九州王朝(倭国)一覧

第2422話 2021/04/02

傷だらけの法隆寺釈迦三尊像(3)

 法隆寺釈迦三尊像の光背などが大きく傷んでいることを説明しましたが、この事実は法隆寺が私寺か国家的官寺かの論争にも関係しそうです。「洛中洛外日記」2265~2299話(2020/10/18~2020/11/19)〝新・法隆寺論争(1~8)〟で紹介しましたが、若井敏明さんは法隆寺は斑鳩の在地氏族による私寺とする説を発表しました(注①)。その概要と根拠は次のような点です。

〔概要〕
 法隆寺は奈良時代初期までは、国家(近畿天皇家)からなんら特別視されることのない地方の一寺院であり、その再建も斑鳩の地方氏族を主体として行われたと思われ、天平年間に至って「聖徳太子」信仰に関連する寺院として、特別待遇を受けるようになった。その「聖徳太子」信仰の担い手は宮廷の女性(光明皇后・阿部内親王・無漏王・他)であって、その背景には法華経信仰がみとめられる。

〔根拠〕
(1)『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』によれば、大化三年九月二一日に施入され、天武八年に停止されているが、いずれも当時の一般寺院に対する食封の施入とかわらない。これを見る限り、法隆寺は国家(近畿天皇家)から特別な待遇をうけてはいない。
(2)食封停止は、法隆寺の再建が国家(同上)の手で行われてなかった可能性が強いことを示している。
(3)『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』によれば、奈良時代初期までの法隆寺に対する国家(近畿天皇家)の施入には、持統七年、同八年、養老三年、同六年、天平元年が知られるが、これらは特別に法隆寺を対象としたものではなく、『日本書紀』『続日本紀』に記されている広く行われた国家的儀礼の一環に過ぎない。
(4)『日本書紀』が法隆寺から史料を採用していないことも、同書が編纂された天武朝から奈良時代初期にかけて法隆寺が国家(同上)から特別視されていなかった傍証となる。特に、「聖徳太子」の亡くなった年次について、法隆寺釈迦三尊像光背銘にみえる(推古三十年・622年)二月二二日が採られていないことは、「聖徳太子」との関係においても法隆寺は重要な位置を占めるものという認識がなされていなかったことを示唆する。

 以上のように若井さんは論じられ、法隆寺再建などを行った在地氏族として、山部氏や大原氏を挙げます。この若井説に対して、田中嗣人さんから厳しい批判がなされました。
 田中さんは、「法隆寺の建築技術の高さ、仏像・仏具その他の文物の質の高さ(一例をあげれば、金銅潅頂幡や伝橘夫人念持仏の光背などは当時の技術の最高水準のもので、埋蔵文化財など当時のものとの比較からでも充分に理解される)から言って、とうてい山部氏や大原氏などの在地豪族のみで法隆寺の再興がなされたものとは思わない。」(注②)とされました。
 本シリーズで説明したように、釈迦三尊像の光背の飛天は失われ、その上部は折れ曲がっています。もし法隆寺が国家的な官寺であれば飛天の修復くらいはできたはずです。それがなされず、脇侍の左右入れ替えで済まされているという現状は、若井さんの私寺説に有利です。
 他方、田中さんが官寺説の根拠とした「法隆寺の建築技術の高さ、仏像・仏具その他の文物の質の高さ」という事実は、九州王朝による官寺とその国家的文物が大和朝廷以前に存在し、それらが移築後(王朝交替後の八世紀初頭)の法隆寺に持ち込まれたとする多元史観・九州王朝説を支持するものに他なりません。今、斑鳩にある法隆寺と釈迦三尊像こそ、九州王朝の実在を証言する歴史遺産なのです。

(注)
①若井敏明「法隆寺と古代寺院政策」『続日本紀研究』288号、1994年。
②田中嗣人「鵤大寺考」『日本書紀研究』21冊、塙書房、1997年。


第2421話 2021/04/01

傷だらけの法隆寺釈迦三尊像(2)

 法隆寺金堂の釈迦三尊像が傷んでいることを古田先生からうかがっていましたが、脇侍が左右反対に置かれていることも不思議でした。更に光背も大きく傷んでおり、本来その外縁にあった飛天(注①)が失われていたことを最近になって知りました。
 ブログ「観仏日々帖」(注②)によれば、同光背周縁に長方形(幅約8mm、縦約25mm)の枘(ほぞ)穴が左右に各々13個ずつ穿たれており、本来は飛天が装飾されていたと考えられています(注③)。その根拠として、国立東京博物館の「法隆寺献納宝物の甲寅銘光背」をみると、周縁左右に各7個の飛天が取り付けられており、中国、竜門石窟の北魏式仏像の光背も、周縁を飛天で囲まれたものが一般的であることを指摘されています。そして、光背の飛天復原が東京芸術大学で行われたことを紹介され、その写真も掲示されています。

《以下、「観仏日々帖」より転載》
【復元制作された光背周縁の飛天~東京藝術大学の「クローン文化財」制作プロジェクト】
 2017年。周縁の飛天を再現した、大光背の復元制作が行われました。東京藝術大学が取り組んでいる文化財の超精密複製、通称「クローン文化財」制作プロジェクトによって、法隆寺釈迦三尊像のクローン文化財が制作されたのです。その制作にあたって、大光背周縁の飛天も、甲寅銘光背などを参考にして、復元制作されたのでした。
 このクローン文化財・釈迦三尊像復元像は、2017年秋に東京藝術大学美術館で開催された、シルクロード特別企画展「素心伝心~クローン文化財 失われた刻の再生」(各地を巡回)などで展示されましたので、ご記憶のある方も多いのではないかと思います。
《転載おわり》

