九州王朝(倭国)一覧

第1192話 2016/05/21

国家官僚群を収容できない「飛鳥京」

 本日の「古田史学の会」関西例会では、犬山市から参加されている掛布(かけの)さんが初発表されました。
 服部さんからは、律令体制の都における国家官僚の人数と生活に必要な家地の面積と条坊都市の面積の関係について論じられ、前期難波宮にいた国家官僚群を収容できる広さが「飛鳥京」(通説では前期難波宮から遷都した「倭京」を奈良の「飛鳥京」とする)にはないことを明らかにされました。
 正木さんからは、中国洛陽から発見された三角縁神獣鏡を調査実見された西川寿勝さん(大阪府立狭山池博物館)の講演内容について報告されました。とても興味深いのでしたので、西川さんに「古田史学の会」でも講演していただこうということになりました。ちなみに西川さんは「邪馬台国」畿内説に立つ考古学者ですが、「古田史学の会」で講演しても良いとのことです。また、奈良の龍田神や「風祭り」について、本来は肥後における阿蘇神(健磐龍命)の風祭りであったとする研究を発表されました。
 5月例会の発表は次の通りでした。

〔5月度関西例会の内容〕
①古田武彦氏の廻心とわたしたちの結授によせて
 再び古田武彦氏の弟子となる意味を問う(東大阪市・横田幸男〔古田史学の会・インターネット事務局〕)
②宮年号の証明(犬山市・掛布広行)
③「京域と官僚」-藤原宮を中心に考察する(八尾市・服部静尚)
④洛陽から発見された三角縁神獣鏡について(川西市・正木裕)
⑤橿原市瀬田遺跡の円形周溝暮(川西市・正木裕)
⑥岡山県造山古墳訪問報告(川西市・正木裕)
⑦盗まれた風の神の祭り(川西市・正木裕)
⑧『後代の旧事記』(『先代旧事本紀』)の有効性を探る(東大阪市・萩野秀公)
⑨前期難波宮の内裏(京都市・古賀達也)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 「古田史学の会」活動報告・書籍出版販売状況・6/19会員総会と記念講演会(張莉さん・正木さん)の案内・「東京古田会」藤沢会長ご逝去・久留米大学公開講座で講演・7/02「古田史学の会・四国」正木氏講演会(松山市)の案内・6/24「古代史セッション」(森ノ宮)で古賀発表「古代染色技術と最先端機能性色素の歴史」の案内・7/16関西例会々場が大阪歴博に変更・その他


第1189話 2016/05/17

戦国武将、筑紫広門の祖先

 今朝は東京行きの新幹線車中で書いています。午後、東京で代理店と商談を行った後、長岡市に向かいます。明日からは新潟で仕事です。わたしの席のお隣には就活中と思われる黒いスーツのお嬢さんが座られており、心の中で「頑張って」とエールを送りました。

 25年ほど前のことですが、わたしは九州王朝の御子孫調査に取り組んだことがありました。「倭の五王」時代の九州王朝の王家が筑後に割拠し、高良大社の御祭神、高良玉垂命を襲名したことはかなり明らかにできたのですが、7世紀初頭に太宰府(倭京)を造営し、筑後から筑前に戻った多利思北孤の家系や末裔の調査は進みませんでした。現在に至ってもなお不明です。
 その折り、最も精力的に調査したのが、戦国武将の筑紫広門の家系でした。その「筑紫」という姓から、古代における「筑紫君」の末裔ではないかと考えたからです。『太宰管内志』によれば、筑紫神社(筑紫野市)の項に、筑紫広門の祖先は筑紫神社神官との記述があり、ますます九州王朝の子孫の可能性が高まったのですが、結局のところそれ以上調査は進まず、結論には到達できませんでした。なお、筑紫広門の子孫は江戸で旗本となります。ですから関東地方の「筑紫さん」は広門の御子孫の可能性があります。
 筑紫姓で有名な方に、ニュースキャスターの筑紫哲也さんがおられました。面識はなかったのですが、筑紫さんは古田説をご存じでした。わたしは「市民の古代研究会」事務局長時代に筑紫さんからお葉書をいただいたこともあります。古田先生の『「君が代」は九州王朝の讃歌』(新泉社)を衆参の全国会議員と著名なマスコミ関係者に送付したのですが、筑紫さんからだけ丁重なお礼のお葉書をいただきました。おそらく、筑紫さんもご自身の名前と九州王朝との関連を気にされたのではないかと想像しています。
 国家「君が代」法制化問題などが取りざたされていた時期でもあり、古田史学を世に広める絶好のタイミングと考え、「市民の古代研究会」の事業として『「君が代」は九州王朝の讃歌』無償提供を行ったのですが、結局、表だって反応があったのは筑紫さんからのお礼状と、その数年後に公明党京都府本部主催文化講演会に古田先生が講師として呼ばれたことぐらいでした。今思うと、与野党含めて「君が代」問題を学問的に論じるということに興味がなかったのかもしれません。懐かしい思い出です。


