九州王朝(倭国)一覧

第2113話 2020/03/17

蘇我氏研究の予察(3)

 蘇我氏と「葛城」に深い関係があるように『日本書紀』が編纂されたのは、九州王朝の天子、多利思北孤の事績を「聖徳太子」記事として転用し、同時に多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績も「蘇我氏」記事に転用するためではなかったかと、わたしは予察しているのですが、その根拠として次の論理性と史料状況があげられます。

①『日本書紀』編者は、九州王朝の天子、阿毎多利思北孤やその太子、利歌彌多弗利の事績を『日本書紀』に転用する際、同時代の近畿天皇家内の人物「聖徳太子」(厩戸皇子)に〝横滑り〟させている。
②従って、多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績も、同事態の近畿天皇家の重臣「蘇我氏」に〝横滑り〟させていると考えられる。
③そのことを支持するように、蘇我氏と「葛城」とを関連付ける記事(蘇我馬子が葛城県を祖先の地として永久所有権を推古天皇に要請し、拒否される)が「聖徳太子」の時代、推古紀(32年条、624年)に現れている。
④この理解が正しければ、推古紀32年条の「葛城県、永久所有権申請」記事も、本来は九州王朝の天子、多利思北孤にその重臣「葛城臣」が北部九州の「葛城県」の「永久所有権」を「申請」した記事の転用と考えることができる。
⑤この考えを支持するかのように、「聖徳太子」の伝記『聖徳太子伝暦』推古天皇二十九年条の「葛城寺」注文に「蘇我葛木臣」と、近畿天皇家の「蘇我氏」と「葛木臣」を習合させた表記が見える。

 以上の予察(論証)によるならば、『日本書紀』の七世紀前半頃の「蘇我氏」関連記事には九州王朝・多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績転用部分と本来の近畿天皇家の重臣「蘇我氏」の事績部分が混在していることになるので、それらを分別する学問的方法論の確立が必要となります。(つづく)


第2112話 2020/03/16

蘇我氏研究の予察(2)

 服部さんが指摘されたように、『日本書紀』に見える蘇我氏と「葛城」との不自然な関係付け記事にこそ、わたしは九州王朝説からの蘇我氏研究アプローチの鍵があるのではないかと直感しました。そしてその鍵を解くもう一つの鍵が九州王朝系史料にありました。それは、九州年号「法興」史料として有名な「伊予温湯碑文」(「伊予湯岡碑文」)です。
 現在、同碑は所在不明となっていますが、碑文冒頭には次の記事があったとされています。

 「法興六年十月、歳在丙辰、我法王大王与恵忩法師及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。」(『釈日本紀』所引『伊予国風土記』逸文)

 ここには三名の称号・名前が記されています。「法王大王」「恵忩法師」「葛城臣」です。なお、「法王大王」を「法王」と「大王」の二人(兄弟)を表すとする理解もありますが、本稿では従来説に従い、「法王大王」という人物一人としておきます(本稿の論点の是非に直接関わらないため)。厳密に言うのなら、「我法王大王」(わが法王大王)の「我」(わが)という、本碑文の作成人物の存在もありますが、その名前や称号は不明ですので、本稿では取り上げません。
 古田説では碑文の「法王大王」は『隋書』に見える九州王朝の天子、阿毎の多利思北孤(法隆寺釈迦三尊像光背銘に見える上宮法皇)のこととされ、「法興六年」はその年号で596年のこととされます。碑文に見える「法王大王」に従っている人物は、僧侶の「恵忩法師」と臣下の「葛城臣」の二人だけですので、いずれも天子に付き従って伊予まで来るほどの九州王朝内での重要人物と思われます。
 特に「葛城臣」にわたしは注目しました。もしかすると、『日本書紀』編者は九州王朝の重臣「葛城臣」を近畿天皇家の重臣「蘇我氏」に重ね合わせようとして、蘇我氏と「葛城」に深い関係があるように『日本書紀』を編纂した、あるいは、九州王朝史書の多利思北孤の事績を「聖徳太子」記事として転用し、その際、多利思北孤の重臣「葛城臣」の事績も「蘇我氏」記事に転用したのではないでしょうか。
 この点、「葛城」という地名が、大和にも北部九州(『和名抄』肥前三根郡に葛城郷が見える)にもあったことが、「葛城臣」記事を『日本書紀』に転用しやすくさせた一つの要因になったと思われます。(つづく)