 この飛天が復原され、脇侍が本来の位置に戻された〝クローン釈迦三尊像〟の写真を見て、脇侍が左右逆に配置された理由がようやくわかりました。それは光背と三尊像の左右幅バランスの問題だったのです。すなわち、飛天が復原された光背は一回りも二回りも大きくなり、その大きな本来の光背であれば、脇侍裳裾の長い方が外側になる本来の配置により、左右の幅が大きな光背にバランス良く収まります。ところが、飛天が失われた現状の光背では、脇侍の裳裾が左右に大きくはみ出し、見るからにバランスが良くないのです。そこで、短い裳裾が外側になるよう、左右逆に脇侍を配置すれば、飛天がない現状の光背の幅に脇侍の裳裾が収まるのです。
 従来、脇侍が左右逆に置かれた理由を、九州王朝の仏像を奪い、法隆寺金堂に納めた大和朝廷側の人々が、本来の正しい脇侍の配置を知らなかったためと、わたしは理解してきました。しかし、それは誤解でした。移築された法隆寺金堂に、飛天を失った光背と釈迦三尊像を置いたとき、その美的なバランスの悪さを取り繕うために、脇侍を左右逆に配するというアイデアを採用したのではないでしょうか。これは、移築・移転に携わった技術者たちの優れた美的センスのなせる技だったのです。
 なお、この飛天が失われた光背や、二体の脇侍の金箔剥落の大きな差異は、これら仏像の保管状態がかなり劣悪だったことを推測させます。光背に至っては、上部が手前に折れ曲がっており、大きな力が加わったことを示しています。この状況は同釈迦三尊像の元々置かれていた場所が、遠く離れた九州王朝の都太宰府付近だったのか、あるいは比較的近距離にある難波複都だったのかという未解決のテーマに対し、何らかのヒントになるかもしれません。よく考えてみたいと思います。

(注)
①仏教で諸仏の周囲を飛行遊泳し、礼賛する天人で、仏像の周囲(側壁や天蓋)に描写されることが多い。〈ウィキペディアによる〉
②https://kanagawabunkaken.blog.fc2.com/blog-entry-204.html
③平子鐸嶺「法隆寺金堂本尊釈迦佛三尊光背の周囲にはもと飛天ありしというの説」『考古界』6-9号、1907年(後に『仏教芸術の研究』所収)。


第2420話 2021/03/24

傷だらけの法隆寺釈迦三尊像(1)

 過日、水野孝夫さん(古田史学の会・顧問、前代表)のお宅にうかがい、多くの書籍をいただきました。その中に『国宝法隆寺金堂展』(朝日新聞社、平成20年)がありました。同書は平成20年6~7月に奈良国立博物館で開催された「国宝法隆寺金堂展」の図録で、多くのカラー写真を含む豪華本です。
 法隆寺金堂内の仏像などを対象とした図録ですから、釈迦三尊像や薬師如来像などのカラー写真があり、その状態が比較的よくわかります。ある意味では、法隆寺の暗い金堂内で離れた位置から見るよりも、仏像の細部がよくわかります。そこで思い起こしたのが、あるとき少人数での会話で、古田先生がこの釈迦三尊像について、「写真で見るときれいですが、実物は結構傷んでいます」と仰っていたことです。
 図録の写真には、釈迦像のお顔を左右両面から撮影したものもあり、表面の金箔が剥がれ落ちている状況などがはっきりとわかります。更に、二体の脇侍(注①)ですが、向かって左側のものは表面の金箔が全体に残っていますが、右側の方はほとんど残っていないように見えます。これも不思議な現象です。同時期に造られたのであれば、同じような経年劣化をするはずですが、表面の金箔に関しては全く異質です。また、この脇侍は左右が逆に配置されていることも知られており、これもおかしなことです。
 古田学派では法隆寺の金堂・五重塔などは、六世紀末頃に建立された別寺院が移築されたものと考えられており、釈迦三尊像は九州王朝の天子、阿毎多利思北孤のために造られたもので、これも移築時に持ち込まれたとされています。移築元寺院がどこにあったのかについては、当初、太宰府観世音寺が八世紀初頭に移築されたとする説(注②)が発表されましたが、それについて賛否両論が出され(注③)、移築元寺院がどこにあったのかは未だ特定できていません。
 脇侍が左右逆に配置されていることも、九州王朝の寺院から移築時に持ち込まれたとき、本来の配置を知らなかったた大和朝廷側が誤ったものと考えられてきました。しかし、脇侍の衣の裾は左右で長さが異なっており、長く伸びている方が釈迦像の左右の外側になるのが本来の配置であり、現状は長く伸びた裾が両脇侍とも釈迦像の台座に隠れてしまっています。
 寺院を移築できるほどの技術者集団の誰一人として、これだけ明瞭な差異を持つ脇侍の配置を間違うとは考えにくいのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①釈迦の脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩とされている。
②米田良三『法隆寺は移築された ─太宰府から斑鳩へ』1991年、新泉社刊。
③大越邦生「法隆寺は観世音寺からの移築か(その一)(その二)」『多元』43・44号、2001年6月・8月。
 川端俊一郎「法隆寺のものさし─南朝尺の「材と分」による造営そして移築」『北海道学園大学論集』第108号、2001年6月。
 飯田満麿「法隆寺移築論争の考察─古代建築技術からの視点─」『古田史学会報』46号、2001年10月。
 古賀達也「法隆寺移築論の史料批判 ─観世音寺移築説の限界─」『古田史学会報』49号、2002年4月。
 古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年6月。


第2416話 2021/03/21

九州王朝官道「西海道」の終着地

 昨日の関西例会では多くの学問的収穫や気づきがありました。たとえば、九州王朝官道「西海道」の終着地(目的地)について、これまでの研究では「百済国」と考えるのが最も妥当と判断していましたが、その根拠は地理的判断とこうやの宮(福岡県みやま市)の御神像が七支刀を持っていることなどでした(注①)。
 ところが、昨日の服部静尚さんの発表レジュメ「乱れる斉明紀、普通の皇極紀」に斉明紀の概要が列挙されており、その斉明三年是歳条(657年)に「西海使が百済より還り駱駝などを献上した。」との記事がありました。『日本書紀』本文を確認すると次の通りです。

