九州王朝(倭国)一覧

第1866話 2019/03/30

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(3)

 拙稿「九州王朝鎮魂の寺 -法隆寺天平八年二月二二日法会の真実-」、『古代に真実を求めて』第十五集所収、2012.3)において、『法隆寺縁起并流記資財帳』に記された「丈六仏像」への光明皇后らによる献納が「天平八年歳次丙子二月廿二日」に集中していることを根拠に、法隆寺を前王朝である九州王朝鎮魂の寺とする説を発表しました。
 釈迦三尊像光背銘に記された「上宮法皇」の命日「法興三十二年(622年)」「二月廿二日」は、『日本書紀』に記された「聖徳太子(厩戸皇子)」の命日の推古29年(621)2月5日とは明確に異なり、両者は別人です。他にも、光背銘には母親の名前「鬼前太后」や妻の名前「干食王后」が記されており、「聖徳太子」の母親や妻はこのような名前ではありません。更に、「上宮法皇」の「法皇」とは仏門に入った天子を意味し、「法興」という年号も王朝の最高権力者の天子にしか作れません。しかし、「聖徳太子」はナンバーツーの「摂政」であり天子ではありませんし、「法興」という年号も持っていません。
 以上のように、法隆寺の釈迦三尊像光背銘に記された「上宮法皇」を近畿天皇家の「聖徳太子」とすることは無理というものです。しかも、「聖徳太子」の命日や家族の名前は『日本書紀』に記されており、法隆寺で法会が行われた天平8年(736)は『日本書紀』が成立した720年のわずか16年後であり、『日本書紀』を編纂した大和朝廷の有力者や官僚たちがそのことを誰も知らなかったとは万に一つも考えられないのです。
 したがって、光明皇后らは法隆寺や釈迦三尊像が九州王朝の寺院であり仏像であることをわかったうえで、大宰府官内から流行した天然痘の猛威を、滅び去った前王朝の祟りと思い、その鎮魂のために「上宮法皇」の命日である天平8年の「二月二十二日」に法会を行い、多くの品々を献納したと思われるのです。その大量の施入を記した『法隆寺縁起』に不思議な施入記事があることに、わたしは気づきました。(つづく)


第1865話 2019/03/29

『法隆寺縁起』に記された奉納品の不思議(2)

 天平十九年(747)に成立した『法隆寺縁起并流記資財帳』によれば、次のような法隆寺へ献納物が奉納日・奉納者と共に記されています。

 「丈六分銀多羅弐口〔一口重九斤 一口九斤二分〕
 右天平八年歳次丙子二月廿二日納賜平城宮
 皇后宮者」(『寧楽遺文』による。〔〕内は細注)

を筆頭に、「白銅鏡肆面」「香肆種」「白筥二合」「革箱肆号」が施入されています。
 『法隆寺縁起』によれば、光明皇后からの施入が際立って多いのですが、異父姉無漏王も同日に白銅鏡一面を「丈六分」として施入しています。この「丈六」とは丈六の仏像である釈迦三尊像のことと思われますから、ときの大和朝廷の光明皇后らが、九州から発生した伝染病の脅威を沈めるために、九州王朝の天子・多利思北孤の命日「二月廿二日」に、斑鳩に移築した九州王朝の多利思北孤を模した釈迦三尊像を本尊とする「法隆寺」に献納品を施入しているのです。
 この史料事実から、法隆寺を九州王朝の天子・多利思北孤鎮魂のための寺院とする仮説をわたしは発表したことがあります(「九州王朝鎮魂の寺 -法隆寺天平八年二月二二日法会の真実-」、『古代に真実を求めて』第十五集所収、2012.3)。このことを来月十九日開催(奈良県立情報図書館、古代大和史研究会主催・原幸子代表)の講演会で紹介しようと、『法隆寺縁起并流記資財帳』を読み直していたのですが、そこに不思議な記事があることに気づきました。(つづく)


第1862話 2019/03/19

「複都制」から「両京制」へ

 本日は「市民古代史の会・京都」の講演会で正木裕さんが「聖武天皇も知っていた 失われた九州年号」というテーマで講演されました。初めて九州年号というものを知った参加者も少なくなく、好評でした。
 講演前に、前期難波宮を九州王朝の「複都」とするアイデアについて、正木さんの意見を求めたところ、「両京制(dual capital system)」と呼んでもよいのではないかと言われました。これは虚を突かれたような提案であり、なるほどと思いました。正木さんの見解はわたしの複都制よりも更に一歩進んで、太宰府や前期難波宮(難波京)の実態(条坊を持つ「京」)を明確に表した呼称であり、「複都(multi-capital city)」よりも「両京(dual capital city)」のほうがより正確な表現のように思いました。
 実は「複都制」も「両京制」も、古田先生が既にその存在を指摘されています。はやくは『失われた九州王朝』(第5章の「遷都論」)に九州王朝の遷都を示唆する記述があり、講演会でも「天武紀」に見える「信濃遷都計画」について言及されていました。たとえば『古田史学会報』No.32(1999年6月3日)掲載の「古田武彦氏講演会(四月十七日)」の次の記事です。

