「天皇」木簡一覧

第3342話 2024/09/07

古田武彦『古代通史』の「天皇号」論

 古田武彦著『古代通史 古田武彦の物語る古代世界』は原書房から1994年に発刊され、ミネルヴァ書房から「古田武彦古代史コレクション27」として復刻されています。同書冒頭には『東日流外三郡誌』の編著者秋田孝季と和田長三郎の名前が記された寛政宝剣額(注①)のカラー写真(青山富士夫氏撮影)が掲載されており、それを見ると和田家文書調査のため古田先生と津軽半島を駆け巡った三十年前のことを思い出します。

 この度、同書を数年ぶりに読み返しました。倭国(九州王朝)における「天皇」号についての古田先生の認識について調べていたところ、日野智貴さん(『古代に真実を求めて』『古田史学会報』編集部員)から『古代通史』に書かれていることを教えていただきました。同書はお茶の水図書館での講義を高田かつ子さん(「多元的古代」研究会・関東 会長・故人)がテープ起こししたものなので、論文のように厳密な文章ではなく、参加者に語りかける文体となっています。この点、配慮して読む必要があります。同書の251~252頁にかけて、次のようにありました。

 〝近畿にいるのはなにかというと、これははっきりいいますと大王なんです。これは当時の金石文に出てきますが、「大王天皇」という言葉で呼ばれている。法隆寺の薬師仏の裏の光背銘に出てきます。中国の用法では「天皇」というのは、天子ではないんです。本来、天子というのは洛陽・長安にいる天子しか、天子ではないんです。それに対して周辺の部族、中国人がいう蛮族が「天子」を名のるとヤバイ。これを中国は許しませんから、それで、天皇を名のっているわけです。いわば「天皇」というのは「準天子」みたいな、大王の中で〝有力な大王〟だぞ、っていうのが天皇といういい方の名まえなんです。もちろん〝天子の敬称〟の意味でも使いますけど、本来は、そういう意味のものなんです。だからここでは大王の天皇です。〟

 同書では、古田先生は天皇は天子ではないと明確に述べています。〝天子の敬称〟の意味でも使うとあるのは、「唐書高宗紀、上元三年(676年)八月壬辰 皇帝天皇と称し、皇后天后と称す。」(『称謂録』天子古称・天皇)とあるケースで(注②)、倭国で「天皇」号が金石文(野中寺彌勒菩薩像の「中宮天皇」、666年に成立)に現れる方が先行していることから、この唐の高宗の敬称としての「天皇」とは関係なく七世紀の倭国で天皇号は採用されています。

 〝中国の用法では「天皇」というのは、天子ではない〟とされ、〝いわば「天皇」というのは「準天子」〟と位置づけていますから、これは古田旧説の「近畿天皇家は、九州王朝の天子の下のナンバーツーとしての天皇」という仮説の根拠になった当時の認識です。ですから、晩年、発表された〝七世紀の金石文に見える「天皇」は九州王朝の「天子」の別称で、近畿天皇家が天皇を称したのは文武から〟とする新説を提唱されるにあたり、当初の〝「天皇」は「天子」ではない〟とした自説の根拠をまず否定・批判されるべきではなかったかと思います。そうであれば、旧説から新説への変更に対しての説得力が増したと思われます。残念なことに、それがなされないまま、新説を提唱されましたので、わたしは今でも旧説が妥当と考え、金石文や木簡を根拠にして、その理由を論じてきたところです(注③)。

(注)
①青森県市浦村の山王日枝神社に奉納された宝剣額。「寛政元年(一七八九)八月一日」の日付を持ち、秋田孝季と和田長三郎(吉次)が『東日流外三郡誌』完成を祈願したもの。
②『旧唐書』には、咸亨五年(674年、同年八月に上元に改元)八月壬辰条に「皇帝天皇と称し、皇后天后と称す。」とある。正木裕氏のご教示による。
③古賀達也「船王後墓誌の宮殿名 ―大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か―」『古田史学会報』152号、2019年。
同「七世紀の「天皇」号 ―新・旧古田説の比較検証―」『多元』152号、2019年。
同「洛中洛外日記」3336~3341話〝同時代エビデンスとしての「天皇」木簡 (1)~(5)〟(2024/08/29~09/05)。
同「飛鳥の「天皇」「皇子」木簡の証言」『古田史学会報』184号に投稿中。


第3341話 2024/09/05

同時代エビデンスとしての

        「天皇」木簡 (5)

 前回紹介した飛鳥池遺跡南地区出土の「舎人皇子」「大伯皇子」に続いて、飛鳥宮・飛鳥京・飛鳥池南地区遺跡出土の皇子木簡を紹介します。

《飛鳥京・飛鳥宮・飛鳥池南地区遺跡出土の皇子木簡》
【木簡番号】0
【本文】太来
【遺跡名】飛鳥京跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構
【地区名】AH017026
【人名】太来〈大来皇女・大伯皇女ヵ〉

【木簡番号】0
【本文】□大津皇
【遺跡名】飛鳥京跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構
【地区名】MK012036
【人名】大津皇〈大津皇子〉

【木簡番号】65
【本文】・穂積□□〔皇子ヵ〕・□□〔穂積ヵ〕〈〉
【遺跡名】飛鳥池遺跡南地区
【所在地】奈良県高市郡明日香村大字飛鳥
【遺構番号】SX1222炭層
【地区名】5AKAWL23
【人名】穂積(皇子)
【木簡説明】左右二片接続。四周削り。表裏ともに「穂積(皇子)と記す。習書ではなく、物品管理に使用された名札の可能性がある。「穂積皇子」は天武天皇の皇子。穂積皇子宮の所在地は『万葉集』一一四~一一六番歌などから髙市皇子の「香来山之宮」近辺にあったとされ、橿原市教育委員会による香具山の北にあたる藤原京跡左京一・二条四・五坊の調査では、東四坊大路の東側溝から和銅二年(七〇九)銘の木簡とともに「穂積親王宮」や「積親」と書かれた木簡が出土している(『木簡研究二十六」一五頁、一・二号)。

 上記のように飛鳥の遺跡からは天武の子供らの名が記された木簡が出土しており、当地に天武ら近畿天皇家の一族が居していたことを疑えません。その天武の子供たちが「王子」ではなく、「皇子」と記されていることから、父親の天武の称号も「大王」ではなく、「天皇」と考えるのが妥当です。従って、飛鳥池から出土した「天皇」木簡の「天皇」を天武のこととする学界の趨勢は当然のことと思います。これは一元史観であろうが多元史観であろうが、同時代史料(エビデンス)としての木簡が指し示す最有力の歴史認識ではないでしょうか。
今回紹介した木簡の年代観ですが、次の木簡が示すように、七世紀後半の天武・持統期と見ることができます。

【木簡番号】0
【本文】□〔明ヵ〕評
【遺跡名】飛鳥京跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構
【地区名】AH017026
【国郡郷里】(伊勢国朝明郡〈←明評〉)

【木簡番号】0
【本文】辛巳年
【遺跡名】飛鳥京跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構
【地区名】MK012036
【和暦】(辛巳年)天武10年 【西暦】681年

【木簡番号】12
【本文】・白髪部五十戸・〓十口
【文字説明】表面「髪」は異体字を使用。裏面「〓」は偏が「㠯」旁が「皮」の文字。
【遺跡名】飛鳥宮跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構SX7501
【地区名】MK022244
【国郡郷里】(備中国都宇郡真壁郷〈白髪部五十戸〉)・(備中国窪屋郡真壁郷〈白髪部五十戸〉)

