和田家文書一覧

東日流外三郡誌とは 和田家文書研究序説 古賀達也
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai1/koga101.html

第3599話 2026/02/26

辞書出版各社からの返答

  〔小学館・新潮社編〕

 角川書店と岩波書店に次いで、小学館と新潮社から返信が届きました。小学館からの返答は感動的でした。紹介します。

【小学館からの返信】
拝復 「日本方言大辞典」をご活用くださいまして、ありがとうございます。また、この度は、同書の内容につきまして、貴重なご教示を賜わりましたこと、併せて篤く御礼申し上げます。
さて、ご指摘の「カメ」の語源説についてですが、古賀様のお説を拝読し、たとえ外来語語源説が古くから行われていたとしても、「日本方言大辞典」の中でそれと断定するのは問題があると感じました。少なくとも、この部分を、(犬を呼ぶ語Come here またはCome in からとする説がある)とすべきであったようです。

 わたくしどもは、この辞典の他に「日本国語大辞典」という大型の国語辞典を出版しているのですが、この「カメ」外来語語源説は、そちらで示した語源説をもとに記述したようです。(「日本国語大辞典」の語源説は従来の語源に関する諸説を列記したもので、あくまでも諸説の紹介にとどまり、どの説が正しいかという判断は示していません)そこに掲げた語源説は、「大言海」「明治事物起源」「方言と昔(柳田国男)」ですが、それらが文久3年刊の「横浜奇談」まで遡れるというのは、お説を拝読して今回初めて知りました。「日本国語大辞典」は現在改訂作業を進めておりますので、何らかのかたちで反映させていただく所存でございます。

 最後に、私事で恐縮ですが、わたしは十数年前に一度向日市の古田武彦氏のお宅にお伺いし、長時間に渡ってお説を拝聴したことがあります。(中略) 今回、「古田史学の会」の事務局をなさっている古賀様からお手紙を頂戴し、奇縁に驚きました。これも何かのご縁と存じますので、今後ともわたくしどもの辞書につきまして、お気付きのことがございましたら、ぜひまたご教示を賜わりたいと存じます。
先ずは、御礼かたがたご報告まで。
敬具 一九九七年十一月二十八日
小学館 国語辞典編集部
【転載おわり】

 古田武彦先生や古田史学を接点に、わたしの人生に於いて様々な分野の人々との出合が生まれました。わたしはこの幸せに感謝し、その学恩を生涯忘れることはないでしょう。そして、最後に届いたのが新潮社でした。

【新潮社からの返信】
拝啓

 お手紙とコピー、拝見しました。読んで、お書きになってらっしゃることは尤もだと思いましたし、驚きました。語釈を改めなければならないと思いますので、編者の先生に相談致します。ありがとうございました。また何かお気付きの点がございましたら、ご連絡いただければ幸いに存じます。
右は取り急ぎ御礼と御連絡まで。
敬具
新潮社 辞典編集部国語辞典係
【転載おわり】

 簡潔にして要を得た返答です。残る三省堂からは〝なしのつぶて〟でしたが、既存学説(通説)に対する三十年前のわたしのささやかな〝挑戦〟でした。池田エライザさんの主演ドラマ「舟を編む ~私、辞書つくります~」を観ていて思い出した人生の一コマです。(おわり)


第3597話 2026/02/20

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (12)

 写真左上円内の人物、「菊池九郎」説

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)に見える写真左上円内の人物を秋田重季氏晩年の写真とするアイデアを「洛中洛外日記」3587話(2026/02/02)〝「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (11) ―写真裏書「和田長三(郎)」への疑義―〟で披露しました。しかしながら、わたしはこのアイデアにあまり自信がありませんでした。その理由は次のようなことでした。

(ⅰ)秋田重季氏が晩年になって、若き日の弘前市の温泉旅館での、女将や芸妓と手を繋いだプライベートな写真を記念写真として作成・配布するものだろうか。むしろ、貴族院子爵議員の記念写真には相応しくないと思われる。〈論理的疑義〉
(ⅱ)左上円内の人物と前列中央の秋田重季氏とでは、頭髪の分け目が左右逆。目や眉毛も異なっており、別人と断定できるほどではないものの、同一人物とできるほど似ているわけでもない。〈実証的疑義〉

 こうした迷いがあり、筆が止まっていたところ、意外な仮説が菊池哲子さん(福岡県久留米市)より届きました。菊池さんは久留米大学公開講座でのわたしの講演会に毎年参加されており、和田家文書や地元の歴史について造詣が深い方です。最近ではわたしが主宰している「古田史学リモート勉強会」(毎月、第二土曜の夜7~9時にリモートで開催)にもご参加いただいている研究者仲間です。

