九州王朝(倭国)一覧

第3460話 2025/03/28

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (2)

 ―総里程「万二千余里」の根拠は何か―

 まず、〝帯方郡より女王国までの総里程「万二千余里」は概数であり、部分里程の和が総里程にならなくてもよい〟とする古田説への批判について考えてみます。特に前半の総里程「万二千余里」を概数、すなわち厳密な計算に基づかないアバウトな数値とする理解については、古田先生による次の指摘があります。

〝さて問題のポイントは、帯方郡治から邪馬一国までが一万二千里。帯方郡治から狗邪韓国までが七千余里、そして海上に散らばっている島々(倭地)を「周旋」(周も旋もめぐるという意味)してゆくのが、五千里ということです。つまり12000-7000=5000(倭地)であって、はっきりした関係をなしています。これを偶然の一致だとか、倭地は周りが五千余里だということで、九州は長里で大体五千里になるだろう、足らないのは向こうがまちがえたなどとするのはおかしい。素直に解釈すべきだと思います。〟『倭人伝を徹底して読む』大阪書籍、1987年。「狗邪韓国、倭地」論 143~144頁。

〝一方、その大宛列伝(『史記』)をモデルにしてつくられた『三国志』の倭人伝では、「七千余里+五千余里=一万二千余里」と、足した結果も余里になっている。両方「余里」だったら足した結果にも「余里」をつけるのが当然です。この点、陳寿は陳寿なりに神経を働かせているといえるでしょう。〟同。里程論 175頁。

 このように、倭人伝における陳寿の里程計算方法について詳述されました。これは文献史学におけるフィロロギーという学問の方法に基づいたものです。フィロロギーとはドイツの古典文献学者・歴史学者アウグスト・ベーク(August Boeckh 1785~1867年)が提唱した学問で、「人が認識したことを再認識する」というものです。このフィロロギーを村岡典嗣先生(1884~1946年、東北大学)がわが国にもたらし、弟子の古田武彦先生らが継承され、わたしたち古田学派の研究者がそれに続いています。日本ではフィロロギーを「文献学」とも訳されていますが、対象は文献だけではないことから、古田先生は原義(原語)のまま「フィロロギー」と呼ばれていましたので、わたしはこれに従っています(注①)。

 今回のケースでは、『三国志』の著者陳寿がどのような認識で倭人伝の行程・里程記事を著したのかを、現在のわたしたちが精確に再認識するということになります。すなわち、「万二千余里」をアバウトな概数と認識していたのか、陳寿なりの根拠を持った認識(ある情報に基づく計算式)に依っていたのかを探る、ということです。

 理系の化学や数学などの分野とは異なり、文献史学では人の心(理性・感情・認識・記憶など)や言動(講演、著述活動など)も重要な研究対象としますから、どうしてもフィロロギーの方法論を採用せざるを得ません。なぜなら、史料事実(真偽の程度未詳のエビデンス)と歴史事実は異なる概念であり、史料事実や出土事実それ自体が歴史事実を直接語るわけではないからです。このことについては別稿で論じたいと思います。

 先の古田先生の論考に見える「七千余里」「五千余里」「万二千余里」は、倭人伝の次の記事を典拠とします。

❶「從郡至倭、循海岸水行、歷韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。」
❷「自郡至女王國、萬二千餘里。」
❸「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」

 ❶は帯方郡(ソウル付近とされる)から韓半島南岸の狗邪韓國までの距離(七千余里)、❷は帯方郡から女王国までの総里程(一万二千余里)
、❸は狗邪韓國から女王国までの距離(五千余里)のことですが、❸については野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)による有力な異論もあります(注②)。

 古田先生が「陳寿は陳寿なりに神経を働かせているといえるでしょう」とするように、陳寿の里程記事はアバウトな概数ではなく、根拠とした数値と計算式に基づいた里数と思われます。そもそも、アバウトな概数であれば「余里」(+α里)という表記は全く不要です。そのような概数であれば、一万二千里とか七千里、五千里と記せばよいだけだからです。おそらく陳寿は、倭国を訪問した魏使の報告書や、倭国に二十年間滞在した「塞曹掾史張政」(注③)の知見に基づいていると考える他ありません。「○○余里」とまで記した里数値はそうした情報に基づいており、現代人の認識や自説に基づく解釈によって、それらを概数と決めつけることはできないように思います。

 更に言えば、倭人伝の里程記事に見える里数を単純に足しても、それは一万五百里(伊都国まで)、または一万六百里(不彌国まで)であるため、それらの概数表記は「一万里」あるいは「一万千里」となります。従って対海国(対馬)と一大国(壱岐)の半周読法(注④)により導き出された里数(千四百里)を採用しない限り、仮に概数としても「一万二千余里」にはなりません。このことからも、倭人伝の「萬二千餘里」はアバウトな概数ではなく、陳寿が神経を働かせて〝根拠に基づく計算〟により記された里数と見なさざるを得ないのです。(つづく)

(注)
①フィロロギーについては次の書籍を参照されたい。
アウグスト・ベーク著『解釈学と批判 古典文献学の精髄』(安酸敏眞訳、知泉書館、2014年。原題 Encyklopadie und Methodologie der philologischen Wissenschaften 1877年)。
古田史学の会・関西例会では同書をテキストに、茂山憲史氏(『古代に真実を求めて』編集部)が2017年4月から一年間にわたり「フィロロギーと古田史学」を連続講義した。
②野田利郎「「倭地、周旋五千余里」の解明 ―倭国の全領域を歩いた帯方郡使―」『邪馬壹国の歴史学』古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2016年。
同『「邪馬台国」と不弥(ふみ)国の謎』私家版、2016年。
③古田武彦『すべての日本国民に捧ぐ 古代史―日本国の真実』1992年、新泉社。
④倭人伝行程記事中の対海国「方四百里」と一大国「方三百里」は両島の大きさを示すだけではなく、島の2辺を半周する里程、すなわち八百里と六百里の計千四百里とする解釈。これにより、部分里程の和が帯方郡から女王国までの総里程一万二千余里と一致し、「邪馬台国」研究に於いて、「万二千余里」の説明に初めて成功した。

