九州王朝(倭国)一覧

第730話 2014/06/18

シルクの国、邪馬壹国

 今日は新幹線「つばめ」で東京から山形市に向かっています。車中においてある無料の雑誌「トランヴェール」6月号の特集記事は「山形発! Japanese Silk 新時代」というもので、山形県各地の養蚕業や絹織物の歴史や新商品について解説されていました。

 「江戸中期、藩の財政再建策として始めた置賜地方。
  紅花を京へ送り、紅花染の絹織物を得ていた村山地方。
  廃藩置県で失業した旧藩士の救済から出発した庄内地方。
  山形の絹産業の歴史を地域の特徴と共にひもとく。」

 というリード文で始まる解説は、とても勉強になりました。わたしも色素・染料メーカーのケミストですので、シルクの古代染色技法の復元研究など思い出深い経験があります。機会があれば紹介していきたいと思います。
 いわゆる「邪馬台国」論争で畿内説というものがありますが、実は畿内説は学問的仮説、すなわち「学説」としての体をなしていません。せいぜい珍説か臆説に過ぎないのです。何故なら、文献史学における学説や仮説として成立する上での必須条件である史料根拠が畿内説にはないからです。『三国志』倭人伝のどこをどう読んでも畿内説の史料根拠といえる記事はありません。あるのなら指摘してみてください。
 もし原文にある邪馬壹国と畿内「大和」の最初の二音が「やま」で共通するということが史料根拠と言うのなら、山形市の「やま」を「根拠」にした「邪馬台国」山形説のほうがよっぽど畿内説よりも合理的です。このことは別の機会に詳論しますが、倭人伝には邪馬壹国を畿内と特定できる根拠、たとえば位置(方角や距離による地域特定)、たとえば文物(考古学的出土物による地域特定)など皆無です。ですから畿内説論者は倭人伝の原文を都合のいいように改訂しまくって(文献史学の「禁じ手」である史料改竄を行って「史料根拠」にするという)、珍論・奇論をくりかえしているのです。
 倭人伝に見える倭国や邪馬壹国の象徴的文物にシルク(絹)があります。倭人伝には「蚕桑絹績」という記事があり、「倭錦」「異文雑錦」など「錦」と記されているのがシルクの織物ですが、弥生時代の遺跡からシルクが出土するのは博多湾岸を中心に吉野ヶ里遺跡を含む北部九州で、畿内の弥生時代の遺跡からは出土が知られていません。この一点だけでも、「邪馬台国」畿内説など成立しようがないのです。
 考古学が学問であり、倭人伝研究の文献史学が学問であるのならば、倭国の中心地、邪馬壹国の候補地は博多湾岸しかありえません。畿内説など仮説としてさえも成立しません。従って、「邪馬台国」畿内説などをまじめに唱えている論者は、いくら「学問の自由」とは言え、全く学問的でなければ、「学者」とよぶことさえもはばかれると言わざるを得ません。この問題、「畿内説は学説ではない」ということについて、これからも引き続き論じます。


第727話 2014/06/14

九州年号「光元」改元の理由

 九州年号研究において不思議な現象のあることが、以前から知られていました。それは、中国の隋の年号が改元された年に、なぜか九州年号も改元されるケースが多いというものです。たとえば次の通りです。

西暦 隋の年号  九州年号 (それぞれ元年)
581 開皇    鏡當
601 仁寿    願轉
605 大業    光元
617 義寧    --
618 皇泰    倭京

