伊勢王一覧

九州王朝の天子の別名だと考えています。
新・万葉の覚醒(Ⅰ)二、万葉一九九番歌の「皇子と吾大王」
川西市 正木 裕
http://furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho149/kai14901.html
でご覧ください。

第3050話 2023/06/23

「赤淵大明神縁起」所蔵文書館の紹介

本日の「多元の会」リモート研究会では、服部静尚さんによる『赤淵神社縁起』の解説がありました。同縁起は兵庫県朝来市にある赤淵神社所蔵のもので、九州年号の常色や朱雀などが記されており、注目されています。同研究会に参加した関東の研究者の皆さんも感心を示されたようで、『赤淵神社縁起』に関する拙稿についても紹介させていただきました。本稿末尾に同じく正木裕さんの関連論文と拙稿の表題などを付記しましたので、「古田史学の会」ホームページ「新古代学の扉」などで閲覧いただければ幸いです。また、ご質問頂いた、常色年間(647~651)頃の九州王朝(倭国)と蝦夷国との関係については、正木裕さんの論稿「『書紀』「天武紀」の蝦夷記事について」(注①)に詳述されていますので、ご参照下さい。
なお、赤淵神社蔵『赤淵神社縁起』とほぼ同内容の『赤淵大明神縁起』(注②)が福井県文書館松平文庫にあり、申請すれば閲覧が可能です。こちらは公立の施設ですから、どなたでも利用でき、研究に便利です。

(注)
①正木 裕「『書紀』「天武紀」の蝦夷記事について」『古田史学会報』113号、2012年。
②朝倉義景が永禄三年(1560)に心月寺(福井市)の才応総芸に命じて作らせたとされる。内容は『赤淵神社縁起』に酷似している。

【赤淵神社関連論稿(古田史学の会)】

古賀達也の洛中洛外日記「赤淵神社」カテゴリー一括表示
○古賀達也「洛中洛外日記」604話(2013/10/03)〝赤渕神社縁起の「常色元年」〟
○同606話(2013/10/06)〝「日下部氏系図」の表米宿禰と九州年号〟
○同607話(2013/10/12)〝実見、『赤渕神社縁起』(活字本)〟
○同608話(2013/10/13)〝『多遅摩国造日下部宿禰家譜』の表米宿禰〟
○同610話(2013/10/17)〝表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の謎〟
○同611話(2013/10/18)〝表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の真相〟
○同613話(2013/10/20)〝表米宿禰「常色元年戦闘」伝承の「鬼」〟
○同614話(2013/10/22)〝『赤渕神社縁起』の「常色の宗教改革」〟
○同615話(2013/10/24)〝日本海側の「悪王子」「鬼」伝承〟
○同618話(2013/11/04)〝『赤渕神社縁起』の九州年号〟
○同690話(2014/04/06)〝朝来市「赤淵神社」へのドライブ〟
○同719話(2014/06/02)〝因幡国宇倍神社と「常色の宗教改革」〟
○同1093話(2015/11/14)〝永禄三年(1560)成立『赤淵大明神縁起』〟
○同1095話(2015/11/21)〝関西例会で赤淵神社文書調査報告〟
○同1097話(2015/11/27)〝『赤淵大明神縁起』の史料状況〟
○同2949話(2023/02/20)〝甲斐国造の日下部氏と九州王朝〟
○古賀達也「『赤渕神社縁起』の史料批判」『古代に真実を求めて』17集、明石書店、2014年。
○同「赤渕神社縁起の表米宿禰伝承」『倭国古伝』(『古代に真実を求めて』22集)明石書店、2019年。
○正木 裕「九州王朝の天子の系列(下改め3)『赤渕神社縁起』と伊勢王の事績」『古田史学会報』166号、2022年。


第2989話 2023/04/18

「九州王朝律令」復元研究の予察 (2)

七世紀(九州王朝時代)の木簡・金石文に続いて、『日本書紀』に見える律令制の官司名(官職名)を紹介します。管見によれば次の通りです。律令に規定された七世紀当時の〝常設の「官」〟と思われる中央の官司・官職と〝摂津・大宰府〟を『日本書紀索引』(注①)により取り上げました。

【七世紀(九州王朝時代)の官司・官職名】《『日本書紀』》

○「内大臣」 孝徳紀・天智紀
○「右大臣」 孝徳紀・天智紀・天武紀・持統紀
○「左大臣」 孝徳紀・斉明紀・天智紀・天武紀
○「太政大臣」 天智紀・持統紀
○「大納言」 天智紀・天武紀・持統紀
○「中納言」 持統紀
○「納言」 天武紀・持統紀

○「民部省」 天武紀(注②)
○「民部卿」 天武紀(注②)
○「大蔵省」 天武紀(注②)
○「大蔵」 天武紀

○「神官」 天武紀
○「神祇官」 持統紀
○「宮内」 天武紀
○「宮内官大夫」 天武紀
○「太政官」 天武紀・持統紀
○「法官大輔」 天智紀
○「法官」 天武紀
○「判官」 孝徳紀・天武紀
○「大弁官」 天武紀
○「理官」 天武紀
○「兵政官」 天武紀
○「刑官」 天武紀
○「佐官」 天武紀
○「馬官」 推古紀
○「楽官」 持統紀
○「民官」 天武紀
○「留守官」 斉明紀・持統紀