【木簡番号】0
【本文】大乙下□□
【遺跡名】飛鳥京跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構

【木簡番号】0
【本文】□小乙下
【遺跡名】飛鳥京跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構

【木簡番号】0
【本文】小山上
【遺跡名】飛鳥宮跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構SX7501
【地区名】MK022244

【木簡番号】0
【本文】□小乙下階
【文字説明】「□」は横棒が引かれるが文字か印か不明。
【遺跡名】飛鳥宮跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構SX7501
【地区名】MK022244

【木簡番号】0
【本文】大乙下階
【文字説明】下端の状況から下には続く文字はない。
【遺跡名】飛鳥宮跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構SX7501
【地区名】MK022244

【木簡番号】1
【本文】大花下
【遺跡名】飛鳥宮跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構SX7501
【地区名】MK022244

 このように、干支木簡「辛巳年」(天武10年、681年)、「評(こおり)」や「五十戸(さと)」の天武期を示す木簡が出土しています。また、『日本書紀』によれば、大化五年(649年)に制定され、天武十四年(685年)の新冠位制定まで続いた「大乙下」「小乙下」「小山上」が記された木簡もこの年代観と矛盾しません。「大花下」は天智三年(664年)の新冠位で「大錦下」に変更されており、飛鳥宮から出土する他の木簡と比べて年代的にやや古く感じますが、『木簡研究』22号(2000年)の報告では、「『日本書紀』に基づけば、大花下の冠位は大化五年二月から天智三年二月までの一七年間に限つて施行されたこととなり、この木簡もこの間に書かれたものとみてまず疑いない。」としています。(おわり)


第3340話 2024/09/03

同時代エビデンスとしての

      「天皇」木簡 (4)

 飛鳥池遺跡からは北地区大溝遺構SD1130(排水施設)の「天皇」木簡以外にも大量の木簡が出土しており、奈良文化財研究所HPの「木簡庫」に登録されています。それら遺構毎の出土木簡の史料批判により年代観を判定し、『日本書紀』の記事との対比ができ、その記事がどの程度信頼してもよいのか、史料批判が飛躍的に進み、当時の近畿天皇家の実体に迫ることができるようになりました。『日本書紀』の解釈論争にとどまることなく、その記事に対応した同時代木簡を研究対象にすることで、より正確に古代の真実に肉薄することができます。

 今回は、飛鳥池遺跡南地区「SX1222粗炭層」出土の次の木簡を紹介します。なお、「木簡庫」には同層出土木簡のうち、64件が登録されています。

《飛鳥池遺跡南地区 SX1222粗炭層》
【木簡番号】63
【本文】二月廿九日詔小刀二口○針二口○【「○半\□斤」】
【木簡説明】上下二片接続。四周削り。下端は焼痕があるが、特に欠損していない。天武天皇もしくは持統天皇の詔を受けて小刀・針の製作を命じた文書、あるいはその命令を書き留めた記録であろう。ただし「詔」は「勅旨」と同様、供御物であることを示す語の可能性もある。下端に別筆で天地逆方向に記された「□斤半」は、小刀二口・針二口を作製するのに必要な鉄の重量を追記したものであろう。焼痕と重なる□には横棒が一本みえ、「一」「二」「三」のいずれかであろう。「半」字は「□」字を避けるようにして、横にずらしだ文字を記す。

【木簡番号】64
【本文】大伯皇子宮物○大伴□…□品并五十□
【木簡説明】上下三片からなるが、第二片と第三片は中間欠により直接接続しない。短冊形に復元でき、上下両端・右辺削り。左辺は第二片以外削り。「大伯皇子」は大伯(大来)皇女。天武天皇の娘で、大津皇子の同母姉。「皇子」表記は、天皇の子女が男女を問わず「ミコ」と呼ばれたことによる。「品」の上は残画から数字の「一」「二」「三」のいずれかであろう。最下字は「一」と「四」を重ね書きしたような字形で、「一」を「四」に訂正した可能性がある。大伯皇女は天武三年(六七四)から朱烏元年(六八六)まで伊勢国に斎王として赴いており、本木簡の時期は大伯皇女が帰京した持続朝の可能性がある。

【木簡番号】92
【本文】・舎人皇子□・○百七十
【木簡説明】円形の傘をもつ釘の様。軸は笠に差し込んである。笠は直径36㎜高さ7㎜。軸は9㎜四方の方形で、長さ138㎜。下端はやや折れ。他は削り。軸中程やや上寄りに墨書する。「舎人皇子」は天武天皇の皇子。藤原宮跡から「舎人親王宮帳内」(『藤原宮木簡二』六一一号)、平城宮跡から「一品舎人親」(『平城宮木簡六』一〇六九一号。『同六』八八三二号も舎人親王を指す可能性がある)と記す木簡や削屑が出土している。「百七十」は、舎人皇子宮が発注した釘の本数。

【木簡番号】105
【本文】三分□□□〔五十戸ヵ〕〈〉
【国郡郷里】(若狭国大飯郡佐文郷〈若狭国遠敷郡三分五十戸〉)
【木簡説明】上端・左右両辺削り、下端折れ。上端は緩やかな圭頭形。上部左右に三角形の切り込みをもつ。「三分五十戸」は『和名抄』若狭国遠敷郡佐分郷に該当する可能性がある。藤原宮跡出土木簡に「己亥年若佐国小丹生/三分里三家首田末呂」と記すものがある(『評制下荷札木簡集成』一二二号)。

【木簡番号】106
【本文】・加毛評柞原里人・「児嶋部□俵」
【国郡郷里】播磨国賀茂郡楢原里〈播磨国加毛評柞原里〉
【木簡説明】四周削り。上端はやや左上がり。下端は緩やかな圭頭形で、端部は左に大きく偏る。上部左右に切り込みをもち、左側は台形、右側は三角形。切り込みの高さは左右でかなり異なり、位置も他に比べて低い。表裏は別筆関係にあるが、内容的には一連である。「加毛評柞原(ならはら)里」は『播磨国風土記』賀毛郡条に楢原里、平城宮跡出土の荷札木簡に加毛郡柞原郷がみえる(「平城宮木簡二』二二六五号)。「児嶋了」は備前国児島郡に関わる部民と推測される。児島は海上交通の要衝であり、六世紀には児島ミヤケが置かれていた(『日本書紀』欽明十七年七月己卯条など)。柞原里は播磨国でも内陸部に位置するが、加古川水系・瀬戸内海によって児島郡と結びついたのであろう。

【木簡番号】107
【本文】・吉備道中国加夜評・葦守里俵六□
【木簡説明】三片接続。四周削り。上部左右・下部右側に切り込みをもつ。「吉備道中国加夜評葦守里」は『和名抄』備中国賀夜郡足守郷に該当する。「吉備道中」は『和名抄』国郡部の「吉備乃美知之奈加(きびのみちのなか)」という読みと対応する。「吉備」の分割は天武十二年(六八三)から十四年にかけての国境確定事業によってなされた可能性が高く、「里」表記の年代観とも矛盾しない。

【木簡番号】108
【本文】湯評井刀大部首俵
【国郡郷里】(伊与国温泉郡井門郷/伊予国温泉郡井門郷〈湯評井刀〉)・(伊与国浮穴郡井門郷/伊予国浮穴郡井門郷〈湯評井刀〉)
【木簡説明】右下隅部で二片接続。四周削り。上端には整形前の切断痕跡がある。上部左右に浅い三角形の切り込みをもつ。切り込みより下の横幅は上よりも狭いが、特に欠損部は認められない。「湯評井刀」は『和名抄』伊予国温泉郡に該当する郷名はみえず、浮穴郡に井門郷がみえる。しかし、平城宮跡出土の荷札木簡に湯泉郡井門郷がみえる(『平城宮木簡三』二九一一号)ので、湯評は後の浮穴郡を含んでいた可能性がある。

