和田家文書一覧

東日流外三郡誌とは 和田家文書研究序説 古賀達也
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/sinkodai1/koga101.html

第3603話 2026/03/11

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (15)

 ―菊池哲子さんとの共同研究―

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)左上円内の人物について、新たな候補写案が菊池哲子さん(福岡県久留米市)から菊池武徳ではないかとする次の調査報告が届きました。一部要約して転載します。

【菊池哲子さんからのメール】
写真円内の人物は菊池武徳ではないか。1867年(慶応3年)~ 1946年(昭和21年)。他の人たちより少し年配です。津軽藩士の生まれで、慶応義塾の流れを汲む東奥義塾で学び、慶応義塾を明治20年に卒業。在学中から朝野新聞の記者でも活躍。卒後、福沢諭吉の時事新報に勤め、民権活動で東京追放されたあと、門司新報に勤め、のちに朝野新聞の経営もします。そこで、政治や実業の方に変更し、門司や青森を地盤に衆議院議員になってジャーナリスト・政治家としても活躍し、慶応の評議員にもなりました。

 写真の人物は菊池九郎というより、菊池武徳かと思われます。眉から鼻にかけて似ており、眼鏡もかけている。

 綾小路護、秋田重季の二人の縁も門司だとわかりました。この2人をつなぐのは「十五銀行」と貴族院内の政党組織「研究会」です。当時官営八幡製鉄ができ、門司に国際貿易港が必要となり、資金需要が起き、貴族の銀行と言われた「十五銀行」は門司築港会社に出資。秋田子爵家は同銀行の預金者・株主のようです。「十五銀行」に綾小路護は大学卒業後に就職。

 菊池武徳は慶応を卒業後、福澤諭吉の時事新報で記者として経験を積んだ後、門司の門司新報に行き、経営にも携わります。福澤の後押しもあったとか。のちに朝野新聞社長にもなります。

 そのころ北九州の電力需要に応じるために九州水力電気という会社ができ、そこにも「十五銀行」は出資をします。また、中津の経済人も福澤の関与でそれに出資しています。その山間地のダムと勾配を利用した水力発電所の建設に技術的にかかわったのが養子の秋田重季です。当時、電気は逓信省管轄。小規模な発電会社はいくつかあり、水利権の調整に苦慮した大分県が、電力会社の統合を打診。記録にははっきりわかりませんが、菊池武徳は新聞関係者・政治家としてそこにかかわったのではないかと思います。三者ともつながりがあったのではないか。日田の女子畑ダムの発電所は当時東洋一で、プロジェクト成功の同志的な気持ちはあっただろうと思います。政治的な考えも、近かったのではないか。

 この写真の違和感、なぜ秋田子爵の地元の三春でなく弘前か、がなんとなくわかったような気がしました。菊池武徳も慶応の評議員をした人なので、弘前の慶応人脈の重鎮です。〔菊池哲子〕

 以上の菊池さんの調査報告により、写真の人物(男性7名)がほぼ判明しました。その結果、和田家と秋田子爵家、そして慶應義塾とが繫がり、これが正しければ東日流外三郡誌の真作説の傍証となり、和田家と秋田家との関係は昭和60年頃からとする偽作論者の主張が否定されます。そしてこの調査結果は、福澤諭吉の『学問のすヽめ』冒頭の一節「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。」が、和田家文書からの引用とするテーマへと発展します。
今回の共同研究において、菊池哲子さんはAIを駆使されました。わたしが写真円内の人物調査に行き詰まっていたとき、菊池さんはAIに何度も問いかけ、核心に迫り、弘前と慶應義塾との深い関係に気づかれたのでした。学問的質問に対して日本語AIは間違うことが多く、わたしはあまり信用していませんでしたが、菊池さんの調査結果を知り、認識を少し改めることができました。(おわり)

〖写真説明〗和田家文書「学文のしるべ」の冒頭と末尾。文中に「天は人の上に人を造らず~」の一節が見える。


第3602話 2026/03/10

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (14)

―菊池武徳と秋田重季・綾小路護―

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)左上円内の人物について、新たな候補者案が菊池哲子さん(福岡県久留米市)から届きました。弘前出身の政治家、菊池武徳ではないかとのこと。Wikipediaには菊池武徳について次の説明があります。