【写真】アウグスト・ベーク著『解釈学と批判 古典文献学の精髄』と関西例会で発表する茂山憲史さん。


第3458話 2025/03/26

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (1)

今年の八王子セミナーのテーマは〝「邪馬台国」はどこか〟をテーマとして、文献史学や考古学の専門家を講師にお招きし、講演とパネルディスカッションなどの企画検討が進められています。こうした実務的な検討テーマとは別に、学問的な質疑や論争も交わされており勉強になります。

よい機会でもあり、質問に対しての回答を考えるために『「邪馬台国」はなかった』(注①)を始めとする古田先生の初期の著作を何度も読み直しています。その勉強の成果の一端を、「洛中洛外日記」でも紹介してきたところです(注②)。

ところが先日の実行委員会で、倭人伝の行程記事について思ってもいなかった指摘がなされました。それは〝帯方郡より女王国までの総里程「万二千余里」は概数であり、部分里程の和が総里程にならなくてもよい。〟あるいは〝魏使が、島を半周して測った証拠がないにも拘わらず「島を半周して測ったことにすれば、総和が12000里になる」と主張するのは論理的・科学的ではない〟というものです。すなわち、対海国(対馬)と一大国(壹岐)の島巡り半周読法(注③)は合計が一万二千里になるように解釈したもので、測定した証拠はないという古田説の根幹部分に対する批判です。

古田説支持者から、こうした古田先生の学問の方法の根幹部分(部分里程の和は総里程にならなければならない。注④)に対する批判がなされたことに驚いたのですが、どのように説明すれば納得してもらえるのだろうか、同時にその主張(部分里程の和が総里程と一致しなくてもよい)が成立するとした根拠は何だろうかと、わたしは考え込みました。〝学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる〟と、わたしは考えていますので、古田先生ならどのように返答されるだろうかと思案中です。(つづく)

(注)
①古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。

②古賀達也「洛中洛外日記」第3420~3424話(2025/02/03~07)〝倭人伝「七万余戸」の考察 (1)~(5)〟
同「洛中洛外日記」第3425~3433話(2025/02/09~25)〝『三国志』短里説の衝撃 (1)~(8)〟
同「洛中洛外日記」3439話(2025/02/27)〝『三国志』短里説の衝撃〔余話〕―陳寿を信じとおす、とは何か―〟
同「洛中洛外日記」3446~3454話(2025/03/11~20)〝『三国志』「天柱山高峻二十余里」の論点 (1)~(7)〟

③倭人伝の行程記事中の対海国「方四百里」と一大国「方三百里」は両島の大きさを示すだけではなく、島の2辺を半周する里程、すなわち八百里と六百里の計千四百里とする行程解釈。これにより、部分里程の和が帯方郡から女王国までの総里程一万二千余里と一致した。これは従来の「邪馬台国」論争に於いて誰も成し得なかったことで、「万二千余里」の説明に初めて成功した行程解釈。

④古賀達也「洛中洛外日記」1538話(2017/11/14)〝邪馬壹国説博多湾岸説の論理構造〟で、次のように説明した。
〝この博多湾岸説の基礎となり、その論証・仮説群の成立を支えた論理構造は「部分の総和は全体になる」という自明の公理との整合でした。すなわち、邪馬壹国への行程記事に見える「部分里程」の合計は「総里程=12000余里」にならなければならないという論理構造です。そして、苦心惨憺された結果、対海国と一大国の半周行程の和(1400里)を発見され、部分里程の総和が総里程(12000余里)となる読解に成功されたのです。博多湾岸説誕生の瞬間でした。
こうして「部分里程」の合計が「総里程=12000余里」になるという古田説が成立し、そうならない他の説を圧倒する説得力を持ったのです。この論理構造、「部分の総和は全体になる」という自明の公理との整合こそ古田説が際だつ決定的論点だったのです。〟


第3455話 2025/03/22

唐詩に見える王朝交代の列島 (6)

王維の「九州」、古田説と中小路説の衝突

 古田先生は王維の詩に見える「九州」に注目し、それを九州王朝の故地である「九州島」、あるいは「九州王朝」そのものを意味するとされ、中小路先生はその読みは成立しないと批判しました。恩師の説と尊敬する古典文学者の意見が衝突したのですから、わたしはもとより、古田学派内で静かな衝撃がはしりました。それは次の詩に見える「九州」です。

❷《秘書晁監の日本國に還るを送る》王維(699?~759?年)
積水不可極 安知滄海東
「九州」何處所 萬里若乘空 →「所」を「遠」「去」とする版本がある。
向國唯看日 歸帆但信風
鼇身映天黑 魚眼射波紅
郷樹「扶桑」外 主人孤島中
別離方異域 音信若為通
(巻一二七)

 阿倍仲麻呂が日本国へ帰国の際に王維が作ったとされる詩です。古田先生はこの詩の「九州何處所」を〝九州は何処(いずれ)の所ぞ〟と読み、この九州を九州島のこととされました。すなわち、仲麻呂は九州王朝の故地で唐詩で扶桑とよばれる九州島に帰ると理解したのです。すなわち、仲麻呂九州出身説です。従って、「郷樹扶桑外」を〝郷樹は扶桑の外〟では、仲麻呂の郷土は扶桑(九州王朝)の外(大和朝廷)となるため、〝郷樹扶桑は外〟と読み、仲麻呂の故郷にある樹、扶桑(九州島)は中国から遠く離れた「外」にあると解釈しました(注①)。