○「春宮大夫」 持統紀
○「東宮大傳」 持統紀
○「御史大夫」 天智紀

○「左京職」 持統紀
○「右兵衛」 天武紀
○「京職大夫」 天武紀
○「兵衛」 天武紀・持統紀
○「兵庫職」 天武紀

○「外薬寮」 天武紀
○「大学寮」 天武紀・持統紀

○「留守司」 天武紀
○「鋳銭司」 持統紀
○「撰善言司」 持統紀
○「造京司」 持統紀

○「摂津」 天武紀
○「吉備大宰」 天武紀
○「大宰」 推古紀・皇極紀・天武紀・持統紀
○「筑紫大宰府」 天智紀・天武紀
○「筑紫大宰府典」 持統紀

(注)
①『日本書紀索引』吉川弘文館、昭和四四年(1969)。
②通説では、「民部省」「民部卿」「大蔵省」の「省」「卿」を大宝律令による潤色の疑いが強いとする。


第2988話 2023/04/17

「九州王朝律令」復元研究の予察 (1)

 九州王朝律令についての指摘や考察は、古田先生をはじめ古田学派の研究者からも出されていました(注①)。しかしながら、それらは部分的なものであり、総体的な復元研究はなされて来なかったように思います。七世紀における律令制都城論を提起してきたことでもあり、この機会にその輪郭だけでも押さえておきたいと思います。

 残念ながら「九州王朝律令」そのものは遺っていませんから、九州王朝時代の七世紀における諸史料中に見える、律令制の断片史料を検討することにします。最初に木簡や金石文に見える官司名(官職名)を紹介します。

【七世紀(九州王朝時代)の官職名】《木簡・金石文》

○「尻官」 法隆寺釈迦三尊像台座墨書(辛巳年・621年)
○「見乃官」 大野城市本堂遺跡出土須恵器刻書(7世紀前半~中頃、注②)
○「太政官兼刑部」 小野毛人墓碑(丁丑年・677年)
○「大弁官」 采女氏榮域碑(己丑年・689年)
○「大学官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「勢岐官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「道官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「舎人官」 藤原宮跡大極殿院北方出土木簡(天武期)
○「陶官」 藤原宮跡大極殿院北方出土木簡(天武期)
○「宮守官」 藤原宮跡西南官衙地区出土木簡
○「加之伎手官」 藤原宮跡東方官衙北地区出土土器墨書
○「御史官」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「薗職」 藤原宮北辺地区出土木簡
○「蔵職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「文職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「膳職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「塞職」 藤原宮跡北面中門地区出土木簡
○「外薬」 藤原宮跡西面南門地区出土木簡
○「造木画処」 藤原宮跡東面北門地区出土木簡

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(1973)。ミネルヴァ書房より復刻。
同『古代史をゆるがす 真実への7つの鍵』原書房、平成五年(1993)。ミネルヴァ書房より復刻。
増田修「倭国の律令 ―筑紫君磐井と日出処天子の国の法律制度」『市民の古代』14集、新泉社、1992年。
古賀達也「洛中洛外日記」100話(2006/09/30)〝九州王朝の「官」制〟
同「洛中洛外日記」1978話(2019/08/31)〝「九州王朝律令」による官職名〟
②古賀達也「洛中洛外日記」97話(2006/09/09)〝九州王朝の部民制〟


第2859話 2022/10/15

信州上田に濃密分布する「番匠」地名

 昨日、「多元の会」主宰「古代史の会」にリモート参加させていただきました。吉村八洲男さん(上田市)により、上田市に遺る神科(かみしな)条里の成立が七世紀前半に遡り、九州王朝の進出と関係するのではないかとの研究が発表されました(注①)。吉村さんは、当地の古代製鉄の痕跡などを発見した研究者です。「古田史学の会」の会員でもあり、古代における九州と信州の密接な関係についての研究(注②)を進めるうえで、当地の歴史について何かと教えていただいています。
 今回の吉村さんの発表では、驚くべき史料事実が報告されました。江戸期の地名史料によれば、上田市に「番匠」やそれに類する地名が濃密分布(一村に一個所ほど)しているとのこと。他地域にはそのような地名分布は見えないようで、この「番匠」地名が古代に淵源するのであれば、九州王朝による信濃遷都計画に伴って派遣された「番匠」の痕跡ではないかとされました。
 九州王朝による前期難波宮(難波京)造営のために番匠の派遣が開始されたとする『伊予三島縁起』の記事「孝徳天王位、番匠初。常色二戊申(九州年号、648年)、日本国御巡歴給」が正木裕さん(古田史学の会・事務局長)により発見されていることもあり(注③)、九州王朝との関係が予想される興味深い「番匠」地名分布ではないでしょうか。吉村さんの研究の進展が期待されます。

(注)
①吉村八洲男「神科条里と番匠」多元的古代研究会、2022年10月14日。
②古賀達也「多元的『信州』研究の新展開」『多元』136号、2016年。
 同「古代の九州と信州の接点」『東京古田会ニュース』190号、2020年。
 次の「洛中洛外日記」でも、九州と信州の関連について論じた。
 422話(2012/06/10) 「十五社神社」と「十六天神社」
 483話(2012/10/16) 岡谷市の「十五社神社」
 484話(2012/10/17) 「十五社神社」の分布
1065話(2015/09/30) 長野県内の「高良社」の考察
1240話(2016/07/31) 長野県内の「高良社」の考察(2)
1246話(2016/08/05) 長野県南部の「筑紫神社」
1248話(2016/08/08) 信州と九州を繋ぐ「異本阿蘇氏系図」
1260話(2016/08/21) 神稲(くましろ)と高良神社
1720話(2018/08/12) 肥後と信州の共通遺伝性疾患分布
2050話(2019/12/04) 古代の九州と信州の諸接点
③正木裕「常色の宗教改革」『古田史学会報』85号、2008年。


