九州王朝(倭国)一覧

第3523話 2025/08/28

多賀神社(宮城県名取市)の日本武尊伝承

 「洛中洛外日記」3522話〝宮城県の日本武尊伝承を持つ神社〟で紹介した神社伝承のなかで最も注目したのが名取市高柳下西に鎮座する多賀神社です。同神社の創建は景行天皇二八年(98)に日本武尊(景行天皇の皇子)が東征の際に勧請したと伝えられています。

 伝承によれば、日本武尊は東国遠征での連戦により当地で重病となり、そこで柳の樹で祭壇を設けて病気平癒を祈願すると完治したとされています。その後、この故事から棚柳と呼ばれるようになり、霊地には祠が設けられて信仰の対象になったとのことです。

 また、仙台藩の『奥羽観蹟聞老志』(注①)には、雄略二年(458)に初めて祭禮で圭田(注②)五八束を寄進されたとあり、同神社が『延喜式』神名帳に記された式内社の多加神社とされてきました。わたしが注目したのは、この雄略二年(458)の圭田寄進という伝承です。景行天皇二八年(98)に創建されたとする伝承の年代は信頼できませんが、雄略二年(458)であれば、『宋書』倭国伝に記された九州王朝(倭国)の東方侵略〝東征毛人五十五國〟の時期とほぼ対応するからです(注③)。

 「風土記ニ曰ク。多賀ノ神社、圭田五十八束、二字田。所祭、伊弉諾尊也。雄畧二年、始奉圭田ヲ行フ神禮式祭。
神名、秘書ノ説載ス之宮城郡多賀ノ下ニ。」『奥羽観蹟聞老志』巻五 「国書データベース」による。句読点は古賀が付した。
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100350427/1?ln=ja

 このように「雄略二年」という具体的な年次で伝承されているケースは、何らかの根拠(史料)に基づいている可能性が高いだけに貴重です。(つづく)

(注)
①『奥羽観蹟聞老志』は、仙台藩の史官佐久間洞巌が仙台藩主伊達綱村の命により、奥州の歴史・地名・産物などを主に纏めた地誌。享保四年(1719)の序がある。原本は宮城県立図書館が所蔵し、宮城県指定文化財に登録されている。
②けいでん【圭田】:「圭」は潔(きよ)いの意。 昔、その収穫を祭祀用にあてるために設けた田地。神田(しんでん)。
③『宋書』倭国伝によれば、「雄略二年(458)」は倭王済か興の時代にあたる。


第3522話 2025/08/27

宮城県の日本武尊伝承を持つ神社

 「「洛中洛外日記」」3518話〝狩野英孝さんの実家「櫻田山神社」の祭神「武烈天皇」〟では宮城県北部の栗原市にある櫻田山神社(さくらださんじんじゃ)のご祭神として祀られている「武烈天皇」、3520話〝大高山神社(宮城県柴田郡)の創建伝承〟では同県南部の柴田郡大河原町にある大高山神社(おおたかやまじんじゃ)のご祭神が日本武尊であることを紹介し、これらのご祭神は『宋書』倭国伝の倭王武の伝承が武烈天皇や日本武尊に置き換えられて伝わったのかもしれないとしました。

 そうであれば、『宋書』倭国伝に見える〝東征毛人五十五國〟の範囲に宮城県(蝦夷国)が含まれている可能性もあり、宮城県内の日本武尊伝承を持つ神社をWEBで探したところ、県内各地にあることを知り、驚きました。ブログ「宮城県・日本武尊・縁の社寺・温泉」によると大高山神社をはじめとして次の神社がリストアップされています。
https://www.miyatabi.net/sonota/yamatotakeru.html

大高山神社 (宮城県大河原町) 名神大社
多賀神社 (宮城県仙台市) 延喜式内社
多賀神社 (宮城県名取市) 延喜式内社
佐倍乃神社 (宮城県名取市)
熱日高彦神社 (宮城県角田市) 延喜式内社
斗蔵神社 (宮城県角田市)
鹿嶋天足和気神社 (宮城県亘理町)
安福河伯神社 (宮城県亘理町)
鹿島神社 (宮城県丸森町)
刈田嶺神社 (宮城県蔵王町) 名神大社
遠流志別石神社 (宮城県登米市) 延喜式内社
飯野山神社 (宮城県石巻市) 延喜式内社
拝幣志神社 (宮城県石巻市) 名神大社
日高見神社 (宮城県石巻市) 延喜式内社
白鳥神社 (宮城県村田町)
白鳥神社 (宮城県柴田町)
拆石神社 (宮城県柴田町)
駒形根神社 (宮城県栗原市) 延喜式内社
敷玉早御玉神社 (宮城県大崎市) 延喜式内社

 このように宮城県内各地に、日本武尊に置き換えられた倭王武伝承の痕跡があり、九州王朝(倭国)は蝦夷国(陸奧国の太平洋側)の中枢領域と思われる仙台平野とその以北まで侵攻したことがうかがわれます。この伝承分布は前方後円墳分布にも対応しているようなので、宮城県内の日本武尊伝承は史実の反映と見たほうがよいように思われます。(つづく)


