邪馬壱(壹)国一覧

第2486話 2021/06/11

「邪馬台国」〝非〟大和説、伊都国の証言

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)の『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)を読んで、改めて気づかされた重要な論点がありました。その中でも、なるほど面白い視点と思ったのが「邪馬台国」と伊都国との位置関係についての次の指摘でした。

〝邪馬台国と伊都国
 『魏志』によれば、邪馬台国の外交は伊都国を窓口としている。ここには「一大率」が置かれ、また帯方郡使が留まり、さらに魏王朝からの重要な文書・賜物の点検が行われ、その後に邪馬台国への伝送を行うところであったという。この北部九州の伊都国から近畿大和までは、帯方郡から伊都国までの距離に及ぶほどの遠距離である。
 魏王朝との通交において直接かかわるような、きわめて重要な港津がある伊都国は、地理的に邪馬台国とは、かなり遠隔の地にあるとは考え難い。伊都国で厳重な点検を受けた魏の皇帝からの重要文書や多種多量の下賜品を、さらにまた近畿大和のような遠方にまで運ぶようなことは想定できないからである。
 これら国の外交にかかわる重要な品々の移動を考えれば、伊都国は邪馬台国と絶えず往還できるような、比較的遠くない位置にあったとみるべきであろう。〟177頁

〝仮に邪馬台国が大和であるならば、後の事例からみてその外港の位置は、おそらく河内潟や大阪湾岸地域であろうから、伊都国が外港である邪馬台国は大和ではありえない、ということにもなる。〟178頁

 倭国と魏王朝との外交の窓口(外港)とされる伊都国は、倭国の都である邪馬台国(原文は邪馬壹国)と遠くない位置になければならず、したがって、「邪馬台国」大和説は成立しないという論理は単純明快で、反論が困難です。このテーマは、『三国志』倭人伝に関する文献史学の論理的問題ですので、考古学者の関川さんからこうした指摘がなされていることに驚きました。このことが、同書を「わたしがこれまで読んだ考古学者による一般読者向けの本としては最も論理的で実証的な一冊」(注②)と評した理由の一つでした。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2480話(2021/06/06)〝邪馬台国畿内説の終焉を告げる〟


第2485話 2021/06/10

「邪馬台国」〝非〟大和説、鉄器の証言

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 古田先生は『ここに古代王朝ありき』(注①)において、考古学の視点から、邪馬壹国博多湾岸説の根拠として、漢式鏡・鉄器・絹などの出土量が大和に比べて北部九州が圧倒的に多いことを指摘されました。「邪馬台国」〝非〟大和説に立つ関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)も『考古学から見た邪馬台国大和説』(注②)で同様の見解を述べられています。

〝邪馬台国大和自生説の困難さ
 さらに、邪馬台国が大和において自生的に出現したというのであれば、すでに弥生時代の早い段階から近畿大和が北部九州より、対外交流や文化内容においても卓越性を持っていなければならないことになる。
 しかし、3世紀以前、時期を遡るほど北部九州の弥生文化は、中国王朝との交流実態を示す有力首長墓の副葬遺物を始めとして、近畿大和と比較にならないほどの内容をもっていることは明らかである。首長墓の地域比較においても、大和地域の墳墓が、北部九州に次ぐ瀬戸内・山陰・北陸地方の大型墳丘墓にも達していないという、その事実を認識する必要がある。古墳の出現年代を遡らせ、それを邪馬台国と結びつけるということは、むしろ近畿大和における邪馬台国の自生的な成立を、さらに困難にさせることになるのである。
 このことから、有力首長墓の存在が確認できず、さらに対外関係と無縁ともいえるこの時期の大和地域において、北部九州の諸国を統属し、積極的に中国王朝と外交を行った邪馬台国のような国が自生するということは、考え難いことといえよう〟147~148頁

 鉄器の出土について、次のように述べられています。

〝纒向遺跡の鉄器生産が示すもの
 先にふれたように、庄内式の終わり頃、纒向遺跡で出土した鉄器製作にかかわる鞴(ふいご)の羽口には、福岡県・博多遺跡群と同じ形のものがある。そして、ここでは半島南部の陶質土器も伴っている。これをみても、この時期の鉄器生産技術というものが、半島南部より北部九州を経て及んだものであることは疑いない。
 (中略)この博多遺跡群について重要なことは、遺跡の所在するところが、『魏志』にいう「奴国」の領域にあたることである。(中略)博多遺跡群における鉄器生産の規模は、この時期では列島内最大級という圧倒的なものである。北部九州から発する鉄器生産技術の広がりは、纒向遺跡のみならず、関東地方の遺跡まで及ぶという、はるかに広域な地域にわたっている。〟148~149頁)

