邪馬台国一覧

第744話 2014/07/13

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(7)

 この「邪馬台国」畿内説は学説に非ずシリーズも一応今回で最後になりますが、『三国志』倭人伝に記された女王国(邪馬壹国)の所在地を考える上で、倭国の「文字文化」という視点を紹介したいと思います。
 倭人伝には次のような記事が見え、この時代既に倭国は文字による外交や政治を行っていたことがうかがえます。

 「文書・賜遣の物を伝送して女王に詣らしめ」
 「詔書して倭の女王に報じていわく、親魏倭王卑弥呼に制詔す。」
 「今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し」
 「銀印青綬を仮し」
 「詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔をもたらし」
 「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す。」
 「因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りてこれを告喩す。」
 「檄を以て壹与を告喩す。」

 以上のように倭人伝には繰り返し中国から「詔・詔書」が出され、「印綬」が下賜されたことが記され、それに対して倭国か らは「上表」文が出されていることがわかります。従って、弥生時代の倭国は詔書や印に記された文字を理解し、上表文を書くこともできたのです。おそらく日本列島内で最も早く文字(漢字)を受容し、外交・政治に利用していたことを疑えません。従って、日本列島内で弥生時代の遺跡や遺物から最も「文字」の痕跡 が出現する地域が女王国(邪馬壹国)の最有力候補と考えるのが、理性的・学問的態度であり、学問的仮説「学説」に値します。そうした地域はどこでしょう か。やはり、北部九州・糸島博多湾岸(筑前中域)なのです。
 筑前中域には次のような「文字」受容の痕跡である遺物が出土しています。

 志賀島の金印「漢委奴国王」(57年)
 室見川の銘版「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五」(125年)
 井原・平原出土の銘文を持つ漢式鏡多数

 これらに代表されるように、日本列島内の弥生遺跡中、最も濃厚な「文字」の痕跡を有すのは糸島博多湾岸(筑前中域)なのです。この地域を邪馬壹国に比定せずに、他のどこに文字による外交・政治を行った中心王国があったというのでしょうか。
 最後に、「邪馬台国」畿内説論者をはじめとする筑前中域説以外の考古学者へ発せられた古田先生の次の一文を紹介して、本シリーズを締めくくります。

 あの筑前中域の出土物、その質量ともの豊富さ、多様さは、日本列島の全弥生遺跡中、空前絶後だ。そして倭人伝に記述された「もの」と驚くほどピッタリ一致して齟齬をもたなかったのである。
  (中略)
 そうすればわたしは、その“信念の人”の前に、静かに次の言葉を呈しよう。“あなたのは、考古学という科学ではない。考古学という「神学」にすぎぬ”と。
 (古田武彦『ここに古代王朝ありき』朝日新聞社、86頁)


第743話 2014/07/12

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(6)

 今週は東京から埼玉・新潟・石川・福井をぐるっと出張しました。心配していた台風8号の影響もそれほど受けずに、無事、仕事を終えることができました。京都に戻り、今日は自宅でくつろいでいますが、京都は祇園祭の準備が町中で進められています。今年は山鉾巡行が二回行われます(「前祭」と「後祭」で巡行されます)。

 「邪馬台国」畿内説が学説の体をなしていないことは、これまでの説明でご理解いただけたものと思いますが、文献史学では 成立しない畿内説に対して、物(出土物・遺跡)を研究対象とする、ある意味では「理系」に近い考古学の分野では、どういうわけか畿内説論者が少なくありま せん。これは一体どういうことでしょうか。
 『三国志』倭人伝を基礎史料とする文献史学の結論として、畿内説は学説として成立しない場合でも、考古学的に畿内説が成立するケースが無いわけではありません。それは、倭人伝に記された倭国の文物の考古学的出土分布が畿内が中心となっていれば、畿内を倭国の中心とする理解は考古学的には成立します。この ケースに限り、考古学者が畿内説に立つのは理解できますが、考古学的事実はどうでしょうか。
 まず倭人伝に記された倭国の文物には次のようなものがあります。