【以下はウィキペディアより転載】
 ※近畿天皇家一元史観に基づく解説が採用されており、古田史学とは異なる部分がありますので、ご留意下さい。。

伊予湯岡碑(いよのゆのおかのひ)

法興六年[注 1]十月、歳在丙辰、我法王大王[注 2]与恵慈法師[注 3]及葛城臣、逍遥夷与村、正観神井、歎世妙験、欲叙意、聊作碑文一首。
惟夫、日月照於上而不私。神井出於下無不給。万機所以[注 4]妙応、百姓所以潜扇。若乃照給無偏私、何異干寿国。随華台而開合、沐神井而瘳疹。詎舛于落花池而化羽[注 5]。窺望山岳之巖※(山偏に「咢」)、反冀平子[注 6]之能往。椿樹相※(「广」の中に「陰」)而穹窿、実想五百之張蓋。臨朝啼鳥而戯哢[注 7]、何暁乱音之聒耳。丹花巻葉而映照、玉菓弥葩以垂井。経過其下、可以優遊[注 8]、豈悟洪灌霄庭意歟[注 9]。
才拙、実慚七歩。後之君子、幸無蚩咲也。

『釈日本紀』所引または『万葉集註釈』所引『伊予国風土記』逸文より。

注釈
1.「法興」は私年号で、法興寺(飛鳥寺)建立開始年(西暦591年)を元年とし、法興6年は西暦596年になる(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
2.「法王大王」は聖徳太子を指す(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
3.底本では「恵忩」であるが、「恵慈」に校訂(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
4.底本では「万所以機」であるが、「万機所以」に校訂 (新編日本古典文学全集 & 2003年)。
5.底本では「化弱」であるが、「化羽」に校訂(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
6.底本では「子平」であるが、「平子」に校訂(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
7.底本では「吐下」であるが、「哢」に校訂(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
8.底本に「以」は無いが、意補(新編日本古典文学全集 & 2003年)。
9.底本では「与」であるが、「歟」に校訂(新編日本古典文学全集 & 2003年)。


第2111話 2020/03/15

蘇我氏研究の予察(1)

 「洛中洛外日記」2108話(2020/03/12)「『多元』No.156のご紹介」で、『多元』No.156に掲載された服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「七世紀初頭の近畿天皇家」をわたしは好論と評しました。その主たる理由は、蘇我氏と近畿天皇家の関係を論ずるにあたり、ピックアップされた『日本書紀』の蘇我氏関連記事が網羅的で、蘇我氏研究に役立つと思われたことでした。なかでも、『日本書紀』に見える蘇我氏と葛城氏とを結びつける記事や解釈に注目された点に、わたしは触発されました。そこで、九州王朝説による蘇我氏研究のアプローチ方法を示し、その予察を述べてみたいと思います。
 服部稿では蘇我氏と葛城臣とを同一とする『日本書紀』の記述を疑い、次のように論じておられます。

〝推古紀三二年(六二四)の、蘇我馬子が推古天皇に葛城県の永久所有権を請う記事を、岩波書店の『日本書紀』は「皇極元年に蘇我大臣蝦夷が葛城高宮に祖廟を立てるとあり、馬子は葛城臣ともいったのであろう。他に伝暦に蘇我葛木臣に賜う。」と注釈して辻褄を合わそうとする。しかし、蘇我氏が葛木に因んだ姓名を使ったという記述は見られない。〟(『多元』No.156、p.7)

 この服部さんの指摘は理解できますが、それではなぜ『日本書紀』には蘇我氏と「葛城」を結びつけるような記事が散見されるのかという、『日本書紀』編者の認識に迫る作業(フィロロギー)が必要です。この点についてのわたしの考え(予察)を述べることにします。(つづく)


