近畿天皇家一覧

第3378話 2024/11/12

王朝交代前夜の天武天皇 (5)

 本シリーズの最後に、『日本書紀』天武紀に記された天武の和風諡号「天渟中原瀛真人天皇」(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)について考察します。

 『日本書紀』の成立は720年であり、厳密には天武天皇と全くの同時代の史料とは言えません。しかしながら、同諡号は天武天皇が崩御(686年)したときに遺族(天武の子ら)により付けられたものと考えられることから、「天渟中原瀛真人天皇」そのものは崩御時の史料に基づいて、天武の子や孫の世代により『日本書紀』に記されたものと考えざるを得ません。

 この天武の諡号で注目されるのが、「天皇」でありながら「真人」が付されていることです。天武紀によれば、真人とは、天武十三年(684)に制定した八色(やくさ)の姓(カバネ)の一つです。上位から順に、真人(マヒト)・朝臣(アソミ)・宿禰(スクネ)・忌寸(イミキ)・道師(ミチノシ)・臣(オミ)・連(ムラジ)・稲置(イナギ)とあり、八色の姓で臣下第一の「真人」姓が、崩御後に天武天皇の諡号に採用されているのです。この事実の持つ意味は重いと思います。

 この『日本書紀』天武紀の記述が正しければ、天皇が臣下に与える「八色の姓」を天武十三年(684)に制定し、その二年後に天武の子らは天武の諡号として「真人天皇」を選んだことになり、これは一元史観の通説では説明し難いことです。そのため、諡号の真人は道教思想の真人(しんじん)のことであり、八色の姓の真人(まひと)とは異なるとする理解も出されているようですが、これはかなり無茶な言いわけではないでしょうか。その言葉の淵源が「真人(まひと)」であろうが「真人(しんじん)」であろうが、天武紀に八色の姓制定記事を載せ、その臣下第一の「真人」を天武の諡号に採用したという事実にかわりはないからです。

 しかし、多元史観・九州王朝説に立てば、八色の姓を制定したのは九州王朝の天子であり、その第一の臣下である天武天皇に「真人」姓を与えたという理解が可能です。飛鳥出土の荷札木簡によれば、九州を除く列島諸国を統治していた天武天皇ですが、王朝交代前夜の時代では九州王朝の天子が倭国全体を「治天下」しているという大義名分がまだ成立していたものと思われます。その根拠の一つとして、七世紀第4四半期に九州年号が使用されていたという史料事実もあります(注)。

 以上、本シリーズで紹介した同時代エビデンスは、王朝交代前夜の九州王朝下のナンバーツーとしての天武天皇の姿に迫ることができたように思われます。これからも九州王朝研究を同時代のエビデンスベースで進めていきます。(おわり)

(注)「白鳳壬申(672年)骨蔵器」や「朱鳥三年戊子(688年)鬼室集斯墓碑」、「大化五子年土器(699年、骨蔵器)」などの同時代金石文が九州年号の存在を証明している。


第3377話 2024/11/10

王朝交代前夜の天武天皇 (4)

 飛鳥池出土「天皇」木簡の天皇は天武のことであり、木簡の年代は天武五〜七年(676~678)を含む数年間に収まるとする奈良文化財研究所による年代観には幅がありますし、天武が天皇を称し始めた年次そのものを特定できるわけでもありません。この点、もう少し年次を絞り込める七世紀の金石文があります。京都市左京区上高野から出土した小野毛人墓誌です。銘文には「飛鳥浄御原宮治天下天皇」「歳次丁丑年(677)」とあることから、遅くとも丁丑年(天武六年、677年)には天武が天皇を称したことを示す同時代金石文です。

【小野毛人墓誌銘文】
(表)飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上
(裏)小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬
【釈文】
飛鳥浄御原宮に天の下治す天皇の御朝で、太政官、兼刑部大卿、大錦上の位を任ぜられる。
小野毛人朝臣の墓を歳次丁丑年(677)十二月上旬に営造し、即ち葬る。

 この墓誌銘も〝天武八年(679)頃に天武にとっての画期があった〟とする仮説と矛盾しません。当時、天武天皇の下に「太政官」「刑部大卿」という官職があったことも示しており、貴重な金石文です。ここで問題となるのが、「治天下天皇」の「治天下」の範囲です。近畿天皇家にとって、「天下」が倭国全土を意味するのは王朝交代(701年)以降のことですから、天武期に天武天皇が「治天下」した範囲は、飛鳥出土の荷札木簡により推定することができます。

 「洛中洛外日記」(注①)でも紹介しましたが、飛鳥地域と藤原宮(京)地域からは約45,000点の木簡が出土しており、そのなかには350点ほどの評制時代(七世紀後半)の荷札木簡があり、飛鳥宮時代(天智・天武・持統)と藤原宮時代(持統・文武)の近畿天皇家の影響力が及んだ範囲(献上する諸国)を確認することができます。
市大樹さんの『飛鳥藤原木簡の研究』(注②)に収録されている「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」にある国別の木簡データを飛鳥宮地域と藤原宮(京)地域とに分けて点数を紹介します。ここでいう飛鳥宮地域とは飛鳥池遺跡・飛鳥京遺跡・石神遺跡・苑池遺構・他のことで、藤原宮(京)地域とは藤原宮跡と藤原京跡のことです。

【飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡】
国 名 飛鳥宮 藤原宮(京) 小計
山城国   1   1   2
大和国   0   1   1
河内国   0   4   4
摂津国   0   1   1
伊賀国   1   0   1
伊勢国   6   1   7
志摩国   1   1   2
尾張国   9   8  17
参河国  20   3  23
遠江国   1   2   3
駿河国   1   2   3
伊豆国   2   0   2
武蔵国   3   2   5
安房国   0   1   1
下総国   0   1   1
近江国   8   1   9
美濃国  18   4  22
信濃国   0   1   1
上野国   2   3   5
下野国   1   2   3
若狭国   5  18  23
越前国   2   0   2
越中国   2   0   2
丹波国   5   2   7
丹後国   3   8  11
但馬国   0   2   2
因幡国   1   0   1
伯耆国   0   1   1
出雲国   0   4   4
隠岐国  11  21  32
播磨国   6   6  12
備前国   0   2   2
備中国   7   6  13
備後国   2   0   2
周防国   0   2   2
紀伊国   1   0   1
阿波国   1   2   3
讃岐国   2   1   3
伊予国   6   2   8
土佐国   1   0   1
不 明  98   7 105
合 計 227 123 350

 七世紀の飛鳥・藤原出土荷札木簡の献上国に、九州諸国が見えないことにわたしは注目してきました。これは天武・持統期における近畿天皇家の統治領域に九州が含まれていないことを示唆しており、すなわち小野毛人墓誌の「治天下」には九州が含まれていないと考えることができます。

 この理解が正しければ、王朝交代前夜の日本列島には、九州を「治天下」していた九州王朝(倭国)の天子と、その他の領域を「治天下」していた近畿天皇家(日本国)の天皇とが〝併存〟していたことになります。もちろん、この場合でも年号(九州年号)を公布していたのは九州王朝であり、大義名分上は列島を「治天下」していた代表王朝は倭国(九州王朝)であったと考えられます。しかしながら、この時期の荷札木簡の献上国の範囲を比較する限り、実勢力は天武天皇ら近畿天皇家が上であったと考えざるを得ません(注③)。(つづく)

(注)
①「洛中洛外日記」2394話(2021/02/27)〝飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の国々〟
②市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』塙書房、2010年。
③本稿で論じた荷札木簡の献上国の分布事実は『旧唐書』日本国伝の記事「日本舊小國、併倭國之地」の歴史経緯の一端を示しているのではあるまいか。


第3376話 2024/11/09

王朝交代前夜の天武天皇 (3)

 当シリーズでは、天武八年(679)頃に天武にとっての画期(天皇号使用公認か。王朝交代は701年。:古賀試案)があったとする、エビデンスに基づく次の3件の調査研究を紹介しました。

(1) 飛鳥池出土「天皇」木簡の天皇は天武のことであり、その年代は天武五〜七年(676~678)を含む数年間に収まるとする奈良文化財研究所による年代観(注①)。
(2) 天武紀に見える「詔」の年次別出現数が天武八年(679)から目立って増加するという新保高之さんの調査結果(注②)。
(3)『日本書紀』『続日本紀』には、列島遠方地の災害が天武七年(678)から記録されており、この史料事実は、それよりも前は近畿天皇家は列島の代表者ではなかったことを示すとする都司嘉宣さんの研究(注③)。

 (1)は同時代史料の出土木簡を、(2)(3)は後代史料の『日本書紀』(720年成立)をエビデンスとして成立していますが、それぞれ異なる視点の調査研究でありながら、その結論は同じ方向へと収斂しており、これを偶然の一致とするよりも、史実を反映したものとするのが妥当と思われます。この理解を支持するもう一つのエビデンスを紹介します。それは飛鳥(飛鳥宮跡・飛鳥池遺跡・石神遺跡・苑池遺構・他)出土の荷札木簡群です。

 「洛中洛外日記」(注④)でも紹介しましたが、市大樹さんが作成した「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」(注⑤)によれば、七世紀(評制時代)の荷札木簡350点のうち、産品を献上した年次(干支)が記されたものが49点あります。年次順に並べました。次の通りです。

【飛鳥・藤原出土の評制下荷札木簡の年次】
西暦 干支 天皇年 木簡の記事の冒頭 献上国 出土遺跡
《天智期》
665 乙丑 天智4 乙丑年十二月三野 美濃国 石神遺跡
《天武期》
676 丙子 天武5 丙子年六□□□□ 不明  苑池遺構
677 丁丑 天武6 丁丑年十□□□□ 美濃国 飛鳥池遺跡
677 丁丑 天武6 丁丑年十二月次米 美濃国 飛鳥池遺跡
677 丁丑 天武6 丁丑年十二月三野 美濃国 飛鳥池遺跡
678 戊寅 天武7 戊寅年十二月尾張 尾張国 苑池遺構
678 戊寅 天武7 戊寅年四月廿六日 美濃国 石神遺跡
678 戊寅 天武7 戊寅年高井五□□ 不明  藤原宮跡
678 戊寅 天武7 戊寅□(年カ)八□  不明  石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年十一月三野 美濃国 石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年八月十五日 不明  石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年      不明  石神遺跡
680 庚辰 天武9 □(庚カ)辰年三野  美濃国 石神遺跡
681 辛巳 天武10 辛巳年鴨評加毛五 伊豆国 石神遺跡
681 辛巳 天武10 辛巳年□(鰒カ)一連 不明  石神遺跡
682 壬午 天武11 壬午年十月□□□ 下野国 藤原宮跡(下層大溝SD1901A)
683 癸未 天武12 癸未年十一月三野 美濃国 藤原宮跡(下層大溝SD1901A)
684 甲申 天武13 甲申□(年カ)三野  美濃国 石神遺跡
684 甲申 天武13 甲申□(年カ)□□  不明  飛鳥池遺跡
685 乙酉 天武14 乙酉年九月三野国 美濃国 石神遺跡
686 丙戌 天武15 丙戌年□月十一日 参河国 石神遺跡
《持統期》
687 丁亥 持統1 丁亥年若佐国小丹 若狭国 飛鳥池遺跡
688 戊子 持統2 戊子年四月三野国 美濃国 苑池遺構
692 壬辰 持統6 壬辰年九月□□日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月廿四日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月七日三 参河国 石神遺跡
693 癸巳 持統7 癸巳年□     不明  飛鳥京跡
694 甲午 持統8 甲午年九月十二日 尾張国 藤原宮跡
《694年12月 藤原京遷都》
695 乙未 持統9 乙未年尾□□□□ 尾張国 藤原宮跡
695 乙未 持統9 乙未年御調寸松  参河国 藤原宮跡
695 乙未 持統9 乙未年木□(津カ)里 若狭国 藤原宮跡
696 丙申 持統10 丙申年九月廿五日 尾張国 藤原京跡
696 丙申 持統10 丙申□(年カ)□□ 下総国 藤原宮跡
696 丙申 持統10 □□□(丙申年カ)  美濃国 藤原宮跡
《文武期》
697 丁酉 文武1 丁酉年若佐国小丹 若狭国 藤原宮跡
697 丁酉 文武1 丁酉年□月□□□ 若狭国 藤原宮跡
697 丁酉 文武1 丁酉年若狭国小丹 若狭国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 戊戌年三野国厚見 美濃国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 戊戌年□□□□□ 若狭国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 戊戌年六月波伯吉 伯耆国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 □□(戊戌カ)□□  不明  飛鳥池遺跡
699 己亥 文武3 己亥年十月上捄国 安房国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年九月三野国 美濃国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年□□(月カ)  若狭国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年□□□国小 若狭国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年十二月二方 但馬国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年若佐国小丹 若狭国 藤原宮跡
700 庚子 文武4 庚子年三月十五日 河内国 藤原宮跡
700 庚子 文武4 庚子年四月佐国小 若狭国 藤原宮跡
701 《「大宝」建元 王朝交代》

