近畿天皇家一覧

第3341話 2024/09/05

同時代エビデンスとしての

        「天皇」木簡 (5)

 前回紹介した飛鳥池遺跡南地区出土の「舎人皇子」「大伯皇子」に続いて、飛鳥宮・飛鳥京・飛鳥池南地区遺跡出土の皇子木簡を紹介します。

《飛鳥京・飛鳥宮・飛鳥池南地区遺跡出土の皇子木簡》
【木簡番号】0
【本文】太来
【遺跡名】飛鳥京跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構
【地区名】AH017026
【人名】太来〈大来皇女・大伯皇女ヵ〉

【木簡番号】0
【本文】□大津皇
【遺跡名】飛鳥京跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構
【地区名】MK012036
【人名】大津皇〈大津皇子〉

【木簡番号】65
【本文】・穂積□□〔皇子ヵ〕・□□〔穂積ヵ〕〈〉
【遺跡名】飛鳥池遺跡南地区
【所在地】奈良県高市郡明日香村大字飛鳥
【遺構番号】SX1222炭層
【地区名】5AKAWL23
【人名】穂積(皇子)
【木簡説明】左右二片接続。四周削り。表裏ともに「穂積(皇子)と記す。習書ではなく、物品管理に使用された名札の可能性がある。「穂積皇子」は天武天皇の皇子。穂積皇子宮の所在地は『万葉集』一一四~一一六番歌などから髙市皇子の「香来山之宮」近辺にあったとされ、橿原市教育委員会による香具山の北にあたる藤原京跡左京一・二条四・五坊の調査では、東四坊大路の東側溝から和銅二年(七〇九)銘の木簡とともに「穂積親王宮」や「積親」と書かれた木簡が出土している(『木簡研究二十六」一五頁、一・二号)。

 上記のように飛鳥の遺跡からは天武の子供らの名が記された木簡が出土しており、当地に天武ら近畿天皇家の一族が居していたことを疑えません。その天武の子供たちが「王子」ではなく、「皇子」と記されていることから、父親の天武の称号も「大王」ではなく、「天皇」と考えるのが妥当です。従って、飛鳥池から出土した「天皇」木簡の「天皇」を天武のこととする学界の趨勢は当然のことと思います。これは一元史観であろうが多元史観であろうが、同時代史料(エビデンス)としての木簡が指し示す最有力の歴史認識ではないでしょうか。
今回紹介した木簡の年代観ですが、次の木簡が示すように、七世紀後半の天武・持統期と見ることができます。

【木簡番号】0
【本文】□〔明ヵ〕評
【遺跡名】飛鳥京跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構
【地区名】AH017026
【国郡郷里】(伊勢国朝明郡〈←明評〉)

【木簡番号】0
【本文】辛巳年
【遺跡名】飛鳥京跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構
【地区名】MK012036
【和暦】(辛巳年)天武10年 【西暦】681年

【木簡番号】12
【本文】・白髪部五十戸・〓十口
【文字説明】表面「髪」は異体字を使用。裏面「〓」は偏が「㠯」旁が「皮」の文字。
【遺跡名】飛鳥宮跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構SX7501
【地区名】MK022244
【国郡郷里】(備中国都宇郡真壁郷〈白髪部五十戸〉)・(備中国窪屋郡真壁郷〈白髪部五十戸〉)

【木簡番号】0
【本文】大乙下□□
【遺跡名】飛鳥京跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構

【木簡番号】0
【本文】□小乙下
【遺跡名】飛鳥京跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構

【木簡番号】0
【本文】小山上
【遺跡名】飛鳥宮跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構SX7501
【地区名】MK022244

【木簡番号】0
【本文】□小乙下階
【文字説明】「□」は横棒が引かれるが文字か印か不明。
【遺跡名】飛鳥宮跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構SX7501
【地区名】MK022244

【木簡番号】0
【本文】大乙下階
【文字説明】下端の状況から下には続く文字はない。
【遺跡名】飛鳥宮跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構SX7501
【地区名】MK022244

【木簡番号】1
【本文】大花下
【遺跡名】飛鳥宮跡
【所在地】奈良県高市郡明日香村岡
【遺構番号】土坑状遺構SX7501
【地区名】MK022244

 このように、干支木簡「辛巳年」(天武10年、681年)、「評(こおり)」や「五十戸(さと)」の天武期を示す木簡が出土しています。また、『日本書紀』によれば、大化五年(649年)に制定され、天武十四年(685年)の新冠位制定まで続いた「大乙下」「小乙下」「小山上」が記された木簡もこの年代観と矛盾しません。「大花下」は天智三年(664年)の新冠位で「大錦下」に変更されており、飛鳥宮から出土する他の木簡と比べて年代的にやや古く感じますが、『木簡研究』22号(2000年)の報告では、「『日本書紀』に基づけば、大花下の冠位は大化五年二月から天智三年二月までの一七年間に限つて施行されたこととなり、この木簡もこの間に書かれたものとみてまず疑いない。」としています。(おわり)