 そして次のように結論されています。

〝纒向遺跡の鉄器生産が、箸墓古墳の造営が始まるような時期に、ようやく北部九州からの技術導入で始まっているという事実は、やはり鉄の問題においても、邪馬台国大和説とは相いれるものではないことを示しているといえよう。〟150頁

 長く大和の遺跡を調査されてきた著者の発言だけに、誰も無視することはできないでしょう。北部九州における鉄器生産規模が圧倒的であることは、考古学者であれば誰もが知っている事実です。以前、大阪の考古学者と意見交換したときも、その方は「邪馬台国」畿内説を支持されていましたが、鉄器に関しては北部九州説が有利であることを正直に認めておられました。(つづく)

(注)
①古田武彦『ここに古代王朝ありき』朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。
②関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。


第2484話 2021/06/10

「邪馬台国」〝非〟九州説の論理

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 「邪馬台国」〝非〟大和説に立つ関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)の『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)には、「邪馬台国」研究史における「邪馬台国」〝非〟九州説の発生根拠や論理ついても紹介されています。学問研究においては、自説と異なる意見やその背景となる根拠と論理構造を理解することは大切ですので(注②)、関川さんの著書はとても役立ちます。読者の皆さんにも一読をお奨めします。
 古田先生の『「邪馬台国」はなかった』(注③)によれば、江戸時代の松下見林以降の「邪馬台国」畿内説の背景として、〝古代より日本の代表権力者は近畿天皇家だけ〟とする皇国史観にあったことは明らかですが、さすがに現代では、そこまで露骨な理由は通用しませんので、どのような根拠に基づくのかを知りたいと思っていました。関川さんの著書には次のように説明されています。

〝邪馬台国「七万余戸」と弥生遺跡
 邪馬台国の所在地を北部九州の域内とすると、九州説の難点とされる主な理由に、『魏志』に伝える邪馬台国の戸数、「七万余戸」の記述がある。邪馬台国九州説においては、遺跡に対する異論が多い。その大きな理由は、邪馬台国時代の北部九州においては、戸数「二万余戸」の奴国、あるいは伊都国をはるかに越える遺跡は認め難い、ということである。
 それは大正期以来、北部九州の遺跡踏査を重ねた中山平次郎(1871~1956)が、九州説の有力候補地である筑後山門には際だった遺跡がみられないとし、邪馬台国九州説を否定した大きな理由である。
 当時、九州考古学の現状に最も通じた中山が、この踏査の結果を以て邪馬台国山門説を支持するのであれば、考古学上から中山の見解を否定することは、かなり困難な状況であったであろう。
 小林行雄も、「三世紀のことはわからないが、一、二世紀でも、また四、五世紀でも、九州地方に奴国より戸数の多い国がありえたとすることは、考古学的には不可能である。これは邪馬台国九州説にとって、致命的ともいえる難点となろう。」と述べている(小林行雄『女王国の出現』)。(中略)
 邪馬台国の戸数、「七万余戸」の文言は、文献上のことである。奴国をはるかに越えるという大遺跡は、弥生時代の北部九州・近畿大和、いずれの地域においても認め難いといえそうである。〟179~181頁

 この説明を読んで、わたしは「なるほど」と思いました。博多湾岸の遺跡を奴国とする以上、それ以上の規模の弥生時代の遺跡などおそらく日本列島にはないと思われます。すなわち、文献史学において、博多湾岸を奴国と比定したことが根本的な誤りであり、その結果、その文献史学の誤った通説に基づいて、考古学者が出土事実を解釈したことが、「邪馬台国」〝非〟九州説の成立根拠と経緯だったわけです。
 古田先生が『「邪馬台国」はなかった』で述べられたように、『三国志』の時代に「奴」の字が「な」と発音されていた形跡はありません。倭人伝では、「な」の音に「難」「那」の字が当てられており、奴の字音は「ぬ」「の」「ど」が妥当とされました。したがって、後世に博多湾が「那(な)の津」と呼ばれていたことと結びつけて、博多湾岸を奴国に比定したことは、学問的な論証を経ていません。これは明らかに文献史学側の誤りでした。その結果、弥生時代最大規模の博多湾岸遺跡群を「二万余戸」の奴国としてしまい、「七万余戸」の邪馬壹国に比定できる規模の遺跡が〝所在不明〟になってしまったのでした。
 また考古学側も、国内最大規模の博多湾岸遺跡群を倭人伝中の国に比定するのであれば、最大戸数(七万余戸)の邪馬壹国がもっともふさわしいとする、考古学的出土事実に基づいた判断ができなかったことにも問題があります。
 なぜ、考古学側がこのような判断を現在でも採用しているのかについて、6月19日(土)に奈良新聞本社ビルで開催される関川さんの講演会(注④)の時にお聞きしてみようと思います。(つづく)

