第1982話 2019/09/04

『続日本紀』に見える「○○根子天皇」(2)

 『続日本紀』宣命などに見える「倭根子天皇」という称号の「倭根子」について、岩波の新日本古典文学大系『続日本紀』では、倭(やまと・今の奈良県)の中心に根をはって中心で支えるものという趣旨の解説がなされています。しかし、わたしはこの解説に納得できませんでした。というのも、元明天皇即位の宣命(慶雲四年)では天智天皇を「近江大津宮御宇大倭根子天皇」と呼び、聖武天皇即位の宣命(神亀元年)でも「淡海大津宮御宇大倭根子天皇」と呼んでおり、先の解説が正しければ滋賀の大津宮で即位し、その地で没した天智は「近江根子」か「淡海根子」であって、「倭根子」ではないからです。
 他方、奈良県(倭・やまと)の飛鳥で即位し、その地で没した天武天皇は『続日本紀』宣命では「倭根子」と呼ばれることはなく、聖武天皇の「太上天皇に奏し給へる宣命」(天平十五年)では「飛鳥浄御原宮ニ大八洲所知シ聖ノ天皇」と称されています。ところが、奥さんの持統天皇は元明天皇即位の宣命(慶雲四年)で「藤原宮御宇倭根子天皇」とあり、「倭根子」と称されているのです。天武も持統も共に倭(やまと、奈良県)に根をはった天皇であるにもかかわらず、この差は一体何なのでしょうか。
 このような疑問を抱きながら『続日本紀』宣命を読んでいると、あることに気づきました。『続日本紀』宣命の中で「倭根子」と最初に称された天皇は天智であり、それよりも前の天皇は誰も「倭根子」とはされていないのです。そこで思い起こされるのが、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が出された〝九州王朝系近江朝庭〟という仮説です。すなわち、近畿天皇家出身の天智が九州王朝を受け継いで近江大津宮で即位し、九州王朝(倭国)の姫と思われる「倭姫」を皇后に迎えたというものです。この仮説に基づけば、「大倭根子天皇」と宣命で称された最初の天皇である天智は、奈良県の倭(やまと)ではなく、九州王朝「大倭国」の倭に〝根っこ〟が繋がっていることを意味する「大倭根子」だったのではないでしょうか。この点、宣命には天智だけが「大」がつく「大倭根子天皇」とされていることも、わたしの仮説を支持しているように思われます。
 この仮説に立てば、天智と血縁関係にある子孫の天皇は「倭根子」を称することができ、そのことを定めたのが「不改の常典」とする理解も可能となります。そのため、天智の娘である持統は「倭根子天皇」と宣命に称され、天智の弟の天武は九州王朝を受け継ぐことができなかったので宣命では「倭根子」と呼ばれなかったのではないでしょうか。
 なお、淳仁天皇は天武の孫であり、通常〝天武系〟とされますが、祖母は天智の娘(新田部皇女)であるため、天智の子孫として「倭根子」を称することができたと考えることができます。文武天皇も同様で、父親は天武の子供の草壁皇子で〝天武系〟とされますが、母親は天智の娘(元明天皇)で、祖母は同じく天智の娘の持統です。
 この「倭根子」の仮説が成立するか、これから検証作業に入ります。まずは『日本書紀』の「倭根子」記事の調査と検討からです。(つづく)


第1981話 2019/09/03

『続日本紀』に見える「○○根子天皇」(1)

 『続日本紀』に見える文武元年の即位の宣命には、「現御神と大八嶋国知らしめす天皇」「高天原に事始めて、遠天皇祖の御世」「天皇が御子」「倭根子天皇」「天皇が大命」「天皇が朝庭」と、「天皇」という称号が使用されているのですが、中でも「倭根子天皇」という表記に興味を持ち、『続日本紀』宣命を調べてみたところ、次のような「○○根子天皇」の使用例がありました。

