」と指摘されました。ただし東野さんは、この「日本」を国名とはされず、「日本餘噍」は百済の残党とされています(注③)。

 この東野さんの訓みは優れたものと思いますが、わたしは「日本餘噍」を前期難波宮か近江朝に落ち延びた九州王朝の残党と考えており、この点が大きく異なっています。言わば、一元史観と多元史観の相違です。なお、「于時日本餘噍」を「于時日、本餘噍」と区切る訓みは、ブログ「古代史の散歩道など」(注④)の主宰者が既に発表されていますので、ご参考までに当該部分を転載します。

【以下、部分転載】
私の本棚 東野治之 百済人祢軍墓誌の「日本」 2018/07/01
掲載誌『図書』2012年2月号(岩波書店)
(前略)
東野氏は、「于時」を先触れと見て、「日本余噍、拠扶桑以逋誅」とこれに続く「風谷遣甿、負盤桃而阻固」を四字句+六字句構成の対句と捉え、まことに、妥当な構文解析と思う。
ここに、当ブログ筆者は、「于時日本余噍、拠扶桑以逋誅」と六字句+六字句と読めるではないか、そして、それぞれの六字句は、三字句+三字句で揃っているのではないか、と、あえて異説を唱え、見解が異なる。
つまり、当碑文は、「于時日 本余噍 拠扶桑 以逋誅」と読み、国号にしろ、詩的字句にしろ「日本」とは書いてないとするのが、当異説の壺であり、無謀かも知れないが旗揚げしているのである。
ちなみに、「本余噍」とは、「本藩」、すなわち「百済」余噍、つまり、「百済」残党である。
従って、当碑文は「日本」国号の初出資料ではないと見るのである。これは、東野氏の説くところに整合していると思う。(後略)
【転載おわり】

 百済人祢軍墓誌については『古代に真実を求めて』16集(2013年、明石書店)で特集しており、ご参照いただければと思います。次の論稿が掲載されています。

阿部周一 「百済祢軍墓誌」について ―「劉徳高」らの来倭との関連において―
「百済禰軍墓誌」について — 「劉徳高」らの来倭との関連において 阿部周一(古田史学会報111号)

古賀達也 百済人祢軍墓誌の考察
百済人祢軍墓誌の考察 古賀達也(古田史学会報108号)

水野孝夫 百済人祢軍墓誌についての解説ないし体験
資料大唐故右威衛将軍上柱国祢公墓誌銘并序

(注)
①石田泉城「『祢軍墓誌』を読む」『東海の古代』№248、2021年4月
②東野治之「百済人祢軍墓誌の『日本』」岩波書店『図書』756号、2012年2月。
③東野治之「日本国号の研究動向と課題」『史料学探訪』岩波書店、2015年。初出は『東方学』125輯、2013年。
④https://toyourday.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/post-337c.html

百済人祢軍墓誌


第2238話 2020/08/22

天智天皇を祀る神社の分布

 近江朝や天智天皇について知見と研究を深めています。『近江神宮 天智天皇と大津京』(新人物往来社、平成三年)に興味深い記事がいくつもありましたので、その中から天智天皇を祀る神社の分布についての記事を紹介します。
 近藤喜博さんの「天智天皇に対する賛仰とその奉祀神社」に天智天皇を祭神とする神社を「管見の及ぶ限り」として、次の様に紹介されています。

○県社 村山神社(愛媛県宇摩郡津根村)
○郷社 鉾八幡神社(香川県三豊郡財田村)
○郷社 恵蘇八幡宮(福岡県朝倉郡朝倉村)
○郷社 山宮神社(鹿児島県曽於郡志布志町)
○村社 山宮神社(鹿児島県曽於郡志布志町田之浦)
○村社 石座神社(滋賀県滋賀郡膳所町大字錦)
○村社 皇小津神社(滋賀県野洲郡河西村)
○村社 早鈴神社(鹿児島県姶良郡隼人町)
○無格社 葛城神社(鹿児島県日置郡西市来村)
○無格社 新宮神社(鹿児島県伊佐郡羽目村)※「伝天智天皇」と称する。
○無格社 山口神社(鹿児島県曽於郡末吉町南之郷)
○無格社 多羅神社(鹿児島県揖宿郡揖宿村)

 これらを県別に見ますと、次の様な分布数になります、

□滋賀県  2社
□香川県  1社
□愛媛県  1社
□福岡県  1社
□鹿児島県 7社

 近江朝廷があった滋賀県の2社は当然としても、鹿児島県の7社は異様な数です。これは鹿児島県や宮崎県に伝承されている「大宮姫」伝説に関わる神社が多いことが原因です。(つづく)


第2237話 2020/08/21

上皇陛下の天智天皇讃歌(平成二年御製)