第3324話 2024/07/13

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (7)

 『日本書紀』編者は孝徳天皇の宮殿名として「難波長柄豊碕宮」と記しており、その宮の場所が「難波長柄豊碕」であると主張しているわけですから、特段の理由がなければ喜田貞吉説のように大阪市北区にある長柄地域を候補地と考えるのが常識的な判断です。もちろん同じ大阪市内(難波)に「長柄」や「豊碕」地名が複数あれば、その内のどこが最も有力候補地なのかという検討が必用ですが、管見では北区の長柄・豊﨑しかないようですので、やはり喜田説が最有力です。

 そこでわたしは、江戸期成立の「石山本願寺合戦図」に見える、織田信長本陣があった長柄の「天満山」に注目しました。現在では当地に大阪天満宮が鎮座していますが、もともとは「大将軍社」があった所で(今も境内に祀られている)、伝承(注①)では孝徳天皇の白雉元年に創建されたとのことです。この白雉元年創建伝承が歴史の真実を反映しているのであれば、『日本書紀』では白雉元年は650年ですが、本来、白雉は九州年号ですから、元年は652年のことと理解できます。このように、現存地名の北区長柄地域にあり、白雉元年創建伝承を持つ大将軍社こそ、孝徳紀に見える難波長柄豊碕宮の有力候補ではないでしょうか。

 そこで問題となるのが「大将軍」という名前の由来です。そもそも「大将軍」という神様とは誰のことなのか、いま一つよくわかりません。京都市にも複数の〝大将軍神社〟が平安京を護る守護神のごとく鎮座していますが、難波には大阪天満宮の大将軍社しかないようです。前期難波宮を護る神様であれば、その東西や南にも鎮座していてほしいところです。飛鳥宮や藤原宮の周辺にも、古代に遡るような「大将軍社」の存在をわたしは聞いたことがありません。WEB上の辞書(注②)には陰陽道の神様とする、後世になって、とってつけられたような説も紹介されていますが、その神様がいつ頃から、なぜ「大将軍」と呼ばれるようになったのかもよくわかりません。(つづく)

(注)
①大阪天満宮ホームページによる。
②大将軍(方位神) 出典:『ウィキペディア』
大将軍(たいしょうぐん、だいしょうぐん)は陰陽道において方位の吉凶を司る八将神(はっしょうじん)の一。魔王天王とも呼ばれる大鬼神。仏教での本地は他化自在天。
古代中国では、明けの明星を「啓明」(けいめい)、宵の明星を「長庚」(ちょうこう)または「太白」(たいはく)と呼び、軍事を司る星神とされたが、それが日本の陰陽道に取り入れられ、太白神や金神(こんじん)・大将軍となった。いずれも金星に関連する星神で、金気(ごんき)は刃物に通じ、荒ぶる神として、特に暦や方位の面で恐れられた。

大将軍は3年ごとに居を変え、その方角は万事に凶とされ、特に土を動かすことが良くないとされた。大将軍の方角は3年間変わらないため、その方角を忌むことを「三年塞がり」と呼んだ。ただし、大将軍の遊行日(ゆぎょうび)が定められ、その間は凶事が無いとされた。年毎の方位は十二支によって以下の通り。
亥・子・丑の年 – 西の方角
寅・卯・辰の年 – 北の方角
巳・午・未の年 – 東の方角
申・酉・戌の年 – 南の方角
遊行日は以下の通り。

春の土用(立夏前):甲子日~戊辰日(東方に遊行)
夏の土用(立秋前):丙子日~庚辰日(南方に遊行)
秋の土用(立冬前):庚子日~甲辰日(西方に遊行)
冬の土用(立春前):壬子日~丙辰日(北方に遊行)

大将軍は牛頭天王の息子とされ、スサノオと同一視された。(ただし後に、牛頭天王はスサノオと習合した)

京都では、桓武天皇が平安京遷都の直後、大将軍を祭神とする4つの大将軍神社を四方に置いた。
東: 左京区岡崎
西: 上京区紙屋川
北: 北区大徳寺門前
南: 所在不明

ただし、現在の所在は以下のとおり。これらは現在ではスサノオを祭神としている。
東: 左京区の岡崎神社と、東山区の東三条大将軍神社。
西: 上京区の大将軍八神社。
北: 北区の今宮神社摂社疫神社と、西賀茂大将軍神社。
南: 伏見区の藤森神社境内。

またこれらとは別に、祇園社(八坂神社)も大将軍を祭っている。また、北区には大将軍という地名が残っている。


第3314話 2024/06/29

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (5)

 今日は博多に向かう新幹線車中で「洛中洛外日記」を書いています。二十数年ぶりに開催される久留米高専化学科11期(昭和51年卒)の同窓会に参加することと、明日、久留米大学公開講座で講演するため(注①)、帰郷します。わたしが久留米大学講演のために帰郷することを知った旧友が、地元の同窓生に呼びかけて、博多で同窓会を開催することになりました。聞けば、全国各地に散らばった同窓生も幾人か出席するようで、ありがたいことです。