(金属)「銅鏡百枚」「兵には矛・盾」「鉄鏃」
(シルク)「倭錦」「異文雑錦」

 遺物として残りやすい金属器として、中国から贈られた「銅鏡百枚」について、弥生時代の遺跡からの銅鏡の出土分布の中心 は糸島・博多湾岸です。「鉄鏃」を含む鉄器や製鉄遺構も弥生時代では北部九州が分布の中心です。畿内(奈良県)の弥生時代の遺跡からはこれらの金属器はほとんど出土が知られていません。シルクの出土も弥生時代の出土は北部九州が中心です。
 このように考古学的事実も畿内説は成立しないのです。「邪馬台国」論争の基礎史料である倭人伝の記述と考古学的出土事実が畿内説では一致しないのに、畿内説を支持する考古学者が少なくないという考古学界の状況は全く理解に苦しみます。物(遺物・遺跡)を研究対象とする考古学は、近畿天皇家一元史観(戦後 型皇国史観)ではなく、「自然科学」としての観測事実や出土事実にのみ忠実であるべきだと思うのですが、畿内説を支持しなければならない、何か特別な事情でもあるのでしょうか。わたしは、それを学問的態度とは思いません。(つづく)


第742話 2014/07/10

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(5)

 今朝は長岡から金沢・小松・福井へと向かっていますが、雨の影響で列車が遅れており、お客様との約束の時間に間に合うだろうかとひやひやしています。

 『三国志』倭人伝には行程記事・総里程記事以外にも女王国の所在地を推定できる記事があります。この記事も畿内説論者は知ってか知らずか、古田先生からの指摘があるにもかかわらず無視しています。こうした無視も学問的態度とは言い難いものです。
 倭人伝冒頭には畿内説を否定する記事がいきなり記されています。次の記事です。

 「倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。」

 倭人の国、倭国は帯方(ソウル付近とされる)の東南の大海の中にある島国であると記されています。中国人は倭国を島国と認識していたのですが、九州島は文字通り「山島」でぴったりですが、本州島はこの時代には島なのか半島なのかを認識されていた痕跡はありません。本州島を島と認識するためには津軽海峡の存在を知っていることが不可欠ですが、『三国志』の時代に中国人が津軽海峡を認識していた痕跡はないのです。
 従って、倭人伝冒頭のこの記事を素直に理解すれば、倭国の中心国である女王国(邪馬壹国)が九州島内にあったとされていることは明白です。ですから、倭人伝は冒頭から畿内説が成立しないことを示しているのです。畿内説論者は自説の成立を否定するこの記事の存在を、古田先生が指摘してきたにもかかわらず、 無視してきました。こうした態度も学問的とは言えません。ですから、「邪馬台国」畿内説が学説(学問的仮説・学問的態度)ではないことを、倭人伝冒頭の記事も指し示しているのです。(つづく)


第741話 2014/07/09

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(4)

 今日の新潟地方は大雨・雷・土砂崩れと難儀な出張になりました。各地で被害が出ているようで心配です。

 「邪馬台国」畿内説論者による、『三国志』倭人伝の行程記事の改竄(研究不正)について説明を続けてきましたが、彼らの 研究不正は他にもあります。それは自説にとって決定的に不利な記事(基礎データ)を無視(拒絶)するという研究不正です。この方法が許されると、たとえば 裁判などでは冤罪が続出することでしょう。学問としては絶対にとってはならない手法です。理系論文で自説を否定する実験データを故意に無視したり、隠したりしたら、これも即アウト、レッドカード(退場)ですが、日本古代史学界では集団で研究不正を黙認していますから、「古代史村」から追放される心配はなさそうです。
 倭人伝には行程記事以外にも女王国の所在地を示す総里程記事(距離情報)が明確に記されています。次の通りです。

 「郡より女王国に至る万二千余里」

 「郡」とは帯方郡(ソウル付近と考えられています)のこと、女王国は邪馬壹国のことですが、その距離が12000里余りとありますから、1里が何メートルかわかれば、単純計算で女王国の位置の検討がつきます。少なくとも、北部九州か奈良県のどちらであるかはわかります。 「古代中国の里」の研究によれば、倭人伝の「里」は漢代の約435mとする「長里」説と、周代の約77mとする「短里」説の二説があり、それ以外の有力説はありません。それでは倭人伝の記事(基礎データ)に基づいて単純計算してみましょう。