【木簡番号】109
【本文】・湯評大井五十戸・凡人部己夫
【国郡郷里】(伊与国温泉郡/伊予国温泉郡〈湯評大井五十戸〉)
【木簡説明】上下二片接続。四周削り。上端はやや丸みを帯び、裏側を面取りする。「湯評大井五十戸」は『和名抄』伊予国温泉郡に該当する郷名はみえない。濃満郡に大井郷がみえるが、温泉郡との間には風早郡が存在するため、飛び地を想定しないかぎり、成立しがたい。これに対して、井門郷の東隣にあたる旧浮穴郡高井・南高井村に遺称地を求める見解がある(日野尚志「考徳天皇の時代に久米評は存在していたか」『松山市考古館開館五周年記念シンポジウム(古代の役所)一九九四年)。

【木簡番号】110
【本文】・湯評笶原五十戸・足支首知与尓俵
【国郡郷里】伊与国温泉郡/伊予国温泉郡〈湯評笶原五十戸〉
【木簡説明】上端切断、左右両辺削り、下端やや折れ。「湯評笶原(のはら)五十戸」は西隆寺跡出土の荷札木簡に伊与国温泉郡箆原(のはら)郷がみえる(西隆寺跡調査委員会・奈良国立文化財研究所編『西隆寺発掘調査報告』一九七六年、三〇号)。「笶」は「箆」の別字で、「笑」ではない。

【木簡番号】111
【本文】・○加佐評春□・【□□□「里人」】
【国郡郷里】(丹後国加佐郡〈加佐評春→〉)・(備中国〈加佐評春→〉)
【木簡説明】左右両辺削り、上下両端折れ。上部左右に切り込み。「加佐評」の比定地については、議論の多い法隆寺旧蔵弥勒菩薩像銘の「笠評」と同様、丹後国加佐郡もしくは吉備(備中)の笠国造に関わる領域の可能性がある。丹後国加佐郡とすると、正平七年(一三五二)二月十三日後村上天皇綸旨・同三月九日新待賢門院令旨にみえる丹後国志楽庄内春日部村との関連があるかもしれない(永島福太郎編『大和古文書聚英』奈良県図書館協会、一九四三年、一一六・一一七号)。

【木簡番号】115
【本文】←五十戸/阿止伯部大尓/鵜人部犬〓∥
【木簡説明】斎串に転用した荷札木簡。文字方向は斎串と天地逆。四周二次的削り。「阿止伯了」は未見の部姓。「鵜人了」は鵜養部のことか。

【木簡番号】118
【本文】・〈〉五十戸人・□〔移ヵ〕部連依□〔国ヵ〕\□□□□□
【木簡説明】四周削り。下端は稜のない剣先形で、先端部を丸く削る。上部左右に切り込みをもつ。墨色は極めて薄い。表裏ともに材の上半部に墨書する。「移了連」は山部連。「移」は上古音で「ヤ」。

 まず、同層出土木簡の年代観ですが、行政単位として「評(こおり)」「五十戸(さと)」「里(さと)」が見え、「郡」は見えませんから、七世紀第4四半期の天武・持統期と見てよいと思われます。「大伯皇子宮」「舎人皇子」のという天武の子供やその住居(宮)名が見えることからも、この年代観を支持しています。従って、当時の飛鳥には天武と比定されている「天皇」とその「皇子」らが住んでいたことがわかります。

 荷札木簡の地名(若狭国・播磨国・吉備道中国・伊予国)は、当時の近畿天皇家の統治領域の一端を示し、事実上の第一実力者であったと推定出来ます。また、「二月廿九日詔」木簡(木簡番号63)は、飛鳥の地で詔勅を発していたことを示しており、王朝交代前の九州王朝の時代でありながら、天武らは「天皇」に相応しい振る舞いをしていたこともわかります。(つづく)


第3339話 2024/09/01

石神遺跡出土の「天王」木簡

 飛鳥池遺跡北地区から出土した「天皇」木簡(注①)は有名ですが、石神遺跡から出土した「天王」木簡は、学界や古田学派でもほとんど注目されていないようですので、わたしが知る範囲で紹介します。

 石神遺跡は飛鳥寺の北西に位置し、その性格について市大樹さんは次のように説明しています(注②)。

 「石神遺跡では飛鳥時代の遺構が何層にもわたってみつかっている。大きくA~Cの三時期に分けられ、さらにそれぞれが細分化されるという複雑なものである。(中略)

 このB・C期の新たな建物群は藤原宮(六九四~七一〇)の官衙域の状況と似ており、饗宴施設から官衙へと性格を一変させたとみられる。そして、この見方を確固たるものとしたのが、石神遺跡北方域から出土した三〇〇〇点以上の木簡である。

 (中略)石神遺跡は王宮を構成する官衙の一部と理解するのが妥当である。」(市大樹『飛鳥の木簡 ―古代史の新たな解明』)89~91頁。

 この石神遺跡の七世紀中葉の遺構「道路SF2607」から「天王」木簡が出土しており、奈良国立文化財研究所HPの「木簡庫」には次の解説があります(当木簡の写真が添付されていないので、調査中です)。

【木簡番号】0
【本文】・□天于・天王
【寸法(mm)】縦 229、横 86、厚さ 12。
【出典】木研30-14頁-(6)(飛22-12下(6)) ※『飛鳥・藤原宮発掘調査出土木簡概報(22)』2008年。
【遺跡名】石神遺跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村飛鳥
【調査主体】奈良文化財研究所都城発掘調査部
【発掘次数】145次(石神遺跡第19次)
【遺構番号】SF2607
【地区名】5AMDPL81
【内容分類】木製品
【木簡説明】呪符のような趣もある。

 また、『木簡研究』(注③)には、市さんが次のように紹介しています。

 〝(1)~(6)は七世紀中葉頃の木簡(6が「天王」木簡。古賀注)。(中略)(6)は大型材を用い、文字も巨大で、呪符のような趣もある。〟

 確かに「縦 229、横 86、厚さ 12(mm)」というサイズは大きめですし、書かれた文字が「□天于」「天王」だけですから、目的や意味が不明です。従って、「呪符のような趣もある」という感想的な説明に終わっていることも理解できます。また、「天王」はともかく、「□天于」の意味がよくわかりません。この木簡を拝見したいものです。

(注)
①この他にも「天王」と読める可能性のある木簡が藤原宮から出土している。「木簡庫」には次の解説がある。
【木簡番号】0
【本文】□□〔天王ヵ〕
【出典】飛21-24上(277) ※『飛鳥・藤原宮発掘調査出土木簡概報(21)』2007年。
【遺跡名】藤原宮朝堂院回廊東南隅
【所在地】奈良県橿原市高殿町
【調査主体】奈良文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
【発掘次数】128
【遺構番号】SD9815
【地区名】5AJGEF70
②市大樹『飛鳥の木簡 ―古代史の新たな解明』中公新書、2012年。
③同上『木簡研究』第30号、2008年。


第3338話 2024/08/31

同時代エビデンスとしての

        「天皇」木簡 (3)

 飛鳥池遺跡北地区の大溝遺構SD1130(排水施設)から出土した「天皇」木簡(注①)をはじめとして512点の木簡が、奈良国立文化財研究所HPの「木簡庫」に登録されています(削屑を加えれば、出土数は更に増える)。その中から、同遺構SD1130出土物の年代観を示す代表的な木簡を紹介します。