第2664話 2022/01/17

難波宮の複都制と副都(2)

 新春古代史講演会で佐藤隆さんが触れられた「難波との複都制、副都に関する問題」とは栄原永遠男さんの論文「『複都制』再考」(注①)に基づかれたもので、「洛中洛外日記」(注②)で次のように栄原説を紹介しました。

〝古代日本では京と都とでは概念が異なり、京(天皇が都を置けるような都市)は複数存在しうるが、都はそのときの天皇が居るところであり、同時に複数は存在し得ないとされています。〟

 ここでの「古代日本」とは七世紀から八世紀における大和朝廷のことです。そして、唯一の例外が天武期の飛鳥と難波とされました。この栄原説を佐藤さんは紹介されました。その史料根拠は次の天武12年(683年)の複都詔でした。

 「又詔して曰はく、『凡(おおよ)そ都城・宮室、一處に非ず、必ず両参造らむ。故、先づ難波を都にせむと欲(おも)う。是(ここ)を以て、百寮の者、各(おのおの)往(まか)りて家地を請(たま)はれ』とのたまう。」『日本書紀』天武12年12月条

 正木裕さんの研究(注③)によると、この複都詔は34年前の常色 3年(649年)のことで、九州王朝の天子伊勢王が前期難波宮造営を命じた詔勅とされました。そうであれば、複都制を採用したのは九州王朝であり、後の大和朝廷の宮都制とは異なっていたことの理由がわかります。逆に言えば、〝天武の複都詔〟の不自然さこそが前期難波宮九州王朝複都説の傍証の一つだったわけです。そうであれば、なぜ九州王朝は複都制を採用し、大和朝廷は採用しなかったのかという理由の解明が課題となります。
 佐藤さんの講演を聴いて、新たな研究テーマに遭遇できました。これも学問研究の醍醐味ではないでしょうか。

(注)
①栄原永遠男「『複都制』再考」『大阪歴史博物館 研究紀要』17号、2019年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2596話(2021/10/17)〝両京制と複都制の再考 ―栄原永遠男さんの「複都制」再考―〟
③正木裕「九州王朝の天子の系列2 利歌彌多弗利から、「伊勢王」へ」『古田史学会報』164号、2021年。


第2603話 2021/10/26

斉明五年、九州王朝の「天子崩兆」記事

 宮崎県にアマ姓の人が多いことを教えていただいた白石恭子さん(古田史学の会・会員、今治市)から(注①)、『日本書紀』斉明紀の重要な史料事実についてご教示いただきました。斉明紀には唐の天子の記事が少なからず記されていますが、斉明五年是歳条(659年)に唐の天子とは考えられない「天子」記事があるとのこと。それは次の記事末尾の細注部分です。

 「是歳、出雲国造〔名を闕(もら)せり〕に命じて、神の宮を修嚴(つくりよそ)はしむ。狐、於友郡の役丁の執(と)れる葛の末を噛(く)ひ断ちて去る。又、狗、死人の手臂を言屋社に噛ひ置けり。〔言屋、此をば伊浮*耶といふ。天子の崩(かむあが)りまさむ兆(きざし)なり。〕」 ※「*耶」は王偏に耶の字体。

 原文は「天子崩兆」とあり、文脈や状況から見て、唐の天子ではありません。斉明天皇の崩御は翌々年(661年)の斉明七年七月ですから、ちょっと間が開きすぎているようにも思われます。
 他方、九州年号は661年に改元され白鳳元年となりますから、「天子崩兆」の天子は九州王朝の天子とする方が穏当です。というのも、七世紀に於ける九州年号の改元で、天子崩御に伴う改元と推定できる例として、多利思北孤の崩御(倭京五年:622年)の翌年に改元された仁王(元年は623年)、利歌彌多弗利の崩御(命長七年:646年)の翌年に改元された常色(元年は647年)の二例があります。このように、七世紀に於ける九州年号が天子崩御の翌年に改元されるのであれば、白鳳元年の前年(660年)に九州王朝の天子は崩御したことになります。これですと、斉明五年(659年)の「天子崩兆」から、翌年の「天子崩御」(660年)を経て、白鳳改元(661年)となり、ぴったりです。
 この理解が正しければ、斉明五年の「天子崩兆」は九州王朝の天子のことになります。しかしながら、正木説(注②)によれば、この時期の九州王朝の天子は伊勢王とされ、その崩御記事は斉明七年(661年)六月と天智七年六月(668年)に見え、実際は斉明七年(661年)の方であり、天智七年は重出記事とされています。この正木説は有力ですが、斉明五年(659年)の「天子崩兆」記事とどのように整合するのかという課題があります。また、斉明七年六月の崩御であれば、その年の内に白鳳に改元したこととなり、先に紹介した崩御翌年の改元例(仁王、常色)との不一致も気になるところです。
 白石さんから教えていただいた、この「天子崩兆」記事はどのような歴史事実の反映なのか、引き続き検討したいと思います。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2543話(2021/08/19)〝「あま」姓の最密集地は宮崎県(1)〟
②正木 裕「九州王朝の天子の系列(中) 利歌彌多弗利から、『伊勢王』へ」『古田史学会報』164号、2021年6月。