(注)
①関川尚功
②〝学問は批判を歓迎し、相手をリスペクトした真摯な論争は研究を深化させる〟とわたしは考えています。これは恩師、古田先生から学んだ学問の精神です。
③古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。
④「古田史学の会」他、関西の古代史研究団体の共催による古代史講演会。6月19日(土)13:30~16:30。奈良新聞本社ビル。
 講師 関川尚功さん(元橿原考古学研究所)
 演題 考古学から見た邪馬台国大和説 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―
 講師 古賀達也(古田史学の会・代表)
 演題 日本に仏教を伝えた僧 仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人


第2483話 2021/06/09

箸墓古墳年代引き上げの是非

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)が『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)で指摘されているように、弥生時代の大和からは倭国女王にふさわしい大型墳丘墓(首長墓)の出土がありません。そこで、「邪馬台国」畿内説論者が〝苦肉の策〟として採用したのが、従来は4世紀と編年されてきた箸墓古墳の年代を遡らせて、〝弥生時代(3世紀)の古墳〟とする強引な仮説です。もちろん、「学問の自由」ですから、どのような仮説の提起も許されますが、このことについても関川さんは次のように鋭く問題点を指摘されています。

〝逆行する近年の古墳出現年代
 古墳が出現する時期は、弥生時代以降のことであり、中国でいえば漢代より後のことである。考古学の対象としても、それほど古い時代ではない。このため、古墳時代に限れば、「箸墓古墳=卑弥呼の墓」に対する、かつての考古学界の反応でも分かるように、過去に否定されている年代観なのである。(中略)
 古墳の年代は、古墳研究の根幹となるものであるが、それはこれまでの長い研究史の上に成り立っているものである。もし、それを変更するとなれば、確たる考古学的な年代根拠が必要となるはずであるが、それが未だに明らかにされないままに、年代のみが繰り上がっているところがやはり問題であろう。〟133~134頁

〝古墳の年代というものは、古墳から出土する多種にわたる遺物の総合的な年代観に基づいているのである。(中略)
 さらに、副葬品の中には、数の多い石製品・銅鏃、そして鉄製の刀剣・槍の武器類があり、鉄製甲冑もみられるのである。これら『魏志』にも現れないような遺物までも、3世紀―邪馬台国の時代に存在する、ということになる。このようなことは、これまでの古墳考古学の「常識」からみれば、それは簡単には容認できないはずであろう。〟134~135頁

 このように、関川さんは古墳考古学がこれまで積み上げてきた総合的な年代観とは異なる、箸墓古墳の年代を3世紀まで引き上げる近年の傾向に疑義を呈され、次のように結論付けられています。

〝箸墓古墳と纒向遺跡の発展は4世紀
 このようにみると、箸墓古墳の造営が始まり、纒向遺跡が最も拡大化する庄内式末期から布留式の初めにかけての時期というものは、やはり4世紀に入ってからのことであろう。近畿大和に邪馬台国の痕跡というものが確認できない以上、ここに邪馬台国の同時代の箸墓古墳や纒向遺跡が存在するなどということは、ありえることではないからである。〟158頁

更に、〝我が意を得たり〟と思った、次の解説がありました。「邪馬台国」畿内説論者が、箸墓古墳を3世紀に編年する際に根拠(注②)とした、炭素14年代測定に関する次の記述です。

〝炭素14年代決定法の問題
 古墳3世紀遡上説の大きな根拠の一つに、特に土器付着物の炭素14年代法による結果がある。さほど古くはない古墳の年代を扱うのに、このような理化学的年代決定方法に、大きく依存するということ自体が、やはり問題であろう。これでは、考古学と理化学の双方による古墳の推定年代の結果について、相互比較することができないからである。
 さらに、年代測定にあたる理化学研究者により、測定資料としては保存の良い単年性陸産植物が最適であり、何を炊き出しているのか不明な土器付着物は、年代がかなり違ってくる可能性があることが指摘されている。
 事実、単年性の植物にあたる箸墓古墳周濠の桃枝や、ホケノ山古墳石槨内の小枝の分析報告では、新しい年代の数値を示しているのに対し、同じ箸墓古墳周濠出土土器の付着物や、ホケノ山古墳の木棺材では、それより古い年代の数値が出ていることは、これまでに知られているとおりである。
 年代値の使用にあたっては、どんな測定試料か、またそれが信頼できるのか冷静な判断が必要であると、年代測定者より助言されているのが、現在の状況である。〟136~137頁

 わたしも、水城や大宰府政庁の造営年代の根拠として、出土した「炭」などの測定値を採用する際には、サンプリング条件や試料性格を慎重に調査したうえで、その測定値が何を表すのかを判断する必要があると繰り返し注意を促してきましたので(注③)、関川さんの指摘はよく理解できます。理化学的年代測定で出された数値が何を意味するのかは、サンプルの性格やサンプリング条件の影響を受けますから、測定値が自説に有利か不利かというバイアスを除外して、慎重な判断が必要です。(つづく)

