九州王朝(倭国)一覧

第2008話 2019/10/08

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(3)

 西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)が「五畿七道の謎」(『発見された倭京 ー太宰府都城と官道ー』収録。2018年)を執筆されたきっかけは、大和を起点とする古代官道「七道」の中になぜ「北海道」がないのかという疑問でした。その「解」を求めるために、太宰府を起点とした九州王朝(倭国)の官道という視点で検討した結果、太宰府→壱岐→対馬→朝鮮半島南岸という海北の道「北海道」を〝発見〟されたのでした(「五畿七道の謎」、『古田史学会報』131号、2015年12月)。
 この太宰府起点という仮説に基づいて、一元史観の通説では不明とされてきた『日本書紀』景行紀に見える「東山道十五國」の謎を解明されたのが山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)による秀逸の論文「『東山道十五國』の比定 ー西村論文『五畿七道の謎』の例証ー」(『発見された倭京 ー太宰府都城と官道ー』古田史学の会編・明石書店、2018年)であることは、何度も紹介してきたところです。
 「東海道」と「東山道」の最終目的地は共に「東」の蝦夷國とした仮説と同様に、「北海道」と「北陸道」が目指した終着点も同じ「北」国としたとき、太宰府から北西(朝鮮半島)に向かう「北海道」と東北へ向かう「北陸道」とは別方向に向かっているようで不自然と思ってきました。西村さんも「北海道」の到着点を朝鮮半島南岸の金海付近と捉えておられましたので、わたしもそのように理解していました。しかし、同じ「北」国へ向かう「道」とする視点を徹底しますと、その「北」国とは北方の大国「粛慎(しゅくしん・みしはせ)」(ロシア沿海州方面)ではないかと気づいたのです。
 『日本書紀』には斉明紀などに粛慎との交戦記事が見え、七世紀には九州王朝と粛慎は敵対関係にあったことがうかがえます。その粛慎は日本海を渡って越国(佐渡島)に侵入しており(欽明五年十二月条、544年)、九州王朝も水軍(阿部臣)で応戦しています(斉明六年三月条、660年)。従って、粛慎との戦闘地域(事実上の「国境」か)である越国(新潟県・秋田県)方面への進軍(陸軍)ルートとしての「北陸道」と、海上からの進軍(水軍)ルートとしての「北海道」が必要となります。そうしますと、「北海道」の終着点は朝鮮半島南岸ではなく、朝鮮半島東岸沿いに新羅・高句麗へと進み、更に終着点としての粛慎に至る「道」として「北海道」が設定されたと考えなければなりませんし、海流を考慮してもこのルートは可能なものです。
 以上のような論理展開(論証)により、「東」の大国「蝦夷国」と「北」の大国「粛慎国」へ向かう官道として「東海道」「東山道」と「北海道」「北陸道」が設定され、それぞれの方面軍と将軍(都督)たちが任命されたと考えることが可能となり、特に説明困難だった「北陸道」の名称と位置づけについてもリーズナブルな理解が可能となりました。そうしますと、論理は更に展開(論証の連鎖)し、残された「西海道」と「南海道」についても、それぞれが向かう終着点はどこなのかという問いが、避けがたく発生するのです。(つづく)


第2007話 2019/10/07

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(2)

 古代の東北地方を代表する石碑として、多賀城碑(宮城県多賀城市)と日本中央碑(青森県東北町)は有名です。中でも多賀城碑には「天平寶字六年十二月一日」(762年)と造碑年が記されており、大和朝廷による蝦夷國征討に関わる石碑であることが推定されます。その碑文中に「東山道節度使」「按察使鎮守将軍」という官職名が見え、大和朝廷が東山道を北上して蝦夷征討将軍(大野朝臣東人、藤原恵美朝獦)を派遣したと思われます。