第3520話 2025/08/22

大高山神社(宮城県柴田郡)の創建伝承

 「洛中洛外日記」3519話〝東北地方に濃密分布する「山神社」〟で、宮城県栗原市の櫻田山神社のご祭神「武烈天皇」について、〝『宋書』倭国伝の倭王武の伝承が武烈天皇に置き換えられて伝わったのかもしれませんが、さすがに宮城県北部まで倭王武が来たとは考えにくい〟としました。

 他方、『常陸国風土記』には当地を巡航する「倭武天皇」伝承が記されており、古田説ではこれを倭国(九州王朝)の倭王武の伝承が日本武尊(やまとたけるのみこと)伝承に置き換えられたものとしてきました。したがって、『宋書』倭国伝に見える〝東征毛人五十五國〟の範囲に常陸国が含まれているとわたしは考えています。しかしさすがに宮城県北部の栗原市までは遠征していないだろうと思っていました。ところが櫻田山神社の武烈天皇伝承の調査を進めるなかで、宮城県にもヤマトタケル伝承が遺っていることを知りました。たとえば、宮城県南部の柴田郡大河原町にある大高山神社(おおたかやまじんじゃ)のご祭神が日本武尊で、『ウィキペディア(Wikipedia)』には次の説明があります。

〝社伝によれば、大高山神社は敏達天皇元年(572年)に日本武尊を主祭神として創建されたという。当神社の縁起書や『安永風土記』『奥羽観蹟聞老志』(おううかんせきもんろうし)などによれば、日本武尊が蝦夷征伐のための東征の折に仮宮を立てて住んだと伝わり、その仮宮の跡地に「白鳥大明神」と称する社殿を設け、日本武尊を奉斎したという。

 また伝承によれば、崇峻天皇二年(588年)には主祭神として橘豊日尊(用明天皇)が合祀された。これは、用明天皇が橘豊日尊と呼ばれた皇子の頃、勅命により当地へやってきたことがあり、用明天皇の皇子である聖徳太子がその縁を持って大高山神社へ合祀したと伝わる。〟

同神社ホームページにも次の解説があります。以下転載します。

《大高山神社の由緒》

 人皇30代敏達天皇の元年(571年)日本武尊を祭神として創建されました。 その後、推古天皇のお守り、橘豊日尊(31代用明天皇、聖徳太子の父君)を合祀しております。

 縁起書、安永風土記、観蹟聞老志などを併せて見ることによって日本武尊が蝦夷征伐の時にこの地に仮に宮を建てて住んだので、その跡地に白鳥大明神として日本武尊を奉祭したと言われています。

 場所も新開の台の山までありましたが(ママ、台の山で か?)、元禄初期の火災焼失により、新開126番地に移し、その後大正3年に金ヶ瀬神山に移築遷座されて現在に至っております。

《御祭神について》

 日本武尊が東国ご討征の時、お宮を建ててご住居になったことがあります。そして、尊が都へ帰られた後、白鳥大明神として祀ったということであり、その後、用明天皇が、橘豊日尊と呼ばれた、皇子の頃、この地に来られたことがあったので、その子の聖徳太子がこの地のゆかりをもって大高山神社に祀ったといいます。

 このようなことで、日本武尊と用明天皇を祀る二祭神であります。
日本武尊が東国平定に向かわれたのは、紀元110年の景行天皇40年のこととされているので、その462年後の紀元572年に創建されたことになります。
また、それより30余年後の推古天皇の代において、聖徳太子が父君・用明天皇を大高山神社に合祀したことになっています。

 明治42年(1909)8月8日、従来の『日本武尊』『用明天皇』二祭神のほか、堤に鎮座した愛宕神社の祭神迦具土尊(かぐつちのみこと)と、新寺に鎮座した山神社の祭神大山祇命(おおやまつみのみこと)とを合祀しています。更に、大正3年(1914)に、新開の尾鷹から現在地に遷座する際、祭神倉稲魂命(うがのみたまのみこと)、火彦霊命(ほむすびのみこと)を合祀しています。
【本祭神】
日本武尊(やまとたけるのみこと)
用明天皇(ようめいてんのう)
【合祀祭神】
迦具土命(かぐつちのみこと)
大山祇命(おおやまつみのみこと)
倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
火産霊命(ほむすびのみこと)
白山菊理媛(しらやまくくりひめ)
https://ohtakayama.org/keidai/index.html
【転載終わり】

 柴田郡大河原町は福島県から宮城県へ向かう国道4号線上にあり(注)、それは倭王武らによる蝦夷国侵攻の経由地とできることから、同社伝承を歴史事実の反映とすることもできそうです。そうであれば、宮城県北部の櫻田山神社の武烈天皇伝承も倭王武のこととする可能性をはじめから排除しない方がよいかもしれません。