 その菊池さんから届いたメールには、写真左上円内の謎の人物を初代弘前市長の菊池九郎氏(1847・弘化4年~1926・大正15年)ではないかとありました。このメールにわたしは驚愕しました。(つづく)

〖写真の説明〗秋田重季氏らの集合写真。菊池九郎氏・左上円内の人物・前列中央の秋田重季氏。


第3596話 2026/02/20

辞書出版各社からの返答〔岩波書店編〕

 『角川外来語辞典』第二版(1977年)は、〝カメ〟について次のように説明しています。

 カメ【英 Come here!】(原義:来い)日本語では“洋犬”。それは、英米人が犬に向かって“来い、来い”と言ったのを、犬の意味に誤解したのに基づく。(以下、出典などが明記されている。)

 この語釈は誤りとする論文(注)コピーと手紙を角川書店、岩波書店、小学館、三省堂、新潮社の各社に出しましたが、角川書店からは同封した論文の「持ち込み原稿」扱いされ、送り返されました。次いで、岩波書店「広辞苑」編集部から返信が届きました。ちなみに『広辞苑』第三版には次のように記されています。

カメ(幕末・明治初期、英米人が、come here(こっちへ来い)といって犬を呼んだことからという)洋犬のこと。西洋道中膝栗毛「異人館の洋犬(カメ)」。〔『広辞苑』第三版、1988年〕

【岩波書店からの返信】
拝啓 晩秋の候、古賀様におかれましては、ますますご健勝のこととお慶び申し上げます。また、日頃より広辞苑をご愛用いただき、感謝いたします。
さて、今回は「カメ」についての論文をお送りいただき、ありがとうございました。たいへん興味深く拝読いたしました。御説の中には、「なるほど」と思う部分がいくつもございました。

 やや言い訳がましくなりますが、ご存じの通り、広辞苑では「カメ(幕末・明治初期、英米人が、come here といって犬を呼んだことからいう)洋犬のこと。」と解説しています。このうち語源説の部分については「〜という」で終えており、断定的な言い回しをしておりません。また、「メリケン・カメ」の栞(注②)につきましても「『カメや』と勘違いしたのだとか。」と「〜とか。」で終えています。

 論文の中で触れられていますように、「カメ」が「come here」から転じたものであるとする語源説は、古くから広く流布しております。広辞苑としては、「その語源説について断定するだけの確証はないが、広く流布している語源説として紹介する」という立場から、現在のような解説を付しています。

 御説について、軽々に判断することはできませんが、たいへん貴重なご意見と存じます。次版の改訂作業における課題として、「カメ」についての過去の論考とあわせて検討させていただきたく存じます。今後とも、お気付きの点がございましたら、ご指導くださいますようお願い申し上げます。
取り急ぎ要件のみにて失礼いたします。どうぞこれからも広辞苑をご愛用くださいませ。最後になりましたが、時節柄ご自愛くださいますようお願い申し上げます。

敬具
一九九七年一一月二〇日
岩波書店辞典部 広辞苑編集部
【転載おわり】

 さすがは日本を代表する中型国語辞典『広辞苑』の編集部。見事な返答にますます広辞苑が好きになりました。拙論に賛意を表しながらも、しっかりと編集方針の釈明も行い、検討を約束する。そして、引続き広辞苑の愛用を促すといった営業的視点と礼儀を兼ね備えた返信です。この岩波からの返答のおかげで、角川による私の不機嫌が一気に吹き飛んでしまいました。次に来たのが小学館。こちらはもっと感動的な文面でした。(つづく)

(注)
①古賀達也「〝カメ(犬)〟は「外来語」か」『北奥文化』18号、北奥文化研究会、1997年。
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou47/koga471.html
②岩波文庫に挟んである栞に、カメ外来語語源説を紹介したものがあった。

〖写真の説明〗岩波書店広辞苑編集部からの返信。広辞苑第七版の販売風景。NHKドラマ「舟を編む」のワンシーンに登場した広辞苑。


第3595話 2026/02/18

辞書出版各社からの返答〔角川書店編〕

 「洛中洛外日記」第3593話〝池田エライザ主演『舟を編む ~私、辞書つくります~』〟で、30年ほど前に辞書の誤りを見つけ、そのことを論文発表し(注)、辞書出版社に訂正を提案したことを紹介しました。

 辞書の誤りとは、〝犬のことを「かめ」という地域がある。明治時代に来日した西洋人が、犬をcome hear (カムヒア・カメヤ)と呼ぶのを聞いた日本人が誤解して、犬のことをカメと言うようになった。〟とする説明のことです。この語釈は誤りで、江戸時代以前から犬をカメと言う地域があったことを証明した同論文コピーを辞書出版社に送付し、次のような趣旨の手紙を出しました。