第1188話 2016/05/16

十三弁花紋と五十猛命と九州王朝

 久留米市の犬塚幹夫さんの調査によると、わたしが九州王朝の家紋ではないかと推定している十三弁の花紋ですが、単弁十三弁蓮華文軒丸瓦が出土する遺跡は次のように筑前・筑後を中心として北部九州に分布しているようです。

筑後国分寺跡(久留米市)
堂ヶ平遺跡(広川町)
太宰府史跡(太宰府市)
鴻臚館跡(福岡市)
宝満山遺跡(太宰府市)
浄妙寺(榎寺)跡(太宰府市)
筑前国分寺跡(太宰府市)
菩提廃寺(福岡県京都郡みやこ町)
豊前国分寺跡(福岡県京都郡みやこ町)

 他方、十三弁の菊家紋を紋章としている神社として兵庫県たつの市の中臣印達神社(なかとみのいたてじんじゃ)が知られています。その御祭神を調べてみますとなんと五十猛命でした。わたしにはこの五十猛命に見覚えがありましたので、『太宰管内志』で確認したところ、筑紫神社(福岡県筑紫野市)と荒穂神社(佐賀県基山町)の御祭神が五十猛命(筑紫の神)でした。
 両神社は比較的近傍(基山の東麓と西麓に位置します)にある神社で、御祭神が共通していることから、五十猛命は筑紫と肥の国にまたがる古い神様(天孫降臨以前の権力者)と思われます。
 偶然かもしれませんが、筑紫と五十猛命と十三弁紋が「九州王朝の十三弁紋」という仮説が結節点となって有機的な繋がりが見えてきそうです。調査はまだ始まったばかりですので、あまり断定せずに研究を進めたいと思います。


第1186話 2016/05/13

「鎮護国家の伽藍配置」の明暗(2)

 「洛中洛外日記」第1179話「観世音寺の創建年と瓦の相対編年」において、「百済から阿弥陀如来像がもたらされたとすれば、その時期は百済滅亡の660年よりも以前となりますから、白鳳10年創建とする史料とよく整合するのです。(中略)九州王朝説に立てば、文献・現地伝承や創建瓦(老司1式)などの編年とも矛盾しない、白村江戦(663)以前に造営が開始され、白村江戦後の白鳳10年(670)に完成したとする理解が可能です。」と記したのですが、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から疑義が寄せられました。
 百済滅亡以前に九州王朝へ贈られた阿弥陀如来像が10年以上も後の白鳳10年に建立された観世音寺の本尊とされたことについて、「史料とよく整合する」と記した部分が意味不明とされたようです。たしかにここは説明が足りないなと、わたしも懸念を抱いていた箇所でもあり、その心裏を見透かされたような御指摘でしたので、さすがは正木さんと感服しました。
 観世音寺創建について、わたしは次のように考えてきました。

1.九州王朝(倭国)と同盟関係にあった百済から阿弥陀如来像が贈られてきた。その正確な時期と理由は不明(検討中)。
2.その後、百済は滅亡し、同盟国である倭国は百済復興のため唐・新羅連合軍と朝鮮半島で戦い、白村江戦で敗北し、倭王薩夜麻は捕らわれる。
3.太宰府では従来の条坊都市の北部に異なった尺度による条坊を追加造成し、そこに太宰府政庁2期の宮殿と、その東に観世音寺の建設を行う。
4.そしてようやく白鳳10年(670)に観世音寺が落成し、百済から贈られた阿弥陀如来像を本尊として安置した。
5.このように白村江戦敗北や薩夜麻の捕囚などの大事件が続発したため、さらには条坊の追加造成などもあったので、観世音寺創建が遅れた。