 もちろんこの期間に他の九州年号の改元、たとえば勝照(585)・告貴(594)・定居(622)もあり、両王朝のすべての改元が一致しているわけではありませんが、短命な隋の改元(5個のうち4個の年号が九州年号の改元と同年)が偶然にしてはよく一致していることから、その理由についてどのよう に解釈したらよいのか、説得力のある仮説はありませんでした。
 通常、改元はその王朝の天子の交代や、吉兆・凶兆が現れたことにより改元されます。中国と九州王朝とで、たまたま天子の交代が同年だったという偶然も皆無ではないでしょうが、やはり学問としてその合理的な同年改元の真因を解明したいものです。
 そこで今回わたしが注目したのが、『二中歴』に記された九州年号「光元」(605年。他の年代暦等には「光充」とするものもある)と隋の「大業」との一致でした。遠く離れた隋と九州王朝(倭国)において、同時に発生しうる吉兆・凶兆として天文現象が考えられます。そして、わたしは九州年号「光元」の 「光」の一字に注目したのです。前漢で年号が使用されたとき、「元光」(BC134)という年号が採用され、その理由は「彗星」の出現が契機になったとい われています。それと同様に605年に何らかの光に関係する天文現象が起こり、それが要因となり、九州王朝も隋も改元したのではないかとの作業仮説(思い つき)に到達したのです。
 この作業仮説を検証するために史料根拠を探したところ、『日本書紀』の推古12~13年条(604~605)にはそれらしき記事は見えません。特に12 年条は有名な「十七条憲法」記事で占められており、この時期には彗星などの天文現象記事は記録されていません。次に中国側の史料として『隋書』の帝紀と天 文志を調べました。
 「帝紀第二高祖下」の仁寿四年(604)には高祖の崩御(7月)があり、翌年1月には改元され大業元年となりますから、この改元は天子の交代によるものでしょう。天文現象としては、6月に「星有りて月の中に入る、数日にて退く」、7月には「日青く光り無し、八日にして復す」という記事が見えます。その 後、高祖が崩御しますから、これらの天文現象は凶兆と見られたようです。これらの現象の詳細がわかりませんので、日本列島(九州王朝)でも見られたのかどうかも判断できません。
 次いで「志第十六天文下」には仁寿4年6月の「星有りて月の中に入る」について、「占いて曰く、大喪有り、大兵有り、亡国有り、軍破れ将殺す」とあり、 七月の「日青く光り無し」についても、「占いて曰く、主勢奪。又曰く、日に光無く王に死有り」と記録されています。やはりこれらの天文現象は凶兆として捉えられていたことがわかります。
 もし九州王朝でも「日青く光り無し」という不思議な天文現象が観測されていたとすれば、隋と同様に占われ、凶兆とされたことと思われますので、二度と「日青く光り無し」にならないようにと、翌年に「光元」という文字使いで改元されたことはよく理解できます。ちなみに、この時期は九州王朝の天子、多利思北孤は健在ですので、天子の交代による改元とする理解はあり得ません。
 以上の考察から、九州年号「光元」の改元理由として、『隋書』に見える「日青く光り無し」という天文現象を契機としたとする作業仮説(一つのアイデア) を提起したいと思います。この作業仮説が有力仮説となるためには、隋で見られた「日青く光り無し」という天文現象の解明と九州王朝でも観測できたという証明や根拠が必要です。天文現象に詳しい方のお力添えを賜れば幸いです。


第724話 2014/06/11

「歴史秘話ヒストリア」の中の古田先生

 「洛中洛外日記」720話や721話において、NHK「歴史秘話ヒストリア」での「邪馬台国」纒向遷都説やNHKの放送姿勢を批判しましたが、同番組に古田先生がちらっと登場されたことに気づかれたでしょうか。
 番組冒頭で「邪馬台国」所在地論争に九州説と機内説があると紹介し、それぞれの論者と思われる人物写真が瞬間でしたが一斉に掲載されました。その九州説論者と思われる写真の一枚に古田先生そっくりの写真があったのです。しかし短時間でしたのでしっかりと確認できませんでした。出張先から帰宅したら、水野代表から同番組の再放送が10日の午前0時代にあるとメールが来ていましたので、水野さんらに電話で古田先生の写真が出たように思うが、間違いないか確認しました。残念ながらどなたも気づかれていなかったので、自宅で再放送をビデオ収録し、今朝確認したところ、やはり古田先生でした。古田先生と面識がある 妻にも確認してもらったところ、間違いないとのこと。見るところ、先生50歳頃の写真と思われました。他にも森浩一さんや松本清張さんの写真も見え、いずれも若い頃の写真でしたから、NHKの意図的な写真選択と思われました。
 ということは同番組を制作したNHKスタッフは古田先生や古田説を知っていたことは確かです。とすれば、倭人伝には「邪馬台国」などという国名記事はな く、原文は「邪馬壹国」(やまいちこく)であることも知っているはずです。従って、NHKは知っていながら史料事実とは異なる虚偽説に基づいて番組を制作し放送したことは明白です。これは明らかに「放送法」第4条に違反しています。同4条は次の通りです。