【以下、転載】
 二つの確証について
  --九州王朝の貨幣と正倉院文書--
(前略)この銭(冨本銭のこと:古賀)が天武紀十二年に現われる銅錢にあたるという。そうすると厭勝銭とは思えない。まじない銭に詔勅を出すだろうか?。このときの詔勅では「今後、銅銭を使え、銀銭は使うな」とある。銀銭には反感を持っていて、使用禁止。『日本書紀』は信用できないか?。いや、この点は信用できる。「法隆寺再建論争」で喜田貞吉は『書紀』の記述のみを根拠に再建説をとり、結局正しかった。「焼けもせぬものを焼けたと書くか?」という論理しか根拠はなかった。『書紀』が信用できない点は、年代や人物のあてはめなどイデオロギーに関するものであって、事物や事件は基本的に「あった」のだ。(中略)
天武紀十三年に「三野王らを信濃に遣わす」の記事あり、このとき携行したのかとの説がある。都を移す候補地を探したというが、近畿天皇家の天武がなぜ長野に都を移そうとするのか?ウソっぽい。白村江戦後、唐の占領軍は九州へ来た。なぜ近畿へ来なかったのか?納得できる説明はない。九州王朝が都を移そうとし、『書紀』はこれを二十四年移して盗用したのではないか?。
 朝鮮半島の情勢に恐怖を感じて遷都を考えたことはありうる。なぜ長野か?。海岸から遠いから。太平洋戦争のとき松代に大本営を移すことを考えたのに似ている。(後略)
【転載終わり】

 「両京制」についても、『古田史学会報』36号(2000年2月)で「『両京制』の成立 --九州王朝の都域と年号論--」を発表され、七世紀前半における九州王朝の太宰府と筑後の「両京制」について論じられています。
 このように古田先生は早くから九州王朝の複都制を前提とした「両京制」の存在を指摘されておられますから、同様に七世紀後半における「太宰府」と前期難波宮(難波京)を「両京制」と見なす正木さんのご意見は妥当なものと思われるのです。


第1861話 2019/03/18

前期難波宮は「副都」か「複都」か

 わたしがこの「洛中洛外日記」を続けるにあたっては、多くの読者や事前に原稿チェックをしていただいているスタッフに支えられています。中でも加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)からはいくつもの貴重なご意見やご指摘もいただいています。最近も前期難波宮九州王朝副都説に対して、「副都(secondary capital city)」なのか「首都(capital city)」なのか、そろそろ古田学派の研究者間で見解を統一してはどうかとのご意見をいただきました。良い機会ですので、わたしが前期難波宮を九州王朝の「副都」とした理由やその問題点、そして改良案などについて説明したいと思います。
 前期難波宮が近畿天皇家の宮殿ではなく、九州王朝の宮殿ではないかとする仮説に至ったとき、それをどのように表現すべきかについてかなり考えました。七世紀段階における九州王朝の首都が「太宰府」とする点については古田先生を始め、古田学派のほとんどの研究者も一致した見解でした。また、中国史書に見える倭国伝などにおいて、九州王朝(倭国)の都が移動(遷都)したような痕跡が見当たらないことから、九州王朝は滅亡するまで「太宰府」を首都としていたと考えざるを得ません。この点、古田先生も同見解でした。そこで、わたしは前期難波宮を九州王朝の「副都」と見なすことにしたわけです。
 ところが前期難波宮九州王朝副都説の発表後、この仮説を支持する正木裕さん(古田史学の会・事務局長、川西市)や西村秀己さん(『古田史学会報』編集担当、高松市)から、前期難波宮は九州王朝の「首都」と見なすべきではないかという意見が出されました。この前期難波宮首都説に対して、わたしはそれが有力説であることを認めながらも、全面的に賛成できないまま今日に至っています。その理由は先に述べたように、中国史書の倭国伝などに倭国が遷都したとする痕跡が見えないことでした。
 他方、前期難波宮で大規模な白雉改元の儀式が行われていることや、その宮殿や官衙の規模が国内最大であることなどから、「副都」とするよりも「首都」と見なすべきと言う意見に反対しにくいとも感じていました。そうした学問的に断定できない中途半端な状況が続いていたときに、加藤さんからのご意見が届いたのでした。
 そこで、「副都」とも「首都」とも断定できないこの状況をうまく表現する方法はないかと考えた結果、一つの妙案が浮かびました。それは前期難波宮九州王朝「副都(secondary capital city)」説ではなく、九州王朝「複都(multi-capital city)」説という表現に変更することでした。これであれば、前期難波宮を「首都」とも「副都」とも見なせる表現であり、学問的断定がまだできない状況にあっても、穏当な表現だからです。すなわち、七世紀初頭頃から九州王朝(倭国)の都は太宰府であったが、七世紀中頃には複数の都を持つ「複都制(multi-capital system)」を採用したとする仮説になるのです。
 はたして、この〝問題の先送り〟のような案が古田学派内で支持を得ることができるかどうか、学問的に妥当なものか、皆さんのご意見をお待ちしています。


第1860話 2019/03/17

吉野ヶ里遺跡から弥生後期の硯

 久留米市の犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)からまたまたビッグニュースが届きました。吉野ヶ里遺跡から弥生時代後期(1〜2世紀)の硯が出土していたとのニュースです。3月14日付の西日本新聞、朝日新聞、読売新聞の当該記事切り抜きをメールで送っていただきました。同切り抜きはわたしのFaceBookに掲載していますので、ご覧ください。
 弥生時代後期といえば邪馬壹国の時代で、有明海側からの初めての出土でもあり、興味深いものです。学問的考察はこれから深めたいと考えています。ご参考までにNHK佐賀のNEWS WEB の記事を転載します。

【NHK佐賀のNEWS WEB】2019.03.13
弥生時代に文字介し海外交易か

 弥生時代の大規模な環ごう集落跡として知られる吉野ヶ里遺跡から出土した石器が、弥生時代のすずりとみられることが分かりました。
佐賀県教育委員会は「有明海を通じて行われた海外との交易に文字が使われていた可能性が高い」としています。
 県教育委員会によりますと、吉野ヶ里遺跡から見つかったのはいずれも弥生時代の住居跡などから出土した2つの石器で、人の手で加工した形跡があります。
 このうち1つは長さ7.8センチ幅5.2センチの「石硯」、もう1つは長さ3.8センチ幅3.5センチの墨をすりつぶすための道具「研石」と見られています。
 これらの石器は平成5年から7年にかけて吉野ヶ里遺跡で行われた発掘調査で見つかっていましたが、用途がわからないままになっていました。
 しかし、去年11月福岡市の遺跡で弥生時代のすずりがまとまって見つかったことから、この石器を改めて調べ直したところ、いずれも形状や厚さなどが中国大陸や朝鮮半島で出土したすずりなどと似ていることから、「石硯」と「研石」である可能性があると判断したということです。
 弥生時代のすずりなどが佐賀県内で見つかったのは唐津市の中原遺跡に次いで2例目ですが、有明海沿岸の地域で見つかったのは初めてだということです。
 県教育委員会は「弥生時代に有明海を通じて行われた中国大陸など海外との交易に、すでに文字が使われていた可能性が高い」と評価しています。


第1843話 2019/02/23

九州王朝説で読む『大宰府の研究』(7)

第1842話で森弘子さん(福岡県文化財保護審議会会員)の「筑紫万葉の風土 ー宝満山は何故万葉集に詠われなかったのかー」を紹介し、「みかさ山」とあれば論証抜きで「奈良の御蓋山」のこととしてしまう〝凍りついた発想〟を大和朝廷一元史観の「宿痾」と指摘しました。同様に優れた研究や史料事実に基づきながらも、その解釈や結論が大和朝廷一元史観による〝凍りついた発想〟となっている論文が『大宰府の研究』には他にも見られます。その残念な論文の一つが井形進さん(九州歴史資料館)の「大宰府式鬼瓦考 ーⅠ式Aを中心にー」です。
 九州王朝太宰府における王朝文化の象徴のような迫力ある「大宰府式鬼瓦」の芸術性の高さは、古代日本列島内随一の鬼面瓦として有名です。井形さんも「大宰府式鬼瓦考 ーⅠ式Aを中心にー」において、次のように紹介されています。