 天武期に注目すると、天武五年から荷札木簡が現れ、六~八年に増えており、この時期に天武の統治力が増したように見えます。ただし、その範囲は東国諸国(美濃国)が中心のようです。恐らくは壬申の乱でこの地域の豪族が天武を支持したのではないでしょうか。もちろん、出土木簡中の年干支が記されたものに限っての判断であり、実際の統治範囲はもっと広範囲だったと思われます。このような飛鳥での荷札木簡の出現・増加時期が、天武八年(679)頃に天武にとっての画期があったとする本テーマの仮説と整合しており、貴重なエビデンスです。(つづく)

(注)
①『奈良文化財研究所学報第七一冊 飛鳥池遺跡発掘調査報告 本文編〔Ⅰ〕─生産工房関係遺物─』奈良文化財研究所、2021年。
②新保高之「東京古田会・読書会〔天武天皇紀下⑩〕」2024年10月26日。
③都司嘉宣「七世紀末の王朝交代を災害記録から検証する」『古田史学会報』184号、2024年。
④古賀達也「洛中洛外日記」2395話(2021/02/28)〝飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の年代〟
⑤市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』塙書房、2010年。


第3375話 2024/11/08

王朝交代前夜の天武天皇 (2)

 「洛中洛外日記」前話(注①)で、飛鳥池出土「天皇」木簡の年代を天武五〜七年(676~678)を含む数年間に収まるとする判断と、天武紀に見える「詔」の年次別出現数が天武八年(679)から目立って増加するという新保高之さんの調査結果(注②)により、天武が天皇を名のり始めた頃から詔を多発し始めたとする見解を述べました。この天武八年頃に天武にとっての画期点があったのではないでしょうか。このことを示唆する研究が最近発表されました。都司嘉宣さんの論文「七世紀末の王朝交代を災害記録から検証する」です(注③)。

 『古田史学会報』最新号一面に掲載された同論文はわずか2頁弱(半頁の表を含む)の短文ですが、『日本書紀』『続日本紀』には、列島遠方地の災害が天武七年(678)から記録されており、この史料事実は、それよりも前は近畿天皇家は列島の代表者ではなかったことを示すものとしました。そして、わたしや新保さんの研究結果とも整合する内容であり、王朝交代前夜の近畿天皇家の実体に迫る上で貴重な知見と言えるでしょう。都司稿は非常に簡潔で秀逸な論文であり、まるで理系論文を読んでいるような気がしました。

 余談ですが、二十世紀最大の発見とされるワトソンとクリックによるDNAの二重らせん構造説を発表したネイチャー誌掲載論文(注④)もわずか2頁です。この短い論文によりワトソンらはノーベル生理学・医学賞(1962年)を受賞しました。わたしも古代史の分野で画期的で短い論文をいつかは書いてみたいと、青年の頃、身の程知らずにも思ったものです。

 都司さんは元東京大学地震研究所准教授で、古田先生が立ち上げた国際人間観察学会の特別顧問でした。同研究会の会報「Phoenix」No.1(2007)は同地震研究所のお力添えを得て発行したもので、都司さんの論文“Similarity of the distributions of the strong seismic intensity zones of the 1854 Ansei Nankai and the 1707 Hoei Earthquakes on the Osaka Plain and the ancient Kawachi Lagoon”と拙稿“A study on the long lives described in the classics”などが収録されています。拙稿は世界の古典に見える二倍年暦(二倍年齢)に関する英文論文です。都司論文は歴史地震学に関するもので、こうした専門知識と研究実績が背景にあって、「七世紀末の王朝交代を災害記録から検証する」を書かれたものと思われます。なお、「Phoenix」は「古田史学の会」ホームページに採録されています。ご覧いただければ幸いです。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3374話(2024/11/07)〝王朝交代前夜の天武天皇 (1)〟
②新保高之「東京古田会・読書会〔天武天皇紀下⑩〕」2024年10月26日。
③都司嘉宣「七世紀末の王朝交代を災害記録から検証する」『古田史学会報』184号、2024年。
④J.D.Watson & F.H.C.Crick: MOLECULAR STRUCTURE OF NUCLEIC ACID A Structure for Deoxyribose Nucleic Acid Nature 171,737-738(1953)


