近畿天皇家一覧

第691話 2014/04/08

近畿天皇家の宮殿

 このところ特許出願や講演依頼(繊維機械学会記念講演会)を受け、その準備などで時間的にも気持ち的にも多忙な日々が続いています。若い頃よりもモチベーション維持に努力が必要となっており、こんなことではいけないと自らに言い聞かせている毎日です。

 さて、701年を画期点とする九州王朝から近畿天皇家への王朝交代の実体について、多元史観・古田学派内でも諸説が出され、白熱した論議検討が続けられています。「古田史学の会」関西例会においても「禅譲・放伐」論争をはじめ、様々な討議が行われてきました。
 そこで、701年以前の近畿天皇家の実体や実勢を考える上で、その宮殿について実証的に史料事実に基づいて改めて検討してみます。もちろん『日本書紀』 の記事は、近畿天皇家の利害に基づいて編纂されており、そのまま信用してよいのかどうか、記事ごとに個別に検討が必要であること、言うまでもありません。 従って、金石文・木簡・考古学的遺構を中心にして考えてみます。
 『日本書紀』の記事との関連で、700年以前の近畿天皇家の宮殿遺構とされているものには、「伝承飛鳥板葺宮跡」(斉明紀・天武紀)、「前期難波宮遺 構」(孝徳紀)、「近江大津宮遺構(錦織遺跡)」(天智紀)、「藤原宮遺構」(持統紀)などがよく知られています。「前期難波宮」と「近江大津宮」については、九州王朝の宮殿ではないかとわたしは考えていますので、近畿天皇家の宮殿とすることについて大きな異論のない「伝承飛鳥板葺宮跡」と「藤原宮遺構」 について今回は検討してみます(西村秀己さんは、「藤原宮」には九州王朝の天子がいたとする仮説を発表されています)。
 幸いにも両宮殿遺構からは多量の木簡が出土しており、両宮殿にいた権力者の実像が比較的判明しています。たとえば「伝承飛鳥板葺宮跡」の近隣にある飛鳥池遺跡から出土した木簡には「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」などと共に、「詔」の字が記されたものも出土していることから、その地の権力者 は「天皇」を名乗り、「詔勅」を発していたことが推測されます。
 「藤原宮遺構」からは700年以前の行政単位である「評」木簡が多数出土しており、その「評」地名から、関東や東海、中国、四国の各地方から藤原宮へ荷物(租税か)が集められていたことがわかります。これらの史料事実から、700年以前の7世紀末に藤原宮にいた権力者は日本列島の大半を自らの影響下にお いていたことが想定できます。
 その藤原宮(大極殿北方の大溝下層遺構)からは700年以前であることを示す「評」木簡(「宍粟評」播磨国、「海評佐々理」隠岐国)や干支木簡(「壬午年」「癸未年」「甲申年」、682年・683年・684年)とともに、大宝律令以前の官制によると考えられる官名木簡「舎人官」「陶官」が出土しており、 これらの史料事実から藤原宮には全国的行政を司る官僚組織があったことがわかります。7世紀末頃としては国内最大級の礎石造りの朝堂院や大極殿を持つ藤原宮の規模や様式から見れば、そこに全国的行政官僚組織があったと考えるのは当然ともいえます。
 こうした考古学的事実や木簡などの史料事実を直視する限り、701年以前に近畿天皇家の宮殿(「伝承飛鳥板葺宮跡」「藤原宮遺構」)では、「詔勅」を出したり、おそらくは「律令」に基づく全国的行政組織(官僚)があったと考えざるを得ないのです。九州王朝から近畿天皇家への王朝交代について論じる際は、 こうした史料事実に基づく視点が必要です。


第689話 2014/04/03

近畿天皇家の称号

 近畿天皇家が701年の王朝交代以降は「天皇」を称号としていたことは明確ですが、それ以前については古田学派内でも諸説あり、やや「混乱」しているようにも見えます。この問題について、実証的に史料事実に基づいて改めて考えてみました。
 まず、古田先生の著作では史料根拠を提示して、7世紀初頭頃には「天皇」号を称していたと論述されています。『古代は輝いていた・3』(朝日新聞社。 269頁)によれば、法隆寺薬師仏後背銘にある「天皇」「大王天皇」を7世紀初頭の同時代金石文とされ、それを根拠に推古ら近畿天皇家の主は「大王」や 「天皇」を称していたとされました。もちろん、九州王朝の「天子」をトップとしての、ナンバーツーとしての「天皇」号です。
 その後の近畿天皇家の称号を確認できる史料根拠としては、飛鳥池遺跡から出土した7世紀後期(天武の頃と編年されています)の「天皇」木簡や「皇子」木簡(舎人皇子、穂積皇子、大伯皇子)があります。これらの史料事実から、近畿天皇家は7世紀前期と後期において「天皇」号を用いていたことがわかります。 これもまた、九州王朝の「天子」の下でのナンバーツーとしての「天皇」です。
 その後、8世紀になると九州王朝に替わってナンバーワンとしての「天皇」号を近畿天皇家は名乗りますが、同時に「天子」や「皇帝」などの称号も併用しています。その史料根拠の一つは『養老律令』です。その「儀制令第十八」には次のように記されています。
 「天子。祭祀に称する所。」
 「天皇。詔書に称する所。」
 「皇帝。華夷に称する所。」
 「陛下。上表に称する所。」
 このように『養老律令』では複数の称号の使い分けを規定しているのです。おそらくこうした「儀制令」の規定は『大宝律令』にもあったと思われますが、その実用例として、和銅五年(712)成立の『古事記』序文(上表文)に、当時の元明天皇に対して「皇帝陛下」と記していますから、701年以後は近畿天皇家の称号として、「天皇」の他にも「天子」「皇帝」を併用していたことがうかがえるのです。おそらくは、九州王朝での呼称(「九州王朝律令」)を先例としたのではないでしょうか。


第584話 2013/08/20

天智天皇の年号「中元」?

 わたしは第580話「近江遷都と王朝交代」に おいて「天智の時代の九州年号は「白鳳」で、白鳳年間(661~683)に天智の称制即位(662)から没年(671)までが入っていますが、即位年も没年も、新王朝の創立者として「建元」もされず、九州王朝の継承者としての「改元」もされていません。」と記したのですが、先日の関西例会の質疑応答のとき に、竹村順弘さん(古田史学の会・全国世話人)から、天智天皇の年号「中元」について関西例会で報告したことがあるとの御指摘がありました。
 確かに2011年5月の関西例会で竹村さんはそのことを発表されていました。そのときの発表を、わたしは失念していますので、恐らく「中元」を九州年号ではなく誤記誤伝の類と判断したのだと思います。しかし、現在では研究や認識が進んできたこともあり、この竹村さんの指摘には大変驚きました。
 『続日本紀』の天皇即位の宣命中に見える「不改常典」は、内容の詳細については諸説があり、未だ明確にはなっていませんが、近畿天皇家にとって自らの権威の根拠が天智天皇が発した「不改常典」にあると主張しているのは確かです。そうすると、天智天皇は近江大津宮でそうした「建国宣言」のようなものを発し たと考えられますが、それなら何故九州王朝に代わって自らの年号を建元しなかったのかという疑問があるとわたしは考えていました。ところが、竹村さんが指摘された天智の年号「中元」が江戸時代の諸史料(『和漢年契』『古代年号』『衝口発』他)に見えていますので、従来のように無批判に「誤記誤伝」として退けるのではなく、「中元」年号を記した諸史料の史料批判も含めて、再考しなければならないと考えています。ちなみに「中元」元年は天智天皇即位年 (668)で、天智の没年(671)までの4年間続いていたとされています。
 もちろんこの場合、「中元」は九州年号ではなく、いわば「近江年号」とでも仮称すべきものとなります。「中元」年号について先入観にとらわれることなく再検討したいと思います。
 それにしても、こうした予想外の御指摘をいただけるのも「古田史学の会」関西例会ならではと、竹村さんや参加者の皆さんに感謝しています。


第580話 2013/08/15

近江遷都と王朝交代

 今年もNHKの大河ドラマ「八重の桜」を楽しみに見ていますが、前半のクライマックス「会津戦争」が終わり、今週からは京都を舞台にした「京都 編」が始まりました。同志社大学校舎が建てられた旧薩摩藩邸跡地や大久保利通邸跡地などの石碑がご近所にありますので、とても身近に感じられる大河ドラマです。娘の母校の同志社大学からも新島八重の生涯を紹介したパンフレットが送られて来るなど、並々ならぬ力の入れようです。

 近江大津宮についての考察を続けてきましたが、いよいよ最後のテーマ「王朝交代」の考察に入ります。これまでの考察をまとめますと、遷都年は『日本書紀』天智6年(667)と『海東諸国紀』の白鳳元年(661)とする二説があり、下層出土土器の編年(飛鳥編年による)から白鳳元年(661)説のほうが妥当と思われるということでした。しかし、『日本書紀』天智紀などの記事から、天智が近江大津宮にいたことは、特に否定できるような疑問点も見あたり ませんから、史実としてよいでしょう。そうすると、九州王朝により造営され「遷都」した大津宮に、天智天皇は「遷都」したことになります。すなわち、二つの王朝が同じ大津宮に異なる時期に「遷都」し、君臨したと考えてみてはどうでしょうか。
 白村江戦の敗北と九州王朝の筑紫君薩野馬の抑留などにより、大きなダメージを受けた九州王朝に代わって、天智は主人不在の大津宮で新王朝の樹立、または九州王朝からの王権の継承を宣言したのではないかという作業仮説(アイデア)が浮かんでいるのですが、そのことと関連するのではないかと思われる史料根拠があります。
 第577話で触れた『続日本紀』に見える「不改の常典」、すなわち「大津宮の天皇が定めた不改常典により、わたしは天皇位につく」という趣旨の宣命もその史料痕跡の一つなのですが、『日本書紀』天智7年(668)7月条に見える次の記事が注目されます。

 時の人の曰く、「天皇、天命将及」といふ。

 岩波『日本書紀』には、「天命将及」に「みいのちをはりなむとす」という訓みをつけ、頭注には「中国で王朝交代の意」との説明をしています。訓みは天智天皇の寿命のこととする変な解釈を行っていますが、やはり頭注で説明された「王朝交代」のこととするべきです。多元史観では何の問題もなく「王朝交代」と字義にそった解釈が可能ですが、近畿天皇家一元史観では天智天皇の寿命のこととする矮小な解釈しかできないのです。先の「不改常典」の内容についても一元史観の諸説が提案されていますが、いずれもうまく説明できていません。「天命将及」も同様に一元史観ではうまく説明できないのです。
 ちなみに、『日本書紀』天智7年(668)7月条の、「天命将及」を天智天皇が大和朝廷の創立者であったとする証拠として指摘された論者に中村幸雄さん(古田史学の会草創の同志、故人)がおれらます。このことが記された中村さんの研究論文「誤読されていた日本書紀」は当ホームページに掲載されていますので、是非ご覧ください。
 さらにもう一つ、朝鮮半島の史料『三国史紀』新羅本紀の文武王10年条(670)に見える次の記事です。

倭国、更(あらた)めて日本と号す。自ら言う。日出づる所に近し。以(ゆえ)に名と為すと。

 文武王10年条(670)ですから天智9年に相当します。倭国から日本国への国名の変更記事ですが、『旧唐書』では倭国伝(九州王朝)と日本国伝 (近畿天皇家)を書き分けられていますから、同様に考えれば『三国史紀』のこの記事も倭国(九州王朝)から日本国(近畿天皇家)への「交代」を反映した記事ではないでしょうか。
 以上のように、天智が大津宮で「王朝交代」を行った史料痕跡が見えるのですが、もしこの推論が正しかったとすれば、天智は「王朝交代」に成功したので しょうか。この点は比較的はっきりしています。天智の時代の九州年号は「白鳳」で、白鳳年間(661~683)に天智の称制即位(662)から没年 (671)までが入っていますが、即位年も没年も、新王朝の創立者として「建元」もされず、九州王朝を継承者としての「改元」もされていません。ですか ら、天智は何らかの宣言(不改常典)はしたのでしょうが、「王朝交代」には成功しなかったと思われます。
 以上、近江大津宮遷都年・造営年の考察から、天智の「不改常典」「王朝交代」まで推論を試みてみました。もちろん、この推論が正解かどうかは学問的検証の対象です。一つの作業仮説(アイデア・思いつき)としてご検討していただければと思います。


第577話 2013/08/05

近江大津宮造営年の論理性

 今朝は仕事で鯖江市に向かっています。JR湖西線を走る特急サンダーバード5号に乗っているのですが、大津京駅を通過す るとき、この付近が大津宮跡(錦織遺跡)だなあと、感慨深く車窓から眺めていました。わたしは25年ほど前に錦織遺跡を訪れたことがあり、発掘残土の中に 白鳳時代の布目瓦片が多数混ざっていることに驚いた記憶があります。
 車中で、琵琶湖と山に挟まれた狭隘なこの地に、なぜ都や宮殿が造営されたのだろうと思索しているうちに、近江大津宮造営年が重要な論理性を持つことに気づきました。『日本書紀』では近江遷都を天智6年(667)のこととされていますが、『海東諸国紀』には九州年号の白鳳元年(661)と記され、6年の差があります。この差に重要な論理的問題を含んでいるのです。
 もし『海東諸国紀』の白鳳元年(661)が正しいとすれば、おそらく造営開始は650年代後半でしょうから、前期難波宮完成年(652)の数年後のこととなります。九州王朝は列島の代表者として健在の時期ですから、その副都と同様式で同じような規模の「北闕型」王宮を近畿天皇家が作ることを九州王朝が認めるはずがないでしょう。従ってこの場合、近江大津宮は九州王朝による造営と考えざるを得ないという論理性を有します。もちろん近隣の豪族(近畿天皇家を含む)らに、九州王朝が命じて造営させたのでしょう。
 次に『日本書紀』の天智6年(667)が正しい場合、その造営は白村江敗戦(663)直後から始められたと思われますから、敗戦で疲弊した九州王朝には困難な事業と考えることもできます。そうすると九州王朝副都の前期難波宮を模倣した王宮を近畿天皇家(おそらくは天智天皇)が造営したことになりますから、近畿天皇家は没落しつつある九州王朝に代わって、列島の代表者になるという自覚と決意があったものと思われます。この見方が正しければ、『続日本紀』 に見える「不改の常典」がよく理解できます。すなわち、「大津宮の天皇が定めた不改常典により、わたしは天皇位につく」という趣旨の宣命は、九州王朝に代わって列島の代表者になったのは天智天皇の不改常典(代表王朝交代の宣言、権威継承の根拠)によると主張している。そのような理解が可能となるからです。
 このように、近江大津宮造営年二説の「6年の差」は古代史理解において、決定的な差を生じさせる論理性を有していることに、わたしは気づいたのです。(つづく)


第441話 2012/07/14

「戸籍」木簡の「進大弐」とONライン

 古田史学・九州王朝説にとって、木簡が果たした役割は小さくありません。たとえば、九州王朝から近畿天皇家への王朝交代時期を701年とするONライン(OLD NEW Line)は、木簡により明確になったものです。その根拠は、行政単位が九州王朝の「評」から近畿天皇家の「郡」に替わったのが701年(大宝元年)だったことが紀年銘木簡の「評」「郡」表記でした。このように同時代文字史料としての木簡は、歴史研究にとって第一級史料なのです。

 今回、太宰府市から出土した「戸籍」木簡も同様に貴重なものですが、そこに記された「進大弐」という位階記事も、その年代を特定できる根拠の一つとなりました。この「進大弐」の位階は『日本書紀』天武14年条(685年)に制定記事がありますが、この記事にある48等の位階は他の木簡にも記されています。

 第440話で紹介した市 大樹著『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』(210ページ)によると、藤原宮から大量出土した8世紀初頭の木簡に、次のような記事がありました。

「本位進第壱 今追従八位下 山部宿祢乎夜部 / 冠」

 山部乎夜部(やまべのおやべ)の昇進記事で、旧位階「進第壱」から大宝律令による新位階「従八位下」に昇進したことが記されています。
この木簡から、天武14年(685年)に制定された位階制度から、大宝元年(701年)から大宝二年に制定された律令による新位階制度へ変更されたことがわかるのです。ここにも、位階制度のONラインが存在したことが木簡により決定的となったのです。

 従って、「進大弐」の位階が記された太宰府市出土の「戸籍」木簡も7世紀末頃のものであることがわかるのです。


第440話 2012/07/13

市 大樹著

『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』

   の紹介

 最近、木簡研究のために関連書籍や論文を読んでいますが、先月、中公新書から刊行された市 大樹著『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』(860円+税)は、なかなかの好著でした。著者は奈良文化財研究所の研究員で、木簡の専門家です。東野治之さんのお弟子さんのようで、新進気鋭の日本古代史研究者といえそうです。

 もちろん、旧来の近畿天皇家一元史観による著作ですので、そのために多くの限界も見えますが、それらを割り引いても一読に値する本です。特に、飛鳥出土木簡の最新学説や研究状況を知る上で、多元史観研究者も読んでおくべき内容が随所に含まれています。

 ご存じのように、古代木簡は7世紀後半の「天武期」以降に出土量が急激に増えます。従って、九州王朝と大和朝廷の王朝交代期における九州王朝研究にとっ ても、木簡研究は不可欠のテーマなのです。わたしも、太宰府市出土「戸籍」木簡と同様に、飛鳥出土木簡の勉強を深めなければならないと、同書を読んで痛感しました。

 なお、九州年号木簡である「元壬子年」木簡について、同書では「このうち、三条九ノ坪遺跡(兵庫県芦屋市)出土の壬子年の木簡は、弥生時代から平安時代 初頭までの遺物を含む流路から出土したもので、六五二年と断定するには一抹の不安が残る。」(26ページ)と、さらりと触れるだけで、読者には「壬子年」 の文字の上に記された「元」(従来は「三」と判読されてきた)の字の存在と意味が知られないよう、周到な「配慮」の跡が残されています。明らかに著者は、 わたしの九州年号の白雉「元壬子年」(652年)説を意識し、その上で九州王朝説・九州年号説はなかったことにしたのです。他の重要木簡については詳細な検討と解説を行っている著者でしたが、この一文を読み、「やはり逃げたな」と、わたしは思いました。近畿天皇家一元史観の限界を露呈する、日本古代史学界の深い「闇」を、そこに見たのでした。


第432話 2012/06/30

 太宰府「戸籍」木簡の「進大弐」

 今回太宰府市から出土した「戸籍」木簡は、九州王朝末期中枢領域の実体研究において第一級史料なのですが、そこに記された「進大弐」という位階は重要な問題を提起しています。

 この「進大弐」という位階は『日本書紀』天武14年正月条(685年)に制定記事があることから、この「戸籍」木簡の成立時期は685年~700年(あるいは701年)と考えられています。わたしも「進大弐」について二つの問題を検討しました。一つは、この位階制定が九州王朝によるものか、近畿天皇家によるものかという問題です。二つ目は、この位階制定を『日本書紀』の記述通り685年と考えてよいかという問題でした。

 結論から言うと、一つ目は「不明・要検討」。二つ目は、とりあえず685年として問題ない。このように今のところ考えています。『日本書紀』は九州王朝の事績を盗用している可能性があるので、天武14年の位階制定記事が九州王朝のものである可能性を否定できないのですが、今のところ不明とせざるを得ません。時期については、天武14年(685年)とする『日本書紀』の記事を否定できるほどの根拠がありませんので、とりあえず信用してよいという結論になりました。

 この点、もう少し学問的に史料根拠に基づいて説明しますと、九州王朝の位階制度がうかがえる史料として『隋書』国伝があります。それによると九州王朝の官位として、「大徳」「小徳」「大仁」「小仁」「大義」「小義」「大礼」「小礼」「大智」「小智」「大信」「小信」の十二等があると記されています。『隋書』の次代に当たる『旧唐書』倭国伝にも同様に「官を設くること十二等あり」と記されていますから、7世紀前半頃の九州王朝ではこのような位階制度であったことがわかります。

 これに対して、「戸籍」木簡の「進大弐」を含む天武14年条の位階は全く異なっており、両者は別の位階制度と考えざるを得ません。したがって、「進大弐」の位階制度は『日本書紀』天武紀にあるとおり、7世紀後半の制度と考えて問題ないと理解されるのです。文献史学ですから、史料根拠を重視することは当然でしょう。

 この結果、「戸籍」木簡に記された「進大弐」に残された問題、すなわちこの位階制度が九州王朝のものなのか、近畿天皇家のものなのかというテーマについて、わたしは毎日考え続けています。(つづく)


第268話 2010/06/19

難波宮と難波長柄豊崎宮

 第163話「前期難波宮の名称」で言及しましたように、『日本書紀』に記された孝徳天皇の難波長柄豊碕宮は前期難波宮ではなく、前期難波宮は九州王朝の副都とする私の仮説から見ると、それでは孝徳天皇の難波長柄豊碕宮はどこにあったのかという問題が残っていました。ところが、この問題を解明できそうな現地伝承を最近見いだしました。
 それは前期難波宮(大阪市中央区)の北方の淀川沿いにある豊崎神社(大阪市北区豊崎)の創建伝承です。『稿本長柄郷土誌』(戸田繁次著、1994)によれば、この豊崎神社は孝徳天皇を祭神として、正暦年間(990-994)に難波長柄豊碕宮旧跡地が湮滅してしまうことを恐れた藤原重治という人物が同地に小祠を建立したことが始まりと伝えています。
 正暦年間といえば聖武天皇が造営した後期難波宮が廃止された延暦12年(793年、『類従三代格』3月9日官符)から二百年しか経っていませんから、当時既に聖武天皇の難波宮跡地(後期難波宮・上町台地)が忘れ去られていたとは考えにくく、むしろ孝徳天皇の難波長柄豊碕宮と聖武天皇の難波宮は別と考えられていたのではないでしょうか。その上で、北区の豊崎が難波長柄豊碕宮旧跡地と認識されていたからこそ、その地に豊崎神社を建立し、孝徳天皇を主祭神として祀ったものと考えざるを得ないのです。
 その証拠に、『続日本紀』では「難波宮」と一貫して表記されており、難波長柄豊碕宮とはされていません。すなわち、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮の跡地に聖武天皇は難波宮を作ったとは述べていないのです。前期難波宮の跡に後期難波宮が造営されていたという考古学の発掘調査結果を知っている現在のわたしたちは、『続日本紀』の表記事実のもつ意味に気づかずにきたようです。
 その点、10世紀末の難波の人々の方が、難波長柄豊碕宮は長柄の豊崎にあったという事実を地名との一致からも素直に信じていたのです。ちなみに、豊崎神社のある「豊崎」の東側に「長柄」地名が現存していますから、この付近に孝徳天皇の難波長柄豊碕宮があったと、とりあえず推定しておいても良いのではないでしょうか。今後の考古学的調査が待たれます。また、九州王朝の副都前期難波宮が上町台地北端の高台に位置し、近畿天皇家の孝徳の宮殿が淀川沿いの低湿地にあったとすれば、両者の政治的立場を良く表していることにもなり、この点も興味深く感じられます。


第123話2007/02/25

藤原宮の「評」木簡

この一年間、研究してきたテーマに木簡の史料批判があります。その成果として、「元壬子年木簡」など、九州年号研究にとって画期的な発見もありましたが(第69話、72話、他)、現在わたしが最も注目しているのは藤原宮出土の「評」木簡群です。

 『日本書紀』や『続日本紀』によれば、藤原宮は持統八年(694)から平城京遷都する和銅三年(710)年まで、近畿天皇家の宮殿として機能したのですが、そこから出土する「評」木簡は、九州王朝から近畿天皇家へ権力交代する701年の直前の時期に当たる木簡であることから、権力交代時の研究をするうえでの第一級史料といえます。
たとえば、多くの木簡は「荷札」の役割を果たしたと思われますが、各地の地名を記した「評」木簡を見てみると、どのような地域から藤原宮へ貢物が届けられたかを知ることができ、当時の近畿天皇家の勢力範囲を推定することができます。
ちょっと古いデータですが、角川書店の『古代の日本9』(昭和46年)掲載資料によれば、東は安房国の「阿波評」や上野国の「車評」、西は周防国の「熊毛評」などがあり、近畿だけでなく関東や東海、中国地方の諸国の「評」地名を記した木簡が出土しています。したがって、7世紀末時点では大和朝廷は東北を除いた本州全体を支配下に置いていたと考えられます。
逆に言えば、この時点、九州王朝は九州島や四国ぐらいしか実効支配していなかったのかもしれません。そして、こうした背景(権力実態)があったからこそ、701年になってすぐ近畿天皇家は年号や律令の制定、評から郡への一斉変更をできたのではないでしょうか。藤原宮の「評」木簡を見る限り、このように思わ れるのです。