九州王朝(倭国)一覧

第665話 2014/02/21

九州王朝の「遷都」論

 わたしは前期難波宮九州王朝副都説に至るよりも以前に、九州王朝の遷都について研究を続けていました。というのも、古田先生の『失われた九州王朝』に九州王朝の遷都を示唆する記述があり(第5章にある「遷都論」)、その研究が九州王朝史研究にとって重要テーマの一つであると考えていたからです。
 その後も、古田先生は九州王朝の「遷都」についての検討を続けておられ、「天武紀」に見える「信濃遷都計画」についても言及されていました。たとえば、 『古田史学会報』(1999年6月3日No.32)掲載の「古田武彦氏講演会(四月十七日)」の次の記事です(全文は本ホームページに掲載されていますので、ご覧ください)。

 二つの確証について
  −−九州王朝の貨幣と正倉院文書−−
(前略)この銭(冨本銭のこと:古賀)が天武紀十二年に現われる銅錢にあたるという。そうすると厭勝銭とは思えない。まじない銭に詔勅を出すだろうか?。 このときの詔勅では「今後、銅銭を使え、銀銭は使うな」とある。銀銭には反感を持っていて、使用禁止。『日本書紀』は信用できないか?。いや、この点は信用できる。「法隆寺再建論争」で喜田貞吉は『書紀』の記述のみを根拠に再建説をとり、結局正しかった。「焼けもせぬものを焼けたと書くか?」という論理し か根拠はなかった。『書紀』が信用できない点は、年代や人物のあてはめなどイデオロギーに関するものであって、事物や事件は基本的に「あった」のだ。(中 略)
天武紀十三年に「三野王らを信濃に遣わす」の記事あり、このとき携行したのかとの説がある。都を移す候補地を探したというが、近畿天皇家の天武がなぜ長野に都を移そうとするのか?ウソっぽい。白村江戦後、唐の占領軍は九州へ来た。なぜ近畿へ来なかったのか?納得できる説明はない。九州王朝が都を移そうと し、『書紀』はこれを二十四年移して盗用したのではないか?。
 朝鮮半島の情勢に恐怖を感じて遷都を考えたことはありうる。なぜ長野か?。海岸から遠いから。太平洋戦争のとき松代に大本営を移すことを考えたのに似ている。(後略)

 以上のように講演で指摘されているのですが、「『書紀』はこれを二十四年移して盗用した」という部分は、正木裕さんの 「34年遡り説」と同様の視点で、興味深く思います。このような古田先生による先駆的な研究に刺激を受けて、わたしの前期難波宮九州王朝副都説への発想が生まれたのかもしれません。
 なお、古田先生の「信濃遷都計画」論の出典をわたしは失念していたのですが、この古田先生の講演録であることを正木さんから教えていただきました。持つべきものは優れた学友です。正木さん、ありがとうございます。


第660話 2014/02/11

納音(なっちん)と九州年号

「洛中洛外日記」658話で紹介しました、熊本県玉名郡和水(なごみ)町の旧家で発見された九州年号史料のコピーが、前垣芳郎さん(菊水史談会)から送られてきました。それは今まで見たこともないような不思議な九州年号史料でした。
前垣さんによると、当地の庄屋だった旧家からミカン箱二つに約200点の古文書が入っていることが発見され、そのうちの一点が今回送られてきた九州年号史料とのこと。その史料はA2サイズほどの1枚もので、縦横に升目が引かれ、最上段には「納音」(なっちん)と呼ばれる占いに使われる用語が30個並び、 2段目には五行説の「木・火・土・金・水」が繰り返して並んでいます。その下に、九州年号「善記」から始まる年号と年を示す数字が右から左へ、そして下段へと、江戸時代の年号「寶暦二年」(1752)まで同筆で書かれ、その後は別筆で「天明元年」(1781)まで記されています。左側には「寶暦四甲戌盃春 上浣」と成立年(1754)が記されています。
納音(なっちん)というものをわたしはこの史料で初めて知ったのですが、たとえば「山頭・火」という納音は、有名な種田山頭火の俳号の出典とのことです。生年の納音を根拠に占いに使用するらしいのですが、そのためにこの史料が作られたのであれば、寶暦四年よりも約1200年も昔の九州年号から始める必要はないように思います。大昔に亡くなった人を占う必要が理解できません。
しかも、五行説に基づいて年代を列記するのであれば、最初は「木」から始まってほしいところですが、九州年号の善記元年(522)は「金」です。干支に基づくのであれば「甲子」からですが、善記元年の干支は「壬寅」であり、これも違います。このように何とも史料性格(使用目的など)がわからない不思議な九州年号史料なのです。ただ、九州年号の「善記元年」からスタートしていることから、年号を強烈に意識して書かれたことは確かでしょう。
届いたばかりですので、これからしっかりと時間をかけて研究しようと思います。今回、この九州年号史料のコピーをご送付いただいた前垣さんに、発見された史料を見せていただけないかとお願いしたところ、ご承諾いただけました。5月の連休にでも当地を訪問したいと考えています。
納音についてインターネット上に次の解説がありましたので、転載します。ご参考まで。