【木簡番号】185
【本文】・「合合」○庚午年三→(「合合」は削り残り)・○□\○□
【暦年】(庚午年)天智9年、670年。

【木簡番号】191
【本文】尾張海評堤□□□□〔田五十戸ヵ〕
【国郡郷里】尾張国海部郡津積郷〈尾張国海評堤田五十戸〉

【木簡番号】192
【本文】・尾張□評嶋田五十戸・□〈〉□〔〓ヵ〕
【国郡郷里】尾張国海部郡嶋田郷〈尾治国海評嶋田五十戸〉

【木簡番号】193
【本文】丁丑年十二月次米三野国/加尓評久々利五十戸人/○物部○古麻里∥
【暦年】(丁丑年)天武6年12月、677年。
【国郡郷里】美濃国可児郡〈三野国加尓評久々利五十戸〉

【木簡番号】194
【本文】・←我評高殿・←秦人虎
【国郡郷里】丹波国何鹿郡高殿郷〈←我評高殿〉

【木簡番号】195
【本文】・←野評佐野五十戸・○五斗
【国郡郷里】丹後国熊野郡佐濃郷〈←野評佐野五十戸〉

【木簡番号】196
【本文】次評/上部五十戸巷宜部/刀由弥軍布廿斤∥
【国郡郷里】隠岐国周吉郡上部郷〈隠岐国次評上部五十戸〉

【木簡番号】197
【本文】弥奈部下五十戸

【木簡番号】198
【本文】三間評○小豆○〈〉
【国郡郷里】阿波国美馬郡〈三間評〉

【木簡番号】203
【本文】加毛五十戸秦人足□〔牟ヵ〕

【木簡番号】204
【本文】多可□□□〔五十戸ヵ〕塩一□〔古ヵ〕
【国郡郷里】(常陸国多珂郡多珂郷)・(山城国綴喜郡多可郷)・(備後国三上郡多可郷)・(陸奥国行方郡多珂郷)・(近江国犬上郡田可郷)・(陸奥国宮城郡多賀郷)

【木簡番号】211
【本文】・丙子鍬代四楓・□代一匹又四楓
【暦年】(丙子年)天武5年、676年。

 以上のように、大溝遺構SD1130(排水施設)から出土した木簡には、干支(「庚午年」天智9年、670年)(「丁丑年」天武6年、677年)(「丙子年」天武5年、676年)、「評(こおり)」、「五十戸(さと)」表記が見え、「郡」「里」木簡は見えませんので、天武の頃とする年代観を示唆しています。当該調査報告書(注②)には次の説明があります。
※「木簡庫」の木簡番号と当報告書の木簡番号は異なりますので、ご注意下さい。

 〝確実な紀年銘木簡は164「丁丑年」(天武6年、677年)のみである。他に干支を記すものに157「庚午年」、185「丙子」、250「寅年」がある。157は木簡自体の年代が「庚午年」(天智9年、670)まで遡る可能性は低く、185は年の干支かどうかは確実でない(年の干支とすれば天武5年)。250は戊寅年(天武7年、678年)か。コホリの表記はすべて「評」(162〜167、169、176)、サトの表記はすべて「五十戸」(162〜164、166〜168、171、175、177、178)であり、「郡」「里」を記すものはない。他に時期の推定できる木簡として、天武5年(676)・同6年の飢饉による救恤活動を記す可能性のある142、天武13年(684)の八色の姓制定より前の姓を記した可能性のある149などがある。また、天武6年12月の表記がある164「次米」荷札は、天武7年(678)正月儀礼用の餅米荷札の可能性があり(後述)、その場合は天武7年の正月頃に廃棄されたことになる。溝自体が短期間しか存続しなかったことから、木簡群は短期間に廃棄されたと考えられ、木簡の年代は天武5〜7年を含む数年間に収まると判断できる。〟

 このように、「天皇」木簡の年代観を天武の頃とした「木簡庫」の説明と同じ結論が示されています。上記荷札木簡に注目すると、天武の頃には各地(尾張国・美濃国・丹後国・隠岐国・阿波国)から献上物が飛鳥宮に届けられていることがわかり、当時の近畿天皇家の勢力範囲(統治領域)をうかがうことができます。次に大溝遺構SD1130以外の飛鳥池遺跡の出土木簡について紹介します。(つづく)

(注)
①「木簡庫」の「天皇」木簡の解説
【本文】天皇聚□〔露ヵ〕弘寅□\○□
【寸法(mm)】縦(118) 横(19) 厚さ(3)
【遺跡名】飛鳥池遺跡北地区
【所在地】奈良県高市郡明日香村大字飛鳥
【発掘次数】飛鳥藤原第84次
【遺構番号】SD1130
【地区名】5BASNL36
【内容分類】文書
【人名】天皇
【木簡説明】上端・左辺削り、下端折れ、右辺割れ。上端は左角を削り落とし、裏側を面取りする。「天皇、露ヲ聚メ、寅ヲ弘メ…」と訓読できるが、文意は不詳。「露」は雨冠の他字の可能性もある。「天皇」が君主号とすれば、木簡の年代観から天武天皇を指すとみられる。ただし、君主号とは無関係な道教的文言の可能性もある。
②『奈良文化財研究所学報第71冊 飛鳥池遺跡発掘調査報告 本文編〔Ⅰ〕─生産工房関係遺物─』奈良文化財研究所、2021年。


第3337話 2024/08/30

同時代エビデンスとしての

          「天皇」木簡 (2)

 飛鳥池遺跡から出土した「天皇」木簡について、改めて調査と勉強を続けています。奈良国立文化財研究所HPの「木簡庫」によれば、飛鳥池出土「天皇」木簡は次のように説明されています(注①)。

 〝「天皇」が君主号とすれば、木簡の年代観から天武天皇を指すとみられる。ただし、君主号とは無関係な道教的文言の可能性もある。〟

 「木簡の年代観から天武天皇を指す」とありますが、「天皇」木簡に年代を示す文言は見えませんので、天武天皇とする年代観の根拠がこの説明ではよくわかりません。そこで注目したのが同木簡の出土場所を示す遺構番号のSD1130です。この遺構SD1130とは、飛鳥池遺跡北地区から検出された「南北大溝」です。
ありがたいことに「木簡庫」のデータベース機能により、「天皇」木簡と同じSD1130遺構から出土した調査登録済の木簡をただちに検索することができます。遺構番号の「SD1130」をクリックするだけで512点の木簡がヒットします。すなわち、同遺構から出土した木簡の内、512点の木簡が「木簡庫」に登録されているわけです。削屑を加えれば、出土数はもっと多いはずです。
当該調査報告書(注②)には、同遺構SD1130(南北大溝)について、次の解説があります。

「南北大溝SD1130(PL.111〜117・119〜127・129・130)
本溝は第84・93次調査で検出した素掘りの南北大溝。谷状の地形を埋め立て、南北溝SD1110、そのすぐ西側に並行する南北塀SA1120・1121、木樋SX1114などの造成前に設けられていた排水施設で、東西幅約9m、深さ0.6m。腐植土層や炭層をはさみながら埋没する。木簡は、第84次調査区から3307点(うち削屑2878点)、第93次調査区から10点(うち削屑2点)の計3317点(うち削屑2880点)が出土した。飛鳥池遺跡で最高の出土点数を誇る。木簡が特に集中したのは、北地区と南地区を遮る堰SX1199から北へ15〜30mの間である。このほか、付札状木製品が第84次調査区より14点出土している。」

