九州王朝(倭国)一覧

第2290話 2020/11/11

アマビエ伝承とダルマさん

 今朝、テレビで縁起物のダルマさんのお店(神奈川県平塚市)が紹介されていました。ダルマさんの製造工程の説明があり、木型に和紙を貼り付けてハリボテを作るのですが、着色前の白いダルマさんの輪郭が例のアマビエによく似ており、もしかすると何か関係があるのではないかと思いました。そのときです。ダルマ人形の由来として、江戸時代に流行した天然痘を防ぐためにダルマさんが作られたと説明があったのです。ダルマさんはアマビエと同じ、流行病を防ぐためのものだったのです。もちろん、ダルマ人形の起源については諸説あるのですが、この説は知りませんでした。
 コロナ禍にあって注目された、流行病を防ぐという言い伝えを持つアマビエについて、九州王朝の「天彦(アマヒコ)」を淵源とする仮説を「洛中洛外日記」(注①)で発表したことがありますが、もしかするとダルマさんはこのアマビエの一つの進化形ではないでしょうか。ダルマさんとよく似たアマビエの絵も江戸時代以降のものが残っていることから、ダルマさんの発生時期と共通しています。
 わたしがアマビエを九州王朝の「天彦(アマヒコ)」に淵源するものと考えた理由は下記の通りです。
アマビエ伝承における「アマヒコ」という本来の名前と、出現地が「肥後の海」という点にわたしは着目しました(注②)。九州王朝の天子の名前として有名な、『隋書』に記された「阿毎多利思北孤」(『北史』では「阿毎多利思比孤」)は、アメ(アマ)のタリシホ(ヒ)コと訓まれています。このことから、九州王朝の天子の姓は「アメ」あるいは「アマ」であり、地方伝承には「アマの長者」の名前で語られるケースがあります。たとえば筑後地方(旧・浮羽郡)の「天(あま)の長者」伝承(「尼の長者」とする史料もあります)などは有名です(注③)。
 また、「ヒコ」は古代の人名にもよく見られる呼称で、「彦」「毘古」「日子」などの漢字が当てられ、『北史』では「比孤」の字が用いられています。ですから、「アマビエ」の本来の名前と思われる「アマヒ(ビ)コ」は九州王朝の天子、あるいは王族の名前と考えても問題ありません。阿毎多利思北(比)孤の名前が千年に及ぶ伝承過程で、「阿毎・比孤」(アマヒコ)と略されたのかもしれません。
 『隋書』には阿蘇山の噴火の様子が記されており(注④)、九州王朝の天子と阿蘇山(肥後国)との強い関係が想定され、アマビエ伝承の舞台が肥後国であることとも対応しています。この名前(アマ・ヒコ)と地域(肥後)の一致は、偶然とは考えにくいのです。
 ちなみに、多利思北孤をモデルとする法隆寺の釈迦三尊像も、天平年間に大和朝廷の光明皇后らから、おそらく当時流行していた天然痘封じのために厚く祀られていたことが史料に遺されています(注⑤)。アマビエとダルマさん、そして法隆寺の釈迦像は「流行病封じ」という不思議な縁により、時代を超えて繋がっているかのようです。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2212~2215話(2020/08/24~27)〝
アマビエ伝承と九州王朝(1~4)〟
②アマビエは元々は三本足の猿のような妖怪「アマヒ(ビ)コ」だったと考えられている。両者の名前の違いは、書き写す際に「書き誤った」か、瓦版として売る際にあえて「書き換えた」とみられる。
 ※誤写例(案):「アマヒ(ビ)コ」→「アマヒユ」→「アマヒ(ビ)エ」
 瓦版などの記述によれば、アマビコの出たとされている海の多くは肥後国の海であったとされる
③古賀達也「天の長者伝説と狂心の渠(みぞ)」(『古田史学会報』四十号、二〇〇〇年十月)
④「有阿蘇山其石無故火起接天」『隋書』俀国伝
 〔訳〕阿蘇山有り。其の石、故(ゆえ)無くして火を起こし、天に接す。
⑤古賀達也「九州王朝鎮魂の寺 ―法隆寺天平八年二月二二日法会の真実―」『古代に真実を求めて』第十五集所収(明石書店、2012年)


第2281話 2020/11/02

新・法隆寺論争(5)

