九州王朝(倭国)一覧

第752話 2014/07/26

森郁夫著 『一瓦一説』を読む(2)

 太宰府の観世音寺創建年について、『二中歴』「年代歴」記載の九州年号「白鳳」の細注(観世音寺東院造)や、『勝山記』(鎮西観音寺造)『日本帝皇年代記』(鎮西建立観音寺)に白鳳十年(六七〇)の創建とする記事が発見され、観世音寺創建が白鳳十年(六七〇)であることが史料的に明らかになってい ました。
 森郁夫著『一瓦一説』では、観世音寺創建瓦の同笵品瓦の発見により、観世音寺の創建が川原寺や崇福寺と同時期(7世紀後半頃)と見なしうることが示唆されています(瓦当文様の比較から、大和の本薬師寺創建と同時期とされています。この点、別に論じます)。したがって文献と考古学の一致(シュリーマンの法則)からしても、ほぼ確実に観世音寺創建年を白鳳10年(670)と見なして良いと思います。
 ところが、この観世音寺創建年を認めてしまうと、近畿天皇家一元史観にとって耐え難い大問題が発生します。それは太宰府の地元の考古学者、井上信正さんの調査研究により、観世音寺よりも太宰府条坊都市の成立の方が早いことが明らかとなっていることから、日本初の条坊都市とされている藤原京(694年遷都)よりも太宰府の条坊成立の方が先となってしまうからなのです。このことは九州王朝説の立場からは当然ですが、「九州王朝や古田説はなかった」とする一 元史観論者や学界にとっては大問題なのです。すなわち、大和朝廷の都(藤原京)よりも、「地方都市」太宰府の方が先に条坊が造営されたこととなり、我が国 初の条坊都市が太宰府になってしまうからです。
 このことを「洛中洛外日記」などで何度もわたしは指摘してきましたが、一元史観論者や学界は無視を決め込んでいます。この「洛中洛外日記」を見ておられる一元史観論者の皆さんに敢えて申し上げます。どの一元史観論者よりも早く、最初に「古田説・九州王朝は正しい」と言った学者は研究史や後世に名を残せますよ。よくよくお考えください。(つづく)


第751話 2014/07/24

森郁夫著

『一瓦一説』を読む

 今朝の京都は祇園祭の山鉾巡行(後祭)のため、観光客が見物席の場所取りであふれていました。今年は山鉾巡行が二回になりましたので、観光収入は増えると思いますが、混雑でバスが遅れたりしますので、住んでいる者にはちょっと大変です。
 今日は愛知県一宮市に仕事で来ていますが、ちょうど「一宮七夕祭り」の日で、駅前はイベントで賑やかです。女子高生によるキーボード演奏などもあり、わ たしも若い頃にバンド活動をやっていましたので、生演奏には今でも興味をひかれます。わたしはリードギターを担当していましたが、主にスクウェアやカシオ ペアの曲を好んで演奏していました。30年ほど昔の話しです。

 さて、今回は森郁夫著の新刊『一瓦一説 瓦からみる日本古代史』(淡交社)をご紹介します。あとがきによると、森郁夫さんは昨年五月に亡くなられ たとのことで、同書は最後の著書のようです。古代の瓦についての解説がなされた本で、近畿天皇家一元史観にたったものですが、考古学的遺物という「モノ (瓦)」がテーマですので、考古学的史料事実と一元史観というイデオロギーとの齟齬が見られ、興味深い一冊です。
 なかでもわたしが注目したのが、飛鳥の川原寺の瓦と太宰府観世音寺の創建瓦についての関連を示した次の解説です。

 「川原寺の創建年代は、天智朝に入ってからということになる。建立の事情に関する直接の史料はないが、斉明天皇追善の意味があったものであろう。 そして、天皇の六年(667)三月に近江大津に都を遷しているので、それまでの数年間ということになる。このように、瓦の年代を決めるのには手間がかかる のである。
 この軒丸瓦の同笵品が筑紫観世音寺(福岡県太宰府市観世音寺)と近江崇福寺(滋賀県大津市滋賀里町)から出土している。観世音寺は斉明天皇追善のために 天智天皇によって発願されたものであり、造営工事のために朝廷から工人集団が派遣されたのであろう。」(93ページ)

