第1950話 2019/07/27

『古田史学会報』

  採用審査の困難さと対策(5)

 投稿論文審査で困難な作業に、異分野や一元史観での既存研究の確認があります。古田史学関係の研究であれば、これまでの経験により、何とか新規性の確認はできるのですが、一元史観の最先端研究動向の把握はとても困難です。プロの学者なら同業者の研究動向の調査は仕事の一環として日常的にできるでしょう。わたしの場合も本業の化学分野における調査などは勤務時間中に仕事として行えますし、特許担当部署からは定期的に関連特許の最新リストが提供されてもきます。しかし、一元史観の古代史論文・著書や各大学・研究機関が発行する紀要などはその一部にたまに図書館で目を通すくらいで、『古田史学会報』の論文審査のためにそれらを毎日のように読むと言うことは時間的に不可能です。

 しかし、投稿原稿に一元史観の学説との対比などが記されている場合は、その一元史観の論文が最新学説なのか、最有力学説かなどはわたしには判断できません。一元史観での古い研究が、同じ一元史観の新研究により既に否定されているケースもありますので、投稿論文中に引用され、それを批判していても、その批判に新規性があるのかどうかの調査は必要となります。そのため、わたしが勉強していない分野や、一元史観の最新研究動向が不明な場合は、その分野に詳しい会員や知人に教えていただくこともあります。このような課題も残されていますので、将来的には大学で国史(一元史観)を専攻した古田学派の若者に『古田史学会報』編集部に加わっていただきたいと願っています。(つづく)


第1949話 2019/07/27

『古田史学会報』採用審査の困難さと対策(4)

 1931話で触れた「選択発明」について少し説明しておきます。その定義は次のようなものです。わたしの専門の化学関連文献から引用紹介します。特許法に詳しくない方にはちょっと難解かもしれませんが、読み飛ばしていただいてもかまいません。

【選択発明の解説】
 選択発明とは、物の構造に基づく効果の予測が困難な技術分野に属する発明で、刊行物において上位概念表現された発明又は事実上若しくは形式上の選択肢で表現された発明から、その上位概念に包含される下位概念で表現された発明又は当該選択肢の一部の発明を特定するための事項として仮定したときの発明を選択したものであって、前者の発明により新規性が否定されない発明をいいます。(中略)
 請求項に係わる発明の引用発明と比較した効果が以下の(ⅰ)から(ⅲ)までの全てを満たす場合は、審査官は、その選択発明が進歩性を有しているものと判断します。
 (ⅰ)その効果が刊行物等に記載又は掲載されていない有利なものであること。
 (ⅱ)その効果が刊行物等において上位概念又は選択肢で表現された発明が有する効果とは異質なもの、又は同質であるが際立って優れたものであること。
 (ⅲ)その効果が出願時の技術水準から当業者が予測できたものでないこと。(後略)
 ※出典:福島芳隆「特許庁・審査官」『近畿化学工業界』(2019.07)

 特許の専門用語を用いた説明ですので、わかりやすいようにわたしの過去の論稿を用いて具体的に解説します。
 「洛中洛外日記」1923話〜1928話で連載した「法円坂巨大倉庫群の論理」で、わたしは南秀雄さん(大阪市文化財協会・事務局長)による「日本列島における五〜七世紀の都市化 -大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地」の講演内容を紹介し、その中の重要な4点に着目し、それらがわたしの前期難波宮九州王朝複都説を結果として支持していると指摘しました。その論稿においてわたしが提示した論理構造は次のようなものでした。

(a) 上町台地北端に古墳時代で日本最大の法円坂倉庫群が造営される。他地域の倉庫群(屯倉)とはレベルが異なる卓越した規模である。
(b) 古墳時代の上町台地北端と比恵・那珂遺跡は、内政・外交・開発・兵站拠点などの諸機能を配した内部構造がよく似ており、その国家レベルの体制整備は同じ考えの設計者によるかの如くである。
(c) 法円坂倉庫群はその規模から王権の倉庫と考えられるが、それに相応しい王権の中枢遺跡は奈良にはなく、大阪城の地にあった可能性がある(確認はされていない)。
(d) 上町台地北端部からは筑紫の須恵器が出土しており、両者の交流や関係を裏付ける。
(e) 652年には国内最大規模の前期難波宮が造営され、難波京へと発展する。この七世紀中頃は全国に評制が施行された時代で、「難波朝廷、天下立評」と史料(『皇太神宮儀式帳』)にあるように前期難波宮にいた権力者によるものである。
(f) 九州王朝説に立つならばこの権力者は九州王朝(倭国)と考えざるを得ない。
(g) 以上の考古学的事実とそれに基づく論理展開は、前期難波宮九州王朝複都説を支持する。