【多賀城碑碑文】
西

多賀城
 去京一千五百里
 去蝦夷國界一百廿里
 去常陸國界四百十二里
 去下野國界二百七十四里
 去靺鞨國界三千里
此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將
軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置
也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山
節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守
將軍藤原惠美朝臣朝獦修造也
天平寶字六年十二月一日

 このことから、大和朝廷の時代ではありますが、「東山道」の最終目的地は蝦夷國だったのではないかと推定できます。なぜなら、蝦夷国内の官道は蝦夷国により造成され、命名されていたはずですから、大和朝廷あるいは九州王朝が自らの官道を「東山道」と命名できるのは蝦夷國の地までと考えざるを得ないからです。
 この理解からすれば「東海道」も同様で、海岸沿いや海上に造営・設定された「東海道」も、「東山道」と同方向の「東」を冠していることから、最終目的地は共に蝦夷國となります。すなわち、倭国(九州王朝)や日本国(大和朝廷)にとって、「東」に位置する大国(隣国)である蝦夷國へ向かう官道として「東山道」「東海道」が造営され、それぞれの方面軍司令官として「都督」「節度使」「按察使鎮守将軍」が任命されたのではないでしょうか。
 以上の理解を更に敷衍すると、本シリーズのテーマである「北海道」や「北陸道」も同様に「北」に位置する大国への「道」と考えなければなりません。その「北」の大国とはいずれの国でしょうか。(つづく)


第2006話 2019/10/06

九州王朝の「北海道」「北陸道」の終着点(1)

 「洛中洛外日記」2002話(2019/09/28)〝九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(6)〟で、山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)の「『東山道十五國』の比定 ー西村論文『五畿七道の謎』の例証ー」(『発見された倭京 ー太宰府都城と官道ー』古田史学の会編・明石書店、2018年)を紹介したところ、わたしのFACEBOOKに読者のKさんから意表を突いたコメント(質問)が寄せられました。そして、その質問から〝古代官道〟について、想像もしなかった壮大な仮説が生まれたのです。
 多元史観(古田史学)に基づく九州王朝(倭国)の古代官道に関する画期をなした研究(問題提起)として、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の論稿「五畿七道の謎」(『発見された倭京 ー太宰府都城と官道ー』収録)があります。その西村説によれば、九州王朝の「北陸道」を今の「山陰道+北陸道」のこととされ、同じく「北海道」を太宰府を起点とした壱岐・対馬から朝鮮半島に向かう海上の道とされました。わたしもこの西村説を支持しており、そのことを示す地図をFACEBOOKで紹介したのですが、それを読まれたKさんから、太宰府から東に向かって伸びている道を「北陸道」とすることに対して疑問が寄せられたのです。
 確かにこの疑問には一理あります。日本列島は太宰府から東北方向に伸びており、それに沿って「東海道」「東山道」があります。それらと並行して山陰地方を東に向かう「道」を「北陸道」とするのはいかにも不自然です。「東海道」「東山道」と同じように「東○道」と命名してほしいところです。しかし、「海」と「山」以外の適切な名称(字)が思い当たりません。この「山陰道+北陸道」の「道」の名称が「北陸道」でなければ、九州王朝は何と呼んでいたのだろうかと、この数日間、考え続けてきました。そのようなとき、わたしの脳裏に浮かんだのが多賀城碑の碑文でした。(つづく)


第2005話 2019/10/04

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(8)

 『倭国古伝』の出版記念東京講演会で参加者からいただいたご質問により、「都督」と「評督」の関係について、諸史料に基づき、どのような論理性が存在するのか考察を進めてきました。まだ〝正解〟には至っていませんし、新たな史料が見つかるかもしれませんが、とりあえず中間「回答」として、到達した認識をまとめてみます。