 この古田先生の解釈に対して、中小路先生は、当時の漢文において「○○外」とあれば、〝○○の外側〟の意味であり、古田説のように〝○○は外〟と読むのであれば、その前例を提示すべきと批判しました(注②)。古典文学者として中小路先生は、前例のない古田先生の読みを認めることはできないとされたのです。

 このお二人の意見の衝突に、古田学派のほとんどの研究者は〝沈黙〟し、息をひそめて論争の成り行きを見ていたように思います。どちらの主張にも根拠があり、どちらを是とすべきか判らなかったのではないでしょうか。少なくともわたしはそうでした。また、古田先生と中小路先生は論文の他にも、電話でも論争を続けておられました。当時、中小路先生はお病気で、古田先生との長時間の電話による会話(論争)は息が切れて続けられない状況でした。そうした事情もあって、この論争は決着がつかないまま、中小路先生が亡くなられました(2006年没)。(つづく)

(注)
①古田武彦「日中関係史の新史料批判 ―王維と李白―」『古田武彦講演集98』古田史学の会編、1991年。
古田武彦・福永晋三・古賀達也「九州の探求」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』2000年、明石書店。
②中小路駿逸「王維が阿倍仲麻呂に贈った詩にあらわれる「九州」、「扶桑」および「孤島」の意味について」『中小路駿逸遺稿集 九州王権と大和王権』海鳥社、2017年。


第3444話 2025/03/07

唐詩に見える王朝交代の列島 (5)

 ―王維の詩の「九州」は九州島か―

 中小路駿逸先生は、唐詩に表れる「扶桑」「扶桑の東」「扶桑の東の更に東」に着目したのですが、古田先生は王維の詩に見える「九州」に注目し、それを九州王朝の故地である「九州島」、あるいは「九州王朝」そのものを意味するとされました(注①)。前話で紹介した❷《秘書晁監の日本國に還るを送る》の詩です。

❷《秘書晁監の日本國に還るを送る》王維(699?~759?年)
積水不可極 安知滄海東
九州何處所 萬里若乘空 →「所」を「遠」「去」とする版本がある。
向國唯看日 歸帆但信風
鼇身映天黑 魚眼射波紅
郷樹扶桑外 主人孤島中 →郷樹扶桑は外(古田説による)
別離方異域 音信若為通
(巻一二七)

 これは、唐の官僚(秘書)として勤めていた阿倍仲麻呂が帰国する際の送別の式で王維が作ったとされる詩です。古田先生はこの詩の「九州何處所」を〝九州は何処(いずれ)の所ぞ〟と読み、この九州を九州島のこととされました。すなわち、仲麻呂は九州王朝の故地で唐詩で扶桑とよばれる九州島に帰ると理解したのです。すなわち、仲麻呂九州出身説です。それに対応するように、「郷樹扶桑外」も通説の〝郷樹扶桑の外〟ではなく、〝郷樹扶桑は外〟と読み、仲麻呂の故郷にある樹、扶桑(九州島を意味する)は中国から遠く離れた「外」にあると解釈しました。扶桑=外(遠地)とする理解です。

 この古田先生の解釈に対して、中小路先生はそのような読みは成立しないと批判されました(注②)。(つづく)

(注)
①古田武彦「日中関係史の新史料批判 ―王維と李白―」『古田武彦講演集98』古田史学の会編、1991年。
古田武彦・福永晋三・古賀達也「九州の探求」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』2000年、明石書店。
②中小路駿逸「王維が阿倍仲麻呂に贈った詩にあらわれる「九州」、「扶桑」および「孤島」の意味について」『中小路駿逸遺稿集 九州王権と大和王権』海鳥社、2017年。


第3443話 2025/03/05

唐詩に見える王朝交代の列島 (4)

 「扶桑」「扶桑の東」「扶桑の東の更に東」

 中小路駿逸先生は、唐詩に表れる「扶桑」「扶桑の東」「扶桑の東の更に東」に着目し、それは日本列島に複数の領域(王権)が併存していたことを表していると指摘しました(注①)。その根拠となった代表的な唐詩を『全唐詩』より紹介します。

❶《崔載華に同じて日本の聘使に贈る》劉長卿(710?~785?年)
憐君異域朝周遠 積水連天何處通
遙指來從初日外 始知更有扶桑東 →始て知る更に扶桑の東有ることを
(巻一五〇)

❷《秘書晁監の日本國に還るを送る》王維(699?~759?年)
積水不可極 安知滄海東
九州何處遠 萬里若乘空
向國唯看日 歸帆但信風
鼇身映天黑 魚眼射波紅
郷樹扶桑外 主人孤島中 →郷樹扶桑の外
別離方異域 音信若為通
(巻一二七)

❸《日本の使の還るを送る》徐凝(生没年不詳) 九世紀初頭の詩
絶國將無外 扶桑更有東 →扶桑更に東有り
來朝逢聖日 歸去及秋風
夜泛潮回際 晨征蒼莽中
鯨波騰水府 蜃氣壯仙宮
天眷何期遠 王文久已同
相望杳不見 離恨托飛鴻
(巻四七四)

❹《日本國の僧敬龍の歸るを送る》韋莊(836~910年)
扶桑已在渺茫中 家在扶桑東更東 →家は扶桑の東の更に東に在り
此去與師誰共到 一船明月一帆風
(巻六九五)