 観世音寺の創建瓦(老司式)と川原寺や崇福寺の瓦に同笵品があるという指摘には驚きました。九州王朝の都の中心的寺院である観世音寺と近畿天皇家 の中枢の飛鳥にある川原寺、そしてわたしが九州王朝が遷都したと考えている近江京の中心的寺院の崇福寺、それぞれの瓦に同笵品があるという指摘が正しけれ ば、この考古学的出土事実を九州王朝説の立場から、どのように説明できるでしょうか。
 しかもそれら寺院の建立年代は、川原寺(662~667)、崇福寺(661~667頃)、観世音寺(670、白鳳10年)と推定されていますから、観世 音寺のほうがやや遅れるのです。この創建瓦同笵品問題は、7世紀後半における九州王朝と近畿天皇家の関係を考える上で重要な問題を含んでいるようです。(つづく)


第748話 2014/07/21

唐と百済の「倭国進駐」

 先日の関西例会で安随俊昌さん(古田史学の会・会員、芦屋市)から“「唐軍進駐」への素朴な疑問”という興味深い研究発表がありました。安随さんは関西例会常連のお一人ですが、研究発表されるのは珍しく、もしかすると初めてではないかと思います。
 今回、満を持して発表された仮説は、『日本書紀』天智10年条(671)に見える唐軍2000人による倭国進駐記事についてで、従来、この2000人の 唐軍が倭国に上陸し、倭国陵墓などを破壊したのではないかと、古田先生から指摘されていました。ところが安随さんによれば、この2000人のうち1400 人は倭国と同盟関係にあった百済人であり、600人の唐使「本体」を倭国に送るための「送使」だったとされたのです。
 その史料根拠は『日本書紀』で、その当該記事には、「唐国使人郭務ソウ等六百人」と「送使沙宅孫登等千四百人」と明確にかき分けられており、1400人は「送使沙宅孫登」指揮下の「送使団」とあることです。そして、送使トップの沙宅孫登の「沙宅」とは百済の職位(沙宅=法官大補=文官)であることから、 孫登は百済人であり、百済人がトップであれば、その部下の「送使団」1400人も百済人と理解するべきというものです。ですから、百済人1400人の送使 団は戦闘部隊(倭国破壊部隊)ではないとされました。
 さらに、送使団は「本体」を送る役目を果たしたら、先に帰るのが原則とされたのです(『日本書紀』の他の「送使」記事が根拠)。従って、百済人1400人が長期にわたり倭国に残って、倭国陵墓などを破壊するというのは考えにくいとされました。安随さんは他にも傍証や史料根拠をあげて、倭国に進駐した「唐軍」による倭国陵墓や施設の破壊はなかったのではないかとされました。
 この安随説の当否は今後の研究や論議を待ちたいと思いますが、意表を突いた興味深い仮説と思いました。『古田史学会報』への投稿が待たれます。この他にも、今回の関西例会では興味深い仮説やアイデアが報告されました。


第745話 2014/07/13

復刻『古代は輝いていた III』

 ミネルヴァ書房より古田先生の『古代は輝いていた III 』が復刻されました。これで同シリーズ全三巻の復刻が完結しました。同書は九州王朝の輝ける時代と滅亡の時代、6~7世紀が対象です。わたしの研究テーマ の一つである「九州年号」の時代ですので、今回読み直してみて、古田先生の研究の深さと広さを再認識でき、とても触発されました。
 7世紀末には大和朝廷との王朝交代の時期を迎えますので、九州王朝研究にとってもスリリングなテーマが続出します。また、第三部にある「出現した出雲の金石文」で取り上げられた岡田山1号墳出土の鉄刀銘文「各田卩臣」(額田部臣)の「臣」に注目された論稿は、列島内に実在した多元的王朝(九州王朝、出雲王朝、関東王朝、近畿天皇家)や「臣」の痕跡を改めて明確にされたものです。
 九州王朝の輝ける天子、多利思北孤の活躍など同書は九州王朝史研究にとって最も重要な一冊です。皆さんに強くお勧めします。