(1) カメ外来語語源説は、同封の論文に示しているように、成立困難であること。
(2) 御社の辞典には、「外来語説」に立った説明がなされているので、拙論を検討していただきたい。
(3) できれば、拙論に対する批判や感想をいただきたい。

 こうした手紙と論文コピーを角川書店、岩波書店、小学館、三省堂、新潮社の各社に出しましたが、出版各社の対応は大きく異なりました。
最初に届いたのは、『外来語辞典』を出版している角川書店からの次の返信でした。

【角川書店からの返信】
時下ますますご清栄のことと存じます。
とり急ぎお便りいたします。
当社におきましては、(依頼原稿以外の)お持ち込み原稿等の出版・雑誌掲載ならびに、批評等を行っておりません。ご期待に添えず申し訳ございませんが諒解のほどお願いいたします。
要件のみでございますが、ご健勝を念じます。 草々
角川書店 書籍第一編集部
【転載おわり】

 どうやら、「持込み原稿」として扱われたようでした。しかもご丁寧に『北奥文化』コピーも送り返されてきました。そこで、「持込み原稿」ではない旨記して、同社の「辞典編集部」宛に送付しましたが、返事はありませんでした。角川書店には読者の意見を聞く制度(態度)はないのかもしれません。やはり世間はこんなものかと、少々おち込んでいたら、岩波書店「広辞苑」編集部から返信が届きました。(つづく)

(注)古賀達也「〝カメ(犬)〟は「外来語」か」『北奥文化』18号、北奥文化研究会、1997年。
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou47/koga471.html

〖写真の説明〗角川書店からの返信。NHKドラマ『舟を編む ~私、辞書つくります~』のワンシーン。


第3593話 2026/02/16

池田エライザ主演

『舟を編む ~私、辞書つくります~』

 久しぶりに池田エライザさん主演ドラマ、『舟を編む ~私、辞書つくります~』(録画)を見ました。辞書作りの現場(出版社)が舞台で、辞書編集・発刊の工程や難しさがわかり、とても勉強になったドラマです。池田エライザさんの演技や表情もよく、ファンになりました。

 主人公〝岸辺みどり(池田エライザ)〟は、出版社「玄武書房」の人気ファッション誌部門で活躍していましたが、女性読者の本離れが進み、雑誌は廃刊。そのため地味な辞書編集部へ異動になりますが、「言葉」や辞書『大渡海』作りの魅力にのめり込んでいくというストーリーです(三浦しをん氏の原作を2024年にテレビドラマ化。2025年、NHK地上波でも放送。原作の主人公は岸辺みどりではない)。

 わたしは書籍(論文集・共著)の編集出版には、この40年間で40冊ほど関わった経験があります(『市民の古代』『新・古代学』『古代に真実を求めて』『東日流外三郡誌の逆襲』他)。しかし流石に辞書編集を手掛けたことはありません。ただ30年ほど前に、「東日流外三郡誌」研究の過程で、辞書の誤りを見つけ、辞書出版社に訂正を提案したことがあります。その論文は「〝カメ(犬)〟は「外来語」か」(『北奥文化』18号、北奥文化研究会、1997年)です。
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou47/koga471.html

 少なからぬ国語辞典や外来語辞典には、〝犬のことを「かめ」という地域がある。明治時代に来日した西洋人が、犬をcome hear (カムヒア・カメヤ)と呼ぶのを聞いた日本人が誤解して、犬のことをカメと言うようになった。〟と説明しています。

 しかし、この解説は誤りであり、江戸時代以前から日本では犬のことをカメとよぶ地域(主に東北地方)があることの分布資料と江戸期以前成立の史料を示し、もし英語の聞き間違いであれば長崎か横浜に分布中心があるはずだが、そうはなっていないと指摘した論文です。

 考えてもみて下さい。大昔から日本には犬(いぬ)や亀(かめ)がいて、そう呼び続けてきた日本人が、明治時代になって突然のように犬のことだけをカメと呼び換え、東北地方まで方言として伝わり、現代まで使われているという、辞書の説明がおかしいのです。冷静に考えれば、明治時代に来日した英語圏の西洋人は、犬だけではなく、猫や人にもcome hear (カムヒア・カメヤ)と呼びかけたはずです。ところがそれを聞いた日本人の誰かが、犬だけをカメと誤解し、その誤解が全国各地に伝わり採用されたなどという説明(語釈)自体がおかしいことは明らかです。はっきり言って、辞書に採用できるレベルの説明(語釈)ではありません。