 織田信長と摂津石山本願寺との合戦布陣図『石山古城図』(注②)に見える、長柄地域の天満山に置かれた「織田信長本陣」の文字にわたしは注目しました。織田軍の本陣が置かれた地ですから、周囲を見渡すことができる高台であり、川を距てた南の上町台地にある摂津石山本願寺を展望でき、かつ、距離も遠からず、近からずという地勢的に絶妙な場所であったことがうかがえます。そこで、天満山があったと思われる位置を現代の地図と比較したところ、大阪天満宮が鎮座している所のようです。大阪を代表する神社の一つであり、それに相応しい選地がなされたものと思われますから、織田軍本陣が置かれた地と考えてよいでしょう。
そこで、大阪天満宮のホームページを調べたところ、もともと当地には孝徳天皇の難波長柄豊碕宮を守護するため、白雉元年(650)に大将軍社が創建され、平安時代には菅原道真が大宰府下向の途中、当神社に参詣したと伝わっています(注③)。

 この伝承で注目されるのが、白雉元年に大将軍社が創建されたという部分です。白雉元年とありますから、本来は九州年号の白雉元年(652年)のときと思われ、前期難波宮の創建時に、〝北の守り〟として、「大将軍」と呼ばれた有力者がこの地(難波長柄)に居館を構えたものと思われます。すなわち、九州王朝の〝東の都〟難波京(前期難波宮)北方の防衛を命じられた九州王朝(倭国)の配下の「大将軍」の居館が天満山に造営され、後に大将軍社として祀られたのではないでしょうか。従って、この難波長柄の「大将軍」の居館こそ、今の大阪天満宮の地にあった、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮ではないでしょうか。

 しかしながらこの仮説には、当地が「天満山」と呼ばれるに相応しい高台なのか今のところ不明ですし、また、現在の「豊崎」地名の場所とは異なるという弱点があります。梅雨があけたら現地調査します。(つづく)

(注)
①久留米大学公開講座2024年。【九州の古代史 ―九州王朝論を中心に】
□6月30日(日) 古賀達也 九州王朝の天子と臣下の天皇たち ―「天皇」号と「天皇」地名の変遷―
□7月7日(日) 正木裕 氏 王朝交代と隼人
□会場 久留米大学御井キャンパス
②『石山古城図』国会図書館蔵。江戸期成立の絵図と思われる。
③大阪天満宮のHPには次のように説明されている。
https://osakatemmangu.or.jp/about
大阪天満宮の創始(御鎮座)
奈良時代 白雉元年(650年)孝徳天皇様が難波長柄豊崎宮をお造りになりました頃、都の西北を守る神として大将軍社という神社をこの地にお祀りされました。以来この地を大将軍の森と称し、又後には天神の森ともいわれ、現在も南森町北森町としてその名を残しております。

 平安時代延喜元年(901年)当宮の御祭神である菅原道真公は太宰府へ向かう途中この大将軍社をお参りになり旅の無事を御祈願なされました。その後道真公は、太宰府において、お亡くなりになり、その50年あまり後の天暦三年(949年)この大将軍社の前に一夜にして七本の松が生え、夜毎にその梢を光らせたと申します。

 これをお聞きになりました村上天皇様は、勅命によって、ここにお社をお建てになり、道真公のお御霊を厚くお祀りされました。以来、一千有余年、氏子大阪市民はもとより広く全国より崇敬を集めています。

 大将軍社

 菅公が大宰府に向かう前に参拝したという大将軍社は、境内の西北に鎮座しています。天満宮の御鎮座よりも約300年遡った650年に創建されています。大将軍社があった場所に、大阪天満宮が創建されたことになります。
現在では、摂社として祀られており、大阪天満宮では元日の歳旦祭の前に、大将軍社にて「拂暁祭(ふつぎょうさい)」というお祭りを行い、神事の中で「租(そ)」と言ういわゆる借地料をお納めする習わしになっております。


第3313話 2024/06/28

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (4)

 古代から近世の諸史料に記された「長柄」地名の場所が大阪市北区長柄の地と考えられることから、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮がその付近にあったとするのは、同じ地名を持つ候補地が他にないことから、最も有力な推論(作業仮説)と思われます。そうであれば、難波(大領域)のなかの長柄(中領域)のなかの豊碕(小領域)にあったと考え、その位置をさらに絞り込んでみました。

 この考えに基づけば、現・豊崎神社付近が有力候補になるのですが、地勢的には洪水の影響を受けやすい旧・中津川寄りであることと、神社境内の発掘調査(注①)でも七世紀の遺跡は未検出であり、判断しかねてきました。そうした状況が10年ほど続いていたところ、この度、赤尾恭司さん(多元的古代研究会・幹事)からある史料をご紹介頂きました。織田信長と摂津石山本願寺との合戦の布陣絵図『石山古城図』(注②)です。