 上記の内、(a)〜(d)の部分は南さんの講演要旨で、既知の考古学的事実やそれに基づく解釈であり、新規性はありません。また、(e)は文献史学に基づく前期難波宮に対する通説の解釈であり、これも新規性はありません。(f)が九州王朝説に基づく前期難波宮に対するわたしの解釈で、この部分でようやく新規性が発生します。そして(g)の結論へと続きます。この(f)と(g)が選択発明に必要とされる「効果」に相当します。その「効果」は(ⅰ)(ⅱ)(ⅲ)の用件全てを満たしており、その結果、「その選択発明が進歩性を有しているものと判断」されることになります。すなわち、この「選択発明」には「引用発明と比較した効果」が認められるのです。
 この「引用発明」とは一元史観による考古学的事実への解釈のことであり、それに比べて多元史観・九州王朝説による解釈には新規性があり、際立った仮説であり、一元史観からは予測できない仮説であると認められるのです。なお、この新解釈(前期難波宮九州王朝複都説)が正しいか否かは、新規性・進歩性の有無の判断とは一応別です。『古田史学会報』の投稿採否審査でも同様で、その仮説の新規性と進歩性をまず審査しますが、この段階では仮説や結論の是非、ましてや審査する編集部員の見解と一致しているか否かは全く審査基準とはされません。(つづく)


第1948話 2019/07/25

奇想天外の「お墓参り」論

 服部静尚さんの講演「盗まれた天皇陵 -卑弥呼の墓はどこに-」では古墳以外に、大和朝廷一元史観の根拠となっている土器についても鋭い指摘がなされました。たとえば、大和で発生し、全国に伝わったとされる庄内式土器の胎土分析結果から、生産地は大和ではなく北部九州や吉備・河内であること、大和から出土した布留式土器の生産地は加賀であったことなど、最新の考古学的知見も紹介されました。なお、これらの新知見は一元史観論者からは事実上〝無視〟されているようです。
 今回の服部さんの講演で、わたしが最も驚いたのが「お墓参り」論という奇想天外の新仮説でした。それは、飛鳥時代の天皇陵の所在地を示され、飛鳥宮からお墓参りするのにまる一日かかるほどの遠距離の地にあり、不自然と指摘されたのです。例えば継体天皇の子供の宣化・欽明が飛鳥から継体天皇陵まで墓参りに行くのに片道三日もかかります。このように天皇が住んでいる王宮から遠く離れた地に父祖の墓(天皇陵)があるのは墓参りに不便であることから、『延喜式』に記されたそれら天皇陵を天皇家の祖先の墓とするのは疑わしいとされました。
 こうした奇想天外の発想は服部さんらしいのですが、わたしが驚いたのはこのアイデアそのものではありません。このアイデア(思いつき)を学問的仮説とするためのエビデンス(根拠)が素晴らしかったのです。
 最初にこの「墓参り」論を聞いたとき、わたしはすぐに次の反証が浮かびました。対馬などに遺る両墓制です。両墓制とは埋葬した墓とは別に遺族の居住地の近くにお墓参りのための墓を造るという制度です。おそらく、お墓を住居の近くに造ることを忌み、そのため離れた場所に埋葬し、日常的なお墓参り(先祖供養)のために住居の近くに「参り墓」を造ったものと思われます。
 この両墓制が天皇家でも採用されていたのではないかという反証が可能なため、服部さんのアイデアは面白いけれども仮説としての論証(両墓制という反証を論理的に排除できる根拠と説明)は困難ではないかと考えたのです。ところが、服部さんは飛鳥時代の天皇陵の位置を記した地図に続けて二枚の地図を示されました。わたしはその二枚の地図(エビデンス)に驚いたのです。それは奈良時代と平安時代の天皇陵をプロットした地図でした。それは奈良時代の天皇陵はほぼ奈良市とその周辺にあり、平安時代には京都市内に天皇陵が造営されていることを示していました。それぞれの王宮(平城宮・平安宮)から日帰りで墓参できるという位置関係に陵墓があるのです。
 これらの事実は、王朝交替後の天皇家は王宮の近辺に天皇陵を造るという風習を持つことを意味し、天皇家が両墓制という風習を持っていたことを否定するのです。少なくとも8世紀以降はそうです。従って7世紀(飛鳥時代)以前の飛鳥から遠く離れた天皇陵(たとえば河内の巨大前方後円墳)を天皇家の墓とすることを疑うに足る論理性(理屈)を服部さんの「墓参り」論は提起しています。
 近年、服部さんが提起された仮説には、「言われてみればその通り」という〝コロンブスの卵〟のような新視点があります。たとえば律令官制による全国支配に必要な官僚は約八千人で、その官僚たちの執務が可能な規模の王宮・官衙遺構と、家族も含めて数万人が居住可能な大都市(条坊都市)の存在(考古学的遺跡)を提示しなければ、律令時代(7世紀)の王朝の都とは認められないという指摘は画期的でした。それまでの考古学的根拠を示さず自説に都合のよい所を九州王朝の都とする古田学派内にあった諸説を木っ端みじんに吹き飛ばしました。
 その結果、この服部さんの「律令官制王都」論による批判に耐えうる仮説として、前期難波宮九州王朝複都説(古賀説)や太宰府飛鳥宮論(服部説)、九州王朝系近江朝論(正木説)、九州王朝系藤原宮論(西村説)などが生き残り、それらの是非を巡って「古田史学の会」関西例会で厳しい論争が続き、今日に至っています。
 更に「律令官制王都」論を発展させた新論証「太宰府条坊都市=首都」も画期的でした。『養老律令』などによれば大和朝廷の律令官制における「大宰府官僚」の人数は九州地方を統括する程度の少人数なのですが、服部さんはそのような少人数であれば、あの大規模な太宰府条坊都市は不要であり、逆から言えば、太宰府条坊都市の巨大さこそ当地が王朝の首都であったことを示しており、この論理性は九州王朝説を支持しているとされました。すなわち、巨大条坊都市太宰府の存在そのものが九州王朝説でなければ説明ができず、その存在が九州王朝説を論証するエビデンスとなっていることを指摘されたのです。
 今回の「墓参り」論など、一連の服部さんの新仮説は奇想天外という他ありません。こうして古田学派の研究水準は一元史観に真正面から対峙する令和時代にふさわしい新段階に突入したのです。