 以上のようにわたしは考えていますので、百済滅亡前に贈られた阿弥陀如来像のための寺院(観世音寺)建立に10年以上かかったのも当然としたのです。
 今回の正木さんからのご指摘を得て、貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(『日本考古学』30号(2010)所収)について新たな疑問点が浮かんできました。
 それは観世音寺式伽藍配置の特徴として金堂は東向きであり、これは仏教信仰形態(阿弥陀信仰)の影響を受けたとされているにもかかわらず、観世音寺を「鎮護国家の寺」とされたことです。仏教思想や国家と仏教との関係について勉強中なのですが、阿弥陀信仰というものは「鎮護国家」とは少し異なるように思うのです。王家や王族の菩提を弔う「菩提寺」のような性格ではないでしょうか。この点、観世音寺式寺院の阿弥陀信仰と「鎮護国家」を関連付ける積極的な理由が不明です。この点、わたしも勉強したいと思います。
 なお、つい最近になって知ったのですが、摂津の四天王寺(『二中歴』年代歴に見える「難波天王寺」)の創建当時の本尊も阿弥陀如来像だったとする史料があるようなのです(調査中)。わたしは四天王寺(天王寺)も九州王朝の太子、利歌彌多弗利による創建と考えていますから、九州王朝は7世紀初頭において、阿弥陀信仰を受容しており、その影響は観世音寺にまで続いていたと考えられるのではないでしょうか。(つづく)


第1185話 2016/05/12

前期難波宮「内裏」の新説

 『大阪歴史博物館研究紀要 第14号』(平成28年3月)に収録されている佐藤隆さんの論文「特別史跡大阪城跡下層に想定される古代の遺跡」を読みました。前期難波宮九州王朝副都説を唱えているわたしにとって、前期難波宮遺跡の北側にある大阪城の場所には前期難波宮時代に何があったのだろうかという疑問を永く持ち続けていましたので、強い関心を持って読みました。
 大阪城一帯が特別史跡に指定されているため、その下層の発掘調査はほとんど報告がなく、この佐藤論文は貴重です。須恵器杯Bの編年など、興味深い問題も記されているのですが、わたしがもっとも驚いたのが、現在の大阪城南部の本丸および二の丸から大手門に至る地域から、7世紀中頃の土器が出土したことなどを根拠に、その付近に前期難波宮の「内裏」があったのではないかとの新説を出されていることでした。掲載された図面によれば、その「内裏推定域」の位置は前期難波宮の北東にあたり、前期難波宮の中心軸からは200〜300mほど東にずれているのです。
 わたしは何となく、古代王都においては朝堂院の真北に内裏は位置すると考えていたのですが、今回の佐藤説に触れて、このような考え方もあるのだと驚いたのです。もちろん、それは佐藤さんの推定に過ぎませんが、わたしはあることを思い出しました。それは太宰府政庁2期の内裏(字、大裏)についてです。
 太宰府政庁の北側の遺構の規模は小さく、その後背地もそれほど広くないことから、本当にこんな狭い場所で九州王朝の天子(薩夜麻)は生活していたのだろうかと疑問視する声もあったからです(伊東義彰さんの意見)。ところが、太宰府政庁の北西に位置する「政庁後背地区」にも遺跡があり、田中政喜著『歴史を訪ねて 筑紫路大宰府』(昭和46年、青雲書房)によれば、「蔵司の丘陵の北、大宰府政庁の西北に今日内裏(だいり)という地名でよんでいるが、ここが帥や大弐の館のあったところといわれ、この台地には今日八幡宮があって、附近には相当広い範囲に布目瓦や土器、青磁の破片が散乱している。」と紹介されています。それで、ここに内裏があったのではないかと考えていましたので、九州王朝王都にも朝堂院の真北に内裏が無いケースがあったことになり、前期難波宮の内裏も同様に朝堂院からずれていても問題ないと考えることができるのです(「洛中洛外日記」第982話 2015/06/16 大宰府政庁遺構の字地名「大裏」 をご参照ください)。
 佐藤さんの前期難波宮「内裏推定域」説が妥当かどうかは、今後の考古学的調査を待たなければなりませんが、広さやその位置が上町台地最高所であることなどから考えると、有力説ではないかと思えるのです。