【菊池武徳(きくち たけのり)】
1867年(慶応3年)~1946年(昭和21年)は、ジャーナリスト、政治家。陸奥国弘前生まれ。
1887年(明治20年)4月に慶應義塾別科を卒業。ただちに福沢諭吉の『時事新報』の記者となり、1892年(明治25年)に『朝野新聞』に移りのちに社長。次いで雑誌『演芸画報』『新世紀』社長に就任し、自然主義派の小説家を排して村井弦斎の小説を掲載。
1903年(明治36年)の第8回衆議院議員総選挙に青森県弘前市から出馬し、1915年(大正4年)まで、第10回総選挙を除き衆議院議員(4期)。又新会(ゆうしんかい)の創立に参加し、代表幹事。のちに立憲政友会に移る。筑豊鉄道(後の九州鉄道)の経営に携わり、門司市参事会員、日宝石油会社取締役、吾妻牧場会社監査役などを務める。

 以上のように、菊池武徳もまた弘前出身で慶應義塾に学び、福澤諭吉とも関係が深いようです。WEBにあった菊池武徳の写真も秋田重季ら記念写真円内の人物ととてもよく似ています。

 そこでまた、弘前市出身の偉人を研究されているHさん(弘前市在住)に意見を求めました。今度は、「写真の人物とよく似ている。年齢も問題ない。秋田重季や綾小路護との関係を証明できれば」との返答が届きました。こうして菊池武徳説がかなり有力であることがわかりました。

 記念写真の撮影が大正10年(1921)と仮定すると、その時の菊池武徳の年齢は53歳となり、円内の人物の年齢と見ても問題ありません。それでは秋田重季や綾小路護との関係はあったのか、という課題が残りました。そんなとき、またまた菊池哲子さんからメールが届きました。(つづく)


第3601話 2026/03/09

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (13)

 ―慶應義塾と東奥義塾の関係―

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)に見える写真左上円内の人物を弘前市初代市長の菊池九郎(1847・弘化4年~1926・大正15年)ではないかとするメールが菊池哲子さん(福岡県久留米市)から届きました。Wikipediaには菊池九郎について次の説明があります。要約し転載します。

【菊池 九郎 (きくち くろう)】
1847年(弘化4年)~1926年(大正15年)は、弘前藩士、教育者、官吏、政治家。東奥義塾創立者。『東奥日報』創刊者。初代・第7代弘前市長、山形県知事、農商務省農務局長、衆議院全院委員長等を歴任。
津軽藩士菊池新太郎の長男として弘前城下に生まれる。藩校・稽古館に学び、1864年(元治元年)より同館で司監を務める。戊辰戦争に際し脱藩して奥羽越列藩同盟のために奔走。戦争後、弘前藩に捕えられたが、赦されて藩の参事となる。
1868年(明治元年)、弘前藩主・津軽承昭に随行し慶應義塾に入る。
1870年(明治3年)、鹿児島留学し、西郷隆盛に心酔。帰郷後、旧藩主津軽承昭の援助をうけ、東奥義塾を創立。上京して福澤諭吉と面会。東奥義塾は創立当初は「慶應義塾弘前分校」的色彩が強かった。
1877年(明治10年)、西南戦争が勃発。東奥義塾門下生を引き連れ上京。東京で待機中に西南戦争は終わる。
1888年(明治21年)、『陸奥新聞』に対抗し、民権伸長の為『東奥日報』を創立(初代社長)。
1889年(明治22年)、初代弘前市長に就任。第1回衆議院議員総選挙で当選。以後当選9回。
1897年(明治30年)、第6代山形県知事に就任。
1908年(明治41年)、衆議院全院委員長に就任。
1911年(明治44年)、第7代弘前市長(1911~1913年)に再就任。
1926年(大正15年)、藤沢市で死去。葬儀は東奥義塾葬としてキリスト教式で行われた。

 以上のように波瀾万丈の人生をおくった菊池九郎は、明治の弘前を代表する教育者・政治家です。慶應義塾に入学し、後に弘前に東奥義塾を開学するなど、福澤諭吉との深い関係が注目されます。こうしたことを根拠に、菊池哲子さんは写真円内の人物の候補として菊池九郎を提案されました。たしかにWEB上の菊池九郎の写真と比較しても似ているように思いました。

 そこで確認のために、弘前市出身の偉人を研究されているHさん(弘前市在住)に集合写真などを送り、意見を求めたところ、菊池九郎は「写真の人物とは似ていない。年齢も離れている。」との返答が届きました。確かに、秋田重季氏らの集合写真が大正10年と仮定すると、その時の菊池九郎は75歳です。写真の人物はもっと若く見えます。こうして、菊池九郎説はペンディングとしました。(つづく)