第2108話 2020/03/12

『多元』No.156のご紹介

 友好団体「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.156が先日届きました。同号には服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「七世紀初頭の近畿天皇家」が掲載されていました。同稿は『日本書紀』に記された蘇我氏関連の記事をピックアップし、七世紀前半までは、九州王朝の重臣である蘇我氏が近畿天皇家よりも上位で、その関係が「乙巳の変(645年)」で逆転したとするものです。
 蘇我氏研究は一元史観でも多元史観でも多くの研究が発表されており、古田学派内でも蘇我氏を九州王朝の天子・多利思北孤とする説、九州王朝が大和に派遣した近畿天皇家のお目付役説など諸仮説が出されてきました。わたしの見るところ、失礼ながらいずれの仮説も論証が成立しているとは言い難く、自説に都合のよい記事部分に基づいて立論されたものが多く、いわば「ああも言えれば、こうも言える」といった研究段階に留(とど)まってきました。
 その点、服部稿は「乙巳の変までは、近畿天皇家よりも蘇我氏が上位」という史料的に根拠明示可能な「限定的仮説」の提起であり、学問的に慎重な姿勢を保っておられます。また、ピックアップされた『日本書紀』の記事には改めて着目すべきこともあり、わたしも蘇我氏研究に取り組んでみたくなるような好論でした。
 ちなみに、古田先生は「蘇我氏」についてはあまり論述されていません。それほど難しいテーマということだと思います。


第2102話 2020/03/06

「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(4)

 七世紀当時の九州王朝公認筆法の「撥(はね)型」が隋代史料(恐らく写経)の影響を受けた可能性について紹介してきましたが、隋代よりも前の、たとえば北魏史料からの影響ということも考えられますので、この点は今後調査したいと思います。
 今回の調査では、隋代の写経史料中にこの「撥型」が多数見受けられましたが、『隋書』国伝にもそのことを裏付けるような国交記事があります。

 「大業三年(607)、其王、多利思北孤、遣使朝貢す。使者曰く〝海西の菩薩天子、重ねて佛法を與すと聞く。故に遣朝し拜す〟。兼ねて沙門數十人來たりて佛法を學ぶ。」

 大業三年(607)に九州王朝の天子、多利思北孤は隋に沙門数十人を派遣し、仏法を学ばせています。この沙門たちにより、隋代史料(写経類)が九州王朝にもたらされ、同時に筆法も導入されたのではないでしょうか。
 他方、隋では大業年間頃(605年~)から筆法に変化が生じ、「撥型」から「押型」などに変化したとすれば、九州王朝にその変化が伝わらなかった、あるいは受容しなかったのかもしれません。そのことを示唆する次の言葉で『隋書』国は締めくくられているからです。

 「此の後、遂に絶つ。」

 このように大業年間以降に九州王朝と隋は国交断絶します。これらの記事と国内史料・隋代史料が示す「撥型」筆法変遷との対応は、偶然の一致とは考えにくいように思われるのです。(終わり)


第2101話 2020/03/05

「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(3)

 七世紀当時の九州王朝公認筆法の「撥(はね)型」は、いつ頃どこから伝わったのかを調べるために、『書道全集』の「第五巻 中国・六朝」「第七巻 中国・隋、唐Ⅰ」(平凡社、昭和30年)を見てみました。
 本調査に当たり、わたしは九州王朝は中国南朝の冊封を受けた時代が長いことから、筆法も南朝の影響を受けているのではないかと推定し、六朝時代から調査を始めたのですが、結論からいえば「撥型」は隋代に集中して出現していました。もっとも、『書道全集』という限定された史料対象から得た「結論」ですから、現時点での理解といわざるを得ませんが、とても興味深い現象でした。
 『書道全集』「第七巻 中国・隋、唐Ⅰ」に見える「撥型」の文字は次の史料に散見されました。JISコードにない旧字体は新字体に改めましたが、「撥型」調査結果には影響しません。