 SD1130は「素掘りの南北大溝」「排水施設」とあり、この大溝は飛鳥池遺跡の排水溝だったことがわかります。「天皇」木簡は他の多数の木簡とともにそこから出土したわけです。それでは、次に「木簡庫」でヒットした512点の木簡について、代表的なものを紹介します。(つづく)

(注)
①「木簡庫」の「天皇」木簡の解説
【本文】天皇聚□〔露ヵ〕弘寅□\○□
【寸法(mm)】縦(118) 横(19) 厚さ(3)
【遺跡名】飛鳥池遺跡北地区
【所在地】奈良県高市郡明日香村大字飛鳥
【発掘次数】飛鳥藤原第84次
【遺構番号】SD1130
【地区名】5BASNL36
【内容分類】文書
【人名】天皇
【木簡説明】上端・左辺削り、下端折れ、右辺割れ。上端は左角を削り落とし、裏側を面取りする。「天皇、露ヲ聚メ、寅ヲ弘メ…」と訓読できるが、文意は不詳。「露」は雨冠の他字の可能性もある。「天皇」が君主号とすれば、木簡の年代観から天武天皇を指すとみられる。ただし、君主号とは無関係な道教的文言の可能性もある。
②『奈良文化財研究所学報第71冊 飛鳥池遺跡発掘調査報告 本文編〔Ⅰ〕─生産工房関係遺物─』奈良文化財研究所、2021年。


第3336話 2024/08/30

同時代エビデンスとしての

        「天皇」木簡 (1)

 「九州王朝研究のエビデンス」というテーマで、多元的古代研究会のリモート研究会(金曜日10:00~)や「古田史学リモート勉強会」(毎月第二土曜日19:00~)で発表を続けています。

 古田学派の論者により諸説が発表されていますが、わたしの見るところ、ややもすれば自説に不都合なエビデンスを軽視したり(エビデンスの存在そのものをご存じないこともあるかもしれませんが)、『日本書紀』の記述を「わたしはこう解釈する」という解釈論争に終始するケースがありますが、史料根拠(エビデンス)に基づき、意見が異なる他者を説得する、あるいは自説を見直すということが必要です。わたし自身も再考すべき点が少なくありません。そのような問題意識もあって、再勉強を兼ねて「九州王朝研究のエビデンス」の史料整理と発表を続けています。現在まで次のテーマを発表しました。

(1) 造営尺の変遷と九州年号「白雉」
(2) 七世紀の須恵器編年
(3) 木簡
(4) 九州年号

 多くの質問や問題点の指摘を受けて、内容に修正や追記・改良を加えています。なかでも、飛鳥池遺跡から出土した「天皇」木簡の解釈や位置づけについて説明が不十分だったようで、改めて調査と勉強をやり直しています。この「天皇」木簡がどのようなエビデンスであり、どのような位置づけの木簡であるのかについて、再勉強の結果を詳述します。

 奈良国立文化財研究所HPの「木簡庫」によれば、飛鳥池出土「天皇」木簡は次のように説明されています。(つづく)

【本文】天皇聚□〔露ヵ〕弘寅□\○□
【寸法(mm)】縦(118) 横(19) 厚さ(3)
【遺跡名】飛鳥池遺跡北地区
【所在地】奈良県高市郡明日香村大字飛鳥
【発掘次数】飛鳥藤原第84次
【遺構番号】SD1130
【地区名】5BASNL36
【内容分類】文書
【人名】天皇
【木簡説明】上端・左辺削り、下端折れ、右辺割れ。上端は左角を削り落とし、裏側を面取りする。「天皇、露ヲ聚メ、寅ヲ弘メ…」と訓読できるが、文意は不詳。「露」は雨冠の他字の可能性もある。「天皇」が君主号とすれば、木簡の年代観から天武天皇を指すとみられる。ただし、君主号とは無関係な道教的文言の可能性もある。


第3177話 2023/12/11

律令に遺る多元的「天皇」号 (2)

 今日は、娘の仕事の日程調整ができたので、定年退職して初めての家族旅行です。城崎温泉に向かう特急きのさき5号の車中でこの「洛中洛外日記」を書いています。

 王朝交代(701年)前の七世紀において、九州王朝の天子の下に複数の「天皇」が併存したと考えた理由は、『日本書紀』に見えない天皇名(◎印)を含む次の「天皇」号史料の存在でした。

○用明~推古期(「歳次丙午年」586年) 「池邊大宮治天下天皇」「大王天皇」「小治田大宮治天下大王天皇」 法隆寺薬師如来像光背銘(注①。七世紀第4四半期頃の刻字か)
「大王天皇」という古い表現(大王)を持つ表記から、原文の成立は七世紀前半まで遡るものと思われる。

○敏達天皇(572~585年)「乎娑陀宮治天下天皇」 船王後墓誌(注②。戊辰年、668年成立)
墓誌の成立が七世紀第3四半期であり、当時、近畿天皇家は「天皇」号を九州王朝から許されていたことがわかる。

○推古天皇(592~628年)「等由羅宮治天下天皇」 船王後墓誌(同上)
同上。

○舒明天皇(629~641年)「阿須迦宮治天下天皇」「阿須迦天皇」 船王後墓誌(同上)
同上。

◎650・651年 「越智天皇」 『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平十九年・747年成立) ※『日本書紀』に見えない。
「一帳像具脇侍菩薩八部等卅六像 右袁智天皇坐難波宮而、庚戌年(650)冬十月始、辛亥年(651)春三月造畢、即請者」とあり、「越智天皇」は、652年(壬子)に完成した前期難波宮造営に関わった有力者と思われる。『伊予三島縁起』に「孝徳天皇のとき番匠の初め。常色二年戊申(六四八)、日本国をご巡礼したまう。」という記事があり、伊予国(越智氏の本拠地)から、九州年号の常色二年(684)に難波に番匠(王宮などの造営技術者)を派遣したのが「袁智天皇」ではあるまいか。また、前期難波宮跡から「戊申年」木簡が出土しており、この記事の「常色二年戊申」と関係があるのではないかとする正木裕氏の指摘がある。(注③)

◎661年 「仲天皇」 『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(同上) ※『日本書紀』に見えない。
同縁起の次の記事に「仲天皇」が見える。
「爾時後岡基宮御宇 天皇造此寺、司阿倍倉橋麻呂、穗積百足二人任賜、以後、天皇行幸筑志朝倉宮、將崩賜時、甚痛憂勅〔久〕、此寺授誰參來〔久〕、先帝待問賜者、如何答申〔止〕憂賜〔支〕、爾時近江宮御宇 天皇奏〔久〕、開〔伊〕髻墨刺〔乎〕刺、肩負鋸、腰刺斧奉爲奏〔支〕、仲天皇奏〔久〕、妾〔毛〕我妋等、炊女而奉造〔止〕奏〔支〕、爾時手拍慶賜而崩賜之」 ※〔〕内は小字。

 ここに見える「後岡基宮御宇天皇」は斉明、「近江宮御宇天皇」は天智とされる。「仲天皇」は自らを「妾」と称していることから、天智の皇后倭姫王とする説を喜田貞吉は唱えている。

 『養老律令』儀制令皇后条に「皇后・皇太子以下、率土の内は、天皇・太上天皇に上表するときには、臣妾名称すること(「臣」ないし「妾」と自称し、続けて自分の名を言う)。対揚(対面して称揚)するときには、名称すること。皇后・皇太子は太皇太后・皇太后に対して、率土の内は三后・皇太子に対して、上啓するときには、殿下と称すること。自称するときには、みな臣妾とすること。」とある。