第1947話 2019/07/24

天皇陵編年と天皇即位順の不整合

 前方後円墳の数では大和朝廷一元史観の根拠とはできないことから、一元史観論者は河内・大和に存在する巨大前方後円墳を自説の根拠としました。この根拠が一元史観の最後の拠り所(エビデンス)となっているわけですが、この巨大前方後円墳を天皇陵とすることそのものが学問的論証の上に成立しているのかという根源的疑問を提起されたのが、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の講演「盗まれた天皇陵 -卑弥呼の墓はどこに-」でした。そしてその結論として、『延喜式』に記された天皇陵の比定は疑わしいとされたのです。
 その理由の一つとして、天皇の即位順と当該天皇陵の編年が逆転している例をあげ、『延喜式』編纂時の近畿天皇家は自らの祖先の陵墓についての伝承を失っていたと考えざるを得ないとされました。
 服部さんが天皇陵の逆転の事例として、次の天皇陵をあげられました。

○11代垂仁天皇陵(4世紀末〜5世紀初頭)・12代景行天皇陵(4世紀中頃)
○14代仲哀天皇陵(5世紀後半)・仲哀の妻、神功皇后陵(4世紀後半〜5世紀初頭)
○16代仁徳天皇陵(5世紀半)・17代履中天皇陵(5世紀初頭)
○24代仁賢天皇陵(6世紀前半)・26代継体天皇陵(5世紀中頭)

 こうした事例から、服部さんは天皇陵に比定された河内や大和の前方後円墳などは天皇家とは別の在地勢力者の墓ではないかと考えられたのでした。
 この論理性(理屈)は穏当なものと思われますが、更に深く考察しますと、比定された天皇陵の年代は全体としては考古学的編年と大きくは外れていないという事実もあります。「古田史学の会」関西例会でわたしはそのことを指摘し、天皇陵の研究をされていた谷本茂さんも同見解でした。ということは、『延喜式』を編纂した天皇家の官僚たちは、古墳時代の天皇家の陵墓に関する伝承や情報をあまり持っていなかったが、河内や大和の巨大古墳を造営した勢力の伝承についてはある程度知っており、その伝承の年代に合うように各古墳を歴代天皇の陵墓に推定(置き換え)したという可能性を導入しなければならないと思います。
 このように細部にわたる検証は残されていますが、服部さんが指摘された論点は一元史観が最後の拠り所とする巨大前方後円墳に対する根源的批判として成立しており、有力な仮説と思います。(つづく)