 明治天皇の「即位の詔勅」が宣命体であり、そこに天智天皇や神武天皇の業績が特筆されていることに驚いたのですが、天智天皇が日本国の基礎を築いたという認識が現在の上皇陛下へも続いていることを最近になって知りました。そのことについて紹介します。
 ご近所の古本屋さんにあった『近江神宮 天智天皇と大津京』(新人物往来社、平成三年)を格安で購入したのですが、その巻頭グラビア写真に当時の天皇・皇后(現、上皇・上皇后)のお歌が掲載されていました。近江神宮の宮司、佐藤忠久さんが書かれたものです。

 「近江神宮五十年祭にあたって」
「今上陛下 御製」
「日の本の国の基を築かれし すめらみことの古思ふ」
「皇后陛下 御歌」
「学ぶみち 都に鄙に開かれし 帝にましぬ 深くしのばゆ」
  「近江神宮 宮司 佐藤久忠謹書 (印)」

 この御製御歌は、近江神宮御鎮座50周年(平成二年、1990年)の式年大祭に際して、当時の両陛下から賜ったものと説明されています。御製に「日の本の国の基を築かれし すめらみこと」とあり、近江神宮に下賜されたものであることから、この「すめらみこと」とは天智天皇です。その天智天皇が日本国の基を築かれたという認識に、わたしは注目したのです。おそらくこれは、皇室や宮内庁の共通の歴史認識に基づかれたものと思われます。
 古田先生は、『よみがえる卑弥呼』(駸々堂、1987年)に収録されている「日本国の創建」という論文で、671年(天智十年)、近畿天皇家の天智天皇の近江朝が「日本国」を創建したとする説を発表されています。偶然かもしれませんが、この古田説と御製に示された認識が、表面的ではあれ一致しています。あらためて天智天皇や近江朝に関する研究史を精査する必要を感じました。


第2229話 2020/09/09

文武天皇「即位の宣命」の考察(11)

 文武天皇と元明天皇の「即位の宣命」の考察結果が、古田先生による天智天皇(近江朝)による671年(天智十年)の「日本国」創建という〝奇説〟と正木裕さんの「九州王朝系近江朝」説とに結びつき、671年の「王朝統合」(禅譲に近い)と701年の「王朝交替」という九州王朝末期の歴史復元が可能となりました。
 しかしながら、671年の「王朝統合」は、九州年号「白鳳」(661~683年)が改元されず継続していることから、天武と大友皇子との「壬申の大乱」により「九州王朝系近江朝」は滅び、元々の九州王朝が継続することになったことがわかります。
 この「王朝統合」(禅譲に近い)と「壬申の大乱」(九州王朝系近江朝の滅亡)のことが、元明天皇から元正天皇への「譲位の詔」に記されていることを本シリーズの最後に紹介します。それは霊亀元年(715年)「譲位の詔勅」冒頭の次の記事です。

〝(元明)天皇、位を氷高内親王(元正天皇)に禅(ゆず)りたまふ。詔して曰はく、
 「乾道は天を統べ、文明是(ここ)に暦を馭す。大なる宝を位と曰ひ、震極、所以に尊に居り。
 昔者(むかし)、揖譲(いうじょう)の君、旁(ひろ)く求めて歴(あまね)く試み、干戈(かんか)の主、体を継ぎて基(もとい)を承(う)け、厥(そ)の後昆(こうこん)に貽(のこ)して、克(よ)く鼎祚(ていそ)を隆(さか)りにしき。朕、天下に君として臨み、黎元(おほみたから)を撫育するに、上天の保休を蒙り、祖宗の遺慶に頼(よ)りて、海内晏静にして、区夏安寧なり。(後略)」〟
 『続日本紀』巻第六、元明天皇霊亀元年九月二日条

 この詔の「昔者(むかし)、揖譲(いうじょう)の君、旁(ひろ)く求めて歴(あまね)く試み、干戈(かんか)の主、体を継ぎて基(もとい)を承(う)け、厥(そ)の後昆(こうこん)に貽(のこ)して、克(よ)く鼎祚(ていそ)を隆(さか)りにしき。」という部分にわたしは着目しました。その大意は次のようです。

①「昔者、揖譲の君、旁く求めて歴く試み」
 昔、天子の位を禅譲(揖譲)する者は優れた人材を各地から集め、その才能を試み、
②「干戈の主、体を継ぎて基を承け」
 武力(干戈)により位についた者は、天子の位を継承し、
③「厥の後昆に貽して、克く鼎祚を隆りにしき。」
 それを子孫(後昆)に継承し、天子の地位(鼎祚)を確かなものにした。

