和田家文書一覧

第63話2006/02/17

『北斗抄』

 昨年10月に物故された藤本光幸さん(第39話参照)の妹、竹田侑子さんより待望の一冊が送られてきました。和田家資料3『北斗抄』(藤本光幸編・北方新社。2000円+税)です。これには『北斗抄』全29巻のうち、1〜10巻が採録されています。詳細は巻末の竹田さんによる「あとがき」を読んで下さい。
 和田家文書は江戸時代から明治・大正・昭和へと書写、書き継がれた文書であり、中でもこの『北斗抄』には明治期の文書も編集されており、十分かつ慎重な史料批判が必要な文書です。わたしも津軽で実見しましたが、歴代の書写者の息吹が随所に感じられました。
 また、本書には貴重な一論文が末尾に採用され、光彩を放っています。竹内強さん(本会会員・岐阜市)による「和田家文書『北斗抄』に使用された美濃和紙を探して」です。執念の現地調査により、『北斗抄』に使用されている美濃和紙が明治時代のものであったことを証明された記録です。この調査報告は昨年の古田史学の会会員総会(大阪市)の際に口頭発表されたものですが、今回論文として寄稿されたことにより、多くの方に読んでいただけることになりました。竹田侑子さんのご尽力の賜です。
 今回の発行に続いて、11巻以降の『北斗抄』も刊行されるとのこと。故藤本光幸さんと竹田侑子さん兄妹の刊行への取り組みに敬意を表すとともに、微力ではありますが、これからも応援していきたいと思います。

参照

真実の東北王朝』古田武彦(駸々堂 絶版)

日本国の原風景ー「東日流外三郡誌」に関する一考察ー 西村俊一氏


第57話2006/01/1

佐賀の「中央」碑

  「日本中央」碑という有名な石碑が青森県東北町にありますが、佐賀県にも「中央」碑があることを林俊彦さん(本会全国世話人、古田史学の会・東海の代表)より教えていただきました。この佐賀県の「中央」碑についてご紹介したいと思います。
  佐賀平野の地神信仰に「チュウオウサン」(中央神)があります。この中央神は古い家々の庭先の、多くはいぬい(乾・北西)やうしとら(艮・北東)のすみに祀られ、小さな石か石塔が立っています。文字を刻んだものは「中央」「中央尊」「中央社」とあるそうです。これが今回紹介する佐賀の「中央」碑です。これらは大地の神を祀ったもので、旧佐賀市内や神埼郡に多く分布しているそうです。
 この中央神は肥前盲僧の持経「地神陀羅尼王子経」などに、荒神が中央を占めて四季の土用をつかさどると説くことに由来するとされていますが、もしかすると、この佐賀の「中央」碑は青森県の「日本中央」碑と同じ淵源を持つのではないでしょうか。それは次のような理由からです。
 青森の「日本中央」碑は「日の本将軍」とも自称していた安倍・安東と関係するものと思われますが、古代では蝦夷(えみし)国だった地域ですし、東北や関東に分布する荒覇吐(アラハバキ)信仰とも繋がりそうです。一方、佐賀(北部九州)には『日本書紀』神武紀に見える次の歌謡があり、蝦夷との関係が指摘されています(古田武彦『神武歌謡は生きかえった』新泉社、1992年)。

「愛瀰詩(えみし)を 一人 百(もも)な人 人は云えども 抵抗(たむかひ)もせず」

 古田氏によれば、これは天孫降臨時の天国軍側の歌(祝戦勝歌)であったとされ、侵略された側の人々は「愛瀰詩」と呼ばれていたことがわかります(おそらく自称)。津軽の和田家文書によれば、この侵略された人々(安日彦・長髄彦)が津軽へ逃げ、アラハバキ族になったとされています。従って、神武歌謡の「愛瀰詩」と東北の蝦夷国とは深い関係を有していたこととなります。そして、その両地域に「中央」碑が現在も存続していることは偶然とは考えにくいのではないでしょうか。「中央」信仰が両者に続いていたと考えるべきではないでしょうか。
 先に紹介しましたように、佐賀の「中央」神が「荒神」とされていたり、庭先の北西や北東に祀られていることも、東北の蝦夷国や荒覇吐信仰との関係をうかがわせるに充分です。また、佐賀県三養基郡に江見という地名がありますが、これもエミシと関係がありそうな気がしています。
佐賀の「中央」碑は「あまりそまつにしても、あまりていねいにお祭りしてもいけない」とされているそうで、侵略された側の神を祀る上での民衆の知恵を感じさせます。