放送法
(国内放送等の放送番組の編集等)
第四条  放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一  公安及び善良な風俗を害しないこと。
二  政治的に公平であること。
三  報道は事実をまげないですること。
四  意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

 今回のNHKの「歴史秘話ヒストリア」は第四条三項と四項に違反しています。『三国志』倭人伝には「邪馬壹国」(やまいちこく)とある史料事実をまげて、「邪馬台国」と表記したり「ヤマタイコク」とナレーションしました。これは三項違反です。
 古田先生の写真まで掲載しながら、原文通り「邪馬壹国」が正しいとする有名な古田説があるにもかかわらず、「なかった」ことにして番組では一切触れられませんでした。これは四項に違反しています。
 それにしてもNHKは御用学者(福島原発は安全に停止説。健康に影響ない説)や虚偽説(ヤマタイコク説)が大好きな放送局のようです。みなさんもこれからNHKの番組や報道ニュースを見るときは、放送法第四条を意識して見られてはいかがでしょうか。


第722話 2014/06/08

九州王朝の建元は「継体」か「善記」か

 「洛中洛外日記」721話の「NHK『歴史秘話ヒストリア』のウラ読み」を綴っていて、『三国史記』新羅本記に法興王による年号の制定記事(「建元」元年、536年)があることを思い出しました。ある王朝が年号を最初に制定することを「建元」といい、その後、年号を変更することを「改元」というのですが、新羅の場合、建元した際の年号名がそのものずばりの「建元」です。そして改めて気づいたテーマがありました。
 それは九州王朝の年号「九州年号」の建元年号は「継体(517~521年)」(『二中歴』にのみ遺存)か、「善記(522~525年)」(『二中歴』以外の史料)かというテーマです。古田先生を始め古田学派内の大勢としては「継体」を最初の九州年号とされているようです。その理由は、『二中歴』の史料的優位性(成立の古さ。内容が九州王朝系史料に基づく)と論理性(継体天皇の漢風諡号が誤記誤伝により年号と間違われ、『二中歴』に記録されたとは考えにくい)によるもので、わたしも同様に考えています。
 しかし、圧倒的多数の年代暦類が「善記」を最初の九州年号としていたり、「善記」を我が国の年号の最初と説明する後代史料が少なからず見えることから、 どちらが最初の九州年号かを確定できる実証や論証ができないものかと考え続けてきました。今回、新羅の建元年号名が「建元」であることからもわかりますよ うに、新たな権力者が新王朝を立ち上げたときに建元するのですが、その年号は新王朝最初の年号にふさわしい漢字や単語を採用することは当然でしょう。王朝内の最高の知識人や歴史官僚・文字官僚を動員して検討したことを疑えません。
 このような視点から見ると、中国最初の本格的年号の最初は前漢の武帝による「建元元年」(BC140年)からとされていますが、この「建元」という年号も最初に元号を建てるという字義そのものです。おそらくは新羅もこの武帝の年号をならって、自ら最初の年号名を「建元」としたのではないでしょうか。
 ちなみに、前漢を滅ぼして「新」を建国した王莽の年号は「始建国」(9年)で、そのものずばりの年号名です。
 また、近畿天皇家の最初の年号「大宝」も、天子の意味を持つ「宝」の字が使用され、新王朝の初めての天子(宝)を礼賛する「大宝」という名称は最初の年号にふさわしいものです。ちなみに、天子の位を「宝位」といいます。
 同様に九州王朝の最初の年号の字義として、「継体」と「善記」のどちらがふさわしいでしょうか。古田先生によれば、「善記」は筑紫君磐井による律令(善き記)制定による年号と考えられています。「継体」はそれまで九州王朝・倭国が臣従していた中国南朝からの自立と、その権威を引き継ぐという意味で制定された年号ではないかと、古田先生は講演などで発表されています。こうしたことから、九州王朝最初の年号としては「継体」の方がよりふさわしいのではないでしょうか。現時点ではそのように考えています。