○『佛説月鐙三昧経』「大隋開皇九年」(589)
 「受」

○『大智度論 巻六十二』「開皇十三年」(593)
 「受」「帝」「當」「憂」「常」

○『大方等大集経 巻第廿』「大隋開皇十五年」(595)
 「宀/之」 ※「宀」の下に「之」。

○「美人董氏墓誌」「開皇十七年」(597)
 「宣」「婉」

○「龍山公墓誌」「開皇二十年」(600)
 「帝」「字」「※旁/衣」「官」「宗」「家」 ※「旁」の「方」を「衣」とする字。

○『大般涅槃経 巻第十七』「仁寿三年」(603)
 「當」

 以上の隋代史料に集中して「撥型」が見られましたが、中には判断に迷う字形や、明らかに「撥型」とは異なる字形が混在しているケースもあります。
 他方、大業年間以降(605年~)になると「撥型」が見えなくなり、下記の例のように「押型」など他の筆法に変化しています。これも限定された史料による判断ですから、隋代の一般的字形変遷と断定できませんが、不思議な傾向です。

●『大般涅槃経 巻第卅七』「大業四年」(608)
 「蜜」「受」「割」

●『賢劫経 巻第一』「大業六年」(610)
 「宿」「常」「安」「諦」「學」「當」「家」


第2100話 2020/03/04

「ウ冠」「ワ冠」の古代筆跡管見(2)

 鬼室集斯墓碑碑文の「室」の筆跡が古代に遡る可能性があるとの胡口康夫さんの指摘に基づき国内の古代史料を調査したところ、先に紹介したように法隆寺釈迦三尊像光背銘や『法華義疏』のように、九州王朝系史料に「撥(はね)型」が認められました。このことは九州王朝の時代の七世紀ではこの書体が流行だったのではないでしょうか。
 特に『法華義疏』冒頭の「上宮王」という署名の「宮」がこの「撥型」であることは、九州王朝の上宮王(多利思北孤か)自身がこの筆法を採用していたことを示します。更に、法隆寺釈迦三尊像光背銘も「上宮法皇」(多利思北孤)のためのものですから、「撥型」が当時の九州王朝公認の筆法と考えてよいと思われます。
 それではこの筆法はいつ頃どこから伝わったのでしょうか。そこで、『書道全集』の「第五巻 中国・六朝」「第七巻 中国・隋、唐Ⅰ」(平凡社、昭和30年)を調査しました。(つづく)


第2098話 2020/03/02

沖ノ島出土の

カットグラス碗片(国宝)はペルシャ製

 ウェブニュース(本稿末に転載)によれば、沖ノ島(福岡県宗像市)から出土していたカットグラス碗片(国宝)が5~7世紀の古代イラク(ペルシャ)製であることが判明したとのことです。沖ノ島は九州王朝の海上祭祀の聖地と考えられ、出土したカットグラス片は遙々ペルシャから九州王朝にもたらされたものと思われます。
 このニュースに接して、わたしの脳裏をよぎったのが、『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』(『古代に真実を求めて』22集、古田史学の会編・明石書店、2019年)に掲載された正木裕さん(古田史学の会・事務局長、大阪府立大学講師)の論稿「太宰府に来たペルシアの姫」でした。同論稿によれば、『日本書紀』孝徳紀・斉明紀・天武紀に記された「舎衛女」はペルシアの姫であり、九州王朝の都、太宰府に来たとされています。今回、明らかにされたペルシャ製のカットグラス碗片こそ、このときの九州王朝とペルシャとの交流を示す物証ではないでしょうか。
 正木説と沖ノ島のカットグラス碗片が結びつき、古代のロマンが歴史の真実として蘇ってきたようです。

【共同通信社 2020/03/01 19:42】
ガラス製品、出自は古代イラク 福岡・沖ノ島の出土品
福岡県宗像市の宗像大社は1日、世界文化遺産に登録されている沖ノ島から出土した国宝のガラス製品について、調査の結果、5~7世紀のメソポタミア(現在のイラク)由来と分かったと発表した。ササン朝ペルシャからシルクロードを通って運ばれ、大規模な祭祀の際にささげられたとみられる。今秋に大社で一般公開される予定。
 沖ノ島は玄界灘に浮かぶ孤島で、大社が所有し神職以外の上陸が禁じられている。ガラス製品は、淡い緑色の「カットグラス碗片」(直径5.6センチ、厚さ3~5ミリ)と、深緑色の「切子玉」(長さ3.1~3.7センチ)で、1954~55年に見つかった。