 同古城図の元になったと思われる古地図には、それを偽造とする喜田貞吉氏の批判(注③)があります。たとえば上町台地を東西に横断する複数の河川などは存在が疑われており、全体の構図には不審点があります。しかし、記された地名は江戸期の認識を反映したものと思われ、「南長柄」「本庄豊﨑」「長柄川」「中津川」などの名称は作成当時に存在していたとしてもよいように思われます。

 そうした視点で長柄地域を精査すると、「天満山」に「織田信長本陣」がおかれていることに気づきました。敵対する石山本願寺の北側に、川を距てて織田軍の本陣が置かれていることから、「天満山」は地勢的に本陣を置くにふさわしい場所だったと思われます。そうであれば、同様の理由から、その地は難波長柄豊碕宮の有力な候補地と考えてもよいのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①伊藤純「豊崎神社境内出土の土器」『葦火』26号、大阪市文化財協会、1990年。
古賀達也「洛中洛外日記」561話(2013/05/25)〝豊崎神社境内出土の土器〟
②『石山古城図』国会図書館蔵。江戸期成立の絵図と思われる。
③喜田貞吉「難波の京」『摂津郷土史論』日本歴史地理学会編、1927年(昭和二年)。


第3310話 2024/06/25

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (3)

 九世紀の大阪(摂津国)に「長柄(ながら)」地名があったことを示す『日本後記』『日本文徳天皇實録』の記事よりも更にはやい、八世紀の史料『住吉大社神代記』があることを谷本茂さん(『古代に真実を求めて』編集部)から教えて頂きました。『住吉大社神代記』は、わたしも三十年前に研究したことがあり、当時の資料ファイルを書架から引っ張り出しました。わたしが持っている「校訂住吉大社神代記」(注)コピーには、「長柄」地名が記されている部分に傍線を引いていましたので、わたしも注目していたようです。当該部分を引用します。

 「長柄神」〔長柄の神〕
「難波長柄泊賜。膽駒山嶺登座時。」〔難波の長柄に泊り賜ふ。膽駒山の嶺に登り座す時。〕
「自長柄泊登於膽駒峯賜」〔長柄の泊(とまり)より膽駒の嶺に登り賜ひて〕
「長柄船瀬本記
四至(東限高瀬。大庭。南限大江。西限鞆淵。北限川岸。
右。船瀬泊~」〔長柄船瀬の本記 四至(東を限る、高瀬・大庭。南を限る、大江。西を限る、鞆淵。北を限る、川*岸。 右の船瀬泊は~)〕 ※「*岸」は土偏に岸。
「自筑紫難波長柄 仁 依坐 弖」〔筑紫より難波の長柄に依り坐して〕

 『住吉大社神代記』の奥書には「天平三年七月五日」(731年)とあり、この成立年次が正しければ八世紀前半には「長柄」地名があったことになります。しかも、「長柄船瀬本記」に見える長柄船瀬の四至により、長柄船瀬は上町台地の北にあると理解されているようです。脚注に次の説明があります。

○高瀬―和名抄、河内国茨田郡高瀬郷あり。播磨国風土記に「摂津国高瀬之済」とみゆ。行基年譜に「直道一所、高瀬より生馬大山への登道あり」とみえることに注意。
○大庭―河内志、茨田郡に大庭荘・大庭渠あり。
○大江―上町台地の北にそそぐ河内川なるべし。
○鞆淵―摂津志、東生郡に友淵あり。
○川*岸―この川は摂津志西生郡の長柄河(一名中津川)なるべし。

 この脚注が正しければ、長柄船瀬は大阪市北区長柄の地にあったとしてもよいように思いますし、大きくは外れていないのではないでしょうか。(つづく)

(注)田中卓『住吉大社史』上巻「校訂住吉大社神代記」「訓解住吉大社神代記」1963年。


第3309話 2024/06/24

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (2)

 九世紀の大阪(摂津国)に「長柄(ながら)」地名があったことを紹介しました。次の『日本後記』と『日本文徳天皇實録』の記事です。

○『日本後記』嵯峨天皇弘仁三年(812)六月条
「己丑(5日)。遣使造攝津國長柄橋。」
○『日本文徳天皇實録』仁壽三年(853)十月戊辰(11日)条
「攝津國奏言、長柄三國両河、頃年橋梁断絶人馬不通。請准堀江川置二隻舩、以通濟渡。許之。」

 大阪市北区長柄の北側を淀川が流れます。当時はその部分が長柄川と呼ばれていたようで、後に中津川と呼ばれた時代もあったようです。今も北区に中津という地名が残っています。地下鉄御堂筋線に中津駅があり、その東側に孝徳天皇を祀る豊崎神社が鎮座しています。豊崎神社の由来について、戸田繁次氏著『稿本 長柄郷土誌』(注①)に次の記事があることを「洛中洛外日記」(注②)で紹介しました。