①七世紀後半の「評制」期間の九州王朝(倭国)に「都督」がいたとする史料痕跡には、『日本書紀』景行紀「東山道十五國都督」(年代が異なる)、天智紀「筑紫都督府」(唐が置いたとする見解もある)と『二中歴』「都督歴」(「大宰帥」を唐風に「都督」と後代に表記したとする見解あり)がある。
②しかしながら、いずれの史料理解にも異論が存在し、現時点の研究情況では確かな史料根拠とまでは断定できない。
③また、当時の九州王朝の行政単位は、九州王朝(倭王)・方面軍管区(総領)・各国(国司・国造)・各評(評督)と思われ、倭王から任命された「都督」がいたとしても、それは中央政府としての「筑紫都督」、あるいは方面軍管区の「都督」(「東山道都督」)という位置づけであり、いずれのケースも「評督」の〝直属の上位職〟とは言いがたい。

 およそ、以上ような解説を講演会ではしなければならなかったのですが、とてもそのような説明時間はありませんでした。「洛中洛外日記」での本シリーズをもって、とりあえずの回答とさせていただきます。ご質問していただいた方や参加された皆様に感謝いたします。

《追記とお詫び》
 本テーマの(6)で提起した、『日本書紀』景行五五年条の「彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。」を根拠として、「都督」に任命されたのは「筑紫都督」(蘇我臣日向)・「東山道都督」(彦狭嶋王)だけではなく、他の「東海道都督」や「北陸道都督」らも同時期に任命されたのではないかとする作業仮説について、山田春廣さんが『発見された倭京 -太宰府都城と官道』のコラム⑥「東山道都督は軍事機関」において既に発表されていました。この先行説の存在を失念していました。申し訳ありませんでした。


第2003話 2019/09/29

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(7)

 『日本書紀』景行五五年条の「彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。」を根拠として、おそらく「都督」に任命されたのは「筑紫都督」(蘇我臣日向)・「東山道都督」(彦狭嶋王)だけではなく、他の「東海道都督」や「北陸道都督」らも同時期に任命されたのではないかとする作業仮説(思いつき)についても、それが妥当か否か、「古田史学の会」関西例会で研究者のご意見を聞いてみました。
 そうしたところ、茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集部員)から、『日本書紀』に見える「四道将軍」が「都督」ではないかとするご指摘をいただきました。そこで更にわたしが「将軍と都督を同じとしても問題ありませんか」とたずねると、中国史書には「将軍」と「都督」が同じ人物とする例があるとの返答でした。確かに『宋書』倭伝にも倭の五王の称号として、倭王武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」としており、その称号中に「都督」と「将軍」があります。
 茂山さんが指摘された『日本書紀』崇神十年九月条に見える、いわゆる「四道将軍」(大彦命・武渟川別・吉備津彦・丹波道主命)を「四道」(「北陸」「東海」「西道」「丹波」)に派遣する記事は、景行紀の「東山道十五國都督」の先例かもしれません。しかし、この記事の実年代は4世紀頃とされていますから、倭国が中国南朝の冊封を受けていた時代です。当時は倭王自身が中国の天子の下の「都督」「将軍」と思われますから、日本列島内征討軍のトップが倭王と同列の「都督」の称号を持つことは考えにくいと思われます。
 とは言え、この記事のように「道」毎に「方面軍」を派遣し、支配領域を拡大するという戦略は倭国の伝統的な方法ではないでしょうか。茂山さんのご指摘により、こうしたテーマへの認識を深めることができました。(つづく)


第2002話 2019/09/28

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(6)