【西日本新聞 2020/3/2 6:00】
国宝の切子玉 メソポタミア伝来 福岡・沖ノ島出土
 福岡県宗像市の宗像大社は1日、同市の世界文化遺産「沖ノ島」から出土した国宝のガラス製品についてササン朝(226~651年)のメソポタミア(現在のイラク)伝来とする化学組成の分析結果を発表した。これまで産地、制作時期ともに推測の域を出なかったが、初めて科学的に裏付けられた。
 東京理科大、岡山市立オリエント美術館との共同研究。組成元素を調べる蛍光エックス線分析で、円形の突起が切り出された容器片「カットグラス碗(わん)片」と細長い形状で中心に糸を通す穴が開く「ガラス製切子玉」を調査した。古代ガラスはローマ帝国でも作られたが、結果はササン朝の「ササンガラス」と組成が類似。碗片は5~7世紀、切子玉は3~7世紀製であるとした。
 碗片と切子玉は沖ノ島8号遺跡(5世紀後半~7世紀)から出土。碗片は類似品などからササン朝由来とされてきたが、切子玉は一切不明だった。宗像大社の福嶋真貴子学芸員は「8号遺跡の年代と大差ない。できあがって間もなく運ばれた」とみる。今後は伝来ルート、祭祀(さいし)上の意味などの研究につながることを期待する。早稲田大の田中史生教授(日本古代史)は「ユーラシアのガラス交易の始点、終点がくっきりしてきた。日本も含めたシルクロードの実態を考える上でも重要な結果だ」と評価する。(小川祥平))


第2084話 2020/02/15

服部さんが「倭姫王」九州王朝天子説発表

 本日、「古田史学の会」関西例会がI-siteなんば(大阪府立大学なんばキャンパス)で開催されました。開催中止3月はI-siteなんば、4月はドーンセンター開催中止で開催します。
 今回の関西例会では、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から発表された「倭姫王」九州王朝天子説について、最も論議が交わされました。『日本書紀』に記された天智の皇后「倭姫王」こそが、九州年号「白鳳」時代の天子(白鳳の君)であるとする仮説です。従って、筑紫君薩野馬は九州王朝の天子ではなく、唐により「筑紫都督倭王」に任命され、白村江敗戦後に帰国したとされました。他方、天智や天武の庇護を得た「倭姫王」が九州王朝の女帝として薩野馬帰国後も難波宮や飛鳥宮で君臨し、その後、文武の時代に王朝交替(禅譲)に至ったとする七世紀後半の歴史復元(仮説提起)を試みられました。
 服部新説の是非や、既に発表されている正木さんの「九州王朝系近江朝」説との関係や整合性など、これからの研究の深化が待たれます。
 この他にも、大原さんによる三星堆遺跡の青銅立神と縄文時代の土偶や土器文様との関係についての新説も興味深い内容でした。
 正木さんからは、「令和」改元の典拠となった万葉歌と序文についての新視点による研究が発表されました。各地の講演会でも好評を得たテーマです。
 満田さんの「八幡大神」研究は、古田学派内では研究者が少ない分野でもあり、今後の活躍が期待されます。いずれも、関西例会ならではの優れた発表でした。
 今回も関東や姫路市など、遠方からの参加者がありました。東京から参加された角田彰男さん(古田史学の会・会員)からは、著書『前方後円墳の謎を解く』(本の泉社、2019年)を「古田史学の会」に寄贈していただきましたので、I-siteなんば(大阪府立大学なんばキャンパス)に設置されている「古田武彦コーナー」に並べました。遠方から参加される皆様にも、「来て良かった」と喜んでいただけるような関西例会を、これからも続けたいと願っています。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔2月度関西例会の内容〕
①七世紀後半近畿天皇家が政権奪取するまで(八尾市・服部静尚)
②「津に臨み、捜露する」倭の津の検察体制(姫路市・野田利郎)
③宇佐八幡宮と八幡信仰について(茨木市・満田正賢)
④神を招く手の形と双眼の造形(大山崎町・大原重雄)
⑤『隋書』国伝を考える(その3)(京都市・岡下英男)
⑥厳然たる巨大古墳の物証(東大阪市・荻野秀公)
⑦令和改元の典拠となった大伴旅人の万葉歌の序の「人間解釈」(川西市・正木 裕)