法隆寺私寺説と官寺説の論理と矛盾

 法隆寺を「聖徳太子」一族と斑鳩在地氏族らの私的な寺とする若井敏明さんの法隆寺私寺説(注①)は『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』や『日本書紀』『続日本紀』などを史料根拠として成立しています。
 他方、国家(近畿天皇家)による官寺説に立ち、若井さんの私寺説を批判した田中嗣人さんによる、「法隆寺の建築技術の高さ、仏像・仏具その他の文物の質の高さ(一例をあげれば、金銅潅頂幡や伝橘夫人念持仏の光背などは当時の技術の最高水準のもので、埋蔵文化財など当時のものとの比較からでも充分に理解される)から言って、とうてい山部氏や大原氏などの在地豪族のみで法隆寺の再興がなされたものとは思わない。」(注②)という見解も納得できます。
 確かに現法隆寺(西院伽藍)の金堂や五重塔、そして本尊の釈迦三尊像の素晴らしさは、国家レベルの最高水準の技術・芸術力を背景として成立したと考えざるを得ません。このように一元史観では、両者の相反する「合理的」結論を説明できません。
 ところが、古田史学・九州王朝説から両者の見解をみたとき、現法隆寺は九州王朝系寺院を移築(注③)したものであり、釈迦三尊像は「法興」年号を公布した九州王朝の天子、阿毎の多利思北孤のためのものとする古田説(注④)により一挙に解決します。田中さんが主張された「当時の技術の最高水準」とは、近畿天皇家(後の大和朝廷・日本国)ではなく、それに先立つ別の国家(九州王朝・倭国)によるものであり、近畿天皇家側の史料に〝法隆寺は国家(近畿天皇家)から特別な待遇をうけてはいない〟とする若井さんの主張にも整合するのです。
 更にいえば、法隆寺が近畿天皇家(大和朝廷)から特別待遇を受けるのは、701年の王朝交替後(九州王朝・倭国→大和朝廷・日本国)の、天平年間頃からとする若井説にも古田説は整合します。(つづく)

(注)
①若井敏明「法隆寺と古代寺院政策」『続日本紀研究』288号(1994年)
②田中嗣人「鵤大寺考」『日本書紀研究』21冊(塙書房、1997年)
③米田良三『法隆寺は移築された』(新泉社、1991年)
④古田武彦『古代は輝いていたⅢ 法隆寺の中の九州王朝』(朝日新聞社 1985年。ミネルヴァ書房から復刻)


第2262話 2020/10/15

「防人」と「防」と「防所」

 『古田史学会報』160号に掲載された山田春廣さんの論稿〝「防」無き所に「防人」無し〟は優れたものでした。従来、『日本書紀』に記された「防人」「防」はともに「さきもり」と訓まれ、辺境防備の兵とされてきましたが、山田稿では「防」は九州王朝(倭国)防衛のために対馬・壱岐・筑紫国防衛のために建設された防衛施設(版築土塁)であり、「防人」はその「防」に配備さたれた防備兵(戍)のこととされました。『日本書紀』の用例悉皆調査に基づいて導き出された仮説であり、その結論だけではなく、方法論にも説得力を感じました。この仮説が更に検証されることを願っています。
 山田稿を読んで、以前から気になっていたことを思い出しました。佐賀県に「防所」(ぼうじょ、ぼうぜ)という地名があり、現在でも知られているのが、吉野ヶ里遺跡の東にある三養基郡上峰町坊所です。現在は「ぼうじょ」と訓むようですが、『佐賀縣史蹟名勝天然記念物調査報告 下巻』(佐賀県・佐賀県教育委員会編、昭和51年)に収録されている昭和26年の報告書には「ぼうぜ」と記されています。「所」を「ぜ」と訓む例は、滋賀県大津市膳所(ぜぜ)や奈良県御所(ごせ)市があり、これは古い言葉(地名接尾語)ではないでしょうか。
 同書によれば、佐賀県内三カ所に「防所」地名があったとされ、先の上峰村坊所の他に、基山の東峰に「城戸ボージョ」と呼ばれている所があり、『和名抄』高山寺本「佐嘉郡」の条に「防所郷」の名前があるとのこと(地名としては現存せず、正確な所在地は未詳)。弘仁四年八月九日の太政官符により、肥前国の軍団が三団であったことは明らかと同書869頁に紹介されており、佐賀県内三カ所の「防所」の存在(数)と一致しています。
 この「防所」は、山田説とどのように整合するのでしょうか。それとも、同書の説明にあるような律令体制下の軍団の駐屯地と考えてよいのか興味があるところです。基肄城にある「城戸ボージョ」は山田説の「防」(防衛施設)に対応すると考えて問題ありませんが、上峰村の「坊所」は当地に版築土塁の防衛施設があるのかどうかが問題となります。同地は吉野ヶ里遺跡の近隣であり、古墳や廃寺跡など古代遺跡は少なくないようですので、太宰府から吉野ヶ里を結ぶ軍事道路の守備隊がいたことは間違いないように思われます。ちなみに、偶然かもしれませんが、上峰村坊所の近くには佐賀県唯一の陸上自衛隊の基地(目達原駐屯地)があります。今も昔も軍事上の要衝の地ということなのでしょう。
 更に山田説を突き詰めれば、九州王朝の首都太宰府を防衛する山城や版築土塁付近に「防」地名が遺っていてほしいところです。今のところ、佐賀県の「坊所」地名しかわたしは知りませんので、当地の皆さんの調査協力を賜りたいと願っています。