第744話 2014/07/13

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(7)

 この「邪馬台国」畿内説は学説に非ずシリーズも一応今回で最後になりますが、『三国志』倭人伝に記された女王国(邪馬壹国)の所在地を考える上で、倭国の「文字文化」という視点を紹介したいと思います。
 倭人伝には次のような記事が見え、この時代既に倭国は文字による外交や政治を行っていたことがうかがえます。

 「文書・賜遣の物を伝送して女王に詣らしめ」
 「詔書して倭の女王に報じていわく、親魏倭王卑弥呼に制詔す。」
 「今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し」
 「銀印青綬を仮し」
 「詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔をもたらし」
 「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す。」
 「因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りてこれを告喩す。」
 「檄を以て壹与を告喩す。」

 以上のように倭人伝には繰り返し中国から「詔・詔書」が出され、「印綬」が下賜されたことが記され、それに対して倭国か らは「上表」文が出されていることがわかります。従って、弥生時代の倭国は詔書や印に記された文字を理解し、上表文を書くこともできたのです。おそらく日本列島内で最も早く文字(漢字)を受容し、外交・政治に利用していたことを疑えません。従って、日本列島内で弥生時代の遺跡や遺物から最も「文字」の痕跡 が出現する地域が女王国(邪馬壹国)の最有力候補と考えるのが、理性的・学問的態度であり、学問的仮説「学説」に値します。そうした地域はどこでしょう か。やはり、北部九州・糸島博多湾岸(筑前中域)なのです。
 筑前中域には次のような「文字」受容の痕跡である遺物が出土しています。

 志賀島の金印「漢委奴国王」(57年)
 室見川の銘版「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五」(125年)
 井原・平原出土の銘文を持つ漢式鏡多数

 これらに代表されるように、日本列島内の弥生遺跡中、最も濃厚な「文字」の痕跡を有すのは糸島博多湾岸(筑前中域)なのです。この地域を邪馬壹国に比定せずに、他のどこに文字による外交・政治を行った中心王国があったというのでしょうか。
 最後に、「邪馬台国」畿内説論者をはじめとする筑前中域説以外の考古学者へ発せられた古田先生の次の一文を紹介して、本シリーズを締めくくります。

 あの筑前中域の出土物、その質量ともの豊富さ、多様さは、日本列島の全弥生遺跡中、空前絶後だ。そして倭人伝に記述された「もの」と驚くほどピッタリ一致して齟齬をもたなかったのである。
  (中略)
 そうすればわたしは、その“信念の人”の前に、静かに次の言葉を呈しよう。“あなたのは、考古学という科学ではない。考古学という「神学」にすぎぬ”と。
 (古田武彦『ここに古代王朝ありき』朝日新聞社、86頁)


第742話 2014/07/10

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(5)

 今朝は長岡から金沢・小松・福井へと向かっていますが、雨の影響で列車が遅れており、お客様との約束の時間に間に合うだろうかとひやひやしています。

 『三国志』倭人伝には行程記事・総里程記事以外にも女王国の所在地を推定できる記事があります。この記事も畿内説論者は知ってか知らずか、古田先生からの指摘があるにもかかわらず無視しています。こうした無視も学問的態度とは言い難いものです。
 倭人伝冒頭には畿内説を否定する記事がいきなり記されています。次の記事です。