 九州王朝(倭国)の「都督」を論じる際、必ず触れなければならない出色の論文があります。山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)の「『東山道十五國』の比定 ー西村論文『五畿七道の謎』の例証ー」(『発見された倭京 ー太宰府都城と官道ー』古田史学の会編・明石書店、2018年)です。
 この山田論文はそれまで不明とされてきた『日本書紀』景行五五年条に見える、「彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。」の「東山道十五國」が九州王朝の都太宰府を起点とした国数であるという、目の覚めるような論証に成功されました。その上で、この「東山道十五國の都督」任命記事について、「倭王が『天子』となり、『朝庭』を開いた時代において、信頼する有力な者を『東山道の周辺諸国』を監察する『都督』(軍を自由に動かすことができる官職)に任命した」と解されました。この指摘は九州王朝の全国支配体制を考察する上で、貴重な仮説と思われます。
 山田論文にある「倭王が『天子』となり、『朝庭』を開いた時代」こそ、日本列島初の朝堂院様式の宮殿(朝庭)を持つ前期難波宮創建(652年、九州年号の白雉元年)の頃に対応するものと思われます。すなわち、7世紀中頃の評制施行時期に「東山道十五國都督」が任命されたのではないでしょうか。この点、もう少し丁寧に論じます。それは次のようです。

①山田論文によれば、景行紀の「東山道十五國」という表記は太宰府を起点とした国数であることから、それは九州王朝系史料に基づいている。
②そうであれば、彦狭嶋王を「東山道十五國の都督」に任じたのも九州王朝と考えざるを得ない。
③従って、「都督」という官職名も九州王朝系史料に基づいたことになる。
④中国南朝の冊封を受けていた時代は、九州王朝の倭王自身が「都督」であるから、その倭王が部下を「都督」に任じたということは、中国南朝の冊封から外れた6世紀以降の記事と見なさざるを得ない。
⑤『二中歴』「都督歴」によれば最初の「都督」に蘇我臣日向が任じられた年を「孝徳天皇大化五年(649)」としていることから、彦狭嶋王の「東山道十五國の都督」任命もこの頃以降となる。

 およそ、このような論理構造(論証)によれば、景行紀の「都督任命」記事は、本来は7世紀中頃のこととすべきではないでしょうか。この理解が正しければ、おそらく「都督」に任命されたのは「筑紫都督」(蘇我臣日向)・「東山道都督」(彦狭嶋王)だけではなく、他の「東海道都督」や「北陸道都督」らも同時期に任命されたのではないかと想像されます。しかしながら、彦狭嶋王の年代はもっと古いとする研究(藤井政昭「関東の日本武命」、『倭国古伝』古田史学の会編・明石書店、2019年)もあり、この点、引き続き検討が必要です。(つづく)


第2001話 2019/09/27

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(5)

 『二中歴』「都督歴」に見える記事「孝徳天皇大化五年(649)」を根拠に、九州王朝が評制施行と同時期に筑紫の「都督」も任命したと理解してよいのか、それとも本来は「太宰帥」とあった官職名を「都督歴」成立時に唐風に「都督」と記したと理解するのかで、7世紀後半の「評制」期において、「都督」を「評督」の上位職としてよいのかどうかが決まります。そこでこのテーマに関して、9月21日の「古田史学の会」関西例会で正木裕さん(古田史学の会・事務局長)のご意見を聞いてみました。
 正木さんのご意見は、筑紫小郡の「飛鳥」にいた九州王朝の天子が太宰府に「都督」を置いたというものでした。これは九州王朝の天子の臣下としての「都督」です。
 この見解に立ったとき、更に問題となるのが、この筑紫の「都督」を「評督」の直属の上司とできるのかということです。行政区画としての「評」の上には「国」があり、行政単位としての「国」が機能していたとすれば、そのトップとして「国司」「国造」の存在もあったわけですから、その場合、「評督」の直属の上位職は「国司」あるいは「国造」となります。これは7世紀後半における九州王朝(倭国)の統治形式やそれを定めた「九州王朝律令」に関わる重要な研究テーマです。
 そうなりますと、九州王朝における「都督」の性格に関する考察が必要です。このことについても、わたしには思い当たることがあり、「古田史学の会」関西例会に参加されていた研究者にご意見を聞いてみました。(つづく)


第2000話 2019/09/26

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(4)