短里 77m×12000里=924000m=924km
長里 435m×12000里=5220000m=5220km

 短里の場合は北部九州(博多湾岸付近)となりますが、長里の場合は博多湾岸はおろか奈良県(畿内)もはるかに通り越し、 太平洋の彼方に女王国はあることになってしまいます。従いまして、倭人伝の総里程記事(基礎データ)に基づくのであれば、倭人伝は短里を採用しており、女王国の位置は北部九州(博多湾岸付近)と見なさざるを得ません。短里であろうと長里であろうと、間違っても奈良県(畿内)ではありません。
 この基礎データに基づく小学生でもできるかけ算が、少なくとも義務教育を終えたはずの畿内説論者にできないはずはありませんから、彼らは自説を否定する 基礎データ(12000余里)を無視・拒絶するという、非学問的な態度をとっていることは明白です。これは研究不正であり、「邪馬台国」畿内説が学説(学問的仮説・学問的態度)ではない証拠の一つなのです。(つづく)


第740話 2014/07/08

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(3)

 今朝は新幹線で東京に向かっています。午後、さいたま市で仕事をした後、夜は新潟県長岡市に入ります。週末まで出張が続きますので、帰りに大型の台風8号と遭遇しそうです。
 先日の四国講演では、能島(のしま)上陸・クルージングを楽しんだり、阿部誠一さん(古田史学の会・四国の新会長、今治市)の彫刻アトリエを見せていただいたりと貴重な体験をさせていただきました。瀬戸内海の海流の速さや、小島・岩礁の多さも瀬戸内海の特徴ですが、自分の目で見ることにより瀬戸内海航行が難しいことを実感しました。
 阿部さんのアトリエには多数のブロンズ像や塑像が所狭しと並べられており、芸術家の情熱とその作品の迫力に圧倒されました。少女像や裸婦像を得意とされておられ、高松市の公園にも阿部さんの作品が立てられているほどの著名な彫刻家です。今まで造った作品は500点以上とのことで、近年は古田史学の勉強や活動に時間がとられ、作品製作のペースが落ちたそうです。古田先生の銅像も造りたいので、先生の写真をたくさん撮っておいてほしいと頼まれました。

 「邪馬台国」畿内説論者が『三国志』倭人伝の原文(基礎データ)の文字を「南」から「東」に改竄(研究不正)していることを指摘しましたが、彼らはもう一つの改竄(研究不正)にも手を染めています。それはより悪質で本質的な改竄で、こともあろうに倭国の中心 である女王国の名称を原文の邪馬壹国から邪馬台国(邪馬臺国)にするというもので、理系の人間には信じられないような大胆な改竄(研究不正)です。今回は この研究不正の動機について解説します。
 既に述べましたように、邪馬壹国の位置を博多湾岸の東方向とするために、「南」を「東」に改竄しただけでは畿内説「成立」には不十分なので、畿内説論者は女王国の国名をヤマトにしたかったのです。実は改竄(研究不正)はこの国名改竄の方が先になされました。畿内説論者の研究不正の順序はおおよそ次のよう なものでした。

(1)倭国の中心国は古代より天皇家がいたヤマトでなければならない。(皇国史観という「信仰」による)
(2)ところが倭人伝には邪馬壹国とあり、ヤマトとは読めない。(「信仰」と史料事実が異なる)
(3)「壹」とあるのは誤りであり、「壹」の字に似た「臺(台)」が正しく、中国人が間違ったことにする。(証拠もなく古代中国人に責任転嫁する。「歴史冤罪」発生)
(4)「邪馬臺国」を正しいと、皆で決める。(集団による改竄容認・研究不正容認)
(5)しかしそれでも「邪馬臺国」ではヤマトとは読めない。(改竄・研究不正してもまだ畿内説は成立しない)
(6)「臺」は「タイ」と発音するが、同じタ行の「ト」と発音してもよいと、論証抜きで決める。
(7)「臺」を「ト」と読むことにするが、同じタ行の「タ」「チ」「ツ」「テ」とは、この場合読まないことにする。(これも論証抜きの断定)
(8)こうしてようやく「邪馬臺国」を「ヤマト国」と読むことに「成功」する。
(9)この「ヤマト国」は奈良県のヤマトのことと、論証抜きで決める。(自らの「信仰」に合うように断定する)