第2600話 2021/10/22

佐藤隆さん(大阪歴博)の論文再読(2)

 近年、わたしが読んだ考古学論文で、優れた問題提起を続けてきたのが大阪歴博の考古学者、佐藤隆さんの論考でした。その中で最も画期的な論文が「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(注①)です。佐藤さんは、「考古資料が語る事実は必ずしも『日本書紀』の物語世界とは一致しないこともある。」として、「孝徳天皇の時代からその没後しばらくの間(おそらくは白村江の戦いまでくらいか)は人々の活動が飛鳥地域よりも難波地域のほうが盛んであったことは土器資料からは見えても、『日本書紀』からは読みとれない。」と指摘されました。これは、『日本書紀』の記述よりも出土事実を重視するという、誠に考古学者らしい意見です(注②)。この出土事実と佐藤さんの考察は、前期難波宮九州王朝複都説と整合するもので、わたしは注目しています。
 直近の論文では、「難波京域の再検討 ―推定京域および歴史的評価を中心に―」(注③)が見事でした。従来は条坊が及んでいないと見られてきた難波京西北部地区(難波宮域の北西方にある大川南岸の一帯)に、難波宮南方に広がる条坊とは異なる尺単位(1尺29.2cm)による条坊の痕跡が複数出土しているとの報告です(注④)。
 今までに発見された難波京条坊の造営尺は1尺29.49cmであり、藤原京条坊の使用尺(1尺29.5cm)に近いものでした。ところが、佐藤さんが発見された難波京西北部地区の使用尺は前期難波宮の造営尺(1尺29.2cm)と同じです。これは、難波宮とその南に広がる条坊の設計尺がなぜか異なるという不思議な現象を説明する上で重要な発見と思います。私見では、難波宮と難波京条坊の設計主体が異なっていたのではないかと推測しています。こうした出土事実は、前期難波宮九州王朝複都説の傍証になりそうです。
 この他に、「特別史跡大阪城跡下層に想定される古代の遺跡」(注⑤)も示唆的な論文でした。前期難波宮九州王朝複都説を唱えるわたしは、難波宮北側の大阪城がある場所には何があったのだろうかという疑問を抱いてきたのですが、佐藤さんはその地に「内裏」があったのではないかとする考古学的知見と痕跡を指摘されました(注⑥)。もしそうであれば、それは九州王朝の天子(正木裕説では伊勢王)の内裏ということになります。
 佐藤さんによるベーシックな研究としては、難波編年の確立があります。『難波宮址の研究 第十一 -前期難波宮内裏西方官衙地域の調査-』(注⑦)所収の「第2節 古代難波地域の土器様相とその歴史的背景」です。佐藤さんは出土土器(標準資料)の編年により前期難波宮造営期を「七世紀中葉」とされました。その後も、この編年を支持する理化学的年代測定値などが発表され、長く続いた前期難波宮造営時期の論争に終止符が打たれ、孝徳期造営説が定説となりました(注⑧)。
 このように、考古学的出土事実を重視し、それと『日本書紀』の記事が整合しない場合は、出土事実に基づく解釈を優先するという姿勢を佐藤さんは明確に表明されました。こうした傾向が近年では散見され(注⑨)、考古学者が文献史学(一元史観)の制約から独立しようとしているのかもしれません。それは古代に真実を求める古代史学にとって大切なことであり、注目されます。

(注)
①『大阪歴史博物館 研究紀要』15号、2017年3月。
②古賀達也「洛中洛外日記」1407話(2017/05/28)〝前期難波宮の考古学と『日本書紀』の不一致」〟
 古賀達也「洛中洛外日記」1906話(2019/05/24)〝『日本書紀』への挑戦、大阪歴博(2)〟
 古賀達也「『日本書紀』への挑戦《大阪歴博編》」『古田史学会報』153号、2019年8月。
③『大阪歴史博物館 研究紀要』第19号、2021年3月。
④古賀達也「洛中洛外日記」2522話(2021/07/18)〝難波京西北部地区に「異尺」条坊の痕跡〟
⑤『大阪歴史博物館 研究紀要』第14号、2016年3月。
⑥古賀達也「洛中洛外日記」1185話(2016/05/12)〝前期難波宮「内裏」の新説〟
⑦『難波宮址の研究 第十一 ―前期難波宮内裏西方官衙地域の調査―』大阪市文化財協会、2000年3月。
⑧古賀達也「洛中洛外日記」1787話(2018/11/20)〝佐藤隆さんの「難波編年」の紹介〟
 古賀達也「洛中洛外日記」667話(2014/02/27)〝前期難波宮木柱の酸素同位体比測定〟
⑨向井一雄『よみがえる古代山城』(吉川弘文館、2017年)に、古代山城の築造年代に関して次の記述が見える。
 「考古学者が年代を決めるのに、文献史料だけに頼るようになってはもはや考古学者ではない。」70~71頁
 同書には九州王朝説への批判があるものの、古代山城研究の第一人者から学ぶところは多い。古田学派研究者にも一読をお薦めしたい。