第2258話 2020/10/11

古典の中の「都鳥」(5)

 『伊勢物語』(九段)の舞台、武蔵国の「隅田川」で当地には飛来しない「都鳥」(宮こ鳥)のことが詠われることから(注①)、わたしは謡曲「隅田川」(注②)を思い出しました。それにも隅田川に「都鳥」(鴎のこと)が登場するからです。能楽(謡曲)の中に九州王朝系のものがあることは古田学派の研究者から指摘されてきました(注③)。九州王朝の都があった北部九州に飛来する渡り鳥が「都鳥」と呼ばれている事実は九州王朝説を支持するもので、その「都鳥」が詠われる謡曲「隅田川」や『伊勢物語』(九段)の説話は、本来は九州王朝の「都」から武蔵国「隅田川」へ、人買いにさらわれたわが子を探すために「物狂い」(旅芸人)となった母親が放浪したという故事に由来するのではないかとわたしは考えました。
 たとえば、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は謡曲「桜川」の淵源となる説話は北部九州で成立したとされ(注④)、謡曲「桜川」に見える地名(日向、桜の馬場、箱崎)が筑前にあることなどを根拠とされました。謡曲「隅田川」には、地名として武蔵国の「隅田川」の他に、母子の出身地「都」「北白河」、その父方の姓「吉田」が見えます。そこで、これらの地名などが都鳥が飛来する九州王朝の「都」に存在したはずと考え、博多湾岸や太宰府周辺の地名を調査しました。その結果、太宰府天満宮の西側に「白川」という地名が見つかりましたが、そこは都鳥が飛来する沿岸部ではないので、有力候補地とはできませんでした。
 もしやと思い、大分県(豊前国)の京都(みやこ)郡を調査したところ、苅田町の南部に「白川」という地名があり、隣接する行橋市北部に「吉田神社」がありました。「吉田神社」の近くには小波瀬川があり、東流し長峡川と合流、そのすぐ先が海です。この地域であれば都鳥が飛来しそうですが、「吉田神社」の由来など現地調査が必要です。
 現時点ではこれ以上の調査はできていませんが、引き続き、北部九州の地名や「都鳥」伝承の調査を続けます。(おわり)

(注)
①『伊勢物語』(九段)に「名にし負はば いざ事問はむ宮こ鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」の歌が記されている。『古今和歌集』(411)にも同様の説話と歌が見える。
②観世元雅(かんぜもとまさ、1394・1401頃~1432)の作。
③新庄智恵子『謡曲の中の九州王朝』新泉社、2004年。
④正木 裕「常陸と筑紫を結ぶ謡曲『桜川』と『木花開耶姫』」『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』古田史学の会編、2019年、明石書店。
 謡曲「桜川」(世阿弥作)も、筑紫日向(福岡県糸島の日向)で東国の人買いに連れ去られたわが子「桜児」を、母親が「物狂い」(旅芸人)となって常陸国(茨城県桜川市)まで放浪して再会するという内容で、「隅田川」と似た筋書きです。「隅田川」では、息子は一年前に亡くなっていたという悲劇もので、この点が「桜川」とは異なります。


第2255話 2020/10/08

『纒向学研究』第8号を読む(3)

 柳田康雄さんが「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」(注①)において、「弥生時代は、もはや原始時代ではなく、教科書を改訂すべきである」と主張されていることを紹介しましたが、この他にも貴重な提言をなされています。たとえば次のようです。

〝中国三国時代以後に研石が見られないのは固形墨の普及と関係することから、倭国では少なくとも多くの研石が存在する古墳前期までは膠を含む固形墨が普及していないことが考えられる。したがって、出土後水洗されれば墨が剥落しやすいものと考えられる。〟(41頁)

〝何よりも弥生石器研究者に限らず考古学に携わる研究者・発掘調査担当者の意識改革が必要である。調査現場での選別や整理作業での慎重な水洗の重要性は、調査担当者のみにらず作業員の熟練が欠かせないことを今回の出土品の再調査でもより一層痛感した。出土品名の誤認に始まり、不用意に水洗された結果付着していたはずの黒色や赤色付着物が失われている。(中略)
 原始時代とされている弥生時代において、文字だけではなく青銅武器や大型銅鏡を製作できる土製鋳型技術が出現し継続しているはずがないという研究者が多い現実がある(柳田2017c)。また、遺跡・遺物を観察・分類できる能力(眼力)を感覚的だと軽んじ、認識・認知や理論という机上の操作で武装する風潮が昨今の考古学者には存在する。このような考古学の基礎研究不足は、研究を遅滞し高上(ママ)は望めない。基礎研究不足のまま安易に科学分析を受け入れた、その研究者のそれまでの研究成果はなんだったのだろう、旧石器捏造事件を想起する。修練された感覚的能力なくして、遺跡・遺物を研究する考古学という学問は存在意義があるのだろうか。大幅に弥生時代の年代を繰り上げた研究者や博物館などの施設は、それまでの考古学の基礎研究では弥生時代の年代が決定できなかったことを証明している。考古学研究の初心に戻りたいものだ。これはデジタル化に取り越されたアナログ研究者のぼやきだけで済むのだろうか。〟(43頁)