第3599話 2026/02/26

辞書出版各社からの返答

  〔小学館・新潮社編〕

 角川書店と岩波書店に次いで、小学館と新潮社から返信が届きました。小学館からの返答は感動的でした。紹介します。

【小学館からの返信】
拝復 「日本方言大辞典」をご活用くださいまして、ありがとうございます。また、この度は、同書の内容につきまして、貴重なご教示を賜わりましたこと、併せて篤く御礼申し上げます。
さて、ご指摘の「カメ」の語源説についてですが、古賀様のお説を拝読し、たとえ外来語語源説が古くから行われていたとしても、「日本方言大辞典」の中でそれと断定するのは問題があると感じました。少なくとも、この部分を、(犬を呼ぶ語Come here またはCome in からとする説がある)とすべきであったようです。

 わたくしどもは、この辞典の他に「日本国語大辞典」という大型の国語辞典を出版しているのですが、この「カメ」外来語語源説は、そちらで示した語源説をもとに記述したようです。(「日本国語大辞典」の語源説は従来の語源に関する諸説を列記したもので、あくまでも諸説の紹介にとどまり、どの説が正しいかという判断は示していません)そこに掲げた語源説は、「大言海」「明治事物起源」「方言と昔(柳田国男)」ですが、それらが文久3年刊の「横浜奇談」まで遡れるというのは、お説を拝読して今回初めて知りました。「日本国語大辞典」は現在改訂作業を進めておりますので、何らかのかたちで反映させていただく所存でございます。

 最後に、私事で恐縮ですが、わたしは十数年前に一度向日市の古田武彦氏のお宅にお伺いし、長時間に渡ってお説を拝聴したことがあります。(中略) 今回、「古田史学の会」の事務局をなさっている古賀様からお手紙を頂戴し、奇縁に驚きました。これも何かのご縁と存じますので、今後ともわたくしどもの辞書につきまして、お気付きのことがございましたら、ぜひまたご教示を賜わりたいと存じます。
先ずは、御礼かたがたご報告まで。
敬具 一九九七年十一月二十八日
小学館 国語辞典編集部
【転載おわり】

 古田武彦先生や古田史学を接点に、わたしの人生に於いて様々な分野の人々との出合が生まれました。わたしはこの幸せに感謝し、その学恩を生涯忘れることはないでしょう。そして、最後に届いたのが新潮社でした。

【新潮社からの返信】
拝啓

 お手紙とコピー、拝見しました。読んで、お書きになってらっしゃることは尤もだと思いましたし、驚きました。語釈を改めなければならないと思いますので、編者の先生に相談致します。ありがとうございました。また何かお気付きの点がございましたら、ご連絡いただければ幸いに存じます。
右は取り急ぎ御礼と御連絡まで。
敬具
新潮社 辞典編集部国語辞典係
【転載おわり】

 簡潔にして要を得た返答です。残る三省堂からは〝なしのつぶて〟でしたが、既存学説(通説)に対する三十年前のわたしのささやかな〝挑戦〟でした。池田エライザさんの主演ドラマ「舟を編む ~私、辞書つくります~」を観ていて思い出した人生の一コマです。(おわり)


第3597話 2026/02/20

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (12)

 写真左上円内の人物、「菊池九郎」説

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)に見える写真左上円内の人物を秋田重季氏晩年の写真とするアイデアを「洛中洛外日記」3587話(2026/02/02)〝「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (11) ―写真裏書「和田長三(郎)」への疑義―〟で披露しました。しかしながら、わたしはこのアイデアにあまり自信がありませんでした。その理由は次のようなことでした。

(ⅰ)秋田重季氏が晩年になって、若き日の弘前市の温泉旅館での、女将や芸妓と手を繋いだプライベートな写真を記念写真として作成・配布するものだろうか。むしろ、貴族院子爵議員の記念写真には相応しくないと思われる。〈論理的疑義〉
(ⅱ)左上円内の人物と前列中央の秋田重季氏とでは、頭髪の分け目が左右逆。目や眉毛も異なっており、別人と断定できるほどではないものの、同一人物とできるほど似ているわけでもない。〈実証的疑義〉

 こうした迷いがあり、筆が止まっていたところ、意外な仮説が菊池哲子さん(福岡県久留米市)より届きました。菊池さんは久留米大学公開講座でのわたしの講演会に毎年参加されており、和田家文書や地元の歴史について造詣が深い方です。最近ではわたしが主宰している「古田史学リモート勉強会」(毎月、第二土曜の夜7~9時にリモートで開催)にもご参加いただいている研究者仲間です。