第2590話 2021/10/12

『古田史学会報』166号の紹介

 『古田史学会報』166号が発行されましたので紹介します。
一面には、9月18日に亡くなられた竹内強さん(全国世話人、古田史学の会・東海会長)への弔辞として、故人の思い出と研究業績を綴らせていただきました。古田先生や古田史学を守り続けてきた同志のご逝去は耐えがたい悲しみです。

 本号で、わたしがもっとも注目したのは野田さんの論稿です。『隋書』の表記「自A以東」において、「以東」の中にAを含むのか含まないのかという文法についての研究で、当時の人々の文法認識に迫る点では、フィロロギーに関わるテーマです。従来の研究では〝含む場合もあれば、含まない場合もある〟という説が有力だったのですが、それでは『隋書』の中の重要な位置情報が、読む人の主観に任されるという懸念があり、わたしは疑問に感じていました。野田稿では『隋書』の史料批判の結果、含まないとされました。野田説の当否は置くとしても、こうした位置情報に関して、含むのか含まないのかという基本的な文法に曖昧さを残さないという研究は貴重と思いました。

 正木さんの論稿は、『赤渕神社縁起』(兵庫県朝来市)を史料根拠とする九州王朝の天子、伊勢王の事績研究です。七世紀における九州王朝史研究の基本論文の一つではないでしょうか。

 大原さんの論稿は関西例会で論議を巻き起こした研究です。『日本書紀』斉明紀に見える「狂心の渠」を水城のこととする古田説を深化させたもので、更なる論議検証が期待されます。

 166号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』166号の内容】
○竹内強さんの思い出と研究年譜 古田史学の会・代表 古賀達也
○「自A以東」の用法 ―古田・白崎論争を検証する― 姫路市 野田利郎
○九州王朝の天子の系列(3) 『赤渕神社縁起』と伊勢王の事績 川西市 正木 裕
○『無量寺文書』における斉明天皇「土佐ノ國朝倉」行幸 高知市 別役政光
○狂心の渠は水城のことだった 京都府大山崎町 大原重雄
○「壹」から始める古田史学・三十二
多利思北孤の時代Ⅸ ―多利思北孤の「太宰府遷都」― 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己


第2565話 2021/09/12

「多元的古代研究会」月例会にリモート初参加

 昨日に続いて、本日は「多元的古代研究会」月例会にリモートで参加させていただきました。今回の月例会はコロナ禍のため、リモート参加のみにしたとのことでした。どの研究会も苦労されているようで、スカイプやズームのシステムなどについて、同会事務局長の和田昌美さんと情報交換もさせていただきました。
 今回は「天子の系列・後編~利歌彌多弗利から伊勢王へ」という演題で、七世紀中頃に活躍した九州王朝の天子「伊勢王」の事績について正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が研究発表されました。『日本書紀』に見える「伊勢王」は九州王朝(倭国)の天子、即位は常色元年(647年)で白雉九年(660年)まで在位したとされ、評制の施行や律令制定など数々の痕跡が『日本書紀』に遺されていることを論証されました。これらは、七世紀前半から後半にかけての九州王朝史復原の先端研究です。

「佐賀なる吉野」へ行幸した九州王朝の天子とは誰か (上) (中) (下) に改題されています。

 質疑応答タイムでは、わたしから二つの質問をさせていただきました。

(1)『日本書紀』天武十年条(注①)や持統三年条(注②)に見える律令関連記事を通説では「浄御原令」のこととするが、それを34年遡って九州王朝律令とする正木説では、九州王朝複都の前期「難波宮」時代のことになり、「飛鳥(大和であれ筑紫であれ)」の「浄御原宮」での制定を前提とした「浄御原」令という名称は不自然ではないか(「難波律令」なら妥当)。

(2)大化二年(646年)の改新詔など大化期の一連の詔について、どのように位置づけるのか。

 正木さんからの回答(概略)は次のようなものでした。

(1)『日本書紀』では天武・持統による律令制定という建前にしているので、その制定場所も飛鳥浄御原宮ということになる。そのため、九州王朝が常色・白雉年間にかけて策定・公布した九州王朝律令を近畿天皇家が「浄御原令」(『続日本紀』大宝元年八月条。注③)と後に〝命名(改名)〟した可能性もあり、名称にこだわる必要はないと思われる。

(2)九州王朝(倭国)が常色年間(647~651年)に発した律令や詔勅と近畿天皇家(日本国)が王朝交代時(九州年号の大化年間、695~700年)に発した詔勅が、『日本書紀』の大化年間(645~649年)に配置されており、どちらの詔勅かは個別に検証しなければならない。

 以上のような回答でしたが、(1)の見解は初めて聞くもので、〝なるほど、そのような可能性(視点)もあるのか〟と勉強になりました。(2)については、「古田史学の会」関西例会で散々論議したテーマでもあり、わたしも同意見です。なお、リモート例会終了後に正木さんと電話で論議・意見交換を続けました。
 このように、有意義でとても楽しいリモート例会でした。これからも時間の都合がつく限り、参加したいと思います。

(注)
①「詔して曰く、『朕、今より更(また)律令を定め、法式を改めむと欲(おも)う。故、倶(とも)に是の事を修めよ。然も頓(にわか)に是のみを就(な)さば、公事闕くこと有らむ。人を分けて行うべし』とのたまう。」『日本書紀』天武十年(682)二月条
②「庚戌(29日)に、諸司に令一部二十二巻班(わか)ち賜う。」『日本書紀』持統三年(689)六月条
③「癸卯、三品刑部親王、正三位藤原朝臣不比等、従四位下下毛野朝臣古麻呂、従五位下伊吉連博徳、伊余部連馬養等をして律令を選びしむること、是を以て始めて成る。大略、浄御原朝庭を以て准正となす。」『続日本紀』大宝元年(701)八月条
 この記事の「大略、浄御原朝庭を以て准正となす」を史料根拠として「浄御原令」が持統により制定されたとするのが一般的な通説ですが、「古田史学の会」内でも諸説が発表されています。


第2463話 2021/05/15

関西例会、奈良市で初開催!