第3374話 2024/11/07

王朝交代前夜の天武天皇 (1)

 七世紀の第4四半期、飛鳥宮にて近畿天皇家の天武は「天皇」を名乗り、その子供たちは「皇子」を称していたとする、飛鳥池遺跡出土木簡(同時代史料)という最有力エビデンスに基づく論稿を『古田史学会報』に発表しました(注①)。

 もし、七世紀における「天皇」号は九州王朝の「天子の別称」とする古田新説に基づくのであれば、同「天皇」木簡の天皇も九州王朝の天子の別称となりますが、そうであれば飛鳥にいた天武は「大王」とでも呼ばれていたのでしょうか。しかし、天武の子供たちは、「大王」や「王」の子を意味する「○○王子」ではなく、「舎人皇子」「大伯皇子」「大津皇(子)」「穂積皇子」と飛鳥池出土木簡にはあることから、父親の天武も「大王」ではなく、「天皇」を称していたと考えざるを得ません。こうした論理性から考えても、「天皇」木簡の天皇を天武のこととする通説は、エビデンスベース(注②)という学問の方法に基づき妥当なものです。同時代出土木簡という最有力エビデンスは、後代史料である『日本書紀』の解釈論よりも優先すること、論を俟ちません。

 「天皇」木簡が出土した飛鳥池遺跡の大溝遺構SD1130からは、干支(「庚午年」天智九年、六七〇年。「丁丑年」天武六年、六七七年。「丙子年」天武五年、六七六年)、「評(こおり)」、「五十戸(さと)」表記を持つ木簡も出土しており、「郡」(七〇一年から採用)「里」(天武期後半以降に出現)木簡は見えないので、天武期の前半頃とする年代観を示唆します。また、調査報告書(『奈良文化財研究所学報第七一冊 飛鳥池遺跡発掘調査報告 本文編〔Ⅰ〕─生産工房関係遺物─』奈良文化財研究所、二〇二一年)には遺構の年代を〝溝自体が短期間しか存続しなかったことから、木簡群は短期間に廃棄されたと考えられ、木簡の年代は天武五〜七年を含む数年間に収まると判断できる。〟としています。

 飛鳥池遺跡からは「詔」木簡も出土しており、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代前であるにもかかわらず、天武天皇らは飛鳥宮で詔を発するなど、「天皇」に相応しい振る舞いをしていたことも拙論で紹介しました。それは次の木簡です。

《飛鳥池遺跡南地区 SX1222粗炭層》
【木簡番号】63
【本文】二月廿九日詔小刀二口○針二口○【「○半\□斤」】
【木簡説明】天武天皇もしくは持統天皇の詔を受けて小刀・針の製作を命じた文書、あるいはその命令を書き留めた記録であろう。ただし「詔」は「勅旨」と同様、供御物であることを示す語の可能性もある。

 この様な木簡研究の知見に対応する文献史学の調査研究を新保高之さんが発表しました(注③)。それは天武紀に見える「詔」の年次毎の出現調査で、その一覧表によれば天武八年(679)から「詔」が増えていることが見て取れました(注④)。

 「天皇」木簡の年代が天武五〜七年(676~678)を含む数年間に収まると報告されており、新保さんの「詔」分布調査結果と整合することから、天武は天皇を名のった(名のることを九州王朝から認められた)頃から、飛鳥宮で詔を多発し始めたととらえることができそうです。「天皇」木簡の年代観と『日本書紀』天武紀の「詔」分布の対応は偶然の一致ではないように思われます。これは古田先生が言うところの〝シュリーマンの法則〟、すなわち「考古学出土事実と文献・伝承が一致していればそれはより真実に近い」に適っているのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「飛鳥池出土「天皇」「皇子」木簡の証言」『古田史学会報』184号、2024年。
②古田武彦記念古代史セミナー(大学セミナーハウス主催)の実行委員長、荻上紘一氏は同セミナーでの挨拶において、くり返しエビデンスベースの重要性を次のように訴えている。深く留意すべきである。
〝古代史学においては「史実」の解明が基本であり、そのための作業則ち「証明」は論理的、客観的、科学的であり、当然のことながらevidence-basedでなければなりません。〟「古田武彦記念古代史セミナー2024講演予稿集」
③新保高之「東京古田会・読書会〔天武天皇紀下⑩〕」2024年10月26日。
④新保氏作成の一覧表をまとめると、天武紀の「詔」分布は次のようである。
天武二年 3件、同三年 0件、同四年 5件、同六年 1件、同七年 0件、同八年 6件、同九年 1件、同十年 7件、同十一年 6件、同十二年 6件、同十三年 5件、同十四年 3件、朱鳥元年 3件。


第3341話 2024/09/05

同時代エビデンスとしての

        「天皇」木簡 (5)

 前回紹介した飛鳥池遺跡南地区出土の「舎人皇子」「大伯皇子」に続いて、飛鳥宮・飛鳥京・飛鳥池南地区遺跡出土の皇子木簡を紹介します。

《飛鳥京・飛鳥宮・飛鳥池南地区遺跡出土の皇子木簡》
【木簡番号】0
【本文】太来
【遺跡名】飛鳥京跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構
【地区名】AH017026
【人名】太来〈大来皇女・大伯皇女ヵ〉

【木簡番号】0
【本文】□大津皇
【遺跡名】飛鳥京跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構
【地区名】MK012036
【人名】大津皇〈大津皇子〉