 『二中歴』「都督歴」冒頭の次の記事を根拠に、わたしは「評督」の上位職として、筑紫に「都督」もいたという可能性について考えて続けてきました。

 「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」(古賀訳)『二中歴』「都督歴」

 もしこの「都督歴」の記事が歴史事実であれば、「孝徳天皇大化五年(649)」に筑紫に「都督」がいたことになり、同時にその居所の「筑紫本宮」が筑紫の「都督府」と考えざるを得ません。そうすると『日本書紀』天智6年条(667)に見える「筑紫都督府」は、「評督」の上位職である「都督」がいた九州王朝による「筑紫都督府」と理解することが可能となります。
 この天智紀の「筑紫都督府」を巡っては、古田学派内でも九州王朝の「都督府」とする説と、白村江戦後に唐が倭国に置いた「都督府」とする説があり、今日まで論争が続いてきました。古田先生も両説の間を揺れ動かれたことがあるほどの難問ですので、用心深く検討を続けます。(つづく)


第1999話 2019/09/25

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(3)

 『倭国古伝』出版記念東京講演会で、会場の参加者からいただいた二つ目の質問「都督は評督の上位職位か」について、わたしは用語としての「評督」の淵源として「都督」があり、両者の関係は認められるが、職掌としては「都督」は「評督」の上位職ではないと返答しました。
 このときのわたしの認識は、『宋書』などに見える倭王が「都督」と名乗っているのは、中国南朝の冊封を受けた九州王朝(倭国)の時代のことであり、評制が施行された7世紀中頃は中国南朝は滅んでおり、九州王朝(倭国)の天子は「都督」を名乗っていないと考えていました。九州王朝の天子(倭王)が各地の「評督」を任命したわけですから、この時代では「都督」が「評督」の上位職ではありえないとしたわけです。
 しかし、この考えは本当に正しいのだろうかと、講演会以後、わたしはずっと気になっていました。というのも、『二中歴』所収「都督歴」冒頭の次の記事が脳裏に浮かんでいたからです。

 「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」(古賀訳)『二中歴』「都督歴」

 この記事については、「洛中洛外日記」655話(2014/02/02)〝『二中歴』の「都督」〟777話(2014/08/31)〝大宰帥蘇我臣日向〟1579話(2018/01/18)〝「都督歴」と評制開始時期〟で論じていますのでご参照いただきたいのですが、この「都督歴」の記事が歴史事実であれば、「孝徳天皇大化五年(649年)」に初めて蘇我臣日向が「筑紫本宮」の「都督」に任じられたわけですから、ちょうどこの時期に施行された「評制」と対応しています。そうすると、全国各地の「評督」の上位職として「筑紫本宮」の「都督」も存在していたことになります。もちろんこの場合の「都督」は九州王朝の天子の臣下としての「都督」です。
 通説ではこの「都督」とは「太宰帥」の唐風の呼び方であり、実際に7世紀中頃に「都督府」や「都督」が筑紫に実在していたとはされていません。しかし、この通説の理解が正しいとは考えにくいため、やはり7世紀中頃に任命された各地の「評督」の上位職として筑紫の「都督」がいたと考えるべきではないかと、わたしの認識は揺れ動いていたのです。(つづく)


第1997話 2019/09/22

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(2)

 『倭国古伝』出版記念東京講演会で、会場の参加者からいただいた質問は次の二つです。

①評制の開始時期はいつ頃か。
②都督は評督の上位職位か。

 ①の回答として、評制開始時期を七世紀中頃、より正確には648〜649年頃としました。このこと自体は妥当な見解ですが、その根拠として、「七世紀中頃に評制が全国的に開始されたとする史料が10点くらいある」と説明しました。しかし、これはわたしの思い違いでした。ある地域の「建評」記事が記された史料を加えればそのくらいはあるのですが、全国的な評制開始と解しうる記事は管見では次の5史料でした。詳細は「洛中洛外日記」(2018/01/13)〝評制施行時期、古田先生の認識(9)〟をご参照下さい。