※納音とは・・・六十干支を陰陽五行説や中国古代の音韻理論を応用して、木・火・土・金・水に分類し、さらに形容詞を付けて30に分類したもの。生まれ年の納音によってその人の運命を判断する。
井泉水=明治17年生まれ。
甲申(きのえさる)で、納音は井泉水(せいせんのみず)である。
山頭火=明治15年生まれ。
壬午(みずのえうま)で、納音は楊柳木(ようりゅうのき)である。

納音(なっちん)付き九州年号

納音(なっちん)付き九州年号

「九州年号」を記す一覧表を発見 — 和水町前原の石原家文書 熊本県玉名市和水町 前垣芳郎
(古田史学会報 122号)


第655話 2014/02/02

『二中歴』の「都督」

 「洛中洛外日記」641話・ 642話で江戸時代や戦国時代の「都督」史料を紹介しましたが、わたしが「都督」史料として最も注目してきたのが『二中歴』に収録されている「都督歴」でした。鎌倉時代初期に成立した『二中歴』ですが、その中の「都督歴」には、藤原国風を筆頭に平安時代の「都督」64人の名前が列挙されています。
 「都督歴」冒頭には「今案ずるに、孝徳天皇大化五年三月、帥蘇我臣日向、筑紫本宮に任じ、これより以降大弐国風に至る。藤原元名以前は総じて百四人なり。具(つぶさ)には之を記さず。(以下略)」(古賀訳)
 この冒頭の文によれば、「都督歴」に列挙されている64人よりも前に、蘇我臣日向を最初に藤原元名まで104人の「都督」が歴任していたことになります (藤原元名の次の「都督」が藤原国風のようです)。もちろんそれらのうち、701年以降は近畿天皇家により任命された「都督」と考えられますが、『養老律令』には「都督」という官職名は見えませんので、なぜ「都督歴」として編集されたのか不思議です。
 しかし、大宰帥である蘇我臣日向を「都督」の最初としていることと、それ以降の「都督」の「名簿」104人分が「都督歴」編纂時には存在し、知られてい たことは重要です。すなわち、「孝徳天皇大化五年(649年、九州王朝の時代)」に九州王朝で「都督」の任命が開始されたことと、それ以後の九州王朝「都督」たちの名前もわかっていたことになります。しかし「都督歴」には、なぜか「具(つぶさ)には之を記さず」とされており、蘇我臣日向以外の九州王朝「都 督」の人物名が伏せられています。
 こうした九州王朝「都督」の人物名が記された史料ですから、それは九州王朝系史料ということになります。その九州王朝系史料に7世紀中頃の蘇我臣日向を「都督」の最初として記していたわけですから、「評制」の施行時期の7世紀中頃と一致していることは注目されます。すなわち、九州王朝の「評制」の官職である「評督」の任命と平行して、「評督」の上位職掌としての「都督」が任命されたと考えられます。この「都督」は中国の天子から任命された「倭の五王」時代の「都督」とは異なり、九州王朝の天子のもとで任命された「都督」です。
 また、「都督歴」に見える「筑紫本宮」という名称も気になりますが、まだよくわかりません。引き続き、検討します。


第656話 2014/02/02

学問に対する恐怖

 最近、中部大学教授の武田邦彦さんがご自身のブログで「学問に対する恐怖」という表現を使用して、地球温暖化説が観測事実に基づいていない、あるいは故意に温暖化説に都合の悪いデータ(この15年間、地球の平均気温は上昇していない、等)を無視しているとして、不勉強な気象予報士や御用学者の「解説」を批判されていました。
 良心的な科学者であれば、地球温暖化説に不利な観測データを無視できないはず。温暖化説など怖くて発表できないはずと述べられているのですが、武田さんはこのことを「学問に対する恐怖」という表現で表しておられました。これは「真実に対する恐怖」と言い換えてもよいかもしれません。
 この「学問に対する恐怖」という表現は、わたしにもよく理解できます。新しい発見に基づいて新説を発表するとき、本当に正しい結論だろうか、論証に欠陥や勘違いはないだろうか、史料調査は十分だろうか、既に同様の先行説があるのではないか、などと不安にかられながら発表した経験が何度もあったからです。 中でも前期難波宮九州王朝副都説の研究の時は、かなり悩みました。『日本書紀』孝徳紀に記されたとおりの宮殿が出土したのですから、その前期難波宮を遠く 離れた九州王朝の副都とする新説を発表することが、いかに「学問的恐怖」であったかはご理解いただけるのではないでしょうか。
 当初、怖くてたまらなかった前期難波宮九州王朝副都説でしたが、その後の論証や史料根拠の増加により、今では確信を持つに至っています。何よりも、未だに「なるほど」と思えるような有効な反論が提示されていないことからも、今では有力な仮説と自信を深めています。
 前期難波宮九州王朝副都説への批判や反論は歓迎しますが、その場合は次の2点について明確な回答を求めたいと思います。

 1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
 2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。

 この二つの質問に答えていただきたいと思います。近畿天皇家一元史観の論者であれば、答えは簡単です。すなわち、孝徳天皇が評制により全国支配した宮殿である、と答えられるのです。しかし、九州王朝説論者はどのように答えられるのでしょうか。わたしの知るところでは、上記二つの質問に明確に答えら れた九州王朝説論者を知りません。
 7世紀中頃としては最大規模の宮殿である前期難波宮は、後の藤原宮や平城宮の規模と遜色ありません。藤原宮や平城宮が「全国」支配のための規模と様式を持った近畿天皇家の宮殿であるなら、それとほぼ同規模で同じ朝堂院様式の前期難波宮も、同様に「全国」支配のための宮殿と考えるべきというのが、避けられない考古学的事実なのです。
 この考古学的事実に九州王朝説の立場から答えられる仮説が、わたしの前期難波宮九州王朝副都説なのです。自説に不利な考古学的事実から逃げることなく、 学問への恐怖に打ち震えながらも、学問的良心に従って、反論していただければ幸いです。真摯な論争は学問を発展させますから。


第647話 2014/01/22

「よみがえった筑紫舞30年記念イベント」

 来る3月2日(日)福岡市で開催される古田先生の講演会の案内が下記の通り届きましたのでお知らせします。「古田史学の会・四国」では参加者を募って団体旅行(担当:合田洋一さん・「古田史学の会」全国世話人)として参加されます。「古田史学の会・関西」でも竹村順弘さん(「古田史学の会」全国世話人)らが連れだって参加されます。
 入場無料です。多くの皆さんのご参加をお願いいたします。なお聞くところによれば、当日の福岡市中心部のホテルは予約で満杯とのこと。少し離れた場所のホテルの方が予約がとりやすいかと思われます。

「よみがえった筑紫舞 30年記念イベント」報告
   -宮地嶽黄金伝説-

日時 2014年3月2日(日)
会場 アクロス福岡 イベントホール
  (福岡県福岡市中央区天神1-1-1 ℡092-725-9111)
 地図

第一部 講演(3:00‐4:30pm)
 「よみがえった宮地嶽古墳黄金の太刀」
  九州国立博物館 赤司善彦
第二部 九州王朝と筑紫神舞(4:45-6:45pm)
 [1](4:45-5:45pm)
 記念講演 「筑紫舞と九州王朝」
  講師 古田武彦
 [2](6:00-6:45pm)
 筑紫神舞奉納
  演舞者:宮地嶽神社神職

(入場料は無料です)


第642話 2014/01/05

戦国時代の「都督」

 江戸時代の筑前黒田藩の藩主が「都督」の称号を名乗っていたことをご紹介しましたが、戦国時代においても筑前の国主が「都督」を名乗っていたとする史料があります。
 『太宰管内誌』「豊後之五(海部郡)」の「壽林寺」の項に、戦国大名の大友宗麟のことを「九州都督源義鎮(大友氏)」と記しています。この文の出典を 『豊鐘善明録・四巻』(1742年成立)と『太宰管内誌』は記していますが、源義鎮とは戦国武将の大友宗麟(大友義鎮・おおともよししげ。 1530~1587年)のことです。大友宗麟は戦国時代の一時期(1559~1580年頃)に筑前をも支配領域にしたことがあり、その時に「九州都督」の 称号を名乗ったのではないでしょうか。
 この場合、大友氏が勝手に「都督」を名乗ったのか、あるいは当時の「上位者」からの承認を得たのでしょうか。戦国時代末期の頃ですから、朝廷や室町幕府にまだそのような権威があったのか、近世史の研究者ならご存じかもしれません。
 可能性の一つとしては、当時の勘合貿易の相手国である中国の明からの「承認」という点も考慮すべきかもしれません。わたしは未確認ですが、大友宗麟の実弟の大内義長のことを「山口都督源義長」とする記述が『明世宗実録』(嘉靖36年、1557年)にあるそうです。事実であれば「山口都督」という不思議な 称号についても研究が必要です。
 いずれにしても、太宰府を管轄する筑前の国主が「都督」を名乗ることは、江戸時代や戦国時代において、それほど不自然ではなかったように思われます。(つづく)


第641話 2014/01/02

黒田官兵衛と「都督」

 今年のNHK大河ドラマは黒田官兵衛を主人公とする「軍師官兵衛」です。官兵 衛役は人気グループV6の岡田准一さん。黒田官兵衛(如水)は筑前黒田家の祖(初代藩主は息子の長政)で、ドラマの後半では九州が舞台になるとのことで、 今からとても楽しみにしています(官兵衛は晩年、太宰府天満宮に隠居したとのこと)。
 ところで筑前黒田藩と九州王朝に不思議な「縁」があることをご存じでしょうか。それは「都督」という称号です。20年以上も前のことですが、『糸島郡 誌』(大正15年の序文あり、昭和47年発行)を調べていたときのことです。雷山にある層々岐神社の項(711頁)に、「石の寶殿」と呼ばれている上宮の 祠に銘文があり、そこにこの祠を寄進した人物名を「本邦都督四位少将継高公」と記されているのです。「本邦」とは筑前国のことで、「継高公」とは、筑前黒 田藩六代目藩主の黒田継高(治世1719~1769年)のことです。すなわち、江戸時代(同銘文には「寶暦三癸酉年三月吉日」〔1753年〕とあります) においても、筑前の国主を「都督」と称しているのです。
 ご存じのように『宋書』倭国伝には、倭(九州王朝)の五王(讃・珍・済・興・武)が「都督」を自称したり、任じられた記事が見えますが、この場合の「都 督」は中国(宋)の天子の下の「都督」です。『日本書紀』天智紀にも「筑紫都督府」が記されていることから、九州王朝には「都督」がいたことがわかりま す。
 この「都督」を歴史的淵源として、筑前黒田藩の藩主も「都督」と称してきたと思われます。黒田藩主の「都督」の称号は、恐らくは京都の天皇家か徳川幕府 を「主」とする、配下としての「都督」という位置づけになるものと思われますが、「都督」問題は古田史学において重要なテーマです。その「位置づけ」も時 代によって変化しており、古田学派内でも九州王朝史研究において様々な仮説が提起されています。(つづく )


第634話 2013/12/15

九州王朝の「賀正礼」

 九州王朝・倭国の「賀正礼(元日朝賀儀)」について、それがどのようなものだったのかを考えています。中国の「賀正礼」を導入・模倣した可能性が高いように思いますが、おそらくは古くから続いてきた倭国の風習も踏襲したことも充分考えられます。そこで、わたしが注目したのが『隋書』「イ妥国伝」です(『隋書』では九州王朝・倭国を「イ妥*国」と表記)。
 『隋書』には九州王朝・倭国の儀礼や風俗について、次のように記しています。

 「その王、朝会には必ず儀仗を陳設し、その国の楽を奏す。」
 「楽に五弦の琴・笛あり。」
 「正月一日に至るごとに、必ず射戲・飲酒す。その余の節はほぼ華と同じ。」

 これらの記事から、倭国では正月一日に射戲・飲酒する風習があったことがわかります。現在でも古い神社では弓矢の神事やお酒でもてなす風習が残っ ているところがありますので、こうした風習は王朝内部でも行われていたのではないでしょうか。「朝会には必ず儀仗を陳設」とありますから、元日の朝賀でも 「儀仗を陳設」し、五弦の琴や笛で演奏が行われたと思われます。
 以上のように、『隋書』によって九州王朝の「賀正礼」の内容が少し見えてきました。おそらく、前期難波宮のような巨大な朝堂院で「賀正礼」を行われるようになってからは、本場の中国の儀礼が本格的に取り入れられるようになったのではないかと推測しています。引き続き、研究を続けます。

イ妥* (タイ) 国のイ妥*は、人編に妥。ユニコード番号4FCO


第620話 2013/11/13

橘諸兄の故地

 今日は山形に来ています。急に寒くなり、黄葉した山々はうっすらと雪化粧して、とてもきれいです。秋と冬とが一緒に来たような不思議な景色でした。明日は東京に向かいます。

 西村秀己さんの論稿「橘諸兄考 — 九州王朝臣下たちの行方」(『古代に真実を求めて』14集、2011年)によれば、九州王朝から大和朝廷への権力交代にともない、九州王朝の官僚たちの多くが大和朝廷の官僚として仕えたとされ、その一人が橘諸兄であるとする仮説を発表されました。なるほど、ありそうなことだと思いました。
 西村稿によれば、橘諸兄の祖父の栗隈王が白鳳11年(681)に筑紫率に任命されていることなどを根拠に、栗隈王を九州王朝の王族とされました。従っ て、橘諸兄も九州王朝の王族とされたのです。一応、理屈としては通っていますが、白村江戦の敗北後に台頭した近畿天皇家側の有力者としての栗隈王が筑紫率に任命されたという可能性もあり、西村さんの論証だけではその可能性を完全には排除できませんので、有力説ではあるものの、やや安定感に欠ける仮説ではないかと思っていました。
 ところが先日、たまたま読み直していた『佐賀県史蹟名勝天然紀念物調査報告 上巻』(昭和11年、佐賀県刊)の「杵島郡橘村」の項に次の記事があることに気づきました。

 「一、道祖王遺跡 附奈良麿遺跡  橘村大字大日字草場 草場共同墓地
 天平寶字年間橘奈良麿は、道祖王を奉じ禁中の奸邪を除かんとして成らず、後、奈良麿、王を奉じて海路此地に来着す、後世稱して奈良崎(現時楢崎)と云 ふ、今道祖王と稱する地に長さ六尺の石碑あり此れ道祖王の御陵なるべく、其前方に同形の竿石三本あるは橘奈良麿の墓なるべし、此附近橘氏の後裔多し、片白 の梅宮神社は奈良麿を祀り、潮見神社亦た同じ、上宮には橘諸兄を祀り、下宮には橘氏一族を祀る、村名橘の出所故あるなり」

 佐賀県杵島郡にある橘村は橘奈良麻呂が道祖王(ふなど王、天武の孫)と共に落ち延びた地で、今も奈良麻呂の末裔が多く在住しており、そのため橘村と称したというものです。有名な「奈良麻呂の変(757)」で道祖王は罪を得て亡くなり、首謀者とされた橘奈良麻呂については 『続日本紀』はその後を記していません。
 奈良麻呂は橘諸兄の子供ですが、「変」の後に佐賀県杵島まで落ち延びたという伝承があったことを私は知りませんでした。念のため、「古田史学の会」会員 で佐賀県武雄市在住の古川清久さんに電話で問い合わせたところ、古川さんはそのことを大変よくご存じて、詳しく教えていただきました。橘村は現在の武雄市橘町のことで、明治になり「橘村」と命名されたとのこと。同地には有名な「おつぼ山神籠石」もあり、歴史的にも重要な地域のようです。なお、古川さんが主催されている「久留米地名研究会」のホームページに掲載されている記事「杵島」に、橘村や橘奈良麻呂の現地伝承について紹介されていますので、ご覧ください。
 橘奈良麻呂が大和での権力闘争に敗れて、逃げた先が九州王朝の故地、佐賀県杵島郡であったとすれぱ、橘氏と九州王朝との関係をうかがわせる伝承ではないでしょうか。こうした現地伝承の存在は、西村説の傍証になりそうです。機会があればわたしも現地調査してみたいものです。佐賀県には万葉歌人「柿本人麿」 のご子孫もおられ、本当に不思議な伝承や地名も数多く残っており、多元史観・九州王朝説での解明が待たれます。