 同論文のコピーを、誤った説明を掲載した辞書の出版社に送付し、改正を要請しました。角川書店、岩波書店、小学館、三省堂、新潮社です。ところが、わたしからの検討要請に対して、各社の対応は異なりました。(つづく)


第3589話 2026/02/05

『東日流外三郡誌の挑戦』の読後感

 『東京古田会ニュース』226号には拙稿「運命と使命の一書 ―東日流外三郡誌の逆襲―」に続いて、「一読者」による「『東日流外三郡誌の逆襲』読後感想文」が掲載されていました。これは『古田史学会報』191号掲載の池上洋史さんによる「『東日流外三郡誌の逆襲』の感想」に続いての書評で、どちらも好意的な言葉にあふれ、著者としては有り難く、続編執筆への励みとなりました。それは次のような感想です。

 「古賀さんが書かれた論文はほとんどすべて目にしていましたが、こうしてまとめて読んでみると、いかに長い歳月にわたって、地道で詳細な調査研究をされ、偽作キャンペーンに怒り、闘ってこられたかが改めてわかりました。」 (池上洋史さん)

 「古賀さんの偽書派に対する様々な論文を読んで偽書説の中味、そのやり口、裁判のこと、その後の和田家の人々がどうなったか良くわかりました。本当に腹が立ちました。偽書説を唱える人たちの無責任さ、想像力のなさ。」 (一読者さん)

 お二人の書評にあるように、同書収録論文には三十年前の偽作キャンペーンとの激しい論争の最中に書かれたものがあり、今回の出版にあたり、その表現を穏便なものに改訂することも考えました。というのも、掲載稿の初校ゲラを娘(小百合)に添削してもらったところ、感情が出過ぎており、学術論文らしく表現を抑えてはどうかとの助言があったからです。娘は同志社大学で現代メディア論などを専攻していたこともあり、もっともな意見と思いましたが、当時の激情も含めて、その〝熱〟を後世に伝えたいと述べ、序文「東日流外三郡誌を学問のステージへ ―和田家文書研究序説―」の掉尾を次のように改めることにしました。この文体は娘の指導によるものです。

 「掲載しているわたしの論文の中には、まさに偽作論との闘いの最も激しかった頃に執筆したものも含まれる。強硬な言葉や、度の過ぎた反撃の意思が見える表現も残るが、史料に対して不誠実な研究はしてこなかった自負があるため、残した。そして何より、あの時代のおぞましい弾圧を、そして正直に語れば我々の身を焼いた怒りを、時を超えて本書に残さねばならないとも思っている。ここまで戦ってきた同志に、そしてこれから先の未来で歴史研究の歩みの中で本書に出会った人に、この三十年の思いが熱を失わぬまま届けば、きっとその先に研究の道は続いていくと信じている。
しかし、わたしたちはこの炎をもって、何者かを焼くことを目的とはしないことをはっきりとここに宣言する。東日流外三郡誌とそこに記された真実のみを求める。本書は、この学問精神に貫かれている。東日流外三郡誌の逆襲が、本書から始まるのである。」『東日流外三郡誌の逆襲』15頁

 最後にわたし自身の読後感ですが、自らの三十代の〝若さ〟と〝情熱〟に触れ、七十歳の今のわたしには到底書けないと思いました。人生の「最新」章を迎え、あの頃の〝若さ〟と〝情熱〟を思い起こし、読者の心に響くような論文を書き、そして古田武彦先生から託された未踏の分野の研究に挑みたいと、決意を新たにしました。


第3588話 2026/02/03

運命と使命の一書

『東日流外三郡誌の挑戦』

 先日届いた『東京古田会ニュース』226号に拙稿「運命と使命の一書 ―東日流外三郡誌の逆襲―」を掲載していただきました。同稿は、昨年八月に八幡書店から発行された拙著『東日流外三郡誌の逆襲』の出版記念講演会(弘前市、秋田孝季集史研究会主催)の報告を書いて欲しいと、東京古田会の安彦克己会長からご依頼をいただき、執筆したものです。

 そこで、わたしが和田家文書研究に入った30年前の事件から書き起こすことにしました。今では当時のことを知らない人が多くなりましたので、後学に伝えるためにも気合いを入れて書きました。その冒頭の一節と各節小見出しを転載します。ちなみに、〝運命と使命の一書〟とは、〝運命〟の『東日流外三郡誌の逆襲』(既刊)と〝使命〟の続編『東日流外三郡誌の挑戦』(仮題、未刊)の二著のことです。後著は既に半分ほどの原稿執筆を終えています。そこでは、古代東北の連合国家〝愛瀰詩国(蝦夷国)〟の多元史観による復元に挑戦しています。