◎666年 「中宮天皇」 野中寺彌勒菩薩像台座銘(注④) ※『日本書紀』に見えない。
「丙寅年四月大朔八日癸卯開記 栢寺智識之等 詣中宮天皇~」の文字が見える。年代や名前から判断して、先の「仲天皇」と「中宮天衲」は同一人物の可能性がある。

○天武期 「天皇」木簡 飛鳥池遺跡(天武期の層位)出土
同遺跡から天武の子ら「大津皇子」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(大伯皇女)木簡も出土しており、この「天皇」は天武と解するのが妥当。

○697年 「大八島国所知天皇」「遠天皇祖御世」「天皇御子」「倭根子天皇命」「天皇大命」「天皇朝廷」 『続日本紀』文武天皇即位の宣命

 これら七世紀の「天皇」号史料によれば、近畿天皇家に限らず、天子の臣下としての「天皇」号を称することを九州王朝(倭国)は制度として採用していたのではないかとする仮説(多元的「天皇」の併存)に至ったのです。(つづく)

(注)
①法隆寺薬師如来像光背銘文。
「池邊大宮治天下天皇。大御身。勞賜時。歳
次丙午年。召於大王天皇與太子而誓願賜我大
御病太平欲坐故。将造寺薬師像作仕奉詔。然
當時。崩賜造不堪。小治田大宮治天下大王天
皇及東宮聖王。大命受賜而歳次丁卯年仕奉」
②船王後墓誌銘文。
(表) 「惟船氏故 王後首者是船氏中租 王智仁首児 那沛故 首之子也生於乎婆陁宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮治天下 天皇之朝天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第」
(裏) 「三殞亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故 戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自 同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊其牢固永劫之寶地也」
③正木裕「前期難波宮の造営準備について」『発見された倭京 太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集)、2018年。
④野中寺彌勒菩薩像台座銘文(異説あり)。
「丙寅年四月大朔八日癸卯開記 栢寺智識之等 詣中宮天皇大御身労坐之時 誓願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等 此教可相之也」


第2977話 2023/03/30

『大安寺伽藍縁起』の

  「小治田宮御宇太帝天皇」

 『大安寺伽藍縁起』(天平十九年・747年作成)に見える天皇名表記で、推古天皇だけが異質です。同縁起冒頭部分(注①)に推古を次のように記しています。

(a)小治田宮御宇太帝天皇 (b)太皇天皇 (c)天皇

 この中で(a)(b)が『日本書紀』には見えない異質の天皇名表記です。「太帝天皇」や「太皇天皇」のように同類の称号が二段になっている例は『古事記』『日本書紀』には見えない表記方法で、管見では古代の金石文や遺文には二人の人物に対して用いられています。推古天皇と九州王朝の天子、阿毎多利思北孤の二人です。後者は伊豫温湯碑に見える「法王大王」という表記です。前者の推古は当縁起の「太帝天皇」「太皇天皇」の他にもその用例が知られています。以下にそれら全てを列記します。

《阿毎多利思北孤・上宮法皇》
〔伊予温湯碑〕「法王大王」

《推古天皇》
〔大安寺伽藍縁起并流記資財帳〕「太帝天皇」「太皇天皇」
〔法隆寺薬師如来像光背銘〕「大王天皇」「小治田大宮治天下 大王天皇」
〔元興寺伽藍縁起并流記資財帳〕「大〃王天皇」
〔上宮聖徳法王帝説〕「大王天皇」「少治田大宮御宇 大王天皇」

 このように何故か近畿天皇家では推古天皇だけが二段称号表記が見られます。九州王朝の多利思北孤の場合は、出家した天子〝法王〟と倭王の通称〝大王〟を併記したものと理解できますが、近畿天皇家の場合、なぜ推古だけにこうした二段表記にされたのかが問題です。この疑問を解く鍵が他ならぬ『大安寺伽藍縁起』の田村皇子(後の舒明天皇)の発言中にあります。

「田村皇子奉命大悦、再拜自曰、唯命受賜而、奉爲遠皇祖并大王、及繼治天下天皇御世御世、不絶流傳此寺」

 ここに見える「遠皇祖并大王」と「繼治天下天皇御世御世」の意味するところは、遠い皇祖の時代に並ぶ古(いにしえ)の称号は「大王」であり、それを継いで天下を治めたのが「天皇」を称号とする歴代の先祖であると、同縁起編纂者あるいは元史料の作成者が認識していたことを示しています。ですから、推古の称号「大王天皇」は、「大王」を称していた推古が「天皇」号を採用することができた〝最初の近畿天皇家の大王〟であるとする認識、あるいは歴史事実の反映ではないでしょうか。もし、初代の神武から天皇を称していたと認識していたのであれば、「遠皇祖并治天下天皇御世御世」とでも記せばよく、遠皇祖と治天下天皇の間に大王の存在を記す必要はないのですから。

 この点、『古事記』『日本書紀』は初代の神武から天皇号表記を採用していますが、今回紹介した推古の二段称号問題は『日本書紀』などの〝神武から天皇を名のった〟という大義名分が史実ではないことを間接的に証言していたことになります。

 それでは近畿天皇家がいつから天皇号を採用したのかについて、本テーマの考察が正しければ、古田先生晩年の説(王朝交代後の文武から)よりも、旧説(推古から)の方が妥当ということになります(注②)。ちなみに近畿天皇家一元史観内では、飛鳥池出土「天皇」木簡などの実証を主な根拠とする〝天皇号は天武から〟が有力になりつつあるように感じています。

(注)
①『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』の冒頭部分は次の通り。
「大安寺三綱言上
伽藍縁起并流記資財帳
初飛鳥岡基宮御宇天皇《舒明》之未登極位、號曰田村皇子、
是時小治田宮御宇太帝天皇《推古》、召田村皇子、以遣飽浪葦墻宮、令問廐戸皇子之病、勅、病状如何、思欲事在耶、樂求事在耶、復命、蒙天皇之頼、無樂思事、唯臣〔伊〕羆凝村始在道場、仰願奉爲於古御世御世之帝皇、將來御世御世御宇帝皇、此道場〔乎〕欲成大寺營造、伏願此之一願、恐朝庭讓獻〔止〕奏〔支〕、
太皇天皇《推古》受賜已訖、又退三箇日間、皇子私參向飽浪、問御病状、於茲上宮皇子命謂田村皇子曰、愛哉善哉、汝姪男自來問吾病矣、爲吾思慶可奉財物、然財物易亡而不可永保、但三寶之法、不絶而可以永傳、故以羆凝寺付汝、宜承而可永傳三寶之法者、
田村皇子奉命大悦、再拜自曰、唯命受賜而、奉爲遠皇祖并大王、及繼治天下天皇御世御世、不絶流傳此寺、仍奉將妻子、以衣齋(裹)土營成而、永興三寶、皇祚無窮白、
後時天皇《推古》臨崩日之、召田村皇子遺詔、皇孫朕病篤矣、今汝登極位、授奉寶位、與上宮皇子讓朕羆凝寺、亦於汝〔毛〕授〔祁利〕、此寺後世流傳勅〔支〕、(以下略)」
『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』底本は竹内理三編『寧楽遺文』中巻、東京堂、1962年。《》内と段落分けは古賀による。
②古賀達也「七世紀の「天皇」号 ー新・旧古田説の比較検証ー」『多元』155号、2020年。