 通説では、この文を古代中国における禅譲や放伐による王朝の興亡を故事として述べたものと理解されてきたと思われますが、九州王朝説に立てば、極めて具体的な歴史事実を示したものととらえることができます。
 この詔を聞いた官僚や諸豪族は、九州王朝から大和朝廷への王朝交替というわずか十数年前の歴史事実に照らしてこの文を受け止めるのではないでしょうか。少なくとも、『古事記』や『日本書紀』に記された近畿天皇家の歴史に禅譲など存在しませんから、元明天皇の「譲位の詔」に自らと無関係な古代中国の禅譲の故事など不要ですし、むしろ禅譲などする気もない近畿天皇家にとって無用の故事です。
 しかし、「王朝統合」(禅譲に近い)と「壬申の大乱」(九州王朝系近江朝の滅亡)という新たな仮説に照らして考えると、「揖譲の君」は「九州王朝系近江朝」の天皇位を天智に禅譲した九州王朝の天子のことであり、その「九州王朝系近江朝」を武力討伐した天武は「干戈の主」に対応しています。そしてその子孫である大和朝廷の天皇は「厥の後昆・鼎祚」というにぴったりです。
 この元明の「譲位の詔」ではこうした歴史認識が示された後に、元正への譲位が宣言されます。そして、元正天皇の時代(720年)に編纂された『日本書紀』には、天智に禅譲した九州王朝の天子はもとより、九州王朝の存在そのものが隠されていますし、天智が定めた「不改常典」さえも登場しません。すなわち、自らの権威の淵源を天孫降臨以来の神々と初代神武天皇とすることにより、文武天皇や元明天皇の「即位の宣命」とは似て非なる大義名分を造作し、それを国内に流布するという政略を大和朝廷は採用しました。その結果、『日本書紀』の一元的歴史観は千三百年にわたりわが国の基本歴史認識となりました。しかし、九州王朝の存在や王朝交替を認めないその基本認識(一元史観)では、禅譲による近江朝の樹立と天皇即位の根拠になった「不改常典」について正しく理解することが困難なため、諸説入り乱れるという古代史学界の今日の状況を生み出すこととなったようです。(おわり)


第2228話 2020/09/08

文武天皇「即位の宣命」の考察(10)

 元明天皇の「即位の宣命」にあるように、近畿天皇家の天皇即位の根拠や王朝交替の正統性が、天智天皇が定めた「不改常典」法にあるとすれば、そのことと深く関わる論文二編があります。
 一つは古田先生の著書『よみがえる卑弥呼』(駸々堂、1987年)に収録されている「日本国の創建」という論文で、671年(天智十年)、近畿天皇家の天智天皇の近江朝が「日本国」を名乗ったとされています。これは古田史学の中でも〝孤立〟した説で、古田学派内でもほとんど注目されてこなかった論文です。言わば古田説(九州王朝説)の中に居場所がない〝奇説〟でした。
 もう一つの論文は、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の「『近江朝年号』の実在について」(『古田史学会報』133号、2016年4月)です。これは、近畿天皇家出身の天智が九州王朝を受け継いで近江大津宮で即位し、九州王朝(倭国)の姫と思われる「倭姫王」を皇后に迎えたというものです。すなわち、「九州王朝系近江朝」という概念を提起されたのです(注①)。
 この正木さんの「九州王朝系近江朝」説により、古田先生の671年(天智十年)に近畿天皇家の天智天皇の近江朝が「日本国」を名乗ったという〝奇説〟が、従来の九州王朝説の中で、671年の「王朝統合」(禅譲に近い)と701年の「王朝交替」という結節点と臨界点としての位置づけが可能となり、九州王朝末期における新たな歴史像の提起が可能となったように思われます。ただし、671年の「王朝統合」は天武と大友皇子との「壬申の大乱」により水泡に帰します。近世史でいえば、幕末の「公武合体」が失敗したようにです。しかし、このとき天智により定められた「不改常典」法が701年の王朝交替とその後の天皇即位の正統性の根拠とされました。その痕跡が本シリーズで紹介してきたように、文武天皇と元明天皇の「即位の宣命」に遺されたのです(注②)。(つづく)

(注)
①次の関連論文がある。
 正木 裕「『近江朝年号』の研究」(『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』明石書店、2017年)に収録。
 古賀達也「九州王朝を継承した近江朝庭 正木新説の展開と考察」(『古田史学会報』134号、2016年6月)。『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集。明石書店、2017年)に転載。
②王朝交替期における大和朝廷による九州王朝の権威の継承や、それを現す「倭根子天皇」という表記について、次の拙稿で論じているので、参照されたい。
 古賀達也「九州王朝系近江朝廷の『血統』 ―『男系継承』と『不改常典』『倭根子』―」(『古田史学会報』157号、2020年4月)