【以下転載】
一 運命の一書

 令和七年夏、三十年の歳月を経て、『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)を上梓できた。
三十年前、安本美典氏やメディアによる東日流外三郡誌偽作キャンペーンは猖獗を極め、和田家文書を見たこともない人々が我先にと偽作説に走り、あろうことか「市民の古代研究会」までもが古田武彦先生を裏切った理事らにより反古田の集団へと変質していった。それまでは「古田先生、古田先生」と猫撫で声で群がっていた人々、わたしが〝兄弟子〟と慕っていた人々が次々と先生から離れていく。人はかくも簡単に恩人を裏切れるものなのか。三十代の若き日、わたしはそれを目の当たりにしたのだ。

 以来、古田先生との津軽行脚、そして北海道から九州までの全国行脚の日々が始まった。何のために。言うまでもない。東日流外三郡誌の真実を求め、全国各地に残った古田史学を支持し、迫害に屈しない筋金入りの〝弟子〟らを糾合するためにだ。この津軽・北海道行脚の一端を『東日流外三郡誌の逆襲』に採録し、わたしの運命と使命の足跡を書きとどめた。

二 平成の津軽行脚
三 令和五年、再開した津軽行脚
四 令和五年、武田社長との邂逅
五 令和七年秋、弘前市での邂逅
六 宮下青森県知事を表敬訪問
七 津軽の政治家との一夕
八 津軽藩のキリシタン禁圧史
九 津軽にいた阿倍比羅夫の子孫
十 弘前市立図書館での決意


第3587話 2026/02/02

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (11)

 ―写真裏書「和田長三(郎)」への疑義―

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)に見える前列左端の坊主頭の若者が、同写真裏書きに見える「和田長三(郎)」である和田元市氏(喜八郎氏の父)であることはほぼ確認できたように思いますが、なお一つの疑問があり、わたしは悩んできました。それは、写真撮影当時の大正10年(推定)、元市氏はまだ21歳であり、父親の長作氏(当時47歳)は健在です。このとき若き元市青年が、はたして和田家当主の「長三郎」を襲名できたのかという疑問です。

 そこでまず考えたのが写真裏書きの史料性格です。写真裏書きに見える他の四名の名前、天内・林・秋田重(季)・綾小路が正確であったことから、何らかの関連文書に基づいて書かれたものと考えざるを得ませんから、「和田長三(郎)」もその関連文書に基づいて記されたと考えるのが妥当です。そうでなければ、「和田長三(郎)」ではなく、「和田元市」と書かれたはずですから。また関連文書もなく、写真の人物を見て、これらの名前を書くことはまず不可能でしょう。貴族院子爵議員の秋田重季氏や綾小路護氏だけであれば、全国的な著名人ですから、他の情報に基づき、人物を特定できたかもしれませんが、天内兼太郎氏や森林助氏はわからないのではないでしょうか。

 従って、これらの人物名が書かれた資料の存在を疑えないのです。そうすると考えられるのが、同写真の下部が切り取られていることから、この切り取られた部分に人物名が印字されていた可能性が有力であり、それに基づいて裏書きが記され、その後、何らかの事情によりその部分が切り取られたと考えるのが最有力と思われます。この理解が当たっていれば、この写真の撮影時と人物名入り記念写真として焼き増しされた時期は異なると考えることができます。そこで注目されるのが、写真左上の円内にある高齢の人物です。このように集合写真の上部に人物が付加される例は卒業写真などでお馴染みです。集団の記念写真撮影時に欠席した人の写真を付け加えるという手法です。

 しかし今回の写真は、東京から津軽に旅行した子爵議員二名が旅館(料亭)の女将や芸妓と手をつなぐという極めてプライベートなものです。従って、円内に「不参加の高齢の人物」写真を付加しているのは、卒業写真などとは全く異なった目的によると考えざるを得ません。そこで、わたしは次のように考えてみました。この写真は秋田重季氏晩年(昭和33年、1958年没)に焼き増しされたもので、その際、上部左の円内に晩年の自らの写真を加え、写真下部の余白部分に参加者の名前を印字した。従って、重季氏晩年であれば元市氏は「長三郎」を襲名していたと考えられ、先にあげた疑問は解消されます。

 この推定であれば、同写真とその裏書きの史料状況をうまく説明できます。この仮説の当否を証明する方法もあります。晩年の秋田重季氏の写真を確認することです。この調査のため、秋田家へのアプローチなどを試みてきましたが、今のところ実現できていません。(つづく)

〖写真解説〗左: 記念写真左上の写真 右上: 記念写真前列中央の秋田重季氏 右下: WEBにあった秋田重季氏の若いころの写真


第3586話 2026/02/01

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (10)