第1184話 2016/05/11

近江朝と「朝庭(錦織遺跡)」

 近江朝を論じる際、最も重要な考古学的論点が大津市錦織遺跡から出土した大規模な朝堂院様式の宮殿遺構でしょう。周囲が宅地化しているので全容は未解明ですが、前期難波宮に匹敵する大規模な北闕型(王宮が北側に位置し、「北を尊し」とする)の朝堂院様式の宮殿であることがわかっています。文字通り「近江朝庭」と呼ぶにふさわしい規模と様式です。通常使用される「朝廷」とはやや意味が異なる「朝庭」という表記には「朝堂院等の建物に囲まれた広場」という字義がありますが、『日本書紀』などでは混用されているようです。従って錦織遺跡の宮殿遺構はまさに「近江朝庭」なのです(通常は「近江大津宮」と呼ばれている)。
 わたしは「白鳳元年(661)、九州王朝の近江遷都」という仮説(「九州王朝の近江遷都」『古田史学会報』61号所収。2004年4月)や、天智による王朝継承・交替(「洛中洛外日記」580話「近江遷都と王朝交代」2013年8月15日)について発表したことがありますが、今回の正木新説は更に具体化させた「天智・大友による九州王朝を継承した九州王朝系近江朝」という新概念です。この考古学的痕跡が錦織遺跡の近江大津宮遺構ですが、実は『日本書紀』にも「近江朝庭」の史料的痕跡が残されています。
 以前、「古田史学の会」関西例会で冨川けい子さんから『日本書紀』には「大和朝廷」という表記はなく、明確に「地名+朝庭」と理解できる表記は「難波朝庭」と「近江朝庭」であるとの研究発表がありました。この指摘は考古学的出土事実に対応していることから、わたしは注目してきたところです。というのも、文字通りの「朝堂院等の建物に囲まれた広場」である大規模な「朝庭」遺構は、7世紀段階では前期難波宮と近江大津宮(錦織遺跡)、そして7世紀末の藤原宮だけなのです(太宰府政庁2期は規模がかなり小さい)。中でも北闕様式の「朝庭」は前期難波宮と近江大津宮です。ですから『日本書紀』の記事(難波朝庭・近江朝庭)と考古学的事実(前期難波宮遺跡・錦織遺跡)が一致しているのです。
 わたしは前期難波宮を「九州王朝の副都」と考えていますし、「九州王朝の近江遷都」があった可能性も高いと考えているのですが、こうした仮説がこれら文献史学と考古学の成果とよく対応しています。さらにこの仮説体系と今回の正木新説もうまく対応しているように思えますので、これからの正木説に対する検討や論争が期待されるところです。


第1182話 2016/05/05

「鎮護国家の伽藍配置」の明暗(1)

 多元的「国分寺」研究サークルの肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)からご紹介いただき、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からコピーを送っていただいた貞清世里・高倉洋彰「鎮護国家の伽藍配置」(『日本考古学』30号(2010)所収)を何度も読み返しました。大和朝廷一元史観に依ってはいますが、なかなかの好論文でした。考古学論文は出土事実という科学的基礎データに基づいていますから、文献史学ほど支離滅裂とはなりにくい(「邪馬台国」畿内説のような史料改竄・無視という「研究不正」がしにくい)ということもあって、勉強になることが多々あります。
 今回の貞清さん高倉さんの論文は二つの考古学的事実に基づいてその意義付けを行うというもので、その二つの考古学事実の紹介と切り口は見事でした。それは古代における観世音寺式伽藍配置の寺院が日本列島に12箇所発見されていること、その古いものは西日本に多くあり、大宰・総領の支配地域や古代山城の分布と多くが重なっていることです。
 まず観世音寺式伽藍配置の特徴とは回廊内の西側に金堂があり、東側に塔があるというもので、しかも金堂は東向きであり、これは仏教信仰形態(阿弥陀信仰)の影響を受けているとされています。その代表的寺院として太宰府の観世音寺があることから、「観世音寺式」と称されています。わたしもこの観世音寺式伽藍配置に注目していたこともあって、蝦夷国の多賀城にあった多賀城廃寺やその南の郡山廃寺、そして近江の崇福寺や飛鳥の川原寺が同様・類似の伽藍配置を持つことから、九州王朝や近畿天皇家、蝦夷国が国家中枢地域に観世音寺式寺院を共通して建立していたことに触れたことがありました(「よみがえる倭京(太宰府) -観世音寺と水城の証言-」(『古田史学会報』50号、2002年)。
 そして同論文において最も光彩を放つ考古学的指摘が、7世紀における大宰や総領がおかれた地域に古代山城と観世音寺式寺院がセットで存在するという視点です。このアイデアは貞清さんが以前から論文発表されてきたもので、今回は『日本考古学』という権威のある学会誌に発表するため、高名な考古学者の高倉さんとの共同執筆(ラストオーサーは高倉さん)という形態をとられたのではないでしょうか。同論文で貞清さんは次のように記されています。