第1946話 2019/07/22

前方後円墳の最密集地は近畿ではない

 大和朝廷一元史観を支えている最大の考古学的根拠である巨大前方後円墳の精査に先立ち、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)は全国の前方後円墳分布の調査結果にもとづき、その中心(最密集地)は河内や大和、そして近畿でもないことを指摘されました。
 服部さんが紹介された、都道府県別前方後円墳の分布データによれば、前方後円墳の数は近畿よりも関東がはるかに多いことがわかります。これは関東平野が広いということにも関係していると思われますが、それだけ当地の人口や生産力が高いことも意味していると思われます。比較のために近畿地方・中国地方・九州地方のデータも並べておきますが、近畿よりも中国地方が多く、九州は少ないという分布を示しています。
 九州王朝の福岡でもなく、近畿天皇家の奈良でもなく、関東に前方後円墳が多いという事実からは、九州王朝説も大和朝廷一元史観も合理的に説明しにくく、むしろ古墳時代には列島の各地に王朝があったという多元史観を指示しているのです。(つづく)

【都道府県別の前方後円墳の数】
1位 千葉県 685
2位 茨城県 444
3位 群馬県 410

〔近畿地方〕
奈良県 239
大阪府 162
兵庫県 174
京都府 183
滋賀県 132
和歌山県 58

〔中国地方〕
鳥取県 280
島根県 155
岡山県 291
広島県 248
山口県 28

〔九州地方〕
福岡県 219
佐賀県 53
長崎県 32
熊本県 65
大分県 77
宮崎県 149
鹿児島県 25


第1945話 2019/07/20

服部さんとの論争「7世紀の天皇称号」

 本日、「古田史学の会」関西例会がアネックスパル法円坂(大阪市教育会館)で開催されました。8月は福島区民センター、9月はI-siteなんばで開催します。
 今回は古田説に対しての異見の発表が谷本さんや満田さんからあり、賛否は別としても、どちらも学問的に重要な論点が提起されたものでした。『古田史学会報』への投稿が待たれます。
 また服部さんからの天皇称号についての報告も古田学派にとって貴重なものでした。それは7世紀の金石文(法隆寺薬師如来光背銘、船王後墓誌など)に見える「天皇」を近畿天皇家のものとするのか、九州王朝の天子の別称とするのかというテーマです。このテーマは古田旧説(ナンバーツーとしての近畿天皇家の称号「天皇」)と古田新説(九州王朝の天子の別称「天皇」)との対立でもあります。古田新説を支持する服部さんと、古田旧説を支持するわたしとで一年近く続けられている論争で、今回の関西例会でも激しく意見が対立しました。
 しかし、誤解のないように言っておきますと、わたしは服部さんの見解や論理性は有力であると考えています(だから論争しています)。更に新旧の古田説の帰趨は、王朝交替以前の7世紀の近畿天皇家の実勢や政治形態がどのような段階にあったのかにも影響します。ここを正確に把握しておかないと、701年の王朝交替の実態を見誤ることが避けられないからです。そのため、服部さんの研究や論争は古田学派としての最重要テーマの一つと考えています。学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化発展させるからです。このテーマでも『古田史学会報』への投稿が待たれます。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔7月度関西例会の内容〕
①奇跡の12年 古田先生が語る「学問の方法」と「学問の未来」(明石市・不二井伸平)
②鳥居前古墳の伝世鏡(京都府大山崎町・大原重雄)
③百舌鳥・古市古墳群世界遺産登録を祝して二題(京都府大山崎町・大原重雄)
④常立神は旧近畿の祖神(大阪市・西井健一郎)
⑤「倭(ヰ)」と「(タイ)」(神戸市・谷本 茂)
⑥二つの古田説 天皇称号のはじめ(八尾市・服部静尚)
⑦持統の吉野行幸について(茨木市・満田正賢)
⑧「倭姫世記(紀)」についてⅡ(東大阪市・萩野秀公)
⑨「裂田の溝(さくたのうなで)」と俾弥呼・壹予の王都(川西市・正木 裕)

○事務局長報告(川西市・正木 裕)
《会務報告》
◆新入会員情報
◆6/16 16:00〜17:00 「古田史学の会」会員総会の報告。
 編集部体制の強化。
◆6/16 13:00〜16:00 古代史講演会の報告(共催:古代大和史研究会、市民古代史の会・京都、和泉史談会、古田史学の会)。
 ①「日本列島における五〜七世紀の都市化」 講師:南秀雄さん(大阪文化財研究所長)。
 ②「姫たちの古伝承」 講師:正木裕さん(古田史学の会・事務局長)。
◆『倭国古伝』売れ行き好調。
◆『失われた倭国年号 大和朝廷以前』増刷。拡販協力要請。
◆『古代に真実を求めて』バックナンバー廉価販売が好調。12集完売。