○文武元年(697)八月条 即位の宣命「現神ト大八洲国所知倭根子天皇」(持統天皇)
○元明天皇慶雲四年(707)七月条 即位の宣命「現神八洲御宇倭根子天皇」(元明天皇)
○同上 即位の宣命「藤原宮御宇倭根子天皇」(持統天皇)
○同上 即位の宣命「近江大津宮御宇大倭根子天皇」(天智天皇)
○元明天皇和銅元年(708)正月条 改元の宣命「現神御宇倭根子天皇」(元明天皇)
○聖武天皇神亀元年(724)二月条 即位の宣命「現神大八洲所知御宇倭根子天皇」(聖武天皇)
○同上 「現神大八国所知倭根子天皇」(元正天皇)
○同上 「淡海大津宮御宇大倭根子天皇」(天智天皇)
○聖武天皇神亀六年(729)八月条 改元の宣命「現神御宇倭根子天皇」(聖武天皇)
○聖武天皇天平元年(729)八月条 立后の宣命「現神大八洲国所知倭根子天皇」(聖武天皇)
○聖武天皇天平感宝元年(749)四月条 陸奥国に黄金出でたる時下し給わへ宣命「現神御宇倭根子天皇」(聖武天皇)
○孝謙天皇天平勝宝元年(749)七月条 即位の宣命「現神ト御宇倭根子天皇」(孝謙天皇)
○孝謙天皇天平宝字元年(757)七月条 諸司並に京畿の百姓に給へる宣命「現神大八洲所知御宇倭根子天皇」(孝謙天皇)
○淳仁天皇天平宝字二年(758)八月条 即位の宣命「現神坐倭根子天皇」(淳仁天皇)
○淳仁天皇天平宝字三年(759)六月条 御父母の命を追称し給へる宣命「現神大八洲所知倭根子天皇」(淳仁天皇)
○称徳天皇神護景雲元年(767)八月条 改元の宣命「日本国ニ坐テ大八洲国照ヒ給フ倭根子天皇」(称徳天皇)
○称徳天皇神護景雲三年(769)五月条 縣犬養姉女等を配流し給ふ宣命「現神ト大八洲国所知倭根子掛畏天皇」(称徳天皇)
○光仁天皇宝亀元年(770)十月条 即位の宣命「奈良宮御宇倭根子天皇」(光仁天皇)
○光仁天皇宝亀元年(770)十一月条 先考等を追尊し給ふ宣命「現神大八洲所知倭根子天皇」(光仁天皇)
○光仁天皇宝亀二年(771)正月月条 立太子の宣命「現神御八洲養徳根子天皇」(光仁天皇)
○光仁天皇宝亀四年(773)正月月条 立太子の宣命「現神大八洲所知ス和根子天皇」(光仁天皇)
○桓武天皇天応元年(781)四月条 即位の宣命「現神坐倭根子天皇」(桓武天皇)

 今回はまだ『続日本紀』全巻を精査したわけではありませんし、宣命の他にもありますが、「倭根子天皇」「大倭根子天皇」「日本根子天皇」「養徳根子天皇」「和根子天皇」といった表記が見え、いずれも「やまとねこすめらみこと」と訓まれていたと思われます。通説ではこれらを天皇の尊称と理解されているようですが、『続日本紀』宣命においてはどの天皇にも使用されていたわけではないようです。わたしはこの使用範囲に着目しました。(つづく)


第1980話 2019/09/02

大化改新詔はなぜ大化二年なのか(2)