 その菊池さんから届いたメールには、写真左上円内の謎の人物を初代弘前市長の菊池九郎氏(1847・弘化4年~1926・大正15年)ではないかとありました。このメールにわたしは驚愕しました。(つづく)

〖写真の説明〗秋田重季氏らの集合写真。菊池九郎氏・左上円内の人物・前列中央の秋田重季氏。


第3596話 2026/02/20

辞書出版各社からの返答〔岩波書店編〕

 『角川外来語辞典』第二版(1977年)は、〝カメ〟について次のように説明しています。

 カメ【英 Come here!】(原義:来い)日本語では“洋犬”。それは、英米人が犬に向かって“来い、来い”と言ったのを、犬の意味に誤解したのに基づく。(以下、出典などが明記されている。)

 この語釈は誤りとする論文(注)コピーと手紙を角川書店、岩波書店、小学館、三省堂、新潮社の各社に出しましたが、角川書店からは同封した論文の「持ち込み原稿」扱いされ、送り返されました。次いで、岩波書店「広辞苑」編集部から返信が届きました。ちなみに『広辞苑』第三版には次のように記されています。

カメ(幕末・明治初期、英米人が、come here(こっちへ来い)といって犬を呼んだことからという)洋犬のこと。西洋道中膝栗毛「異人館の洋犬(カメ)」。〔『広辞苑』第三版、1988年〕

【岩波書店からの返信】
拝啓 晩秋の候、古賀様におかれましては、ますますご健勝のこととお慶び申し上げます。また、日頃より広辞苑をご愛用いただき、感謝いたします。
さて、今回は「カメ」についての論文をお送りいただき、ありがとうございました。たいへん興味深く拝読いたしました。御説の中には、「なるほど」と思う部分がいくつもございました。

 やや言い訳がましくなりますが、ご存じの通り、広辞苑では「カメ(幕末・明治初期、英米人が、come here といって犬を呼んだことからいう)洋犬のこと。」と解説しています。このうち語源説の部分については「〜という」で終えており、断定的な言い回しをしておりません。また、「メリケン・カメ」の栞(注②)につきましても「『カメや』と勘違いしたのだとか。」と「〜とか。」で終えています。

 論文の中で触れられていますように、「カメ」が「come here」から転じたものであるとする語源説は、古くから広く流布しております。広辞苑としては、「その語源説について断定するだけの確証はないが、広く流布している語源説として紹介する」という立場から、現在のような解説を付しています。

 御説について、軽々に判断することはできませんが、たいへん貴重なご意見と存じます。次版の改訂作業における課題として、「カメ」についての過去の論考とあわせて検討させていただきたく存じます。今後とも、お気付きの点がございましたら、ご指導くださいますようお願い申し上げます。
取り急ぎ要件のみにて失礼いたします。どうぞこれからも広辞苑をご愛用くださいませ。最後になりましたが、時節柄ご自愛くださいますようお願い申し上げます。

敬具
一九九七年一一月二〇日
岩波書店辞典部 広辞苑編集部
【転載おわり】

 さすがは日本を代表する中型国語辞典『広辞苑』の編集部。見事な返答にますます広辞苑が好きになりました。拙論に賛意を表しながらも、しっかりと編集方針の釈明も行い、検討を約束する。そして、引続き広辞苑の愛用を促すといった営業的視点と礼儀を兼ね備えた返信です。この岩波からの返答のおかげで、角川による私の不機嫌が一気に吹き飛んでしまいました。次に来たのが小学館。こちらはもっと感動的な文面でした。(つづく)

(注)
①古賀達也「〝カメ(犬)〟は「外来語」か」『北奥文化』18号、北奥文化研究会、1997年。
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou47/koga471.html
②岩波文庫に挟んである栞に、カメ外来語語源説を紹介したものがあった。

〖写真の説明〗岩波書店広辞苑編集部からの返信。広辞苑第七版の販売風景。NHKドラマ「舟を編む」のワンシーンに登場した広辞苑。


第3595話 2026/02/18

辞書出版各社からの返答〔角川書店編〕

 「洛中洛外日記」第3593話〝池田エライザ主演『舟を編む ~私、辞書つくります~』〟で、30年ほど前に辞書の誤りを見つけ、そのことを論文発表し(注)、辞書出版社に訂正を提案したことを紹介しました。