◆「古田史学の会」関西例会(第三土曜日開催)
 8/17 10:00〜17:00 会場:福島区民センター
 9/21 10:00〜17:00 会場:I-siteなんば
10/19 10:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
11/16 10:00〜17:00 会場:アネックスパル法円坂(大阪市教育会館)
12/21 10:00〜17:00 会場:I-siteなんば

◆8/18 『古代に真実を求めて』編集会議 福島区民センターにて。

◆9/16 『倭国古伝』出版記念東京講演会 文京区民センターにて。
 講演(講師:古賀達也)とパネルディスカッション(パネラー:正木裕さん、橘高修さん、井上肇さん)。

◆10/14 久留米大学での『倭国古伝』出版記念講演会を企画中。

◆11/09〜10 「古田武彦記念古代史セミナー2019」の案内。主催:公益財団法人大学セミナーハウス。共催:多元的古代研究会、東京古田会、古田史学の会。

《各講演会・研究会のご案内》
◆「誰も知らなかった古代史」(会場:アネックスパル法円坂。正木 裕さん主宰)
 7/26 18:45〜20:15 「飛鳥の謎」 講師:服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)。
 8/23 18:45〜20:15 「古墳・城等歴史資産を地域活性化に生かす」 講師:正木裕さん。

◆「古代大和史研究会」講演会(原幸子代表。会場:奈良県立情報図書館。参加費500円)
 8/06 13:30〜17:00 「磐井の乱の真実」 講師:正木 裕さん。

◆「和泉史談会」講演会(辻野安彦会長。会場:和泉市コミュニティーセンター。参加費500円)
 ☆8月はお休み。

◆「市民古代史の会・京都」講演会(事務局:服部静尚さん・久冨直子さん)。毎月第三火曜日(会場:キャンパスプラザ京都。参加費500円)。
 ☆8月はお休み。

◆水曜研究会(豊中倶楽部自治会館)
 7/24 13:00〜

◆新聞記事紹介「台湾→与那国島 丸木舟が到着」
 ☆魏使の水行速度、時速5km、1日500里が実証された。


第1944話 2019/07/19

巨大前方後円墳が天皇陵とは限らない

 大和朝廷一元史観を支えている最大の考古学的根拠が河内・大和の巨大前方後円墳の存在です。その論理性は次のようなものです。

① 全国トップクラスの巨大前方後円墳が河内・大和に最濃密分布しているという考古学的事実は、その地に国内最大の権力者が存在していた証拠である。
② その権力者こそ『日本書紀』に記された天皇家(大和朝廷)のことと考えざるを得ない。
③ 最も古い前方後円墳の箸墓古墳などが大和で発生していることから、前方後円墳は大和朝廷のシンボル的古墳である。
④ その後、全国各地に前方後円墳が造営されたことは、大和朝廷の支配や影響力がその地方に及んでいた証拠と見なすことができる。『日本書紀』の記述もそのことに対応している。

 服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)は講演「盗まれた天皇陵 -卑弥呼の墓はどこに-」で、こうした一元史観の根拠となった前方後円墳の分布や規模の精査により、河内・大和の巨大前方後円墳を天皇陵とすることはできないと発表されたのです。
 服部さんの調査によれば、全国の巨大古墳ベスト50の内訳は次のようになっています。

○河内・大和の巨大古墳で、『延喜式』で天皇陵比定されているもの 13陵
○河内・大和の巨大古墳で、『延喜式』に天皇陵比定の無いもの 24陵(平城陵含む)
○河内・大和以外の巨大古墳 13陵

 このように古墳の規模上位50位の内、『延喜式』で天皇陵とされているものは約1/4の13陵で、その他3/4の巨大古墳は天皇陵とされていないのです。この事実から、巨大古墳を大和朝廷(天皇)による全国支配の根拠とすることはできないと服部さんは指摘されました。
 更に歴代天皇陵を即位年代順に並べ、同時期のその他の巨大古墳と比較すると、5世紀中頃からは天皇陵よりも巨大な「非天皇陵」古墳の方が多くなると言う現象も明らかにされました。すなわち、天皇陵は同時代の古墳の中で常に最大とは限らず、古墳の規模を比較して大和朝廷の天皇陵が最大であるとした大和朝廷一元史観の根拠は学問的検証に耐えられない〝誤解〟だったのです。なお、服部さんと同様の指摘は一元史観に立つ考古学者からもなされており、このことは別途紹介します。(つづく)