 弥生編年の当否はおくとしても、柳田さんの指摘や懸念には共感できる部分が少なくありません。この碩学の提言を真摯に受け止めたいと思います。(おわり)

(注)『纒向学研究』第8号(桜井市纒向学研究センター、2020年)所収。


第2253話 2020/10/06

『纒向学研究』第8号を読む(2)

 柳田康雄さんの「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」(注①)によれば、弥生時代の板石硯の出土は福岡県が半数以上を占めており、いわゆる「邪馬台国」北部九州説を強く指示しています。なお、『三国志』倭人伝の原文には「邪馬壹国」とあり、「邪馬台国」ではありません。説明や論証もなく「邪馬台国」と原文改定するのは〝学問の禁じ手(研究不正)〟であり、古田武彦先生が指摘された通りです(注②)。
 古田説では、邪馬壹国は博多湾岸・筑前中域にあり、その領域は筑前・筑後・豊前にまたがる大国であり、女王俾弥呼(ひみか)がいた王宮や墓の位置は博多湾岸・春日市付近とされました。ところが、今回の板石硯の出土分布を精査すると、その分布中心は博多湾岸というよりも、内陸部であることが注目されます。それは次のようです。

〈内陸部〉筑紫野市29例(研石6)、筑前町22例(研石5)、朝倉市4例、小郡市3例(研石1)、筑後市4例(研石1)

〈糸島・博多湾岸部〉糸島市13例(研石3)以上、福岡市17例(研石1)
 ※この他に、豊前に相当する北九州市20例と築城町8例(研石1)も注目されます。

 しかも、弥生中期前半頃に遡る古いものは内陸部(筑紫野市、筑前町)から出土しています。当時、硯を使用するのは交易や行政を担当する文字官僚たちですから、当然、倭王の都の中枢領域にいたはずです。内陸部に多いという出土事実は古田説とどのように整合するのか、あるいは今後の発見を期待できるのか、古田学派にとって検討すべき問題ではないでしょうか。
 柳田さんは次のように述べて、教科書の改訂を主張されています。

 「これからは倭国の先進地域であるイト国・ナ国の王墓などに埋葬されてもよい長方形板石硯であるが、いまだに発見されていない。いずれ発見されるものと信じるが、今回の集落での発見は一定の集落内にも識字階級が存在することを示唆しているだけでも研究の成果だと考えている。青銅武器や銅鏡の生産を実現し、一定階級段階での地域交流に文字が使用されている弥生時代は、もはや原始時代ではなく、教科書を改訂すべきである。」(43頁)

 大和朝廷一元史観に基づく通説論者からも、このような提言がなされる時代に、ようやくわたしたちは到達したのです。(つづく)

(注)
①『纒向学研究』第8号(桜井市纒向学研究センター、2020年)所収。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻)


第2248話 2020/10/03

『纒向学研究』第8号を読む(1)

 今日も京都府立図書館へ行き、司馬遷の『史記』などを読んできました。とりわけ、探していた『纒向学研究』第8号(桜井市纒向学研究センター、2020年)が同館にあることがわかり、掲載されている柳田康雄さんの「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」をコピーしてきました。同論文は、近年、発見が続いている弥生時代の板石硯についての最新かつ網羅的な報告書であり、研究者には必読の論文です。
 同論文では柳田さんや久住猛雄さんによる、板石硯の調査結果が報告されており、中でもその出土分布は示唆的でした。両氏らが発見した弥生時代・古墳時代前期の硯・研石の総数は現時点で200個以上で、出土地は次の通りです。

○福岡県 糸島市13例(研石3)以上、福岡市17例(研石1)、春日市3例、筑紫野市29例(研石6)、筑前町22例(研石5)、朝倉市4例、小郡市3例(研石1)、筑後市4例(研石1)、北九州市20例、築城町8例(研石1)。
 ※福岡県合計123例以上。
○佐賀県 唐津市4例(研石1)、吉野ヶ里町2例(研石1)、基山町1例。
○長崎県 壱岐市11例(研石4)。
○大分県 日田市1例。
○熊本県 阿蘇市2例。
 ※福岡県以外の九州合計21例。
○広島県 東広島市2例。
○岡山県 10例(研石2)。
○島根県 松江市8例(研石1)、出雲市2例、安来市3例。
○鳥取県 鳥取市3例。
○石川県 小松市20例。
○兵庫県 丹波篠山市1例。
○大阪府 泉南市1例、高槻市3例。
○奈良県 田原本町2例、桜井市1例、橿原市1例、天理市5例。
 ※九州以外合計62例。