 なお、ご祭神として用明天皇も祀られていますが、全国的に著名な聖徳太子ではなく、なぜそのお父さんの用明天皇を祀ったのかという興味深い問題もあります。これも九州王朝(倭国)の伝承が用明天皇や聖徳太子に置き換えられたと考えれば、社伝の「用明天皇」とは、〝日出ずる処の天子〟と自称した国書で有名な、『隋書』俀国伝に見える俀国(倭国)の天子、阿毎多利思北孤(あまのたりしほこ)のことであり、その太子、利歌彌多弗利(りかみたふり)が同社に合祀したと考えることができます。(つづく)

(注)国道4号は、東京都中央区から栃木県宇都宮市、福島県福島市、宮城県仙台市、岩手県盛岡市を経て、青森県青森市に至る一般国道で、実延長が日本一長い国道。江戸時代の五街道のひとつである日光街道や奥州街道を踏襲する道筋で、高速道路では東北自動車道、鉄道では東北新幹線や東北本線とおおむね並行する経路をとる。


第3519話 2025/08/20

東北地方に濃密分布する「山神社」

 狩野英孝(かのえいこう)さんのご実家の櫻田山神社(さくらださんじんじゃ)が千五百年の歴史を持つ古社であることを知り、驚きました。福岡県出身で京都に五十年住んでいるわたしには、「山神社」という聞き慣れない名称が気になり、ネットで調べてみました。各県神社庁のホームページによれば、山神社は東北地方に濃密分布しており、中でも宮城県と山形県が最濃密地域のようでした(注①)。秋田県や岩手県にも分布が見られますが、なぜか青森県には分布を見いだすことが、今のところできていません。

 「山神社」の訓みは、「さんじんじゃ」「やまじんじゃ」「やまのかみしゃ」「やまがみしゃ」などですが、ご祭神を武烈天皇とするのは少数でした。多いのは木花咲耶姫と大山祇神のようです。現時点で見つけた武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯尊)をご祭神とする山神社は、冒頭紹介した櫻田山神社(宮城県栗原市栗駒桜田山神下)と山神社(宮城県栗原市一迫王沢字北沢十文字)、新山神社(しんざんじんじゃ、宮城県栗原市志波姫堀口御駒堂)で、いずれも宮城県北西部の栗原市内で、限定された祭神伝承のようです。栗原市にはこの他にも多数の山神社があるのですが、それらの祭神は武烈天皇ではありません。ですから、武烈天皇に仮託された人物の伝承が、栗原市の一部の山神社に遺っていると考えることができそうです。

 また、山神社の濃密分布範囲は東海地方を除けば蝦夷国領域ですから、もしかすると山神社とは本来は蝦夷国の神様のことかも知れません。ちなみに武烈天皇伝承は、仙台藩の地史『封内風土記』(注②)には次のように記されています。

 〝伝え云う。人皇第二五代武烈天皇、故ありて本州に配せられ、久我大連・鹿野掃部祐の両人扈従す、天皇崩後の後天平山に葬り社を建てて神霊を祀り山神と称した。久我氏は連綿今(明和九年、1772年頃)に至る。皇居の地を王沢・王沢宅といい、天皇の宸影は別当修験大性院家に蔵す。〟

 ここに見える「久我大連」という人物名が歴史事実であれば、「大連(おおむらじ)」の姓(かばね)を持つことから、蝦夷国ではなく恐らくは九州王朝系の人物であり、武烈天皇の時代(498~506年)、すなわち六世紀初頭頃に九州王朝系の有力者がこの地(蝦夷国)に来たことを示す伝承なのかもしれません。もしかすると、『宋書』倭国伝の倭王武の伝承が武烈天皇に置き換えられて伝わったのかもしれませんが、さすがに宮城県北部まで倭王武が来たとは考えにくいように思います。

 しかしながら、栗原市の入の沢遺跡の古墳時代前期(4世紀)の集落跡からは、銅鏡4面や勾玉や管玉、ガラス玉、斧などの鉄製品が出土しています。また、仙台市には遠見塚古墳(墳丘長110m、4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳)、隣接する名取市には東北地方最大の雷神山古墳(墳丘長168m、4世紀末~5世紀初頭の前方後円墳)があります。両古墳の存在から、仙台平野や名取平野が古墳時代の東北地方を代表する王権の所在地であったことがうかがえます。ちなみに、雷神山古墳は九州王朝(倭国)の王、磐井の墓である岩戸山古墳(八女市、墳丘長135m、6世紀前半の前方後円墳)よりも墳丘長が大きいのです。

 更に仙台市には東北地方最古の須恵器窯跡とされる大蓮寺窯跡(5世紀中頃)もあり、古墳時代から九州王朝(倭国)との交流があったことは疑えません。(つづく)