第1943話 2019/07/18

箸墓古墳出土物の炭素14測定値の恣意的解釈

 服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の講演「盗まれた天皇陵 -卑弥呼の墓はどこに-」において、いくつもの重要な論点が発表されました。中でも卑弥呼の墓とされた箸墓古墳出土物(木材)の炭素同位体(C14)測定値による理化学的編年への指摘は衝撃的でした。その測定値からは箸墓古墳を卑弥呼の時代と編年することはできないという科学的事実を指摘されたのです。
 従来は4世紀頃と編年されていた箸墓古墳でしたが、「邪馬台国」畿内説に基づき、より古く編年したいという「動機」が一元史観論者や畿内説論者にはありました。そのようなとき、箸墓古墳周辺から出土した木材片等の炭素同位体測定の結果、3世紀と見なせる測定値が出たことで箸墓古墳は「邪馬台国」と同時代と編年され、卑弥呼の墓とする説が学界の有力説となりました。この理化学的測定結果が「邪馬台国」畿内説の有力なエビデンスとされたわけです。
 この一見〝科学的〟なエビデンスには反論しにくいと誰もが思いました。ところが服部さんはこの測定値の生データを精査され、この生データからは箸墓古墳を3世紀と編年することはできないことに気づかれたのです。というのも測定値の生データ(複数サンプル)は数世紀の差異がある数値(サンプル)群であり、その数値(サンプル)中から3世紀に一致するデータだけを根拠に編年されているという極めて恣意的なデータ解釈が採用されていたからです。
 このことについては服部さんから詳細な論稿が発表されると思いますが、出土した各木片の測定値の分布が数世紀の幅を持っているのであれば、その複数の数値の中から自説に都合のよいデータだけを採用するなどとは、およそ理系(自然科学)では許されない恣意的な方法です。
 更に服部さんは、その3世紀に対応する測定値は4世紀にも対応するもので、その一つの測定値だけを採用したとしても、3世紀と4世紀の両方の可能性があり、3世紀と断定できないことも指摘されました。このように根拠とされた炭素14による測定値の生データからは箸墓古墳の編年は不可能なのです。自説に都合のよい科学的測定データのみを採用して、自説に有利になるように解釈することは学問の禁じ手です。(つづく)


第1942話 2019/07/16

服部さんが京都で講演

「盗まれた天皇陵 -卑弥呼の墓はどこに-」

 祇園祭宵山の見物客でごった返す京都市で、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が講演されました(主催:市民古代史の会・京都)。演題は「盗まれた天皇陵 -卑弥呼の墓はどこに-」というもので、百舌鳥古市古墳群が世界文化遺産に登録されたこともあって、タイムリーな講演会でした。60名ほどの方が参加され、「市民古代史の会・京都」の講演会も定着したようです。
 服部さんの講演は、大和朝廷一元史観の最後の拠り所となっている河内や大和の巨大前方後円墳や卑弥呼の墓とされる箸墓古墳についての検証と批判です。その結論として、河内・大和の巨大古墳は天皇家の祖先の墓ではないこと、箸墓古墳も卑弥呼の墓ではなく、時代も異なることなどを客観的科学的根拠を示して明らかにされました。
 いずれの論点も重要なものですので、「洛中洛外日記」にて紹介していきます。(つづく)


第1941話 2019/07/15

盛況!久留米大学での講演

 昨日、久留米大学御井校舎で開催された公開講座において、「筑紫の姫たちの伝説《倭国古伝》 -みかより姫(俾弥呼)・よど姫(壹與)・かぐや姫-」というテーマで講演させていただきました。雨天にもかかわらず80名ほどの参加がありました。遠くは長崎県から来られた方もありました。ありがたいことです。講演後の質問も数多く出され、とても熱心に聞いていただきました。持ち込んだ『古代に真実を求めて』もほぼ完売できました。
 講演後、大学近くのお店で、福山教授(久留米大学文学部)や犬塚さん(古田史学の会・会員、久留米市)、長崎から見えられた中村さんと懇親会を行いました。中村さんはFaceBookで知り合った〝友達〟です。古田史学の将来や日本の学問研究について、熱く語り合いました。わたしからは、「古田史学の会・九州」を再建したいとの希望を伝えました。
 当日、配られたレジュメの一部をご参考までに転載します。

2019.07.14 久留米大学公開講座
筑紫の姫たちの伝説《倭国古伝》
-みかより姫(俾弥呼)・よど姫(壹與)・かぐや姫-
        古賀達也(古田史学の会・代表)