 「(観世音寺式伽藍配置の寺院遺跡)12のなかで創建年代の先行する西日本の9寺院の分布における共通点(図6)として、総領(大宰)のおかれた国ないし地域に多くが分布していること、そして総領(大宰)が管轄したとされる西日本地域に分布する古代山城の分布とも類似していることが挙げられる。その典型が大宰府の付属寺院である観世音寺にみられる。(中略)つまり、国家にとって特に重要とされた地には、総領(大宰)がおかれ、軍事的要衝地でもあるために後に山城が築かれたということである(表3)。そして、そこに観世音寺式をとる寺院(観世音寺)が建立されたということになる。」(p.34)

 このように指摘され、図6にはその分布図が示されています。この観世音寺式寺院・総領(大宰)・古代山城の三点セットに「鎮護国家」という意義付けを見いだされたわけで、この点は素晴らしい視点だと思いました。まさに同論文の「明」にあたります。しかし残念かな、同時に「暗」もくっきりと浮かび上がっているのです。すなわち、その「鎮護国家」の重要な三点セットが畿内(奈良・大阪)には無いという考古学事実です。福岡県(筑紫)と岡山県(吉備)には濃密に分布・プロットされていることとは対照的に、畿内はほぼ「空白」なのです。
 従って、先入観を廃してこの三点セットの論理性により、作成された考古学的分布図を読みとるなら、「鎮護国家」の中枢領域は筑紫であり、次いで吉備ということになり、「鎮護」されるべき最高「国家」権力者は最濃密分布を持つ筑紫(太宰府)にいた、と理解されるべきなのです。せっかくここまで優れた視点と分布図を作成しながら、大和朝廷一元史観の呪縛から考古学者(貞清さんら九州の考古学者でさえも)は逃れられないのです。「残念」というほかありません。(つづく)


第1181話 2016/05/04

十二弁、十三弁蓮華紋瓦の調査報告

 久留米市の犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)より、新たに十二弁、十三弁蓮華紋軒丸瓦の調査報告メールが届きました。
 筑後国府跡から出土した単弁十三弁蓮華紋軒丸瓦は筑後国府式と呼ばれており、筑後を中心に出土分布しているようです。年代的には8世紀以後の遺跡からの出土とされており、この編年が正しければ九州王朝滅亡後となりますが、依然としてなぜ筑後や九州に多いのかという疑問は残ります。十三弁が九州王朝の伝統(家紋)だったという可能性もありますので、引き続き研究したいと思います。
 それにしても現地の研究者による調査報告はありがたいことです。以下、犬塚さんのご承認を得て、メールを転載させていただきます。

【メール転載】
古賀 様

 筑後国府跡から出土した十三弁の軒丸瓦についてこれまで洛中洛外日記(第24話第992話)で九州王朝との関連に言及されていたところですが、この軒丸瓦について、小澤太郎「筑後国府出土軒瓦の様相」(「福岡考古」第19号 2001年3月)という論文がありました。
 以下、単弁十三弁蓮華文軒丸瓦に関する部分について要点を紹介します。

 軒丸瓦はⅡ期国庁領域を中心として、6形式の軒丸瓦が出土・採集されている。Ⅰ類が単弁十三弁蓮華文軒丸瓦であり、Ⅱ類が陰刻され簡略化された瓦当文様を有する単弁十三弁蓮華文軒丸瓦である。Ⅱ類は筑後国府独自の軒瓦で、それ以外の出土はない。(Ⅲ類〜Ⅵ類は省略)
 軒丸瓦のうちⅠ類について、次の遺跡で同笵瓦が出土している。

筑後国
  筑後国分寺跡(久留米市)
  堂ヶ平遺跡(広川町)
 
筑前国
  太宰府史跡(太宰府市)
  鴻臚館跡(福岡市)
  宝満山遺跡(太宰府市)
  浄妙寺(榎寺)跡(太宰府市)
 