 これらは日本国に帰る使者・僧を唐の官人が送る詩ですから、そこに見える「扶桑」「扶桑の東」「扶桑の東の更に東」という地理情報は、日中両国の知識人の共通認識と考えられます。そして、日本国の使者が帰る領域は「扶桑」の東にあるように記され、❹《日本國の僧敬龍の歸るを送る》の場合は「家は扶桑の東の更に東に在り」とあることから、僧敬龍の家は最も東の領域にあるわけです。

 そして、「扶桑」とは「元来、それは太陽がそこから昇る木、またはその木のある場所であろう」と中小路先生はされ、『隋書』俀国伝に見える「日出づる処の天子」の国、すなわち九州王朝(倭国)のこととしました。そうすると、その東にあるのが大和朝廷(日本国)、更にその東にあるのが毛人の国(蝦夷国か、注②)となります。

 このように、唐詩に見える日本列島の姿は、西から九州王朝(扶桑)、大和朝廷(扶桑の東)、蝦夷国(扶桑の東の更に東)であり、七~九世紀(唐代)の多元的古代像に対応しているのです。(つづく)

(注)
①中小路駿逸「唐詩の日本古代史像 ―「扶桑の東」をめぐって―」『日本文学の構造 ―和歌と海と宮殿と―』桜楓社、1983年。
②『旧唐書』日本国伝に次の記事がある。
「東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國。」

【写真】劉長卿、王維、徐凝。


第3442話 2025/03/03

唐詩に見える王朝交代の列島 (3)

 ―扶桑(九州王朝)・扶桑の東(大和朝廷)・扶桑の東の更に東(蝦夷国か)―

古田学派に多大な影響を与えた中小路駿逸先生の唐詩研究の概要は次の通りです。

「七世紀まで、中国歴代の王朝が日本列島の中心的権力と見なし通交相手としてきたのは、九州に都する国であり、その国と、〝より東に都する〟大和朝廷の国との〝交替〟は、唐代にはいってから起こっている。――私の逢着した唐詩の例は、こういう日本古代史像を示している。」『日本文学の構造』(注①)196~197頁

具体的には、唐詩に見える「扶桑」などの詩句の分析を次のようにまとめられました(注②)。

一 「扶桑」、「若木」、「天」、「大荒」、「祖州」、「亶州」、および「蓬莱」と、さまざまなイメージを用いて、日本の地の位置および態様の大体が表現されている。

二 「蓬莱」型以外の五つにおいては、日本の地が東西二つに(唐末期には「扶桑」型において三つに)区分されている。

三 阿倍仲麻呂、空海、橘逸勢、円仁といった、畿内の地に帰ることの明らかな人々の帰着地、すなわち畿内が、日本の地のなかでも西から二つ目の、すなわち「何かの東の更に東」でなく「何かの東」の地域と、明らかに呼ばれている。

四 東海中の既知の地のさらに東に位置するものとして、〝畿内〟の地が知られるという、〝第一の変化〟が起こったのが唐代に入ってのちであること、『旧唐書』の記載に対応するこの変化が日本・唐双方の人間にとって共通の認識であったことは、劉長卿の詩句に最も端的に示されている。

五 「大山」よりもさらに東に日本国の領域がのびているという、〝第二の変化〟は、唐末ごろまでに生じていることが、韋荘の詩句に示されている。この、〝第二の変化〟は『旧唐書』にも見えず『新唐書』にもなお見えぬ事項であり、両『唐書』に用いられた史料よりものちの層に属する、より新しい知識と考えられる。

そして、次の結論に至ります。

「これらが、日本人と中国人の共通の認識として唐詩に示され、かつ中国の史書の記載と対応して矛盾しない日本像なのである。
この日本像が日本国内で八世紀以前に作られた諸書の記載内容と対応して矛盾しないことを、私はすでにいくつもの論考で述べた。」(注③)

この中小路先生が紹介する、唐詩に見える日本列島の姿は、西から九州王朝(扶桑)、大和朝廷(扶桑の東)、蝦夷国か(扶桑の東の更に東)という多元的古代像を示唆しているのです。(つづく)

(注)
①中小路駿逸『日本文学の構造 ―和歌と海と宮殿と―』桜楓社、1983年。
②中小路駿逸「唐詩の日本古代史像・補足 ―阿倍仲麻呂・空海・橘逸勢・円仁・円載らの参与」『追手門学院大学文学部アジア文化学科年俸』一(十三)号、1998年。
③同注②


第3441話 2025/03/02

唐詩に見える王朝交代の列島 (2)

中小路駿逸氏から学んだ「論証とは何か」

 わたしが古田門下に入門した三十歳の頃、古田先生は東京の昭和薬科大学で教授をされており、直接教えを請えるのは年に二度ほどの大阪講演会(市民の古代研究会主催)のときくらいでした。そのため、1987年から大阪の追手門学院大学で文学部教授をされていた中小路駿逸先生(注①)からは、何かと教えていただきました。

 当時、わたしは化学会社に勤務しており、学生時代の専攻が有機合成化学だったこともあり(注②)、まったく異分野の文献史学において、「論証する」とはどういうことなのかさえも知りませんでした。化学の場合、実験により再現性を確認できれば、一応、仮説(想定した反応式や分子構造)を証明したことになり、その実験方法(反応条件)と実験結果(分析機器による測定データ)を提示することにより、化学論文としての最低要件は満たせます。ところが歴史学の場合、再現性試験は不可能ですし、文献(テキスト)をエビデンスとして採用することの当否も不確かです。ですから、古田先生の著書に記された〝目が覚めるような論証と結論〟に感動し、深く同意はできるものの、自ら歴史研究を行うことや論文執筆など、全くやり方がわからなかったのです。