 辞書の誤りとは、〝犬のことを「かめ」という地域がある。明治時代に来日した西洋人が、犬をcome hear (カムヒア・カメヤ)と呼ぶのを聞いた日本人が誤解して、犬のことをカメと言うようになった。〟とする説明のことです。この語釈は誤りで、江戸時代以前から犬をカメと言う地域があったことを証明した同論文コピーを辞書出版社に送付し、次のような趣旨の手紙を出しました。

(1) カメ外来語語源説は、同封の論文に示しているように、成立困難であること。
(2) 御社の辞典には、「外来語説」に立った説明がなされているので、拙論を検討していただきたい。
(3) できれば、拙論に対する批判や感想をいただきたい。

 こうした手紙と論文コピーを角川書店、岩波書店、小学館、三省堂、新潮社の各社に出しましたが、出版各社の対応は大きく異なりました。
最初に届いたのは、『外来語辞典』を出版している角川書店からの次の返信でした。

【角川書店からの返信】
時下ますますご清栄のことと存じます。
とり急ぎお便りいたします。
当社におきましては、(依頼原稿以外の)お持ち込み原稿等の出版・雑誌掲載ならびに、批評等を行っておりません。ご期待に添えず申し訳ございませんが諒解のほどお願いいたします。
要件のみでございますが、ご健勝を念じます。 草々
角川書店 書籍第一編集部
【転載おわり】

 どうやら、「持込み原稿」として扱われたようでした。しかもご丁寧に『北奥文化』コピーも送り返されてきました。そこで、「持込み原稿」ではない旨記して、同社の「辞典編集部」宛に送付しましたが、返事はありませんでした。角川書店には読者の意見を聞く制度(態度)はないのかもしれません。やはり世間はこんなものかと、少々おち込んでいたら、岩波書店「広辞苑」編集部から返信が届きました。(つづく)

(注)古賀達也「〝カメ(犬)〟は「外来語」か」『北奥文化』18号、北奥文化研究会、1997年。
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou47/koga471.html

〖写真の説明〗角川書店からの返信。NHKドラマ『舟を編む ~私、辞書つくります~』のワンシーン。


第3593話 2026/02/16

池田エライザ主演

『舟を編む ~私、辞書つくります~』

 久しぶりに池田エライザさん主演ドラマ、『舟を編む ~私、辞書つくります~』(録画)を見ました。辞書作りの現場(出版社)が舞台で、辞書編集・発刊の工程や難しさがわかり、とても勉強になったドラマです。池田エライザさんの演技や表情もよく、ファンになりました。

 主人公〝岸辺みどり(池田エライザ)〟は、出版社「玄武書房」の人気ファッション誌部門で活躍していましたが、女性読者の本離れが進み、雑誌は廃刊。そのため地味な辞書編集部へ異動になりますが、「言葉」や辞書『大渡海』作りの魅力にのめり込んでいくというストーリーです(三浦しをん氏の原作を2024年にテレビドラマ化。2025年、NHK地上波でも放送。原作の主人公は岸辺みどりではない)。

 わたしは書籍(論文集・共著)の編集出版には、この40年間で40冊ほど関わった経験があります(『市民の古代』『新・古代学』『古代に真実を求めて』『東日流外三郡誌の逆襲』他)。しかし流石に辞書編集を手掛けたことはありません。ただ30年ほど前に、「東日流外三郡誌」研究の過程で、辞書の誤りを見つけ、辞書出版社に訂正を提案したことがあります。その論文は「〝カメ(犬)〟は「外来語」か」(『北奥文化』18号、北奥文化研究会、1997年)です。
https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou47/koga471.html

 少なからぬ国語辞典や外来語辞典には、〝犬のことを「かめ」という地域がある。明治時代に来日した西洋人が、犬をcome hear (カムヒア・カメヤ)と呼ぶのを聞いた日本人が誤解して、犬のことをカメと言うようになった。〟と説明しています。

 しかし、この解説は誤りであり、江戸時代以前から日本では犬のことをカメとよぶ地域(主に東北地方)があることの分布資料と江戸期以前成立の史料を示し、もし英語の聞き間違いであれば長崎か横浜に分布中心があるはずだが、そうはなっていないと指摘した論文です。

 考えてもみて下さい。大昔から日本には犬(いぬ)や亀(かめ)がいて、そう呼び続けてきた日本人が、明治時代になって突然のように犬のことだけをカメと呼び換え、東北地方まで方言として伝わり、現代まで使われているという、辞書の説明がおかしいのです。冷静に考えれば、明治時代に来日した英語圏の西洋人は、犬だけではなく、猫や人にもcome hear (カムヒア・カメヤ)と呼びかけたはずです。ところがそれを聞いた日本人の誰かが、犬だけをカメと誤解し、その誤解が全国各地に伝わり採用されたなどという説明(語釈)自体がおかしいことは明らかです。はっきり言って、辞書に採用できるレベルの説明(語釈)ではありません。