 「豊崎神社
豊碕東通四丁目に鎭座。孝徳天皇を主神として相殿に須佐男命を祀る。
由緒に依ると長柄豊碕宮の旧蹟地で宮の廃せられし後、星霜を経るに從ひ荒蕪の地となり、宮跡の一隅は一帯の松林となって世人はこれを八本松と呼んでゐたのを、正歴年間藤原重治、これを開墾するに當り、孝徳天皇故宮の湮滅せんことを畏れ樹林中に小祠を建立して、皇蹟を崇敬追拜し奉ったのに起る。」『稿本 長柄郷土誌』

 正歴年間(990~994年)に、難波長柄豊碕宮旧跡地が湮滅してしまうことを恐れた藤原重治という人物が同地に小祠を建立したことが豊崎神社の始まりと伝えています。

 正暦年間とは、聖武天皇が造営した難波宮(後期難波宮)が廃止された延暦十二年(793年、『類従三代格』三月九日官符)の二百年後です。当時、聖武天皇の難波宮跡地(後期難波宮・上町台地法円坂)が人々から全く忘れ去られていたとは考えにくく、むしろ孝徳天皇の難波長柄豊碕宮と聖武天皇の難波宮は別の場所と考えられていたのではないでしょうか。現在も北区にある「長柄」地名が九世紀以前に遡ることから、その地が難波長柄豊碕宮旧跡地と認識されており、同地に豊崎神社を建立し、孝徳天皇を祭神として祀ったと考えざるを得ません。もし、法円坂に孝徳天皇の難波長柄豊碕宮があったのなら、上町台地に古くから孝徳天皇を祀る神社があってもよいはずですが、寡聞にしてそのような神社を知りません。(つづく)

(注)
①戸田繁次氏著(戸田次郎氏蔵)『稿本 長柄郷土誌』1994年。
http://nora.my.coocan.jp/mac/Saigoku/Nagara/LIB/Nagara/index.html
②古賀達也「洛中洛外日記」268話(2010/06/19)〝難波宮と難波長柄豊碕宮〟


第3308話 2024/06/23

孝徳天皇「難波長柄豊碕宮」の探索 (1)

 『日本書紀』孝徳紀に記された難波長柄豊碕宮を大阪市北区の長柄豊崎とした喜田貞吉氏の見解は(注①)、『日本書紀』の史料事実と現存地名との対応に基づいており、山根徳太郎氏による難波宮跡発見までは最有力説であったと思われます。しかし、前期難波宮が九州王朝の王宮(難波宮)であれば、その遺跡は孝徳天皇の難波長柄豊碕宮ではありませんから、喜田説に戻って、大阪市北区の豊崎・長柄を有力候補として探索することにしました。

 そこで、まず当地の豊崎や長柄という地名が古代まで遡ることができるのかを調べたところ、次の二史料に「長柄」が見つかりました。

○『日本後記』嵯峨天皇弘仁三年(812)六月条
「己丑(5日)。遣使造攝津國長柄橋。」

○『日本文徳天皇實録』仁壽三年(853)十月戊辰(11日)条
「攝津國奏言、長柄三國両河、頃年橋梁断絶人馬不通。請准堀江川置二隻舩、以通濟渡。許之。」

 両史料は六国史であり、信頼できる記事です。摂津国に長柄川があり、そこに橋を架けたという記事と、その橋が壊れたため、渡し船を置いたという、九世紀前半~中頃の記事です。両記事に見える長柄という川名や橋名から、九世紀初頭頃に長柄地名があったことを疑えません。この長柄川や長柄という地名の存在は、織田信長と摂津石山本願寺との合戦の布陣絵図『石山古城図』(注②)にも記されており、古代から現代まで継続した地名であることがわかります。また、同絵図には「南長柄」の西に「本庄豊崎」という地名も見え、現代の北区豊崎・長柄と位置関係が一致しています。(つづく)

《追補》本稿執筆後、谷本茂さん(『古代に真実を求めて』編集部)より、『石山古城図』なるものは喜田貞吉氏が偽造物と指摘した難波古地図を基にしており、慎重な取り扱いが必要であること、『住吉大社神代記』に「長柄」地名が見えることなどをご教示いただきました。本稿論旨への影響について再考し、続稿に反映させたいと思います。ご教示に感謝いたします。

(注)
①喜田貞吉著『帝都』に次の見解があることを山根徳太郎氏が『難波の宮』で紹介している。

 「孝徳天皇大化の新宮は、実に此難波宮にて行はれた。精しくは難波長柄豊碕ノ宮と申す。今の豊崎村大字南北長柄は、実に其の名を伝へて居るものであろう。此所に始めて支那の長安城に模した新式の都城が経営された。」

②『石山古城図』国会図書館蔵。赤尾恭司氏(多元的古代研究会・幹事)より同絵図を紹介して頂いた。江戸期成立の絵図と思われる。この絵図の元本は大阪市東淀川区の定専坊(じょうせんぼう)所蔵『石山合戦配陣図』と思われる。