 そこで中小路先生に、「論証するとは、どういうことなのでしょうか。どうすれば論証したことになるのでしょうか」と、恥ずかしながら尋ねてみました。中小路先生の返答は、「ああも言えれば、こうも言える、というのは論証ではありません」というものでした。これはこれで難解な答えですが、このことを理解できるようになるまで十年ほどかかりました。ですから、わたしは古田門下では、あまりできのよい〝弟子〟ではなかったようです。古田先生からもよくしかられました。

 話を戻しますが、中小路先生は中国古典文学にも詳しく、唐詩の研究により、唐の詩人たちは唐代の日本列島に複数の王権が併存すると認識していたことを発表されました(注③)。

 「七世紀まで、中国歴代の王朝が日本列島の中心的権力と見なし通交相手としてきたのは、九州に都する国であり、その国と、〝より東に都する〟大和朝廷の国との〝交替〟は、唐代にはいってから起こっている。――私の逢着した唐詩の例は、こういう日本古代史像を示している。」『日本文学の構造』196~197頁

 この主張は、古田先生の多元史観・九州王朝説と整合するとされました。こうした中小路先生の唐詩研究は、当時の古田学派に多大な影響を与えました。(つづく)

(注)
①中小路駿逸(なかこうじ しゅんいつ)、1932~2006年。京都大学文学部文学科卒(国文学専攻)。明石高専教諭、愛媛大学教授などを歴任し、1987年に追手門大学文学部教授(国文学・国語学担当)に就任。2006年、同大学名誉教授。著書に『日本文学の構造 ―和歌と海と宮殿と―』(桜楓社、1983年)、『中小路駿逸遺稿集 九州王権と大和王権』(海鳥社、2017年)がある。
②久留米高専・工業化学科卒。鳥井昭美研究室でアクリジン関連化合物の合成と反応性について研究した。
③中小路駿逸『日本文学の構造 ―和歌と海と宮殿と―』桜楓社、1983年。


第3440話 2025/03/01

唐詩に見える王朝交代後の列島 (1)

 二月の「古田史学リモート勉強会」(古賀主宰)や多元的古代研究会の「リモート研究会」で、『旧唐書』倭国伝・日本国伝や飛鳥・藤原京出土評制荷札木簡(七世紀後半)などを根拠として、七世紀後半から八世紀にかけての王朝交代期の倭国(九州王朝)と日本国(大和朝廷)の領域について研究発表しました。その結論として、701年の王朝交代によって、直ちに倭国(九州王朝)が滅んだわけではないようだと述べました。発表で使用したパワポより転載します(注①)。

〝【結論】
(1) 『旧唐書』倭国伝・日本国伝に記された両国の記事は、七世紀後半~八世紀の認識(状況)を表している。
(2) 従来、誇大で信用できないとされた倭国の領域「東西五月南北三月」「五十余国」は倭国の公式情報であり、妥当な表現である。
(3) 日本国伝の「日本舊小国、併倭国之地」とは倭国の滅亡(併呑)ではなく、飛鳥・藤原出土荷札木簡が示す領域の律令諸国としての併合。九州島(倭国)は王朝交代後は西海道として大宝律令に組み込まれた。
(4) その為、倭国は大宰府を中心とする西海道として〝半独立〟のような状態がその後もしばらくは続いたようだ。このことを示す史料として、万葉集の筑紫記事(赤尾説)や空海の『御遺告』、『三国史紀』などがある。
(5) この状態を『旧唐書』倭国伝・日本国伝は表しており、倭国伝に倭国の滅亡記事が見えないのはこのことを示唆している。〟

 古田史学の門をたたき、滅亡後の九州王朝研究を続けてきたのですが、当初は、『旧唐書』倭国伝に倭国の滅亡記事が見えないことを不審に思い、空海の遺言に遺された〝唐からの帰国記事「大同二年(807)、わが本国に帰る」の一年差の謎(空海の筑紫への帰国は大同元年)〟に迫った研究(注②)、『三国史記』新羅本紀に記された日本国との国交記事が日本側史料と一致しないことの研究(注③)などを発表し、九州王朝は701年の王朝交代後もしばらくは九州の地で〝半独立〟していたのではないかとしました。

 このような問題意識と研究経緯があり、八世紀の九州王朝の残影についての中小路駿逸先生の唐詩研究の著書(注④)を改めて精読することにしました。(つづく)

(注)
①古賀達也「『旧唐書』倭国伝の領域 ―東西五月行と五十餘国―」多元的古代研究会・リモート研究会、令和七年(2025)2月21日(金)
②古賀達也「空海は九州王朝を知っていた」『市民の古代』13集、新泉社、1991年。
③古賀達也「二つの日本国」『古代史徹底論争』駸々堂出版、1993年。
④中小路駿逸『日本文学の構造 ―和歌と海と宮殿と―』桜楓社、1983年。
同『中小路駿逸遺稿集 九州王権と大和王権』海鳥社、2017年。


第3439話 2025/02/27

『三国志』短里説の衝撃〔余話〕

 ―陳寿を信じとおす、とは何か―

 8回続けた〝『三国志』短里説の衝撃〟ですが、思いのほか好評だったようで「古田史学の会」HPのアクセス件数も増えました。同シリーズの学問的核心は、〝倭人伝の行程や里程記事は信用できない〟と言い続け、しかし結論だけは〝「邪馬台国」は畿内で決まり〟とする「邪馬台国」畿内説論者が採用した方法(倭人伝不信論と原文改定)に対して、『三国志』の著者陳寿を信じとおし、原文の合理的解釈を求めるという古田武彦先生の学問の方法との違いにありました。陳寿を信じとおした古田先生は、魏・西晋朝短里説や邪馬壹国博多湾岸説、倭人の二倍年暦説など従来にない仮説群へと至り、倭人伝を原文のまま読んで、合理的に解釈することに成功しました。

