第645話 2014/01/19

「市民の古代研究会」の失敗の教訓

 「古田史学の会」を「地域の会」等とのネットワーク型の組織と運営体制にしたのは、「市民の古代研究会」の失敗の教訓からでした。1980年代、古田先生と古田史学を支持支援する団体として、関東の「古田武彦と古代史を研究する会 (東京古田会)」があり、その後、関西に「市民の古代研究会」が発足し、両団体は活発に活動していました。
 1986年にわたしは古田先生の『「邪馬台国」はなかった』を読み、古田史学に感激して「市民の古代研究会」に入会しました。ちょうど古田先生が還暦を迎えられた年でもあり、茨木市で開催された講演会で初めて先生にお会いしました。わたしが31歳のときでした。懇親会では先生の還暦のお祝いがなされ、赤いちゃんちゃんこが先生にプレゼントされたことを、今でも昨日のことのようにはっきりと覚えています。
 わたしは古代史研究だけではなく「市民の古代研究会」の活動のお手伝い(遺跡巡りの担当)も積極的に行っていました。当時、わたしは勤務先の労組委員長 や上部団体の中央委員、そして会社の経営計画作成プロジェクトなどを手がけていたこともあって、その組織運営の経験を評価していただき、「市民の古代研究会」の理事(最年少)に選ばれました。その後、事務局長の藤田友治さんが会長に就任されることになり、藤田さんから請われて後任の事務局長をお引き受けしました。
 「市民の古代研究会」事務局長の活動に専念するため、わたしは十数年続けてきた全ての労組役職を退任し、労働運動の第一線から退くことにしました。当時就任していた化学関連労組上部団体の副執行委員長を退任するにあたり、同組織の執行委員長だった前川重信さん(現・日本新薬社長)に釈明とお詫びにうかがったのですが、わたしが古代史研究の世界に入ることを快くご承諾いただき、励ましていただきました。
 それからは文字通り寝食を忘れて、「市民の古代研究会」の組織拡大に取り組みました。会員数が増えれば影響力も増し、古田史学が世に受け入れられると考え、それまで200人ほどで推移していた会員数を数年で1000人に手が届くというところまできたのです。
 これは計画通りで、「市民の古代研究会」理事会を頂点として、関西・関東・九州・東海・仙台に会員組織が発足し、広島などその他の地域にも支部結成を目指していました。しかし、この組織の急拡大に大きな失敗の原因が潜んでいました。このことを後にわたしは思い知らされることになります。(つづく)

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