◆「古田史学の会」関西例会(第三土曜日開催) 参加費500円
開催中止03/21 10:00〜17:00 会場:I-siteなんば(大阪府立大学なんばキャンパス)開催中止
2/23新型コロナウイルス対策として、 I-siteなんばでの 古田史学の会・関西3月21日例会は開催中止となりました。
 開催中止04/18 10:00〜17:00 会場:ドーンセンター開催中止
 開催中止05/16 10:00〜17:00 会場:福島区民センター開催中止

《各講演会・研究会のご案内》
◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 開催中止03/03(火) 10:00〜12:00 (会場:奈良県立図書情報館)
    「聖徳太子の実像を求めて」 講師:正木 裕さん。開催中止
 開催中止04/07(火) 13:00〜17:00 (会場:奈良県立図書情報館)
    日本書紀完成1300年記念講演会開催中止
    講師:正木裕さん、服部静尚さん、満田正賢さん、大原重雄さん、古賀。

◆「和泉史談会」講演会(辻野安彦会長。会場:和泉市コミュニティーセンター) 参加費500円
開催中止03/10(火) 14:00〜16:00 「(仮)池上曽根遺跡と泉州の古代」
講師:高瀬裕太さん(大阪府立弥生文化博物館学芸員)。開催中止

◆「市民古代史の会・京都」講演会(事務局:服部静尚さん・久冨直子さん)。毎月第三火曜日(会場:キャンパスプラザ京都) 参加費500円
02/18(火) 18:30〜20:00 「能楽の中の古代史(2)本当は不思議な高砂」 講師:正木 裕さん。
03/17(火) 18:30〜20:00 「理系の古代史(その1)二倍年歴の世界」 講師:服部静尚さん。

開催中止
04/21(火) 18:30〜20:00 「理系の古代史(その2)解明された万葉の染と色」 講師:古賀達也。開催中止

◆「古代講演会in八尾」(会場:八尾市文化会館プリズムホール 近鉄八尾駅から徒歩5分) 参加費500円

開催順延4月11日(土)から開催順延し、6月13日になりました。
 6月13日(土):午後2時〜4時30分
 04/11(土) 13:30〜16:30  ①「卑弥呼」から「倭の五王」の世界 ②「蘇我・物部戦争と河内」 講師:服部静尚さん。

◆久留米大学講演会(久留米大学御井キャンパス)
06/07(日) 14:30〜16:00 「『日本書紀』に息づく九州王朝」 講師:古賀達也
06/14(日) 14:30〜16:00 「継体と『磐井の乱』の真実」 講師:正木 裕さん


第2077話 2020/02/07

観世音寺創建年を再考する(1)

 学問研究は真実を求め、真実に至るための営みですが、それは一直線に到達できるものではなく、立ち止まったり右往左往、ときには引き返すということもあります。また、自説が論証や実証により成立し、真実に至ったと自分は思っていても、それを超える他者の研究により自説が間違っていたり不十分であることがわかるのは、学問が持つ本質的な性格です。そのことをドイツの学者、マックス・ウェーバー(1864-1920)が、1917年にミュンヘンで行った講演録『職業としての学問』に次のように記しています。

 〝(前略)学問のばあいでは、自分の仕事が十年たち、二十年たち、また五十年たつうちには、いつか時代遅れになるであろうということは、だれでも知っている。これは、学問上の仕事に共通の運命である。いな、まさにここにこそ学問的業績の意義は存在する。(中略)学問上の「達成」はつねに新しい「問題提出」を意味する。それは他の仕事によって「打ち破られ」、時代遅れとなることをみずから欲するのである。学問に生きるものはこのことに甘んじなければならない。(中略)われわれ学問に生きるものは、後代の人々がわれわれよりも高い段階に到達することを期待しないでは仕事することができない。原則上、この進歩は無限に続くものである。〟(『職業としての学問』岩波文庫版、30頁)

