浦島太郎一覧

第2014話 2019/10/13

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(9)

 九州王朝(倭国)の都、太宰府から土佐に向かう7番目の官道として、足摺岬(土佐清水市)から黒潮に乗り、「裸国」「黒歯国」(ペールー、エクアドル)へ向かう「大海道」(仮称)があったとする作業仮説(思いつき)を提起し、次の九州王朝「七道」案を示しました。

【九州王朝(倭国)の七道】(案)
○「東山道」「東海道」→「蝦夷国」(多賀城を中心とする東北地方)
○「北陸道」「北海道」→「粛慎国」(ロシア沿海州と北部日本海域)
○「西海道」→「百済国」(朝鮮半島の西南領域)
○「南海道」→「流求國」(沖縄やトカラ列島・台湾を含めた領域)
○仮称「大海道」→「裸国」「黒歯国」(ペールー、エクアドル)

 この思いつきに至ったとき、わたしは思わず[あっ」と声を発してしまいました。こうやの宮(福岡県みやま市)の上半身裸の「南の国」からの使者と思われる御神像は「流求国」ではなく、倭人伝に記された「裸国」からの使者ではないかと思い至ったのです。
 そもそも、「南の国」からの使者が九州王朝を訪問したとき、上半身裸で倭王に謁見したとは考えられません。だいいち、倭国(筑前・筑後)は夏でも上半身裸でおれるほど暖かくはないと思われますし、倭王に謁見するのに上半身裸は失礼ではないでしょうか。そうすると、御神像が上半身裸として作製されたのは、「南の国」からの使者にふさわしい姿として、実見情報ではなく、別情報によったと考えざるを得ません。その別情報こそ、「裸国」という国名だったのではないでしょうか。九州王朝内で伝わった外交文書中に記されていたであろう「裸国」という国名に基づき、「裸の国」からの使者にふさわしい想像上の人物として、あの上半身裸の御神像が成立したと思われるのです。
 このような理解に立つとき、こうやの宮の四人の使者の出身国は蝦夷国(東)・百済国(西)・裸国(南)・粛慎国(北)となります。更に、「南海道」の最終到着国は「裸国」ではないかというアイデアも出てきますが、これ以上あまり先走りすることなく、慎重に仮説の検証を続けたいと思います。(おわり)

〔謝辞〕本シリーズの論証は、次の方々による古代官道に関する先駆的研究業績に基づいています。お名前を紹介し、感謝の意といたします。
 肥沼孝治さん(古田史学の会・会員、東村山市)、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)、山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)。

 あわせて、「東に向かっているのになぜ北陸道なのか」という疑問をFACEBOOK上で寄せていただいたKさん(コジマ・ヨシオさん)、「流求国」についての知見をご教示いただいた正木裕さんにも御礼申し上げます。Kさんのコメント(疑義)がなければ本シリーズは誕生していなかったといっても過言ではありません。〝学問は批判を歓迎する〟という言葉が真実であることを改めて深く認識することができました。


第2013話 2019/10/13

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(8)

 九州王朝(倭国)官道の名称や性格について論じてきた本シリーズもようやく最終局面を迎えました。今回は、わたしに残された二つの疑問に挑戦してみます。一つ目は、大和朝廷は「七道」なのに、なぜ九州王朝は「六道」なのか。二つ目は、山田春廣さん作製マップによれば太宰府から本州方面にむかう「北陸道」「東山道」「東海道」により、ほぼ全ての国がその管轄下におかれるのですが、四国の「土佐」が直接的にはどの官道も通らない〝空白国〟なのはなぜか、という疑問です(土佐国へは「東海道」枝道が通じていたのではないかとのご指摘を西村秀己さんからいただきました)。
 一つ目の疑問は、「たまたま、九州王朝は六道になり、大和朝廷は七道になった」とする地勢上の理由として説明することも可能です。しかし、九州王朝の官道に倣って大和朝廷も「七道」にしたとすれば、九州王朝にはもう一つの「道」があったのではないかと、わたしは考えました。そのように推定したとき、二つ目の疑問〝土佐国の空白〟が、残りの「一道」に関係しているのではないかと思いついたのです。
 それでは古代において、太宰府から土佐に向かう、しかも他の「六道」に匹敵するような重要官道はあったのでしょうか。そのような「重要官道」をわたしは一つだけ知っています。それは魏志倭人伝に記された「裸国」「黒歯国」(南米、古田武彦説)へ向かう太平洋を横断する〝海流の道〟です。倭人伝には次のように記されています。