 「西海使小花下阿曇連頰垂・小山下津臣傴僂(くつま)、〔傴僂、此をば倶豆磨と云ふ。〕百済より還りて、駱駝一箇・僂驢(うさぎうま)二箇獻(たてまつ)る。」『日本書紀』斉明三年是歳条

 西海使が百済から帰還したということですから、西海使の目的地は百済国と解さざるを得ません。これは九州王朝時代の記事ですから、九州王朝官道「西海道」の終着地が百済国ということを示しています。ですから、この記事はわたしの仮説(注②)の史料根拠とできそうです。
 なお、『日本書紀』の「西海使」記事は次の通りで、前期難波宮完成後から散見され、「西海使」が唐の天子に「奉対」したという記事もあり、「西海道」終着点の延長線上に「唐国」を加えてよいかもしれません。もちろん、中国大陸上陸後は他国の中の陸路ですから、その部分は「西海道」とは言えません。

【『日本書紀』「西海使」記事】※〔 〕内は細注。
○白雉五年(654年)七月条 「西海使吉士長丹等、百済・新羅の送使と共に、筑紫に泊れり。」
○白雉五年(654年)七月是月条 「西海使等が、唐国の天子に奉對(まうむか)ひて、多(さわ)に文書・寶物得たるを褒美(ほ)めて、小山上大使吉士長丹に授くるに、小花下を以てす。封賜ふこと二百戸。姓を賜ひて呉氏とす。小乙上副使騎士駒に授くるに、小山上を以てす。」
○斉明二年(656年)是歳条 「西海使佐伯連栲繩、〔位階級を闕(もら)せり。〕小山下難波吉士國勝等、百済より還りて、鸚鵡一隻獻(たてまつ)れり。」
○斉明三年(659年)是歳条 「西海使小花下阿曇連頰垂・小山下津臣傴僂(くつま)、〔傴僂、此をば倶豆磨と云ふ。〕百済より還りて、駱駝一箇・僂驢(うさぎうま)二箇獻(たてまつ)る。」
○斉明四年(658年)是歳条 「西海使小花下阿曇連頰垂、百済より還りて言(まう)さく。『百済、新羅を伐ちて還る、時に、馬自づからに寺の金堂に行道(めぐ)る。晝夜息(や)むこと勿(な)し。唯(ただ)し草食(は)む時にのみ止(や)む。』とまうす。〔或本に云はく、庚申の年(660年)に至りて、敵の爲に滅ぼさるる應(きざし)なりといふ。〕」

(注)
①詳細は次の拙稿を参照されたい。
 古賀達也「九州王朝官道の終着点―山道と海道の論理―」『古代に真実を求めて』24集(古田史学の会編、明石書店、2021年)
 「洛中洛外日記」~2014話(2019/10/06-13)〝九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(1)~(9)〟
②上記拙論では、九州王朝官道の終着点を次のように結論づけた。
【九州王朝(倭国)の七道】(案)
○「東山道」「東海道」→「蝦夷国」(多賀城を中心とする東北地方)
○「北陸道」「北海道」→「粛慎国」(ロシア沿海州と北部日本海域)
○「西海道」→「百済国」(朝鮮半島の西南領域)
○「南海道」→「流求國」(沖縄やトカラ列島・台湾を含めた領域)
○「大海道」(仮称)→「裸国」「黒歯国」(ペルー、エクアドル)


第2415話 2021/03/20

関西例会、リモート司会が定着

 本日、福島区民センターにて「古田史学の会」関西例会が開催されました。次回はドーンセンター(参加費1,000円)で開催します。
 今回もZoomシステムによるハイブリット型(会場参加+リモート参加)例会のテストを実施しました。会場ごとにWi-Fi環境が異なりますので、久冨直子さん(『古代に真実を求めて』編集部)が機材や設定の調整をされています。システム的にはほぼ完成の域に近づいてきました。
 司会担当の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)は今回もリモートで司会をされました。当人はいないのに会場には西村さんの声が響き渡るという不思議な光景ではありました。今月は冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)と別役政光さん(古田史学の会・会員、高知市)がリモートテスト参加されました。今後、更に遠隔地の会員にご協力いただく予定です。
 今回は久しぶりにわたしも発表させていただきました。近畿天皇家はいつから「天皇」を名乗ったのかというテーマで、七世紀初頭からナンバーツーとして「天皇」を称していたとする古田旧説と、文武から始めて「天皇」を称したとする古田新説に関して、古田旧説が妥当とする根拠として、金石文や木簡について説明しました。
 古田新説を支持される服部さんとの論争を中心に、30分の発表の後、40分ほどの質疑応答が続きました。合意には至りませんでしたが、服部さんの見解やその前提となる歴史認識については理解が進みました。また、七世紀の第4四半期頃(「天武」期)からは大和飛鳥がある時期まで政治的中心地であり、権力者がいたとすることについてはほぼ合意できたように思われました。その〝権力主体〟が誰(何)であったのかについては見解が分かれましたので、次の機会まで更に研究を深めたいと思います。
 正木さんからは、七世紀における九州王朝の歴代天子の系列(多利思北孤→利歌彌多弗利→伊勢王=中皇命)についての解説がなされました。よく整理された発表であり、「九州王朝通史」刊行に向けての準備とも言える内容でした。その中で紹介された、利歌彌多弗利から善光寺如来への書簡と考えられてきた「命長七年文書」について、利歌彌多弗利の妻(勝鬘)から善光寺如来への「願文」ではないかというアイデアが浮かび、ご披露しましたが、帰宅後、念のため確認したところ、このアイデアには阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)による先行説がありましたので取り下げます。失礼いたしました。
 なお、発表者はレジュメを30部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔3月度関西例会の内容〕
①刷り込まれる歴史観 ―一元論と一国文化自生論の要因― (大山崎町・大原重雄)
②『蘇我王国論』批判(2) (茨木市・満田正賢)
③「捕鳥部萬」は「穴穂部皇子」である (たつの市・日野智貴)
④関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』の紹介 (川西市・正木 裕)
⑤七世紀「天皇」金石文と『日本書紀』の対応 (京都市・古賀達也)
⑥何故「俀国」なのか (京都市・岡下英男)
⑦乱れる斉明紀、普通の皇極紀 (八尾市・服部静尚)
⑧九州王朝の天子の系列 多利思北孤・利歌彌多弗利から、唐と礼を争った王子・伊勢王へ (川西市・正木 裕)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費1,000円(「三密」回避に大部屋使用の場合)
04/17(土) 10:00~17:00 会場:ドーンセンター