第3169話 2023/12/01

飛鳥宮内郭から長大な塀跡出土(4)

 飛鳥宮跡は大きくは三期の遺構からなり、通説では、Ⅰ期は舒明天皇の飛鳥岡本宮(630~636)、Ⅱ期は皇極・斉明天皇の飛鳥板蓋宮(643~645、655)、Ⅲ-A期は斉明・天智天皇の後飛鳥岡本宮(656~660)、Ⅲ-B期は同宮を拡張した天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮(672~694)とされ、これらは昭和35年から約190回にわたって行われた発掘調査に基づいています。他方、Ⅱ期を後飛鳥岡本宮、Ⅲ期を飛鳥浄御原宮とする佐藤隆さんの説などもあります(注①)。しかし、同遺構を三期にわけること自体は出土事実に基づいており、異論はないようです。

 いずれの遺構も『日本書紀』の記事に基づき、「飛鳥○○宮」と命名されており、それらが「飛鳥」と呼ばれる地域内にあったことを示しています。この七世紀における「飛鳥」の範囲については諸説ありますが、広く見る説では、北は香具山付近、南は稲淵付近にかけての飛鳥川両岸一帯とします(注②)。

 以上のように、飛鳥宮跡遺跡の調査により、七世紀における近畿天皇家の宮殿の姿が徐々に明らかとなり、地名や出土事実が『日本書紀』の記事と対応しうることから、その説得力を増しつつあります。この度、Ⅰ期の長大な塀跡が飛鳥宮跡「内郭」の位置から出土したことにより、七世紀前半においても当地に大型の宮殿があったことが推定できるようになりました。そして、その建築方位は南北正方位ではなく、七世紀中頃のⅡ期に至って、正方位の建物が飛鳥宮跡地域に出現することから、九州王朝による正方位の巨大宮殿、前期難波宮創建(652年)の影響(設計思想)が、畿内の近畿天皇家にも及んだものと思われます。

 わたしたち九州王朝説論者も、飛鳥宮跡が指し示す近畿天皇家王宮の規模(飛鳥宮跡Ⅱ期・Ⅲ期は大宰府政庁Ⅰ期・Ⅱ期よりも大規模)や建築様式の変遷に注目すべきです。多元史観・九州王朝説の中での、近畿天皇家(後の大和朝廷)の適切な位置づけが必要であることを、今回の出土は示唆しているのではないでしょうか。なかでも考古学的出土事実と『日本書紀』の飛鳥宮記事が対応しうることは、『日本書紀』の当該記事の信頼性を高め、それに関連する記事も史実である可能性が高くなることに留意しなければなりません。(おわり)

(注)
①佐藤隆「前期難波宮造営過程の再検討 ―飛鳥宮跡との比較を中心に―」『大阪歴史博物館 研究紀要』第20号、2022年。
②湊哲夫『飛鳥の古代史』星雲社、2015年。
古賀達也「洛中洛外日記」2852~2853話(2022/10/04-05)〝宮名を以て天皇号を称した王権(3)~(4)〟
同「宮名を以て天皇号を称した王権」『多元』173号、2022年。


第3033話 2023/06/06

律令制都城論と藤原京の成立(2)

新庄宗昭さんの力作『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』を改めて精読しました(注①)。新庄説と通説との最大の違いは、藤原京条坊の造営開始年代を孝徳期~斉明期とすることです。通説では天武期とします。最大で約30年もの差異がありますが、わたしは通説を支持しています。この問題については後述することにして、新庄説とわたしの説の一致点に興味を覚えました。両者には次のような一致点があります。

【新庄説と古賀説の一致点】
(1) 前期難波宮(難波京)を九州王朝(新庄さんは「上位権力X」「鼠」「倭」と表現)による652年創建の王宮・王都とする。(注②)
(2) 藤原京条坊(新庄さんは「先行条坊」「倭京条坊」と表現)創設当初の中枢遺構が長谷田土壇にあった可能性(喜田貞吉説)を指摘。(注③)
(3) 持統紀に見える「新益京」を、藤原宮(大宮土壇)創建により、同宮を周礼型の中心地となるように京域を拡大したことによる名称とする。(注④)
(4) 難波(難波津)には前期難波宮創建以前に既に九州王朝が進出していた。(注⑤)

以上の一致点は九州王朝説にとっていずれも重要なテーマであり、新庄説の登場はとても心強く思いました。(つづく)

(注)
①新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。
②古賀達也「前期難波宮は九州王朝の副都」『古田史学会報』85号、2008年。『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年)に収録。
③古賀達也「洛中洛外日記」544話(2013/03/28)〝二つの藤原宮〟
同「洛中洛外日記」545話(2013/03/29)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟
④同「洛中洛外日記」547話(2013/04/03)〝新益京(あらましのみやこ)の意味〟
⑤同「洛中洛外日記」1268話(2016/09/07)〝九州王朝の難波進出と狭山池築造〟
「難波の都市化と九州王朝」『古田史学会報』155号、2019年。