 筑後国府から出土したⅠ類の単弁十三弁蓮華文軒丸瓦と偏行唐草文軒平瓦はセット関係にあり、これを「筑後国府Ⅰ式」とする。筑後国府Ⅰ式は9世紀前半に造瓦・使用され、10世紀前半に廃棄された。
 筑後国Ⅰ式の分布状況は筑後・筑前2カ国で、両者は同笵ではあるが、異なる工人及び工房で製作された可能性が高い。

 小澤論文で取り上げられたこれらの単弁十三弁蓮華文軒丸瓦以外に、九州歴史資料館編「九州古瓦図録」(柏書房 1981年)には次のような遺跡から出土した単弁十三弁蓮華文軒丸瓦が掲載されています。

 上記以外の単弁十三弁蓮華文軒丸瓦出土遺跡
  筑前国分寺跡(福岡県太宰府市)
  菩提廃寺(福岡県京都郡みやこ町)
  豊前国分寺跡(福岡県京都郡みやこ町)

 また同書に掲載されている単弁十二弁蓮華文軒丸瓦出土遺跡を挙げると次のとおりです。
  浜口廃寺(福岡県遠賀郡芦屋町)
  川原谷瓦窯跡(福岡県八女郡広川町)
  弥勒寺跡(大分県宇佐市)
  肥前国分寺跡(佐賀県佐賀市)
  薩摩国分寺跡(鹿児島県薩摩川内市)

 以上、とりあえずの報告とします。
 なお、筑後国府跡の単弁十三弁蓮華文軒丸瓦については、出土時の写真が「筑後国府通信第9号」(久留米市教育委員会 平成24年3月)に掲載されていましたので別添ファイルでお送りします。

久留米市 犬塚幹夫


第1180話 2016/05/04

犬塚さんから十二弁、十三弁紋の調査報告

 久留米市在住の研究者、犬塚幹夫さんからまた新たな調査報告のメールが届きました。十二弁と十三弁紋の調査報告です。作成しにくい十三分割という意匠がなぜ採用されたのか不思議に思っていたのですが、これだけ使用例があると意図的な選択と考えざるを得ません。
 熊本県和水町の江田舟山古墳出土の鉄剣に十二弁の紋が象嵌されていることから、九州王朝における十二弁と十三弁紋の関係など興味深い問題に進展しそうです。以下、犬塚さんのご了解を得て転載します。

【メールの転載】
古賀様
 
 久留米市大善寺町の十二弁菊花紋(恵比須女神像の石祠)の調査以降、文献等によって十三弁又は十二弁菊花紋を使用している神社等について調べてみましたので、とりあえずの結果をご報告します。

A 創建が明治以前で、十三弁又は十二弁菊花を神紋等で使用している神社
 
中臣印達神社 兵庫県たつの市揖保町中臣
 宝亀元年6月15日の創祀と伝えられ、延喜式の名神大社に列格する。十三弁菊花を神紋として使用。
 肥さんの夢ブログで「7度西偏」の寺社の一つに挙げられていました。
 
氷川神社 東京都練馬区石神井台
 応永年間、領主豊島氏が大宮の武蔵一の宮氷川神社分霊を勧請したのが創祀と伝える。十三弁菊花を神紋として使用。

兎足神社 愛知県豊川市小坂井町
  社伝によると、当初、平井の柏木浜に祀られていたが、天武天皇白鳳15年4月11日、現在地へ遷座した。神紋は丸に兎たが、軒丸瓦に十三弁と十二弁の菊花が使用されている。

霧島岑神社 宮崎県小林市細野
 続日本紀に、仁明天皇の承和四年日向国諸県郡霧島神と見える神社。明治6年に現在の場所に遷され、翌年夷守神社と合祀、現在の霧島岑神社となっている。十二弁菊花を神紋として使用。

六所神社 福岡県筑後市羽犬塚
 承平年中、板東寺より勧請。大棟に十二弁の菊花紋が使用されている。

亀山八幡神社 長崎県佐世保市八幡町
  神社に伝わる由緒によれば、天武天皇白鳳4年に神託により宇佐神宮から分霊を迎えたのが始まりという。神紋は三巴であるが、唐破風の飾りの部分に十二弁菊花の中に小さな十二弁菊花という紋が使用されている。