 これだけの非学問的な改竄や論証抜きの断定を繰り返した結果、「邪馬台国」畿内説という研究不正が「完成」したのです。ですから、畿内説は学説ではありません。学問的手続きを経たものではなく、研究不正の所産なのです。
 ここまでやったら、「毒を食らわば皿まで」で、先の「南」を「東」に改竄することぐらい平気です。しかも集団(古代史学界)でやっていますから、恐いものなしでした。ところが、「信仰」よりも歴史の真実を大切にする古田武彦という歴史学者の登場により、彼らの研究不正が白日の下にさらされたのです。(つづく)


第739話 2014/07/06

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(2)

 一昨日は愛知県一宮市で開催された繊維機械学会記念講演会で「機能性色素」を テーマに講演し、昨日は「古田史学の会・四国」主催の講演を行いました。テーマは「九州年号史料の出現と展望」で、その後の懇親会も含めて活発な質疑応答がなされました。「古田史学の会・四国」での講演はこれまで何回もさせていただきましたが、質問内容などが年毎に深く鋭いものになっており、「古田史学の 会・四国」が発展している様子を感じとれました。
 今日は合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、四国の会・事務局長)のご案内で能島(のしま)上陸・潮流クルージングに参加します。能島は村上水軍の拠点で、「海城」として唯一国の史跡に指定されています。今回、特別に能島上陸・潮流クルージングが企画されたとのことで、合田さんのおすすめもあり参加することにしました。

 さて、「邪馬台国」畿内説が「研究不正」の上で成り立っていることを「洛中洛外日記」738話で指摘しましたが、畿内説 論者が何故『三国志』倭人伝の「南、至る邪馬壹国。女王の都する所」という記事の「南」を「東」に、「壹」を「台(臺)」に改竄(研究不正)したのか、そ の「動機」について解説したいと思います。
 倭人伝には邪馬壹国の位置情報としていくつかの記述がありますが、行程記事の概要は朝鮮半島から対馬・壱岐・松浦半島・糸島平野・博多湾岸と進み、その南、邪馬壹国に至るとあります。したがって、どのように考えても邪馬壹国(女王国)は博多湾岸の南方向にあることは明確ですから、「南」を「東」に改竄しなければ、方角的に奈良県に邪馬壹国を比定することは不可能です。そこで、「南」を「東」とする改竄(研究不正)に走ったのです。
 しかし、それだけでは畿内説にとっては不十分です。というのも、改竄(研究不正)により、邪馬壹国を博多湾岸よりも「東」方向にできても、それだけでは 四国や本州島全域が対象地域となってしまい、「畿内」(奈良県)に限定することはできないからです。そこで、畿内説論者はもう一つの改竄(研究不正)を強 行しました。(つづく)


第738話 2014/07/05

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(1)

 今日は早朝の新幹線と特急を乗り継いでで松山市へ向かっています。「古田史学の会・四国」主催の講演会で講演するためです。移動時間を利用して、前々から書きたかったテーマ、「『邪馬台国』畿内説は学説に非ず」の執筆を始めたいと思います。