 このことを象徴するように、古田古代史学の第一著『「邪馬台国」はなかった』(注①)の序文末尾には次の一文があります。

「しかし、だれも本当に信じなかった。『三国志』魏志倭人伝の著者陳寿のことを。

 シュリーマンがホメロスを信じたように、無邪気に、そして徹底的に、陳寿のすべての言葉をまじめにとろうとした人は、この国の学者、知識人の中にひとりもいなかったのである。

 かれらおびただしい学者群のあとで、とぼとぼとひとり研究にむかったわたしの、とりえとすべきところがもしあるとすれば、それはたった一つであろう。

陳寿を信じとおした。――ただそれだけだ。

 わたしが、すなおに理性的に原文を理解しようとつとめたとき、いつも原文の明晰さがわたしを導きとおしてくれたのである。
はじめから終わりまで陳寿を信じ切ったら、どうなるか。

 その明白な回答を、読者はこの本によって、わたしからうけとるであろう。」

 この「陳寿を信じとおす」という言葉は、かなり挑発的です。エビデンスや既成概念を疑うことから始まる学問研究の世界では、「信じる」という表現がネガティブなものと受け取られかねず、そのことをわかったうえで、古田先生はあえてこの言葉で序文を締めくくったのです。それは、倭人伝の原文を自説に都合良く書き変えても(邪馬壹国→邪馬台国、南に至る→東に至る)、みんなやっていることだから誰からも咎められないという、日本古代史学界の〝宿痾〟への果敢な挑戦だったのです。これは古田武彦という人物だけが成し得たことでした。

 この「陳寿を信じとおす」という言葉の真意が、古田古代史学第二著『失われた九州王朝』(注②)の、やはり序文で次のように述べられています。

「〝陳寿を信じとおす〟わたしは、前の本の序文でそう言った。陳寿は『三国志』の著者である。わたしの用法では、〝信じる〟とは〝盲信する〟の反対語だ。『三国志』に真正面から立ち向かい、その一字一句、綿密に調べ抜く。そして、科学的に実証することなしに安易な「原文改定」を行わない。――これが〝陳寿を信じる〟わたしの立場だった。

 だから、この研究方法はそのまま『三国志』以外の中国史書に対するわたしの立場である。『後漢書』『宋書』『隋書』『旧唐書』、それらの語る倭国像に対し、わたしは耳を傾けつくそうとしたのである。」

 古田学派の研究者であれば、〝陳寿を信じとおす〟という言葉の真の意味、すなわち文献史学の学問の方法(史料批判)を理解していただけるのではないでしょうか。この学問の方法の違いによって、古田史学(多元史観)が持つ説得力は際立っているのです。

(注)
①古田武彦著『「邪馬台国」はなかった』朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻。
②古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、1972年。ミネルヴァ書房より復刻。


第3437話 2025/02/25

『三国志』短里説の衝撃 (8)

 ―一元史観が生んだ虚構「畿内説」―

 「邪馬台国」畿内説は、長里説(435m)では説明できない倭人伝の行程・里程記事を合理的に説明できる短里説(76~77m)の存在には触れず、〝倭人伝の行程や長里による里程記事は信用できない〟と、手を変え品を変えて言い続け、しかし結論だけは〝「邪馬台国」は畿内で決まり〟とします。この畿内説は、客観的で合理的な証明を経ていない近畿天皇家一元史観という「史観」が生んだ虚構です。そのことが仁藤敦史さんの論稿中(注①)にも現れています。たとえば次の記事です。

〝さらに、『三国志』以降の中国正史も、卑弥呼王権と「倭の五王」以降のヤマト王権を基本的に連続するものとして記述している点も傍証となる。すなわち、『梁書』倭伝は、「復た卑弥呼の宗女台与を立てて王と為す。其の後復た男王を立て、並びに中国の爵命を受く。晋安帝の時、倭王賛有り」と記して、台与と倭の五王を連続的に記す。また『隋書』倭国伝には「邪馬堆に都す。則ち魏志の所謂邪馬台なる者なり」として邪馬台国はヤマト王権がある大和に所在したとする。このように中国史書は邪馬台国が大和に所在したと解している。〟『卑弥呼と台与』19頁

 この文章から、仁藤さんは何の疑いも持たず、確たる証明もなく、古代中国史書(『三国志』『梁書』『隋書』など)に記された「倭」「倭国」をヤマト王権(後の大和朝廷)のこととし、それを「邪馬台国」畿内説の傍証とされていることがわかります。

 しかも仁藤さんにとって好都合なことに、この「史観」が日本古代史学界の〝不動の通念(岩盤規制)〟であるため、自説が一元史観(注②)という「史観」を前提としていることや、「史観」成立のための客観的で合理的・論理的な説明なしで著述・発言できるという、圧倒的有利な立ち位置にあることに支えられています。この学界の状況を中小路俊逸氏(1932-2006。追手門大学文学部教授)は次のように厳しく指弾してきました。

〝肝心カナメのカンどころ、「一元通念」を「論証を経ざるもの」とした古田氏の指摘、日本古代史の研究史のなかで古田氏の学の位置を決定した理論上の「定礎」を「是」なりと明言するかしないかという、大事の一点が棚上げされ、覆われ、隠され、忘れられてしまい、結果は「学理上無効な一元通念が無期限に安泰」となること、明白だからである。「一元通念」を「非」とするか。この件を伏せて言わないか。この規準が明晰かつ有効であることを私は確信していた。〟(注③)

〝古田武彦の名前を伏せて古田説とそっくりで、それでいてどこか違う説を言い出す学者が出てきた。目的はただ一つ、大和朝廷よりも格が上だった九州王朝の存在という肝要の一点を伏せること。そして有史以来初めてその事を指摘した古田武彦の名前を研究史から抹殺することです。この動きがいよいよ始まりました。この策動を許してはなりません。〟(注④)