 「倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。」

 倭人の国、倭国は帯方(ソウル付近とされる)の東南の大海の中にある島国であると記されています。中国人は倭国を島国と認識していたのですが、九州島は文字通り「山島」でぴったりですが、本州島はこの時代には島なのか半島なのかを認識されていた痕跡はありません。本州島を島と認識するためには津軽海峡の存在を知っていることが不可欠ですが、『三国志』の時代に中国人が津軽海峡を認識していた痕跡はないのです。
 従って、倭人伝冒頭のこの記事を素直に理解すれば、倭国の中心国である女王国(邪馬壹国)が九州島内にあったとされていることは明白です。ですから、倭人伝は冒頭から畿内説が成立しないことを示しているのです。畿内説論者は自説の成立を否定するこの記事の存在を、古田先生が指摘してきたにもかかわらず、 無視してきました。こうした態度も学問的とは言えません。ですから、「邪馬台国」畿内説が学説(学問的仮説・学問的態度)ではないことを、倭人伝冒頭の記事も指し示しているのです。(つづく)


第741話 2014/07/09

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(4)

 今日の新潟地方は大雨・雷・土砂崩れと難儀な出張になりました。各地で被害が出ているようで心配です。

 「邪馬台国」畿内説論者による、『三国志』倭人伝の行程記事の改竄(研究不正)について説明を続けてきましたが、彼らの 研究不正は他にもあります。それは自説にとって決定的に不利な記事(基礎データ)を無視(拒絶)するという研究不正です。この方法が許されると、たとえば 裁判などでは冤罪が続出することでしょう。学問としては絶対にとってはならない手法です。理系論文で自説を否定する実験データを故意に無視したり、隠したりしたら、これも即アウト、レッドカード(退場)ですが、日本古代史学界では集団で研究不正を黙認していますから、「古代史村」から追放される心配はなさそうです。
 倭人伝には行程記事以外にも女王国の所在地を示す総里程記事(距離情報)が明確に記されています。次の通りです。

 「郡より女王国に至る万二千余里」

 「郡」とは帯方郡(ソウル付近と考えられています)のこと、女王国は邪馬壹国のことですが、その距離が12000里余りとありますから、1里が何メートルかわかれば、単純計算で女王国の位置の検討がつきます。少なくとも、北部九州か奈良県のどちらであるかはわかります。 「古代中国の里」の研究によれば、倭人伝の「里」は漢代の約435mとする「長里」説と、周代の約77mとする「短里」説の二説があり、それ以外の有力説はありません。それでは倭人伝の記事(基礎データ)に基づいて単純計算してみましょう。

短里 77m×12000里=924000m=924km
長里 435m×12000里=5220000m=5220km

 短里の場合は北部九州(博多湾岸付近)となりますが、長里の場合は博多湾岸はおろか奈良県(畿内)もはるかに通り越し、 太平洋の彼方に女王国はあることになってしまいます。従いまして、倭人伝の総里程記事(基礎データ)に基づくのであれば、倭人伝は短里を採用しており、女王国の位置は北部九州(博多湾岸付近)と見なさざるを得ません。短里であろうと長里であろうと、間違っても奈良県(畿内)ではありません。
 この基礎データに基づく小学生でもできるかけ算が、少なくとも義務教育を終えたはずの畿内説論者にできないはずはありませんから、彼らは自説を否定する 基礎データ(12000余里)を無視・拒絶するという、非学問的な態度をとっていることは明白です。これは研究不正であり、「邪馬台国」畿内説が学説(学問的仮説・学問的態度)ではない証拠の一つなのです。(つづく)


第740話 2014/07/08

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(3)

 今朝は新幹線で東京に向かっています。午後、さいたま市で仕事をした後、夜は新潟県長岡市に入ります。週末まで出張が続きますので、帰りに大型の台風8号と遭遇しそうです。
 先日の四国講演では、能島(のしま)上陸・クルージングを楽しんだり、阿部誠一さん(古田史学の会・四国の新会長、今治市)の彫刻アトリエを見せていただいたりと貴重な体験をさせていただきました。瀬戸内海の海流の速さや、小島・岩礁の多さも瀬戸内海の特徴ですが、自分の目で見ることにより瀬戸内海航行が難しいことを実感しました。
 阿部さんのアトリエには多数のブロンズ像や塑像が所狭しと並べられており、芸術家の情熱とその作品の迫力に圧倒されました。少女像や裸婦像を得意とされておられ、高松市の公園にも阿部さんの作品が立てられているほどの著名な彫刻家です。今まで造った作品は500点以上とのことで、近年は古田史学の勉強や活動に時間がとられ、作品製作のペースが落ちたそうです。古田先生の銅像も造りたいので、先生の写真をたくさん撮っておいてほしいと頼まれました。

 「邪馬台国」畿内説論者が『三国志』倭人伝の原文(基礎データ)の文字を「南」から「東」に改竄(研究不正)していることを指摘しましたが、彼らはもう一つの改竄(研究不正)にも手を染めています。それはより悪質で本質的な改竄で、こともあろうに倭国の中心 である女王国の名称を原文の邪馬壹国から邪馬台国(邪馬臺国)にするというもので、理系の人間には信じられないような大胆な改竄(研究不正)です。今回は この研究不正の動機について解説します。
 既に述べましたように、邪馬壹国の位置を博多湾岸の東方向とするために、「南」を「東」に改竄しただけでは畿内説「成立」には不十分なので、畿内説論者は女王国の国名をヤマトにしたかったのです。実は改竄(研究不正)はこの国名改竄の方が先になされました。畿内説論者の研究不正の順序はおおよそ次のよう なものでした。

(1)倭国の中心国は古代より天皇家がいたヤマトでなければならない。(皇国史観という「信仰」による)
(2)ところが倭人伝には邪馬壹国とあり、ヤマトとは読めない。(「信仰」と史料事実が異なる)
(3)「壹」とあるのは誤りであり、「壹」の字に似た「臺(台)」が正しく、中国人が間違ったことにする。(証拠もなく古代中国人に責任転嫁する。「歴史冤罪」発生)
(4)「邪馬臺国」を正しいと、皆で決める。(集団による改竄容認・研究不正容認)
(5)しかしそれでも「邪馬臺国」ではヤマトとは読めない。(改竄・研究不正してもまだ畿内説は成立しない)
(6)「臺」は「タイ」と発音するが、同じタ行の「ト」と発音してもよいと、論証抜きで決める。
(7)「臺」を「ト」と読むことにするが、同じタ行の「タ」「チ」「ツ」「テ」とは、この場合読まないことにする。(これも論証抜きの断定)
(8)こうしてようやく「邪馬臺国」を「ヤマト国」と読むことに「成功」する。
(9)この「ヤマト国」は奈良県のヤマトのことと、論証抜きで決める。(自らの「信仰」に合うように断定する)

 これだけの非学問的な改竄や論証抜きの断定を繰り返した結果、「邪馬台国」畿内説という研究不正が「完成」したのです。ですから、畿内説は学説ではありません。学問的手続きを経たものではなく、研究不正の所産なのです。
 ここまでやったら、「毒を食らわば皿まで」で、先の「南」を「東」に改竄することぐらい平気です。しかも集団(古代史学界)でやっていますから、恐いものなしでした。ところが、「信仰」よりも歴史の真実を大切にする古田武彦という歴史学者の登場により、彼らの研究不正が白日の下にさらされたのです。(つづく)


第739話 2014/07/06

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(2)

 一昨日は愛知県一宮市で開催された繊維機械学会記念講演会で「機能性色素」を テーマに講演し、昨日は「古田史学の会・四国」主催の講演を行いました。テーマは「九州年号史料の出現と展望」で、その後の懇親会も含めて活発な質疑応答がなされました。「古田史学の会・四国」での講演はこれまで何回もさせていただきましたが、質問内容などが年毎に深く鋭いものになっており、「古田史学の 会・四国」が発展している様子を感じとれました。
 今日は合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、四国の会・事務局長)のご案内で能島(のしま)上陸・潮流クルージングに参加します。能島は村上水軍の拠点で、「海城」として唯一国の史跡に指定されています。今回、特別に能島上陸・潮流クルージングが企画されたとのことで、合田さんのおすすめもあり参加することにしました。