 ただしこれらの発見は、柳田・久住両氏の「行動範囲内」であり、「関心のある研究者が少ない地域は希薄」とのことです。板石硯の出土分布は北部九州、特に福岡県が圧倒的に多く、弥生時代の倭国の文字受容先進地域が福岡県にあったことがわかります。そのことは魏志倭人伝に記された邪馬壹国の所在地が福岡県に存在したことを示しています。(つづく)


第2245話 2020/09/28

古典の中の「都鳥」(4)

 チドリ目ミヤコドリ科の都鳥(渡り鳥)は、古代に於いて近畿天皇家の都がおかれた地には飛来していませんし、『伊勢物語』(九段)の主人公とされる在原業平(825~880年)の時代の平安京にはユリカモメもいなかったとされています。ですから、『伊勢物語』(九段)の舞台とされる武蔵国の「隅田川」でユリカモメを「都鳥」(宮こ鳥)とする次の歌が成立することは困難です。

 「名にし負はば いざ事問はむ宮こ鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」『伊勢物語』(九段)
 ※『古今和歌集』(411)にも同様の説話と歌が見えます。

 そこでわたしが着目したのが「隅田川」という説話の舞台です。というのも、能楽に「隅田川」という演目があり、そこにも「都鳥」が登場するからです。
 観世元雅(かんぜもとまさ、1394・1401頃~1432)の作とされる「隅田川」は、都の婦人が人買いにさらわれた息子を探して武蔵国の隅田川まで訪れ、そこの渡し守との応答の中で「都鳥」が登場し、在原業平の「名にし負はば いざ事問はむ宮こ鳥」の歌を引用するというものです。その概要については、本稿末に転載したウィキペディアの解説をご参照下さい。
 この「隅田川」の時代の都は平安京ですが、やはり京都には飛来しない「都鳥」(ミヤコドリ科)を、同じく「都鳥」がいない隅田川で、「鴎」(ユリカモメか)を指して歌うという不自然さがあります。そのとき、わたしが思い出したのが、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の論稿「常陸と筑紫を結ぶ謡曲『桜川』と『木花開耶姫』」(注①)です。(つづく)

(注)
①正木 裕「常陸と筑紫を結ぶ謡曲『桜川』と『木花開耶姫』」『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』古田史学の会編、2019年、明石書店。

【隅田川】
 出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『隅田川』(すみだがわ)は能楽作品の一つである。観世元雅作。
 一般に狂女物は再会→ハッピーエンドとなる。ところがこの曲は春の物狂いの形をとりながら、一粒種である梅若丸を人買いにさらわれ、京都から武蔵国の隅田川まで流浪し、愛児の死を知った母親の悲嘆を描く。
 各流派で演じられるが、金春流で演じられる時は、『角田川』(すみだがわ)のタイトルになる。

 シテ:狂女、梅若丸の母
 子方:梅若丸の霊
 ワキ:隅田川の渡し守
 ワキヅレ:京都から来た旅の男

 大小前に塚の作り物(その中に子方が入っている)
 渡し守が、これで最終便だ今日は大念仏があるから人が沢山集まるといいながら登場。ワキヅレの道行きがあり、渡し守と「都から来たやけに面白い狂女を見たからそれを待とう」と話しあう。
 次いで一声があり、狂女が子を失った事を嘆きながら現れ、カケリを舞う。道行きの後、渡し守と問答するが哀れにも『面白う狂うて見せよ、狂うて見せずばこの船には乗せまいぞとよ』と虐められる。
 狂女は業平の『名にし負はば…』の歌を思い出し、歌の中の恋人をわが子で置き換え、都鳥(実は鴎)を指して嘆く事しきりである。渡し守も心打たれ『かかる優しき狂女こそ候はね、急いで乗られ候へ。この渡りは大事の渡りにて候、かまひて静かに召され候へ』と親身になって舟に乗せる。
 対岸の柳の根元で人が集まっているが何だと狂女が問うと、渡し守はあれは大念仏であると説明し、哀れな子供の話を聞かせる。京都から人買いにさらわれてきた子供がおり、病気になってこの地に捨てられ死んだ。死の間際に名前を聞いたら、「京都は北白河の吉田某の一人息子である。父母と歩いていたら、父が先に行ってしまい、母親一人になったところを攫われた。自分はもう駄目だから、京都の人も歩くだろうこの道の脇に塚を作って埋めて欲しい。そこに柳を植えてくれ」という。里人は余りにも哀れな物語に、塚を作り、柳を植え、一年目の今日、一周忌の念仏を唱えることにした。
 それこそわが子の塚であると狂女は気付く。渡し守は狂女を塚に案内し弔わせる。狂女はこの土を掘ってもわが子を見せてくれと嘆くが、渡し守にそれは甲斐のないことであると諭される。やがて念仏が始まり、狂女の鉦の音と地謡の南無阿弥陀仏が寂しく響く。そこに聞こえたのは愛児が「南無阿弥陀仏」を唱える声である。尚も念仏を唱えると、子方が一瞬姿を見せる。だが東雲来る時母親の前にあったのは塚に茂る草に過ぎなかった。