 わたしたち「古田史学の会」は本年三月に『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』を上梓しました。同書では全国各地に残る古代伝承を大和朝廷一元史観ではなく多元史観・九州王朝説の視点から分析し、新たな倭国古代史の復元を試みました。
 その中から筑紫(筑前・筑後・肥前など)に残された姫たちの伝承を紹介します。この地域は九州王朝(倭国)の中心領域であり、その地の姫たちの伝承は九州王朝史研究においてもとりわけ重要なものです。たとえば北部九州には次のような女神や女性の伝承があります。

○俾弥呼(ひみか) 甕依姫(『筑紫風土記』逸文)
○壹與(いちよ)  淀姫 與止姫(『肥前国風土記』)
○高良山の「かぐや姫」 (『大善寺玉垂宮縁起』)
○「宝満大菩薩」「河上大菩薩」伝承
○「聖母(しょうも)大菩薩」伝承
○「大帯姫(おおたらしひめ)」伝承
○「神功皇后(気長足姫・おきながたらしひめ)」伝承

 今回の講座ではこうした九州王朝(倭国)の姫たちの伝承研究の一端を紹介します。ご参考までに『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』の巻頭言「勝者の歴史と敗者の伝承」を転載しました。

【転載】『倭国古伝 姫と英雄と神々の古代史』
 (古田史学の会編『古代に真実を求めて』22集、明石書店)

《巻頭言》勝者の歴史と敗者の伝承
            古田史学の会・代表 古賀達也
 本書のタイトルに採用した「倭国古伝」とは何か。一言でいえば〝勝者の歴史と敗者の伝承から読み解いた倭国の古代伝承〟である。すなわち、勝者が勝者のために綴った史書と、敗者あるいは史書の作成を許されなかった人々の伝承に秘められた歴史の真実を再発見し、再構築した古代日本列島史である。それをわたしたちは「倭国古伝」として本書のタイトルに選んだ。
 その対象とする時間帯は、古くは縄文時代、主には文字史料が残された天孫降臨(弥生時代前期末から中期初頭頃:西日本での金属器出現期)から大和朝廷が列島の代表王朝となる八世紀初頭(七〇一年〔大宝元年〕)までの倭国(九州王朝)の時代だ。
 この倭国とは歴代中国史書に見える日本列島の代表王朝であった九州王朝の国名である。早くは『漢書』地理志に「楽浪海中に倭人有り」と見え、『後漢書』には光武帝が与えた金印(漢委奴国王)や倭国王帥升の名前が記されている。その後、三世紀には『三国志』倭人伝の女王卑彌呼(ひみか)と壹與(いちよ)、五世紀には『宋書』の「倭の五王」、七世紀に入ると『隋書』に阿蘇山下の天子・多利思北孤(たりしほこ)が登場し、『旧唐書』には倭国(九州王朝)と日本国(大和朝廷)の両王朝が中国史書に始めて併記される。古田武彦氏(二〇一五年十月十四日没、享年八九歳)は、これら歴代中国史書に記された「倭」「倭国」を北部九州に都を置き、紀元前から中国と交流した日本列島の代表権力者のこととされ、「九州王朝」と命名された。
 『旧唐書』には「日本はもと小国、倭国の地を併わす」とあり、八世紀初頭(七〇一年)における倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への王朝交替を示唆している。この後、勝者(大和朝廷)は自らの史書『古事記』『日本書紀』を編纂し、そこには敗者(九州王朝・他)の姿は消されている。あるいは敗者の事績を自らの業績として記すという歴史造作をも勝者(大和朝廷)は厭わなかった。
 古田武彦氏により、古代日本列島には様々な文明が花開き、いくつもの権力者や王朝が興亡したことが明らかにされ、その歴史観は多元史観と称された。これは、神代の昔より近畿天皇家が日本列島内唯一の卓越した権力者・王朝であったとする一元史観に対抗する歴史概念である。わたしたち古田学派は古田氏が提唱されたこの多元史観・九州王朝説の立場に立つ。
 本書『倭国古伝』において、勝者により消された多元的古代の真実を、勝者の史書や敗者が残した伝承などの史料批判を通じて明らかにすることをわたしたちは試みた。そしてその研究成果を本書副題に「姫と英雄と神々の古代史」とあるように、「姫たちの古代史」「英雄たちの古代史」「神々の古代史」の三部構成として収録した。
 各地の古代伝承を多元史観により研究し収録するという本書の試みは、従来の一元史観による古代史学や民俗学とは異なった視点と方法によりなされており、新たな古代史研究の一分野として重要かつ多くの可能性を秘めている。本書はその先駆を志したものであるが、全国にはまだ多くの古代伝承が残されている。本書を古代の真実を愛する読者に贈るとともに、同じく真実を求める古代史研究者が多元史観に基づき、「倭国古伝」の調査研究を共に進められることを願うものである。
〔平成三十年(二〇一八)十二月二三日、記了〕