 世にいう「邪馬台国」論争は、古田先生の邪馬壹国博多湾岸説の登場により、学問的には決着がついているはずですが、マスコミや一元史観の学者・研究者では、あいもかわらず「邪馬台国」論争が続けられています。中でも困ったものが「邪馬台国」畿内説という非学問的な「臆説」「珍説」です。そもそも畿内説というものが学問的仮説、すなわち「学説」と言うに値するでしょうか。わたしは畿内説は学説ではないと考えていますが、なぜ学説ではないかということを「洛中洛外日記」で数回に分けて説明することにします。
 たとえば理系の新発見や研究について、新たな仮説を発表する場合、実験データや観測データ、測定データ等の提示が不可欠です。さらにそれらの再現性を担保するために、実験方法や測定・分析方法も開示します。
 企業研究の場合は、それらデータも含めて「発見・発明」そのものを隠します。そもそも企業が自らの経営資源(ヒト・モノ・カネ)を投入して得た新知見を発表(無償で教える)して公知にすることは普通しません(特許出願は例外)。
 しかし、学者や研究者は人類の幸福や社会の発展のために自らの発見や仮説・アイデアを公知(論文発表など)にします。そしてその仮説が他の研究者による追試や利用(コピペもOKです。理系論文には著作権が発生しません)されながら、広く公知となり、真理であればやがて安定した学説として認められます。
 その際、各種データの改竄や捏造は「研究不正」としてやがては明らかとなり、そのような学者・研究者は省みられなくなり学界から淘汰されます。意図的な改竄や捏造ではなく、単純ミスやデータの取り違えは、残念ながら完全には無くなりませんので、その場合は訂正するか、訂正により仮説そのものが成立しなくなった場合は仮説が撤回されます。悪意のないミスであれば、信頼感は揺らぎますが、学界はそのこと自体をそれほど神経質にとがめることはありませんでし た。それよりも、少々不完全・未熟であっても様々な仮説やアイデアを自由に発表しあえる環境のほうが科学の発展にプラスと受け止められてきたものです。で すから、学生や若い研究者の不慣れで未熟な発表でも、温かい目で許容し、ほめたり、励ましたり、助言を与えたりしたものです。こうした研究環境の中で、若 い研究者は成長し、荒削りだけども若さゆえの既成概念にとらわれない画期的な仮説が発表され、そうした青年からの刺激を受けて科学は発展してきたのです。ノーベル賞受賞研究の多くが20代30代の頃の研究成果であることも、このこと裏付けています。
 ところが、近年では学者や研究者が「お金」や自らの「出世」「地位」のために研究するという変な時代になってしまいましたので、「お金」「出世」「地位」に目がくらんで、研究不正(悪意のある意図的なデータ改竄・捏造)を行うケースが発生するようになりました。その結果、科学や研究は大きく傷つきまし た。それに追い打ちをかけたのがマスコミによる無分別なバッシング報道です。悪意のない単純ミスまでもを「研究不正」としてバッシングし始めたのです。小保方さんはその犠牲者だと、わたしは思います。先日も、ある化学系学会の集まりでご年輩の化学者(その分野では日本を代表する方。わたしは若い頃、その方が書いた本や論文で有機合成化学を学びました)が、「あんなにマスコミや理研がバッシングしたら、若い研究者が育たない。才能を潰してしまう」と嘆いておられました。わたしも同感です。
 それでは「邪馬台国」論争のような文献史学ではどうでしょうか。『三国志』倭人伝を基礎史料(データ)として仮説や論理を組み立て、その優劣を競うわけですが、その場合でも学問としては理系と同様ですから、必要にして十分な調査・証明なしでの史料(データ)の意図的な改竄・捏造は許されません。結論その ものに影響する改竄などもってのほかです。このことは容易にご理解いただけることでしょう。
 ところが、「邪馬台国」畿内説はこのデータの改竄を平然と行い、しかも結論(女王国の所在地)そのものに影響をあたえる改竄を行っています。たとえば、 倭人伝には「南、邪馬壹国に至る」とあるのを「東、邪馬台国に至る」というように、「南」を「東」に、「壹」を「台(臺)」に改竄し、「邪馬台国」なるものをでっち上げ、方向を南ではなく東として、むりやりに「邪馬台国」畿内説を提起しているのです。もし、これと同じことを理系の研究論文で行ったら、即アウト、レッドカード(退場)です。それ以前に、論文掲載を拒否されるでしょう。ところが、一元史観の日本古代史学界は「集団」でこの研究不正を行い、「集団」でこの研究不正を容認しているのです。この一点だけでも、「邪馬台国」畿内説は研究不正の所産であり、学説(学問的仮説・学問的態度)に値しないことは明白です。マスコミがなぜこの研究不正をバッシングしないのか「不思議」ですね。(つづく)


第730話 2014/06/18

シルクの国、邪馬壹国

 今日は新幹線「つばめ」で東京から山形市に向かっています。車中においてある無料の雑誌「トランヴェール」6月号の特集記事は「山形発! Japanese Silk 新時代」というもので、山形県各地の養蚕業や絹織物の歴史や新商品について解説されていました。

 「江戸中期、藩の財政再建策として始めた置賜地方。
  紅花を京へ送り、紅花染の絹織物を得ていた村山地方。
  廃藩置県で失業した旧藩士の救済から出発した庄内地方。
  山形の絹産業の歴史を地域の特徴と共にひもとく。」