 同論文のコピーを、誤った説明を掲載した辞書の出版社に送付し、改正を要請しました。角川書店、岩波書店、小学館、三省堂、新潮社です。ところが、わたしからの検討要請に対して、各社の対応は異なりました。(つづく)


第3589話 2026/02/05

『東日流外三郡誌の挑戦』の読後感

 『東京古田会ニュース』226号には拙稿「運命と使命の一書 ―東日流外三郡誌の逆襲―」に続いて、「一読者」による「『東日流外三郡誌の逆襲』読後感想文」が掲載されていました。これは『古田史学会報』191号掲載の池上洋史さんによる「『東日流外三郡誌の逆襲』の感想」に続いての書評で、どちらも好意的な言葉にあふれ、著者としては有り難く、続編執筆への励みとなりました。それは次のような感想です。

 「古賀さんが書かれた論文はほとんどすべて目にしていましたが、こうしてまとめて読んでみると、いかに長い歳月にわたって、地道で詳細な調査研究をされ、偽作キャンペーンに怒り、闘ってこられたかが改めてわかりました。」 (池上洋史さん)

 「古賀さんの偽書派に対する様々な論文を読んで偽書説の中味、そのやり口、裁判のこと、その後の和田家の人々がどうなったか良くわかりました。本当に腹が立ちました。偽書説を唱える人たちの無責任さ、想像力のなさ。」 (一読者さん)

 お二人の書評にあるように、同書収録論文には三十年前の偽作キャンペーンとの激しい論争の最中に書かれたものがあり、今回の出版にあたり、その表現を穏便なものに改訂することも考えました。というのも、掲載稿の初校ゲラを娘(小百合)に添削してもらったところ、感情が出過ぎており、学術論文らしく表現を抑えてはどうかとの助言があったからです。娘は同志社大学で現代メディア論などを専攻していたこともあり、もっともな意見と思いましたが、当時の激情も含めて、その〝熱〟を後世に伝えたいと述べ、序文「東日流外三郡誌を学問のステージへ ―和田家文書研究序説―」の掉尾を次のように改めることにしました。この文体は娘の指導によるものです。

 「掲載しているわたしの論文の中には、まさに偽作論との闘いの最も激しかった頃に執筆したものも含まれる。強硬な言葉や、度の過ぎた反撃の意思が見える表現も残るが、史料に対して不誠実な研究はしてこなかった自負があるため、残した。そして何より、あの時代のおぞましい弾圧を、そして正直に語れば我々の身を焼いた怒りを、時を超えて本書に残さねばならないとも思っている。ここまで戦ってきた同志に、そしてこれから先の未来で歴史研究の歩みの中で本書に出会った人に、この三十年の思いが熱を失わぬまま届けば、きっとその先に研究の道は続いていくと信じている。
しかし、わたしたちはこの炎をもって、何者かを焼くことを目的とはしないことをはっきりとここに宣言する。東日流外三郡誌とそこに記された真実のみを求める。本書は、この学問精神に貫かれている。東日流外三郡誌の逆襲が、本書から始まるのである。」『東日流外三郡誌の逆襲』15頁

 最後にわたし自身の読後感ですが、自らの三十代の〝若さ〟と〝情熱〟に触れ、七十歳の今のわたしには到底書けないと思いました。人生の「最新」章を迎え、あの頃の〝若さ〟と〝情熱〟を思い起こし、読者の心に響くような論文を書き、そして古田武彦先生から託された未踏の分野の研究に挑みたいと、決意を新たにしました。


第3588話 2026/02/03

運命と使命の一書

『東日流外三郡誌の挑戦』

 先日届いた『東京古田会ニュース』226号に拙稿「運命と使命の一書 ―東日流外三郡誌の逆襲―」を掲載していただきました。同稿は、昨年八月に八幡書店から発行された拙著『東日流外三郡誌の逆襲』の出版記念講演会(弘前市、秋田孝季集史研究会主催)の報告を書いて欲しいと、東京古田会の安彦克己会長からご依頼をいただき、執筆したものです。