第721話 2014/06/07

NHK「歴史秘話ヒストリア」のウラ読み

「洛中洛外日記」720話でNHK「歴史秘話ヒストリア」の放送倫理について指摘し、その最後に「それでもわたしはNHKに良心的な社員がいることを、真実を放送・報道することを願っています。」と記しました。
 卑弥呼は伊都国から纒向に「遷都」したという学問的に荒唐無稽な珍説に基づいた番組でしたが、もしかするとNHKの番組関係者に真実を伝えたいと密かに願う良心的な人がいて、番組の中に真実の痕跡を残したのかもしれないと、そんなウラ読みをしています。そう思った理由は次のことからですが、深読みしすぎでしょうか。
 まず思ったのが、弥生遺跡の中で最大級の豪華な出土物を持つ糸島の平原王墓が紹介されたことです。あの圧倒的な出土物(内行花文鏡・翡翠・水晶・他)を見た人に、纒向遺跡の「桃の種」よりも強烈な印象を与えることは明白ですから、番組の「編集意図」を越えて、倭国の中心地は北部九州であるというメッセージとなっています。
 次に、ナレーションでは「ヤマタイ国」と説明される一方、『三国志』倭人伝の画像では「邪馬壹国(やまいち国)」と記された部分をマーキングして紹介されており、見る人には「ヤマタイ国」ではなく「やまいち国」が真実(史料事実)であることがわかるようになっていました。もし、 このウラ読みが当たっていれば、この番組関係者は古田説を知っていたことになります。
 こうした表向きの編集意図とは異なり、真実を密かに伝え、後世に残そうとする試みは様々な分野で、いろんな時代で行われてきました。一例をご紹介します。
 『三国史記』新羅本記第五(1145年成立)の「真徳王(即位647~654)」の記事です。唐に赴いた新羅の使者に対して唐の天子太宗から「新羅はわが朝廷に臣事する国であるのに、どうして別の年号を称えるのか」と叱責されます。そして、『三国史記』の編者は「論じていう」として次のような解説を加え ています。

「偏地の小国にして天子の国に臣属する国は、もともと私に年号をつくることはできないものである。もし、新羅が誠心誠意をもって中国に仕えて、入朝と朝貢の道を望みながらも、法興王がみずから年号を称したのは惑いだというべきである。(中略)これはたとえ、やむを得ずしたことであったとはいえ、そもそも、あやまちというべきで、よく改めたものである。」『三国史記』林英樹訳(三一書房、1974年刊)

 『三国史記』新羅本記には法興王による年号の制定(「建元」元年、536年)以来、真徳王まで改元を続けたのですが、12世紀の高麗の知識人である編者たちは朝鮮半島の国が年号を持ったことを隠さず記したものの、中国の目をはばかって、それは過ちであり、よく改めたとしています。すなわち、中国の属国としての高麗の公的立場を表面的には守りつつ、その実、新羅が年号を持ったという歴史事実だけは書き残したのです。小国の歴史官僚の意地とプライドがそうさせたのではないでしょうか。
 このように、権力者(上司)の意向に表向きは従いつつ、メディアにかかわる人間としての良心とプライドにより、ぎりぎりのところで平原王墓の考古学的出土事実と「邪馬壹国」という史料事実を番組の中に潜り込ませたのではないか、そのようにウラ読みしたのですが、はたして当たっているでしょうか。