 というリード文で始まる解説は、とても勉強になりました。わたしも色素・染料メーカーのケミストですので、シルクの古代染色技法の復元研究など思い出深い経験があります。機会があれば紹介していきたいと思います。
 いわゆる「邪馬台国」論争で畿内説というものがありますが、実は畿内説は学問的仮説、すなわち「学説」としての体をなしていません。せいぜい珍説か臆説に過ぎないのです。何故なら、文献史学における学説や仮説として成立する上での必須条件である史料根拠が畿内説にはないからです。『三国志』倭人伝のどこをどう読んでも畿内説の史料根拠といえる記事はありません。あるのなら指摘してみてください。
 もし原文にある邪馬壹国と畿内「大和」の最初の二音が「やま」で共通するということが史料根拠と言うのなら、山形市の「やま」を「根拠」にした「邪馬台国」山形説のほうがよっぽど畿内説よりも合理的です。このことは別の機会に詳論しますが、倭人伝には邪馬壹国を畿内と特定できる根拠、たとえば位置(方角や距離による地域特定)、たとえば文物(考古学的出土物による地域特定)など皆無です。ですから畿内説論者は倭人伝の原文を都合のいいように改訂しまくって(文献史学の「禁じ手」である史料改竄を行って「史料根拠」にするという)、珍論・奇論をくりかえしているのです。
 倭人伝に見える倭国や邪馬壹国の象徴的文物にシルク(絹)があります。倭人伝には「蚕桑絹績」という記事があり、「倭錦」「異文雑錦」など「錦」と記されているのがシルクの織物ですが、弥生時代の遺跡からシルクが出土するのは博多湾岸を中心に吉野ヶ里遺跡を含む北部九州で、畿内の弥生時代の遺跡からは出土が知られていません。この一点だけでも、「邪馬台国」畿内説など成立しようがないのです。
 考古学が学問であり、倭人伝研究の文献史学が学問であるのならば、倭国の中心地、邪馬壹国の候補地は博多湾岸しかありえません。畿内説など仮説としてさえも成立しません。従って、「邪馬台国」畿内説などをまじめに唱えている論者は、いくら「学問の自由」とは言え、全く学問的でなければ、「学者」とよぶことさえもはばかれると言わざるを得ません。この問題、「畿内説は学説ではない」ということについて、これからも引き続き論じます。


第724話 2014/06/11

「歴史秘話ヒストリア」の中の古田先生

 「洛中洛外日記」720話や721話において、NHK「歴史秘話ヒストリア」での「邪馬台国」纒向遷都説やNHKの放送姿勢を批判しましたが、同番組に古田先生がちらっと登場されたことに気づかれたでしょうか。
 番組冒頭で「邪馬台国」所在地論争に九州説と機内説があると紹介し、それぞれの論者と思われる人物写真が瞬間でしたが一斉に掲載されました。その九州説論者と思われる写真の一枚に古田先生そっくりの写真があったのです。しかし短時間でしたのでしっかりと確認できませんでした。出張先から帰宅したら、水野代表から同番組の再放送が10日の午前0時代にあるとメールが来ていましたので、水野さんらに電話で古田先生の写真が出たように思うが、間違いないか確認しました。残念ながらどなたも気づかれていなかったので、自宅で再放送をビデオ収録し、今朝確認したところ、やはり古田先生でした。古田先生と面識がある 妻にも確認してもらったところ、間違いないとのこと。見るところ、先生50歳頃の写真と思われました。他にも森浩一さんや松本清張さんの写真も見え、いずれも若い頃の写真でしたから、NHKの意図的な写真選択と思われました。
 ということは同番組を制作したNHKスタッフは古田先生や古田説を知っていたことは確かです。とすれば、倭人伝には「邪馬台国」などという国名記事はな く、原文は「邪馬壹国」(やまいちこく)であることも知っているはずです。従って、NHKは知っていながら史料事実とは異なる虚偽説に基づいて番組を制作し放送したことは明白です。これは明らかに「放送法」第4条に違反しています。同4条は次の通りです。

放送法
(国内放送等の放送番組の編集等)
第四条  放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一  公安及び善良な風俗を害しないこと。
二  政治的に公平であること。
三  報道は事実をまげないですること。
四  意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

