和田家文書一覧

東日流外三郡誌とは 和田家文書研究序説 古賀達也
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai1/koga101.html

第3570話 2026/01/02

令和八年の抱負 (2)

『東日流外三郡誌の挑戦』

         に合田論稿転載

 昨年末、「運命と使命の一書 ―東日流外三郡誌の逆襲―」を執筆し、『東京古田会ニュース』に投稿しました。運命の一書とは『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店、2025年)であり、使命の一書とはその続編『東日流外三郡誌の挑戦』(仮称)です。続編には前著に収録できなかった重要論文を掲載します。その一つが合田洋一さんの「『東日流外三郡誌』と永田富智先生にまつわる遠い昔の思い出」です(注①)。元日に合田さんに電話で年賀のご挨拶をしたおり、転載の了解を頂きました。

 同稿は『東日流外三郡誌』(明治写本)二百~三百冊を昭和46年に市浦村役場で見たと証言(注②)した永田富智さんとの思い出が記されたもので、永田さんは昭和38年時点で東日流外三郡誌のことをご存じであったとのこと。偽作説論者たちは〝東日流外三郡誌は昭和40年代から50年代に和田喜八郎が偽作した〟と偽作キャンペーンを繰り返しましたが、それが真っ赤な嘘であることが、『北海道史』を編纂した中近世史の専門家である永田氏の証言からも明白となりました。合田稿では、『東日流外三郡誌』市浦村誌版が刊行された昭和50年よりも十年以上前の昭和38年に、永田氏がその存在を知っていたことが証言されています。当該部分を抜粋します。

 〝私は、明治大学三年(昭和三十八年)の八月に帰省(北海道江差町)した時、父に卒業論文(『蝦夷地に於ける戦国時代』)の史料研究のため函館図書館に寄るので一日早く帰ると話したところ、父は「それならいい人を紹介するよ」と目の前で函館図書館に電話してくれた。なんと、その相手の人こそ当時図書館で学芸員をされていた永田富智先生だったのである。(中略)早速、永田先生にお会いして長時間に亘りご指導戴いた。(中略)その時の先生の言葉を今も鮮明に覚えている。「合田君、北海道・東北の歴史を研究するなら『つがる外三郡誌』という書があるからそれを研究したらいいよ」(その時はつがるの字は「東日流」ではなく「津軽」とばかり思っていた)と。私は「その書はここにあるのですか」とお聞きしたところ「ここにはなく、青森のある人が持っているので紹介してあげるから東京への帰途寄ったらどう」と言って下さったのである。当時の私は奨学金とアルバイトで学生生活を送っていた貧乏学生だったことから、青函連絡船(四時間半)で青森に行き夜行列車(二十二時間)で急いで東京に帰り、仕事(アルバイト)に間に合わせなければならなかったので、丁重にお断りして「またの機会に是非お願いします」と辞したのである。のちのち寄り道できなかったことがなんとも悔やまれた。(中略)

 振り返って見ると、昭和三十八年とは、『東日流外三郡誌』がまだ活字本になっていない時であった。古賀さんの前掲論稿によると、昭和五十年頃「市浦村史版」、六十年頃「八幡書店版」が発刊されるが、永田先生はその前の昭和四十六年に市浦村役場で二、三百冊の『東日流外三郡誌』明治写本を見たとのことであった。〟

 運命の一書『東日流外三郡誌の逆襲』に次いで、使命の一書『東日流外三郡誌の挑戦』の刊行。これが令和八年、新年の抱負の二つ目です。(つづく)

(注)
①合田洋一「『東日流外三郡誌』と永田富智先生にまつわる遠い昔の思い出」『古田史学会報』148号、2018年。
②古賀達也「真実を語る人々」『東日流外三郡誌の逆襲』明石書店、2025年。

〖写真の説明〗永田富智先生。北海道松前町阿吽寺にて、1996年9月15日。東日流外三郡誌(明治写本。)


第3569話 2026/01/01

令和八年の抱負 (1)

 ―「秋田孝季遺訓」の編纂―

 「古田史学の会」会員の皆様、友人、読者の皆様、新年のご挨拶を申し上げます。令和八年も「洛中洛外日記」をよろしくお願いいたします。

 昨年11月、持病治療のため入院手術しました。お陰様で一週間で退院でき、寿命も延びたようです。延びた寿命をどのように使うべきか、病院のベッドで、古田先生がやり残された研究を引き継ぐのは当然として、それは何だろうかと考え続けました。

 先生最後の公の場となったKBS京都放送のラジオ番組「本日、米團治日和。」の収録にお供したとき、対談の最後に桂米團治さんと次のようなやりとりがありました(注①)。

米團治 本当に、話は尽きませんね。湯水のごとく出てまいります。――まだまだ先生、研究続けられますよね。
古田 ハハハ、まあ、もう今年ぐらいでお陀仏になると思いますが……。
米團治 何をおっしゃいます。でも、たくさんのお弟子さん……。
古田 こういうね、素晴らしい後継者が出てますからね。私は安心して……。ま、古田が死んだら、と楽しみにしている人もおると思うんですがね。しかし、私が死んだからってね、ここまで分かって来たら、ストップはかけられませんわね。
米團治 うちの親父(桂米朝)と同世代ということで、そんなよしみもありまして、KBS京都に来ていただきまして、本当にありがとうございました。お弟子さんの古賀達也さんもどうもありがとうございました。