第39話 2005/10/25

故・藤本光幸さんのこと

 早くから和田家文書を世に紹介されてきた藤本光幸さん(本会会員・青森県南津軽郡藤崎町)が10月21日に急逝されました。行年75歳とのこと。残念です。
 ほがらかで、笑顔を絶やさない紳士。そんな藤本さんとの出会いにより、わたしの和田家文書研究は本格化しました。わたしは学問的資料として、あるいは偽作説に反論するために和田家文書に取り組んできたのですが、藤本さんの場合はちょっと違っていたような気がします。埋もれた歴史史料として扱うにとどまらず、和田家文書に記された思想性、たとえば「生命尊重の哲学」などに心酔しておられました。和田家文書の思想性こそ現在に必要なものであり、それを世に出さなければならない、それが自分の使命だと、よく言っておられました。
 藤本さんはお酒(特にウイスキー)を大変好まれていました。わたしが和田家文書の調査のために津軽入りすることをお知らせすると、ご自宅で一泊するよう希望されました。調査研究のためには五所川原市か弘前市で宿泊するのが便利なのですが、藤崎町の藤本さんのお屋敷で杯を傾けながら、夜が更けるまで和田家文書の話を続けるのも、秘かな楽しみの一つとなりました。ある年の夏にうかがったときは、ちょうど藤崎町のねぶた祭の日で、藤本邸の玄関先に縁台を並べて、祭の行列を見物したことが、今でも鮮やかに思い起こされます。
 わたしは亡くなられる十日前に藤本さんから手紙をいただきました。それには、『古田史学会報』掲載予定の和田家文書を紹介された原稿が同封されていました。そしてそれが、はからずも御遺稿となってしまいました。原稿の題は「『和田家文書』に依る『天皇記』『国記』及び日本の古代史についての考察」というもので、4編いただきました。10回連載の予定でしたので、「未完」の御遺稿です。『古田史学会報』71号より掲載開始いたします。合掌


第2話 2005/06/13

和田家文書に使用された美濃紙追跡調査

 昨日は大阪で「古田史学の会」の会員総会と、それに先だって講演会を開催しました。遠くは九州や四国、山陰、関東からもお越し頂き、ありがとうございました。
 講演会では、竹内強さん(古田史学の会会員・岐阜市在住)の「和田家文書に使用された美濃紙追跡調査」がスリリングで圧巻でした。和田家文書に使用された美濃紙に押印された紙問屋の屋号や商標を手掛かりに、岐阜市内の紙問屋街の全戸調査を行ったり、紙の史料館や図書館での調査など、何度も壁に突き当たりながらも、ついにその紙が明治30年から40年の間に製造販売されたことを突き止められたくだりは、思わず拍手喝采したくなるほど興奮しました。
 九年前、わたしが和田家文書調査のため北海道松前町を訪れ、当地の歴史研究者永田富智氏(北海道史編纂委員)に聞き取り調査を行ったとき、永田氏は昭和46年に『東日流外三郡誌』二百〜三百冊を見たと証言され、使用されていた紙は明治の末頃に流行りだした機械織りの和紙とのことでした。この永田証言と今回の竹内さんの調査結果とが見事に一致したのです
永田証言は「古田史学会報」16号と『新・古代学』第4集に掲載しています)。
 「歴史は足にて知るべきものなり」(秋田孝季)を実践された竹内さんの見事な調査報告でした。

他の証言は古田史学会報 をご覧ください。
「平成・諸翁聞取帳」起筆にむけて
  「 平 成 ・ 諸 翁 聞 取 帳 」 東  北 ・ 北 海 道 巡 脚 編 も参照。
 当事者の発言はー津軽を論ず ーを御参照ください.