(注)
①Wikipediaには次の山神社が紹介されている。
【主な山神社(さんじんじゃ)】
釜石製鐵所山神社 – 岩手県釜石市桜木町
山神社 – 宮城県栗原市鶯沢
山神社 – 宮城県栗原市若柳川南
山神社 – 宮城県栗原市若柳上畑岡
山神社 – 宮城県栗原市一迫北沢
山神社 – 宮城県栗原市一迫清水目
櫻田山神社 – 宮城県栗原市栗駒:山神社
山神社 – 宮城県石巻市北上町十三浜大室
山神社 – 宮城県石巻市北上町十三浜小滝
山神社 – 宮城県柴田郡柴田町四日市場
山神社 – 山形県新庄市本合海
山神社 – 山形県最上郡金山町有屋
山神社 – 山形県最上郡最上町富沢
山神社 – 山形県最上郡舟形町舟形
山神社 – 山形県最上郡真室川町及位
山神社 – 山形県最上郡鮭川村曲川
山神社 – 山形県最上郡戸沢村松坂
山神社 – 徳島県吉野川市山川町皆瀬:紙漉神社
山神社 – 愛媛県松山市東野
【主な山神社(やまじんじゃ)】
山神社 – 宮城県亘理郡亘理町吉田
山神社 – 秋田県北秋田市阿仁笑内:旧郷社
山神社 – 山形県最上郡最上町本城
山神社 – 山形県山形市神尾
山神社 – 山形県寒河江市田代
山神社 – 山形県村山市河島]
山神社 – 山形県天童市山口
山神社 – 山形県東根市関山
山神社 – 山形県尾花沢市五十沢
山神社 – 山形県東田川郡三川町押切新田
山神社 – 山形県西村山郡朝日町杉山
山神社 – 山形県西村山郡大江町柳川
山神社 – 山形県西置賜郡白鷹町萩野
山神社 – 千葉県君津市笹
山神社 – 千葉県君津市日渡根
山神社 – 栃木県宇都宮市下岡本町
山神社 – 東京都多摩市桜ヶ丘
新屋山神社 – 山梨県富士吉田市新屋:山神社
山神社 – 愛知県名古屋市千種区田代町:旧村社
山神社 – 愛知県名古屋市中区松原:旧村社
山神社 – 愛知県名古屋市北区安井
山神社 – 愛知県刈谷市一里山町
山神社 – 兵庫県豊岡市日高町:式内名神大社
山神社 – 和歌山県西牟婁郡白浜町3035
山神社 – 愛媛県松山市萩原
山神社 – 長崎県南松浦郡新上五島町船崎郷
山神社 – 大分県大分市広内
【主な山神社(やまのかみしゃ)】
山神社 – 宮城県遠田郡美里町牛飼:旧郷社
山神社 – 山梨県中央市大鳥居
山神社 – 愛知県名古屋市港区知多:旧村社
山神社 – 愛知県名古屋市緑区大高町:旧村社
山神社 – 愛知県尾張旭市瀬戸川町
山之神社 – 愛知県半田市山ノ神町
山神社 – 愛知県半田市天王町
山神社 – 愛知県半田市岩滑東町
山ノ神社 – 愛知県知多郡武豊町山ノ神
※東海地区では小規模な神社が多い。ただし、数は多く、境内社も含めると相当数になる。
【主な山神社(やまがみしゃ)】
山神社 – 愛知県碧南市山神町
②『封内風土記』(ほうないふどき)は、日本の江戸時代に仙台藩が編纂した地誌である。1772年に完成した。仙台と領内のすべての村について、地形・人文地理に関わる事項を列挙・解説し、各郡ごとに集計し、さらに郡単位の統計事実や解説を加える。著者は仙台藩の儒学者田辺希文。全22巻で、漢文で書かれた。(Wikipediaによる)


第3515話 2025/08/14

「海の正倉院」

  沖ノ島祭祀遺跡の中の王朝交替(5)

 「海の正倉院」と呼ばれている沖ノ島の祭祀遺跡は次の4期に分かれています。

❶ 岩上祭祀遺跡 4世紀後半~5世紀
❷ 岩陰祭祀遺跡 5世紀後半~7世紀
❸ 半岩陰・半露天祭祀遺跡 7世紀後半~8世紀
❹ 露天祭祀 8世紀~9世紀

 この内、❶❷❸からは日本列島の代表王権にふさわしい奉献品が出土しています。次の通りです。

❶ 銅鏡、鉄剣等の武具、勾玉等の玉類が中心。鏡・剣・玉は三種の神器(王権のシンボル)。
❷ 鉄製武器や刀子・斧などのミニチュア製品、朝鮮半島からもたらされた金銅製の馬具など。新羅王陵出土の指輪と似た金製指輪。ペルシャ製カットグラス碗片。
❸ 金銅製の紡織具や人形、五弦の琴、祭祀用の土器など、祭祀のために作られた奉献品。

 ところが❹(8世紀)になると、宗像地域独特の形状や材質で製作された祭祀用土器を含む土師器・須恵器、人形・馬形・舟形等の滑石製形代が中心です。そのため、8世紀以降は宗像地域の豪族による祭祀が続いたと考えられています。