 わたしはマックス・ウェーバーのこの指摘は学問の金言と思っていますし、〝学問上の「達成」はつねに新しい「問題提出」を意味する。それは他の仕事によって「打ち破られ」、時代遅れとなる〟ということを頭では理解しているのですが、自説の誤りや欠点を自ら気づくことは容易ではありません。そのため、研究会での口頭発表や論文発表などで自説を開示し、他の研究者の評価に委ねなければなりません。幸い、わたしの周囲には真摯に拙論を批判したり、疑問を投げかけてくれる信頼すべき友人たちがいます。こうした学問的環境こそ、真理に至る(近づく)ためには不可欠なのです。「古田史学の会」の存在意義の一つはこうした点にあります。
 先に発表した「洛中洛外日記」2073話「難波京朱雀大路の造営年代(8)」において、次のように記しました。

 〝都市や宮殿の設計尺によるそれら遺構の相対編年を推定するにあたり、安定した暦年との対応が可能な遺構として、前期難波宮と観世音寺をわたしは重視しています。というのも、いずれも九州王朝によるものであり、創建年も「29.2cm尺」の前期難波宮が652年(白雉元年)、「29.6〜29.8cm尺」の観世音寺が670年(白鳳十年)とする説が史料根拠に基づいて成立しているからです。〟

 この観世音寺に対するわたしの認識に対して、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)と正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から本質的な質問と指摘をいただきました。いずれも重要な問題を含んでおり、自説を見直す上でも良い機会ですので、観世音寺の創建について改めて考察することにしました。(つづく)


第2049話 2019/12/03

『東京古田会ニュース』189号の紹介

 『東京古田会ニュース』189号が届きました。今号には拙稿「即位礼正殿の儀の光景 -『黄櫨染御袍』考-」を掲載していただきました。本稿は、天皇しか着ることが許されていないという「黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)」の染色に使用された天然染料(櫨、蘇芳)とその染色技術(金属媒染)について考察したものです。国内に自生していない蘇芳の入手や九州王朝(倭国)海軍についても触れました。
 今号で改めて注目したのが橘高修さん(東京古田会・事務局長、日野市)の論稿「古田武彦の『八面大王論』(幷私論)」でした。信州に遺る古代伝承「八面大王」は九州王朝滅亡期に信州に逃げた筑紫君薩野馬のこととする古田説を解説し、『日本書紀』に見える「鼠」が登場する記事の分析から、この「鼠」とは九州王朝勢力のことであり、「八面大王」の勢力を現地史料では「鼠族」と呼ばれていることを古田説の傍証として紹介されました。
 橘高さんは、『日本書紀』に見える「鼠」を九州王朝のこととする論稿「鼠についての考察」を『東京古田会ニュース』152号(2013年9月)に発表されていたのですが、当時は「このような捉え方もあるのか」と思った程度で、わたしはあまり関心を払いませんでした。論証成立の当否も半信半疑だったと思います。ところが今回改めて拝読しますと、『日本書紀』の「鼠」記事全てとは言えないまでも、仮説としては成立するのではないかと考えるようになりました。
 橘高稿にもあげられていますが、『日本書紀』には、鼠が集団で移動すると、それは遷都の兆しとする記事が散見されます。たとえば、大化元年(645)十二月条には鼠が難波に向かったことを難波遷都の兆しとする記事があり、「前期難波宮九州王朝複都」説に対応していそうです。天智五年(666)是冬条には、京都の鼠が近江に移るという記事があり、これも「九州王朝の近江遷都」説に対応していると捉えることもできます。このように、十数年来、わたしが提起してきた仮説と橘高説は対応していることに、遅まきながら気づいた次第です。なお、橘高さんによる八面大王伝承の紹介論稿「安曇野に伝わる八面大王説話」が『倭国古伝』(古田史学の会編、明石書店)に収録されていますので、ぜひご参照下さい。