 本日、奈良新聞社本社ビルで「古田史学の会」関西例会が開催されました。大阪府での緊急事態宣言が延長され、予定していたドーンセンターが使用できなくなったためで、奈良市での関西例会開催は初めてのことです。会場を提供していただいた奈良新聞社に感謝しています。
 6月は福島区民センター(参加費1,000円)で開催します。午後は恒例の古代史講演会(共催)を開催、その後、「古田史学の会」会員総会を予定しています。しかしながら、コロナ禍により変更・中止の可能性もありますので、ホームページの告知欄をご確認下さい。
 今回のリモートテストには、西村秀己さん(司会担当・高松市)、杉本三郎さん(古田史学の会・会計監査、伊丹市)、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)、野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)、別役政光(古田史学の会・会員、高知市)、谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)ら10名が参加されました。
 今回の発表では、正木さんの天武紀の史料批判と『海東諸国紀』の九州年号記事との比較検証は圧巻でした。その主たる仮説は、九州王朝による常色年間(647~651)の改革記事が『日本書紀』天武10年から14年の五年間に見える大改革記事へと移動させられているというものです。この九州王朝による「常色の改革」は『日本書紀』に見える「大化の改新」に匹敵するとして、『日本書紀』の造作過程を推定されました。
 中でも、『海東諸国紀』中の九州年号記事がこの正木仮説に整合していることを明らかにされたことに驚きました。『日本書紀』が転用した九州王朝記事と『海東諸国紀』の九州年号記事が、同系列の九州王朝系史料に基づいていることをも推定させ得る仮説でした。正木さんが提唱されてきた『日本書紀』の〝34年遡り現象〟が前提にある仮説ですが、この方法論の有効性を改めて認識できた研究でした。論文発表が待たれます。
 なお、発表者はレジュメを30部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔5月度関西例会の内容〕
①天武紀の大改革記事の虚構(川西市・正木 裕)
②リンクする倭の五王と百済王の謎(大山崎町・大原重雄)
③近畿に残る金石文に関する考察(茨木市・満田正賢)
④国生み神話の再検証(八尾市・服部静尚)
⑤天孫降臨についての考察(奈良市・原幸子)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日)

参加費1,000円(「三密」回避に大部屋使用の場合)
06/19(土) 10:00~12:00 会場:福島区民センターより会場変更

会場変更 奈良新聞本社西館3階

〒630-8001 奈良県奈良市 法華寺町2番地4
   ※午後は古代史講演会と会員総会を開催します。
   ※コロナによる会場使用規制のため、緊急変更もあります。最新の情報をホームページでご確認下さい。

◎古代史講演会《共催》 参加費:無料
 共催:古代大和史研究会、誰も知らなかった古代史の会、市民古代史の会・東大阪、市民古代史の会・京都、和泉史談会、古田史学の会
06/19(土) 13:00~16:00 会場:福島区民センターより会場変更

会場変更 奈良新聞本社西館3階

〒630-8001 奈良県奈良市 法華寺町2番地

「考古学から見た邪馬台国 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―」 講師:関川尚功さん
 「考古学から見た邪馬壹国 ―博多湾岸説―(仮題)」 講師:正木 裕さん
 ※講演会終了後に「古田史学の会」会員総会を開催します。会員の皆さんのご参加をお願いします。

《関西各講演会・研究会のご案内》
 ※コロナ対応のため、緊急変更もあります。最新の情報をご確認下さい。

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 05/17(月) 13:00~17:00 会場:壽光寺コンサートホール(大阪市西成区)
 「聖徳太子と仏教」 講師:服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)
 「能楽の淵源と筑紫の舞楽」 講師:正木 裕さん(大阪府立大学講師)
 05/25(火) 10:00~12:00 会場:奈良県立図書情報館 交流ホールBC室
 「伊勢王③」 講師:正木 裕さん(大阪府立大学講師)
 06/22(火) 10:00~12:00 会場:奈良新聞社本社西館3階
 「伊勢王④」 講師:正木 裕さん(大阪府立大学講師)

◆誰も知らなかった古代史の会 会場:福島区民センター 参加費500円
 05/21(金) 中止

◆「市民古代史の会・東大阪」講演会 会場:東大阪市 布施駅前市民プラザ(5F多目的ホール) 資料代500円
 06/26(土) 14:00~16:30 「天孫降臨と神武東征 ―神話と歴史―」 講師:服部静尚さん
 07/24(土) 14:00~16:30 「邪馬壹国と卑弥呼の世界」 講師:服部静尚さん