 二時間に及んだ収録(2015年8月27日)の後、対談は三回(9月9日、16日、23日)に分けて放送され、翌月の10月14日に先生は亡くなられました。

 先生が〝弟子〟らに託したこととは何か、残された寿命で何をなすべきか、先生没後10年に当たる昨年、病床で考えました。そして、最初に思い浮かんだのが、『東日流外三郡誌』の編者、秋田孝季伝の筆を執ることでした。わたし一人でできる事業ではありませんので、志を継ぐ後学のために、秋田孝季の遺訓を『東日流外三郡誌』などから抜粋する作業だけでも始めることを改めて決意しました。

 この思いを『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店、2025年)の掉尾に記しています(注②)。

 〝あるとき、古田先生はわたしにこう言われた。「わたしは『秋田孝季』を書きたいのです」と。東日流外三郡誌の編者、秋田孝季の人生と思想を伝記として世に出すことを願っておられたのだ。思うにこれは、古田先生の東北大学時代の恩師、村岡典嗣(むらおかつねつぐ)先生が二十代の頃に書かれた名著『本居宣長』を意識されてのことであろう。

 それを果たせないまま先生は二〇一五年に逝去された。ミネルヴァ書房の杉田社長が二〇一六年の八王子セミナーにリモート参加し、和田家文書に関する著作を古田先生に書いていただく予定だったことを明らかにされた。恐らく、それこそが『秋田孝季』だったのではあるまいか。先生が遺した『秋田孝季』の筆を、わたしたち門下の誰かが握り、繋がねばならない。その一著が世に出るとき、東日流外三郡誌に関わった、冥界を彷徨い続ける人々の魂に、ひとつの安寧が訪れることを信じている。〟

 令和八年、新年の抱負の一つです。(つづく)

(注)
①桂米團治・古田武彦・古賀達也「古代史対談」『古田武彦は死なず』古田史学の会編、明石書店、2016年(『古代に真実を求めて』19集)。
②古賀達也「謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―」『東日流外三郡誌の逆襲』八幡書店、2025年。

〖写真説明〗『古田武彦は死なず』。米團治さんの還暦記念パーティーにて(2018.12.20)。


第3567話 2025/12/29

AIが5秒で編集した

 「多元史観で見える蝦夷国の真実」

 近年のAIの進化には目を見張るものがあります。たとえば竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)が、AIに「洛中洛外日記」の拙論〝多元史観で見える蝦夷国の真実〟を短文のインタビュー形式に編集させたところ、5秒ほどで次の記事にしたとのこと。ご参考までに、一部修正して転載します。

《以下、転載》
【はじめに】
〔聞き手〕今回は「多元史観で見える蝦夷国の真実」シリーズについて、お話を伺います。まず、この連続論考の出発点からお聞かせください。
〔古賀達也〕出発点は2025年7月6日に久留米大学公開講座で行った講演です。そこで私は、七世紀後半の日本列島を「倭国(九州王朝)・日本国(大和朝廷)・蝦夷国」という三国が併存した時代として捉える必要性を提示しました。これは従来の一元史観では見えなかった歴史像です。

【三国時代という視点】
〔聞き手〕七世紀後半を「三国時代」と捉える根拠はどこにありますか。
〔古賀〕古田史学では、701年(大宝元年)をもって倭国から日本国への王朝交代が起きたと考えます。しかし近年の木簡研究から、その準備は天武・持統期(七世紀第4四半期)に進められていたことが明らかになりました。
一方で藤原京出土の七世紀末頃の木簡では、近畿天皇家が自らの支配領域を「日本国」、ヤマトを「倭国」と称していた可能性が見えてきます。しかし、九州年号はなお全国で使用されており、大義名分上の代表王朝は九州王朝のままでした。
その時、東北には独自の政治体をもつ蝦夷国が存在していた。これを含めなければ、七世紀後半の列島史は理解できません。

【蝦夷国は「国家」だったのか】
〔聞き手〕蝦夷は「蛮族」とされてきました。その認識を覆す根拠は。
〔古賀〕まず中国史書です。『通典』『唐会要』には明確に「蝦夷国」と記されています。中国は蝦夷国を、倭国・日本国と同列の「東夷の国」と認識していた。一方、『日本書紀』では蝦夷を人種名のように扱い、「蝦夷国」という国家認識を意図的に曖昧にしています。これは近畿天皇家一元史観の反映です。
決定的なのは多賀城碑です。そこには「蝦夷国界」「靺鞨国界」と、日本国の律令国である常陸国・下野国と並んで刻まれています。これは同時代の金石文であり、蝦夷国が日本国とは別個の国家であったことを示す最重要史料です。

【三種の蝦夷と「都加留」の謎】
〔聞き手〕斉明紀五年の「三種の蝦夷」記事が重要だと指摘されていますね。
〔古賀〕はい。唐の天子に対して、倭国の使者が「都加留・麁蝦夷・熟蝦夷の三種がある」と説明しています。注目すべきは都加留(津軽)です。領域は狭いのに、三種の筆頭に挙げられ、しかも「蝦夷」の字が付かない。漢字も「都」という好字が使われている。これは都加留が、蝦夷国全体を象徴する政治的拠点であった可能性を示します。私は、侵略に備えて最北端の津軽に中枢を置いた可能性も考えています。