(注)
①関川尚功
②ウィキペディアによれば、「陵墓指定範囲外の周辺部である箸中大池西側の堤改修工事に先立って、奈良県立橿原考古学研究所が行った事前調査で周濠の底から布留0式土器が多量に出土した。これの実年代について、奈良県立橿原考古学研究所は炭素14年代測定法により280~300年(±10~20年)と推定している。しかし土器は古墳自体から発見されたものではなく、陵墓指定範囲外の周濠の底から発見された土器に付着していた炭化物が3世紀後半のものだとしても、この古墳が発掘された纒向遺跡には縄文時代から古墳時代までの遺跡が存在しているのでそれが箸墓古墳の築造年を代表しているとは言えないし、仮に3世紀後半であったとしても卑弥呼の没年より新しいことになる。」と解説されている。
③古賀達也「太宰府条坊と水城の造営時期」『多元』139号、2017年5月。
 古賀達也「理化学的年代測定の可能性と限界 ―水城築造年代を考察する―」『九州倭国通信』186号、2017年5月。
 古賀達也「前畑土塁と水城の編年研究概況」『古田史学会報』140号、2017年8月。
 古賀達也「洛中洛外日」2451、2452話(2021/05/07-08)〝水城の科学的年代測定(14C)情報(1)~(2)〟
 古賀達也「洛中洛外日記」2471~2475、2477話(2021/05/26-06/01)〝「倭の五王」王都、大宰府政庁説の淵源(1)~(6)〟


第2482話 2021/06/08

「邪馬台国」〝非〟大和説の論理

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)の著書『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)を手にしてから、わたしは1時間ほどで読みました。考古学の本をこれほど速く読み終えたのは初めてのことでした。関川さんの平易で論点を絞り込んだ文体のおかげもありましたが、何よりもその根拠(事実)と解釈(意見)を結びつける論理性(論証)、すなわち学問の方法や学問的思考の波長がピタリとあったことが大きいように思います。いわば、古田先生の著作を読んだときのあの〝感触〟に近いのです。そこで、「同書は、わたしがこれまで読んだ考古学者による一般読者向けの本としては最も論理的で実証的な一冊」(注②)と述べました。今回は少し詳しく同書の持つ論理性について紹介します。
 関川さんの「邪馬台国」〝非〟大和説の論理構造は、「邪馬台国」(原文は邪馬壹国:やまゐ国)のことを詳述する唯一の同時代史料『三国志』倭人伝の記事と大和の考古学的出土事実との整合性を検証し、両者が対応していないことを自説の根拠にするという方法です。これは考古学における「邪馬台国」論の王道です。同書よりその一例を挙げます。
 倭人伝には、景初二年(238)、魏に朝貢した倭国女王(卑弥呼)に対して、「汝の好物を賜う」として、次の品々を下賜したと記されています。

 「又特賜汝、紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤。皆裝封、付難升米牛利還。到錄受、悉可以示汝國中人、使知國家哀汝。故鄭重賜汝好物也。」

 こうした史料事実に対して、関川さんは大和の考古学的出土事実を次のように説明します。

 〝最も重視されるべき直接的な対外交流を示すような大陸系遺物、特に中国製青銅器製品の存在は、ほとんど確認することができない。このことは弥生時代を通じて、大和の遺跡には北部九州、さらには大陸地域との交流関係をもつという伝統自体が、存在しないことを明確に示しているといえよう。〟67頁
 〝大和の弥生時代では、今のところ首長墓が確認されていないこともあり、墳墓出土の銅鏡は皆無である。特に中国鏡自体の出土がほとんどみられないことは、もともと大和には鏡の保有という伝統がないことを示している。〟71頁

 このように、倭国女王の「好物」として中国が与えた「銅鏡百枚」の片鱗も弥生時代の遺構からは出土せず、〝大陸地域との交流関係をもつという伝統自体が、存在しない〟〝もともと大和には鏡の保有という伝統がない〟とまで指摘されています。
 土中で腐敗・分解しやすい「紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹」とは異なり、「金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠」は遺存しやすいはずですが、大和からは出土を見ないとされています。ですから、その結論として、「畿内ではありえぬ邪馬台国」(注③)とされたわけです。この解釈は単純明快、従って論理構造は頑強で、とても合理的な解釈です。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2480話(2021/06/06)〝邪馬台国畿内説の終焉を告げる〟
③関川氏の著書のサブタイトルとして、表紙に赤字で強調表記されている。


第2481話 2021/06/07

「畿内」考古学の実証的「邪馬台国」論

 関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 日本考古学界の大勢を占めるという「邪馬台国」畿内(大和)説論者という「王様」は「裸」であることが、関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)の『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)により明白となりました。関川さんの主張こそ、畿内(大和)の考古学的事実に基づく実証的「邪馬台国」論です。このことについて、同書で指摘された実例をあげて説明します。