第2975話 2023/03/27

『大安寺伽藍縁起』の

  「飛鳥浄御原宮御宇天皇」

 『大安寺伽藍縁起』(天平十九年・747年作成)の正式名称は『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』と言い、冒頭に大安寺建立に関わる縁起が記され、その後に資財帳部分が続きます。資財帳部分には大安寺に奉納された仏具仏像などが、いつ誰から奉納されたのか列記されており、言わば大安寺の財産・不動産目録のようなものです。その資財帳部分を熟読したところ、ここにも興味深い記事がありましたので紹介します。それは天武天皇が〝壬申の乱〟の翌年(673年)に大安寺に奉納したとする下記の記事です(注①)。※()内の番号は、「洛中洛外日記」前話で付した番号。《》内は古賀による比定。

(26)漆佰戸
《天武》右、飛鳥淨御原宮御宇天皇、歳次癸酉(673)納賜者

(27)合論定出擧本稻參拾万束
在 遠江 駿河 伊豆 甲斐 相摸 常陸等國
《天武》右、飛鳥淨御原宮御宇天皇、歳次癸酉(673)納賜者

(28)合墾田地玖佰參拾貳町
在紀伊國海部郡木本郷佰漆拾町
四至〔東百姓宅并道 北山 西牧 南海〕
若狹國乎入郡嶋山佰町
四至〔四面海〕
伊勢國陸佰陸拾貳町
員辨郡宿野原伍佰町
開田卅町 未開田代四百七十町
四至〔東鴨社 南坂河 西山 北丹生河〕
三重郡宮原肆拾町
開十三町 未開田代廿七町
四至〔東賀保社 南峯河 北大河 西山限〕
奄藝郡城上原四十二町
開十五町 未開田代三十七町
四至〔東濱 南加和良社并百姓田 西同田 北濱道道之限〕
飯野郡中村野八十町
開三十町 未開田代五十町
四至〔東南大河 西横河 北百姓家并道〕
《天武》右、飛鳥淨御原宮御宇天皇、歳次癸酉(673)納賜者

 上記の記事が史実とすれば、〝壬申の乱〟に勝利した天武は関東・関西の広範囲を自らの支配下に置いたことになります。具体的には、「遠江・駿河・伊豆・甲斐・相摸・常陸」から「本稻參拾万束」(30万束)を大安寺に送り、「紀伊國」「若狹國」「伊勢國」の「墾田地、玖佰參拾貳町」(932町)を寄進していることから、少なくともそれらの国々を支配下に収めたと考えざるを得ません。なお、「紀伊國海部郡」「若狹國乎入郡」「伊勢國 員辨郡・三重郡・奄藝郡・飯野郡」とあるように、七世紀後半の行政単位「評」を縁起成立時(天平十九年・747年)の行政単位「郡」に書き変えています。

 この記事と対応するのが、飛鳥宮跡地域から出土した七世紀(評制期)の荷札木簡です(注②)。中でも墾田を寄進した「紀伊國」「若狹國」「伊勢國」からの荷札木簡が紀伊國(1点)、若狹國(5点)、伊勢國(6点)出土しており、資財帳の記事と整合しています。こうしたことから、同資財帳の「飛鳥浄御原宮御宇天皇」記事は信頼してもよいように思います。

 そうすると、天武は〝壬申の乱〟の勝利後に「飛鳥浄御原宮御宇天皇」と称するにふさわしい権力者になったと思われます。その実証的根拠として、飛鳥池出土の「天皇」木簡や「皇子」木簡(注③)、「詔」木簡の存在がクローズアップされるのです。(つづく)

(注)
①『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』底本は竹内理三編『寧楽遺文』中巻(東京堂、1962年9月)による。
②市大樹『飛鳥藤原木簡の研究』収録「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」にある国別木簡の点数。「飛鳥宮」とは飛鳥池遺跡・飛鳥京遺跡・石神遺跡・苑地遺構・他、「藤原宮(京)」とは藤原宮跡・藤原京跡のこと。
【飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡】
国 名 飛鳥宮 藤原宮(京) 計
山城国   1   1   2
大和国   0   1   1
河内国   0   4   4
摂津国   0   1   1
伊賀国   1   0   1
伊勢国   6   1   8
志摩国   1   1   2
尾張国   9   8  17
参河国  20   3  23
遠江国   1   2   3
駿河国   1   2   3
伊豆国   2   0   2
武蔵国   3   2   5
安房国   0   1   1
下総国   0   1   1
近江国   8   1   9
美濃国  18   4  22
信濃国   0   1   1
上野国   2   3   5
下野国   1   2   3
若狭国   5  18  23
越前国   2   0   2
越中国   2   0   2
丹波国   5   2   7
丹後国   3   8  11
但馬国   0   2   2
因幡国   1   0   1
伯耆国   0   1   1
出雲国   0   4   4
隠岐国  11  21  32
播磨国   6   6  12
備前国   0   2   2
備中国   7   6  13
備後国   2   0   2
周防国   0   2   2
紀伊国   1   0   1
阿波国   1   2   3
讃岐国   2   1   3
伊予国   6   2   8
土佐国   1   0   1
不 明  98   7 105
合 計 227 123 350
③同遺跡の天武期の層位から、『日本書紀』に見える天武の子供たちの名前を記した「大津皇子」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」木簡が出土している。従って、同じく出土した「天皇」木簡は天武天皇のことと考えるのが妥当である。


第2924話 2023/01/22

多元史観から見た飛鳥池出土「富夲銭」

 「洛中洛外日記」2915話(2023/01/13)〝多元史観から見た古代貨幣「和同開珎」〟で紹介したように、『続日本紀』では和同開珎が大和朝廷(日本国)最初の貨幣と主張しています(注①)。ですから、七世紀以前の貨幣として出土が知られている無文銀銭と富夲銅銭(注②)は九州王朝(倭国)の貨幣と考えざるを得ません。
このことは史料事実に基づいた論理的帰結(論証)ですが、他方、出土事実を子細に見ますと、富夲銭の出土中心が飛鳥池遺跡であることが着目されます。同遺跡は、後の大和朝廷となる近畿天皇家の中枢領域ですから、当地を出土中心とする富夲銭を九州王朝貨幣と見る、先の論証結果とは整合していません。学問研究では、自説に最も不利な史料事実を真正面から受け止めることが大切ですので、この飛鳥池出土の富夲銭について考察を続けています。

フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」によれば、飛鳥池出土「富本銭」について次の解説(一部要約しました)があります。

 〝1999年(平成11年)1月、飛鳥池工房遺跡から33点の富本銭が発掘された。それ以前には5枚しか発掘されていなかった。33点のうち、「富本」の字を確認できるのが6点、「富」のみ確認できるのが6点、「本」のみ確認できるのが5点で、残りは小断片である。完成品に近いものには、鋳型や鋳棹、溶銅が流れ込む道筋である湯道や、鋳造時に銭の周囲にはみ出した鋳張りなどが残っている。

 富本銭が発掘された土層から、700年以前に建立された寺の瓦や、「丁亥年」(687年)と書かれた木簡が出土していること、『日本書紀』天武12年(683年)の記事に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」とあることなどから、奈良国立文化財研究所は、和同開珎よりも古く、683年に鋳造されたものである可能性が極めて高いと発表した。
その後の調査では、不良品やカス、鋳型、溶銅などが発見された。溶銅の量から、9000枚以上が鋳造されたと推定され、本格的な鋳造がされていたことが明らかになった。アンチモンの割合などが初期の和同開珎とほぼ同じことから、和同開珎のモデルになったと考えられる。〟