◆「市民古代史の会・京都」講演会 会場:キャンパスプラザ京都 参加費500円
 《未定》

◆「和泉史談会」講演会 会場:和泉市コミュニティーセンター(中集会室)
 《未定》


第2437話 2021/04/17

進展する7世紀の九州王朝研究

 本日、ドーンセンターにて「古田史学の会」関西例会が開催されました。5月もドーンセンター(参加費1,000円)開催です。今回はZoomシステムによるリモートテストとして、西村秀己さん(司会担当・高松市)、杉本三郎さん(古田史学の会・会計監査、伊丹市)、松中祐二さん(九州古代史の会・北九州市)、萩野秀公さん(古田史学の会・会員、東大阪市)が参加されました。「古田史学の会」会員でもある松中さんは二十年来の友人で、「古田史学の会」と「九州古代史の会」との交流開始にあたっては両会の橋渡し役をしていただきました。お昼休みの役員会もリモートで実施しました。
 今回の発表はいずれも7世紀の九州王朝を対象としたもので、ハイレベルで新たな視点があり、『日本書紀』や『万葉集』を読み込んでいなければ深く理解できないようなテーマでした。特に刺激を受けたのが、服部さんと正木さんの研究でした。服部さんは、九州王朝(倭国)が受容した仏典(法華経、無量寿経)の差異に着目され、十七条憲法は女性の推古よりも、男性の多利思北孤が公布したとする方が妥当と説明されました。このような着眼点は今までにはなかったもので、新鮮でした。
 正木さんは、『日本書紀』に見える持統の伊勢行幸記事(692年)は、その34年前の九州王朝の伊勢王による糸島半島「伊勢」行幸と蝦夷国への軍事行動記事が改変転記されたものとする仮説を発表されました。持統6年の伊勢行幸記事は矛盾や誇張が大きく、言われてみればおかしな内容でした。正木説はそれらを解決できる一つの仮説と思われました。

 なお、発表者はレジュメを30部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔4月度関西例会の内容〕
①日本書紀の前から作られた太子伝説 (大山崎町・大原重雄)
②仏教と聖徳太子 ―法華経と無量寿経― (八尾市・服部静尚)
③蘇我氏の時代の近畿に関する考察 (茨木市・満田正賢)
④柿本人麻呂「近江荒都歌」の解釈について (たつの市・日野智貴)
⑤「伊勢王」の呼称と糸島なる伊勢 (川西市・正木 裕)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費1,000円(「三密」回避に大部屋使用の場合)
05/15(土) 10:00~17:00 会場:ドーンセンター
06/19(土) 10:00~12:00 会場:福島区民センター
      ※午後は古代史講演会と会員総会を開催します。

◎古代史講演会 参加費:無料
 共催:古代大和史研究会、誰も知らなかった古代史の会、市民古代史の会・東大阪、市民古代史の会・京都、和泉史談会、古田史学の会
06/19(土) 13:00~16:00 会場:福島区民センター
「考古学から見た邪馬台国 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―」 講師:関川尚功さん
 「考古学から見た邪馬壹国 ―博多湾岸説―(仮題)」 講師:正木 裕さん
 ※講演会終了後に「古田史学の会」会員総会を開催します。会員の皆さんのご参加をお願いします。

《関西各講演会・研究会のご案内》
 ※コロナ対応のため、緊急変更もあります。最新の情報をご確認下さい。

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 「古代大和史研究会」特別講演会のご案内
◇日時 2021/04/24(土) 13:00~17:00
◇会場 奈良新聞本社西館3階
◇参加費 500円
◇テーマ 卑弥呼と邪馬壹国『「邪馬台国」はなかった』出版50周年記念講演会
◇講師・演題(予定)
 古賀達也(古田史学の会・代表) 九州王朝官道の終着点 ―筑紫の都(7世紀)から奈良の都(8世紀)へ―
 大原重雄(『古代に真実を求めて』編集部) メガーズ説と縄文土器
 満田正賢(古田史学の会・会員) 欽明紀の真実
 服部静尚(『古代に真実を求めて』編集長) 日本書紀の述作者は中国人ではなかった
 正木 裕(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師) 多賀城碑の解釈~蝦夷は間宮海峡を知っていた

 04/27(火) 10:00~12:00 会場:奈良県立図書情報館 交流ホールBC室
 「伊勢王」 講師:正木 裕さん(大阪府立大学講師)
 05/17(月) 13:00~17:00 会場:壽光寺コンサートホール
 「聖徳太子と仏教」 講師:服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)
 「能楽の淵源と筑紫の舞楽」 講師:正木 裕さん(大阪府立大学講師)
 05/25(火) 10:00~12:00 会場:奈良県立図書情報館 交流ホールBC室
 「伊勢王③」 講師:正木 裕さん(大阪府立大学講師)

◆誰も知らなかった古代史の会 会場:福島区民センター 参加費500円
 05/21(金) 18:30~20:00 「『神武東征説話』の再検討② 盗まれ地降臨神話」 講師:正木 裕さん

◆「市民古代史の会・東大阪」講演会 会場:東大阪市 布施駅前市民プラザ(5F多目的ホール) 資料代500円
 05/08(土) 14:00~16:30 「天孫降臨と神武東征 ―神話と歴史―」 講師:服部静尚さん

◆「市民古代史の会・京都」講演会 会場:キャンパスプラザ京都 参加費500円
 04/29(火) 13:00~16:00開催中止
開催中止 「聖徳太子と仏教」 講師:服部静尚さん
開催中止「九州王朝官道の終着点」 講師:古賀達也