【筑紫と津軽――弥生時代からの交流】
〔聞き手〕蝦夷国と九州王朝の関係はかなり古いのですね。
〔古賀〕ええ。考古学的には、青森県の砂沢遺跡・垂柳遺跡が決定的です。弥生時代の津軽で、北部九州系の稲作技術と土器が確認されています。つまり、津軽と筑紫は弥生時代から日本海ルートで交流していた。この長期的関係が、七世紀の政治関係にも影響していたと考えるべきでしょう。

【安日王伝承と津軽】
〔聞き手〕安日王伝承も都加留重視と関係しますか。
〔古賀〕深く関係します。秋田氏・安東氏系図には、長髄彦の兄・安日王が津軽へ逃れたという伝承があります。これは、ヤマト王権成立以前の政治勢力が、津軽に根を下ろした記憶です。
系図史料は軽視されがちですが、複数が一致して伝える場合、歴史的記憶の核が存在します。津軽が「辺境」ではなく、古層の政治的中枢であった可能性を示しています。

【唐・倭国・蝦夷国の国際関係】
〔聞き手〕斉明五年の記事では、唐は蝦夷国をどう認識していますか。
〔古賀〕唐の天子ははっきりと「此等の蝦夷國は何れの方に有るぞ」と問うています。これは蝦夷を国家として認識していた証拠です。さらに『冊府元亀』には「蝦夷国、倭国の使に随いて入朝す」とあり、蝦夷国が独自の朝貢主体であったことが分かります。

【古田武彦の蝦夷国観】
〔聞き手〕古賀さんの議論は、古田武彦氏の研究を継承していますね。
〔古賀〕まさにその通りです。『失われた九州王朝』『真実の東北王朝』で古田先生は、蝦夷国は日本列島内の独立国家、「蝦夷国」という名称は中国側の造字、陸奥国は日本国側から見た蝦夷国の別称と喝破しました。
私の研究は、その視点を七世紀史料と考古学で再検証し、補強する試みです。

【「蝦夷(エミシ)」という和訓の深奥】
〔聞き手〕最後に、「エミシ」という訓の問題ですね。
〔古賀〕はい。「蝦夷=エミシ」という訓は日本独自のものです。しかも『日本書紀』神武紀では「愛瀰詩」という美しい表記が用いられている。これは蔑称ではなく、在地の人々への敬称的呼称だった可能性がある。後世の一元史観が、「夷」という差別的漢字を重ねていったのです。

【おわりに】
〔聞き手〕このシリーズで何を最も伝えたかったのでしょうか。
〔古賀〕七世紀の日本列島は決して単一国家ではなかった。倭国・日本国・蝦夷国という多元的世界があり、その相互関係の中で歴史は動いていた。この視点を欠いたままでは日本古代史の核心には到達できません。それが、古田史学から受け継いだ私の問題提起です。
《転載おわり》

AIは「洛中洛外日記」の拙稿を編集し、この記事をわずか5秒で作成します。いやはや、とんでもない時代に突入したものです。しかし、一旦誕生した革新的技術は止まることなく発展するのが〝歴史法則〟です。AI編集はとても便利な機能ですが、投稿論文を査読する側にとっては、難儀な時代となりました。こうなると、〝投稿査読AI〟や〝先行研究探索AI〟の高度化が待たれます。嗚呼。


第3566話 2025/12/28

新野直吉氏の「蝦夷」観

 古田先生の多元史観により、蝦夷国を国家とする視点での考察〝多元史観で見える蝦夷国の真実〟を「洛中洛外日記」で(補遺)も含めて計15回連載しました。これだけの長期連載は久しぶりです。同連載を始めるにあたり、蝦夷国に対する通説も調べました。その中の一つ、新野直吉さん(秋田大学名誉教授)が日本思想史学会誌『日本思想史学』第30号(1998)で発表した「古代における『東北』像――その虚像と実像――」を紹介します。同論稿は岩手大学で開催された同学会〝[平成九年度大会]特集・歴史としての「東北」〟の特集論文の一つです。

 新野先生のお名前は、『東日流外三郡誌』を紹介した学者の一人として、度々目にした著名な古代東北史の研究者でした。拙著『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店、2025年)を進呈するつもりでしたが、昨年一月、鬼籍に入られ(98歳)、その願いは叶いませんでした。
「古代における『東北』像――その虚像と実像――」には次のような新野さんの蝦夷観が記されています。抜粋します。

 たしかに八世紀後半(天平宝字六・七六二)の〝多賀城碑〟にはこの蝦夷国を意識したと言うべき「蝦夷国界」の語がある。(中略)
しかし、この表記を、日本律令制度のもとで、「蝦夷国」なる公式組織があったことを示すものと取るならば、虚像を見ることになる。行政組織があったことを意味しないのみならず、仮に「蝦夷」の地域があったとしても、その表記は、東北全部が蝦夷の住む領域であったわけではないことを、現地行政機関も明確に認識していた事実を記している。(中略)