この解説で示された重要な事実は次の4点です。

(1) 七世紀頃の近畿天皇家の中枢領域(飛鳥宮遺跡の近傍)である飛鳥池工房遺跡から富夲銭が最多出土している。
(2) その出土層位は687~700年とされ、富夲銭鋳造が天武期末頃から持統期にかけてなされている。これは藤原宮(新益京)の造営期~完成期に相当する。
(3) 当遺跡での富夲銭鋳造推定量は9000枚とされており、この推定値が正しければ、富夲銭を貨幣として流通させることを意図していたと考えることができる。
(4) 富夲銭のアンチモン含有率が初期の和同開珎とほぼ同じである。

以上の出土事実と、そこから導き出される事象は次のようなものです。

(a) 七世紀第4四半期(恐らく680年代から)の飛鳥では、当地の権力者により本格的な貨幣(富夲銭)鋳造が進められていた。
(b) 富夲銭とその鋳造跡が出土した飛鳥池遺跡からは、「天皇」木簡とともに「大津皇子」「穂積皇子」「舎人皇子」「大伯皇子」「大友」など天武の子供達の名前を記した木簡が出土していることから、富夲銭鋳造は「天武天皇」とその「皇子」らにより主導されたと考えざるを得ない。
(c) 同時期に、律令による全国統治のための朝堂院様式の藤原宮(朝廷)と、その中央官僚群(約八千人。注③)の受け入れが可能な巨大条坊都市(新益京)の造営を飛鳥の近傍で進め、701年の王朝交代の準備を行っている。

 このような天武らによる〝国家的事業〟が七世紀の第4四半期、すなわち九州王朝(倭国)の時代に行われていることは、701年の王朝交代の実像に迫る上で重視すべき現象です。(つづく)

(注)
①新日本古典文学大系『続日本紀 一』(岩波書店、1989年)に次の記事が見え、「和同開珎」(銀銭・銅銭)のことと見られる。
「五月壬寅、始めて銀銭を行ふ。」元明天皇和銅元年条(708年)。
「(七月)丙辰、近江国をして銅銭を鋳(い)しむ。」同上。
「八月己巳、始めて銅銭を行ふ。」同上。
②「富本銭(ふほんせん)」と表記されることが多いが、銭文の字体は「富夲」「冨夲」である。七世紀当時の「夲」は、「本」の異体字として通用している。
③服部静尚「古代の都城 ―宮域に官僚約八千人―」『古田史学会報』136号、2016年10月。『発見された倭京 ―太宰府都城と官道―』(『古代に真実を求めて』21集)に収録。


第2357話 2021/01/24

市大樹著『飛鳥の木簡』

  の「天皇」「皇子」写真

 前話の〝『飛鳥宮跡出土木簡』で「皇子」検証〟で、〝同木簡を実見された市大樹さんら研究者の書籍や論文を根拠に、近畿天皇家の「皇子」木簡出土は疑えない〟と述べましたが、そのことについて詳しく説明します。

 市大樹(いち ひろき)さん(大阪大学教授)の名著『飛鳥の木簡』(注①)には巻頭のカラー写真に「天皇」「皇子」木簡が掲載されています。わたしはその写真などを見て、飛鳥遺跡(七世紀後半)からは「天皇」「皇子」木簡が出土しており、当時の近畿天皇家(天武・持統)が「天皇」を称していたと考えざるを得ず、その位置づけは九州王朝の天子の配下としての〝ナンバー2〟天皇であるとしました。これは古田旧説であり、先生が晩年に唱えられた〝近畿天皇家は八世紀の文武から天皇を称した。七世紀の木簡や金石文に見える「天皇」は全て九州王朝の天子の別称〟とする古田新説は成立困難としました(注②)。
『飛鳥の木簡』に掲載された写真の「天皇」「皇子」木簡(飛鳥池遺跡出土)釈文などが次のように紹介されています。

○「大伯皇子宮物 大伴□・・・□品併五十□」
〝冒頭の「大伯皇子(おおくのみこ)は、天武天皇と大田皇女との間に生まれた「大伯皇女」である。皇女だが「皇子」と記すのは、当時、天皇の子女は男女を問わず「ミコ」と呼ばれたことによる。(中略)
天武天皇の皇子の名前が書かれた木簡は、さらに二点ある。一点目は笠のある釘形の木製品で、軸部に「舎人皇子□」、その反対面に「百七十」とある。【口絵7】。(中略)もう一点が、両面に「穂積皇子(ほづみのみこ)」と記された木簡である。〟同書、121~122頁。

○「天皇聚□弘寅□」
〝(飛鳥池遺跡)北地区からは「天皇聚□弘寅□」と書かれた木簡も出土している。【口絵5】。現在、「天皇」と書かれた日本最古の木簡である。この「天皇」が君主号のそれなのか、道教的な文言にすぎないのか、何とも判断がつかない。もし君主号であれば、木簡の年代からみて、天武天皇を指す可能性が高い〟同書、146頁。

 『飛鳥の木簡』巻頭の口絵(カラー写真)を見ますと、「天皇」木簡は明晰に文字が見え、釈文の通りです。「大伯皇子」木簡は「大伯」の部分が不鮮明ですがなんとか読めます。恐らく赤外線写真ではもっとはっきりと読めるはずです。「舎人皇子」木簡は写真の文字が小さくて「舎人皇子□」は判断が困難です。その反対面の「百七十」はなんとか確認できます。

 そこで、奈良文化財研究所の木簡データベース掲載の「舎人皇子」木簡写真を拡大して見ると、「舎」「皇」は確認できました。反対面の「百七十」は明晰です。「穂積皇子」は「穂積」は確認できますが、「皇子」はそう言われればそう読めるというレベルでした。しかし、木簡調査の専門家が実物を見て、「穂積皇子」と判断していますから、赤外線写真などでも確認の上でのことと思われ、その判断を否定できる根拠(別の文字であるという痕跡)は見いだせません。

 以上のように、奈良文化財研究所や市さんによる飛鳥池出土の「天皇」「皇子」木簡の釈文は妥当なものと解さざるを得ません。九州王朝説への有利不利とは関係なく、飛鳥出土木簡は古田学派の研究者にとっても正面から取り組むべき対象です。古田史学・多元史観が正しければ、そこから新たな展開が見えてくるはずですから。

(注)
①市 大樹『飛鳥の木簡 ー古代史の新たな解明』中公新書 2012年。
②古賀達也「七世紀の『天皇』号 ―新・旧古田説の比較検証―」、『多元』155号、2020年1月。この拙稿で、古田旧説を支持する七世紀以前の次の史料に見える「天皇」を紹介した。その後、服部静尚氏より「法隆寺薬師仏光背銘」は後代追刻の疑いがあり、七世紀前半の銘文とはできないとする批判をいただいた。この点、留意したい。
○五九六年 元興寺塔露盤銘「天皇」(奈良市、『元興寺縁起』所載。今なし)
○六〇七年 法隆寺薬師仏光背銘「天皇」「大王天皇」(奈良県斑鳩町)
○六六六年 野中寺弥勒菩薩像台座銘「中宮天皇」(大阪府羽曳野市)
○六六八年 船王後墓誌「天皇」(大阪府柏原市出土)
○六七七年 小野毛人墓誌「天皇」(京都市出土)
○六八〇年 薬師寺東塔檫銘「天皇」(奈良市薬師寺)
○天武期 木簡「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」「大津皇」(奈良県明日香村飛鳥遺跡出土)
○六八六・六九八年 長谷寺千仏多宝塔銅板「天皇」(奈良県桜井市長谷寺)