【木簡番号】65
【本文】・穂積□□〔皇子ヵ〕・□□〔穂積ヵ〕〈〉
【遺跡名】飛鳥池遺跡南地区
【所在地】奈良県高市郡明日香村大字飛鳥
【遺構番号】SX1222炭層
【地区名】5AKAWL23
【人名】穂積(皇子)
【木簡説明】左右二片接続。四周削り。表裏ともに「穂積(皇子)と記す。習書ではなく、物品管理に使用された名札の可能性がある。「穂積皇子」は天武天皇の皇子。穂積皇子宮の所在地は『万葉集』一一四~一一六番歌などから髙市皇子の「香来山之宮」近辺にあったとされ、橿原市教育委員会による香具山の北にあたる藤原京跡左京一・二条四・五坊の調査では、東四坊大路の東側溝から和銅二年(七〇九)銘の木簡とともに「穂積親王宮」や「積親」と書かれた木簡が出土している(『木簡研究二十六」一五頁、一・二号)。

 上記のように飛鳥の遺跡からは天武の子供らの名が記された木簡が出土しており、当地に天武ら近畿天皇家の一族が居していたことを疑えません。その天武の子供たちが「王子」ではなく、「皇子」と記されていることから、父親の天武の称号も「大王」ではなく、「天皇」と考えるのが妥当です。従って、飛鳥池から出土した「天皇」木簡の「天皇」を天武のこととする学界の趨勢は当然のことと思います。これは一元史観であろうが多元史観であろうが、同時代史料(エビデンス)としての木簡が指し示す最有力の歴史認識ではないでしょうか。
今回紹介した木簡の年代観ですが、次の木簡が示すように、七世紀後半の天武・持統期と見ることができます。

【木簡番号】0
【本文】□〔明ヵ〕評
【遺跡名】飛鳥京跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構
【地区名】AH017026
【国郡郷里】(伊勢国朝明郡〈←明評〉)

【木簡番号】0
【本文】辛巳年
【遺跡名】飛鳥京跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構
【地区名】MK012036
【和暦】(辛巳年)天武10年 【西暦】681年

【木簡番号】12
【本文】・白髪部五十戸・〓十口
【文字説明】表面「髪」は異体字を使用。裏面「〓」は偏が「㠯」旁が「皮」の文字。
【遺跡名】飛鳥宮跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構SX7501
【地区名】MK022244
【国郡郷里】(備中国都宇郡真壁郷〈白髪部五十戸〉)・(備中国窪屋郡真壁郷〈白髪部五十戸〉)

【木簡番号】0
【本文】大乙下□□
【遺跡名】飛鳥京跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構

【木簡番号】0
【本文】□小乙下
【遺跡名】飛鳥京跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構

【木簡番号】0
【本文】小山上
【遺跡名】飛鳥宮跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構SX7501
【地区名】MK022244

【木簡番号】0
【本文】□小乙下階
【文字説明】「□」は横棒が引かれるが文字か印か不明。
【遺跡名】飛鳥宮跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構SX7501
【地区名】MK022244

【木簡番号】0
【本文】大乙下階
【文字説明】下端の状況から下には続く文字はない。
【遺跡名】飛鳥宮跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構SX7501
【地区名】MK022244

【木簡番号】1
【本文】大花下
【遺跡名】飛鳥宮跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構SX7501
【地区名】MK022244

 このように、干支木簡「辛巳年」(天武10年、681年)、「評(こおり)」や「五十戸(さと)」の天武期を示す木簡が出土しています。また、『日本書紀』によれば、大化五年(649年)に制定され、天武十四年(685年)の新冠位制定まで続いた「大乙下」「小乙下」「小山上」が記された木簡もこの年代観と矛盾しません。「大花下」は天智三年(664年)の新冠位で「大錦下」に変更されており、飛鳥宮から出土する他の木簡と比べて年代的にやや古く感じますが、『木簡研究』22号(2000年)の報告では、「『日本書紀』に基づけば、大花下の冠位は大化五年二月から天智三年二月までの一七年間に限つて施行されたこととなり、この木簡もこの間に書かれたものとみてまず疑いない。」としています。(おわり)


第3324話 2024/07/13

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (7)

 『日本書紀』編者は孝徳天皇の宮殿名として「難波長柄豊碕宮」と記しており、その宮の場所が「難波長柄豊碕」であると主張しているわけですから、特段の理由がなければ喜田貞吉説のように大阪市北区にある長柄地域を候補地と考えるのが常識的な判断です。もちろん同じ大阪市内(難波)に「長柄」や「豊碕」地名が複数あれば、その内のどこが最も有力候補地なのかという検討が必用ですが、管見では北区の長柄・豊﨑しかないようですので、やはり喜田説が最有力です。

 そこでわたしは、江戸期成立の「石山本願寺合戦図」に見える、織田信長本陣があった長柄の「天満山」に注目しました。現在では当地に大阪天満宮が鎮座していますが、もともとは「大将軍社」があった所で(今も境内に祀られている)、伝承(注①)では孝徳天皇の白雉元年に創建されたとのことです。この白雉元年創建伝承が歴史の真実を反映しているのであれば、『日本書紀』では白雉元年は650年ですが、本来、白雉は九州年号ですから、元年は652年のことと理解できます。このように、現存地名の北区長柄地域にあり、白雉元年創建伝承を持つ大将軍社こそ、孝徳紀に見える難波長柄豊碕宮の有力候補ではないでしょうか。

 そこで問題となるのが「大将軍」という名前の由来です。そもそも「大将軍」という神様とは誰のことなのか、いま一つよくわかりません。京都市にも複数の〝大将軍神社〟が平安京を護る守護神のごとく鎮座していますが、難波には大阪天満宮の大将軍社しかないようです。前期難波宮を護る神様であれば、その東西や南にも鎮座していてほしいところです。飛鳥宮や藤原宮の周辺にも、古代に遡るような「大将軍社」の存在をわたしは聞いたことがありません。WEB上の辞書(注②)には陰陽道の神様とする、後世になって、とってつけられたような説も紹介されていますが、その神様がいつ頃から、なぜ「大将軍」と呼ばれるようになったのかもよくわかりません。(つづく)