《関西各講演会・研究会のご案内》
◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 「古代大和史研究会」特別講演会のご案内
◇日時 2021/04/24(土) 13:00~17:00
◇会場 奈良新聞本社西館3階
◇参加費 500円
◇テーマ 卑弥呼と邪馬壹国『「邪馬台国」はなかった』出版50周年記念講演会
◇講師・演題(予定)
 古賀達也(古田史学の会・代表) 九州王朝官道の終着点 ―筑紫の都(7世紀)から奈良の都(8世紀)へ―
 大原重雄(『古代に真実を求めて』編集部) メガーズ説と縄文土器
 満田正賢(古田史学の会・会員) 欽明紀の真実
 服部静尚(『古代に真実を求めて』編集長) 日本書紀の述作者は中国人ではなかった
 正木 裕(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師) 多賀城碑の解釈~蝦夷は間宮海峡を知っていた

 04/27(火) 10:00~12:00 会場:奈良県立図書情報館 交流ホールBC室
 「伊勢王」 講師:正木 裕さん(大阪府立大学講師)

◆誰も知らなかった古代史の会 会場:福島区民センター 参加費500円
 05/21(金) 18:30~20:00 「『神武』は鳴門海峡を渡った ―『神武東征説話』の再検討」 講師:正木 裕さん

◆「市民古代史の会・東大阪」講演会 会場:東大阪市 布施駅前市民プラザ(5F多目的ホール) 資料代500円
 04/10(土) 14:00~16:30 「九州王朝とは ―邪馬台国論争が生じた理由」 講師:服部静尚さん
 05/08(土) 14:00~16:30 「天孫降臨と神武東征 ―邪馬台国論争が生じた理由」 講師:服部静尚さん

◆「和泉史談会」講演会 会場:和泉市コミュニティーセンター(中集会室)
 04/13(火) 14:00~16:00 「周王朝から邪馬壹国そして現代へ」 講師:正木 裕さん

◆「市民古代史の会・京都」講演会 会場:キャンパスプラザ京都 参加費500円
 04/20(火) 18:30~20:00 「聖徳太子と仏教」 講師:服部静尚さん


第2414話 2021/03/19

王朝と官道名称の交替(4)

 『日本書紀』天武十四年(685年)九月条の次の記事は重要な問題を秘めています。

 「戊午(十五日)に、直廣肆都努朝臣牛飼を東海使者とす。直廣肆石川朝臣蟲名を東山使者とす。直廣肆佐味朝臣少麻呂を山陽使者とす。直廣肆巨勢朝臣粟持を山陰使者とす。直廣參路眞人迹見を南海使者とす。直廣肆佐伯宿禰廣足を筑紫使者とす。各判官一人・史一人、國司・郡司及び百姓の消息を巡察(み)しめたまふ。」『日本書紀』天武十四年九月条

 使者(巡察使)が派遣された「東海」「東山」「山陽」「山陰」「南海」「筑紫」が、天武の宮殿(飛鳥宮)がある大和を起点にした名称であることは、前話で説明したとおりです。ところが「筑紫」だけは官道名ではなく、もともとあった地名であり、他とは異なっています。『続日本紀』では九州島は「西海道」と命名されているのですが、『日本書紀』には「西海道」という名称は見えません。その理由は次のようなものと思います。

(1)天武十四年(685年)は九州年号の朱雀二年にあたり、九州年号が継続していることから、九州王朝(倭国)は存在している。
(2)従って、倭国の直轄支配領域ともいえる筑紫(九州島)を「西海道」などと呼ぶことは、大義名分上から憚られた。
(3)そのため古くからある「筑紫」を採用し、巡察使を派遣した。

 また、「山陽」「山陰」という方角が付かない名称を採用したのも同様の理由からです。新たに列島の実力者となった天武ら近畿天皇家にとって、九州王朝官道の「東山道」「東海道」の前半部分が、大和よりも西に位置するため、「東」を冠した名称を使用したくなかったのです。そこで、新たに「山陽」「山陰」を制定したものと推察しています。
 「山陽道」「山陰道」は大和の西側にありますから、本来なら「西山道」「西海道」などの名称を天武らは採用したかったのかもしれません。しかし、大義名分上ではまだ列島内ナンバーワンである九州王朝(倭国)に対して憚ったのではないでしょうか。その点、「山陽道」「山陰道」であれば、「都」の位置に対する方角表記ではありませんから、双方が妥協できたものと思われます。いわば両者(新旧両王朝)にとっての〝苦肉の命名〟だったわけです。このように捉えたとき、「七道」の中に「山陽道」「山陰道」という、東西南北が付かない官道名が生まれた理由を説明できるのです。
 ちなみに、「山陽」「山陰」という名称は、『日本書紀』天武十四年条のこの記事が初見で、それぞれ一回限りの登場です。巡察使の存在もこの記事が初見です。すなわち、天武ら近畿天皇家にとっては初めての国内視察団派遣だったと思われます。なお、「西海道」は『続日本紀』の大宝元年(701年)八月条の次の記事が初見です。

 「戊申(8日)、明法博士を六道〔西海道を除く。〕に遣わし、新令を講(と)かしむ。」『続日本紀』大宝元年八月条 ※〔〕内は細注。

 この年、王朝交替が実現し、大和朝廷は最初の年号「大宝」を建元していますが、これは西海道以外の六道に『大宝律令』講義のために明法博士を派遣したという記事です。なぜ、西海道(筑紫)が対象から除かれたのかは通説では説明できませんが、多元史観・九州王朝説であれば、〝誕生したばかりの新王朝にとって、旧王朝の影響力が色濃く残っていた筑紫諸国に派遣することを憚った〟と説明することが可能です。そして、この二年後には七道全てに大和朝廷は巡察使を派遣します。