①『皇太神宮儀式帳』(延暦二三年・八〇四年成立)
 「難波朝廷天下立評給時」
 難波朝廷(孝徳期、七世紀中頃)が天下に評制を施行(立評)したと記されています。
②『粟鹿大神元記』(あわがおおかみげんき。和銅元年・七〇八年成立)
 「難波長柄豊前宮御宇天万豊日天皇御世。天下郡領并国造県領定賜。」
 この記事を含む系譜部分の成立は和銅元年(七〇八)とされており、『古事記』『日本書紀』よりも古い。「天下郡領」とありますが、七世紀のことですから実体は“孝徳天皇の御世に天下の評督を定め賜う”です。
③『類聚国史』(巻十九国造、延暦十七年三月丙申条)
 「昔難波朝廷。始置諸郡」
 ここでは「諸郡」と表記されていますが、「難波朝廷」の時期ですから、その実体は“昔、難波朝廷がはじめて諸評を置く”です。
④『日本後紀』(弘仁二年二月己卯条)
 「夫郡領者。難波朝廷始置其職」
 ここでも「郡領」とありますが、「難波朝廷」がその職を初めて置いたとありますから、やはりその実体は「評領」あるいは「評督」となります。
⑤『続日本紀』(天平七年五月丙子条)
 「難波朝廷より以還(このかた)の譜第重大なる四五人を簡(えら)ひて副(そ)ふべし。」
 これは難波朝廷以来の代々続いている「譜第重大(良い家柄)」の「郡の役人」(評督など)の選考について述べたものです。この記事から「譜第重大」の「郡司」(評督)などの任命が「難波朝廷」から始まったことがわかります。すなわち、「評制」開始時期を「難波朝廷」の頃であることを示唆する記事です。

 以上のように、『日本書紀』(七二〇年成立)の影響を受けて、「評」を「郡」と書き換えているケースもありますが、その言うところは例外無く、「難波朝廷」(七世紀中頃)の時に「評制」が開始されたということです。それ以外の時期に全国的に「評制」が開始されたとする史料は見えませんから、多元史観であろうと一元史観であろうと、史料事実に基づくかぎり、「評制」開始は七世紀中頃とせざるを得ません。
 先に述べたように、ある地域における七世紀中頃での「建評」記事はこの他にも散見されますが、そうした地域限定記事だけを根拠に九州王朝の全国的「評制」開始時期を判断することはできません。(つづく)


第1996話 2019/09/21

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(1)

 9月16日に開催した『倭国古伝』出版記念東京講演会(文京区民センター、古田史学の会・主催)で、会場の参加者からとても重要なご質問をいただきました。それは次の二つの質問です。

①評制の開始時期はいつ頃か。
②都督は評督の上位職位か。

講演会では会場使用の締め切り時間が迫っていたこともあり、丁寧な返答ができませんでしたし、わたしの記憶違いなどもあって、不十分で不正確な回答となってしまいました。
 その後、ご質問の内容と自らの回答の当否が気になっていたため、検討を続けてきました。その結果、九州王朝(倭国)における「都督」問題について新たな可能性に気づきましたので、この「洛中洛外日記」でご質問への回答に修正を加え、新たに到達した認識について報告します。ご質問していただいた方がこの「洛中洛外日記」を読んでおられればよいのですが。(つづく)


第1987話 2019/09/11

曹操墓と日田市から出土した鉄鏡

 先日、冨川ケイ子さん(古田史学の会・全国世話人、相模原市)と正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から、曹操墓出土の鏡が大分県日田市から出土していた金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)と酷似しているとの報道(朝日新聞)があったことをお知らせいただきました(本稿末尾に「朝日新聞デジタル」の記事を転載しました)。
 同鉄鏡については「洛中洛外日記」でも何度か取り上げてきました。「邪馬台国」の卑弥呼の鏡とする見解にはただちに賛成できませんが、このような超一級の鏡が日田市から出土していたことは九州王朝説でなければ説明しにくいと思います。大和朝廷一元史観に立つ限り、記事にあるように〝「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」がなぜ九州に――。研究者らは首をかしげる。〟という疑問を永久に解決できないのです。
 たとえば、「洛中洛外日記」411話(2012/05/10)「筑紫君の子孫」では日田市と九州王朝の王族「筑紫君」について次のように紹介したことがあります。