第2240話 2020/08/24

大友皇子(弘文天皇)を祀る神社と伝承

 『近江神宮 天智天皇と大津京』(新人物往来社、平成三年)巻末掲載の「天智・弘文天皇関連神社」には、天智天皇だけではなく大友皇子(弘文天皇)やその関係者を御祭神とする神社も紹介されています。次の通りです。

【大友皇子(弘文天皇)関連神社】
○白山(はくさん)神社 千葉県君津市俵田 祭神:大友皇子・日本武尊・他
由緒:創立年月日不詳。大友皇子が逃れてきて当国に築城したが、ゆえあり屠腹、放火炎上したので、天武天皇十三年に勅使が下向し、社殿を造営、皇子を祀って田原神と称したと伝えられる。本殿に接して「小櫃山古墳」があり、地元では弘文天皇御陵と伝える。房総における弘文天皇伝説の中心的な神社であり、千葉県内に関連の神社がいくつかある。
 子守(こもり)社 (君津市 俵田字姥神) 弘文天皇の乳母を祀る
 末吉(すえよし)神社 (君津市末吉字壬申山) 蘇我赤兄を祀る
 拾弐所(じゅうにしょ)神社 (君津市戸崎) 伊賀采女宅子郎女を祀る
 福王(ふくおう)神社 (君津郡袖ケ浦町奈良輪) 弘文天皇の皇子福王を祀る
 大嶽(おおたけ)神社 (君津市長谷川) 大友皇子の随臣長谷川紀伊を祀るという
○白山(はくさん)神社 千葉県木更津市牛袋 祭神:大友皇子
○白山(しらやま)神社 千葉県市原市飯給 祭神:大友皇子
○筒森(つつもり)神社 千葉県夷隅郡大多喜町筒森字陵 祭神:大友皇子・十市皇女(大友皇子妃)
由緒:十市皇女が当地に逃れ、流産でなくなった所という。
○十二所神社 千葉県木更津市下郡 祭神:耳面刀自命(みみめとじのみこと)
由緒:当社は、大友皇子弘文帝の皇妃以下十二人の宮人を祭祀する所で、伝記によれば、弘文帝が戦(壬申の乱)に敗れて当地に潜伏していたが、西軍に襲われ、皇妃耳面刀自以下十二人は遂に自刃し果て、十二人の遺骸は土地のならわしに従って棺に納め、葬るところとなった。後世この一帯を望東郡小杞の谷、あるいは望陀郡小櫃の作(ママ)という。
○内裏(だいり)神社 千葉県旭市泉川 祭神:弘文天皇・耳面刀自命(弘文妃)
由緒:社伝に「弘文天皇の御妃耳面刀自は藤原鎌足の女、難を東国に避けて野田浦に漂着、病に罹りて薨ず。中臣英勝等従者十八人悲痛措く能はず、之を野田浦に葬る。今の内裏塚是なり」とあるが、この内裏塚は匝瑳郡野栄町内裏塚に現存する。従者たちが生活の場を求めて移動したとき、内裏塚の墳土を分祀したのが内裏神社といわれ、近くに大塚原古墳があって妃の従者の筆頭中臣英勝の墓とされている。泉川地区では神幸祭(通称「お浜下り」)が三十三年ごとに行われるが、神輿や山車に千人近くの従者が従い、大塚原古墳を経て内裏塚浜まで延々八キロを行進する。妃の霊をなぐさめるため、妃とその一行の上陸コースを逆にたどるものという。最近では昭和四六年十一月十日に行われた。
○大友天神社 愛知県岡崎市西大友字天神 祭神:弘文天皇
由緒:近江国志賀の住人長谷権之守の長男長谷木工允信次、白鳳年中、故あって三河国碧海郡に潜居、大友皇子のために一祠を創建奉崇し、その所在地を大友と称す。
○若宮八幡神社 岐阜県不破郡関ヶ原町藤下字自害峰 祭神:弘文天皇
由緒:当社近くの丘陵を自害峰と称し、弘文天皇の御自害の地とも、御頸を移して奉葬した処とも伝える。壬申の乱の戦場であり、藤古川をはさんで西側の藤下、山中(次項)の住民は弘文天皇を祀り、東側の松尾は、天武天皇を祀った(井上神社)。
○若宮八幡神社 岐阜県不破郡関ヶ原町山中字了願寺 祭神:弘文天皇
○鞍掛(くらかけ)神社 滋賀県大津市衣川 祭神:弘文天皇
由緒:壬申の乱に弘文天皇の軍は瀬田、粟津の一戦に利らず、衣川町本田の離宮に於て柳樹に玉鞍を掛け、悲壮の御最期を遂げられた。随従の侍臣等この地に帰農して、天皇の御神霊を奉斎し、子孫相伝えて日々奉仕して来た。第五十七代陽成天皇の勅命により元慶六年社殿の新営成り、はじめて社号を鞍掛と称し、今日に至る。
○石坐(いわい)神社 滋賀県大津市西の庄 祭神:天命開別尊(天智天皇)・弘文天皇・伊賀采女宅子媛命・他
由緒:創祀年代不詳。壬申乱後、天下の形勢は一変し、近江朝の神霊の「天智帝・大友皇子・皇子の母宅子媛」を弔祭できるのは一乗院滋賀寺のみとされ、他で祭祀するのは禁じられていた。そこで持統天皇の朱鳥元年に滋賀寺の僧・尊良法師が王林に神殿を建て御霊殿山の霊祠を還すと共に相殿を造り、表面は龍神祠として、近江朝の三神霊をひそかに奉斎した。この時から八大竜王宮と称え、石坐神社とも称した。
 光仁天皇の宝亀四年、石坐神社に正一位勲一等を授けられ、「鎮護国家の神社なり」との勅語を賜っている。ここにはじめて、近江朝の三神霊が公に石坐神社の御祭神として認められたのである。
○御霊神社 滋賀県大津市鳥居川町 祭神:弘文天皇
由緒:社地を古来「隠山」というが、壬申の乱の際、大友皇子の戦没せられた故に、かく称せられたという。乱後三年目の白鳳四年、大友皇子の第二子与多王の指図により皇子の神霊を奉斎し大友宮または御霊宮と称した。
○御霊神社 滋賀県大津市北大路 祭神:弘文天皇
由緒:元来は近江国造・治田連が祖霊を祀った所という。
○羽田(はねだ)神社 滋賀県八日市市羽田町 祭神:弘文天皇・他
○大郡(おおこうり)神社 滋賀県神崎郡五個荘町北町屋 祭神:弘文天皇・十市皇女
由緒:弘文天皇崩御の地との伝えがある。
○山宮(やまみや)神社 鹿児島県曽於郡志布志町安楽 祭神:天智天皇・倭姫皇后・大友皇子・持統天皇・他
由緒:和銅二年、天智天皇の寵妃倭姫の草創という。天皇薩摩行幸の際、安楽の浜より御在所岳に登り開聞岳を望まれたといい、同山上に山宮を創建、帝を祀った。大同二年周辺の御由縁の神社を集めて山口六社大明神を建てた。これが山宮神社である。