〝はじめに
(前略)『魏志』に描かれているような、中国王朝と頻繁に通交を行い、また狗奴国との抗争もあるという外に開かれた活発な動きのある邪馬台国のような古代国家が、この奈良盆地の中に存在するという説については、どうにも実感がないものであった。特に、それが証明できるような遺物も、見当たらないからである。〟1~2頁

〝大型墳丘墓がみられない大和地域
 弥生時代後期には瀬戸内海・山陰・北陸など、その中でも特に西日本地域では、丘陵上に築かれる各種大型の墳丘墓が発達することはよく知られている。しかし、大和地域ではこのような、大型墳丘墓については未だに確認されないばかりか、墳丘墓自体がほとんどみられず、むしろ、その空白地帯といえるのである。
 (中略)奈良盆地内においては、特に首長墓とみられる大型の弥生時代墳墓は、未だ明らかではないという状況が今日まで続いている。
 さらに、方形周溝墓などを含めた弥生墳墓全体をみても、副葬品はほぼ皆無という状態である。〟32頁

〝大和弥生遺跡の実態
 (前略)弥生時代において大和と河内は、同じ近畿の隣接地域でありながら、生駒山地を挟んで、河内は西方に、大和は東方に志向するという対照的なあり方を示しており、古墳時代の一体化現象とは異なるようである。
 さらに、最も重視されるべき直接的な対外交流を示すような大陸系遺物、特に中国製青銅器製品の存在は、ほとんど確認することができない。このことは弥生時代を通じて、大和の遺跡には北部九州、さらには大陸地域との交流関係をもつという伝統自体が、存在しないことを明確に示しているといえよう。
 また、鉄器の出土も周辺地域に比べるとかなり少量であり、青銅器自体の出土や、その生産遺跡も近畿の中で特に多いということはない。〟67頁

〝大和の銅鐸と銅鏡
 (前略)大和地域は、「銅鐸文化圏」とされる近畿地方の中で、銅鐸の出土数や生産においても、その中心地といえることはない。(中略)
 大和においては、北部九州に比肩できるような青銅祭器は銅鐸のみである。(中略)
 大和の弥生時代では、今のところ首長墓が確認されていないこともあり、墳墓出土の銅鏡は皆無である。特に中国鏡自体の出土がほとんどみられないことは、もともと大和には鏡の保有という伝統がないことを示している。(中略)
 このような大和の銅鐸や銅鏡が示す実態からも、大和と邪馬台国との接点を見出すことはできないのである。〟70~71頁

〝近畿大和にみられない古墳出現の基盤
 前方後円墳の出現過程の追究において、これまで最も積極的に関連調査を行い、発言してきた近藤義郎は、すでに、「……ここ四〇年このかた、弥生墳丘墓の全土的調査・研究が進んだ結果、今では大和に前方後円墳秩序を創出するほどの勢力の存在を認めることが難しくなったようだ。」と述べている(近藤義郎『前方後円墳と吉備・大和』)。
 この見解は、これまで大和地域の遺跡や墳墓の調査において感じてきたことを、結論的に示すものである。今日までの長い調査歴にもかかわらず、大和地域では、未だに大型前方後円墳に連続するような、弥生時代以来の首長墓の存在は不明確な状況にある。
 その一方で、北部九州や吉備・山陰・北陸などでは、多くの副葬品を保有する、あるいは大型の墳丘をもつような墳墓などから、弥生時代の有力首長墓の存在はすでに明らかになっているのである。(中略)
 近藤が述べた、考古学的にみると大和においては古墳を出現させうるような勢力基盤が認め難いという事実こそが、明らかに邪馬台国大和説が成立しないことを示しているといえよう。〟141~142頁

〝北部九州弥生首長墓の系譜
 大和において、弥生時代の首長墓と認められるような墳墓と、その系譜が未だに確認できないことは、北部九州のあり方と対照的といってよい。〟142頁

 以上のように、大型墳丘墓も副葬品も中国製青銅器製品も鉄器も、皆無かほとんど出土しない大和を「邪馬台国」とする畿内説を、よりによって、それら〝無〟出土事実を知悉しているはずの考古学者たちが声高にマスコミを通じて発表し、国民はそれを歴史事実と錯覚するという日本社会の現状に、わたしは学問や真実の危うさを感じざるを得ません。「日本の歴史の背柱は歪んでいる……命をかけても、一つの真実を守る。……そういう気概は失われてすでに久しい」(注②)のです。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田武彦『現代を読み解く歴史観』ミネルヴァ書房、2013年。125頁