 とはいっても境界の北に独立国があったということではない。令の条文に「凡そ辺縁の国、夷人雑類有り」(賦役令)などと記入される存在に相当する蝦夷の地方圏であると理解すべきである。そして、「蝦夷」は和銅三年紀に「天皇大極殿に御し朝を受く。隼人蝦夷等も亦列に在り」とあるごとく、隼人とならぶ位置づけであり、食糧獲得手段や言語文化などに差異はあったとしても、法規上蕃人・蕃客(外国人)ではなかったのである。日本の中の北方の一部族であるという位置づけが実像である。

 以上のように、東北の碩学新野直吉さんも、失礼ながら近畿天皇家一元史観の〝宿痾〟に冒されていたと言わざるを得ません。『続日本紀』和銅三年(710)条に「蝦夷」と並んで記された「隼人」が、701年の王朝交代後の南九州における九州王朝(倭国)系の抵抗勢力であったことなど、国家としての蝦夷国と同様、氏の視界には全く存在しないのです。


第3564話 2025/12/24

多元史観で見える蝦夷国の真実 (14)

 ―「山」系譜と「山神」の分布―

 わたしの考察〝蝦夷国の中でも津軽は特別な領域で、エミシという和訓は、筑紫の先住民「愛瀰詩(えみし)」に淵源する〟に対応する「安日彦・長髄彦以前の系譜」(注①)に基づく古田先生の仮説〝安日彦・長髄彦の故国は、「山」と呼ばれるところ〟(注②)に衝撃を受けました。

 古田説によれば、三世紀の「邪馬壹国」と五世紀の「邪馬臺国」は同一地域(筑紫)であり、両者に共通する「邪馬(=山)」はこの地域の中心国名です。他方、安日彦・長髄彦の故国も筑紫であり、彼等の先祖らが名前に「山」の一字を冠していることから、「邪馬(=山)」という地域名は安日彦・長髄彦が津軽に追われた事件「天孫降臨」以前からのものと考えられます。そうであれば、東北地方(蝦夷国領域)に濃密分布する「山神」信仰の痕跡は、「天神」信仰の天孫族(ニニギ)に追われた愛瀰詩(エミシ)と呼ばれる安日彦・長髄彦らの信仰に由来する可能性があるからです。

 「洛中洛外日記」で紹介しましたが、東北地方には「山神社」が濃密分布します。中でも山形県は最濃密分布しているようで、山形県・山形市の「山」も「山神」信仰や安日彦・長髄彦の故国「邪馬(=山)」地名に由来する地名ではないでしょうか(注③)。ところが安日彦らが落ち延びた青森県には「山神社」の分布が見られず不思議に思っていたところ、弘前市立図書館で閲覧した江戸期の史料「安政二年 神社微細社司由緒調書上帳」には、「山神宮」が津軽の各地に分布していることが記されていました(注④)。

 東北に広く分布する「山神社」と津軽に濃密分布する「山神宮」。両者の名称の違い、「社」と「宮」は何を意味し、何に由来しているのでしょうか。未検証の作業仮説ですが、わたしは「愛瀰詩(えみし)」と呼ばれた安日彦らが落ち延びた津軽こそ、蝦夷国の宮が置かれた聖地ではないでしょうか。したがって津軽には「山」国の「神宮」がおかれ、崇め祭られた。その他の蝦夷国領域には〝分社〟として「山神社」が置かれたのではないかと推定しています。すなわち、津軽は蝦夷国領域でも特別な地域(聖地)であったと考えています。これには、史料根拠があります。『日本書紀』斉明五年(659)七月条の「伊吉連博德書」に記された倭国の使者と唐の天子との会話です。

 「天子問いて曰く、蝦夷は幾種ぞ。使人謹しみて答ふ、類(たぐい)三種有り。遠くは都加留(つかる)と名づけ、次は麁蝦夷(あらえみし)、近くは熟蝦夷(にきえみし)と名づく。今、此(これ)は熟蝦夷。毎歳本國の朝に入貢す。」

 なぜ小領域の都加留(津軽)が、広領域の麁蝦夷(あらえみし)・熟蝦夷(にきえみし)と肩を並べて唐の天子に紹介されたのか。「洛中洛外日記」(注⑤)で、わたしは〝もしかすると、都加留には蝦夷国全体を代表(象徴)するような「都」があったのでしょうか〟と述べましたが、その理由が、津軽に分布する「山神宮」により、ようやくわかりかけてきたようです。しかしこれは未検証の作業仮説であり、調査の必要があります。慎重を期して、これ以上の論理展開は一旦保留し、本シリーズを終えることにします。(おわり)