 今回のNHKの「歴史秘話ヒストリア」は第四条三項と四項に違反しています。『三国志』倭人伝には「邪馬壹国」(やまいちこく)とある史料事実をまげて、「邪馬台国」と表記したり「ヤマタイコク」とナレーションしました。これは三項違反です。
 古田先生の写真まで掲載しながら、原文通り「邪馬壹国」が正しいとする有名な古田説があるにもかかわらず、「なかった」ことにして番組では一切触れられませんでした。これは四項に違反しています。
 それにしてもNHKは御用学者(福島原発は安全に停止説。健康に影響ない説)や虚偽説(ヤマタイコク説)が大好きな放送局のようです。みなさんもこれからNHKの番組や報道ニュースを見るときは、放送法第四条を意識して見られてはいかがでしょうか。


第721話 2014/06/07

NHK「歴史秘話ヒストリア」のウラ読み

「洛中洛外日記」720話でNHK「歴史秘話ヒストリア」の放送倫理について指摘し、その最後に「それでもわたしはNHKに良心的な社員がいることを、真実を放送・報道することを願っています。」と記しました。
 卑弥呼は伊都国から纒向に「遷都」したという学問的に荒唐無稽な珍説に基づいた番組でしたが、もしかするとNHKの番組関係者に真実を伝えたいと密かに願う良心的な人がいて、番組の中に真実の痕跡を残したのかもしれないと、そんなウラ読みをしています。そう思った理由は次のことからですが、深読みしすぎでしょうか。
 まず思ったのが、弥生遺跡の中で最大級の豪華な出土物を持つ糸島の平原王墓が紹介されたことです。あの圧倒的な出土物(内行花文鏡・翡翠・水晶・他)を見た人に、纒向遺跡の「桃の種」よりも強烈な印象を与えることは明白ですから、番組の「編集意図」を越えて、倭国の中心地は北部九州であるというメッセージとなっています。
 次に、ナレーションでは「ヤマタイ国」と説明される一方、『三国志』倭人伝の画像では「邪馬壹国(やまいち国)」と記された部分をマーキングして紹介されており、見る人には「ヤマタイ国」ではなく「やまいち国」が真実(史料事実)であることがわかるようになっていました。もし、 このウラ読みが当たっていれば、この番組関係者は古田説を知っていたことになります。
 こうした表向きの編集意図とは異なり、真実を密かに伝え、後世に残そうとする試みは様々な分野で、いろんな時代で行われてきました。一例をご紹介します。
 『三国史記』新羅本記第五(1145年成立)の「真徳王(即位647~654)」の記事です。唐に赴いた新羅の使者に対して唐の天子太宗から「新羅はわが朝廷に臣事する国であるのに、どうして別の年号を称えるのか」と叱責されます。そして、『三国史記』の編者は「論じていう」として次のような解説を加え ています。

「偏地の小国にして天子の国に臣属する国は、もともと私に年号をつくることはできないものである。もし、新羅が誠心誠意をもって中国に仕えて、入朝と朝貢の道を望みながらも、法興王がみずから年号を称したのは惑いだというべきである。(中略)これはたとえ、やむを得ずしたことであったとはいえ、そもそも、あやまちというべきで、よく改めたものである。」『三国史記』林英樹訳(三一書房、1974年刊)

 『三国史記』新羅本記には法興王による年号の制定(「建元」元年、536年)以来、真徳王まで改元を続けたのですが、12世紀の高麗の知識人である編者たちは朝鮮半島の国が年号を持ったことを隠さず記したものの、中国の目をはばかって、それは過ちであり、よく改めたとしています。すなわち、中国の属国としての高麗の公的立場を表面的には守りつつ、その実、新羅が年号を持ったという歴史事実だけは書き残したのです。小国の歴史官僚の意地とプライドがそうさせたのではないでしょうか。
 このように、権力者(上司)の意向に表向きは従いつつ、メディアにかかわる人間としての良心とプライドにより、ぎりぎりのところで平原王墓の考古学的出土事実と「邪馬壹国」という史料事実を番組の中に潜り込ませたのではないか、そのようにウラ読みしたのですが、はたして当たっているでしょうか。