 ―写真裏書「和田長三(郎)」の考察―

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)に、並んで写っている男性六名中の前列左端、坊主頭の若者が同写真裏書きに見える「和田長三(郎)」であれば、それは和田家仏壇の上に架けられた和田元市氏(喜八郎氏の父)遺影との一致により、元市氏の若い頃である可能性が最有力候補となります(注①)。この判断が正しければ、和田家(青森県五所川原市飯詰)と秋田子爵家(東京)との交流が明治・大正時代に遡ることを証明する写真となります。

 「東日流外三郡誌」偽作キャンペーンでは、和田家と秋田子爵家との交流は『東日流外三郡誌』が有名になった昭和六十年頃からであり(注②)、それまでは無関係と主張していました。「東日流外三郡誌」明治写本を書写した和田長三郎末吉(喜八郎氏の曾祖父)と秋田子爵家との交流が、和田家文書(寛政原本の写本ではなく、末吉が明治期に執筆した部分)に少なからず遺されており、偽作論者はそれらの記事を和田喜八郎氏による偽作として退けてきました。しかし、この写真の人物が和田長三郎元市であれば、そうした偽作説を否定する証拠となります(和田家では代々の当主が「長三郎」を襲名)。

 「洛中洛外日記」3585話で説明したとおり、この写真の撮影時期が大正10年であれば、和田元市氏21歳の写真となり、年齢が判明している他の五名の男性の風貌と比べても、妥当な年齢であることがわかります。大正10年時点の年齢は次の通りです。
❶天内兼太郎(1885~1985) 36歳
❷森 林助 (1880~1935) 41歳
❸菊池 巍 (1876~1934) 45歳
❹和田元市 (1900~1981) 21歳
❺秋田重季 (1886~1958) 35歳
❻綾小路護 (1892~1973) 29歳
(つづく)

(注)
①記念写真中の男性(全七名)で、調査により判明した六名は下記の通り。写真左上円内の人物は未詳。秋田重季氏の晩年の写真かもしれないが、そうと断定できるほどの根拠が今のところない。
[後列]
❶天内兼太郎(1885~1985) 弘前中学教師 《男A》「天内」
❷森 林助 (1880~1935) 弘前中学教師 《男B》「森」
❸菊池 巍 (1876~1934) 弘前中学教師 《男C》不記載
[前列]
❹和田元市 (1900~1981)        《男D》「和田長三(郎)」
❺秋田重季 (1886~1958) 貴族院子爵議員《男E》「秋田重(季)」
❻綾小路護 (1892~1973) 貴族院子爵議員《男F》「綾小路」
※《》内は裏書きの文字。写真下部が切り取られているため、切り取られた部分にあると思われる()内の字は、推定による。
②昭和62年7月30日、秋田家当主の秋田一季氏(重季氏の子息。1915~1997)が安倍晋太郎氏(安倍家も始祖を津軽の安日王〈東日流外三郡誌に見える安日彦〉とする)と共に石塔山神社を訪れ、植樹している。石塔山神社収蔵庫を見学する安倍洋子さん(暗殺された安倍晋三元総理大臣の母)の写真もある(年次不明)。安倍洋子さんは和田喜八郎氏の葬儀(1999年)にも参列しており、両家の深い関係をうかがわせる。

 古田武彦先生から聞いた話だが、喜八郎氏の紹介で秋田一季氏に会う際、会話の冒頭に「おそれながら」、末尾に「~でございます」と敬語を使うよう、喜八郎氏からきつく言われたとのことであった。ちなみに、喜八郎氏は一季氏を「秋田様」「殿(との)」と呼んでいた。いかにも時代がかった表現だが、そのときの喜八郎氏の表情は真剣そのものであった。


第3585話 2026/01/30

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (9)

 ―最後の男性は和田元市氏か―

 本シリーズも佳境に入りました。「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)に、並んで写っている男性六名中の五名については下記の通りでほぼ間違いないと思われますが、前列左端の坊主頭の若者が同写真裏書きに見える「和田長三(郎)」でよいのか、これが最も重要な調査テーマだからです。なぜなら、これが事実なら、和田家と秋田子爵家とのお付き合いが明治・大正時代に遡ることの証拠写真となるからです。

[後列]
❶天内兼太郎(1885~1985) 弘前中学教師 《男A》「天内」
❷森 林助 (1880~1935) 弘前中学教師 《男B》「森」
❸菊池 巍 (1876~1934) 弘前中学教師 《男C》不記載
[前列]
❹未 詳                《男D》「和田長三(郎)」
❺秋田重季 (1886~1958) 貴族院子爵議員《男E》「秋田重(季)」
❻綾小路護 (1892~1973) 貴族院子爵議員《男F》「綾小路」
※《》内は裏書きの文字。