 「邪馬台国」畿内説は、畿内説論者自身も認めているように、『三国志』倭人伝という唯一の同時代エビデンスからは全く導き出すことができません。そのため、近畿天皇家一元史観という古代史学界の〝宿痾〟ともいうべき「史観」から生み出された虚構であることは学理上明らかなのです。
彼らが頼りとする考古学も、出土遺構や遺物からは、そこが倭人伝に記された倭国の都(邪馬壹国)であることを証明できませんし、畿内(奈良県)に至っては弥生時代を代表するような王権の痕跡(弥生王墓、大都市遺構など)や、中国との交流を示す金属器(銅鏡、鉄製品など)の出土もほとんどありません。ですから、畿内説は文献史学からも考古学からも成立する余地のない仮説なのです。唯一の〝根拠〟らしきものは、論証を経ていない近畿天皇家一元史観(戦後型皇国史観。注⑤)という未証明の「史観」であり、それは日本の古代史学界内でしか通用しない虚構と言わざるを得ません。

 ですから、自説に不都合な古田先生の多元史観・九州王朝説、そして短里説を排斥(無いことにする。注⑥)しなければならないという宿命を、「邪馬台国」畿内説は学問的〝宿痾〟として持っているわけです。このような排斥は、理系の学界ではおよそ認められるものではありません。(おわり)

(注)
①仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
②大和朝廷こそが神代の昔から列島の唯一の卓越した王権と主張する『日本書紀』の歴史観を基本的に是とし、それを根拠として中国史書の「倭国」は大和朝廷のこととする歴史認識。古田武彦氏はこれを一元史観と名付けた。中小路俊逸氏はこれを一元通念とよび、「根本の部分で論証を経ていない」と批判した。
③中小路峻逸「第一回総会にむけて 古田史学の会のために」『古田史学会報』8号、1995年。
④中小路峻逸「事務局だより」『古田史学会報』11号、1995年。
⑤古賀達也「洛中洛外日記」1314話(2016/12/30)〝「戦後型皇国史観」に抗する学問〟
「『戦後型皇国史観』に抗する学問 ―古田学派の運命と使命―」『季報 唯物論研究』138号、2017年。
⑥古田武彦著『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社、1971年)はマスコミからも注目をあび、朝日新聞社主催の「邪馬台国シンポジウム」のパネラーとして古田氏に参加要請がなされたが、「古田が参加するなら自分たちは参加しない」という他の一元史観のパネラーから圧力がかかり、二度にわたり古田氏抜きでシンポジウムが開催されたこともあった。

 また、滋賀大学で開催された古代の武器に関する学会に古田氏と共に参加したことがあったが、会場からの質問を受け付けるとき、何度も挙手を続ける古田氏を司会者は無視し続けた。他の質問者もなく古田氏のみが「お願いします」と挙手を続けるのだが、司会者の無視の態度を不審に思った会場の参加者からどよめきが起こり、とうとう司会者は古田氏を指名するに至った。古田氏の質問を認めたときの司会者のこわばった表情が忘れ難い。同学会の重鎮たちの顔色を気にしながらのことだったようである。


第3433話 2025/02/21

『三国志』短里説の衝撃 (7)

 ―畿内説と考古学の不一致―

 「邪馬台国」畿内説は短里(76~77m)でも長里(435m)でも成立しません。ですから、畿内説論者は短里説の存在には触れずに、〝倭人伝の行程や長里による里程記事は信用できない。信用しなくてもよい。〟と言い続けるしかないようです。しかし結論だけは〝「邪馬台国」は畿内で決まり〟とします。その理由として、仁藤敦史さんは次の根拠をあげています(注①)。

(ⅲ)現在における倭人伝の研究視角としては、(中略)考古学成果との対比(纏向遺跡・箸墓古墳)、などが求められていると思われる。(「倭国の成立と東アジア」143頁)

(ⅳ) 略

(ⅴ)文献解釈からは方位・距離いずれにおいても邪馬台国を畿内と解しても大きな矛盾はなく、前方後円墳の成立時期と分布(畿内中心に三世紀中葉から)、三角縁神獣鏡の分布(畿内中心)、有力な集落遺跡の有無(有名な九州の吉野ヶ里遺跡は卑弥呼の時代には盛期をすぎるのに対して、畿内(大和)説では纏向遺跡などが候補とされる)など考古学的見解も考慮するならば、より有利であることは明らかであろう。(『卑弥呼と台与』18~19頁)

 この中で具体的なエビデンスとして示されたのは次の事柄です。

❶纏向遺跡・箸墓古墳
❷前方後円墳の成立時期と分布(畿内中心に三世紀中葉から)
❸三角縁神獣鏡の分布(畿内中心)
❹有力な集落遺跡の有無(有名な九州の吉野ヶ里遺跡は卑弥呼の時代には盛期をすぎるのに対して、畿内(大和)説では纏向遺跡などが候補とされる)

 これらをわかりやすく解説します。❶の纏向遺跡・箸墓古墳は国立歴史民俗博物館(歴博と略す)研究グループ(注②)の発表によれば三世紀前半に編年されており、卑弥呼の時代に近い。❷の箸墓古墳をはじめとする初期前方後円墳の成立も三世紀に遡るとした歴博の見解に基づき、箸墓古墳を卑弥呼の墓とできる。同時に畿内の古墳から多数出土する三角縁神獣鏡も卑弥呼が魏からもらった鏡と見なしてよい。集落遺跡も纏向遺跡は卑弥呼の時代とできるが、北部九州には卑弥呼の時代の有力な集落はない。吉野ヶ里遺跡は卑弥呼よりも古い時代であり、対象とならない。ということを自説の根拠としています。