 文武の即位年(697)は九州年号の大化三年に相当します。ご存じの通り、『日本書紀』にはこの大化年号が50年遡って転用されており、そのため大化元年は645年(孝徳天皇元年)となっています。そして翌年の大化二年(646)には有名な大化改新詔が次々と発せられます。この重要な大化改新詔が大化元年ではなく、なぜ大化二年なのかがよく分からなかったのですが、もし、この大化二年の改新詔が646年ではなく、九州年号の大化二年(696)の詔勅とすれば、翌年の文武即位を前にして、持統天皇が九州王朝の天子に国家システムの大きな変更を命じる詔勅を出させたのではないでしょうか。その場合、その詔勅には九州王朝の天子の御名(薩野馬か)と「大化二年」の年次が記されていたここととなります。そして『日本書紀』編纂時には、その詔勅をそのまま50年遡らせて、孝徳天皇が「大化二年(646)」に発した改新の詔勅とする記事が造作されたものと思われます。
 もちろん『日本書紀』に記された大化改新詔の中には、646年(九州年号の命長七年)に九州王朝が出した詔勅も含まれていると思われますが、それは個別の詔ごとに検証する必要があります。
 一例を挙げれば、大化二年正月の改新詔中に見える、「凡そ京には坊毎に長一人を置け。四つの坊に令一人を置け。」は、完成した藤原京の条坊の管理組織についての命令と考えざるを得ません。646年であれば近畿にはまだ条坊都市がありませんから、これは696年の大化二年のことと思われます。
 同じく、同改新詔に見える、「凡そ郡は四十里を以て大郡とせよ。三十里より以下、四里より以上を中郡とし、三里を小郡とせよ。」も従来の行政区画「評」から「郡」への変更を命じた「廃評建郡」の詔勅ではないでしょうか。もしそうであれば、696年(大化二年)に「廃評建郡」の詔勅を九州王朝の年号の下に告示し、その5年後の701年(大宝元年)に全国一斉に評から郡に置き換えたことになります。すなわち、696年の「廃評建郡」の命令から五年をかけて全国一斉に郡制へと変更し、同時に大宝年号を建元し、朝堂院様式(朝庭を持つ巨大宮殿)の藤原宮において文字通り「大和朝廷」が成立したわけです。すなわち、九州年号の大化二年(696)改新詔とは、九州王朝からの王朝交替を行うための一連の行政命令だったのではないかと、わたしは考えています。
 そしてその記事を『日本書紀』では「大化年号」とともに50年遡らせているのですが、七世紀中頃に九州王朝が全国に評制を施行した事績(県制から評制への変更「廃県建評」)を大和朝廷が実施した郡制樹立のこととする政治的意図をもった転用だったのではないかと推測しています。
 『続日本紀』の文武天皇の即位の宣命には、「禅譲」を受けた旨が記されていますが、この「禅譲」とは祖母の持統天皇からの天皇位の「禅譲」を意味するにとどまらず、より本質的にはその前年の「大化二年の改新詔」を背景とした九州王朝からの国家権力の「禅譲」をも意味していたのではないでしょうか。少なくとも、まだ九州王朝の天子が健在である当時の藤原宮の官僚や各地の豪族たちはそのように受け止めたことを、九州王朝説に立つわたしは疑えないのです。


第1979話 2019/09/01

大化改新詔はなぜ大化二年なのか(1)

 近畿天皇家の「天皇」号使用は王朝交替した701年(大宝元年)からで、文武が最初とする古田新説を検証するため、諸史料を精査してきました。中でも『続日本紀』冒頭に記された文武天皇の即位の詔勅(宣命)は同時代史料を収録したものとされており、初めての「宣命体」の詔勅としても貴重です。
 この「宣命」の研究には、岩波文庫の『続日本紀宣命』(倉野憲司編)がコンパクトで便利です。論文執筆にあたっては岩波書店の新日本古典文学大系『続日本紀』が一元史観による編集・解説ですが優れており、お勧めです。個人的には古田学派の研究者による『続日本紀』勉強会を開催したいと願っています。
 さて、その文武元年(697)八月に詔せられた即位の宣命には、「現御神と大八嶋国知らしめす天皇」「高天原に事始めて、遠天皇祖の御世」「天皇が御子」「倭根子天皇」「天皇が大命」「天皇が朝庭」と、「天皇」という称号を使用しています。この宣命体の即位の詔勅は当時の記録を『続日本紀』に収録されたものと考えられていますから、それによれば近畿天皇家の文武は701年の王朝交替以前の697年には「天皇」号を使用していたことになります。そうであれば、古田新説を是としても、若干の修正が必要となるようです。(つづく)


第1978話 2019/08/31

「九州王朝律令」による官職名

「洛中洛外日記」1974話(2019/08/27)〝大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(8)〟において、7世紀後半の王朝交替前の飛鳥の近畿天皇家が、「九州王朝」律令による官職名を使用していたのではないかと推定しました。この指摘が正しければ、藤原宮などから出土した木簡に見える『大宝律令』以前の官職名は「九州王朝律令」によるものとなり、その記事から「九州王朝律令」の「職員令」復元が一部可能となるかもしれません。そこで、そうした官職名をピックアップしてみました。

【『大宝律令』以前の官職名】
○「尻官」 法隆寺釈迦三尊像台座墨書(7世紀初頭)
○「見乃官」 大野城市本堂遺跡出土須恵器刻書(7世紀前半〜中頃)