 さて、「邪馬台国」畿内説が「研究不正」の上で成り立っていることを「洛中洛外日記」738話で指摘しましたが、畿内説 論者が何故『三国志』倭人伝の「南、至る邪馬壹国。女王の都する所」という記事の「南」を「東」に、「壹」を「台(臺)」に改竄(研究不正)したのか、そ の「動機」について解説したいと思います。
 倭人伝には邪馬壹国の位置情報としていくつかの記述がありますが、行程記事の概要は朝鮮半島から対馬・壱岐・松浦半島・糸島平野・博多湾岸と進み、その南、邪馬壹国に至るとあります。したがって、どのように考えても邪馬壹国(女王国)は博多湾岸の南方向にあることは明確ですから、「南」を「東」に改竄しなければ、方角的に奈良県に邪馬壹国を比定することは不可能です。そこで、「南」を「東」とする改竄(研究不正)に走ったのです。
 しかし、それだけでは畿内説にとっては不十分です。というのも、改竄(研究不正)により、邪馬壹国を博多湾岸よりも「東」方向にできても、それだけでは 四国や本州島全域が対象地域となってしまい、「畿内」(奈良県)に限定することはできないからです。そこで、畿内説論者はもう一つの改竄(研究不正)を強 行しました。(つづく)


第738話 2014/07/05

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(1)

 今日は早朝の新幹線と特急を乗り継いでで松山市へ向かっています。「古田史学の会・四国」主催の講演会で講演するためです。移動時間を利用して、前々から書きたかったテーマ、「『邪馬台国』畿内説は学説に非ず」の執筆を始めたいと思います。

 世にいう「邪馬台国」論争は、古田先生の邪馬壹国博多湾岸説の登場により、学問的には決着がついているはずですが、マスコミや一元史観の学者・研究者では、あいもかわらず「邪馬台国」論争が続けられています。中でも困ったものが「邪馬台国」畿内説という非学問的な「臆説」「珍説」です。そもそも畿内説というものが学問的仮説、すなわち「学説」と言うに値するでしょうか。わたしは畿内説は学説ではないと考えていますが、なぜ学説ではないかということを「洛中洛外日記」で数回に分けて説明することにします。
 たとえば理系の新発見や研究について、新たな仮説を発表する場合、実験データや観測データ、測定データ等の提示が不可欠です。さらにそれらの再現性を担保するために、実験方法や測定・分析方法も開示します。
 企業研究の場合は、それらデータも含めて「発見・発明」そのものを隠します。そもそも企業が自らの経営資源(ヒト・モノ・カネ)を投入して得た新知見を発表(無償で教える)して公知にすることは普通しません(特許出願は例外)。
 しかし、学者や研究者は人類の幸福や社会の発展のために自らの発見や仮説・アイデアを公知(論文発表など)にします。そしてその仮説が他の研究者による追試や利用(コピペもOKです。理系論文には著作権が発生しません)されながら、広く公知となり、真理であればやがて安定した学説として認められます。
 その際、各種データの改竄や捏造は「研究不正」としてやがては明らかとなり、そのような学者・研究者は省みられなくなり学界から淘汰されます。意図的な改竄や捏造ではなく、単純ミスやデータの取り違えは、残念ながら完全には無くなりませんので、その場合は訂正するか、訂正により仮説そのものが成立しなくなった場合は仮説が撤回されます。悪意のないミスであれば、信頼感は揺らぎますが、学界はそのこと自体をそれほど神経質にとがめることはありませんでし た。それよりも、少々不完全・未熟であっても様々な仮説やアイデアを自由に発表しあえる環境のほうが科学の発展にプラスと受け止められてきたものです。で すから、学生や若い研究者の不慣れで未熟な発表でも、温かい目で許容し、ほめたり、励ましたり、助言を与えたりしたものです。こうした研究環境の中で、若 い研究者は成長し、荒削りだけども若さゆえの既成概念にとらわれない画期的な仮説が発表され、そうした青年からの刺激を受けて科学は発展してきたのです。ノーベル賞受賞研究の多くが20代30代の頃の研究成果であることも、このこと裏付けています。
 ところが、近年では学者や研究者が「お金」や自らの「出世」「地位」のために研究するという変な時代になってしまいましたので、「お金」「出世」「地位」に目がくらんで、研究不正(悪意のある意図的なデータ改竄・捏造)を行うケースが発生するようになりました。その結果、科学や研究は大きく傷つきまし た。それに追い打ちをかけたのがマスコミによる無分別なバッシング報道です。悪意のない単純ミスまでもを「研究不正」としてバッシングし始めたのです。小保方さんはその犠牲者だと、わたしは思います。先日も、ある化学系学会の集まりでご年輩の化学者(その分野では日本を代表する方。わたしは若い頃、その方が書いた本や論文で有機合成化学を学びました)が、「あんなにマスコミや理研がバッシングしたら、若い研究者が育たない。才能を潰してしまう」と嘆いておられました。わたしも同感です。
 それでは「邪馬台国」論争のような文献史学ではどうでしょうか。『三国志』倭人伝を基礎史料(データ)として仮説や論理を組み立て、その優劣を競うわけですが、その場合でも学問としては理系と同様ですから、必要にして十分な調査・証明なしでの史料(データ)の意図的な改竄・捏造は許されません。結論その ものに影響する改竄などもってのほかです。このことは容易にご理解いただけることでしょう。
 ところが、「邪馬台国」畿内説はこのデータの改竄を平然と行い、しかも結論(女王国の所在地)そのものに影響をあたえる改竄を行っています。たとえば、 倭人伝には「南、邪馬壹国に至る」とあるのを「東、邪馬台国に至る」というように、「南」を「東」に、「壹」を「台(臺)」に改竄し、「邪馬台国」なるものをでっち上げ、方向を南ではなく東として、むりやりに「邪馬台国」畿内説を提起しているのです。もし、これと同じことを理系の研究論文で行ったら、即アウト、レッドカード(退場)です。それ以前に、論文掲載を拒否されるでしょう。ところが、一元史観の日本古代史学界は「集団」でこの研究不正を行い、「集団」でこの研究不正を容認しているのです。この一点だけでも、「邪馬台国」畿内説は研究不正の所産であり、学説(学問的仮説・学問的態度)に値しないことは明白です。マスコミがなぜこの研究不正をバッシングしないのか「不思議」ですね。(つづく)