 「甲子(2日)、正六位下藤原朝臣房前を東海道に遣わす。従六位上丹治比真人三宅麻呂を東山道。従七位上高向朝臣大足を北陸道。従七位下波多真人余射を山陰道。正八位上穂積朝臣老を山陽道。従七位上小野朝臣馬養を南海道。正七位上大伴宿禰大沼田を西海道。道別に録事一人。政績を巡り省(み)て、冤枉(えんおう)を申し理(ことわ)らしむ。」『続日本紀』大宝三年(703年)正月条

 大宝三年(703年)に至り、大和朝廷は前王朝の故地(筑紫)を「西海道」と公に呼んだのではないでしょうか。すなわち、これからの「筑紫」は日本国の中心ではなく、大和朝廷の地方領域「七道」の一つとして、文武天皇は「西海道」へも巡察使を派遣したのです。


第2413話 2021/03/19

王朝と官道名称の交替(3)

 九州王朝官道が再編され、名称変更がなされるとすれば、そのタイミングは二回あったように思われます。一つは、九州王朝が難波に複都(前期難波宮)を置いたとき。もう一つは、大和朝廷へと王朝交替(701年、九州年号から大宝元年へ「建元」)したときです。

 前者の場合は同一王朝内での複都造営時(652年、九州年号の白雉元年「改元」)ですから、必ずしも官道名称の変更が必要なわけではありません。しかも、首都の太宰府はその後も継続したと思われますから。
後者は王朝交替に伴う首都の移動ですから、この時点では官道名称変更が大義名分の上からも必要となります。なぜなら、大和朝廷の「七道」のうち「山陽道」「山陰道」は九州王朝官道の「東山道」「北陸道」の前半部分に当たりますから、大和に都(藤原京)を置いた大和朝廷としては、都から南西へ向かう道が「東山道」「北陸道」では不都合なわけです。そのため、「東山道」「北陸道」を分割再編し、大和より西は「山陽道」「山陰道」、東はそれまで通り「東山道」「北陸道」としたのです。また、九州王朝官道の「東海道」も、その前半は大和よりも西の四国地方(海路)を通りますから、これも「南海道」に変更されました。
そこでこうした官道再編や名称変更の痕跡が『日本書紀』や『続日本紀』などに遺されてはいないか、その視点で史料調査したところ、『日本書紀』天武十四年(685)九月条に、次の記事がありました。

「戊午(十五日)に、直廣肆都努朝臣牛飼を東海使者とす。直廣肆石川朝臣蟲名を東山使者とす。直廣肆佐味朝臣少麻呂を山陽使者とす。直廣肆巨勢朝臣粟持を山陰使者とす。直廣參路眞人迹見を南海使者とす。直廣肆佐伯宿禰廣足を筑紫使者とす。各判官一人・史一人、國司・郡司及び百姓の消息を巡察(み)しめたまふ。」『日本書紀』天武十四年九月条

 この記事に見える、使者(巡察使)が派遣された「東海」「東山」「山陽」「山陰」「南海」「筑紫」は、「七道」から「北陸道」をなぜか除いた各地域のことで、これらは天武の宮殿(飛鳥宮)がある「大和国」(注①)に起点を置いたことを前提とする名称です。この記事が事実であれば、天武十四年(685年)時点では既に九州王朝官道の再編と名称変更が行われていたことになります。これは701年の王朝交替の16年前、持統の藤原宮(京)遷都の9年前のことです。従って、この記事の信憑性が問われるのですが、従来のわたしの研究や知識レベルでは判断できませんでした。しかし、今は違います。この10年での飛鳥・藤原木簡の研究成果があるからです。

 飛鳥遺跡からは九州諸国と陸奥国を除く各地から産物が献上されたことを示す評制下(七世紀後半)荷札木簡が出土しています。「洛中洛外日記」2394話(2021/02/27)〝飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の国々〟で次の出土状況を紹介したところです(注②)。

【飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡】
国 名 飛鳥宮 藤原宮(京) 小計
山城国   1   1   2
大和国   0   1   1
河内国   0   4   4
摂津国   0   1   1
伊賀国   1   0   1
伊勢国   7   1   8
志摩国   1   1   2
尾張国   9   7  17
参河国  20   3  23
遠江国   1   2   3
駿河国   1   2   3
伊豆国   2   0   2
武蔵国   3   2   5
安房国   0   1   1
下総国   0   1   1
近江国   8   1   9
美濃国  18   4  22
信濃国   0   1   1
上野国   2   3   5
下野国   1   2   3
若狭国   5  18  23
越前国   2   0   2
越中国   2   0   2
丹波国   5   2   7
丹後国   3   8  11
但馬国   0   2   2
因幡国   1   0   1
伯耆国   0   1   1
出雲国   0   4   4
隠岐国  11  21  32
播磨国   6   6  12
備前国   0   2   2
備中国   7   6  13
備後国   2   0   2
周防国   0   2   2
紀伊国   1   0   1
阿波国   1   2   3
讃岐国   2   1   3
伊予国   6   2   8
土佐国   1   0   1
不 明  98   7 105
合 計 224 126 350

 七世紀当時、他地域からは類例を見ない大量の荷札木簡が飛鳥から出土しており、当地に列島を代表する権力者(実力者)がいたことを疑えません(注③)。従って、各地へ巡察使を派遣したという天武十四年条記事の史実としての信憑性は高くなります。同時代史料の木簡、しかも大量出土による実証力は否定(拒否)し難いのです。(つづく)