○「大学官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「勢岐官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「道官」 明日香村石神遺跡出土木簡(天武期)
○「舎人官」 藤原宮跡大極殿院北方出土木簡(天武期)
○「陶官」 藤原宮跡大極殿院北方出土木簡(天武期)
○「宮守官」 藤原宮跡西南官衙地区出土木簡
○「加之伎手官」 藤原宮跡東方官衙北地区出土土器墨書
○「薗職」 藤原宮北辺地区出土木簡
○「蔵職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「文職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「膳職」 藤原宮跡東方官衙北地区出土木簡
○「塞職」 藤原宮跡北面中門地区出土木簡
○「外薬」 藤原宮跡西面南門地区出土木簡
○「造木画処」 藤原宮跡東面北門地区出土木簡


第1977話 2019/08/31

古田先生からの宿題「ポアンカレの二著」

 今朝、FACEBOOKを開いて見ると、3年前に投稿した写真、ポアンカレの二著『科学と仮説』『科学と方法』(岩波文庫)が掲載されていました。いずれも古田先生から「勉強するように」といただいたものですが、わたしの理解力では難しくて、未だほとんど読んでいません。このままでは、冥界で先生に再会したとき、また叱られるのは必定です。怖いような嬉しいような、複雑な気持ちです。
 この二著のことをちょうど3年前の「洛中洛外日記【号外】」で配信していましたので、転載します。

古賀達也の洛中洛外日記【号外】
2016/08/30
古田先生からの宿題 ポアンカレの二著

 わたしが古田先生に入門して以来、多くの本や論文をいただきました。5年ほど前だったと記憶していますが、科学や物理学に関する「モデル」という概念と九州年号研究における原型論に使用する「モデル」という表現について、わたしの使用方法が誤っていると、先生から厳しく叱責されたことがありました。それでも、わたしが納得できないでいると、先生から二冊の岩波文庫が送られてきて、読んで勉強するようにとのことでした。その二冊とは高名な数学者ポアンカレの『科学と仮説』『科学と方法』でした。
 わたしには難しくて、結局、読破できずに放置していましたが、8月の「古田史学の会」関西例会で、茂山憲史さん(古田史学の会・編集委員)から、学問における実証と論証について論理学からの解説がなされたこともあり、もう一度挑戦してみようと、書棚から取り出したのですが、やはり難しくて理解できませんでした。
 この二冊は昭和36年版なのですが、初版は昭和13年と28年ですから、わたしが生まれる前のことです。古典的名著とされるだけあって、素晴らしい本だとは思うのですが、残念ながらわたしの理解力では歯が立ちません。
 この二冊の勉強は、古田先生からの宿題なのですから、せめて生きているうちには読んでおきたいと思います。それにしても、古田先生の勉強や学問の幅の広さに、今更ながら驚かされる二冊ではありました。


第1976話 2019/08/30

『多元』No.153のご紹介

 友好団体の「多元的古代研究会」の会紙『多元』No.153が届きました。同号には拙稿「難波から出土した筑紫の土器 -文献史学と考古学の整合-」を掲載していただきました。同稿において、前期難波宮九州王朝複都説に対して、当地から九州との関係を示すものは出土していないという批判への反論として、上町台地から出土した北部九州の須恵器などを紹介しました。末尾には次の一文を加えました。

【以下、転載】
《補記2》「副都」と「複都」
 本稿では前期難波宮を「九州王朝複都」と表記しましたが、当初わたしは「九州王朝副都」と理解していました。その後、複数の研究者からのご意見もいただき、「副都(secondary capital city)」とするよりも、「複都(multi-capital city)」(太宰府倭京と難波京の両京制:dual capital system)とするのが妥当との理解に至りました。
【転載おわり】