 「女王國東、渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國、黑齒國復在其東南、船行一年可至。」『三国志』魏志倭人伝

 ここに見える「侏儒国」の位置は四国の西南岸部と思われ、その南の足摺岬(土佐清水市)から黒潮に乗り、倭人は「船行一年」(二倍年歴による)かけて「裸国」「黒歯国」(ペールー、エクアドル)へ行っていると記録されているのです。この「裸国」「黒歯国」と九州王朝との往来がいつの時代まで続いていたのかは不明ですが、九州王朝にとっては誇るべき〝国際交流〟であったことを疑えません。
 この太平洋を横断する〝海流の道〟(行きは黒潮に乗る北側ルート。帰りは赤道反流に乗る南側ルート)の名称は不明ですが、仮に「大海道」と名付けたいと思います。もっと良い名称があればご提示下さい。
 もしこの作業仮説(思いつき)も含めれば、九州王朝(倭国)官道は大和朝廷と同じ「七道」とすることができますが、いかがでしょうか。(つづく)

【九州王朝(倭国)の七道】(案)
○「東山道」「東海道」→「蝦夷国」(多賀城を中心とする東北地方)
○「北陸道」「北海道」→「粛慎国」(ロシア沿海州と北部日本海域)
○「西海道」→「百済国」(朝鮮半島の西南領域)
○「南海道」→「流求國」(沖縄やトカラ列島・台湾を含めた領域)


第974話 2015/06/08

『古田史学会報』128号のご紹介

今日は昼過ぎからずっと雨です。梅雨入りですから仕方ありませんが、雨の日は自転車通勤できませんので、朝は1時間ほど早起きしなければなりません。生活や仕事のリズムがちょっとくるいますので、やっぱり晴れのほうが好きです。
うっとうしいのは梅雨空だけではなく、仕事中に聞き慣れない会社から変な電話がありました。用件を聞いてみると、どうやらヘッドハンティングの会社で、わたしを誘っているクライアントからの依頼を受けてとのことでした。もちろん、即、断りました。わたしはこれでも愛社精神は強い方で、今の仕事に使命感も持っていますので。
ちなみに、ヘッドハントを受けたのは、今日で2回目です。1回目は40歳くらいのときで、このときも断りました。勤務地が東京でしたので、京女の妻が反対するのは目に見えてもいましたから。30代のときも、ヘッドハントではありませんが、一緒に起業しないかと誘いを受けたことがありました。全て断って正解でした。そのおかげで今の自分や「古田史学の会」があり、たくさんの研究仲間や同志と出会えたのですから。
『古田史学会報』128号が発行されましたので、掲載稿をご紹介します。1面は久しぶりに投稿された森茂夫さんの論稿で、地元の網野銚子山古墳についての報告です。同古墳の規模が、従来の報告よりも大きいというご指摘で、地元ならではの内容でした。ちなみに、森さんは「浦島太郎」の御子孫です。超有名な人物の御子孫が「古田史学の会」に入っていただいているのですから、それはうれしいものです。
札幌市の阿部さんからは二つの原稿を掲載させていただきました。採用決定はずいぶん以前のことですが、字数が多いため、掲載が延び延びになってしまいました。投稿される方は、なるべく短くまとめた原稿とするようご配慮をお願いします。
掲載稿は次の通りです。

『古田史学会報』128号の内容

○網野銚子山古墳の復権  京丹後市 森茂夫
○6月21日 会員総会・記念講演会のお知らせ
○「短里」の成立と漢字の起源  川西市 正木裕
○「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について  札幌市 阿部周一
○長者考  八尾市 服部静尚
○九州王朝の丙子椒林剣  京都市 古賀達也
○「漢音」と「呉音」 皇帝の国の発音  札幌市 阿部周一
○メルマガ「洛洛メール便」配信のお知らせ
○『古田史学会報』原稿募集
○古田史学の会・北海道 2014年度活動報告  「古田史学の会・北海道」代表 今井俊圀
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己