 「大宰府式鬼瓦は、大宰府政庁跡を中心とする、いわゆる大宰府史跡をはじめとして、筑前・筑後・肥前・肥後北部・豊前など、九州北部の官衙や寺院跡から出土する遺物である。その系譜をひく、大宰府系などと称されるような鬼瓦は、九州南部からも出土しており、それらの存在も併せ考えると、九州全域、つまり大宰府官内全域に影響を及ぼしたことになる。」(561頁)
 「大宰府式鬼瓦Ⅰ式Aの迫真的で立体的、各部位が有機的に連動した造形は、奈良時代の鬼瓦の中にあっては異質なものである。」(564頁)
 「大宰府式鬼瓦の第一の特徴として指摘されるのは、鬼面の立体性、そして彫塑作品としての水準の高さである。このような、大宰府式鬼瓦において最も重要な鬼面の源を、統一新羅に求めることはできない。」(566頁)
 このように大宰府式鬼瓦の異質性・高水準について指摘し、その造形美との関係性がうかがえる遺物として、福岡県福智町の神崎1号墳出土の獅噛環柄頭大刀の柄頭にあしらわれた獣面、観世音寺梵鐘の龍頭などを紹介されています。これらの点は九州王朝説から見れば、大宰府式鬼瓦こそ日本列島内で先進的で最高の王朝文化の精華と位置付けることが可能ですが、井形さんはなんとしたことか次のような結論へと進まれます。

 「日本で鬼面文を棟端瓦に採用したことについては、一般に大宰府式鬼瓦が最初とされている。しかしそうであれ、それは必ずしも、大宰府の先進性を示すものだと考えることはできないと思う。具体的な造形の成立についてはともかく、鬼面の採用を決定したのは中央だと考えている。そもそも大宰府は出先機関であるし、それに資料的に見ても、大宰府式鬼瓦ときびすを接するようにして全国に鬼面文鬼瓦が展開してゆくわけであるが、それにあたって大宰府から都へという流れや、その後の全国への展開を考えるのは、不自然な上に迅速に過ぎるように感じられるからである。」(570頁)

 このように考察され、大宰府式鬼瓦の先例として平面的で陳腐な鬼の姿全体の造形を持つ平城京式鬼瓦Ⅰをあげられました。。
 列島内最大規模で唯一の古代防衛施設である水城・大野城・基肄城などを毎日のように誰よりも見ているはずの、九州王朝のお膝元ともいえる九州歴史資料館の優れた考古学者であっても、このような〝凍りついた発想〟から抜け出すことができない、大和朝廷一元史観の「宿痾」の深刻さを感じざるを得ません。
 井形さんが論文末尾に次のように記されていることが、かすかな希望と言えるのかもしれません。

 「とはいえ大宰府式鬼瓦こそは、そのような中にあって、確かに九州を一つと見なしうる場合もあることを、雄弁に物語る存在なのである。(中略)大宰府ありし日には、大宰府の威武を象徴する存在として雄々しく楼上に君臨し、いま大宰府史跡の象徴として扱われている大宰府式鬼瓦は、九州の歴史や文化を考え語る上でも、他をもって代え難い意義をもった大切な文化財として、ひときわ大きな存在感を見せているのである。」(572-573頁)

 大宰府式鬼瓦が九州王朝(倭国)の象徴として認識されるその日まで、大和朝廷一元史観の「宿痾」に立ち向かうことは、わたしたち古田学派の歴史的使命なのです。(つづく)

※太宰府出土「鬼瓦」に関して、次の「洛中洛外日記」でも論じました。ご参考まで。
第1673話 太宰府出土「鬼瓦」の使用尺
第1675話 太宰府と藤原宮・平城宮の鬼瓦(鬼瓦の論証)


第1842話 2019/02/20

九州王朝説で読む『大宰府の研究』(6)

 前回までは『大宰府の研究』掲載の考古学論文を中心に紹介してきましたが、同書にはちょっと趣が異なる論文もあります。森弘子さん(福岡県文化財保護審議会会員)の「筑紫万葉の風土 ―宝満山は何故万葉集に詠われなかったのか―」です。これは古代歌謡学とでもいうべきジャンルの論文ですが、わたしはこのサブタイトル「宝満山は何故万葉集に詠われなかったのか」に興味を引かれ、読み始めました。

 というのも、わたしは『古今和歌集』に見える阿倍仲麻呂の有名な歌、「天の原 ふりさけみれば 春日なる みかさの山に いでし月かも」の「みかさの山」は奈良の御蓋山(標高約二八三m)ではなく太宰府の東にそびえる三笠山(宝満山、標高八二九m)のこととする古田説を支持する論稿を発表し、その中で万葉集に見える「みかさ山」も、通説のように論証抜きで奈良の御蓋山とするのではなく、筑紫の御笠山(宝満山)の可能性も検討しなければならないとしていたからです。森弘子さんの論文のサブタイトル「宝満山は何故万葉集に詠われなかったのか」を見て、わたしと同様の問題意識を持っておられると思い、その論証と結論はいかなるものか興味を持って読み進めました。

 論文冒頭に、「秀麗な姿で聳える『宝満山』」「宝満山は古くは『竈門山』とも『御笠山』とも称し」と紹介された後、「筑紫万葉」とされる『万葉集』の歌を分析されています。古代歌謡に対する博識をいかんなく発揮されながら論は進むのですが、論文末尾に結論として次のように記されています。