第720話 2014/06/05

NHK「歴史秘話ヒストリア」の放送倫理

 昨晩は出張先の福井市のホテルでNHKの「歴史秘話ヒストリア」を見ました。テーマが「邪馬台国」や「卑弥呼はどこから来たか」というものでしたので、どうせまた一元史観「邪馬台国」畿内説の非学問的・非論理的な内容だろうとは予想していましたが、まさにその通りでした。ただ、視聴率を上げたいためか、今回はやや手の込んだ、奇をてらった番組作りを目指したようです。その要点は、卑弥呼は糸島半島の伊都国生まれで、大和の巻向に「遷都」したというものでした。
 要約しますと、糸島半島の平原王墓(2世紀末と解説)の被葬者を卑弥呼の母親か姉妹とし、そこで生まれた卑弥呼が「遷都」して巻向遺跡(3世紀初めと解説)の大型住居に住んでいたというものです。学問的には荒唐無稽(「倭人伝」には倭国が遷都したなどという記事はなく、「そうとれるかもしれない」という記事さえもありません)と言わざるを得ないのですが、そこは「天下のNHK」です。「そういう説がある」という表現でしっかりと「逃げ」を打っていました。しかし、放送された「考古学的事実」は正直です。この番組の荒唐無稽ぶりを見事に証明していました。
 たとえば、巻向遺跡から大量に出土した「桃の種」をずらっと並べ、いかにも倭国の女王にふさわしい「ものすごい出土物」とでもいいたいような演出をしていました。他方、平原王墓や同遺跡から出土した大型で大量の内行花文鏡や大量の宝石類(めのう・翡翠・水晶等)の加工品や原石が紹介されていました(番組ではなぜか紹介されませんでしたが、同遺跡からは鉄製品も出土しています)。まともな理性を持つ人であれば、どちらが倭国の中心地にふさわしい出土物かは一目瞭然でしょう。それとも、糸島で生まれた卑弥呼はお母さんから銅鏡の一枚も持たされずに、巻向に「遷都」し、鏡や宝石の代わりにせっせと「桃の種」を集めたとでもいうのでしょうか。噴飯ものです。この番組を制作放送したNHKの担当者に聞いてみたいものです。
 ちなみに、NHKもさすがにこれではまずいと考えたようで、大和の黒塚古墳(3世紀後半から4世紀前半と編年されています)を紹介し、出土した三角縁神獣鏡などが映った画像をしらーっと放送していました。ようするに、彼らは「(邪馬台国畿内説は学問的に無理と)知っていて、(巻向が邪馬台国だと)嘘をつく」というかなり不誠実な番組作りを行っているとしか考えられないのです。また、「倭人伝に記されているヤマタイ国」という主旨の虚偽のナレーションも流していました(「倭人伝」には邪馬壹国〔やまいちこく〕と記されています)。NHKの放送倫理はどうなっているのでしょうか。
 そういえば福島原発爆発事故のときも、NHKは御用学者を次々と登場させ、「原発は安全に停止した」「メルトダウンはありえない」「ただちに健康に影響はない」との報道を続け、福島第一原発を撮影する定点カメラだけを残し、自社の社員は早々と避難させたと聞いています。そのNHKの報道を信じて逃げなかった多くの福島県の人々が被爆し、子供たちの甲状腺ガンが今も増え続けていることを考えると、NHKに放送倫理を期待するほうが無理なのかもしれません。多くの高校生を残し、沈没船から早々と逃げた船長や、「その場から動くな(逃げるな)」と船内放送した船員を非難する資格は、日本にはないのかもしれ ません。NHKがこの様ですので。
 しかし、それでもわたしはNHKに良心的な社員がいることを、真実を放送・報道することを願っています。その「社名」に愛する祖国「日本」を冠しているのですから。


第719話 2014/06/02

因幡国宇倍神社と「常色の宗教改革」

 「洛中洛外日記」614話『赤渕神社縁起』の「常色の宗教改革」に おいて、正木裕さんの「常色の宗教改革」(『古田史学会報』85号 2008年4月)という仮説を紹介しました。九州年号の常色元年(647)に九州王朝 により全国的な神社の「修理」や役職任命、制度変更が開始されたとする説です。そして、その史料根拠となる天長五年(828)成立の『赤渕神社縁起』の次の記事の存在も紹介しました。