 服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「二つの古田説 天皇称号のはじめ」も掲載されており、近畿天皇家の天皇称号の始まりを7世紀初頭からとする古田旧説と「船王後墓誌」に見える「天皇」を九州王朝の天子の別称とする古田新説を紹介され、古田旧説を支持する古賀論稿への批判を展開されました。当テーマは「古田史学の会」関西例会でも続けられている論争テーマでもあり、興味深く拝読しました。わたしは、〝学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる〟と考えていますので、服部さんからのハイレベルな批判は大歓迎です。重要かつ難しいテーマですので、時間をかけて検討していきたいと考えています。
 この他に内倉武久さん(富田林市)の「継体紀のなぞと福岡・巨大前方後円墳」では、福岡県田川郡赤村で「発見」された「巨大前方後円墳」を「ほぼ間違いなく安閑天皇の陵墓」と紹介されていました。同テーマについては「洛中洛外日記【号外】」で触れたことがありますので、ご参考までに転載します。

【以下、転載】
古賀達也の洛中洛外日記【号外】
2018/07/21
『九州倭国通信』No.191のご紹介
 (前略)
 同紙には松中祐二さんの秀逸の論稿「『赤村古墳』を検証する」が掲載されていました。本年三月、西日本新聞で報道された「卑弥呼の墓」「巨大前方後円墳」発見かとされたニュースに対して、松中さんは現地(福岡県田川郡赤村)調査や国土地理院の地形データを丹念に検証され、結論として前方後円墳とは認め難く、自然丘陵であるとの合理的な結論を導き出されました。
 松中さんは北九州市で医師をされており、古くからの古田ファンです。その研究スタイルは理系らしく、エビデンスに基づかれた論理的で合理的なもので、以前から注目されていた研究者のお一人です。今回の論稿でも国土地理院の等高線からその地形が前方後円墳の形状をなしておらず、上空からみたときの道路が「前方後円」形状となっているに過ぎないことを見事に説明されました。
 当地の自治体の文化財担当者の見解も、新聞報道によれば「丘陵を『自然地形』として、前方後円墳の見方を否定している」とのことで、そもそもこの丘陵を前方後円墳とか卑弥呼の墓とか言っている時点で“まゆつばもの”だったようです。松中さんは論稿を次の言葉で締めくくっておられますが、深く同意できるところです。
 「なお、赤村丘陵の後円部だけを取り出し、『卑弥呼の墓』だとする意見もあるようだが、本会会員にとっては、この説は長里に基づく謬説である、という見解に異論はないところであろう。」


第1975話 2019/08/29

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(9)

 飛鳥に君臨した天武天皇の官僚として「大学官」「勢岐官」「道官」「舎人官」「陶官」と称された人々がいたことは、出土木簡から明らかですが、その官僚組織の全体像や人数・規模は不明です。通説のように「飛鳥浄御原令」に基づく行政が近畿天皇家で行われていたのであれば、数千人規模の官僚群が全国統治には必要ですが、当時の天武天皇らの統治領域が日本列島のどの範囲にまで及んでいたのかも、多元史観・九州王朝説の視点からはまだ不明です。
 九州王朝から大和朝廷への王朝交替後であれば、藤原宮(京)や平城宮(京)には全国統治のための官僚群約八千人がいたとされています(服部静尚説)。これだけの大量の官僚群はいつ頃どのようにして誕生したのでしょうか。奈良盆地内で大量の若者を募集して中央官僚になるための教育訓練を施したとしても、壬申の乱(672年)で権力を掌握し、藤原宮遷都(694年)までの期間で、初めて政権についた天武・持統らに果たして可能だったのでしょうか。
 わたしは前期難波宮で評制による全国統治を行っていた九州王朝の官僚群の多くが飛鳥宮や藤原宮(京)へ順次転居し、新王朝の国家官僚として働いたのではないかと推定しています。『日本書紀』によれば朱鳥元年(686)に前期難波宮は焼失していますが、難波京全てが焼けたわけではありません。少なくとも『日本書紀』には難波京全体が焼失したとは記されていません。そのため、九州王朝官僚群の多くは無傷で残ったものと思われます。
 このように想定したとき、7世紀末頃の急速な大和朝廷の立ち上げとスムーズな王朝交替(701年での全国一斉の評から郡への変更)が可能となったことをうまく説明できるのではないでしょうか。(つづく)


第1974話 2019/08/27

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(8)