(注)
①藤原宮北辺地区から出土した「倭国所布評大野里」木簡によれば、七世紀末当時の「大和国」の表記は「倭国」である。このことを「洛中洛外日記」447話(2012/07/22)〝藤原宮出土「倭国所布評」木簡〟などで紹介した。
②市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)所収「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」による。
③飛鳥池遺跡北地区からは「天皇」(木簡番号224)「○○皇子」(木簡番号64、同92、他)木簡の他に「詔」木簡(木簡番号63、同669)も出土しており、最高権力者が当地から詔勅を発していたことを示している。


第2412話 2021/03/18

王朝と官道名称の交替(2)

 九州王朝官道(注①)の名称は都がある太宰府を起点に、東西南北と陸路・海路別に命名したと思われます。恐らく、それは単なる道路・航路ではなく、軍事目的を有した〝水陸方面軍〟をも意味したものです。そして、その方面軍のリーダーが「都督」と呼ばれていた痕跡が『日本書紀』に見えることを山田春廣さんが指摘され(注②)、九州王朝官道の研究が一気に進展しました。それは『日本書紀』景行紀の〝彦狹嶋王、東山道都督拝命〟記事です。

 五十五年春二月戊子朔壬辰、以彦狹嶋王、拜東山道十五國都督。是豐城命之孫也。然到春日穴咋邑。臥病而薨之。是時。東國百姓悲其王不至。竊盗王尸葬於上野国。(『日本書紀』景行五五年二月条)

 この記事にある「東山道十五國」の国数が、大和から下野国まででは七国なので数があわず、九州王朝の都があった筑前からであればちょうど十五国に一致することを発見され、この「東山道」とは筑前国から下野国にいたる九州王朝官道のことであるとされたのです。そして、筑前国を起点とした他の九州王朝官道(東海道、北陸道)の推定も試みられました。
 ところが、701年の九州王朝から大和朝廷への王朝交替により、起点となる都が筑前(太宰府)から大和(藤原京)に移動します。その爲、新王朝は自らの都を中心とした官道名へと変更することになります。その結果が「五畿七道」と呼ばれる七つの官道(東海道、東山道、北陸道、南海道、山陽道、山陰道、西海道)への再編です。
 しかし、九州王朝時代の官道名とは性格が微妙に異なっています。その最たるものが「西海道」です。これは「交通路」というよりも九州島という領域名称の性格が強くなっており、しかも起点の大和から九州島まで通じるルートは「西海道」ではなく、「山陽道」か「山陰道」になってしまいます。しかも、この「山陽道」と「山陰道」には「東西南北」という方角が付きません。言わば一貫性のない官道名称になってしまっているのです。更に言えば、「東海道」「西海道」「南海道」があるのに、「北海道」だけがないことも何か変で、このことが西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から指摘されてきました(注③)。
 こうした、一貫性のない「七道」になった理由について、従来の一元史観では説明できません。すなわち、王朝交替(官道起点たる都の移動)により、それまでの九州王朝官道を再編し、名称変更したことで発生したとする、多元史観を前提とした説明が最も合理的なのです。(つづく)

(注)
①九州王朝官道と大和朝廷「七道」の対比は次のようなものと考えている。
【九州王朝】→【大和朝廷】
 「東山道」 → 「山陽道」「東山道」
 「東海道」 → 「南海道」「東海道」
 「北陸道」 → 「山陰道」「北陸道」
 「北海道」 → なし
 「西海道」 → なし
 (九州島) → 「西海道」
 「南海道」 → なし
②山田春廣「『東山道十五國』の比定 ―西村論文『五畿七道の謎』の例証―」『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』古田史学の会編、明石書店、2018年。初出『古田史学会報』139号、2017年4月。
 山田春廣「東山道都督は軍事機関」『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』古田史学の会編、明石書店、2018年。
③西村秀己「五畿七道の謎」『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』古田史学の会編、明石書店、2018年。初出『古田史学会報』131号、2015年12月。


第2411話 2021/03/17

王朝と官道名称の交替(1)

 4月24日(土)に奈良新聞社本社で〝卑弥呼と邪馬壹国『「邪馬台国」はなかった』出版50周年記念講演会〟が「古代大和史研究会(原幸子代表)」主催で開催されます(注①)。わたしも「九州王朝官道の終着点 ―筑紫の都(7世紀)から奈良の都(8世紀)へ―」というテーマで講演させていただくことになりました。そのこともあって、九州王朝官道について残されている問題について、この数日間、考え続けてきました。それは、後に大和朝廷から「五畿七道」と称される九州王朝古代官道の名称変更がいつなされたのかという問題です。
 西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)と山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)の研究(注②)によれば、九州王朝官道が大和朝廷の「七道」へ再編されるにあたり、おおよそ次のような変更がなされています(注③)。

【九州王朝】→【大和朝廷】
 「東山道」 → 「山陽道」「東山道」
 「東海道」 → 「南海道」「東海道」
 「北陸道」 → 「山陰道」「北陸道」
 「北海道」 → なし
 「南海道」 → なし
 「西海道」 → なし
 (九州島) → 「西海道」

 この変更は、各官道の起点となる「都」が、九州王朝から大和朝廷への王朝交替により、太宰府から大和へ移動したため、それにあわせて官道や名称が付け替えられたことによります。
 ところが、その官道名の変更がいつ頃行われたのかが、はっきりしませんでした。今までは、王朝交替した701年頃か、前期難波宮を複都とした650年頃ではないかと、漠然ととらえていました。しかし、近年進めてきた飛鳥・藤原木簡の研究により、七世紀後半から末頃にかけての天武の時代ではないかと考えるようになりました。(つづく)