 8世紀は大和朝廷にとって、『大宝律令』による全国統治が開始され、巨大な条坊都市である平城京の造営、大仏の建立など隆盛を誇った時代です。それにもかかわらず、沖ノ島からは列島の代表王朝にふさわしい奉献品は見られません。すなわち通説に従えば、4世紀から続けてきた沖ノ島への奉献をなぜか突然に大和朝廷は8世紀になるとやめてしまったということになるのです。このような近畿天皇家一元史観というイデオロギーに基づく通説の解釈は不自然であり、出土事実を合理的に説明できていません。

 他方、701年に王朝交代があったとする古田武彦氏の九州王朝説によれば、4世紀から沖ノ島へ奉献し、祭祀を続けてきたのは天孫降臨以来の海洋国家である九州王朝であり、大和朝廷への王朝交代により沖ノ島の祭祀や奉献が続けられなくなったとする説明が可能です。この3期と4期の奉納品の激変は、8世紀における王朝交代の痕跡を示しているのです。

 東アジア最高の優品と評価された、沖ノ島の金銅製矛鞘はヤマト王権からの奉献品ではなく、九州王朝によるものとする仮説は、沖ノ島の祭祀跡から出土した奉献品が8世紀に激変するという史料事実に基づきます。本テーマの最後に、改めてその理由を列挙します。

理由1 九州王朝は天孫降臨以来の海洋国家。沖ノ島を「海の正倉院」としたのは九州王朝。
理由2 九州王朝は卑弥呼以前から鏡文化の国。弥生時代以来、鏡の埋納・奉納の伝統文化を持つ。
理由3 九州地方は金銀象眼・鍍金文化圏。中国伝来の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が国内唯一出土、国内最大の鍍金方格規矩四神鏡が出土。
理由4 九州王朝は騎馬文化受容国家。石人・石馬・馬具出土、『隋書』俀国伝に騎馬隊が見える。

Y0uTube講演
多元的古代研究会
令和七年(2025)八月一日
海の正倉院の中の王朝交代
沖ノ島金銅製矛鞘の象眼発見ニュースに触れて
古賀達也
https://youtu.be/HkZ-f_2JMyo

 

 


第3513話 2025/08/09

「海の正倉院」

  沖ノ島祭祀遺跡の中の王朝交替(4)

 宗像大社沖津宮で玄界灘の孤島、沖ノ島からは4世紀頃~9世紀頃にわたる夥しい奉献品が出土しており、その全てが国宝に指定されています。そのため沖ノ島は「海の正倉院」とも呼ばれています。島の中腹にある祭祀遺跡は4期に分かれ、次のように編年されています。

❶ 岩上祭祀遺跡 4世紀後半~5世紀
❷ 岩陰祭祀遺跡 5世紀後半~7世紀
❸ 半岩陰・半露天祭祀遺跡 7世紀後半~8世紀
❹ 露天祭祀 8世紀~9世紀

 これらの遺跡はおおよそ次のように説明されてきました。

❶ 岩上祭祀遺跡 4世紀後半~5世紀
4世紀後半、対外交流の活発化を背景に巨岩上で祭祀が始まる。岩と岩とが重なる狭いすき間に、丁寧に奉献品が並べ置かれた。祭祀に用いた品は、銅鏡・鉄剣等の武具、勾玉等の玉類が中心で、当時の古墳副葬品と共通する。鏡・剣・玉は三種の神器(王権のシンボル)といわれ、後世まで長く祭祀で用いられる組み合わせ。

❷ 岩陰祭祀遺跡 5世紀後半~7世紀
5世紀後半になると、祭祀の場は庇(ひさし)のように突き出た巨岩の陰へと移る。岩陰祭祀の奉献品には、鉄製武器や刀子・斧などのミニチュア製品、朝鮮半島からもたらされた金銅製の馬具などがある。金製指輪は新羅の王陵から出土した指輪と似ており、ペルシャ製のカットグラス碗片はシルクロードを経て倭国にもたらされたと考えられる。

❸ 半岩陰・半露天祭祀遺跡 7世紀後半~8世紀
岩陰祭祀の終わり頃(22号遺跡)から半岩陰・半露天祭祀(5号遺跡)にかけて、奉献品に明確な変化がみられるようになる。従来のような古墳の副葬品とは異なる金銅製の紡織具や人形、五弦の琴、祭祀用の土器など、祭祀のために作られた奉献品が目立つようになる。

❹ 露天祭祀 8世紀~9世紀
8世紀になると、巨岩群からやや離れた露天の平坦地に祭祀の場が移る。大石を中心とする祭壇遺構の周辺には大量の奉献品が残されている。露天祭祀出土の奉献品は、祭祀用土器を含む多種多様な土師器・須恵器、人形・馬形・舟形等の滑石製形代が中心。それ以前とは激変する。奉献品は宗像地域独特の形状や材質で製作されていることから、宗像地域の豪族による祭祀が続いたと考えられる。