 飛鳥の石神遺跡から出土した木簡の「大学官(だいがくのつかさ)」「勢岐官(せきのつかさ)」「道官(みちのつかさ)」と同類の「舎人官(とねりのつかさ)上毛野阿曽美□」「陶官(すえのつかさ)」と記された木簡が藤原宮遺跡(大極殿北方大溝下層)からも出土しています。いずれも藤原宮完成前の「飛鳥浄御原令」に基づくものと解説されています(『藤原宮出土木簡(二)』昭和52年)。更に同木簡出土地点からは「進大肆」という、『日本書紀』によれば天武14年(685)に制定された位階が記された木簡(削りくず)や、「宍粟評(播磨国)」「海評佐々里(隠岐国)」木簡も出土していることから、それらは七世紀末頃のものと見て問題ありません。

 このように石神遺跡や藤原宮下層遺跡から出土した木簡の史料事実により、天武天皇や持統天皇らは九州王朝系の官職名「○○官」を採用し、それら官僚群により東国から西日本にかけての広域統治を飛鳥宮で行っていたことがわかります。藤原宮時代になると出土した荷札木簡から判断できる統治領域は更に広がります。

 以上のように出土木簡や『日本書紀』の記事というエビデンスに基づいて、一元史観の大和「飛鳥宮」説が強固に成立しています。(つづく)

《奈良文化財研究所「木簡データベース」》から転載

【木簡番号】524
【本文】□□〔且ヵ〕□舎人官上毛野阿曽美□□〔荒ヵ〕□○右五→
【寸法(mm)】縦(257) 横(13) 厚さ6
【型式番号】081
【出典】藤原宮2-524(飛3-5下(33))
【文字説明】「曽」は異体字「曾」。
【形状】上欠(折れ)、下欠(折れ)、左欠(割れ)、右欠(割れ)。
【樹種】ヒノキ科♯
【木取り】追柾目
【遺跡名】藤原宮跡大極殿院北方
【所在地】奈良県橿原市醍醐町
【調査主体】奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
【発掘次数】藤原宮第20次
【遺構番号】SD1901A
【地区名】6AJFKQ33
【内容分類】文書
【国郡郷里】
【人名】上毛野阿曽美□(荒)□
【和暦】
【西暦】
【木簡説明】上下折れ、両側面割れ。文書木簡の断片。舎人官は大宝・養老令官制の左右大舎人寮か東宮舎人監の前身官司と考えられる。舎人官の上にある文字は、大・左・右のいずれでもない。人名中にみえる阿曽美は朝臣の古い表記法と思われ、『続日本紀』宝亀四年五月辛巴条にみえる。

【木簡番号】523
【本文】陶官召人
【寸法(mm)】縦(127) 横 32 厚さ 3
【型式番号】019
【出典】藤原宮2-523(飛3-5下(34))
【文字説明】
【形状】下欠(折れ)。
【樹種】ヒノキ科♯
【木取り】板目
【遺跡名】藤原宮跡大極殿院北方
【所在地】奈良県橿原市醍醐町
【調査主体】奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部
【発掘次数】藤原宮第20次
【遺構番号】SD1901A
【地区名】6AJFKQ33
【内容分類】文書
【国郡郷里】
【人名】
【和暦】
【西暦】
【木簡説明】下端折れ。陶官が人を召喚した文書の冒頭部分にあたる。陶官は『令義解』にみえる養老令官制の宮内省管下の筥陶司の前身となるものであろう。大宝令施行期間中に筥陶司が存在したことは天平一七年(七四五)の筥陶司解(『大日本古文書』二-四〇八)の存在から確認できる。したがって、陶官という官名は飛鳥浄御原令制下にあったものと思われるが、さらにこの海から出土した他の木簡の例からみて浄御原令施行以前にも存在していた可能性がある(総説参照)。官司名+召という書きだしをもつ召喚文は藤原宮木簡四九五、平城宮木簡五四・二〇九四などにもみえるが、この木簡の例などからみて、かなり古くから行われたものらしい。


第1973話 2019/08/26

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(7)

 飛鳥の石神遺跡から大量出土(約三千点)した木簡に「大学官(だいがくのつかさ)」「勢岐官(せきのつかさ)」「道官(みちのつかさ)」と記されたものがあり、この「○○官」という官職名は7世紀後半頃の律令官制のものと考えられますが、この官職名「○○官」について、詳述します。