 「宝満山の歌が一首も万葉集にないのは、たまたまのことかも知れない。しかしやはりこの山が、歌い手である都から赴任した官人たちにとって、任務と関わるような山でもなかったということであろう。」(557頁)万葉集になぜ宝満山が歌われていないのかという鋭い問題意識に始まりながら、論じ尽くした結果が「たまたまのことかもしれない」「官人たちにとって、任務と関わるような山でもなかった」では、何のための論文かと失礼ながら思ってしまいました。宝満山が御笠山という別名を持っていたことまで紹介されていながら、『万葉集』に見える「みかさ山」の中に宝満山があるのではないかという疑問さえ生じない。すなわち、『万葉集』に「みかさ山」とあれば疑うことなく「奈良の御蓋山」のこととしてしまう、この〝凍りついた発想〟こそ典型的な大和朝廷一元史観の「宿痾」と言わざるを得ないのです。(つづく)

※「みかさ山と月」に関しては次の拙稿や「洛中洛外日記」でも論じました。ご参考まで。

平城宮朱雀門で観月会 みかさの山にいでし月かも??(『古田史学会報』28号、1998年10月)
○「三笠山」新考 和歌に見える九州王朝の残影(『古田史学会報』43号、2001年4月)
○〔再掲載〕「三笠山」新考 和歌に見える九州王朝の残影(『古田史学会報』98号、2010年6月)
○三笠の山をいでし月 -和歌に見える九州王朝の残映-(『九州倭国通信』193号、2019年1月)
○「洛中洛外日記」
第731話 「月」と酒の歌
第1733話 杉本直治郞博士と村岡典嗣先生(1)


第1841話 2019/02/19

九州王朝説で読む『大宰府の研究』(5)

『大宰府の研究』には、先に紹介した井上信正論文「大宰府条坊論」の他にも太宰府都城編年に関して大きなインパクトを持つものがあります。その一つが高倉彰洋さん(西南学院大学名誉教授)の「観世音寺伽藍朱鳥元年完成説の提唱 ―元明天皇詔の検討―」です。それは主に文献史学の研究により、観世音寺の伽藍完成を朱鳥元年(686)とするもので、この説を以前から高倉さんは主張されていました。
 実は太宰府都城編年において、最も矛盾が集中して現れるのが観世音寺創建年についてでした。井上信正説が最有力説として登場してからは、観世音寺の扱いが研究者間で密かな課題(悩みの種)となっていました。というのも観世音寺創建年については次のような諸問題(矛盾)が山積していたためでした。

1.通説では、天智天皇が亡き母斉明天皇を弔うために670年頃に観世音寺建立を発願し(『続日本紀』)、落成は8世紀中頃の天平18年(746)とされてきた。その間、80年近くを要しており、他の主要寺院には見られない長期の造営期間である。
2.他方、7世紀末頃には既に観世音寺が存在していたことを示す史料がある(注①)。
3.創建瓦の老司Ⅰ式瓦は藤原宮式瓦よりも古く、従来は7世紀後半頃(天智期)に編年されていた。後に、藤原宮式中段階の瓦と同時期とする見解が発表された(注②)。
4.観世音寺の本尊仏(注③)は百済伝来の阿弥陀如来像(銅製)と伝えられており、百済滅亡以前に渡来したと考えざるを得ない。そうであればその阿弥陀如来像を安置した観世音寺本堂は660年頃には存在していなければならない。
5.国内最古の銅鐘とされる観世音寺の鐘(国宝)は7世紀後半の鋳造と見られている(注④)。
6.『二中歴』などの後代史料に観世音寺を「白鳳年間」「白鳳10年(670)」の創建とする記事が見える(注⑤)。

 以上のような諸事実を直視すれば、観世音寺の創建年代は早ければ白鳳10年(670)、遅くても藤原宮完成年頃(694年遷都。『日本書紀』)となります。ところが観世音寺や大宰府政庁Ⅱ期よりも、その南に拡がる条坊都市の成立が早いとする井上信正説が最有力説として登場したために、観世音寺創建年代を7世紀後半から末頃にしてしまうと、太宰府条坊都市の成立は大和朝廷の都藤原京よりも早くなってしまい、このことは一元史観の学界にとって不都合な事実となってしまいます。もちろん九州王朝説に立てば、当たり前のこととして受け入れることができます。このことを古代史学界や考古学界の識者が知らないはずがありません。ですから、観世音寺創建年をより新しくしたいという動機が諸論文に見え隠れするようになりました。
 そのような学界の状況下で、今回紹介した高倉論文は観世音寺伽藍完成を朱鳥元年(686)とするものですから、それを認めると太宰府条坊都市の造営は藤原京よりも数十年は早くなってしまうのです。わたしが高倉説が九州王朝説から見れば不十分ではあるものの高く評価するのはこの点にあります。
 更に高倉論文には、観世音寺創建瓦「老司Ⅰ式」を従来説の7世紀後半頃(天智期)よりも新しく編年(藤原宮式中段階)した岩永省三さんの説に対して次のような反論が論文中の「注17」でなされており、注目されます。