第928話 2015/04/20

拡大する網野町銚子山古墳

 古田史学の会・会員の森茂夫さん(京丹後市網野町)からお便りが届きました。森さんは当地の日下部氏の末裔で、有名な「浦島太郎」の御子孫でもあり、系図も伝わっています(「洛中洛外日記」27・30話、森茂夫「浦島太郎の二倍年暦」『古田史学会報』53号・2002年12月を御参照下さい)。
 森さんからのお便りによると、当地にある日本海側最大の古墳として有名な銚子山古墳(前方後円墳)の従来の推定規模が誤っており、実際は200mを越す箸墓型古墳であるとのことです。現在の復元推定規模は全長198m、前方部幅80mで佐紀陵山(さきみささぎやま)タイプとされています。ところが、平成20年に古墳の専門家である奥村清一郎さん(当時、京都府立ふるさとミュージアム丹後の学芸員)が銚子山古墳測量図を精査した結果、全長207m、前方部幅110mの箸墓タイプ、より正確に言うと西殿塚(奈良県天理市)タイプというもので、全長が延び、両翼がせり上がりながらバチ状に開いていく美しい形状であることが判明しました。ちなみに従来説の佐紀陵山(さきみささぎやま)タイプはどちらかというと手鏡型に近い、前方部の両端があまり開かないタイプとされてきました。
 この精査された古墳測量図は25cm刻みの等高線を持つもので、かなり詳しく古墳の形状がわかります。わたしは古墳については専門外の素人ですが、測量図の後円部から前方部のくびれ部分を注視しますと、古墳の一段目のテラスが前方部へ外側に広がっていることがわかります(インターネットでも見ることができます)。それを延長すると前方部がバチ状に開く箸墓タイプと推定するのが自然です。逆に従来説のように佐紀陵山タイプに復元すると、テラスの幅を急激に狭くしなければならない上、前方部の幅を狭くする分だけ、墳丘の斜面が急勾配となり、後円部と比較して、かなり不自然な形状になります。
 後方部の先の部分が崩落などにより失われていますので、その部分の復元は現存している墳丘や他の同時代の古墳の形状と無理なく整合させる必要があり、この点、奥村さんの新説の方が従来説よりもはるかに有力な見解だと思います。
 この奥村新説は当地の教育委員会でも発表会が持たれ、注目を浴びたようですが、どういうわけかその後今日に至るまで「無視」されているとのこと。森さんは奥村さんを招いて講演会の開催を京丹後市の関係機関に二度にわたり訴えてきたとのことですが、これも実現されていません。ここでも旧説が居座り、新説を学問論争としてさえも受け入れない実体と何らかの裏事情があるのかもしれません。森さんの御奮闘を応援したいと思います。


第607話 2013/10/12

実見、『赤渕神社縁起』(活字本)

 「洛中洛外日記」第604話で、『赤渕神社縁起』を実見したいと書き、「浦島太郎」の御子孫も日下部氏を名乗っていたことを改めて紹介したのですが、なんとその御子孫の森茂夫さん(京丹後市在住)から、『赤渕神社縁起』をはじめとする「赤渕神社文書」の釈文(当地の研究者により活字化されたもの)の写真ファイルが送られてきました。森さんも九州年号が記されている史料として『赤渕神社縁起』に注目され、現地でこの縁起の活字本を写真撮影されたとのこと。わたしの「洛中洛外日記」でのお願いが、こうも早く実現でき感謝感激しています。森さん、ありがとうございます。
 その写真によれば『赤渕神社縁起』は複数あり、最も古いものは天長五年に成立したものの写本で、再写が繰り返されています。より古い『赤渕神社縁起』写本(赤渕神社縁起1)には九州年号の常色元年(647)、常色三年(649)、朱雀元年(684)が記されていますが、再写の過程で、それら九州年号を不審として、表米の没年「朱雀元年甲申三月十五日」が『日本書紀』に見える「朱鳥元年丙戌三月十五日」(686)に書き換えられている現象も見られました (赤渕神社縁起2)。
 このような史料状況てすので、どの史料が最も史実を伝えているのかを判断する作業、すなわち史料批判がまず必要です。しかも、天長五年成立の『赤渕神社縁起』も、既に改変されている可能性が高く、記事の内容ごとの個別の史料批判も必要と思われ、かなり困難な作業になりそうです。これから少しずつ、その史料批判の成果を報告していきたいと思います。まずはしっかりと読み込んでいきます。(つづく)