八幡宮(箕輪) 静岡県富士宮市大岩
 創建年等不詳。十二弁の菊花紋を神紋として使用。

放生津八幡宮 富山県射水市八幡町
 創始は天平18年(746年)と伝え、越中守大伴家持が宇佐神宮から勧請したと伝える。神紋は十六弁菊花と桐であるが、境内の提灯に十二弁菊花紋を使用。

宇佐八幡宮 大分県宇佐市南宇佐
 社伝等によれば、欽明天皇32年創立。神紋は三巴であるが、御朱印帳に十二弁菊花紋を使用。

B 後陽成天皇と関わりのある寺院・城
 
三宝院 京都市 伏見区醍醐
  永久3年(1115年)、左大臣 源俊房の子で醍醐寺14代座主勝覚が灌頂院として開き、後に仏教の三宝にちなんで現在の名に改めた。唐門に後陽成天皇が秀吉に下賜したと伝えられる桐と十二弁菊花の紋が使用れている。

薬王寺 山梨県西八代郡市川三郷町 
  薬王寺は天平18年(746)聖武天皇の詔勅により、行基が開き観全僧都の開山になる名刹である。寺の客殿の上段の間には、後陽成天皇の第八皇子で八之宮良純親王御座所の一部が保存されている。御座の間は方一間二畳敷で、天井には直径1mの十二弁の菊花紋がかたどられている。(町のホームページでは十三弁とされているが、メールで照会した結果十二弁が正しいとの回答を得た。)

松本城  長野県松本市
  秀吉は後陽成天皇から天皇家の紋である「五七の桐紋」と「十二弁菊紋」を下賜され、それを、自分の家臣にさらに下賜した。天正18年入場した石川氏は秀吉から上記2つの紋を下賜され、使用したと推定されている。渡櫓の屋根瓦に十二弁菊花の紋が使用されている。

C 明治以降十二弁菊花紋を使用している神社

荏原神社 東京都品川区北品川
 和銅2年(709年)9月9日、大和国丹生川上神社より高※神(水神)の勧請を受けて南品川に創建。十二弁菊花の神紋は明治元年から使用している。
  ※オカミ=「雨」の下に「口」を三つ並べてその下に「龍」

大国神社 北海道深川市一己町
 明治30年開村記念標を建立し神事を行うを創祀としている。十三弁菊花を神紋として使用。

沼田神社 北海道雨竜郡沼田町
 明治27年、伊勢神宮の御分霊を奉斎、翌年小社を建立。十二弁菊花を神紋として使用。

 以上、A、B、Cの三グループのうち、BグループとCグループについては、九州王朝との関連性は考えられないかと思いますが、Aグループについては関連性についての検討が必要になるかと思われます。
 調べるに当たっては、丹羽基二著「神紋総覧」講談社学術文庫、全国神社名鑑刊行会史学センター編「全国神社名鑑」上下、神社研究サイト「玄松子の記憶」を参考にさせていただきました。なお、それぞれの使用状況については、ネットで検索し画像を確認しました(筑後市の六所神社と佐世保市の亀山八幡神社については犬塚が現地で確認)。
 筑後国府跡の単弁十三弁蓮華文軒丸瓦については、別にお知らせする予定です。

久留米市 犬塚幹夫


第1176話 2016/04/30

白鳳大地震と朱雀改元

 このたびの九州の大地震のこともあって、古代における大地震として有名な筑紫大地震(678年)と白鳳大地震(684年)について調べてみました。筑紫大地震は『日本書紀』天武7年12月条や『豊後国風土記』に記されており、この地震により九州王朝の中枢は壊滅状態になったと思われます。

 「筑紫国、大きに地動る。地裂くること広さ二丈、長さ三千余条。百姓の舎屋、村毎に多くたおれやぶれたり。」『日本書紀』天武7年12月条
 「大きに地震有りて、山崗裂け崩れり。此の山の一つの峡、崩れ落ちて、慍(いか)れる湯の泉、處々より出でき。」『豊後国風土記』日田郡五馬山条