 「観世音寺伽藍の完成を朱鳥元年としたとき、創建瓦の老司Ⅰ式の年代が課題となる。近年の老司Ⅰ式に関する諸説を検討した岩永省三は、本薬師寺式系譜に有り、藤原宮式の中段階に併行するとする〔岩永二〇〇九〕。藤原宮中段階の瓦は藤原宮大極殿に葺かれている。大極殿の初見が文武二年(六九八)だから、中段階の瓦も六九八年以前に造られていたことになる。ただ、岩永が指摘するように藤原宮式瓦とは文様の細部に違いがあり、造りや文様の仕上げが粗く、精緻流麗に造る老司Ⅰ式と同列に論じるのには疑問がある。堂宇の建設に際して、まず骨格となる柱を建て、未完成の堂宇の内部や板材などの建築素材を雨の害から守るために瓦を葺くから、造瓦は大極殿造営事業の初めに行われる。それは六八〇年代前半であり、朱鳥元年に観世音寺伽藍の完成を考えたとき、老司Ⅰ式は藤原宮の瓦より数年早くなることになるが、国宝銅鐘の上帯・下帯を飾る偏行唐草文がその可能性を強める。」(517頁)

 老司Ⅰ式瓦の年代を藤原宮式まで新しく編年するという岩永説に対して、「藤原宮式瓦とは文様の細部に違いがあり、造りや文様の仕上げが粗く、精緻流麗に造る老司Ⅰ式と同列に論じるのには疑問がある。」とする高倉さんの批判は重要です。例えば大宰府式鬼瓦は立体的で美術品としての芸術性も高いのですが、大和朝廷の藤原宮の「鬼瓦」には曲線模様だけで「鬼」はなく、平城宮の時代になってもその鬼瓦の鬼の文様は扁平です。すなわち、大和朝廷の都の鬼瓦よりも地方都市とされた太宰府の鬼瓦の方が「王朝文化」を体現していることは著名です。
 それと同様に軒瓦も大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺の創建瓦老司Ⅰ式が「精緻流麗」とする高倉氏の指摘は急所を突いたものです。しかし、それではなぜ太宰府の瓦の方が「精緻流麗」なのかという、学問としての本質的な問いへは進まれていません。ここに高倉さんの依って立つ大和朝廷一元史観の限界を見ることができます。
 ところが、九州王朝説に立てば、大和朝廷に先立つ列島の代表王朝「倭国」の都、王朝文化が先駆けて花開いた太宰府の瓦が「精緻流麗」であることは当然のこととして受け止めることができます。また、観世音寺が藤原宮(694年遷都)よりも古く、さらに太宰府条坊都市はその観世音寺(白鳳10年[670]創建)よりも古いという、井上信正説が通説の太宰府編年に鋭く突き刺さっていることも見えてくるのです。(つづく)

(注)
①「(朱鳥元年)観世音寺に封二百戸を施入する。」(『新抄格勅符抄』)
②岩永省三「老司式・鴻臚路館式軒瓦出現の背景」『九州大学総合研究博物館研究報告』№7 2009年
③講堂の本尊は観世音菩薩立像(塑像)。天平年間の作製と見られている。
④「戊戌年」(698年)銘を持つ妙心寺鐘(国宝、京都市)の兄弟鐘とされており、観世音寺鐘の方が古く編年されている。
⑤『日本帝皇年代記』『勝山記』に白鳳10年(670)の創建と記されている。