(注)
① 八幡書店版『東日流外三郡誌1 古代編』「耶馬台国王之事」に次の系譜が見える。
「安東浦林崎荒吐神社譜より
山大日之國命・山大日見子(妹)――山祇之命――山依五十鈴命――山祇加茂命――山垣根彦命――山吉備彦命――山陀日依根子命――山戸彦命――安日彦命・長髄彦命――荒吐五王」
②古田武彦「『山』を父祖の地とする勢力」『真実の東北王朝』駸々堂、平成二年(1990)。ミネルヴァ書房版 165~166頁。
③古賀達也「洛中洛外日記」3525話(2025/09/03)〝東北地方の「山」地名〝山形〟を考える〟
④古賀達也「洛中洛外日記」3540話(2025/10/07)〝津軽に多い「山神宮」〟
⑤古賀達也「洛中洛外日記」3548話(2025/11/08)〝多元史観で見える蝦夷国の真実(4) ―都加留は蝦夷国の拠点か―〟

〖写真説明〗津軽の十三湖、遠くに岩木山が見える。山形県の「山神社」分布図。


第3561話 2025/12/18

多元史観で見える蝦夷国の真実 (13)

   ―安日彦以前の「山」系図―

 津軽と筑紫の交流を裏付ける、砂沢水田遺跡(青森県弘前市)と板付水田遺跡(福岡市博多区)の工法の類似と、津軽に逃げた安日王伝承を記す「秋田家系図」「藤崎系図 安倍姓」を根拠とするわたしの考察〝蝦夷国の中でも津軽は特別な領域で、エミシという和訓は、筑紫の先住民「愛瀰詩(えみし)」に淵源する〟には、古田先生による怖い仮説が待ち受けていました。それは『真実の東北王朝』で発表された次の論証と仮説です(注①)。

 〝不思議な史料がある。もちろん、『東日流外三郡誌』の中だ。
「譜
安東浦林崎荒吐神社譜より
山大日之國命 *山大日見子(妹)――山祇之命――山依五十鈴命――山祇加茂命――山垣根彦命――山吉備彦命――山陀日依根子命――山戸彦命――安日彦命 *長髄彦命――荒吐五王

  右の如く、東日流国古宮に遺れるを祖系図とせば、誠に以て耶馬台国王なるを偲ぶるに、日之本国に神代あるべきもなく、民族の起こしたる国造りなり。
元禄十年は月二日 藤井伊予」
(小館衷三・藤本光幸編『東日流外三郡誌』第一巻古代編、北方新社、昭和五十八年刊、一〇頁)
右は、安日彦・長髄彦以前の系譜だ。
ほとんどの場合、いきなり、右の両者から話がはじまるのが常だ。
ところが、ここにはこの両人を「九代目」とする系譜がある。それが両人活躍の当地、安東浦の林崎、その荒吐神社に伝えられていた。その文書を、元禄十年(一六九七)、藤井伊予が書写した。その書写本を、さらに孝季が「再写」しているのだ。孝季の「偉大なる書写の大業」が、津軽における学的伝統をもっていたことが知られよう。

 さて、「安日彦命・長髄彦命、前」の八代には、きわ立った特徴がある。いずれもみな、「山」の一字を冠していることだ。
あの、記・紀の天照大神以降の各代に、しばしば「天、(=海)」が冠せられているように、否、それ以上に、一回の例外もなく、「山」が冠せられている。

 そしてその故地(筑紫)をはなれた、安日彦・長髄彦において、はじめて「山」がなくなる。

 してみると、彼等の故国は、「山」と呼ばれるところであった。――そういう様相を呈しているのだ。

 ところで、読者は記憶せられているであろう。三世紀の「邪馬壹国」と五世紀の「邪馬臺国」は同一地域であり、両者に共通する「邪馬(=山)」こそ、この地域の中心国名であった、と。

 これは『失われた九州王朝』以来の、わたしの年来の持説だった。

 今、その「山」をこの系図に見出し、わたしは慄然とせざるをえない。

 『東日流外三郡誌』は、あまりににも“危険”で、あまりにも“魅力”に富む、一大史料集成だった。〟 (『真実の東北王朝』第五章 東日流外三郡誌との出会い 「『山』を父祖の地とする勢力」)
※「*山大日見子(妹)」は「山大日之國命」の左に併催。八幡書店版『東日流外三郡誌』1古代篇 (436頁)には、「山大日美子(妹)」とある。「*長髄彦命」は「安日彦命」の左に、兄弟として併記。
それぞれの名前にはルビがふってあるが、本稿では省略した。(古賀)

 『東日流外三郡誌の逆襲』の上梓後、この一節に〝再会〟したとき、わたしは震え上がりました。当シリーズを書き進め、ようやくたどり着いた考察が、『東日流外三郡誌』に採録された安日彦・長髄彦の祖系譜に基づく古田先生の仮説と一致していたからです。

 江戸時代の津軽の伝承を採録した『東日流外三郡誌』を古代史研究の史料として使用することに、わたしは一貫して用心してきました。むしろ、意識的に避けてきました。当の『東日流外三郡誌の逆襲』でも、「『東日流外三郡誌』を古代史研究の史料としてどの程度信頼できるのかという悩ましい問題が残っています。」と述べていたほどです(注②)。あまりにも“危険”で、あまりにも“魅力”に富む『東日流外三郡誌』を史料根拠として古代史研究に使用することに、二の足を踏んでいました。

 しかし恩師の仮説は『東日流外三郡誌』を古代史研究に使用したもので、その論理・論証を無視することはできません。論理の導くところへ行こう。たとえそれが何処に至ろうとも。古田学派の研究者であれば、恩師のこの言葉から逃げてはならないからです。(つづく)