 「常色三年六月十五日在還宮為修理祭礼」

 常色三年(649)に表米宿禰が宮に還り、「修理祭礼」を為したとあり、正木さんが指摘された通り、天武十年正月条の「宮を修理(おさめつく)らしむ。」という詔に対応した記事です。
 その後、正木さんとこのテーマについて意見交換したとき、7世紀中頃の常色年間(647~651)や白雉年間(652~660)での創建伝承を持つ神社が多いことから、この現象は九州王朝による「常色の宗教改革」の反映であり、各地の寺社縁起の調査分析が必要との結論にいたりました。特に『日本書紀』の影響を受けて、九州年号「常色」を『日本書紀』の「大化(645~649)」に年号が書き換えられているケースが想定されるので、その「大化」年号により記された寺社縁起の史料批判が必要と思われました。
 そんなこともあって、高円宮家典子さんとご婚約された出雲大社神職千家国麿さんの御先祖や系図などを調査していたとき、因幡国一宮の宇倍神社の創建が 「大化四年(648)」とされていることを知りました。この年は九州年号の「常色二年」に相当し、「常色の宗教改革」のまっただ中の時代です。現地調査や史料調査の機会を得たいと思います。
 出雲の千家家と因幡の宇倍神社の関係ですが、千家家の御先祖は天孫降臨した側の「天穂日命」とのことですが、天孫降臨された側(国を取られた側)の神様を祖先とする系図に、著名な『伊福部氏系図』があります。「大己貴命」を始祖とした系図ですが、その御子孫は今もご健在とうかがっています。その御子孫の伊福部家が長く宇倍神社の神職をされていたようです。こうした調査をしていたときに、宇倍神社の創建が「大化四年(648)」とされていることを知ったのです。
 全国的に分布している「常色年間」創建伝承を持つ寺社の調査を行いたいと考えていますが、わたし一人では全国の神社を調べたり、訪問することは困難です。皆さんのご協力をよろしくお願いします。


第718話 2014/05/31

「告期の儀」と九州年号「告貴」

 テレビで高円宮家典子さんと出雲大社宮司千家国麿さんのご婚約のニュースを拝見していますと、皇室の婚姻行事の「告期の儀」について説明がなされていました。お婿さんの家から女性の家へ婚姻の日程を告げる儀式のことだそうです。古代にまで遡る両旧家のご婚儀に古代史研究者として感慨深いものがあります。

 その「告期」という言葉から、わたしは九州年号の「告貴」(594~600)を連想してしまいました。婚姻の期日を告げるのが「告期」であれば、九州年号の「告貴」は「貴を告げる」という字義ですから、九州王朝の天子・多利思北孤の時代(594年)に告げられた「貴」とは何のことだったのだろうかと考え込んでしまいました。改元して「告貴」と年号にまでしたのですから、よほど貴い事件だったに違いありません。

 この年に何か慶事があったのだろうかと『日本書紀』(推古2年)を見ても、それらしい記事は見えません。その前年には四天王寺造営記事がありますが、そのことと「告貴」とが関係するようにも思えません。

 漢和辞典で「貴」の字義や用語を調べてみますと、「貴主:天子の娘」というのがあり、多利思北孤の娘か息子(利歌彌多弗利)の誕生を記念しての改元ではないかと考えました。もちろん確かな根拠があるわけではありませんが、作業仮説(思いつき)として提案したいと思います。なお、利歌彌多弗利の生年を 577年とする説を「『君が代』の『君』は誰か — 倭国王子『利歌彌多弗利』考」(『古田史学会報』34号、1999年10月)等で発表したことがありますので、こちらもご参照ください。

 もう一つ注目すべき記録があることに気づきました。九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)の告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」の「国分寺(国府寺)建立」記事です。

 「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)

 もし、この『聖徳太子伝記』の記事が九州王朝系史料に基づいたもので、歴史事実だとしたら、「告貴」とは各国毎に国府寺(国分寺)建立せよという 「貴い」詔勅を九州王朝の天子、多利思北孤が「告げた」ことによる改元の可能性があります。そう考えると、『日本書紀』の同年に当たる推古2年条の次の記事の意味がよくわかります。

 「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」

 『日本書紀』推古2年条はこの短い記事だけしかないのですが、この佛舎建立の詔こそ、実は九州王朝による「国府寺」建立詔の反映ではないでしょうか。

 「告期の儀」の連想から、「九州王朝による国分寺建立」という思いもかけぬところまで展開してしまいました。これ以上の連想は学問的に「危険」ですので、今回はここで立ち止まって、もっとよく考えてみることにします。若いお二人のご多幸をお祈りいたします。