第2480話 2021/06/06

邪馬台国畿内説の終焉を告げる

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 「王様は裸だ」。考古学界にそう告げた一書に、ついに巡り会いました。関川尚功さんの『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)です。邪馬台国畿内説が主流を占めるとされる考古学界に対して、畿内の考古学発掘調査の第一線に長くおられた著者(注②)によるものだけに、説得力を持ち、学界に与える衝撃ははかりしれません。
 その関川さんを講師に招いて、来たる6月19日に古代史講演会(注③)を開催しますが、それに先だって、同書で示された学問的本質について紹介します。
 同書は、わたしがこれまで読んだ考古学者による一般読者向けの本としては最も論理的で実証的な一冊でした。しかも平明でわかりやすい文章です。同書の結論と全体像を端的に表したのが次の記述でした。

〝近藤(義郎)が述べた、考古学的にみると大和においては古墳を出現させうるような勢力基盤が認め難いという事実こそが、明らかに邪馬台国大和説が成立しないことを示しているといえよう。〟142頁
〝一貫して大和説を唱えた小林行雄も、「……『倭人伝』に記された内容には、一字一句の疑いをもいだかないという立場をとれば、邪馬台国の所在地としては、当然、九州説をとるほかないのである。」と述べているとおりなのである(小林行雄『古墳時代の研究』)。〟188頁

 邪馬台国論争における、前者は考古学の、そして後者は文献史学の結論を端的に表したものなのです。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②関川氏は元橿原考古学研究所員。
③「古田史学の会」他、関西の古代史研究団体の共催による古代史講演会。6月19日(土)13時30分~16:30。奈良新聞本社ビル。
 講師 関川尚功さん(元橿原考古学研究所)
 演題 考古学から見た邪馬台国大和説 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―
 講師 古賀達也(古田史学の会・代表)
 演題 日本に仏教を伝えた僧 仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人


第2478話 2021/06/03

渡来系古代氏族「赤染氏」の末裔

 「古田史学の会」会員の日野智貴さん(たつの市)がFaceBookで興味深い新聞記事(2017年4月19日、西日本新聞筑豊版)を紹介されています。日野さんによれば、『三国志』時代の公孫淵の子孫が日本列島に渡来し赤染氏を名のっており、福岡県田川市の香原神社宮司が赤染さんとのこと。そして、渡来系古代氏族と九州王朝との関係を示唆されました。
 日野さんの紹介文の一部を転載させていただきます。

【以下、転載】
 『三国志』で有名な・・・と、思っているのは相当なマニアではあるが、マニアの間では著名な燕王公孫淵の子孫が、豊前におられたようだ。(中略)
 私が関心を持ったのは、この公孫淵の子孫と言う赤染氏が、九州にいるという事実である。彼らは『新撰姓氏録』によると近畿にいたらしいが、記録はほとんど残っていない。
 むしろ九州の方が本家なのではないか、と言う感じもする。燕との関係は九州王朝にとっても重要な問題であったはずである。(後略)
【転載おわり】

 古代において日本列島へは多くの渡来があり、それら渡来人は古代氏族として倭国や日本国の要職に就いたことが知られています。『新撰姓氏録』にもそうした氏族が多数収録されています。例えば、赤染氏と同族とされる常世氏は次のように記されています。

 「常世連
   出自燕國王公孫淵也。」『新撰姓氏録』「右京諸蕃上」

 「洛中洛外日記」でも九州王朝の家臣「大蔵氏」のことを調査・論究(注)したことがありますが、渡来人の多くは九州王朝(倭国)の時代に渡来していますから、それら渡来系氏族を調べれば九州王朝史研究に役立つことと思います。この度、赤染氏の存在を知り、『新撰姓氏録』や古代氏族系図研究の重要性を改めて認識しました。ご教示いただいた日野さんに感謝いたします。

(注)
「洛中洛外日記」2326話(2020/12/18)〝九州王朝の家臣「千手氏」調査〟
「 同   」2328話(2020/12/20)〝「千手氏」始祖は後漢の光武帝〟
「 同   」2329話(2020/12/21)〝群書類従「大蔵氏系図」の史料批判〟
「 同   」2331話(2020/12/23)〝阿智王伝承と阿智使主伝承〟
「 同   」2333話(2020/12/29)〝「秋月系図」に見る別伝承習合の痕跡〟
「 同   」2358話(2021/01/25)〝『嘉穂郡誌』の「天智天皇」伝承〟
「 同   」2359話(2021/01/26)〝『朝倉風土記』の「天智天皇」伝承〟