※観世音寺に関しては次の「洛中洛外日記」でも論じました。ご参考まで。

第219話 観世音寺創建瓦「老司Ⅰ式」の論理
第336話 『勝山記』の観世音寺創建記事
第405話 太宰府編年の再構築
第410話 観世音寺の水碓(みずうす)
第587話 観世音寺と観音寺
第588話 阿部周一さんからの「鎮西」試案
第811話 山崎信二さんの「変説」(1)
第1053話 瓦の編年と大越論文の意義
第1178話 観世音寺式寺院の意義に新説か
第1179話 観世音寺の創建年と瓦の相対編年
第1182話 「鎮護国家の伽藍配置」の明暗(1)
第1186話 「鎮護国家の伽藍配置」の明暗(2)
第1295話 井上信正説と観世音寺創建年の齟齬
第1392話 『二中歴』研究の思い出(5)
第1412話 観世音寺・川原寺・崇福寺出土の同笵瓦
第1638話 百済伝来阿弥陀如来像の流転(1)
第1639話 百済伝来阿弥陀如来像の流転(2)
第1640話 百済伝来阿弥陀如来像の流転(3)
第1641話 百済伝来阿弥陀如来像の流転(4)
第1642話 百済伝来阿弥陀如来像の流転(5)
第1644話 百済伝来阿弥陀如来像の流転(6)
第1694話 観世音寺古図の五重塔「二重基壇」
第1696話 観世音寺古図の史料性格
第1697話 「観世音寺古図」と資財帳の不一致
第1698話 「観世音寺古図」と出土遺構の不一致
第1699話 五重塔「創建基壇」の階段
第1772話 土器と瓦による遺構編年の難しさ(8)


第1811話 2018/12/30

「邪馬壹国の領域」正木説の紹介

 「洛中洛外日記」1804話「不彌国の所在地(2)」で、「山門」という地名を根拠に邪馬壹国の領域に筑後が含まれるのではないかとしたのですが、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が久留米大学での講演で既にこの見解を発表されていたことを、正木さんからのご連絡で知りました。優れた説ですので、「洛中洛外日記」でも紹介します。
 正木説によれば、「上山門」「山門」「山国」「山国川」などの地名と倭人伝に七万戸とされた「人口」などを根拠に邪馬壹国を「筑前・筑後の大部分と豊前といった北部九州の主要地域をほとんど含んだ大国」とされました。その試算によれば、「三千餘家」とされた一大国(壱岐)の面積138平方kmと邪馬壹国の「七万戸」を比例させると3220平方kmとなり、それが先の領域に対応するとされました。
 この正木説は、北部九州の神籠石山城に囲まれた領域が邪馬壹国の範囲とされた古田先生の見解とほぼ一致しています。古田先生の見解を聞いたとき、6〜7世紀頃に築造されたと考えられる神籠石山城の位置を3世紀の邪馬壹国の領域の根拠とすることに納得できませんでした。ところが今回の正木説により、古田先生の見解が有力であったことに気づきました。


第1810話 2018/12/28

『倭国古伝』(仮称)の巻頭言

 明石書店から『古代に真実を求めて』22集の初校が送られてきました。編集部で決めた書名は『倭国古伝 -姫と英雄と神々の古代史-』です。巻頭言ではその書名について解説しました。しかしながら最終的には明石書店の同意が必要ですので、書名が変更になれば巻頭言も書き直さなければなりません。
 本の宣伝も兼ねて巻頭言原稿を紹介します。この年末年始は校正に終始しそうです。

【巻頭言】
勝者の歴史と敗者の伝承
     古田史学の会・代表 古賀達也

 本書のタイトルに採用した「倭国古伝」とは何か。一言でいえば〝勝者の歴史と敗者の伝承から読み解いた倭国の古代史〟である。すなわち、勝者が勝者のために綴った史書と、敗者あるいは史書の作成を許されなかった人々の伝承に秘められた歴史の真実を再発見し、再構築した古代日本列島史である。それをわたしたちは「倭国古伝」として本書のタイトルに選んだ。
 その対象とする時間帯は、古くは縄文時代、主には文字史料が残された天孫降臨(弥生時代前期末から中期初頭頃:西日本での金属器出現期)から大和朝廷が列島の代表王朝となる八世紀初頭(七〇一年〔大宝元年〕)までの倭国(九州王朝)の時代だ。
 この倭国とは歴代中国史書に見える日本列島の代表王朝であった九州王朝の国名である。早くは『漢書』地理志に「楽浪海中に倭人有り」と見え、『後漢書』には光武帝が与えた金印(漢委奴国王)や倭国王帥升の名前が記されている。その後、三世紀には『三国志』倭人伝の女王卑彌呼(ひみか)と壹與(いちよ)、五世紀には『宋書』の「倭の五王」、七世紀に入ると『隋書』に阿蘇山下の天子・多利思北孤(たりしほこ)が登場し、『旧唐書』には倭国(九州王朝)と日本国(大和朝廷)の両王朝が中国史書に始めて併記される。古田武彦氏(二〇一五年十月十四日没、享年八九歳)は、これら歴代中国史書に記された「倭」「倭国」を北部九州に都を置き、紀元前から中国と交流した日本列島の代表権力者のこととされ、「九州王朝」と命名された。
 『旧唐書』には「日本はもと小国、倭国の地を併わす」とあり、八世紀初頭(七〇一年)における倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への王朝交替を示唆している。この後、勝者(大和朝廷)は自らの史書『古事記』『日本書紀』を編纂し、そこには敗者(九州王朝・他)の姿は消されている。あるいは敗者の事績を自らの業績として記すという歴史造作をも厭うことはなかった。
 古田武彦氏により、古代日本列島には様々な文明が花開き、いくつもの権力者や王朝が興亡したことが明らかにされ、その歴史観は多元史観と称された。これは、神代の昔より近畿天皇家が日本列島内唯一の卓越した権力者・王朝であったとする一元史観に対抗する歴史概念である。わたしたち古田学派は古田氏が提唱されたこの多元史観・九州王朝説の立場に立つ。
 本書『倭国古伝』において、勝者により消された多元的古代の真実を、勝者の史書や敗者が残した伝承などの史料批判を通じて明らかにすることをわたしたちは試みた。そしてその研究成果を本書副題に「姫と英雄と神々の古代史」とあるように、「姫たちの古代史」「英雄たちの古代史」「神々の古代史」の三部構成として収録した。
 各地の古代伝承を多元史観により研究し収録するという本書の試みは、従来の一元史観による古代史学や民俗学とは異なった視点と方法によりなされており、新たな古代史研究の一分野として重要かつ多くの可能性を秘めている。本書はその先駆を志したものであるが、全国にはまだ多くの古代伝承が残されている。本書を古代の真実を愛する読者に贈るとともに、同じく真実を求める古代史研究者が多元史観に基づき、「倭国古伝」の調査研究を共に進められることを願うものである。
     平成三十年(二〇一八)十二月二三日、記了