第698話 2014/04/23

「梅花香る邪馬壹国の旅」

 松浦秀人さん(古田史学の会・四国)から素敵な写真付きの旅行記が送られてきました。「古田史学の会・四国」福岡旅行(2/28~3/03)の記録です。本ホームページに「史跡探訪と講演会参加 梅花香る邪馬壹国の旅」として掲載していますので、是非ご覧ください。

 古田先生の福岡講演や宮地嶽神社神官による筑紫舞を中心に、水城・大宰府政庁跡・太宰府天満宮・観世音寺・宮地嶽神社や九州国立博物館、九州歴史資料館、古賀市立歴史資料館訪問の写真などが掲載されています。中でも、古賀市立歴史資料館で、「邪馬台国」の「台」の字が「壹」の字に貼り替えられた展示を「発見」されたことは感動的でした。同資料館の判断で、『三国志』原文を改訂した従来説(邪馬台国)を否定し、『三国志』原文の「邪馬壹国」が正しいとする古田説を採用した痕跡だからです。さすがは「九州王朝」のお膝元だけあって、古田史学・多元史観は公的な資料館でも着々と受け入れられていることが わかります。

 古田史学・多元史観の夜明けは、わたしたち古田学派が思っているよりも早いのかもしれません。全国の古田ファンのみなさん、「古田史学の会」会員のみなさん、古田学派研究者のみなさん、志と力をあわせて前進しましょう。わたしたち「古田史学の会」はその先頭に立つ決意です。


第666話 2014/02/23

ミネルヴァ書房を訪問

 昨日は山科区にあるミネルヴァ書房を、出野正さん(古田史学の会・会員、奈良市)張莉さんご夫妻と訪問しました。わたしにとっても初めてのミネルヴァ書房訪問でしたが、出野さん張莉さんによる中国雲南省シーサンパンナのアカ(倭)族の現地調査研究の出版について、編集部の田引さんと相談しました。
 帰りに、できたばかりの古田先生の『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』(復刻版)をお土産として田引さんからいただきました。この本は学問の方法について、邪馬壹国説や九州王朝の風土記などを題材にわかりやすくまとめられており、皆さんにも是非読んでいただきたい一冊です。新たに書き下ろされた「日本の生きた歴史(18)」には「論証と実証」というテーマで、古田史学の神髄ともいえる学問の方法について説明されており、貴重です。
 今回読み直してみて、改めて考えさせられた問題として、第一章「さらば『邪馬台国』よ」(11ページ)の次のような学問の方法に関することでした。古田先生が『三国志』の「壹」と「臺」の全数調査を行われ、両者は書き分けられており、誤って使われている例はないと証明されたことに対し、尾崎雄二郎さんが、王沈の『魏書』に「壹衍(革是)」(イチエンタイ)とあるのが、『漢書』では「壷衍(革是)」(コエンタイ)であるとして、中国史書にも文字の誤りがあるから、『三国志』の「邪馬壹国」は「邪馬臺国」の誤りと古田説を批判されました。
 それに対して、古田先生は次のように反論されています。

 「尾崎さんは“中国の史書にもあやまりがある”という例として使われたんだけど、わたしとしては、そんな一般論は何も主張してはいない。『三国志』という特定の書物の、「壹」と「臺」という特定の二文字間の錯誤いかん、それだけを問題にしているのだ。」
 「中国の本や史書全体の無謬論などとも無縁だ」

 このように、論証の対象を具体的に特定していることに対して、一般論にすり変えて反論するという「論法」を古田先生は批判されているのですが、こうした論証の対象という学問の方法の厳密性を理解されていない例が少なくありません。
 たとえば、古谷弘美さんにより『古事記』真福寺本では「天沼矛」でも「天沼弟」でもなく、「天治弟」であると、真福寺本の「沼」と「治」の字形の全数調査により指摘されたことに対して、現代の「古文書字典」類では「治」と「沼」が同字体の例があるという「論法」での批判も、尾崎さんと同類の誤りといえます。真福寺本筆者の特定の字体という限定された検証に対して、その他大勢の字体を集めた現代の「古文書字典」類に掲載された字形という一般論にすり替えて 「批判」するということですから。
 この度、ミネルヴァ書房から復刻された『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』は、古田史学の学問の方法を正しく再確認するうえでも、時宜にかなった一冊と言えます。