 そこで、わたしが和田家文書研究に入った30年前の事件から書き起こすことにしました。今では当時のことを知らない人が多くなりましたので、後学に伝えるためにも気合いを入れて書きました。その冒頭の一節と各節小見出しを転載します。ちなみに、〝運命と使命の一書〟とは、〝運命〟の『東日流外三郡誌の逆襲』(既刊)と〝使命〟の続編『東日流外三郡誌の挑戦』(仮題、未刊)の二著のことです。後著は既に半分ほどの原稿執筆を終えています。そこでは、古代東北の連合国家〝愛瀰詩国(蝦夷国)〟の多元史観による復元に挑戦しています。

【以下転載】
一 運命の一書

 令和七年夏、三十年の歳月を経て、『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)を上梓できた。
三十年前、安本美典氏やメディアによる東日流外三郡誌偽作キャンペーンは猖獗を極め、和田家文書を見たこともない人々が我先にと偽作説に走り、あろうことか「市民の古代研究会」までもが古田武彦先生を裏切った理事らにより反古田の集団へと変質していった。それまでは「古田先生、古田先生」と猫撫で声で群がっていた人々、わたしが〝兄弟子〟と慕っていた人々が次々と先生から離れていく。人はかくも簡単に恩人を裏切れるものなのか。三十代の若き日、わたしはそれを目の当たりにしたのだ。

 以来、古田先生との津軽行脚、そして北海道から九州までの全国行脚の日々が始まった。何のために。言うまでもない。東日流外三郡誌の真実を求め、全国各地に残った古田史学を支持し、迫害に屈しない筋金入りの〝弟子〟らを糾合するためにだ。この津軽・北海道行脚の一端を『東日流外三郡誌の逆襲』に採録し、わたしの運命と使命の足跡を書きとどめた。

二 平成の津軽行脚
三 令和五年、再開した津軽行脚
四 令和五年、武田社長との邂逅
五 令和七年秋、弘前市での邂逅
六 宮下青森県知事を表敬訪問
七 津軽の政治家との一夕
八 津軽藩のキリシタン禁圧史
九 津軽にいた阿倍比羅夫の子孫
十 弘前市立図書館での決意


第3587話 2026/02/02

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (11)

 ―写真裏書「和田長三(郎)」への疑義―

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)に見える前列左端の坊主頭の若者が、同写真裏書きに見える「和田長三(郎)」である和田元市氏(喜八郎氏の父)であることはほぼ確認できたように思いますが、なお一つの疑問があり、わたしは悩んできました。それは、写真撮影当時の大正10年(推定)、元市氏はまだ21歳であり、父親の長作氏(当時47歳)は健在です。このとき若き元市青年が、はたして和田家当主の「長三郎」を襲名できたのかという疑問です。

 そこでまず考えたのが写真裏書きの史料性格です。写真裏書きに見える他の四名の名前、天内・林・秋田重(季)・綾小路が正確であったことから、何らかの関連文書に基づいて書かれたものと考えざるを得ませんから、「和田長三(郎)」もその関連文書に基づいて記されたと考えるのが妥当です。そうでなければ、「和田長三(郎)」ではなく、「和田元市」と書かれたはずですから。また関連文書もなく、写真の人物を見て、これらの名前を書くことはまず不可能でしょう。貴族院子爵議員の秋田重季氏や綾小路護氏だけであれば、全国的な著名人ですから、他の情報に基づき、人物を特定できたかもしれませんが、天内兼太郎氏や森林助氏はわからないのではないでしょうか。

 従って、これらの人物名が書かれた資料の存在を疑えないのです。そうすると考えられるのが、同写真の下部が切り取られていることから、この切り取られた部分に人物名が印字されていた可能性が有力であり、それに基づいて裏書きが記され、その後、何らかの事情によりその部分が切り取られたと考えるのが最有力と思われます。この理解が当たっていれば、この写真の撮影時と人物名入り記念写真として焼き増しされた時期は異なると考えることができます。そこで注目されるのが、写真左上の円内にある高齢の人物です。このように集合写真の上部に人物が付加される例は卒業写真などでお馴染みです。集団の記念写真撮影時に欠席した人の写真を付け加えるという手法です。

 しかし今回の写真は、東京から津軽に旅行した子爵議員二名が旅館(料亭)の女将や芸妓と手をつなぐという極めてプライベートなものです。従って、円内に「不参加の高齢の人物」写真を付加しているのは、卒業写真などとは全く異なった目的によると考えざるを得ません。そこで、わたしは次のように考えてみました。この写真は秋田重季氏晩年(昭和33年、1958年没)に焼き増しされたもので、その際、上部左の円内に晩年の自らの写真を加え、写真下部の余白部分に参加者の名前を印字した。従って、重季氏晩年であれば元市氏は「長三郎」を襲名していたと考えられ、先にあげた疑問は解消されます。

