百済人祢軍墓誌の「日夲」について (2)
―古田先生との冨本銭研究の想い出―
「古田史学の会・東海」の会報『東海の古代』№248に掲載された石田泉城さん(名古屋市)の「『祢軍墓誌』を読む」の最大の論点と根拠は墓誌に記された「日夲」の文字で、「本」と「夲」は本来別字で、この部分は国名としての「日本(夲)」ではないとするものです。そして、次のように述べられています。
「文字の精査は、「壹」と「臺」を明確に区別した先師古田武彦の教えの真髄です。」『東海の古代』№248
わたしもこのことについて、全く同感です。古田ファンや古田学派の研究者であれば御異議はないことと思います。それではなぜ同墓誌の「日夲」を別字の「日本」のことと見なしたのかについて説明します。
実はこの「本」と「夲」を別字・別義とするのか、別字だが同義として通用したものと見なすのかについて、「古田史学の会」内で検討した経緯がありました。それは飛鳥池遺跡から出土した冨本銭がわが国最古の貨幣とされたときのことです。当時、「古田史学の会」代表だった水野孝夫さん(古田史学の会・顧問)から、「フホン銭と呼ばれているが、銭文は『冨夲』(フトウ)であり、それをフホンと読んでもよいものか」という疑義が呈されました(注①)。
その問題提起を受け、わたしも検討したのですが、通説通り「フホン」と読んで問題ないとの結論に至りました。古田先生も同見解だったと記憶しています。当時、古田先生とは信州で出土した冨本銭(注②)を一緒に見に行ったこともありましたが、先生も一貫して「フホン銭」と呼ばれていました。その後、わたしからの発議と古田先生のご協力により、「プロジェクト 貨幣研究」が立ち上がりしました。その成果の一端は『古田史学会報』や『古代に真実を求めて』などに収録されました(注③)。
古田先生やわたしが「冨夲」を「フホン」と呼んでもよいと判断した理由は、国内の古代史料には「夲」の字を「本」の別字として使用する例が普通にあったからです。たとえば古田先生が京都御所で実物を調査された『法華義疏』(御物、法隆寺旧蔵)の巻頭部分に記された次の文です。
「此是 大委国上宮王私
集非海彼夲」
この文は「此れは是れ、大委国上宮王の私集にして、海の彼(かなた)の夲(ほん)に非ず」と訓まれており、「夲」は「本」の同義(異体字)と認識されています。「大委国上宮王」とあることから、多利思北孤の自筆の可能性もあり、いわば九州王朝内での使用例です。
更にこの十年に及ぶ木簡研究においても、7~8世紀の木簡に「夲」の字は散見されるのですが、むしろ「本」の字を目にした記憶がわたしにはありません。ですから当時の木簡においては、「夲」が「本」の代わりに通用していたと考えてもよいほどでの史料状況なのです。たとえば明確に「本」の異体字として「夲」を用いた8世紀初頭の木簡に次の例があります。
「本位進第壱 今追従八位下 山部宿祢乎夜部/冠」(藤原宮跡出土)
これは山部乎夜部(やまべのおやべ)の昇進記事で、旧位階(本位)「進第壱」から大宝律令による新位階「従八位下」に昇進したことが記されています。この「本位」の「本」の字体が「夲」なのです。
以上のような史料事実を知っていましたので、冨本銭の「夲」の字も「本」の別字(異体字)と、むしろ見なすべきと考えられるのです。
『日本書紀』や中国史書における「日本」については、原本も同時代刊本も現存しないため、7~8世紀頃の字体は不明とせざるを得ませんが、後代版本では「日夲」の表記が散見され、その当時には「本」の異体字として「夲」が普通に使用されていたようです。具体的には『通典』(801年成立)の北宋版本(11世紀頃)には「倭一名日夲」とありますし、いつの時代の版本かは未調査ですが、岩波文庫『旧唐書倭国日本伝』に収録されている『新唐書』日本国伝の影印(163頁)にも「日夲国」の使用例が見えます。
他方、中国の金石文によれば、百済人祢軍墓誌(678年没)よりも60年ほど後れますが、井真成墓誌(734年没)には明確に国号としての日本が見え(注④)、この字体も「日夲」です。
「贈尚衣奉御井公墓誌文并序
公姓井字眞成國號日本」(後略)
従って、百済人祢軍墓誌の「日夲」も「日本」のことと理解して問題ありません。むしろ、その当時の国名表記の用字としては、「日夲」が使用されていた可能性の方が高いとするのが、日中両国の史料事実に基づく妥当な理解ではないでしょうか。(つづく)
(注)
①水野孝夫「『富本銭』の公開展示見学」『古田史学会報』31号、1999年4月。当稿においても、〝「本」字の問題(「本」の字は「木プラス横棒」ではなくて、「大プラス十」と刻字されている。ここにも意味があるかも知れない)。〟と述べている。
②長野県の高森町歴史民俗資料館に展示されている富本銭を見学した。同富本銭は高森町の武陵地1号古墳から明治時代に出土したもの。同資料館を訪問したとき、同館の方のご所望により、来訪者名簿に大きな字で、「富本銭良品 古田武彦」と先生は署名された。
③古田武彦「プロジェクト 貨幣研究 第一回」『古田史学会報』31号、1999年4月。
古田武彦「プロジェクト貨幣研究 第二回(第二信)」『古田史学会報』33号、1999年8月。
古田武彦「プロジェクト貨幣研究 第三回」『古田史学会報』34号、1999年10月。
古賀達也「プロジェクト 古代貨幣研究 第一報 古代貨幣異聞」(下にあり)
『古田史学会報』31号、1999年4月。
古賀達也「プロジェクト 古代貨幣研究 第二報 『秘庫器録』の史料批判(1)」
『古田史学会報』33号、1999年8月。
古賀達也「プロジェクト 古代貨幣研究 第三報 『秘庫器録』の史料批判(2)」
『古田史学会報』34号、1999年10月。
古賀達也「プロジェクト 古代貨幣研究 第四報 『秘庫器録』の史料批判(3)」
『古田史学会報』36号、2000年2月。
『古代に真実を求めて』第三集(2000年11月、明石書店)に「古代貨幣研究・報告集」として、次の論稿が掲載された。
古賀達也 プロジェクト貨幣研究 規約
古田武彦 プロジェクト貨幣研究 第一回、第二回、第三回
山崎仁礼男 古代貨幣研究方針
木村由紀雄 古代貨幣研究方針
浅野雄二 第一回報告
古賀達也 古代貨幣異聞
古賀達也 続日本紀と和銅開珎の謎
古賀達也 古代貨幣「無文銀銭」の謎
古賀達也 古代貨幣「賈行銀銭」の謎
古賀達也 『秘庫器録』の史料批判(1)(2)(3)
④井真成墓誌には次のように、「國號日夲」と記されている。
「贈尚衣奉御井公墓誌文并序
■公姓井字眞成國號日夲才稱天縱故能
■命遠邦馳騁上國蹈禮樂襲衣冠束帶
■朝難與儔矣豈圖強學不倦聞道未終
■遇移舟隙逢奔駟以開元廿二年正月
■日乃終于官弟春秋卅六皇上
■傷追崇有典詔贈尚衣奉御葬令官
■卽以其年二月四日窆于萬年縣滻水
■原禮也嗚呼素車曉引丹旐行哀嗟遠
■兮頽暮日指窮郊兮悲夜臺其辭曰
■乃天常哀茲遠方形旣埋于異土魂庶
歸于故鄕」
※■は判読できない欠字。