(注)
①大阪天満宮ホームページによる。
②大将軍(方位神) 出典:『ウィキペディア』
大将軍(たいしょうぐん、だいしょうぐん)は陰陽道において方位の吉凶を司る八将神(はっしょうじん)の一。魔王天王とも呼ばれる大鬼神。仏教での本地は他化自在天。
古代中国では、明けの明星を「啓明」(けいめい)、宵の明星を「長庚」(ちょうこう)または「太白」(たいはく)と呼び、軍事を司る星神とされたが、それが日本の陰陽道に取り入れられ、太白神や金神(こんじん)・大将軍となった。いずれも金星に関連する星神で、金気(ごんき)は刃物に通じ、荒ぶる神として、特に暦や方位の面で恐れられた。

大将軍は3年ごとに居を変え、その方角は万事に凶とされ、特に土を動かすことが良くないとされた。大将軍の方角は3年間変わらないため、その方角を忌むことを「三年塞がり」と呼んだ。ただし、大将軍の遊行日(ゆぎょうび)が定められ、その間は凶事が無いとされた。年毎の方位は十二支によって以下の通り。
亥・子・丑の年 – 西の方角
寅・卯・辰の年 – 北の方角
巳・午・未の年 – 東の方角
申・酉・戌の年 – 南の方角
遊行日は以下の通り。

春の土用(立夏前):甲子日~戊辰日(東方に遊行)
夏の土用(立秋前):丙子日~庚辰日(南方に遊行)
秋の土用(立冬前):庚子日~甲辰日(西方に遊行)
冬の土用(立春前):壬子日~丙辰日(北方に遊行)

大将軍は牛頭天王の息子とされ、スサノオと同一視された。(ただし後に、牛頭天王はスサノオと習合した)

京都では、桓武天皇が平安京遷都の直後、大将軍を祭神とする4つの大将軍神社を四方に置いた。
東: 左京区岡崎
西: 上京区紙屋川
北: 北区大徳寺門前
南: 所在不明

ただし、現在の所在は以下のとおり。これらは現在ではスサノオを祭神としている。
東: 左京区の岡崎神社と、東山区の東三条大将軍神社。
西: 上京区の大将軍八神社。
北: 北区の今宮神社摂社疫神社と、西賀茂大将軍神社。
南: 伏見区の藤森神社境内。

またこれらとは別に、祇園社(八坂神社)も大将軍を祭っている。また、北区には大将軍という地名が残っている。


第3314話 2024/06/29

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (5)

 今日は博多に向かう新幹線車中で「洛中洛外日記」を書いています。二十数年ぶりに開催される久留米高専化学科11期(昭和51年卒)の同窓会に参加することと、明日、久留米大学公開講座で講演するため(注①)、帰郷します。わたしが久留米大学講演のために帰郷することを知った旧友が、地元の同窓生に呼びかけて、博多で同窓会を開催することになりました。聞けば、全国各地に散らばった同窓生も幾人か出席するようで、ありがたいことです。

 織田信長と摂津石山本願寺との合戦布陣図『石山古城図』(注②)に見える、長柄地域の天満山に置かれた「織田信長本陣」の文字にわたしは注目しました。織田軍の本陣が置かれた地ですから、周囲を見渡すことができる高台であり、川を距てた南の上町台地にある摂津石山本願寺を展望でき、かつ、距離も遠からず、近からずという地勢的に絶妙な場所であったことがうかがえます。そこで、天満山があったと思われる位置を現代の地図と比較したところ、大阪天満宮が鎮座している所のようです。大阪を代表する神社の一つであり、それに相応しい選地がなされたものと思われますから、織田軍本陣が置かれた地と考えてよいでしょう。
そこで、大阪天満宮のホームページを調べたところ、もともと当地には孝徳天皇の難波長柄豊碕宮を守護するため、白雉元年(650)に大将軍社が創建され、平安時代には菅原道真が大宰府下向の途中、当神社に参詣したと伝わっています(注③)。

 この伝承で注目されるのが、白雉元年に大将軍社が創建されたという部分です。白雉元年とありますから、本来は九州年号の白雉元年(652年)のときと思われ、前期難波宮の創建時に、〝北の守り〟として、「大将軍」と呼ばれた有力者がこの地(難波長柄)に居館を構えたものと思われます。すなわち、九州王朝の〝東の都〟難波京(前期難波宮)北方の防衛を命じられた九州王朝(倭国)の配下の「大将軍」の居館が天満山に造営され、後に大将軍社として祀られたのではないでしょうか。従って、この難波長柄の「大将軍」の居館こそ、今の大阪天満宮の地にあった、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮ではないでしょうか。

 しかしながらこの仮説には、当地が「天満山」と呼ばれるに相応しい高台なのか今のところ不明ですし、また、現在の「豊崎」地名の場所とは異なるという弱点があります。梅雨があけたら現地調査します。(つづく)

(注)
①久留米大学公開講座2024年。【九州の古代史 ―九州王朝論を中心に】
□6月30日(日) 古賀達也 九州王朝の天子と臣下の天皇たち ―「天皇」号と「天皇」地名の変遷―
□7月7日(日) 正木裕 氏 王朝交代と隼人
□会場 久留米大学御井キャンパス
②『石山古城図』国会図書館蔵。江戸期成立の絵図と思われる。
③大阪天満宮のHPには次のように説明されている。
https://osakatemmangu.or.jp/about
大阪天満宮の創始(御鎮座)
奈良時代 白雉元年(650年)孝徳天皇様が難波長柄豊崎宮をお造りになりました頃、都の西北を守る神として大将軍社という神社をこの地にお祀りされました。以来この地を大将軍の森と称し、又後には天神の森ともいわれ、現在も南森町北森町としてその名を残しております。