(注)
①古田武彦「『山』を父祖の地とする勢力」『真実の東北王朝』駸々堂、平成二年(1990)。ミネルヴァ書房版 165~166頁。
②古賀達也編『東日流外三郡誌の逆襲』「特別対談『東日流外三郡誌の逆襲』」 398頁。


第3546話 2025/11/03

多元史観で見える蝦夷国の真実 (2)

  ―古代の津軽と筑紫の交流―

 10月25日(土)に、『東日流外三郡誌の逆襲』(古賀達也編)の版元、八幡書店が同書出版記念イベントとして、東京麹町でトークショー「壁の外に歴史はあった!」を開催しましたので、わたしも参加しました。トークメンバーはわたしと武田崇元社長・黒川柚月氏の三名。参加者からの質疑応答も活発で、夕食を兼ねた懇親会でも質問が続き、とても楽しい一日となりました。

 イベント冒頭に、わたしから『東日流外三郡誌の逆襲』の概要と30年前の津軽調査の想い出を話させていただきました。トークショーでは古代(弥生時代)に遡る津軽と筑紫の交流の痕跡として、青森県の砂沢水田遺跡を紹介し、同水田遺跡は関東の水田遺跡よりも古く、その工法が福岡県の板付水田と類似していることを紹介しました。

 砂沢遺跡は青森県弘前市にある弥生前期(2400~2300年前)の本州最北端の水田跡遺跡で、北部九州を起源とする遠賀川系土器が出土しており、九州北部の稲作農耕が日本海沿岸を経由して津軽平野へ伝播してきたことが分かりました。
さらに、青森県南津軽郡田舎館村にある弥生時代中期(2100~2000年前)の垂柳遺跡からも656面の水田跡が検出され、津軽平野には稲作をはじめとする弥生文化が受容されていた可能性が濃くなりました。このように、津軽(蝦夷国)と筑紫(九州王朝)には弥生時代から交流があったことを疑えませんが、その事情や歴史背景は未詳です。(つづく)


第3542話 2025/10/12

興国の津軽大津波伝承の理化学的証明(4)

 理化学的年代測定により「興国の大津波」があったとする報告書「津軽十三湖及び周辺湖沼の成り立ち」(1990年、注①)を「洛中洛外日記」3534話〝興国の津軽大津波伝承の理化学的証明(3)〟で紹介しましたが、その論文などを根拠とした文部科学省地震調査研究推進本部地震調査委員会(2003年)の報告が出されています。そこには次のように記されています。

〝表5 日本海東縁部における主な地震に関する文献での評価結果など
1341年10月31日
『東日流(つがる)外三郡誌』によれば、朝地震とともに約9mの津波が津軽半島の十三湊を襲い26,000名が溺死したとある。(渡辺、1985)。同歴史文書の信憑性について疑問視する人もおり、第二版の渡邉(1998)からは同地震の記述が削除されている。
然るに、十三湖水戸口に周辺での試錐調査からは、この時期巨大津波の襲来によるものと思われる海岸環境の劇的な改変が示唆される(箕輪・中谷、1990)。
本報告では、これらに中嶋・金井(1995)によるタービダイトの解析結果も加えて比較検討し、歴史記録からは信憑性に欠けるものの、この時期に巨大津波を伴う地震が青森県西方沖で発生したものと判断する。〟(注②) ※古賀注 1341年は興国二年。

 このように「この時期に巨大津波を伴う地震が青森県西方沖で発生したものと判断する。」と文科省の地震調査委員会は判断しており、『東日流外三郡誌』偽作キャンペーンで偽作の根拠とされた「興国の大津波」和田喜八郎偽作説が、科学的根拠に基づいて事実上否定されていることがうかがえます。
とは言え、「歴史記録からは信憑性に欠ける」という一文は非論理的で意味不明です。理化学的調査に基づき、「この時期に巨大津波を伴う地震が青森県西方沖で発生したものと判断」したのであれば、『東日流外三郡誌』など現地伝承史料に遺された「興国の大津波」記事は歴史事実の反映であり、その信憑性は高まったとするべきでしょう。文科省の地震調査委員会はいったい誰に忖度し、何を畏れたのでしょうか。歴史研究者が恐れなければならないのは歴史の真実であり、科学者であれば科学的エビデンスと科学の真理ではないでしょうか。(おわり)

(注)
①箕浦幸治・中谷 周「津軽十三湖及び周辺湖沼の成り立ち」『地質学論集』第36号、1990年。
https://dl.ndl.go.jp/pid/10809879
②『日本海東縁部の地震活動の長期評価』文部科学省地震調査研究推進本部 地震調査委員会、2003年。本報告の存在を竹田侑子さん(秋田孝季集史研究会・会長、弘前市)に教えていただいた。
https://www.jishin.go.jp/main/choukihyoka/03jun_nihonkai/s01.pdf