 ❶❷❸の奉献品は、王権からの祭祀品としてそれぞれの時代にふさわしい物ですが、8世紀の❹になると、それ以前とは激変し、「宗像地域独特の形状や材質で製作されていることから、宗像地域の豪族による祭祀」へと祭祀主宰者の変化を示しています。この3期と4期とでの奉献品の様相の激変は、沖ノ島の祭祀はヤマト王権が続けてきたとする、近畿天皇家一元史観による通説では説明できません。これは7世紀から8世紀にかけての王朝交代の痕跡であり、すなわち九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代を示しているのです。(つづく)

多元的古代研究会
令和七年(2025)八月一日
海の正倉院の中の王朝交代
沖ノ島金銅製矛鞘の象眼発見ニュースに触れて
古賀達也(古田史学の会)
https://youtu.be/HkZ-f_2JMyo


第3512話 2025/08/03

YouTube

 「邪馬台国から九州王朝へ」の紹介

竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)から「邪馬台国から九州王朝へ 三つの古代拠点が語る日本古代史の真相」というYouTubeサイトを教えていただきました。その後半には九州王朝説が古田武彦先生の名前をあげて紹介されており、好感が持てました。

邪馬台国から九州王朝へ 三つの古代拠点が語る日本古代史の真相

内容については不十分で不正確な点もありますが、大量の銅鏡が出土した平原弥生墳墓、九州最大規模の西都原古墳群、太宰府条坊都市に着目した論点はなかなかのものと思いました。ユーチューバーも古田説を勉強しており、古田史学の会のホームページや「洛中洛外日記」も参考にされているようです。

インターネットの爆発的な普及と進化により、近年、少なからぬユーチューバーが九州王朝説を取り上げており、日本古代史学も変革期を迎えているように思います。近畿天皇家一元史観の学界・論者が時代の変化に取り残されるのでしょうね。いつの時代もそうではありますが。そんなことを考えていると、中島みゆきさんの次のメロディーと歌詞(「世情」1978年)が脳裏をよぎりました。

〝シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく 変わらない夢を流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を 見たがる者たちと戦うため〟


第3510話 2025/07/27

孝徳紀「大化改新詔」の森博達説

 先日、書架を整理していたら森博達(もり・ひろみち)さんの『日本書紀成立の真実』(注①)が目にとまり、手に取り再読しました。同書は昨年10月に亡くなられた水野孝夫さん(古田史学の会・前代表)の遺品整理のおり、形見分けとしていただいた本の一冊です。

 森博達さんの、『日本書紀』が巻毎にα群とβ群とに分かれているとする研究(注②)は有名です(持統紀はどちらにも属さないとする)。『日本書紀』は例外はあるものの基本的には、α群は唐人により唐代北方音(中国語原音)と正格漢文で述作されており、β群は倭人により倭習漢文が多用され、倭音に基づく万葉仮名で述作されているとする説です。この森説は学界に衝撃を与え、その後、少なからぬ研究者により引用や援用されており、多元史観・九州王朝説を支持する古田学派内でも注目されてきました。古田先生も生前、森さんとお会いしたことがあると言っておられました。

 森説によれば、α群とβ群との分類が各巻ごとになされたのですが、その分類に於いて例外的な記事が多出する巻があることも指摘しています。例えば孝徳紀はα群に分類されていますが、その中の大化改新詔を中心としてβ群の特徴である倭習(使役の誤用、受身の誤用、譲歩の誤用、否定詞の語順の誤り)が他のα群諸巻よりも多く見られると指摘し、その理由として当該部分のほとんどが日本書紀編纂の最終段階における後人による加筆と森さんは結論づけました。

 この森さんの判断に反対するわけではありませんが、九州王朝説の視点からすれば、孝徳紀に記された大化改新詔は、九州年号の大化年間(695~703年)に出された詔勅ではないかと考えることができます。恐らくは藤原宮で出された王朝交代(この場合、禅譲か)の為の詔勅であり、九州年号「大化」を年次表記として使用した詔勅であれば、形式上は九州王朝の最後の天子によって発せられたのではないでしょうか。その為、詔勅には「大化二年」と年次が記され、『日本書紀』編纂時にはそれを50年遡らせて、孝徳紀に「大化」年号と一緒に編入したと思われます(注③)。その一例が、大化二年の〝建郡の詔勅〟です。

 「凡そ郡は四十里を以て大郡とせよ。三十里より以下、四里より以上を中郡とし、三里を小郡とせよ。」

 これは、本来は九州年号・大化二年(696)に出された〝廃評建郡〟の詔勅です。近畿天皇家はこの九州年号の〝大化二年の改新詔〟により、〝九州王朝の天子の詔〟の形式を採用して王朝交代の準備を着々と進め、大宝元年(701)年の王朝交代と同時に、全国の行政単位の「評」から「群」への一斉変更に成功したことが、出土木簡からも明らかです。

 こうした九州王朝説の視点からも、森さんの『日本書紀』研究は貴重ではないでしょうか。水野さんの遺品『日本書紀成立の真実』を読みながら、森説への理解を改めて深めることができました。