第2444話 2021/04/29

6月19日(土)古代史講演会済み

       関川尚功氏、古賀達也が講演

〝考古学から見た邪馬台国大和説

       畿内ではありえぬ邪馬台国〟

 「古田史学の会」では、6月19日(土)午後に「古田史学の会」会員総会を開催します。会場は奈良新聞本社西館3階です。関西例会でも使用している会場二部屋分を使用し、「三密」回避などコロナ対策を徹底して実施する予定です。
 同日に行う恒例の古代史講演会は、関西地区の友好団体との共催で行います。今回は外部講師に関川尚功(せきがわ ひさよし)さん(元橿原考古学研究所・所員)をお招きします。正木裕に代わり、古賀達也が「日本に仏教を伝えた僧—仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人—」で講演を行います。
 関川さんの近著『考古学から見た邪馬台国大和説 畿内ではありえぬ邪馬台国』(梓書院、2020年)は、大和地方の発掘調査を40年の長きにわたり行ってこられた考古学者によるものですから、古代史学界に衝撃を与えました。考古学の第一線で活躍されてきた関川さんのお話を直接お聞きできる願ってもない機会です。最新の大和の考古学について、わたしも関川さんから学びたいと思います。 

当日の午前中は「古田史学の会・関西例会」を行います。

「古田史学の会」定期会員総会・古代史講演会の案内

◆日時 6月19日(土) 13:30~17:00
 古代史講演会 13:30~16:00
 古田史学の会・会員総会 16:00~17:00
 ※御前中は「古田史学の会」関西例会 10:00~12:00

会場変更 奈良新聞本社西館3階
〒630-8001 奈良県奈良市 法華寺町2番地4会場変更

(5.19会場 大阪市福島区民センターから会場変更)

◆主催 古代大和史研究会・市民古代史の会京都・和泉史談会・誰も知らなかった古代史の会・古田史学の会
◆講師 関川尚功さん(元橿原考古学研究所・所員)
 演題 考古学から見た邪馬台国大和説 ―畿内ではありえぬ邪馬台国
 講師 古賀達也(当会代表)
 演題 「日本に仏教を伝えた僧—仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人—」
◆参加費 無料

6月19日会場地図

6月19日会場地図奈良新聞本社
近鉄新大宮駅北600m

考古学から見た邪馬台国大和説--畿内ではありえぬ邪馬台国

考古学から見た邪馬台国大和説–畿内ではありえぬ邪馬台国


第2426話 2021/04/08

『俾弥呼と邪馬壹国』読みどころ (その4)

正木 裕

 「改めて確認された『博多湾岸邪馬壹国説』」

 『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)には「総括論文」として、先に紹介した谷本 茂さんの「魏志倭人伝の画期的解読の衝撃と余波」と並んで、正木 裕さん(古田史学の会・事務局長)の「改めて確認された『博多湾岸邪馬壹国説』」が掲載されています。
 この正木論文では、最新の考古学的発見が古田説の正しさを証明しているとして、福岡市の比恵・那珂遺跡が弥生時代最大規模の都市遺構であることや、近年立て続けに発見されている弥生の硯が福岡県を中心に数多く分布していること、銅鏡の鉛同位体分析の結果から三角縁神獣鏡が国産であることなどが紹介されています。更には『三国志』の里程記事の実証的な分析から、短里説(1里=約76m)の正しさを改めて証明されました。
 また、『俾弥呼と邪馬壹国』に収録された正木さんの別の論文「周王朝から邪馬壹国そして現代へ」では、倭人伝に見える用語や漢字が周王朝に淵源していることに論究されており、倭人伝研究の最先端テーマを次々と手がけられていることがわかります。
 「改めて確認された『博多湾岸邪馬壹国説』」の最後に書かれた「まとめ」を以下に転載します。〝「モノ」は「論証」されることによって始めて単なる「モノ」ではなく「物証・証拠」になる〟という指摘は、まさに学問(古田史学)の真髄です。

【以下、転載】
 『「邪馬台国」はなかった』発刊五十年を迎える。依然としてヤマト一元説は広く喧伝されているが、本稿で述べたように、近年の考古学や諸科学の発展により、五十年前に古田氏が唱えられた「博多湾岸邪馬壹国説」の正しさが、改めて証明されることとなった。
 また一方で、単なる砥石状の破片と見られていたものが、弥生期に遡る文字使用を示す硯だったことがわかった。これは「モノ」は「論証」されることによって始めて単なる「モノ」ではなく「物証・証拠」になることを示している。
 私たちの前にある「モノ」や「文献」を、一元史観による思い込みにとらわれず、もう一度多元史観により解釈することで『「邪馬台国」はなかった』で示された古田氏の事績をさらに豊にできることになろう。(54頁)


第2425話 2021/04/07

『俾弥呼と邪馬壹国』読みどころ (その3)