第619話 2013/11/09

「宇佐八幡文書」の九州年号

 正木裕さんが『日本書紀』史料批判の新手法「34年遡上説」を駆使して、九州王朝史の解明に果敢に取り組んでおられることは、何度も紹介してきたところですが、わたしも20年以上前から九州王朝系史料の探索と分析により、九州王朝史復元に取り組んできました。中でも、「宇佐八幡文書」中に多くの九州王朝系伝承が含まれていることに気づき、一部は研究論文として発表してきましたが、大部分は史料批判や分析が困難で、未発表のままとなっています。そこで、その未発表史料について紹介し、古田学派研究者による解明や作業仮説の提起を促したいと思います。
 「宇佐八幡文書」や京都の「石清水八幡文書」に共通して見える不思議な伝承記事があります。それは、九州年号の「善記元年(522)」に八幡大菩薩が唐(当時は南朝の梁か北朝の魏)から日本に帰ってきて、その後生まれた四人の子供たちとともに日本を統治した、という伝承です。たとえば次の通りです。

 「香椎宮縁起云、善記元年壬寅、従大唐八幡大菩薩日本還給」
 「又善記元年記云、大帯姫従大唐渡日本」
 (『八幡宇佐宮御託宣集』第一巻)

 「善記元年壬寅、従大唐八幡大菩薩(私云、香椎御事也、)渡日本」
 (『八幡宇佐宮御託宣集』第十五巻)

「以善記元年壬丑(寅の誤写か:古賀)、従大唐八幡大菩薩日本渡給」
 (『石清水八幡宮史料叢書』2、高橋啓三編)

 わたしの知るところでは、以上の「八幡宮史料」にこの伝承記事が見えるのですが、その内容から北部九州(香椎宮)が舞台であり、「八幡大菩薩」と称される人物が「唐」より帰国して、日本の統治者になったというものです。おそらくは弥生時代の人物「大帯姫」の伝承と混同されて伝わった史料もありますが、九州年号「善記元年(522)」の事件として記録されていますから、「八幡大菩薩」が九州王朝の王であれば、当時の倭王「筑紫君磐井」その人の伝承と考えるべきかもしれません。
 史料的限界があり、決定的な論証は今のところ困難ですが、もし筑紫君磐井の伝承であれば、磐井は「唐(梁か北魏)」から帰国し、倭王に即位して、九州年号を「継体」から「善記」に改元したことになります。引き続き史料探索を進め、仮説を構築する必要があります。それにしても、不思議な伝承記事です。