◆「和泉史談会」講演会 会場:和泉市コミュニティーセンター(中集会室)
 《未定》


第2415話 2021/03/20

関西例会、リモート司会が定着

 本日、福島区民センターにて「古田史学の会」関西例会が開催されました。次回はドーンセンター(参加費1,000円)で開催します。
 今回もZoomシステムによるハイブリット型(会場参加+リモート参加)例会のテストを実施しました。会場ごとにWi-Fi環境が異なりますので、久冨直子さん(『古代に真実を求めて』編集部)が機材や設定の調整をされています。システム的にはほぼ完成の域に近づいてきました。
 司会担当の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)は今回もリモートで司会をされました。当人はいないのに会場には西村さんの声が響き渡るという不思議な光景ではありました。今月は冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)と別役政光さん(古田史学の会・会員、高知市)がリモートテスト参加されました。今後、更に遠隔地の会員にご協力いただく予定です。
 今回は久しぶりにわたしも発表させていただきました。近畿天皇家はいつから「天皇」を名乗ったのかというテーマで、七世紀初頭からナンバーツーとして「天皇」を称していたとする古田旧説と、文武から始めて「天皇」を称したとする古田新説に関して、古田旧説が妥当とする根拠として、金石文や木簡について説明しました。
 古田新説を支持される服部さんとの論争を中心に、30分の発表の後、40分ほどの質疑応答が続きました。合意には至りませんでしたが、服部さんの見解やその前提となる歴史認識については理解が進みました。また、七世紀の第4四半期頃(「天武」期)からは大和飛鳥がある時期まで政治的中心地であり、権力者がいたとすることについてはほぼ合意できたように思われました。その〝権力主体〟が誰(何)であったのかについては見解が分かれましたので、次の機会まで更に研究を深めたいと思います。
 正木さんからは、七世紀における九州王朝の歴代天子の系列(多利思北孤→利歌彌多弗利→伊勢王=中皇命)についての解説がなされました。よく整理された発表であり、「九州王朝通史」刊行に向けての準備とも言える内容でした。その中で紹介された、利歌彌多弗利から善光寺如来への書簡と考えられてきた「命長七年文書」について、利歌彌多弗利の妻(勝鬘)から善光寺如来への「願文」ではないかというアイデアが浮かび、ご披露しましたが、帰宅後、念のため確認したところ、このアイデアには阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)による先行説がありましたので取り下げます。失礼いたしました。
 なお、発表者はレジュメを30部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔3月度関西例会の内容〕
①刷り込まれる歴史観 ―一元論と一国文化自生論の要因― (大山崎町・大原重雄)
②『蘇我王国論』批判(2) (茨木市・満田正賢)
③「捕鳥部萬」は「穴穂部皇子」である (たつの市・日野智貴)
④関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』の紹介 (川西市・正木 裕)
⑤七世紀「天皇」金石文と『日本書紀』の対応 (京都市・古賀達也)
⑥何故「俀国」なのか (京都市・岡下英男)
⑦乱れる斉明紀、普通の皇極紀 (八尾市・服部静尚)
⑧九州王朝の天子の系列 多利思北孤・利歌彌多弗利から、唐と礼を争った王子・伊勢王へ (川西市・正木 裕)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費1,000円(「三密」回避に大部屋使用の場合)
04/17(土) 10:00~17:00 会場:ドーンセンター

《関西各講演会・研究会のご案内》
◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 「古代大和史研究会」特別講演会のご案内
◇日時 2021/04/24(土) 13:00~17:00
◇会場 奈良新聞本社西館3階
◇参加費 500円
◇テーマ 卑弥呼と邪馬壹国『「邪馬台国」はなかった』出版50周年記念講演会
◇講師・演題(予定)
 古賀達也(古田史学の会・代表) 九州王朝官道の終着点 ―筑紫の都(7世紀)から奈良の都(8世紀)へ―
 大原重雄(『古代に真実を求めて』編集部) メガーズ説と縄文土器
 満田正賢(古田史学の会・会員) 欽明紀の真実
 服部静尚(『古代に真実を求めて』編集長) 日本書紀の述作者は中国人ではなかった
 正木 裕(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師) 多賀城碑の解釈~蝦夷は間宮海峡を知っていた

 04/27(火) 10:00~12:00 会場:奈良県立図書情報館 交流ホールBC室
 「伊勢王」 講師:正木 裕さん(大阪府立大学講師)

◆誰も知らなかった古代史の会 会場:福島区民センター 参加費500円
 05/21(金) 18:30~20:00 「『神武』は鳴門海峡を渡った ―『神武東征説話』の再検討」 講師:正木 裕さん

◆「市民古代史の会・東大阪」講演会 会場:東大阪市 布施駅前市民プラザ(5F多目的ホール) 資料代500円
 04/10(土) 14:00~16:30 「九州王朝とは ―邪馬台国論争が生じた理由」 講師:服部静尚さん
 05/08(土) 14:00~16:30 「天孫降臨と神武東征 ―邪馬台国論争が生じた理由」 講師:服部静尚さん

◆「和泉史談会」講演会 会場:和泉市コミュニティーセンター(中集会室)
 04/13(火) 14:00~16:00 「周王朝から邪馬壹国そして現代へ」 講師:正木 裕さん

◆「市民古代史の会・京都」講演会 会場:キャンパスプラザ京都 参加費500円
 04/20(火) 18:30~20:00 「聖徳太子と仏教」 講師:服部静尚さん