(注)
①「古代大和史研究会」特別講演会の詳細は次の通り。
◇日時 2021/04/24(土) 13:00~17:00
◇会場 奈良新聞本社西館3階
◇参加費 500円
◇テーマ 卑弥呼と邪馬壹国『「邪馬台国」はなかった』出版50周年記念講演会
◇講師・演題(予定)
 古賀達也(古田史学の会・代表) 九州王朝官道の終着点 ―筑紫の都(7世紀)から奈良の都(8世紀)へ―
 大原重雄(『古代に真実を求めて』編集部) メガーズ説と縄文土器
 満田正賢(古田史学の会・会員) 欽明紀の真実
 服部静尚(『古代に真実を求めて』編集長) 日本書紀の述作者は中国人ではなかった
 正木 裕(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師) 多賀城碑の解釈~蝦夷は間宮海峡を知っていた
②西村秀己「五畿七道の謎」『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』古田史学の会編、明石書店、2018年。初出『古田史学会報』131号、2015年12月。
 山田春廣「『東山道十五國』の比定 ―西村論文『五畿七道の謎』の例証―」『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』古田史学の会編、明石書店、2018年。初出『古田史学会報』139号、2017年4月。
③九州王朝官道の「北海道」「南海道」「西海道」については、『卑弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集、古田史学の会編、明石書店、2021年)掲載の拙稿「九州王朝官道の終着点 ―山道と海道の論理」を参照されたい。


第2409話 2021/03/14

拡張する飛鳥宮「エビノコ郭」遺跡

 わたしは10年ほど前から木簡研究に本格的に取り組み始め、古田学派の研究者にもその重要性を訴えてきました(注①)。それと併行して、飛鳥宮跡にも注目してきました。
 当時は「伝板蓋宮跡」(注②)と呼ばれていた近畿天皇家の宮殿内郭の規模が、大宰府政庁Ⅱ期の朝堂遺跡より大きいことも気になっていました。七世紀中頃に造営された最大規模の前期難波宮については、それを九州王朝の複都とすることで納得しえたのですが、近畿天皇家の宮殿であることが確かな飛鳥宮跡が大宰府政庁跡よりも大きいことについて(注③)、九州王朝説の立場からどのように考えればよいのかが課題として残っていました。
 そうした疑問に拍車をかけたのがエビノコ郭の発見と同遺構の〝拡張〟でした。エビノコ郭発見の経緯は次のようです。

1977年 エビノコ大殿(東西9間29.2m、南北5間15.3m)検出
1989年 エビノコ大殿の南面掘立柱塀の検出
1990年 エビノコ大殿の南方でⅠ期とⅡ期の掘立柱建物を確認
  ※奈良県HP掲載「飛鳥宮跡 発掘調査概要」による。

 このエビノコ大殿を囲む塀と西門が検出され、「エビノコ郭」「正殿」とも呼ばれるようになり、同遺跡は天武の大極殿とする見解が通説となりました。古田先生はその規模などから、エビノコ郭を大極殿とすることに反対されました。ところがその後、エビノコ郭の南側から建物跡の検出が続き、その配列が朝堂院の様相を見せてきたのです。当初は東西の2棟が検出(推定)され、現時点では4棟の存在が推定されています。エビノコ郭の造営は670年以降からとされているようですが、その目的や形式は不思議なことだらけです。それは次の点です。

(1)正殿は塀で囲まれており、その西側にしか門跡が発見されていない。「天子南面」であれば、塀の南側に門が必要。正殿には南側に門があり、対応していない。
(2)その塀の平面図は四角形ではなく、台形である。天武期以前に造営された前期難波宮や近江大津宮は四角形である。
(3)門がない南側の塀の外に朝堂様式の建物が並んでいる。
(4)680年代には藤原宮(京)の造営が開始されており、同時期にエビノコ郭造営の必要性があるのか疑問。

 以上の状況から、わたしは次のように推定しています。壬申の乱に勝利し、実力的にナンバーワンとなった天武ら近畿天皇家は、自らの王宮(飛鳥宮跡)の隣に、ナンバーワンにふさわしい「大極殿」「朝堂院」の造営を計画し、建設を開始した。しかし、全国統治に必要な宮殿や官衙の造営は飛鳥の狭い領域では不可能と判断し、その北方で藤原宮(京)の造営を開始し、「エビノコ郭」とその「朝堂」の建設を中止したのではないかと。
 あるいは、天武はその実力を背景にして九州王朝(倭国)に圧力をかけ、近畿天皇家への王朝交替(恐らく禅譲に近い形式で)が可能と確信した時点で、飛鳥宮やエビノコ郭に見切りをつけて、日本列島内最大規模の藤原宮(京)造営を決断したのではないでしょうか。飛鳥や大和の有力豪族の地位に甘んじるのであれば、藤原宮(京)のような巨大宮殿と巨大条坊都市は不要ですから。
 なお、王朝交替した701年までは九州王朝が大義名分上の倭国の天子ですから、その時期に天子がどこにいたのかという問題があります。このことに関して、西村秀己さんは20年前から「藤原宮には九州王朝の天子がいた」とする見解を述べられていました(注④)。また、近年では、前期難波宮が焼失した後の一時期、飛鳥宮に九州王朝の天子がいたとする見解も示されていました(注⑤)。この見解が成立するためには越えなければならないハードルがあり、ただちに賛成はできませんが、拡張したエビノコ郭遺構との関係も含めて、可能性を秘めた作業仮説ではないでしょうか。

(注)
①「洛中洛外日記」488話(2012/10/28)〝多元的木簡研究のすすめ〟、同505話(2012/12/15)〝「多元的木簡研究会」のすすめ〟で木簡の共同研究を訴えた。
②「伝板蓋宮跡」の発掘調査が進んだ結果、Ⅲ期にわたる重層的宮殿遺構であることがわかり、それらを総称して「飛鳥宮跡」と呼ばれるようになった。
③ウィキペディア等によれば、両遺跡を取り囲む塀の規模は次の通りである。
 飛鳥宮最上層内郭 東西152-158m 南北197m
 同エビノコ郭   東西92-94mm  南北約55m
 大宰府政庁Ⅱ期  東西111.6m     南北188.4m
④「洛中洛外日記」196話(2007/11/16)〝「大化改新詔」50年移動の理由〟で紹介した。
⑤西村秀己「『天皇』『皇子』称号について」(『古田史学会報』162号、2012年2月)に、九州王朝は「ヤマト王家の本拠地『飛鳥』を接収して臨時の都にしたに相違ない。」とある。


第2404話 2021/03/09

『古事記』序文の「皇帝陛下」(1)