第618話 2013/11/04

『赤渕神社縁起』の九州年号

 『赤渕神社縁起』に九州年号の「常色元年」「常色三年」「朱雀元年」が記されていることは既に紹介してきたところですが、実はこの史料事実が持つ重要な論理性を見落とすところでした。わたしにとって、九州年号の実在性は、あまりにも当然でわかりきったことでしたので、 うっかり大切なことに気づかずにいました。このことについて説明します。
 現存の『赤渕神社縁起』は書写が繰り返された写本ですが、その成立は「天長五年丙申三月十五日」と記されていますから、828年のことです(天長五年の干支は戊申。丙申とあるのは誤写誤伝か)。従って、『日本書紀』成立(720)以後に記された縁起です。もちろん、九州年号を含む記事の原史料の成立はおそらく7世紀にまで遡ることでしょう。そのため、『赤渕神社縁起』には『日本書紀』の影響下で編纂された痕跡が当然のこととして見られます。たとえば7世紀の出来事であっても、行政単位は「評」ではなく、「郡」で表記されています。「丹後国与佐郡」「丹波天田郡」「養父郡」「朝来郡」などです。天皇の名前も「神武天皇」「孝徳天皇」「皇極天皇」「斉明天皇」といったように、『日本書紀』成立以後につけられた漢風諡号が用いられています。
 こうしたことは、天長五年成立の文書であれば、当然ともいえる現象なのですが、それなら何故九州年号の「常色」が記されたのでしょうか。『日本書紀』にはこの常色元年(647)に当たる年は「大化三年」とされていますし、常色三年(649)は「大化五年」であり、わざわざ九州年号の常色を使用しなくても、『日本書紀』にある「大化」を使用すればよかったはずです。しかし、『赤渕神社縁起』には、年号については九州年号の常色が使用されているのです。
 この史料事実は、『赤渕神社縁起』編纂に当たり引用した元史料には九州年号の常色が既に書かれていたことを意味します。もし、元史料が干支のみの年代表記であれば、そのとおりの干支を用いるか、『日本書紀』にある「大化」を使用したはずで、わざわざ九州年号などで記す必要性はありません。ということは、 天長五年時点に九州年号「常色」による元史料があったことを意味するのです。近畿天皇家一元史観の通説では、九州年号は鎌倉・室町時代以降に僧侶により偽作されたものとしているのですが、828年に成立した『赤渕神社縁起』に記された九州年号「常色」の存在は、この通説を否定する論理性を有しているのです。この論理性を、わたしは見過ごすところでした。
 もともと、九州年号偽作説には学問的根拠がなく、論証の末に成立した仮説ではありません。いうならば、近畿天皇家一元史観というイデオロギー(戦後型皇国史観)により、論証抜きで「論断」された非学問的な「仮説(憶測)」に過ぎなかったのです。したがって、わたしが提起した「元壬子年」木簡(九州年号の白雉元年壬子、652年。芦屋市三条九ノ坪遺跡出土)についても全く反論できず、無視を続けています。こうした、九州年号偽作説(鎌倉・室町時代に僧侶が偽作したとする)を否定する論理性を『赤渕神社縁起』の九州年号「常色」は有していたのです。
 また、九州年号には「僧聴」「和僧」「金光」「仁王」「僧要」などのように仏教色が強い漢字が用いられていることから、僧侶による偽作と見なされてきたのですが、実際の史料状況は『赤渕神社縁起』のように、寺院よりも神社関連文書に多く九州年号が見られます。こうした点からも、九州年号偽作説がいかに史料事実に基づかない非学問的な「仮説」であるかは明白なのです。


第616話 2013/10/27

文字史料による「評」論(7)

 文字史料による「評」論と題して、史料事実や史料根拠を明示しながら、九州王朝の「評制」についての考察を続けてきました。その最後として、『日本書紀』の中に見える「評」について触れたいと思います。
 『日本書紀』は「評」を「郡」に書き換えた「郡制」史料ですが、例外のような「評」の記事があります。継体二四年(530)条の次の記事です。

 「毛野臣、百済の兵の来るを聞き、背の評に迎へ討つ。背の評は地名。亦、能備己富利と名づく。」『日本書紀』継体紀二四年条

 この記事について、古田先生は『古代は輝いていた3』(朝日新聞社刊、336頁)において、次のように説明されています。

 「右は『任那の久斯牟羅』における事件だ。すなわち、倭の五王の後継者、磐井が支配していた任那には、『評』という行政単位が存在し、地名化していたのである。」

 さらに、「評」の縁源について次のように指摘されています。

 「『宋書』百官志によると、秦以来、『廷尉』に『正・監・評』の官があり、軍事と刑獄を兼ねた。魏・晋以来は、『廷尉 評』ではなく、ストレートに『評』といったという。すなわち、楽浪郡や帯方郡には、この『評』があって、中国の朝鮮半島支配の原点となっていたようであ る。」

 この解説から、「評制」は中国の軍事と刑獄を兼ねた行政制度に縁源があったことがわかります。このことを九州王朝(倭 国)は当然知っていたはずですから、7世紀中頃に自らの支配領域に「評制」を施行したとき、その主たる目的は中国に倣って「軍事と刑獄を兼ねた行政制度」 確立であったと考えても大過ないのではないでしょうか。すなわち、7世紀中頃の朝鮮半島での、唐・新羅対倭国・百済の軍事的緊張関係の高まりから、「評 制」を全国に施行(天下立評)したものと思われます。さらに主戦場となる朝鮮半島や朝鮮海峡から離れた摂津難波に副都(前期難波宮)を造営したのです。まさに「難波朝廷天下立評」(『皇太神宮儀式帳』)です。
 このように、「軍事行政」としての「評」設立とその「評制」の施行拠点であり主戦場から遠く離れた摂津難波への副都(難波朝廷)造営は密接な政治的意図で繋がっていたのです。