第1940話 2019/07/15

糸島水道はなかった

 縄文海進時の博多湾岸の海岸線について上村正康先生からご教示いただいたのですが、糸島水道についての論稿「『糸島水道』は存在しなかった -最近の地質学研究論文・遺跡調査報告書の紹介-」もいただきました。それは古田先生が主催されたシンポジウム「邪馬台国」徹底論争(1991年8月、昭和薬科大学諏訪校舎)で発表されたものでした。同シンポジウムにわたしは実行委員会メンバーとして参加していたのですが、この上村論稿のことを失念していました。
 物理学者らしい本格的な理系論文形式の論稿で、その論理展開やエビデンスは明快です。冒頭の「概要」部分を転載します。

【以下、転載】
概要:
 歴史上重要な遺跡・出土物の宝庫である糸島平野には、かつて加布里湾と今津湾を結ぶ「糸島水道(海峡)」が存在していた(約1000年前まで)--このことは、今まで通説のようになっていた。しかし、その存在を明記した歴史文献は無い。また、その存在の科学的根拠として使われていた1950年代の認識--「福岡の縄文時代における最高海水面は現在より10mも高かった」は、その後の、「縄文海進」の地質学研究の進歩により、高さを相当に過大評価したものであったことが判明した(実際は満潮時で2.2m程度)。
 1986年、下山等(文献1)は、「糸島水道」地帯の地下ボーリング試料を調べ、貝化石を含む縄文期の海成層を追跡したところ、この層が「水道」最狭部において東西幅1km余りに亘って断たれていることを確認した。このことは、その地区が「縄文時代およびそれ以後も海ではなかった」ことを示している。しかも、その地区内にある農地(50m×50m)の発掘調査(文献2)で、弥生・古墳時代の住居跡がそれぞれ6棟ずつ発見された。これらにより、「糸島水道」の存在は明瞭に否定されたと言えよう。既に、当地の糸島郡前原町教育委員会発行の「前原町文化財調査書」(年平均3回発行)では、「糸島水道」という言葉の使用を止め、「古加布里湾、古今津湾」という表現を採用し、糸島平野を貫く水道(海峡)は無かったという見解を示している(文献3、11)。
【転載終わり】

〔紹介文献〕
文献1)下山正一、佐藤喜男、野井英明「糸島低地帯の完新統および貝化石集団」『九州大学理学部 研究報告(地質)』14巻(1986、142-162)
文献2)前原町教育委員会「前原町文化財調査書」第10集(1983)
文献3)前原町教育委員会「前原町文化財調査書」第33集(1990)
文献11)前原町教育委員会「前原町文化財調査書」第16集(1984)、第20集(1985)、第23集(1986)、第24集(1986)、第28集(1988)、第34集(1990)。


第1939話 2019/07/14

博多湾岸の縄文海進は最大2.2m(満潮時)

 昨日の博多駅での歓談で、上村正康先生から見せていただいた九州大学理学部の研究報告(注)によると、博多湾岸でのボーリング調査の結果、縄文海進最盛期の海面上昇は現代よりも約1.2m(満潮時2.2m)とされていました。その結果、当時の海岸線は姪浜・室見・西新・福岡城の北側や天神付近となっており、それほど内陸部に入り込んでいません。
 これまでわたしは縄文海進時の海面上昇が約5mはあり、そのため各地の海岸線は現代よりも相当内陸部に及んでいたと漠然と理解していました。わたしが知る古田学派内の過去の論稿でもそのような認識を前提とした見解や仮説が発表されてきました。中には弥生時代に10〜15mも海面が上昇し、例えば筑豊地方内陸部に「古代遠賀湾」が存在していたとする説なども出されました。
 どのような仮説や思いつきの発表も「学問の自由」ですから、悪いことではありませんが、上村さんが紹介された論文に反論できるだけのエビデンスの提示が要求されます。ちなみに縄文海進時代の博多湾岸の海岸線復元研究は地下ボーリング調査に基づいており、説得力があります。(つづく)

(注)
 下山正一「福岡平野における縄文海進の規模と第四紀層」『九州大学理学部 研究報告(地質)』16巻1号、1989年1月。
 下山正一・磯望・野井英明・高塚潔・小林茂・佐伯弘次「福岡市鳥飼低地の海成第四系と更新世後期以降の地形形成過程」『九州大学理学部 研究報告(地球惑星科学)』17巻3号、1991年1月。