 正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の説によれば、この地震により九州王朝は前期難波宮(副都)に遷都しました。ところがそれに追い打ちをかけたのが白鳳大地震でした。この四国や近畿・東海を直撃した地震は東南海トラフによるものと考えられています。この年、天武13年(684)10月は九州年号の白鳳24年ですが、この地震により九州年号は朱雀に改元されたと正木裕さんは指摘されています(「隠された改元」『「九州年号」の研究』所収)。
 7世紀後半に発生した二つの巨大地震により九州王朝は大きく疲弊し、滅亡に向かったとわたしは論じたことがあります(「朱鳥改元の史料批判」『「九州年号」の研究』所収)。筑紫大地震から6年後に白鳳大地震が発生したことから、もしかするとこの熊本・大分大地震の6年後に東南海大地震が発生するのではないかと思うと、ぞっとしました。テレビなどで地震学者は九州から更に東の中央構造線への地震には繋がらないと発言していましたが、学者の地震予知がこの38年間当たったことがないという事実を思い知らされていますから、御用地震学者の言うことは信用できません。
 わたしたちは歴史に学ぶために古代史を研究していますから、日本列島はどこでも大地震が発生するという覚悟で防災に取り組まなければと改めて考えさせられました。


第1175話 2016/04/29

日本国王子の囲碁対局の勝敗

 『旧唐書』には日本国王子の囲碁対局の勝敗については記されていませんが、『杜陽雑編』(9世紀末成立)などに次のような逸話が残されています。

「皇帝の命で対局する顧師言はプレッシャーがかかる中、三十数手目に鎮神頭という妙手を打ち、勝ちました。日本国王子は唐の役人に顧師言は唐で何番目に強いのかとたずねると、三番目とのこと。実際は一番だったのですが、これを聞いた日本国王子は小国の一番は大国の三番に勝てないのかと嘆きました。」(古賀による要約)

 この逸話が史実かどうかはわかりませんが、それほどの妙手で顧師言が勝ったのなら、『旧唐書』にそのことが記されてもいいように思いますので、後世に潤色されたものかもしれません。
 日本列島に囲碁が伝来したのがいつ頃かはわかりませんが、『隋書』「イ妥国伝」には「棋博を好む]との記事が見えますから、その頃には九州王朝では囲碁が盛んだったと思われます。   『万葉集』(巻9、1732番・1733番)にも題詞に「碁師の歌二首」が見えます。ただしこの「碁師」の解釈については諸説あり、棋士のこととする見解は定説にはなっていないようですが、わたしは字義通り棋士とするのが真っ当な理解と考えています。(つづく)


第1174話 2016/04/24

日本国王子の囲碁対局

 このところ囲碁に関するビッグニュースが続いています。井山裕太さんによる史上初の七冠達成も素晴らしい偉業ですが、わたしが驚愕したのは人工知能「アルファ碁」が世界最強の棋士といわれているイ・セドルさん(韓国)と対局して4勝1敗で圧勝したことです。
 1997年にチェスの世界チャンピオンがコンピューターに敗れましたが、より複雑な囲碁ではコンピューターが人間に勝つにはまだ30年以上はかかるだろうと言われていました。ところが、グーグルが開発した人工知能「アルファ碁」がついにプロ棋士を超えたのです。このペースで人工知能が進化すると、そう遠くない時期に、人工知能は「意志」を持つのではないかとさえ専門家から指摘されています。何となく末恐ろしい気がします。
 古代史にも囲碁に関する記事がたくさんあります。中でも興味深く思ったのが、日本国の王子が中国(唐)で碁を打ったという『旧唐書』の次の記事です。

「日本国の王子が来朝し、方物を貢じた。王子は碁を善くする。帝(宣帝)は棋待詔(囲碁をもって仕える官職)の顧師言(囲碁の名手)に命じて王子と対局させた。」『旧唐書』宣帝本紀・大中2年(848) ※古賀による意訳。

 日本国の王子が唐に来て、皇帝の命により唐の囲碁の名手、顧師言と対局したという記事です。わたしは15年ほど前に『旧唐書』全巻読破に挑戦したのですが、そのときから気になって仕方がない記事でした。というのも、唐の大中2年(848)は日本では平安時代ですが、そのときに天皇家の皇子が唐に渡ったという記録が日本側にはないのです。そこで、もしかすると九州王朝の末裔の「皇子」が唐に渡り、『旧唐書』に記録されたのではないかとも考えました。もちろん九州王朝が滅びて150年近く後のことですから、いくらなんでも「日本国王子」を名乗って唐に行くことはできないし、本物の日本国王子かどうかを唐も気がつかないはずはないと考え、それ以後は研究しませんでした。しかし不思議な記事だなあという思いは持ち続けていました。
 そんなとき、井山さんの七冠達成や人工知能「アルファ碁」の出現により、この日本国王子の記事を思い出したのです。(つづく)