 わたしは「○○官」という官職名は九州王朝律令官制によるものと考えています。そのことについて、「洛中洛外日記」100話で論じています。当該部分を転載します。

【以下、転載】
古賀事務局長の洛中洛外日記
第100話 2006/09/30
九州王朝の「官」制

 第97話「九州王朝の部民制」で紹介しました、大野城市出土の須恵器銘文「大神部見乃官」について、もう少し考察してみたいと思います。
古田先生が『古代は輝いていたⅢ-法隆寺の中の九州王朝-』(朝日新聞社)で指摘されていたことですが、法隆寺釈迦三尊像光背銘中の「止利仏師」の「止利」を、「しり」(尻)あるいは「とまり」(泊)と読むべきであり(通説では「とり」)、地域名あるいは官職名であるとされました。後に、同釈迦三尊像台座より「尻官」という墨書が発見され、この古田先生の指摘が正鵠を射ていたことが明らかになるのですが(『古代史をゆるがす真実への7つの鍵』原書房 参照)、尻官が九州王朝の官職名であり、「尻」が井尻などの地名に関連するとすれば、大野城市出土の須恵器銘文「大神部見乃官」の「見乃官」も地名に基づく官職名と考えられます。そうすると、九州王朝は6〜7世紀にかけて「○○官」という官制を有していた可能性が大です。

 このように「尻」や「見乃」部分が地名だとすると、第97話で述べましたように、久留米市の水縄連山や地名の耳納(みのう)との関係が注目されるでしょう。この「地名+官」という制度は九州王朝の「官」制、という視点で『日本書紀』や木簡・金石文を再検討してみれば、何か面白いことが再発見できるのではないでしょうか。これからの研究テーマです。(後略)
【転載、終わり】

 『威奈大村骨蔵器』銘文によれば、「大宝元年を以て律令はじめて定まる」とあり、それ以前の律令は近畿天皇家が定めたものではないことになります。同時代金石文であるこの骨蔵器銘文の証言は重要です。従って、7世紀以前の「○○官」という官職名は九州王朝律令によるものと考えざるを得ません。
このような論理展開により、飛鳥の石神遺跡から出土した「大学官」「勢岐官」「道官」、そして「釆女氏塋域碑」(拓本)の「飛鳥浄原大朝庭大弁官」という官職名は、九州王朝律令によるものを飛鳥の天武天皇らは〝借用〟、あるいはそのまま〝転用〟したのかもしれない、という可能性を想定しなければなりません。更に考えれば、九州王朝の天子の命を受けたという形式にして、自らの臣下にこうした官職名を授与したということも検討する必要があります。(つづく)


第1972話 2019/08/24

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(6)

多元史観・九州王朝説による筑紫「飛鳥」説として、新・古田説(小郡「飛島」説)が出され、その弱点を補うべく正木さんが広域筑紫「飛鳥」説(小郡・朝倉・久留米)を出され、「律令制宮都の論理」というロジックと「飛鳥浄御原令」を根拠に服部さんが太宰府「飛鳥」説を出されました。次に、通説の大和「飛鳥」説の根拠(エビデンス)と論理構造(ロジック)について、その要点を紹介します。

一元史観の大和「飛鳥」説は一言で言えば〝『日本書紀』の記事と考古学的出土事実、現地地名などが対応している〟という論理構造により成立しています。このロジックは単純で平明なだけに、否定しがたい説得力を有しています。それは次のようなものです。

①奈良県明日香村に七世紀後半頃の宮殿遺構が重層的に出土している。
②それら遺構の年代は出土土器や干支木簡などにより、比較的安定して編年が成立している。
③字地名「飛鳥」にある飛鳥池遺跡等から出土した七世紀後半頃の木簡の内容が『日本書紀』の記事と対応している。たとえば「飛鳥寺」「天皇」「○○皇子」など、多数。
④飛鳥寺のすぐ北西にある石神遺跡からは藤原宮の官衙域と状況が似た建物群が出土しており、同遺跡北方域から大量に(約三千点)出土した木簡に「大学官(だいがくのつかさ)」「勢岐官(せきのつかさ)」「道官(みちのつかさ)」と記されたものもあり、当地に官衙が存在したと考えられている。
⑤この「○○官」という官職名は七世紀の律令官制のものと考えられ、近畿から出土した同じく七世紀後半の金石文「釆女氏塋域碑」(拓本)に見える「飛鳥浄原大朝庭大弁官」とも対応している。