 以上のように大友皇子(弘文天皇)やその関係者が祀られているのですが、とりわけ千葉県に濃密分布していることがわかります。
 今から30年ほど昔のことですが、大友皇子の奥方が壬申の乱敗北後に関東まで逃げたという伝承が関東にあることを古田先生から教えていただいたことがあります。そのときは、そのような伝承もあるものなのかと、あまり気にとめていなかったのですが、今回、こうした分布状況を知り、そのときのことを思い起こしました。多元史観・九州王朝説の視点で、千葉県の大友皇子関連伝承を調査したくなりました。関東方面の方のご協力や情報が得られれば幸いです。


第2239話 2020/08/23

南九州の「天智天皇」伝承

 わたしが古田史学に入門し、本格的論文として最初に書いたのが「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」(『市民の古代』10集、1988年。新泉社)でした。これは32歳のときに書いた論文で、今読むと論証が甘く、学術論文としてはまことに恥ずかしいレベルですが、歴史の真実へ肉薄するという点では、大きく外れることはなく一定の役割を果たしたと思います。
 同論の主旨は、鹿児島県に濃密に遺っている古代伝承の「大宮姫」(注①)は九州王朝の天子(筑紫君薩野馬)の皇后で、『続日本紀』文武紀四年(700)六月条に見える「薩末比売」のこととするものです。そして薩摩に落ち延びた薩野馬の事績が後に「天智天皇」として伝承されたとしました(注②)。そのことが、鹿児島県に「天智天皇」を祀る神社が多い理由と考えられます。
 ところが拙論執筆の30年後、この拙論を超える研究発表が正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からなされました。2017年12月の「古田史学の会」関西例会で発表された「『日本書紀』天智紀の年次のずれについて」において、天智が称制から正式に天皇に即位した天智七年に皇后として登場した倭姫王こそ九州王朝(倭国)の姫であり、天智は倭姫王を皇后に迎えたことにより九州王朝(倭国)の権威を継承(不改常典の成立)したのではないかとされました。そして、壬申の乱以後、倭姫王は『日本書紀』から消えますが、鹿児島県の『開聞古事縁起』(注③)に壬申の乱で都から逃げてきた大宮姫の伝承が記されており、大宮姫こそ倭姫王ではないかとされたのです(注④)。
 まだ検証中の仮説ですが、多元史観・九州王朝説による「倭姫王」や鹿児島県の「大宮姫」伝説についての最有力説ではないでしょうか。更に、この正木説に刺激を受けて、「倭姫王」についての諸仮説が古田学派内で発表が続いており、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交替研究が加速しています。
 なお、『近江神宮 天智天皇と大津京』(新人物往来社、平成三年)巻末掲載の「天智・弘文天皇関連神社」によれば、次の神社が「倭姫」を御祭神としています。