第1805話 2018/12/19

「邪馬国」の淵源は「須玖岡本山」

 『三国志』倭人伝に見える倭国の中心国名「邪馬壹国」の本来の国名部分は「邪馬」とする古田説を「洛中洛外日記」1803、1804話で紹介しました。この「邪馬」国名の淵源について古田先生は、弥生時代の須玖岡本遺跡で有名な春日市の須玖岡本(すぐおかもと)にある小字地名「山(やま)」ではないかとされました。ここは明治時代には「須玖村岡本山」と表記されていましたが、これは「須玖村」の大字「岡本」の小字「山」という三段地名表記です(春日村の大字「須玖」、中字「岡本」、小字「山」と表記された時代もあります)。
 須玖岡本遺跡からはキホウ鏡など多数の弥生時代の銅製品が出土しており、当地が邪馬壹国の中枢領域であると思われ、「須玖岡本山」はその丘陵の頂上付近に位置します。そこには熊野神社が鎮座しており、卑弥呼の墓があったのではないかと古田先生は考えておられました。また、日本では代表的寺院を「本山(ほんざん)」「お山(やま)」と呼ぶ慣習があり、この小字地名「山」も宗教的権威を背景とした地名ではないかとされました。そしてその権威としての「山」地名が「邪馬国」という広域国名となり、倭人伝に邪馬壹国と表記されるに至ったと考えられます。


第1804話 2018/12/19

不彌国の所在地(2)

 長垂山の南側を抜けた早良区にある「上山門」「下山門」という地名は「山(やま)」という領域の入り口を意味する「山門(やまと)」であり、その「山(やま)」とは邪馬壹国の「邪馬」ではないかということにわたしは気づきました(既に先行説があるかもしれません)。
 倭国の中心国名について、熱心な古田ファンにも十分には知られていないようですので、説明します。倭人伝には女王卑弥呼が倭国の都とした国の名前は「邪馬壹国」と表記されているのですが、正式な名称は「邪馬」の部分であり、言わば「邪馬国」なのです。そして「壹」(it)は「倭国」の「倭」(wi)の「当て字」であり、本来なら「邪馬倭国(やまゐ国)」です。これは倭国の中の「邪馬」という領域にある国を表現した呼称と理解されます。このことを古田先生は『「邪馬台国」はなかった』で解説されました。同じく倭人伝に見える狗邪韓国も「韓国(韓半島)」内の「狗邪」という領域にある国を意味しています。これと同類の国名表記方法が「邪馬壹国」なのです。
 このような理解から、倭人伝に記された卑弥呼が倭国の都としていた国は「邪馬国」であり、その西の入り口が福岡市早良区の「上山門」「下山門」という地名に残っていたと考えられます。従って、早良区は邪馬壹国の領域内であり、今津湾付近を不彌国とする正木説をこの「山門」地名は支持することになるわけです。更に付け加えれば、福岡県南部に位置する旧「山門郡」(現・柳川市、みやま市)も同じく「邪馬国」の南の入り口と考えることができそうです。そうであれば、筑後地方も「邪馬国」(邪馬壹国)の領域に含まれることになりますが、これは今後の研究課題です。