(注)
①森博達『日本書紀成立の真実 ――書き換えの主導者は誰か』中央公論社、二〇一一年。
②森博達『古代の音韻と日本書紀の成立』大修館書店、一九九一年。第20回金田一京助博士記念賞を受賞。
同『日本書紀の謎を解く ――述作者は誰か』中公新書、一九九九年。第54回毎日出版文化賞を受賞。
③古賀達也「大化二年改新詔の考察」『古田史学会報』八九号、二〇〇八年。
同「王朝統合と交替の新・古代史 ―文武・元明「即位の宣命」の史料批判―」『古代史の争点』(『古代に真実を求めて』二五集)、明石書店、二〇二二年。
同「大化改新と王朝交替 ―改新詔が大化二年の理由―」『九州倭国通信』二〇七号、二〇二二年。


第3509話 2025/07/22

「海の正倉院」

  沖ノ島祭祀遺跡の中の王朝交替(3)

 象眼が確認された沖ノ島の金銅製矛鞘のような鉄矛は、騎兵が備えていた主要な武器とされ、日本列島には5世紀に朝鮮半島から騎馬文化が流入し普及したとされているようです。この騎馬文化の痕跡は、当の沖ノ島出土の馬具・装飾品を見てもわかるように、九州王朝内でもその痕跡は少なからず遺されています。例えば、九州王朝の王(筑紫君磐井)の墳墓・岩戸山古墳(福岡県八女市)から出土している石人・石馬は有名ですし、江田船山古墳(熊本県玉名郡和水町)出土の鉄刀(国宝)に馬の銀象眼が施されていることからも騎馬文化の受容をうかがえます。

 極めつけは、九州王朝のことを記した『隋書』俀国伝に次の記事が見えることです。

 「また大礼、哥多毗を遣はす。二百余騎を従え郊に労す。」

 大礼哥多毗が、二百余騎の騎馬隊を率いて隋使を迎えたとする記事ですから、九州王朝が騎馬文化を受容し、七世紀初頭、少なくとも二百余騎の騎馬隊を擁していたことを示しています。ちなみに、『隋書』俀国伝の俀国(倭国)が、大和朝廷ではなく九州王朝であることは次の記事からも明らかです。

❶「阿蘇山有り。その石、故無く火起こり、天に接す。」
❷「小環を以って鸕鷀の項に挂け、水に入りて魚を捕しむ。日に百余頭を得る。」
❸「楽に五弦の琴、笛あり。」

 ❶の阿蘇山噴火の記事は隋使の見聞に基づいており、九州王朝の代表的な山を表したものです。❷の鸕鷀(ろじ)とは鵜のことで、これは鵜飼の記事です。北部九州の筑後川や矢部川、肥後の菊池川の鵜飼は江戸期の史料にも記されており、これもまた九州王朝の風物を表した記事です(注)。❸の「五弦の琴」は沖ノ島から出土しており、九州王朝の楽器を紹介した『隋書』の記事と出土物とが対応しています。

 以上のように、石馬や馬の象眼鉄刀などの出土遺物や『隋書』の騎馬隊記事は、金銅製矛鞘が示す騎馬文化を九州王朝(倭国)が受容していたことを示唆しています。(つづく)

(注)
古賀達也「九州王朝の築後遷宮 ―玉垂命と九州王朝の都―」『新・古代学』古田武彦とともに 第4集、1999年、新泉社。
同「洛中洛外日記」704話(2014/05/05)〝『隋書』と和水(なごみ)町〟

多元的古代研究会
令和七年(2025)八月一日
海の正倉院の中の王朝交代
沖ノ島金銅製矛鞘の象眼発見ニュースに触れて
古賀達也(古田史学の会)
https://youtu.be/HkZ-f_2JMyo


第3507話 2025/07/17

「海の正倉院」

 沖ノ島祭祀遺跡の中の王朝交替(2)

 今回、象眼が確認された沖ノ島の金銅製矛鞘は当時の東アジアで最高峰といえる優品と評価されています。そのことには異論はないのですが、多元史観・九州王朝説から見れば、九州王朝が沖ノ島の祭祀をいかに重要視していたかを示す奉献品と言えます。たとえば、九州では古墳時代の金銀象眼鉄刀が出土しており、ヤマトからの技術にたよる必要はありません。例えば次の象眼鉄刀が著名です。

○銀象眼龍文大刀 宮崎県えびの市、島内地下式横穴墓群出土。古墳時代中期~後期、5~6世紀。全長98.6cm。
○銀象眼錯銘大刀 熊本県玉名郡和水町、江田船山古墳出土。5世紀末~6世初頭。
○金象眼庚寅銘大刀 福岡市西区の元岡古墳群から出土した金象眼の銘文を持つ6世紀の鉄刀。これは四寅剣と呼ばれるもので、国家の災難を防ぐという。庚寅は570年に当たり、九州年号の金光元年。