第606話 2013/10/06

「日下部氏系図」の表米宿禰と九州年号

 「洛中洛外日記」第604話で紹介しました「表米宿禰」伝承について、追跡調査をしましたので御報告します。
 表米宿禰の子孫が日下部氏を名乗っているとのことなので、「群書類従」の『群書系図部集 第六』(系図部六十七)に収録されている「日下部系図」と「日下部系図別本 朝倉系図」(以下「別本」と記します)を調べてみたところ、「表米」という人物について記録されていました。「日下部系図」では孝徳天皇の孫(有馬皇子の子供)として「表米」が記されており、「別本」では孝徳天皇の子供で、有馬皇子の弟として「表米」が記されています。その記された年代から判断すると、「別本」にあるように孝徳天皇の子供の世代としたほうがよいようです。もっとも、本当に孝徳天皇の子孫であったのかどうかは不明です。何らかの理由があり、後代において近畿天皇家の子孫として系図が創作された可能性が大きいのではないでしょうか。
 「日下部系図」には「表米」について次のように記されています。( )内は古賀による注です。

「養父郡大領(評督か)。天智天皇御宇異賊襲来時。為防戦大将。賜日下部姓。於戦場。被退怱異賊。朱雀元年甲申(684、九州年号)三月十五日卒。朝来郡久世田荘賀納岳奉祝表米大明神。」

 九州年号の「朱雀」が使用されていることが注目されます。赤渕神社縁起では「常色元年」(647)に新羅と交戦したとあるようですが、ここでは「天智天皇御宇異賊襲来時。」とありますから、これが正しければ九州王朝と唐・新羅連合軍との交戦(白村江戦など)の時期ですから、年代的にはよくあいます。
 「別本」では「日下部表米」とあり、次のように記されています。

 「難波ノ朝廷。戊申年(648、常色二年)養父郡(評)ノ大領(評督か)ニ補佐(任か)セラル。在任三年。」

 難波朝廷の戊申年(648、常色二年)に養父評の評督に任命されたことか記されていますが、この時期こそ「難波朝廷天下立評給時」に相当します。なお、 表米には子供が二~三人あり、長男の「都牟自」も「難波朝廷癸丑(653、白雉二年)養父郡(評)補任少領(助督か)。」と記され、己未年(659、白雉 八年)に大領(評督)に転じたと記されています。「都牟自」の没年は「癸未歳死(683、白鳳二十三年)」とありますから、父の「表米」よりも一年早く没したことになります。
 両系図の記録をまとめると、「表米」の年表は次のようになります。

648(常色二年)養父評の評督に就任。
653(白雉二年)長男の都牟自が養父評助督に就任。
659(白雉八年)長男の都牟自が評督に転任。
662頃 襲来した異賊(新羅か)と交戦し勝つ。この功績により「日下部」姓をおそらく九州王朝から賜る。
683(白鳳二十三年)長男の都牟自没。
684(朱雀元年)表米、三月十五日没。

 おおよそ以上のようになりますが、「日下部系図別本」はその後も天文二年(1533)まで続いていることから、当地には御子孫が今でも大勢おられるのではないでしょうか。
 以上の追跡調査の結果から、赤渕神社縁起の「表米宿禰」伝承は歴史事実と考えられ、白村江戦頃に新羅軍が丹後まで来襲し、表米が防戦し勝利したことも歴史事実を反映した伝承の可能性が高いのではないでしょうか。また、九州王朝による7世紀中頃の「難波朝廷天下立評」により、表米も養父評督となり、その子孫が評督職を引き継いだこともわかりました。
 疑問点として残ったのは、なぜ「表米」が孝徳天皇の孫や子供とされたのかということです。本当に孝徳の子孫だったのか、九州王朝の当時の天子(正木説に よれば伊勢王)の子孫だったのか、あるいは後世における全くの創作だったのか、今後の研究課題です。いずれにしても、九州年号「常色」「朱雀」付きの現地伝承・系図ですから、とても貴重です。まさに現地伝承恐るべし、です。