 この推定であれば、同写真とその裏書きの史料状況をうまく説明できます。この仮説の当否を証明する方法もあります。晩年の秋田重季氏の写真を確認することです。この調査のため、秋田家へのアプローチなどを試みてきましたが、今のところ実現できていません。(つづく)

〖写真解説〗左: 記念写真左上の写真 右上: 記念写真前列中央の秋田重季氏 右下: WEBにあった秋田重季氏の若いころの写真


第3586話 2026/02/01

「秋田重季氏ら記念写真」の調査 (10)

 ―写真裏書「和田長三(郎)」の考察―

 「秋田重季氏ら記念写真」(藤本光幸氏遺品)に、並んで写っている男性六名中の前列左端、坊主頭の若者が同写真裏書きに見える「和田長三(郎)」であれば、それは和田家仏壇の上に架けられた和田元市氏(喜八郎氏の父)遺影との一致により、元市氏の若い頃である可能性が最有力候補となります(注①)。この判断が正しければ、和田家(青森県五所川原市飯詰)と秋田子爵家(東京)との交流が明治・大正時代に遡ることを証明する写真となります。

 「東日流外三郡誌」偽作キャンペーンでは、和田家と秋田子爵家との交流は『東日流外三郡誌』が有名になった昭和六十年頃からであり(注②)、それまでは無関係と主張していました。「東日流外三郡誌」明治写本を書写した和田長三郎末吉(喜八郎氏の曾祖父)と秋田子爵家との交流が、和田家文書(寛政原本の写本ではなく、末吉が明治期に執筆した部分)に少なからず遺されており、偽作論者はそれらの記事を和田喜八郎氏による偽作として退けてきました。しかし、この写真の人物が和田長三郎元市であれば、そうした偽作説を否定する証拠となります(和田家では代々の当主が「長三郎」を襲名)。

 「洛中洛外日記」3585話で説明したとおり、この写真の撮影時期が大正10年であれば、和田元市氏21歳の写真となり、年齢が判明している他の五名の男性の風貌と比べても、妥当な年齢であることがわかります。大正10年時点の年齢は次の通りです。
❶天内兼太郎(1885~1985) 36歳
❷森 林助 (1880~1935) 41歳
❸菊池 巍 (1876~1934) 45歳
❹和田元市 (1900~1981) 21歳
❺秋田重季 (1886~1958) 35歳
❻綾小路護 (1892~1973) 29歳
(つづく)

(注)
①記念写真中の男性(全七名)で、調査により判明した六名は下記の通り。写真左上円内の人物は未詳。秋田重季氏の晩年の写真かもしれないが、そうと断定できるほどの根拠が今のところない。
[後列]
❶天内兼太郎(1885~1985) 弘前中学教師 《男A》「天内」
❷森 林助 (1880~1935) 弘前中学教師 《男B》「森」
❸菊池 巍 (1876~1934) 弘前中学教師 《男C》不記載
[前列]
❹和田元市 (1900~1981)        《男D》「和田長三(郎)」
❺秋田重季 (1886~1958) 貴族院子爵議員《男E》「秋田重(季)」
❻綾小路護 (1892~1973) 貴族院子爵議員《男F》「綾小路」
※《》内は裏書きの文字。写真下部が切り取られているため、切り取られた部分にあると思われる()内の字は、推定による。
②昭和62年7月30日、秋田家当主の秋田一季氏(重季氏の子息。1915~1997)が安倍晋太郎氏(安倍家も始祖を津軽の安日王〈東日流外三郡誌に見える安日彦〉とする)と共に石塔山神社を訪れ、植樹している。石塔山神社収蔵庫を見学する安倍洋子さん(暗殺された安倍晋三元総理大臣の母)の写真もある(年次不明)。安倍洋子さんは和田喜八郎氏の葬儀(1999年)にも参列しており、両家の深い関係をうかがわせる。

 古田武彦先生から聞いた話だが、喜八郎氏の紹介で秋田一季氏に会う際、会話の冒頭に「おそれながら」、末尾に「~でございます」と敬語を使うよう、喜八郎氏からきつく言われたとのことであった。ちなみに、喜八郎氏は一季氏を「秋田様」「殿(との)」と呼んでいた。いかにも時代がかった表現だが、そのときの喜八郎氏の表情は真剣そのものであった。