第711話 2014/05/17

九州王朝の葬礼

 本日の関西例会で、正木さんから衝撃的な研究が発表されました。九州王朝の葬礼「貴人の殯(かりもがり)」と近畿天皇家の葬礼との比較研究です。
 『隋書』によれば九州王朝(倭国)の葬礼について次のように記しています。

「貴人は三年外で殯(かりもがり)し、庶人は日を卜(うらな)って葬る。」『隋書』イ妥国伝

 倭国では貴人(王族か)の葬礼においては直ちに埋葬せずに、外で三年(足かけなら2年)殯するとあります。ところが正木さんの調査によれば、『日本書紀』に記された7世紀(隋以降の時代)の天皇の殯の期間は短く、『隋書』の貴人への葬礼とされた3年間(足かけなら2年)行われた天皇は、なんと天武だけなのです(2年と61日。天智は葬儀記事が無く不明)。推古は195日、孝徳に至ってはわずかに58日間です。すなわち、天武以外の近畿天皇家の天皇は「貴人」ではなかったとされたのです。
 これまで古田学派では、少なくとも7世紀の近畿天皇家は九州王朝下の最有力豪族であり、九州王朝の天子に対する、ナンバー2としての「天皇」を名乗っていたと考えられてきました。しかし、今回の正木さんの研究によれば、近畿の天皇たちは貴人ではなかった、あるいは貴人にふさわしい殯はされなかったということになるのです。
 更に『日本書紀』の大化2年(646)の薄葬令は九州王朝の天子「利歌弥多弗利」の崩御に際して出された「命長7年(646)」の薄葬令とする見解も示されました。この点については、九州年号の「大化2年(696)」に出されたものではないかとする反対意見が水野代表や西村秀己さんから出されました。さらなる論争と研究が待たれます。
 5月例会の報告は次のとおりでした。わたしからは、「洛中洛外日記」709話で紹介した「石原家文書」の「大化~安政間の年数計算」史料のコピーを紹介し、解説しました。

〔5月度関西例会の内容〕
1). 汗人と九夷と孔子(木津川市・竹村順弘)
2). 船王後墓誌の整合性(八尾市・服部静尚、代読:竹村順弘)
3). 推古の二倍年暦の百歳(八尾市・服部静尚、代読:竹村順弘)
4). 『そんなバカな』を読んで(京都市・岡下英男)
5). 「三人の継体帝」と「いくつもの伊勢大神」(大阪市・西井健一郎)
6). 『三国志』の「自○以北」の用法(姫路市・野田利郎)
7). 『隋書』の「貴人の葬礼」記事と薄葬令の正体(川西市・正木裕)
8). 熊本県和水町「石原家文書」(大化~安政間の年数計算史料)の紹介(京都市・古賀達也)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(体調良好とのこと。ヨーロッパ古典の読み直しをされています。プラトン『国家論』、デカルト『方法序説』、他。10/04 松本深志高校で講演予定。)・会務報告・『伊豫史談』373号の合田洋一氏稿・帝塚山大学考古研市民大学講座視聴・黒田智著『藤原鎌足時空をかける・変身 と再生の日本史』・大和郡山市の大職冠鎌足神社訪問・放送大学TV「渡り鳥の旅を追う」・その他