○倭(しどり)神社 滋賀県大津市滋賀里 祭神:不詳(伝倭姫皇后)
○山宮神社 鹿児島県曽於郡志布志町安楽 祭神:天智天皇・倭姫皇后・大友皇子・持統天皇・他

(注)
①『日本伝説大系⑭』所収「大宮姫」に大宮姫伝説が紹介されている。
②『三国名勝図会』第二四巻「薩摩国頴娃郡」では、大宮姫伝説を俗信として批判している。
③五来重編『修験道史料集(2)』所収「開聞古事縁起」
④正木 裕「大宮姫と倭姫王・薩末比売」『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』古田史学の会編、2019年、明石書店。


第2238話 2020/08/22

天智天皇を祀る神社の分布

 近江朝や天智天皇について知見と研究を深めています。『近江神宮 天智天皇と大津京』(新人物往来社、平成三年)に興味深い記事がいくつもありましたので、その中から天智天皇を祀る神社の分布についての記事を紹介します。
 近藤喜博さんの「天智天皇に対する賛仰とその奉祀神社」に天智天皇を祭神とする神社を「管見の及ぶ限り」として、次の様に紹介されています。

○県社 村山神社(愛媛県宇摩郡津根村)
○郷社 鉾八幡神社(香川県三豊郡財田村)
○郷社 恵蘇八幡宮(福岡県朝倉郡朝倉村)
○郷社 山宮神社(鹿児島県曽於郡志布志町)
○村社 山宮神社(鹿児島県曽於郡志布志町田之浦)
○村社 石座神社(滋賀県滋賀郡膳所町大字錦)
○村社 皇小津神社(滋賀県野洲郡河西村)
○村社 早鈴神社(鹿児島県姶良郡隼人町)
○無格社 葛城神社(鹿児島県日置郡西市来村)
○無格社 新宮神社(鹿児島県伊佐郡羽目村)※「伝天智天皇」と称する。
○無格社 山口神社(鹿児島県曽於郡末吉町南之郷)
○無格社 多羅神社(鹿児島県揖宿郡揖宿村)

 これらを県別に見ますと、次の様な分布数になります、

□滋賀県  2社
□香川県  1社
□愛媛県  1社
□福岡県  1社
□鹿児島県 7社

 近江朝廷があった滋賀県の2社は当然としても、鹿児島県の7社は異様な数です。これは鹿児島県や宮崎県に伝承されている「大宮姫」伝説に関わる神社が多いことが原因です。(つづく)


第2237話 2020/08/21

上皇陛下の天智天皇讃歌(平成二年御製)

 明治天皇の「即位の詔勅」が宣命体であり、そこに天智天皇や神武天皇の業績が特筆されていることに驚いたのですが、天智天皇が日本国の基礎を築いたという認識が現在の上皇陛下へも続いていることを最近になって知りました。そのことについて紹介します。
 ご近所の古本屋さんにあった『近江神宮 天智天皇と大津京』(新人物往来社、平成三年)を格安で購入したのですが、その巻頭グラビア写真に当時の天皇・皇后(現、上皇・上皇后)のお歌が掲載されていました。近江神宮の宮司、佐藤忠久さんが書かれたものです。

 「近江神宮五十年祭にあたって」
「今上陛下 御製」
「日の本の国の基を築かれし すめらみことの古思ふ」
「皇后陛下 御歌」
「学ぶみち 都に鄙に開かれし 帝にましぬ 深くしのばゆ」
  「近江神宮 宮司 佐藤久忠謹書 (印)」

 この御製御歌は、近江神宮御鎮座50周年(平成二年、1990年)の式年大祭に際して、当時の両陛下から賜ったものと説明されています。御製に「日の本の国の基を築かれし すめらみこと」とあり、近江神宮に下賜されたものであることから、この「すめらみこと」とは天智天皇です。その天智天皇が日本国の基を築かれたという認識に、わたしは注目したのです。おそらくこれは、皇室や宮内庁の共通の歴史認識に基づかれたものと思われます。
 古田先生は、『よみがえる卑弥呼』(駸々堂、1987年)に収録されている「日本国の創建」という論文で、671年(天智十年)、近畿天皇家の天智天皇の近江朝が「日本国」を創建したとする説を発表されています。偶然かもしれませんが、この古田説と御製に示された認識が、表面的ではあれ一致しています。あらためて天智天皇や近江朝に関する研究史を精査する必要を感じました。