 「東日流外三郡誌」偽作キャンペーンでは、五所川原飯詰の和田家と秋田子爵家との交流は『東日流外三郡誌』(市浦村史版)が刊行され有名になった昭和六十年頃からであり、それまでは無関係と主張してきたからです。和田家文書には、東日流外三郡誌明治写本を書写した和田長三郎末吉(注①)と秋田子爵家との交流が少なからず記されており、偽作論者はそれらの記事を和田喜八郎氏による偽作として退けてきました。しかし、この写真の人物が「和田長三郎」であれば、そうした偽作説を否定する証拠となるのです(和田家では代々の当主が「長三郎」を襲名)。

 当写真に見える秋田重季氏や綾小路護氏が当主となり貴族院議員になった時期は大正10年頃であり、また弘前中学の教師に天内兼太郎氏が着任したのが大正9年11月であることからも、この写真の撮影時期を大正10年頃として大過ないと思われます。そうであれば、その頃の和田家の人物は和田長作氏かその息子の和田元市氏(喜八郎氏の父)が相当しますが(注②)、写真の人物が若者であることから、元市氏が有力です。そこで、和田家の仏壇の上に飾られていた元市氏と思われる人物の遺影と比較したところ、次の一致点が見られました。

(a)両写真とも坊主頭である。
(b)遺影の右耳が左耳より明らかに小さい。記念写真では右耳に布のようなものが当てられており、これらは右耳「負傷」の痕跡か。
(c)両写真とも額上の髪の生え際のジグザグが似ている。
(d)両写真とも頭髪前部分中央に丸い凹みのように見える跡がある。
(e)年齢差はあるものの、両写真の顔の輪郭(やや丸顔)が似ている。

以上の共通点に基づき、両写真は同一人物(和田元市氏)の可能性が高いと判断でき、少なくとも別人とすべき理由は見あたりません。何十年と続いた悪意に満ちた偽作キャンペーンにより、和田家は一家離散し、和田元市氏についてのご家族への聞き取り調査は事実上不可能な状況です。残念でなりません。(つづく)

(注)
①和田長三郎末吉(和田末吉。1847~1919)は和田喜八郎氏の曾祖父。息子の長作とともに、虫食いなどで傷んだ「東日流外三郡誌」寛政原本(和田家所蔵副本)の書写を行った。秋田孝季所蔵の正本は火災で焼失していた。この明治期に書写されたものを「明治写本」と古田武彦氏は命名し、和田家文書群の学問的分類を行った。
②和田長作(1874~1940)。和田元市(1900~1981)。


第3584話 2026/01/20

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (8)

 撮影場所は弘前市元寺町の石場旅館か

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)に、並んで写っている男性五名(注①)の確認と撮影時期の推定できました。次に撮影場所についての調査検討を行いました。

 まず、後列の男性三名が弘前中学の教師であることから、この写真が撮られた場所は弘前市と推定するのが穏当です。写真に「女将」や「芸妓」と思われる女性たちが写っていることから、弘前市内の格式の高い旅館か料亭と思われます。東京から来た二人の貴族院子爵議員〔秋田重季氏(1886~1958)、綾小路護氏(1892~1973)〕が写っているのですから、この理解が最有力でしょう。その上で、主客は前列中央に着席する秋田重季子爵と考えることができます。秋田家の始祖(安日王)の地が津軽であることも、この理解を支持します。

 以上の考察を前提として、弘前市内の老舗旅館をWEBで調べてみました。その結果、明治から続く弘前市内の老舗旅館は三軒ほどあり、弘前市元寺町の石場旅館がその最有力候補となりました。同旅館は明治12年の創業で、そのときの建物が改修しながらも、今でも残っているという稀有な例でした。同旅館のHPによれば(注②)、その建物は平成23年に国指定登録有形文化財に認定され、その登録概要には次の記述があり、注目しました。なお、石場旅館(元寺町)と弘前中学(新寺町、現・弘前高校)間の距離は地図で見ると2㎞ほどです。

 石場旅館 国指定登録有形文化財(平成23年12月9日付答申により)
1 文化財の種別 登録有形文化財(建造物)
2 名称及び員数 石場旅館 1棟
3 所在地 弘前市大字元寺町55番地
4 建築年代 明治12年頃(推定)逐次改修あり
5 登録基準 国土の歴史的景観に寄与しているもの
6 構造・形式 木造2階建、鉄板葺、建築面積456㎡
7 所有者 石場久子
8 創造、創始由緒及び沿革