 また、鉄鏡ではありますが、「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」が大分県日田市のダンワラ古墳から出土しており、魏・漢時代の中国鏡と見られています。これほど見事な金銀錯嵌が施された鉄鏡は国内ではこの一面だけです。

 象眼ではありませんが、国内では珍しい鍍金鏡が糸島市から出土しています。それは「鍍金方格規矩四神鏡」と呼ばれる鏡で、福岡県糸島市の一貴山銚子塚古墳から出土しています。4世紀後半。

 以上のように、金銅製矛鞘の象眼は九州王朝の伝統的技術で製造することが可能であり、遠く離れたヤマト王権からの奉献説をわざわざ持ち出す必要はないのです。(つづく)

多元的古代研究会
令和七年(2025)八月一日
海の正倉院の中の王朝交代
沖ノ島金銅製矛鞘の象眼発見ニュースに触れて
古賀達也(古田史学の会)
https://youtu.be/HkZ-f_2JMyo


第3505話 2025/07/14

「海の正倉院」

 沖ノ島祭祀遺跡の中の王朝交替(1)

 7月5日(土)、九州古代史の会の月例会(福岡市早良区ももち文化センター)で、「海の正倉院」と呼ばれている沖ノ島祭祀遺跡出土奉献品の変遷に、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替の痕跡が遺されていることを報告しました。講演の冒頭では次のように述べました。

 〝最近のニュースですが、「海の正倉院」と呼ばれている沖ノ島から出土していた国宝「金銅製矛鞘」に象眼文様が確認されたと新聞やテレビが報道し、次のように説明しています。
「当時の東アジアの鞘、矛で最高峰といえる優品。ヤマト王権が沖ノ島の祭祀をいかに重要視していたかを改めて示す発見だ。」
「金銅製矛鞘」はヤマト王権が沖ノ島に奉献したとするこの説明(解釈)は正しいのでしょうか。その根拠はなんでしょうか。そもそも根拠はあるのでしょうか。〟

 日本各地で優れた遺物や遺構が出土すると、学者は申し合わせたかのように、「ヤマト王権からもたらされたもの」「大和朝廷の影響が及んだもの」と説明するのが常ではないでしょうか。そして、その〝隠された根拠〟は、『日本書紀』に記された歴史認識の大枠(日本列島の代表王権は神代の時代から近畿天皇家である)を論証抜きで是とする歴史観、すなわち「近畿天皇家一元史観」と古田武彦先生が呼んだものです。

 もちろん、当人がそのことを自覚しているのか無自覚なのかはわかりませんが、少なくとも学校ではそうならい続け、受験でも教科書に書かれたその歴史観に基づいた回答が正解とされる教育システムの中で高得点をとり続け、大学教授にまで上り詰めた人々が今日の学界の中枢を占めています。

 それでは古田先生が提唱した多元史観・九州王朝説に立てば、今回の「金銅製矛鞘」はどのように位置づけることができるでしょうか。福岡市の講演ではこのことに焦点を絞り、史料根拠を提示し、それに基づく論理を説明しました。(つづく)


第3500話 2025/06/28

7/05(土)「九州古代史の会」

     講演での追加テーマ

 ―「海の正倉院」の中の王朝交替―

 友好団体「九州古代史の会」の7月例会(7/05 福岡市早良区ももち文化センター)で講演させていただきます。当初予定していた講演テーマは「王朝交代前夜の倭国と日本国 ―温泉の古代史・太宰府遷都の真実―」だけでしたが、沖ノ島出土金銅製鞘から象眼発見のニュースが駆け巡ったため、急遽、最新のご当地ネタとして〝「海の正倉院」の中の王朝交替 ―沖ノ島・金銅製鞘の象眼発見ニュースに触れて―〟を追加することにしました。

 同ニュースの全てが「ヤマト王権が奉納した」と解説することを不審に思い、その根拠を調べたところ、大和朝廷一元史観という一つの仮説を根拠としており、ヤマトからもたらされたとする確たるエビデンスは無いようでした。むしろ、古墳時代から続く九州王朝(倭国)の象眼技術や美術・芸術の歴史的流れの中に位置づけられるとする理解の方が現実的であることがわかりました。

 更に、沖ノ島の遺跡(Ⅰ期 岩上祭祀遺跡 4世紀後半~5世紀、Ⅱ期 岩陰祭祀遺跡 5世紀後半~7世紀、Ⅲ期 半岩陰・半露天祭祀遺跡 7世紀後半~8世紀、Ⅳ期 露天祭祀遺跡 8世紀~9世紀)毎に遺物を精査したところ、Ⅲ期とⅣ期の間に九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替(701年)の痕跡が残されていることがわかりました。この発見と仮説を追加テーマとして発表します。ご当地の皆さんに是非お聞きいただきたいと願っています。

多元的古代研究会
令和七年(2025)八月一日
海の正倉院の中の王朝交代
沖ノ島金銅製矛鞘の象眼発見ニュースに触れて
古賀達也(古田史学の会)
https://youtu.be/HkZ-f_2JMyo