第3000話 2023/04/28

九州年号「大化」年間に

   編纂された「大宝律令」 (2)

 井上光貞説では、「大宝律令」の編纂開始は文武四年(697)、九州年号の大化三年からとされています。すなわち、「大宝律令」は九州王朝の時代、大化年間に編纂された言わば〝大化律令〟とでも称すべきものなのです。この理解(史実)は様々な問題を惹起します。その一例を紹介します。
『令集解』戸令には下記のように「古記同之」とあることから、古記とされた「大宝戸令」には、行政単位「郡」を採用したことがわかります。

〝凡郡以廿里以下。十六里以上。爲大郡。(中略)〔古記同之。〕〟『令集解』巻第九 戸令一(注①)。〔〕内は細注。

 これは戸令の一部ですが、「大宝戸令」編纂時の七世紀末は九州王朝が制定した行政単位「評」の時代です。ところが、ここでは既に「郡」としていますから、大化三年(697)頃、近畿天皇家は王朝交代後に「評」から「郡」に変更する意志を固めていたことがうかがえます。従って、荷札木簡などが701年以降は全国一斉に「郡」表記に変更されているという出土事実もあり、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代がほぼ平和裏に、周到な準備のもとに行われたと理解せざるを得ません。
こうした王朝交代直前の権力移行準備が九州年号「大化」年間に行われていることを考えると、この「大化」という年号の字義「大きく化す」にも注目せざるを得ません。これは王朝交代を前提にした年号かもしれません。そうであれば、「大化」への改元を実質的に決めたのは持統ら近畿天皇家だったのかもしれません。九州年号で見ると、持統の藤原宮遷都が朱鳥九年(694)十二月になされており、その翌年には「大化」へ改元しています。すなわち、大化年間の藤原宮では〝大いなる変化〟=王朝交代へとまっしぐらに突き進んでいたのではないでしょうか。
こうした推定が正しければ、大化九年の翌年(704)に九州年号は「大長」に改元されていますが、この「大長」の字義にも何かいわくがありそうです。もしかすると「大長」は、王朝交代を快く思わない九州王朝の残存勢力により、〝大いに長ず〟という希望を込めた年号だったのでしょうか。しかし、大長九年(712)で九州年号は終わりを告げています。その年に九州地方で反乱があり、大和朝廷により鎮圧された痕跡が『続日本紀』に見えます(注②)。その後も九州王朝の残影が『万葉集』などに遺されているようです(注③)。稿を改めて紹介したいと思います。(おわり)

(注)
①『国史大系 令集解 第二』吉川弘文館、昭和四九年(1974)。
②古賀達也「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』78号、2007年。
③赤尾恭司氏(多元的古代研究会・会員、佐倉市)が「古田史学リモート勉強会(2023年4月8日)」他で、「天平時代の「筑紫」の様相…西海道節度使に関する万葉歌を手掛かりとして」を発表している。


第2999話 2023/04/28

九州年号「大化」年間に

   編纂された「大宝律令」 (1)

九州王朝律令の研究をしていて、改めて気付いたことがありました。それは、大和朝廷の最初の律令、「大宝律令」は九州王朝の時代、七世紀末に編纂されたという事実です。具体的には九州年号の大化年間(695~703年。注①)、おそらくは文武天皇即位前後の697~700年頃に撰定作業が行われたと考えられています。なお、「大宝律令」が大和朝廷にとって初めての律令であることについて、『古代は輝いていたⅢ』(注②)に古田先生による次の指摘があります。

〝その一つは、大宝元年(七〇一)に「律令を撰定す。是に於て始めて成る」(『続日本紀』文武天皇)の記事であり、その二は、「大宝元年を以て律令初めて定まる」(威奈大村骨蔵器、慶雲四年=七〇七)の金石文だ。両者そろって“七世紀以前に、近畿天皇家制定の律令なし”の事実を、率直に告白していたのである。〟(ミネルヴァ書房版、316頁)

この「大宝律令」の撰定時期について、岩波の新日本古典文学大系『続日本紀 一』(注③)では次のように説明されています。

〝井上光貞は撰定の過程を以下のように整理している(「日本律令の成立とその注釈書」『著作集』一)。大宝令の撰定事業は、文武の即位直後もしくはその少し前の立太子直後に開始され、文武四年三月以前にその編纂は終わっており、文武四年三月の(1)においてそれを朝廷官人に披露するとともに、大宝律の撰成に入り、同年六月の(2)において大宝令の編纂終了にともなう編纂者への賜禄の儀が行われた。〟(『続日本紀 一』287頁)