 平安時代延喜元年(901年)当宮の御祭神である菅原道真公は太宰府へ向かう途中この大将軍社をお参りになり旅の無事を御祈願なされました。その後道真公は、太宰府において、お亡くなりになり、その50年あまり後の天暦三年(949年)この大将軍社の前に一夜にして七本の松が生え、夜毎にその梢を光らせたと申します。

 これをお聞きになりました村上天皇様は、勅命によって、ここにお社をお建てになり、道真公のお御霊を厚くお祀りされました。以来、一千有余年、氏子大阪市民はもとより広く全国より崇敬を集めています。

 大将軍社

 菅公が大宰府に向かう前に参拝したという大将軍社は、境内の西北に鎮座しています。天満宮の御鎮座よりも約300年遡った650年に創建されています。大将軍社があった場所に、大阪天満宮が創建されたことになります。
現在では、摂社として祀られており、大阪天満宮では元日の歳旦祭の前に、大将軍社にて「拂暁祭(ふつぎょうさい)」というお祭りを行い、神事の中で「租(そ)」と言ういわゆる借地料をお納めする習わしになっております。


第3313話 2024/06/28

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (4)

 古代から近世の諸史料に記された「長柄」地名の場所が大阪市北区長柄の地と考えられることから、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮がその付近にあったとするのは、同じ地名を持つ候補地が他にないことから、最も有力な推論(作業仮説)と思われます。そうであれば、難波(大領域)のなかの長柄(中領域)のなかの豊碕(小領域)にあったと考え、その位置をさらに絞り込んでみました。

 この考えに基づけば、現・豊崎神社付近が有力候補になるのですが、地勢的には洪水の影響を受けやすい旧・中津川寄りであることと、神社境内の発掘調査(注①)でも七世紀の遺跡は未検出であり、判断しかねてきました。そうした状況が10年ほど続いていたところ、この度、赤尾恭司さん(多元的古代研究会・幹事)からある史料をご紹介頂きました。織田信長と摂津石山本願寺との合戦の布陣絵図『石山古城図』(注②)です。

 同古城図の元になったと思われる古地図には、それを偽造とする喜田貞吉氏の批判(注③)があります。たとえば上町台地を東西に横断する複数の河川などは存在が疑われており、全体の構図には不審点があります。しかし、記された地名は江戸期の認識を反映したものと思われ、「南長柄」「本庄豊﨑」「長柄川」「中津川」などの名称は作成当時に存在していたとしてもよいように思われます。

 そうした視点で長柄地域を精査すると、「天満山」に「織田信長本陣」がおかれていることに気づきました。敵対する石山本願寺の北側に、川を距てて織田軍の本陣が置かれていることから、「天満山」は地勢的に本陣を置くにふさわしい場所だったと思われます。そうであれば、同様の理由から、その地は難波長柄豊碕宮の有力な候補地と考えてもよいのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①伊藤純「豊崎神社境内出土の土器」『葦火』26号、大阪市文化財協会、1990年。
古賀達也「洛中洛外日記」561話(2013/05/25)〝豊崎神社境内出土の土器〟
②『石山古城図』国会図書館蔵。江戸期成立の絵図と思われる。
③喜田貞吉「難波の京」『摂津郷土史論』日本歴史地理学会編、1927年(昭和二年)。


第3310話 2024/06/25

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (3)

 九世紀の大阪(摂津国)に「長柄(ながら)」地名があったことを示す『日本後記』『日本文徳天皇實録』の記事よりも更にはやい、八世紀の史料『住吉大社神代記』があることを谷本茂さん(『古代に真実を求めて』編集部)から教えて頂きました。『住吉大社神代記』は、わたしも三十年前に研究したことがあり、当時の資料ファイルを書架から引っ張り出しました。わたしが持っている「校訂住吉大社神代記」(注)コピーには、「長柄」地名が記されている部分に傍線を引いていましたので、わたしも注目していたようです。当該部分を引用します。

 「長柄神」〔長柄の神〕
「難波長柄泊賜。膽駒山嶺登座時。」〔難波の長柄に泊り賜ふ。膽駒山の嶺に登り座す時。〕
「自長柄泊登於膽駒峯賜」〔長柄の泊(とまり)より膽駒の嶺に登り賜ひて〕
「長柄船瀬本記
四至(東限高瀬。大庭。南限大江。西限鞆淵。北限川岸。
右。船瀬泊~」〔長柄船瀬の本記 四至(東を限る、高瀬・大庭。南を限る、大江。西を限る、鞆淵。北を限る、川*岸。 右の船瀬泊は~)〕 ※「*岸」は土偏に岸。
「自筑紫難波長柄 仁 依坐 弖」〔筑紫より難波の長柄に依り坐して〕

 『住吉大社神代記』の奥書には「天平三年七月五日」(731年)とあり、この成立年次が正しければ八世紀前半には「長柄」地名があったことになります。しかも、「長柄船瀬本記」に見える長柄船瀬の四至により、長柄船瀬は上町台地の北にあると理解されているようです。脚注に次の説明があります。

○高瀬―和名抄、河内国茨田郡高瀬郷あり。播磨国風土記に「摂津国高瀬之済」とみゆ。行基年譜に「直道一所、高瀬より生馬大山への登道あり」とみえることに注意。
○大庭―河内志、茨田郡に大庭荘・大庭渠あり。
○大江―上町台地の北にそそぐ河内川なるべし。
○鞆淵―摂津志、東生郡に友淵あり。
○川*岸―この川は摂津志西生郡の長柄河(一名中津川)なるべし。

 この脚注が正しければ、長柄船瀬は大阪市北区長柄の地にあったとしてもよいように思いますし、大きくは外れていないのではないでしょうか。(つづく)

(注)田中卓『住吉大社史』上巻「校訂住吉大社神代記」「訓解住吉大社神代記」1963年。


第3309話 2024/06/24

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (2)