第560話 2013/05/22

太平洋を渡った縄文式土器
       
       
         
            

 今朝は新幹線で名古屋に向かっています。研究開発職から営業職(マーケティング)に異動になって七年になりますが、この
間、新幹線に乗ったのは恐らく千回近くになると思います。当時とは車窓の風景も変わりましたが、琵琶湖畔の三上山や伊吹山は往年のままの偉容を見せてくれ
ています。

            

 さて、縄文式土器が世界最古の土器であり、人類最初の工業品であることを、わたしは古田先生から教えていただきました。
今から、三十年近く前のことです。そして、その縄文式土器が太平洋を渡り、南米のペルーやエクアドルから出土していることも古田先生から教えていただきま
した。縄文式土器が南米から出土することに最初に気づかれたのはエクアドルのエストラーダ氏と米・スミソニアン博物館の考古学者エヴァンス夫妻でした。ち
なみに、わたしはエヴァンス夫人のベティー・J・メガーズ博士と東京でお会いしたことがあります。
 それは平成七年十一月、東京の全日空ホテルで開催されたメガーズ博士来日記念討論会「縄文ミーティング」の席でした。その記録は『海の古代史』(原書
房、1996年)に収録されていますので、是非、ご覧ください。メガーズ博士や古田先生を始め各専門分野のそうそうたるメンバーが「縄文式土器の南米伝
播」をテーマに英語や日本語で討論が行われました。そのミーティングにわたしも記録・録画係として同席を許されたのです。もちろんそれは、わたしに貴重な
経験をさせてあげようという古田先生のお心遣いでした。感謝に堪えません。
 今でもそのときのエピソードとして鮮明に覚えていることが、いくつかあります。議論はメガーズ博士が英語で、その他の日本人参加者は日本語で話し、通訳
がそれぞれ訳するという形式で進められました。ところが、議論が白熱してくると日本人参加者も通訳を待たずに英語で話し出されたのです。この討論の内容は
日本語で出版される予定でしたので、さすがに関係者(東京古田会の藤沢会長だったと記憶しています)が「日本語で話してください」と止めに入ることになり
ました。
 さらに、この時の通訳を担当されたのは若い女性の方でしたが、驚くほど優秀な通訳でした。考古学・古代史学・医学などの専門用語が縦横無尽に飛び交う会
話でしたが、通訳の際に確認された専門用語はただ一つでした。「ポイントは鏃(やじり)と訳してよろしいですね」という確認でした。その確認は当たっていて、複数ある「ポイント」の語義を会話の文脈から「鏃」と判断され、念のために確認されたのでした。本当に見事な通訳でした。
 わたしにはメガーズ博士の英語は難しくてほとんど理解できませんでしたが、たびたび「マイグレーション」という用語が聞き取れましたので、「伝播による移動」のことをマイグレーションと言われているように思われました。わたしの専門分野である染色化学では、マイグレーションは「移染」あるいは「均染化」
の意味で使用されており、耳慣れた英語でしたので、分野によっていろいろな使い方がある単語だなと、勉強になりました。
 古田先生は縄文式土器が太平洋を渡ったというテーマを、倭人伝の「船行一年」を中南米への倭人の航海とする読解を支持する考古学的事実として注目され、
エヴァンス夫妻との学問的交流を始められました。縄文式土器の南米への太平洋を渡っての伝播という事実は、日本の古代史学界・考古学界でもっと取り上げら
れるべきと思います。