ここでの(1)(2)とは次の『続日本紀』の記事です。

(1)文武四年(700)三月甲子、詔諸王臣読習令文。又撰成律条。
(2)文武四年(700)六月甲午、勅浄大参刑部親王、…等、撰定律令。賜禄各有差。

「大宝令の撰定事業は、文武の即位直後もしくはその少し前の立太子直後に開始され、文武四年三月以前にその編纂は終わっており」とする井上光貞説によれば、文武立太子の持統十一年(697)二月か、即位した文武元年(697)八月の直後に大宝令の編纂が開始されており、その年は九州年号の大化三年に当たります。そして大宝律令編纂を完了したのが文武四年(700)で、これは大化六年に当たります。(つづく)

(注)
①701年の王朝交代後も九州年号「大化七年~九年(701~703年)」「大長元年~九年(704~712年)」が続いたとする次の拙稿がある。
「最後の九州年号 ―『大長』年号の史料批判」『「九州年号」の研究』、古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』77号、2007年。
「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」同上。初出は『古田史学会報』78号、2007年。
「九州年号の史料批判 ―『二中歴』九州年号原型論と学問の方法―」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』『古代に真実を求めて』20集、明石書店、2017年。
「九州年号『大長』の考察」同上。初出は『古田史学会報』120号、2014年。
②古田武彦『古代は輝いていたⅢ』朝日新聞社、昭和六十年(一九八五)。ミネルヴァ書房より復刻。
③新日本古典文学大系『続日本紀 一』岩波書店、1989年。


第2996話 2023/04/25

多元的「天皇」併存の新試案 (1)

 古田説では「天皇」号について、(A)九州王朝(倭国)の天子をナンバーワンとして、九州王朝が任命したナンバーツーとしての「天皇」(701年の王朝交代前の近畿天皇家)という概念と(注①)、(B)九州王朝の天子が別称として「天皇」を称するケースを晩年に提起(注②)されました。すなわち、九州王朝時代における天子(上位者)と天皇(下位者)という位づけ「天子≠天皇」(A)と、[天子=天皇(別称)」とする(B)の概念です。わたしは(A)の概念(旧古田説)を支持していますが(注③)、古田学派内では(B)を支持する見解(注④)もあり、まだ論議検討中のテーマです(注⑤)。
他方、古田武彦著『古代史をゆるがす 真実への7つの鍵』(注⑥)には、古代史料に見える「天皇」号について次のように述べています。

〝(前略)日出処天子というのは筑紫の天子です。
それに対して近畿天皇家のほうは大王です。その点については七世紀前半の史料と思われる法隆寺の「薬師仏造像記」をみると、はっきりわかります。ここでは用明天皇のことを「天皇」、推古天皇を二回にわたって「大王天皇」といっています。中国の『資治通鑑』という史料をみると唐代のところで第三代の天子の高宗は「高宗天皇」と表現されています。天皇というのは「殿下」などのような敬称なのです。その上にくるものが問題なので、高宗天皇といえば天子に対する敬称であり、大王天皇といえば大王に対する敬称となるのです。つまり「大王は天子ではない」のです。しかし七世紀前半に多利思北孤は天子を称していました。〟ミネルヴァ書房版、143頁。

 この古田先生の解説は難解です。前半では、用明や推古の「天皇」「大王天皇」号を多利思北孤(天子)の下位・ナンバーツー「天皇」表記で、古田説(A)に対応しています。ところが後半では、「天皇」は「殿下」などのような敬称とされ、天子(高宗)でも大王(用明、推古)でも使用できるとするものです。この理解ですと、位付けとは直接関係のない、「殿下」のような一般的な敬称として「天皇」号が使用できることとなり、その場合は(A)の「天皇」号とは異なる概念になるのではないでしょうか。したがって、「天子の別称」とする(B)に近いのかもしれません。いずれにしても難解な解説ですので勉強を続けます。(つづく)

(注)
①古田武彦『古代は輝いていたⅢ』「第二章 薬師仏之光背銘」朝日新聞社刊、1985年。
②古田武彦「金石文の九州王朝 歴史学の転換」『なかった 真実の歴史学』第六号、ミネルヴァ書房、2009年。
同『古田武彦が語る多元史観』「第六章 2飛鳥について」ミネルヴァ書房、2014年。
③古賀達也「『船王後墓誌』の宮殿名 -大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か-」『古田史学会報』152号、2019年6月。
同「七世紀の『天皇』号 ―新・旧古田説の比較検証―」『多元』155号、2020年。
同「大和『飛鳥』と筑紫『飛鳥』」『東京古田会ニュース』203号、2022年。
④西村秀己「『天皇』『皇子』称号について」『古田史学会報』162号、2021年。
服部静尚「野中寺彌勒菩薩像銘と女帝」『古田史学会報』163号、2021年。
同「九州王朝の天皇はどう呼ばれたか」『東京古田会ニュース』208号、2023年。
⑤九州王朝のナンバーワン称号を「法皇」とする次の論稿がある。
日野智貴「九州王朝の『法皇』と『天皇』」『古田史学会報』163号、2021年。
⑥古田武彦『古代史をゆるがす 真実への7つの鍵』原書房、1993年。ミネルヴァ書房より復刊。