第735話 2014/06/27

「広開土王碑」改竄論争の終焉

 ときおり、汲古書院から古典研究会編『汲古』が送られてくるのですが、先日いただいた第65号に掲載されていた武田幸男氏「広開土王碑『多胡碑記念館本』の調査報告」を拝読しました。
 同論稿は広開土王碑(高句麗の好太王碑)の各種拓本間の差異から、石灰塗布により拓本の字形がどのように変遷や誤りが発生したのかについて論究されたもので、同碑の実体を知る上でも大変興味深いものでした。しかし、わたしが感慨深く思ったのは、石灰塗布を紹介されながら、それを根拠とした同碑「改竄説」 について全く触れられていないことでした。
 同碑拓本に記された「倭」の字を日本陸軍の酒勾大尉による改竄とする李進煕氏の「改竄説」が1972年の発表以来、学界を席巻したのですが、そのことについて武田氏の論稿では全く触れられていないことに、とうとう好太王碑改竄説や改竄論争は終焉したのだなと、改めて思いました。詳しくは古田先生の『失わ れた九州王朝』を読んでいただきたいのですが、李さんの改竄説に真っ向から反対したのが古田先生だったのです。今ではとても考えられないのですが、古田先 生は東京大学の史学会の要請により、改竄説が学問的に成立しないことを講演されのです。この古田先生の研究により、改竄論争は終止符を打たれ、「改竄」は なかったとする古田説は一元史観の学界においても高く評価されているのです。
 たとえば、昭和薬科大学諏訪校舎で開催された「邪馬台国」徹底論争のシンポジウムにおいて、田中卓さんから次のような発言がありましたのでご紹介します。