 このような考古学的知見を根拠として、畿内説が有力とするのですが、この考古学編年そのものが誤っていたことが、現在では明らかとなっています。すなわち、歴博の見解は炭素同位体C14年代測定値を根拠としますが、最新の国際修正値(較正曲線)intCAL20(イントカル20)により、弥生時代の編年が歴博の発表よりも約百年新しくなることが明らかとなりました。従って、箸墓古墳は歴博発表以前の考古学編年通り四世紀前半頃となり、卑弥呼の時代よりも百年新しくなります。同様に初期前方後円墳も百年新しく編年されたので、❶と❷の根拠が既に崩れているのです。

 仁藤さんの著書や論文の発行年は2009年と2013年ですから、おそらく古い補正値(intCAL09)を採用した時期のものであり、そのため不正確なエビデンスに基づいており、現在の倭人伝研究のレベルからすれば、問題が多すぎると言わざるを得ません。従って、仁藤さんの解釈や仮説を否定するところからしか、教科書を書き変えるような新たな研究は生まれないと思われます。

 更に❸の三角縁神獣鏡は中国からは出土していないことや、弥生時代ではなく古墳時代になって出土することも早くから知られており、これを弥生時代の卑弥呼が魏からもらった鏡とする考古学者は、現在ではほとんどいないのではないでしょうか。

 ❹の弥生時代の集落についても、現在の考古学では福岡市博多区の比恵・那珂遺跡群が「最古の都市」とされ、「弥生時代中期~古墳時代前期にかけて都市的な様相を示していた」(注③)とされていることに触れてもいません。そして、都市の条件である「街区」の形成は、「確かに比恵・那珂遺跡群をおいて他にはなく、「初期ヤマト政権の宮都」とされる纏向遺跡においては、そのような状況はほとんど不明である。」と報告されているのです(注④)。

 こうした現在の考古学水準からすれば、❹の見解も失当と言わざるを得ません。こうのように、仁藤論稿には数々の誤りがあることは明白であるにもかかわらず、なぜ古代史学界ではこのような解釈が通説的権威を持つのでしょうか。理系分野ではちょっとありえない〝奇妙な学界〟と言わてもしかたがないように思います。

 更に、(ⅴ)の「文献解釈からは方位・距離いずれにおいても邪馬台国を畿内と解しても大きな矛盾はなく」とするに至っては、理解困難な言い分です。そもそも、〝(ⅰ)「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない。〟〝(ⅱ)邪馬台国に至る方位・道程や、その風俗は、当時の中国王朝の偏見や「常識」に制約され、正確さは低いと考えられる。〟としたのは、仁藤さんご自身だからです。著書(2009年)と論文(2013年)とでは、基本的な見解が変わったようには見えませんが。(つづく)

(注)
①仁藤敦史 「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。
同『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
②国立歴史民俗博物館の春成秀爾氏を中心とする研究グループがマスコミに発表した後、2009年5月に早稲田大学(日本考古学協会)で「箸墓古墳は卑弥呼の墓である」と発表した。
③菅波正人「那津宮家から筑紫館 ―都市化の第二波―」『古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―』資料集、大阪市博物館協会大阪文化財研究所、2018年。
④久住猛雄「最古の「都市」 ~比恵・那珂遺跡群~」同③。


第3432話 2025/02/17

『三国志』短里説の衝撃 (6)

―短里でも長里でも成立しない畿内説―

 三国時代の魏とその後継王朝の西晋で公認使用された里単位(一里76~77m)で『三国志』が書かれたとする古田先生と谷本茂さんの研究(注①)を紹介しました。この検証は、『三国志』の里程記事と現在の実測値による簡単な計算(割り算)で実証的に確認できます。この短里説によれば、帯方郡(ソウル付近)から邪馬壹国までの総里程「一万二千余里」は900㎞強となり、博多湾岸付近までの距離とピッタリであることがわかります。

 他方、短里では奈良県には全く届きませんし、かといって長里(435m)では奈良県を飛び越えて太平洋のはるかかなたに行ってしまいますので、「邪馬台国」畿内説は短里でも長里でも成立しません。ですから、そのことを知っている畿内説論者は短里説の存在には触れずに、〝倭人伝の行程や長里による里程記事は信用できない。信用しなくてもよい。〟と言い続けるしかないのでしょう。仁藤敦史さんの次の主張がその一例です(注②)。

(ⅰ)「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない。(「倭国の成立と東アジア」142頁)

(ⅱ)邪馬台国に至る方位・道程や、その風俗は、当時の中国王朝の偏見や「常識」に制約され、正確さは低いと考えられる。(「倭国の成立と東アジア」145頁)

(ⅲ)現在における倭人伝の研究視角としては、単純な位置・方位論に拘泥することなく……。(「倭国の成立と東アジア」143頁)

(ⅳ)一万二千里は、実際の距離ではなく、途中に「水行」「陸行」の表現を加えることで、四海のはずれを示す記号的数値……。(「倭国の成立と東アジア」164~165頁)

 短里説を無視、乃至検討せず、倭人伝の行程(南、邪馬壹国に至る)や里程(長里で一万二千余里)は信頼できないとしながらも、仁藤さんの結論は畿内説が妥当とします。〝倭人伝の記事は信頼できないから、「邪馬台国」の位置は不明〟とするのであれば、その主張にはまだ一貫性があるのですが、結論だけは〝「邪馬台国」は畿内で決まり〟とするのです。次回はその理由の是非について検討することにします。(つづく)

(注)
①古田武彦・谷本茂『古代史の「ゆがみ」を正す 「短里」でよみがえる古典』新泉社、1994年。
②仁藤敦史「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。