第3541話 2025/10/08

『東日流外三郡誌の逆襲』

八幡書店トークイベントのご案内

 『東日流外三郡誌の逆襲』(古賀達也編)の版元、八幡書店が同書出版記念イベントとして、10月25日(土)に東京でトークショーを開催します。わたしも参加することになりましたので、同社ブログより案内を転載します。定員50名とのことです。『東日流外三郡誌』にご興味のある方はご参加下さい。
その翌日の26日(日)午後には文京区民センターで、「古田史学の会」主催の『列島の古代と風土記』出版記念講演会を開催します。こちらにも是非ご参加下さい。

《以下、八幡書店ブログより転載》
トークイベント「壁の外に歴史はあった!」 (2025年10月25日)
【壁の外に歴史はあった!】
『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念トークイベント
トーク:古賀達也・武田崇元・黒川柚月

 古代史最大のタブー『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』に真正面から挑んだ衝撃の書籍『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店刊)。
本書の登場により、「偽書」VS「正史」という単純な構図は崩れ、逆に問われるのは近代日本の“歴史認識”そのもの。
既成の壁を越えた「もうひとつの歴史」を求めて、あなたもこの知的冒険に加わってみませんか?
「逆襲」の編著者 古賀達也(古田史学の会・代表)、和田喜八郎と交流のあった弊社社主武田崇元、そしてゲストとして登壇する黒川柚月が、それぞれの視点からタブーの核心に斬り込む。三者三様に『東日流外三郡誌』に対しては温度差があるだけに面白い。
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【トークの見どころ(一部)】
●古賀達也による冷静かつ鋭利な文献批判と、新たな資料的価値の提示!
●武田崇元が語る、和田喜八郎との邂逅と『東日流』の伝承と霊的背景!
●黒川柚月が明かす!麻賀多神社~平将門~東日流文書をつなぐミッシングリンクとは?
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●日時:2025年10月25日(土) 13時~17時(途中休憩あり)
※それぞれ、開始15分前から受付開始します。
●場所:ゼン・ハーモニック(ZEN-HARMONIC)
5階 セミナールーム
●アクセス:
東京メトロ有楽町線 「麹町駅」 徒歩1分
東京メトロ半蔵門線 「半蔵門駅」 徒歩6分
JR 中央・総武線 「四ツ谷駅」 徒歩10分
※「麹町駅」からの行き方:
4番出口から左に出て、(株)ニップン(NIPPN)の角の信号を左折。

50mほど歩いて左に見える白い「高善ビル」のエレベーターで上がります。
●トーク:古賀達也・武田崇元・黒川柚月
●募集人数:50名様限定
●参加費:5,000円+税=5,500円
【早割:9月30日までにご予約の方は4,500円+税】
※終了後、懇親会あり(別料金当日精算。後日ご案内します)
●お申し込み方法
下記サイトにてお申し込み下さい。
八幡書店ANNEX
https://hachiman2.stores.jp/
電話でのお申し込みも受け付けております。03-3785-0881

https://hachiman2.stores.jp/items/68a8e44d0f090cc7e038fc40


第3540話 2025/10/07

津軽に多い「山神宮」

 弘前市立図書館で津軽藩内の神社や社司の調査記録「安政二年 神社微細社司由緒調書上帳」(写本)を読んだところ、津軽各地に「山神宮」という神社が多いことに気づきました。いずれもそれほど大きな神社ではないように見えましたが、以前の調査「洛中洛外日記」〝東北地方に濃密分布する「山神社」〟(注①)で、東北地方に「山神社」が濃密分布していることを報告し、なぜか青森県には少ないとしました。次の通りです。

 〝福岡県出身で京都に五十年住んでいるわたしには、「山神社」という聞き慣れない名称が気になり、ネットで調べてみました。各県神社庁のホームページによれば、山神社は東北地方に濃密分布しており、中でも宮城県と山形県が最濃密地域のようでした。秋田県や岩手県にも分布が見られますが、なぜか青森県には分布を見いだすことが、今のところできていません。〟

 しかし、弘前市立図書館で読んだ「神社微細社司由緒調書上帳」には、「山神宮」という神社名が各地に散見されました。ご祭神は記されておらず、津軽の「山神宮」で祀られている神様の調査はまだできていません。「山神宮」の訓みについても、「さんじんぐう」なのか「やまがみのみや」なのかも未調査です。当地の方に聞いてみたいと思います。

 次に問題なのが、「山神宮」の「山」とは何なのかということです。一般的には mountain のことと思われますが、「山」一般を神様とする信仰にも違和感があります。やはり、津軽で「山」と言えば岩木山のことではないでしょうか。たとえば、わたしの調査によれば東海地方にも「山神社」が濃密分布しており(注②)、こちらの「山」は富士山のことと思います。山梨県の富士山の周囲に「山神社」が分布していることも(注③)、この理解を支持しているように思われます。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3519話 2025/08/20〝東北地方に濃密分布する「山神社」〟
②Wikipediaには愛知県の次の山神社が紹介されている。
山神社 – 愛知県名古屋市千種区田代町:旧村社
山神社 – 愛知県名古屋市中区松原:旧村社
山神社 – 愛知県名古屋市北区安井
山神社 – 愛知県刈谷市一里山町
山神社 – 愛知県名古屋市港区知多:旧村社
山神社 – 愛知県名古屋市緑区大高町:旧村社
山神社 – 愛知県尾張旭市瀬戸川町
山之神社 – 愛知県半田市山ノ神町
山神社 – 愛知県半田市天王町
山神社 – 愛知県半田市岩滑東町
山ノ神社 – 愛知県知多郡武豊町山ノ神
③Wikipediaには山梨県の次の山神社が紹介されている。
新屋山神社 – 山梨県富士吉田市新屋:山神社
山神社 – 山梨県中央市大鳥居