 「それからこの機会に、私の感心したことをご披露しておきます。それはもうだいぶ前の東大の史学会で古田さんが発表された時のことです。内容は高句麗好太王の碑についてでした。
 その当時、朝鮮の学者が、あれは偽物だ、日本側の塗布作戦で文字を塗り変えてしまったんだということを盛んに宣伝していたんです。その当時、私はまだその実物も見てないし、それに反論するだけの力がなかったんでだまっていましたが、その頃の学会においては、朝鮮の学者の気色ばんだと言いますか、反対でもしたらいっぺんに噛みつかれるような、そういう空気だったんです。そこでみんな、朝鮮の学者が変なことを言うなと思ってもだまってた、それが一般の空気だった。その時に古田さんが、東大の史学会の席上で、あれが偽物だというのはまちがっていると言って、それこそ大音声で批判され、それは非常な迫力でし た。それがあってから後、朝鮮の学者もあんまり悪口を言わなくなった。これは、私は古田さんの功績として高く評価しております。そのことをご紹介して終わ ります。」

 この田中卓氏の発言は『「邪馬台国」徹底論争』第2巻(東方史学会/古田武彦編。新泉社、1992年)241頁「好太王碑論争と古田氏」に収録されています。
 やがては邪馬壹国説や九州王朝説も同様に高く評価される日が来ることをわたしは疑うことができません。その日が一日でも早く来るよう、わたしたち「古田史学の会」の使命は重要です。


第734話 2014/06/22

邪馬壹国の「やま」

 これは古田学派内でも意外と思い違いされていることですが、『三国志』倭人伝の女王国の名称は邪馬壹国と記されていますが、これは大領域国名の「壹」と小領域国名の「邪馬」の合成国名です。大領域国名の「壹」(it)は倭国の「倭」(wi)の別字表記で、「二心」がないという忠義を表す「壹」の 字を選んだものと古田先生は分析されています。したがって、女王卑弥呼が住んでいる「国」は「壹(倭)」国の中の「邪馬」国なのです。
 このような視点から邪馬壹国の所在地である博多湾岸や福岡県の地名を見たとき、筑後の山門は「邪馬」国の南からの入り口「戸」がついた「邪馬・戸」の可能性があります。北側の入り口「戸」の候補地名としては下大和(福岡市西区)があります。そう考えますと、北の下大和と南の山門の間に、女王国の「邪馬」国の中枢領域があるはずです。古田先生はその有力候補地として、春日市須玖岡本の小字地名「山」を指摘されています。近くには有名な弥生時代の須玖岡本遺跡があります。今後の調査が期待されます。
 同様に、奈良県の大和も「やま」国の入り口「戸」という意味と思うのですが、その「やま」はどこでしょうか。この問題をかなり以前から考えてきたのです が、京都府の旧国名は山城ですから、これは「やま」の「うしろ」の国と考えられますから、山城が「やま」国の一部ではないでしょうか。
 この「山」の「後ろ」と対応するように、淀川の西側に大山崎などの地名があり、これは「やま」の「前(さき)」と考えられます。たとえば筑前と筑後は古 くは「筑紫の前(さき)の国」と「筑紫の後(しり)の国」とされていましたから、近畿の「やま」も「やまの前(さき)の国」と「やまの後(うしろ)の国」 からなっていたのではないかと考えられます。その痕跡が現存地名の山城と大山崎です。
 次にこの近畿の「やま」国の中心はどこでしょうか。上記の理解からすると、山城と大山崎の間にあるはずですから、その候補地として石清水八幡宮が鎮座する「男山」を指摘したいと思います。京都における有名で歴史的にも古いこの神社の地こそ、近畿の「やま」国の中心にふさわしいと思いますし、九州王朝と関係が深い高良神社もあります。
 この近畿の「やま」国の存在を認めると、大和(やま・戸)は「やま」国を中心国として、その入り口(戸)という位置づけになり、とても古代における中心国とは言えなくなってしまうのです。もちろん、地名からの類推ですから、どの程度、歴史の真実を反映しているのかは他の視点や学問領域からの証明が必要ですが、近畿地方における古代の真実を明らかにする上で、ひとつのヒントになるように思われます。