第708話 2014/05/11

隋使の来た道

 和水町の講演で、『隋書』によれば倭国に来た隋使は阿蘇山の噴火を見ており、そのためには江田船山古墳に見られるような有力者がいた和水町まで来た可能性があると述べました。そして、隋使が来たのは7世紀初頭の九州年号の時代であることから、当地域に残された九州年号による記録や伝承を調査していただきたいと締めくくりました。
 そうしたら、質疑応答のさいに会場から「自宅の近くにある阿蘇神社の記録に『告貴』という年号が記されているが、それが九州年号であったことがよくわかりました。」という発言がありました。「告貴」は6世紀末(594~600年)の九州年号であり、『隋書』に記された九州王朝の天子、多利思北孤の時代の年号です。
 多利思北孤の事績は、後代において『日本書紀』の影響を受けて、近畿天皇家の「聖徳太子」に置き換えられて伝承されている例が多く(法隆寺の釈迦三尊像 など)、熊本県(下益城郡、『肥後国誌』)の九州年号に「聖徳太子」伝承に伴ったものがあることや、熊本県に「天子宮」という名称の神社が濃密に分布していることも(古川さんの調査による)、九州王朝の多利思北孤との関係をうかがわせるものです。
 このように考えてみると、6世紀末から7世紀初頭にかけて、九州王朝は肥後に一拠点をおいたのではないかと、わたしは考えています。例えば菊池城なども そうした背景と影響下に造営されたように思われるのです。また、九州王朝の宮廷雅楽である筑紫舞の「翁」も、「肥後の翁」が中心になって構成されていると聞いていますので、このことも九州王朝と肥後との関係の強さがうかがえるものでしょう。
 九州王朝研究において、筑前・筑後・肥前に比べて、肥後の研究はまだまだ不十分です。和水町での講演や、「納音」付き九州年号史料の発見を良い機会として、当地の皆さんによる調査研究を心から願っています。わたしもまた当地を再訪問したいと思ってします。


第707話 2014/05/10

続・「九州年号」の王朝

 「九州年号」が九州の権力者により制定された年号であることを示す史料として、古写本「九州年号」という出典史料名や『二中歴』の「九州年号」記事細注の他に、隣国史書の『旧唐書』(945年成立)があります。
 「洛中洛外日記」第590~594話で連載した「『旧唐書』の倭国と日本国」でも詳述しましたが、『旧唐書』には「倭国伝」と「日本国伝」が別国として記録されています。その地勢表記から、倭国は九州島を中心とする国であり、日本国は本州島にあった国であることがわかります。そして、唐と倭国との交流記事の最後は倭国伝では貞観22年(648)、唐と日本国との最初の国交記事は日本国伝には長安3年(703)とあり、両者の日本列島代表王朝の地位の交代は648~703年の間にあると考えられます。そして、『二中歴』記載の九州年号の最後「大化6年(700)」と近畿天皇家の最初の年号(建元)である大宝元年(701)が、その期間に入っていることからも、「九州年号」の王朝が『旧唐書』に記録された倭国であることは明白です。
 このように「九州年号」と近畿天皇家の年号(大宝~平成)の関係と、『旧唐書』の「倭国伝」と「日本国伝」の関係が見事に対応しているのです。すなわち隣国史書『旧唐書』の記事が示していることも、「九州年号」は九州王朝(倭国)の年号であるということなのです。(つづく)


第706話 2014/05/09

「九州年号」の王朝

 「洛中洛外日記」第705話『「改元」と「建元」の論理性』で記しましたように、和水町での講演会で近畿天皇家以前に「九州年号」を公布した王朝があったとする論理性(理由)を説明しました。次いで、その王朝がどこにあったのかについて次のように説明しました。
 『二中歴』などに記された古代年号が「九州年号」と呼ばれてきた事実こそが、それらの年号が九州の権力者によって公布されたことを意味します。たとえば、江戸時代の学者、鶴峯戊申が書いた『襲国偽僭考』に九州年号が紹介され、古写本「九州年号」によったと出典を記しています。
 また、『二中歴』の九州年号部分の「細注」の考察からも、この九州年号記事部分が北部九州で成立したことがうかがわれます。それは「倭京二年(619)」に「難波天王寺を聖徳が造る」という天王寺(大阪市の四天王寺)建立記事と、「白鳳」年間に「観世音寺を東院が造る」という太宰府観世音寺建立記事の比較分析です。観世音寺には地名がなく、天王寺には難波という地名が付記されていることから、こられの記事は、太宰府の観世音寺のことを「観世音寺」だけでそれと理解できる地域で成立したことがわかります。すなわち、北部九州で成立した記事であり、読者も同じく北部九州の人々を想定しているわけで す。
 他方、天王寺のほうは「難波」と地名を付記しなければ、遠く離れた大阪の天王寺であることが、北部九州の読者には特定できないから、地名を付記した表記になったわけです。このように、九州年号記事の細注の分析からも、これら「九州年号」記事が北部九州で成立したことが推定できます。このことも、『二中歴』に記された「九州年号」が、九州で成立したことを指示しているのです。(つづく)