第58話2006/01/22

浦島太郎は「日下部氏」

 昨日は古田史学の会・関西例会と午後からは新年講演会が開催されました。例会では大下さんから韓国における前方後円墳の発見状況や日本と同形式の石室などの研究状況が報告されました。
 新年講演会は既にお知らせしてきましたように、浦島太郎の御子孫の森茂夫さん(本会会員、京丹後市網野町)に講演していただきました。美しいカラーのプロジェクターを駆使し、臨場感溢れる講演となりました。レジュメも森家系図コピーなど貴重な史料が含まれており、大変充実したものでした。
 お話によれば、森家は元々は日下部氏を名乗っていたとのこと。従って「浦島太郎」も日下部さんだったことになります。また、網野町の有名な前方後円墳である銚子塚古墳の被葬者についても論及され、「丹波の遠津臣」ではないかとの仮説も発表されました。
 現地に根ざした、しっかりとした研究発表で、地元の強みを感じました。なお、森さんは小学校の先生とのこと。どおりでレジュメの作り方や発表がお上手なはず。また、研究が進展されればお聞きしたいと思いました。

〔古田史学の会・1月度関西例会の内容〕
○ビデオ鑑賞「日本の古代・九州の地域学」
○研究発表
 『ダ・ヴィンチ・コード』を読んで(補足)(豊中市・木村賢司)
 韓国最近の古墳情報紹介(豊中市・大下隆司)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・霊山寺菩提遷那論・他(奈良市・水野孝夫)


第38話 2005/10/21

浦島太郎の御子孫が講演 

 古田史学の会会員に浦島太郎の御子孫がおられることは、以前このコーナーでもご紹介しましたが(第30話「浦島太郎の系図」)、その御子孫である森茂夫さん(京都府網野町)から、「網野神社の証言1─系図から見えてくる丹後の歴史─」というパワーポイントによるファイルが入ったCD-Rが送られてきました。
 期待しながらファイルを開いてみると、森家の系図や美しい丹後半島の風景など、盛り沢山の内容で、わたし一人で見るにはもったいないものでした。そこで、より多くの方にこのパワーポイントを見ていただこうと、森さんに大阪での講演をお願いしましたところ、快く引き受けていただきました。
 古田史学の会・関西では毎年一月の例会を新年講演会としてきましたが、森さんにはその新年講演会で講演していただくことにしました。演題は「子孫が語る浦島太郎の系図と伝承」です。日時は来年の1月21日(土)の午後1時30分からで、会場は大阪駅前第2ビルにある大阪市立総合生涯学習センターの予定です。くわしくは本ホームページの例会案内に掲載しますので、ご参照下さい。
 なお、当日は森さんの講演に先だって、水野孝夫代表より「浦島太郎は南米に行った」という内容の「あいさつ」が30分ほどあります。こちらも興味深い仮説です。ご期待下さい。皆様のご来場をお願い申し上げます。


第30話 2005/09/22

浦島太郎の系図
 第27話で紹介しました浦島太郎の御子孫の森茂夫さん(会員・京都府網野町)から、『エプタ』(vol.23、2005/09)というきれいな雑誌が送られてきました。それには「日本昔話の世界」が特集されており、その冒頭に浦島太郎の系図がカラーで掲載されていました。
 説明によれば、森総本家に伝えられた系図で、家宝として「他見に及ばず」と未公開だったそうです。同誌への掲載が本邦初公開とのこと。その系図によれば、浦島太郎は日下部の姓を名乗っており、開化天皇の皇子、彦坐命の後胤と記されています。
 ただ、ややこしいことに、「日下部曽却善次」の下注に「亦の名を浦島太郎」とあり、その長男の「嶋児」が、いわゆる竜宮城へ行った有名な「浦島太郎」のこととなっています。ですから、系図によれば浦島太郎の長男の嶋児が竜宮城に行ったことになります。
 おそらく、後世に伝説が脚色されたりしながら、現在の説話へと変化したものと考えられます。したがって、逆にこの系図の信憑性が増すのではないでしょうか。もし、後世にでっちあげるのなら、有名な伝説と異なった系図を作ったりしないと思われるからです。
 『エプタ』にはこの他に桃太郎伝説やかぐや姫伝説などが取り上げられ、美しいカラーグラビアと共に、丁寧な取材記事が好印象を与えています。同誌は化粧品関連企業が発行している雑誌のようですが、企業広告は最小限に抑えられており、内容も充実した良い雑誌でした