第2040話 2019/11/17

『隋書』国伝について本格論戦始まる

 昨日、「古田史学の会」関西例会がアネックスパル法円坂(大阪市教育会館)で開催されました。12月はI-siteなんば、1月はアネックスパル法円坂、2月はI-siteなんばで開催します。
 1月は例会翌日の19日(日)午後に恒例の「新春古代史講演会」(会場:アネックスパル法円坂)も開催します。こちらにも、ぜひご参加下さい。
 今回の関西例会では、野田さんとインドから帰国された日野さんから、『隋書』国伝の新読解による新説が発表されました。野田説によれば秦王国を山口県、国の都を大阪の難波とされ、日野説では『隋書』に見える国と倭国は別国で、倭国と秦王国は大和朝廷でもないとされました。その上で秦王国は吉備にあったとされました。
 国伝の行程記事の読解方法などについて、参加者と論争が続けられました。通説や古田説とも異なる、こうした異説・新説が自由に発表され、真摯な論争が続けられることは「古田史学の会」関西例会の面目躍如と言えます。これからの展開が期待されます。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔11月度関西例会の内容〕
①七支刀は鍛造で再現されていた(大阪市・中山省吾)
②三種の神器をヤマト王権は何時手に入れたか(八尾市・服部静尚)
③壬申の乱は「大乱」か「小乱」か(川西市・正木 裕)
④前期難波宮設置に関する一考察(茨木市・満田正賢)
⑤『隋書』の秦王国と倭国(たつの市・日野智貴)
⑥秦王国、十余国、海岸 ー隋書国伝の新解釈 その2ー(姫路市・野田利郎)
⑦「倭姫命世記(紀)」についてⅣ(東大阪市・萩野秀公)

○事務局長報告(川西市・正木 裕)
《会務報告》
◆「古田史学の会」新年古代史講演会
 01/19 13:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
 ※難波宮の考古学的テーマと新年号「令和」に関わる『万葉集』をテーマとすることを検討しています。

◆「古田史学の会」関西例会(第三土曜日開催) 参加費500円
 12/21 10:00〜17:00 会場:I-siteなんば
 01/18 10:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
 02/15 10:00〜17:00 会場:I-siteなんば

◆11/09〜10「古田武彦記念 古代史セミナー2019」の報告(古賀、冨川さん)。

《各講演会・研究会のご案内》
◆「誰も知らなかった古代史」(正木 裕さん主宰。会場:森ノ宮キューズモール) 参加費500円
 11/22 18:30〜20:00 「盗まれた天皇陵 俾弥呼の墓はどこに」講師:服部静尚さん。

◆「古代史の会・八尾」(会場:八尾市文化会館プリズムホール 近鉄八尾駅から徒歩5分) 参加費500円
 01/11(土) 13:30〜16:30  ①「卑弥呼の世界」②「飛鳥の謎-飛鳥浄御原宮はどこだ」講師:服部静尚さん。
 04/11(土) 13:30〜16:30  ①「卑弥呼」から「倭の五王」の世界②「蘇我・物部戦争と河内」講師:服部静尚さん。

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 12/03 10:00〜12:00 (会場:奈良新聞本社西館)
    「誰も知らなかった万葉歌(4)白村江前夜に身籠もった大王と幻の飛鳥」講師:正木 裕さん。

◆「和泉史談会」講演会(辻野安彦会長。会場:和泉市コミュニティーセンター) 参加費500円
 12/10 14:00〜16:00 「仮・江戸時代の自然災害」講師:岡本康敬さん。

◆「市民古代史の会・京都」講演会(事務局:服部静尚さん・久冨直子さん)。毎月第三火曜日(会場:キャンパスプラザ京都) 参加費500円
11/19 18:30〜20:00 「能楽の中の古代史(1)謡曲「羽衣」に秘められた古代史」講師:正木 裕さん。
 12/17 18:30〜20:00 「聖徳太子と十七条憲法」講師:服部静尚さん。

◆水曜研究会
 11/27(水) 13:00〜17:00 会場:豊中倶楽部自治会館