《写真解説》五所川原市金木町の山神宮。ブログ「神社探訪・狛犬見聞録」より転載させていただきました。


第3539話 2025/10/06

津軽にいた阿倍比羅夫の御子孫

 弘前市立図書館では、キリシタン禁圧文書の他に、津軽藩内の神社や社司の調査記録「安政二年 神社微細社司由緒調書上帳」(写本)を閲覧しました。同書は安政二年(1855)に編纂されたもので、原本は弘前市の最勝院が蔵しています。そのため、弘前市立図書館にある八木橋文庫の同書写本(注①)のコピー版を閲覧しました。

 「神社微細社司由緒調書上帳」はかなり大部の史料のため、精査は無理でしたが、5時間ほどかけて二~三度目を通したところ、面白い記事が目にとまりました。それは『日本書紀』斉明紀に見える大将軍、阿倍比羅夫(あべのひらぶ)の御子孫についての記録です。弘前にある熊野神社の神主、長利(おさり)家の祖を阿倍比羅夫とする記事が「神主由緒書」の冒頭に次のように記されています。

 「神主由緒書
一神代 二津石 又、比羅賀□王より*号す。
右は阿倍比羅夫の子孫。(中略)

二二代 長利麿
(以下略)」
※古賀による訳文。□は一字不明。「*号」は偏が「号」、旁が「逓」の中の字か。

 長利家は津軽の著名な社家ですが、その祖先を阿倍比羅夫とする伝承が津軽藩による公的な調査資料に記されていることから、長利家自身がそのように自家の系譜を認識していたと考えられます。東北の蝦夷討伐で活躍し、更に北方の粛慎とも戦ったと『日本書紀』に記された阿倍比羅夫を祖先とするのですから、それは誇るべき事ではありますが、津軽には滅ぼされた側(蝦夷国)の末裔が多数住んでいるのですから、長利家は古代においては複雑な立場に置かれたのではないでしょうか。

 なお、阿倍比羅夫を祖先とする家系は他にもありますが(注②)、津軽(旧蝦夷国)にその後裔がいたことに、歴史の秘密が隠されているように思います。もしかすると、阿倍比羅夫は津軽に逃れた安日彦(あびひこ)の子孫ではないでしょうか。これからの研究課題です。(つづく)

(注)
①中村良之進(北門)書写『津軽史料』「安政二年 神社微細社司由緒調書上帳」。
②阿倍仲麻呂は阿倍比羅夫の子孫と伝えられている。

《写真解説》クマと戦う阿倍比羅夫。その孫と伝えられている阿倍仲麻呂。


第3538話 2025/10/03

弘前市立図書館で

  キリシタン禁圧書状を閲覧

 昨日は朝から弘前市立図書館に行き、9時30分の開館を待って、史料調査室で夕刻まで江戸期成立の津軽藩文書など10数点を閲覧しました。最初に、キリシタン禁圧に関する報告書(藩への報告書)数点を拝見しました。江戸時代の津軽藩でのキリシタン禁圧史は、島原での弾圧ほど有名ではありませんが、とても興味深いもので、和田家文書にも少数ですが関連記事が見えます。

 今回、閲覧したのは弘前市立図書館に所蔵されている「津軽家古文書」にある次の書状です。

〔津軽きりしたんの者共死罪之儀御奉書〕TK190-3
津軽土佐守(信義)宛 写(原本)1通
註:阿部豊後守忠秋 松平伊豆守信綱 酒井讃岐守忠勝 土井大炊頭利勝より

〔南蛮伴天連いるまん等白状之趣に就き御奉書〕TK190-9
津軽土佐守(信義)宛 写(原本)1通
註:阿部対馬守重次 阿部豊後守忠秋より

〔森元功白状・伴天運市左衛門白状〕TK190-11
写(原本)2通

『東日流外三郡誌』(八幡書店版4巻、696頁)に「イルマン訴人」(津軽犯科帳)の記事があり、その年代(寛永12年・1635)も「津軽家古文書」に対応しているようですので、「南蛮伴天連いるまん等」との関係性を確認するために閲覧したものです。ここでの「いるまん」とはクリスチャンとしての信仰上の「兄弟」や「修道士」を意味しているようです。

 しかし、わたしの関心事は文書の内容だけではなく、使用された紙にもありました。天井の蛍光灯にそれら文書を透かしながら見るのですが、図書館の方からは変な閲覧者と思われたかも知れません。

 思っていたよりも厚手の手漉き和紙が使用されおり、これには驚きました。当時の津軽藩で、このような和紙が公文書に使用されていることを知り、勉強になりました。「東日流外三郡誌」明治写本に使用された機械漉の和紙よりもかなり分厚く、ページ数が多くなる書籍用と一枚の報告書(手紙)とで紙を使い分けているのかも知れません。(つづく)

 

《写真解説》弘前市立図書館旧館と新館