–谷本 茂「魏志倭人伝の画期的解読の衝撃と余波」

 『俾弥呼と邪馬壹国』(『古代に真実を求めて』24集)には「総括論文」として、谷本 茂さんの「魏志倭人伝の画期的解読の衝撃と余波 ―『「邪馬台国」はなかった』に対する五十年間の応答をめぐって―」が掲載されています。編集部に送られてきたこの谷本稿を読んで、わたしは予定していた巻頭言の内容を大きく変更することにしました。
 当初、巻頭言には、『「邪馬台国」はなかった』の研究史的位置づけと発刊後の影響について紹介する予定でしたが、谷本稿にはそれらが詳しく書かれており、わたしが巻頭言で触れる必要などないほどのみごとな内容でした。まさに渾身の論文と言えるものです。
 谷本さんはわたしの〝兄弟子〟に当たる古田学派の重鎮であり、京都大学在学中から古田先生と親交を結ばれており、『「邪馬台国」はなかった』創刊時からの古田ファンです。研究者としても、短里問題の論稿「中国最古の天文算術書『周髀算経』之事」(『数理科学』1978年3月号)を発表されたことは著名です。古田先生の『邪馬一国の証明』(角川文庫、1980年)にも、「解説にかえて 魏志倭人伝と短里 ―『周髀算経』の里単位―」を寄稿されています。
 今回の「魏志倭人伝の画期的解読の衝撃と余波」には、いくつもの示唆に富む指摘が見えますが、論文末尾に記された「邪馬壹国の位置論」に関する〝考古学的主張〟に対する次の警鐘は秀逸です。

【以下、転載】
 最近の「邪馬台国」位置論は、『魏志』倭人伝の正確な解読よりも、考古学的遺物の出土分布と年代推定の結果に依拠する傾向が強まっている。しかし、「邪馬壹国」「卑弥呼」「壹与」は、『魏志』倭人伝の記事に依拠して言及されるべき研究対象であり、「倭人伝の正確な読み方をひとまず棚上げにして、考古学的見地からだけ「邪馬台国」の位置を論じる」という研究姿勢は、一見、科学的で慎重な姿勢の様で、実は総合科学の見地からはほど遠いものである。基本として『魏志』の記事に依拠しなければならない「邪馬壹国」研究が、文献を離れて「考古学的な独り歩き」をしている非論理的な現状が、「邪馬台国」「台与」の使用に象徴的に発現しているといっても過言ではないであろう。つまり『「邪馬台国」はなかった』の書名そのものが古代史学界の現状への鋭い問題提起の象徴であること、その状況が残念ながら依然として続いている。
 (中略)
 「邪馬壹国の位置論」が科学的検証に耐える理論として古代史学界の共通認識になる水準に進んでいくための、輝かしい道標の一つとして、刊行後五十年の『「邪馬台国」はなかった』は、現代においても不朽の価値を有するのである。〈29~30頁〉


第2253話 2020/10/06

『纒向学研究』第8号を読む(2)

 柳田康雄さんの「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」(注①)によれば、弥生時代の板石硯の出土は福岡県が半数以上を占めており、いわゆる「邪馬台国」北部九州説を強く指示しています。なお、『三国志』倭人伝の原文には「邪馬壹国」とあり、「邪馬台国」ではありません。説明や論証もなく「邪馬台国」と原文改定するのは〝学問の禁じ手(研究不正)〟であり、古田武彦先生が指摘された通りです(注②)。
 古田説では、邪馬壹国は博多湾岸・筑前中域にあり、その領域は筑前・筑後・豊前にまたがる大国であり、女王俾弥呼(ひみか)がいた王宮や墓の位置は博多湾岸・春日市付近とされました。ところが、今回の板石硯の出土分布を精査すると、その分布中心は博多湾岸というよりも、内陸部であることが注目されます。それは次のようです。

〈内陸部〉筑紫野市29例(研石6)、筑前町22例(研石5)、朝倉市4例、小郡市3例(研石1)、筑後市4例(研石1)

〈糸島・博多湾岸部〉糸島市13例(研石3)以上、福岡市17例(研石1)
 ※この他に、豊前に相当する北九州市20例と築城町8例(研石1)も注目されます。

 しかも、弥生中期前半頃に遡る古いものは内陸部(筑紫野市、筑前町)から出土しています。当時、硯を使用するのは交易や行政を担当する文字官僚たちですから、当然、倭王の都の中枢領域にいたはずです。内陸部に多いという出土事実は古田説とどのように整合するのか、あるいは今後の発見を期待できるのか、古田学派にとって検討すべき問題ではないでしょうか。
 柳田さんは次のように述べて、教科書の改訂を主張されています。

 「これからは倭国の先進地域であるイト国・ナ国の王墓などに埋葬されてもよい長方形板石硯であるが、いまだに発見されていない。いずれ発見されるものと信じるが、今回の集落での発見は一定の集落内にも識字階級が存在することを示唆しているだけでも研究の成果だと考えている。青銅武器や銅鏡の生産を実現し、一定階級段階での地域交流に文字が使用されている弥生時代は、もはや原始時代ではなく、教科書を改訂すべきである。」(43頁)

 大和朝廷一元史観に基づく通説論者からも、このような提言がなされる時代に、ようやくわたしたちは到達したのです。(つづく)

(注)
①『纒向学研究』第8号(桜井市纒向学研究センター、2020年)所収。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻)