第2317話 2020/12/11

「村岡典嗣先生の思い出」

 「洛中洛外日記」2315話(2020/12/11)〝波多野精一氏と古田先生の縁(えにし)〟で、「波多野精一氏のお名前を古田先生から直接お聞きした記憶はありません」と書いたのですが、30数年前に行われた梅沢伊勢三さん(注①)との対談で、波多野精一さんについて古田先生が触れられていたことを失念していました。この対談を掲載した雑誌の記事を安田陽介さん(注②)からFacebookのコメントにて教えていただきました。
 『季節』第12号(エスエル出版、1988年)「特集 古田古代史学の諸相」に、古田先生と梅沢さんの対談(「村岡典嗣先生の思い出」)が掲載されており、古田先生が村岡先生の奥様より聞いた次の話を紹介されています。

〝波多野さんが「私は、西洋哲学については日本で最高の学問をやるつもりだ。だから君(村岡氏)は日本の思想を対象にして最高の学問を築きたまえ」と、こう言われた。それで村岡さんが非常に発憤して、よしやろうと決心したという話をお聞きしたんです。それはやっぱり明治の青年の非常に気合いにあふれた雰囲気ですね。波多野さんも講師ですから若い、まだ三十そこらのときだと思うんですが、二十代の村岡さんとね、夜を徹して話し合っている……まざまざとそれが伝わってくる話ですね。〟(74~75頁)

 この他にも、村岡先生について次のように紹介されていますので、抜粋します。古田先生の学問精神に通じるものを感じていただけると思います。

《以下、部分転載》
梅沢 あなたは何年に入学(東北大学)したのだったかね。
古田 昭和二十年の四月です。敗戦の直前ですね。
梅沢 僕が研究室の助手をしていたころだね。
古田 そうです。
梅沢 村岡典嗣先生の最後の弟子になるわけか。
古田 そうです。亡くなられたのが、昭和二十一年の四月でございましたね。だからほんとに最後のギリギリに村岡先生とお会いした感じてしたね。
梅沢 先生が亡くなられたのは六十一歳ですよ。
古田 それじゃいまの私と同年です。ずいぶんとお歳をめした先生だと思っていたんですが。いまの私がそうなんですか。
梅沢 いま、ご健在でいられたら、あなたのやっていることなんか見て、なんといわれるか。
古田 ほんとうに先生にご報告したいところですね。
 〈中略〉
梅沢 (前略)村岡先生ご自身が早稲田出身で、波多野精一さんに非常に目をかけられて、哲学をやられたわけです。早稲田の学内での発表会でもギリシャ哲学の発表をされています。(後略)
古田 その波多野さんに関して、非常に面白い話を、私は村岡先生の奥さんからお聞きした覚えがあるんです。奥さんは、与謝野晶子とか柳原白蓮とかの仲間だった方ですが、非常に素晴らしいムードを持っておられた方でしたね。村岡先生も熱烈な恋愛をして、奪いとった奥さんだったという話を聞くんですけど。波多野さんが早稲田大学の講師をしておられるときに、村岡先生は波多野さんのお家にしょっちゅう行って話をしていた。話をしだすともう話がはずんで、夜が明けてきても話してる。波多野さんのお家が狭いもので、お客さんが帰らないと家の人が寝る場所がない。小さい子供さんが隣の部屋で苛立ってきて「お客さん帰れ帰れ」って叫ぶんだそうです。村岡先生は、それが耳に入っているんだけど、話に熱中して、なお頑張り続けて話していたという話を、波多野さんの奥さんから村岡さんの奥さんがお聞きになったらしいんです。(以下、先に紹介した波多野氏と村岡先生との会話の紹介へと続く)

(注)
①水野雄司著『村岡典嗣』(ミネルヴァ日本評伝選、2018年)には「晩年の村岡が最も信頼した門弟の梅沢伊勢三(一九一〇~八九)」(222頁)と紹介されている。
②安田陽介氏は京都大学学生時代(国史専攻)に、「市民の古代研究会」で「続日本紀を読む会」(京都市)を主宰され、わたしも参加させていただいた。この会からは安田氏編著『「続日本紀を読む会」論集』創刊号(1993年7月)が発行されている。
 九州年号研究においては、「大化五子年土器」の現地調査に基づく優れた研究(「九州年号の原型について」)を、1993年7月31日の「市民の古代研究会」全国研究集会(京都市で開催)で報告された。

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