 創業者である石場久蔵は、30歳の頃に道路側の表部分に小間物屋と旅籠を兼ねた旅館業を営んだのが始まりで、本建物は明治12年頃に新築されたとされる。久蔵は、明治19年(1886)に当時の駅伝取締所から駅伝宿舎としての木札を受けている。

 明治22年(1889)の間取図に奥部分の建物が記載されている。

 明治27年(1894)に弘前・青森間に鉄道が開通し、明治30年に陸軍第八師団が設置されている。

 明治29年の軍が発行した「大日本旅館」という冊子には石場旅館が掲載されており、また、「陸軍召集軍用旅館」という看板や皇室、政府関係の看板も遺っていることから、多くの関係者が宿泊したものと考えられる。 (後略)

 このように政府関係者が利用した旅館とのことで、東京から貴族院子爵議員が逗留するに相応しい格式を持つ旅館です。「記念写真」が撮影された場所の有力候補と思われました。このことを東京古田会主催の和田家文書研究会(1月10日)にてリモート発表したところ、愛媛県松山市からリモート参加されていた皆川恵子さんから、昨年九月の弘前市での『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念講演会に参加したおり、玉川宏さん(秋田孝季集史研究会・事務局長)の紹介で石場旅館に宿泊したことを教えていただきました。ちなみに、皆川さんと玉川さんは『東日流外三郡誌の逆襲』(注③)の共著者で、不思議なご縁を感じました。

 そこで玉川さんにお願いして、石場旅館に「記念写真」や秋田重季氏の来訪について何か記録が残っていないかを調査していただきました。その調査報告が本日届きましたが、百年も前のことであり、写真や宿泊者名簿などは残っていないとのことでした。残念ではありますが、撮影場所の候補に相応しい老舗旅館が現在でも弘前市に残っていることは確認できました。なお、廃業した旅館は調査できていませんし、WEBで紹介されていない老舗旅館があるかもしれません。(つづく)

(注)
①「記念写真」の男性六名のうち、次の五名を確認できた。
[後列]
❶天内兼太郎(1885~1985) 弘前中学教師 《男A》「天内」
❷森 林助 (1880~1935) 弘前中学教師 《男B》「森」
❸菊池 巍 (1876~1934) 弘前中学教師 《男C》不記載
[前列]
❹未 詳                《男D》「和田長三(郎)」
❺秋田重季 (1886~1958) 貴族院子爵議員《男E》「秋田重(季)」
❻綾小路護 (1892~1973) 貴族院子爵議員《男F》「綾小路」
②石場旅館のHPアドレスは次の通り。
https://ishibaryokan.com/
③古賀達也編『東日流外三郡誌の逆襲』八幡書店、2025年。


第3582話 2026/01/17

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (7)

 ―撮影時期は大正十年頃か―

「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)に、並んで写っている六名の男性の内、五名の素性を確認できました。次の通りです。

[後列]
❶天内兼太郎(1885~1985) 弘前中学教師 《男A》「天内」
❷森 林助 (1880~1935) 弘前中学教師 《男B》「森」
❸菊池 巍 (1876~1934) 弘前中学教師 《男C》不記載
[前列]
❹未 詳                《男D》「和田長三(郎)」
❺秋田重季 (1886~1958) 貴族院子爵議員《男E》「秋田重(季)」
❻綾小路護 (1892~1973) 貴族院子爵議員《男F》「綾小路」

後列の男性三名が弘前中学の教師であることから、この写真が撮られた時期を推定することがてきます。それは天内兼太郎氏の経歴によります。天内氏は長い軍歴(陸軍)の後、大正九年十一月に弘前中学の教師に着任します。従って、同写真の撮影時期は大正十年頃以降で、菊池巍氏が没した昭和九年以前と考えられます。
この当時、秋田重季氏は貴族院子爵議員で、遅れて綾小路護氏も子爵議員となり、ともに「研究会」という政治団体に所属しています。また、宮中の「歌会」にも二人は参加しており、仲が良かったのではないでしょうか。しかも、二人とも他家から養子として秋田家・綾小路家に入り、先代の物故により当主(子爵)を継いでいます。
両氏が子爵・議員になった年次は次の通りです。

○秋田重季 明治四十年に子爵を継ぐ。大正八年に議員となる。
○綾小路護 大正十年四月に子爵を継ぐ。同十四年に議員となる。

このように大正十年頃は両者にとっておめでたいことが続き、それを祝って、秋田家の始祖の地である津軽を訪れたのではないでしょうか。そのときの記念写真が、本シリーズで取り上げた一枚の写真と思われます。(つづく)