【以下、転載】
 (前略)
 今日は九州王朝の天子、筑紫君の子孫についてご紹介します。この20年ほど、わたしは九州王朝の末裔について調査研究してきました。その一つとして筑紫君についても調べてきましたが、福岡県八女市や広川町の稲員家(いなかず・高良玉垂命の子孫)が九州王朝末裔の一氏族であることが古田先生の調査で判明したことは、今までも何度かご紹介してきたところです。
 それとは別に筑前に割拠した筑紫一族についても調べたのですが、今一つわからないままでした。ところが、江戸時代後期に編纂された『筑前国続風土記拾遺』(巻之十八御笠郡四。筑紫神社。青柳種信著)に、筑紫神社の神官で後に戦国武将筑紫広門を出した筑紫氏について次のように記されていました。
 「いにしへ當社の祭を掌りしは筑紫国造の裔孫なり。是上代より両筑の主なり。依りて姓を筑紫君といへり。」
 そしてその筑紫君の祖先として、田道命(国造本紀)・甕依姫(風土記)・磐井・葛子らの名前があげられています。この筑前の筑紫氏は跡継ぎが絶えたため、太宰少貳家の庶子を養子に迎え、戦国武将として有名な筑紫広門へと続きました。ところが、関ヶ原の戦いで広門は西軍に与(くみ)したため、徳川家康から所領を没収され、その子孫は江戸で旗本として続いたと書かれています。
 現代でも関東地方に筑紫姓の人がおられますが、もしかすると筑前の筑紫氏のご子孫かもしれません。たとえば、既に亡くなられましたが、ニュースキャスターの筑紫哲也さんもその縁者かもしれないと想像しています(大分県日田市のご出身らしい)。
 というのも、古田先生の著書『「君が代」は九州王朝の讃歌』を筑紫哲也さんに贈呈したことがあるのですが、そのおり直筆の丁寧なお礼状をいただいたことがあったからです。筑紫さんは古田先生の九州王朝説のことはご存じですから、ご自身の名前と九州王朝との関係に関心を持っておられたのではなかったでしょうか。生前にお尋ねしておけばよかったと今でも悔やんでいます。
【転載おわり】

 もちろん、筑紫哲也さんの出身地が日田市だったことと、当地から出土した金銀錯嵌珠龍文鉄鏡とを直接関連付けることは学問的ではありませんが、九州王朝説に立てば日田市からの出土は不可解ではありません。
 他方、朝日新聞(9/08)に掲載された九州大学の辻田淳一郎准教授のコメント「中国でも最高級の鏡が日田地域で出土したことの説明が困難で、もしダンワラで出土したとするなら、近畿などの別の土地に持ち込まれたものが、日田地域に搬入された可能性が考えられる。」を読んで、一元史観の〝宿痾〟の根深さを改めて痛感しました。こうした見解を考古学者が述べるのであれば、少なくとも近畿地方から同類の鉄鏡が他地域よりも圧倒的多数出土していることをエビデンスとして提示する必要がありますが、そうした報告書や論文など見たことも聞いたこともありません。
 九州王朝の〝お膝元〟である九州大学の若い准教授がこうした大和朝廷一元史観という『日本書紀』のイデオロギー(神代の昔から大和朝廷こそわが国の唯一で卓越した権力者である)に沿ったコメントを行わざるを得ないわが国古代史学界の「岩盤規制」をどのようにして突破していくのか、わたしたち古田学派の使命は重大です。
 同じくコメントを寄せられている西川寿勝さん(大阪府狭山池博物館)は、「出土地をめぐる謎は逆に深まった感があるものの、鉄鏡は日本列島の古墳から5面前後出土しており、潘研究員の指摘がこれらを再検討するきっかけになるのでは」と述べられており、こちらは古代の「鏡」の専門家らしい慎重で学問的な表現と思いました。