この他にも多くの論点がありますが、『日本書紀』の史料事実や考古学的出土事実の存在そのものは否定できませんし、両者の対応も複雑な解釈や屁理屈によるものではなく、単純・平明な対応に基づいています。従って、上記のロジックは強力で説得力があります。先に紹介した筑紫「飛鳥」説が九州王朝論を基盤としたやや複雑なロジックにより成立していることと比較すれば、確かなエビデンスにも支えられている大和「飛鳥」説のほうが分かりやすいことは明白です。

この大和「飛鳥」説をよく理解し、これら一元史観のエビデンスとロジックを軽視することなく、古田学派九州王朝説論者は自説を構築しなければならないのです。無視したり、解釈だけで逃げてはなりません。(つづく)


第1971話 2019/08/23

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(5)

 正木さんによる小郡・朝倉・久留米地域の広域「アスカ」説に続いて、近年発表されたのが服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)による太宰府「飛鳥浄御原宮」説です。同説は「古田史学の会」主催『発見された倭京』出版記念大阪講演会後の懇親会席上で最初に発表されたのですが、そのときの様子を「洛中洛外日記」1748話で次のように紹介しました。

【以下、転載】
古賀達也の洛中洛外日記
第1748話 2018/09/09
飛鳥浄御原宮=太宰府説の登場(1)
〔前略〕
 講演会終了後、近くのお店で小林副代表・正木事務局長・竹村事務局次長ら「古田史学の会・役員」7名により二次会を行いました。そこでは「古田史学の会」の運営や飛鳥浄御原についての学問的意見交換などが行われたのですが、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から、飛鳥浄御原宮=太宰府説ともいうべき見解が示されました。服部さんによれば次のような理由から、飛鳥浄御原宮を太宰府と考えざるを得ないとされました。

①「浄御原令」のような法令を公布するということは、飛鳥浄御原宮にはその法令を運用(全国支配)するために必要な数千人規模の官僚群が政務に就いていなければならない。
②当時、そうした規模の官僚群を収容できる規模の宮殿・官衙・都市は太宰府である。奈良の飛鳥は宮殿の規模が小さく、条坊都市でもない。
③そうすると「飛鳥浄御原宮」と呼ばれた宮殿は太宰府のことと考えざるを得ない。

 概ねこのような論理により、飛鳥浄御原宮=太宰府説を主張されました。正木さんの説も「広域飛鳥」説であり、太宰府の「阿志岐」や筑後の「阿志岐」地名の存在などを根拠に「アシキ」は本来は「アスカ」ではなかったかとされています。今回の服部新説はこの正木説とも対応しています。
 この対話を聞いておられた久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)から、太宰府の観世音寺の山号は「清水山」であり、これも「浄御原」と関係してるのではないかという意見が出されました。
 こうした見解に対して、わたしは「なるほど」と思う反面、それなら当地にずばり「アスカ」という地名が遺存していてもよいと思うが、そうした地名はないことから、ただちに服部新説や正木説に賛成できないと述べました。なお、古田先生が紹介された小郡市の小字「飛鳥(ヒチョウ)」は規模が小さすぎて、『日本書紀』などに記された広域地名の「飛鳥」とは違いすぎるという理由から、「飛鳥浄御原宮」がそこにあったとする根拠にはできないということで意見が一致しました。(後略)
【転載、終わり】

 近年の古田学派研究者による最高の学問的貢献と言っても過言ではない、服部さんの「律令制宮都の論理」は単純で強力な論理性(ロジック)に支えられており、「豊前王朝説」や「伊予紫宸殿王都説」などを成立困難としています。この「律令制宮都の論理」を援用して、飛鳥浄御原宮=太宰府説が服部さんにより発表されたのです。
 こうして、新旧の古田説、正木説、服部説が出そろい、わたしの多元的「飛鳥」研究も佳境に入りました。このように異なる意見が自由に発表され、真摯な論争・応答の交換こそ、学問研究にとって必須であり、古田学派らしい学問的寛容の精神の発露です。異なる意見を〝師の説と異なる〟あるいは〝通説と異なる〟と排除したり、自説への批判に対して怒り出すというような姿勢は、それこそ古田先生の学問的精神に反するというものです。自戒したいと思います。(つづく)