 近畿天皇家が「天皇」を称したのは文武からとする古田新説は、二〇〇九年頃から各会の会報や講演会・著書で断続的に発表され、その史料根拠や論理構造を体系的に著した論文として発表されることはありませんでした。他方、古田先生とわたしはこの問題について意見交換を続けていました。古田旧説(七世紀には近畿天皇家がナンバーツーとしての「天皇」を名乗っていた)の方が良いとわたしは考えていましたので、その史料根拠として飛鳥池出土「天皇」「皇子」木簡の存在を重視すべきと、「洛中洛外日記」444話(2012/07/20)〝飛鳥の「天皇」「皇子」木簡〟などで指摘してきました。
 そうしたところ、数年ほど前から西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)より、七世紀の中国(唐)において、「天子」は概念であり、称号としての最高位は「天皇」なので、当時の飛鳥木簡や金石文の「天皇」は九州王朝のトップの称号とする古田新説を支持する見解が聞かれるようになりました。そこで、そのことを論文として発表してもらい、それを読んだ上で反論したいと申し入れたところ、『古田史学会報』162号で「『天皇』『皇子』称号について」を発表されました。
 この西村論文の要点は〝近畿天皇家が天皇号を称していたのであれば、九州王朝は何と称していたのか〟という指摘です。このことについては、調査検討の上、『古田史学会報』にてお答えしたいと考えていますが、同類の問題が二〇〇七年頃に古田先生との話題に上ったことがありました。それは『古事記』序文に見える「皇帝」についてでした。
 『古事記』序文には、「伏して惟(おも)ふに、皇帝陛下、一を得て光宅し、三に通じて亭育したまふ。」で始まる一節があり、通説ではこの「皇帝陛下」を元明天皇とするのですが、これを唐の天子ではないかとするSさんの仮説について古賀はどう思うかと、短期間に三度にわたりたずねられたことがありました。ですから、古田先生としてはかなり評価されている仮説のようでした。(つづく)


第2393話 2021/02/27

「蝦夷国」を考究する(10)

 ―郡山遺跡(仙台市)、蝦夷国衙説―

 考古学の分野から蝦夷国を見たとき、多賀城とともに最も注目されるのが郡山遺跡(仙台市)です。旧名取郡域に相当する仙台市南部から出土した同遺跡は、七世紀中頃から八世紀初頭までの短期間存続したとみられ、古いⅠ期官衙と七世紀末に立て替えられたⅡ期官衙と寺院に分けられます。文献には見えないことから、その性格については名取柵・名取郡衙・陸奥国衙など諸説あるようです。
 Ⅰ期の遺構は官舎や倉庫とそれを囲む塀などからなっており、外郭は不明とのこと。その建物の向きは真北から30度ほど東偏しています。Ⅱ期官衙はほぼ正方形地割で南北正方位にあわせて立てられています。その南には寺院跡があり、官衙と寺院がセットになっているという、東北地方の柵の一般的傾向と同じです。しかし、外郭は直径30cmほどのクリ材の約6,000本の丸太を隙間無く一列に立て並べた塀で、地上7~8mの高さであったと推定されています(注①)。
 この郡山遺跡をわたしが注目した理由は次の点です。

(1)七世紀中頃から八世紀初頭の遺跡であり、九州王朝の時代に遡るものである。

(2)その時代での東北地方の他の柵よりも規模が大きく、蝦夷国を代表する官衙にふさわしい。

(3)それにもかかわらず、大和朝廷側の史書『日本書紀』や『続日本紀』に記されていない遺跡である。蝦夷国の存在を『日本書紀』『続日本紀』が隠していることに対応している。

(4)九州王朝から大和朝廷への王朝交代の直前にあたる七世紀末頃に、Ⅰ期官衙は正方位のⅡ期官衙に建て替えられ、高さ7~8mの頑強な丸太塀に囲まれている。すなわち、何らかの必要が発生し、防衛力を強化したと考えられる。このことは、八世紀に入ると蝦夷国が大和朝廷の東山道軍・東海道軍の侵攻(注②)を受けていることと無関係ではないように思われる。

(5)Ⅱ期官衙の南に寺院が併設されている。多量の瓦片や「学生寺」と書かれた木簡が当遺跡から出土している。出土した寺院様式は観世音寺式(注③)とされており、九州王朝との主従関係をうかがわせる。

 以上のような理由から、わたしは郡山遺跡は蝦夷国衙ではないかと考えています。なかでも、(5)で指摘した寺院様式が観世音寺式であることは示唆的です。というのも、貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(注④)によれば、古代における「鎮護国家の観世音寺式伽藍配置」の寺院が日本列島に12箇所発見されており、大宰・総領の支配地域や古代山城の分布と多くが重なっているとされています。九州王朝の都城である大宰府政庁・観世音寺と同様に、郡山遺跡も蝦夷国における「鎮護国家の伽藍配置」(注⑤)寺院を持つ国衙だったのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①高橋崇『蝦夷(えみし) 古代東北人の歴史』中公新書、1986年。
②多賀城碑には、神龜元年(724年)に「按察使兼鎭守將軍」の大野朝臣東人が多賀城(多賀柵)を置き、天平寶字六年(762年)には「東海東山節度使」「按察使兼鎭守將軍」の藤原朝獦が修造したとある。
③回廊内に金堂(西側)と五重塔(東側)が東西に並ぶ様式。
④貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(『日本考古学』30号、2010年。
⑤「鎮護国家の伽藍配置」について、次の拙稿があるので参照されたい。
古賀達也「洛中洛外日記」1178話(2016/05/01)〝観世音寺式寺院の意義に新説か〟
古賀達也「洛中洛外日記」1179話(2016/05/03)〝観世音寺の創建年と瓦の相対編年〟
古賀達也「洛中洛外日記」1182話(2016/05/05)〝「鎮護国家の伽藍配置」の明暗(1)〟
古賀達也「洛中洛外日記」1186話(2016/05/13)〝「鎮護国家の伽藍配置」の明暗(2)〟