 九世紀の大阪(摂津国)に「長柄(ながら)」地名があったことを紹介しました。次の『日本後記』と『日本文徳天皇實録』の記事です。

○『日本後記』嵯峨天皇弘仁三年(812)六月条
「己丑(5日)。遣使造攝津國長柄橋。」
○『日本文徳天皇實録』仁壽三年(853)十月戊辰(11日)条
「攝津國奏言、長柄三國両河、頃年橋梁断絶人馬不通。請准堀江川置二隻舩、以通濟渡。許之。」

 大阪市北区長柄の北側を淀川が流れます。当時はその部分が長柄川と呼ばれていたようで、後に中津川と呼ばれた時代もあったようです。今も北区に中津という地名が残っています。地下鉄御堂筋線に中津駅があり、その東側に孝徳天皇を祀る豊崎神社が鎮座しています。豊崎神社の由来について、戸田繁次氏著『稿本 長柄郷土誌』(注①)に次の記事があることを「洛中洛外日記」(注②)で紹介しました。

 「豊崎神社
豊碕東通四丁目に鎭座。孝徳天皇を主神として相殿に須佐男命を祀る。
由緒に依ると長柄豊碕宮の旧蹟地で宮の廃せられし後、星霜を経るに從ひ荒蕪の地となり、宮跡の一隅は一帯の松林となって世人はこれを八本松と呼んでゐたのを、正歴年間藤原重治、これを開墾するに當り、孝徳天皇故宮の湮滅せんことを畏れ樹林中に小祠を建立して、皇蹟を崇敬追拜し奉ったのに起る。」『稿本 長柄郷土誌』

 正歴年間(990~994年)に、難波長柄豊碕宮旧跡地が湮滅してしまうことを恐れた藤原重治という人物が同地に小祠を建立したことが豊崎神社の始まりと伝えています。

 正暦年間とは、聖武天皇が造営した難波宮(後期難波宮)が廃止された延暦十二年(793年、『類従三代格』三月九日官符)の二百年後です。当時、聖武天皇の難波宮跡地(後期難波宮・上町台地法円坂)が人々から全く忘れ去られていたとは考えにくく、むしろ孝徳天皇の難波長柄豊碕宮と聖武天皇の難波宮は別の場所と考えられていたのではないでしょうか。現在も北区にある「長柄」地名が九世紀以前に遡ることから、その地が難波長柄豊碕宮旧跡地と認識されており、同地に豊崎神社を建立し、孝徳天皇を祭神として祀ったと考えざるを得ません。もし、法円坂に孝徳天皇の難波長柄豊碕宮があったのなら、上町台地に古くから孝徳天皇を祀る神社があってもよいはずですが、寡聞にしてそのような神社を知りません。(つづく)

(注)
①戸田繁次氏著(戸田次郎氏蔵)『稿本 長柄郷土誌』1994年。
http://nora.my.coocan.jp/mac/Saigoku/Nagara/LIB/Nagara/index.html
②古賀達也「洛中洛外日記」268話(2010/06/19)〝難波宮と難波長柄豊碕宮〟


第3308話 2024/06/23

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (1)

 『日本書紀』孝徳紀に記された難波長柄豊碕宮を大阪市北区の長柄豊崎とした喜田貞吉氏の見解は(注①)、『日本書紀』の史料事実と現存地名との対応に基づいており、山根徳太郎氏による難波宮跡発見までは最有力説であったと思われます。しかし、前期難波宮が九州王朝の王宮(難波宮)であれば、その遺跡は孝徳天皇の難波長柄豊碕宮ではありませんから、喜田説に戻って、大阪市北区の豊崎・長柄を有力候補として探索することにしました。

 そこで、まず当地の豊崎や長柄という地名が古代まで遡ることができるのかを調べたところ、次の二史料に「長柄」が見つかりました。

○『日本後記』嵯峨天皇弘仁三年(812)六月条
「己丑(5日)。遣使造攝津國長柄橋。」

○『日本文徳天皇實録』仁壽三年(853)十月戊辰(11日)条
「攝津國奏言、長柄三國両河、頃年橋梁断絶人馬不通。請准堀江川置二隻舩、以通濟渡。許之。」

 両史料は六国史であり、信頼できる記事です。摂津国に長柄川があり、そこに橋を架けたという記事と、その橋が壊れたため、渡し船を置いたという、九世紀前半~中頃の記事です。両記事に見える長柄という川名や橋名から、九世紀初頭頃に長柄地名があったことを疑えません。この長柄川や長柄という地名の存在は、織田信長と摂津石山本願寺との合戦の布陣絵図『石山古城図』(注②)にも記されており、古代から現代まで継続した地名であることがわかります。また、同絵図には「南長柄」の西に「本庄豊崎」という地名も見え、現代の北区豊崎・長柄と位置関係が一致しています。(つづく)

《追補》本稿執筆後、谷本茂さん(『古代に真実を求めて』編集部)より、『石山古城図』なるものは喜田貞吉氏が偽造物と指摘した難波古地図を基にしており、慎重な取り扱いが必要であること、『住吉大社神代記』に「長柄」地名が見えることなどをご教示いただきました。本稿論旨への影響について再考し、続稿に反映させたいと思います。ご教示に感謝いたします。

(注)
①喜田貞吉著『帝都』に次の見解があることを山根徳太郎氏が『難波の宮』で紹介している。

 「孝徳天皇大化の新宮は、実に此難波宮にて行はれた。精しくは難波長柄豊碕ノ宮と申す。今の豊崎村大字南北長柄は、実に其の名を伝へて居るものであろう。此所に始めて支那の長安城に模した新式の都城が経営された。」

②『石山古城図』国会図書館蔵。赤尾恭司氏(多元的古代研究会・幹事)より同絵図を紹介して頂いた。江戸期成立の絵図と思われる。この絵図の元本は大阪市東淀川区の定専坊(じょうせんぼう)所蔵『石山合戦配陣図』と思われる。