【朝日新聞デジタル 9/8 より転載】
曹操墓出土の鏡、大分の鏡と「酷似」 中国の研究者発表

 中国の三国志時代の英雄で、魏の礎を築いた曹操(155〜220)。その墓から出土した鏡が、大分県日田市の古墳から戦前に出土したとされる重要文化財の鏡と「酷似」していることがわかった。
 中国の河南省安陽市にある曹操の墓「曹操高陵」を発掘した河南省文物考古研究院の潘偉斌研究員が、東京国立博物館で開催中の「三国志」展(16日まで)に関連した学術交流団座談会で明らかにした。
 2008年から行われた発掘で見つかったが鉄製でさびがひどく、文様などはよくわかっていなかった。同研究院でX線を使って調査したところ、表面に金で文様が象嵌(ぞうがん)され、貴石などもちりばめられていることがわかった。潘研究員は「日本の日田市で見つかったという鏡『金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)』とほぼ同型式である可能性が高い」と話す。
 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は、1933(昭和8)年に鉄道の線路工事の際に見つかったといわれ、考古学者の梅原末治によって63年に報告された。翌64年に重文に指定されている。邪馬台国の女王・卑弥呼に贈られたとみて、「邪馬台国九州説」を補強する材料の一つと考える研究者もいた。

【朝日新聞デジタル 9/8 より転載】
卑弥呼がもらった? 曹操墓出土と同型の鏡、なぜ大分に

“華麗さでは随一”と多くの考古学者が太鼓判をおす古(いにしえ)の鏡がある。「金銀錯嵌珠龍文(さくがんしゅりゅうもん)鉄鏡」。大分県日田市で戦前に見つかったものとされ、装飾の巧みさから1964年に重要文化財に指定された。由来を含め多くの謎が残るこの鏡が、三国志の英雄・曹操の墓から出土した鏡とほぼ同じ型式である可能性が高まっている。「皇帝の所有物にふさわしい最高級の鏡」がなぜ九州に――。研究者らは首をかしげる。
 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が学界に紹介されたのは63年。青銅器研究に大きな足跡を残した考古学者・梅原末治(1893〜1983)が美術研究誌「国華」で取り上げた。
 国華によると、直径21.3センチ、厚み2.5ミリ。表面には金で龍文が、銀で爪などが象嵌され、所々に赤や緑の貴石をはめ込む。中央に子孫の繁栄を祈る「長宜子孫」の4字(子は欠落)が金象嵌で刻まれている。
 古美術商から購入し、表面を覆うさびを削ったところ、これらの装飾が確認されたと報告。「中国本土でも(略)稀(まれ)なこの鏡」と評した。
 日田での出土品だと古美術商から聞いた梅原は、出土地とおぼしき場所を調査。出土時に立ち会った人の話も聞き、33年の鉄道工事の際に出土したものと推定した。
 梅原は出土地の地名から、この遺跡を「ダンワラ古墳」と名づけたものの、埋葬施設の詳細は不明。さらに、一緒に出土したとされる馬具は6世紀以降のごく一般的なもので、超一級の鉄鏡の持ち主にはそぐわない。「本当にダンワラ古墳と呼ばれる場所から出土した鏡か」と疑問を呈する研究者も少なくなかった。
 それから半世紀余。新たな知見が明らかになったのは先月初めだ。東京国立博物館で開催中の「三国志」展(16日まで)に関連して開かれた学術交流団座談会でのことだった。《後略》