第1710話 2018/07/20

「巨大前方後円墳」発見の虚報

 本年3月20日の西日本新聞に田川郡赤村で巨大前方後円墳発見かとする報道がありました。その概要を知ったとき、これはかなりいかがわしい記事ではないかと思い、「洛中洛外日記」などでも触れることはしませんでした。そうしたわたしの予感が的中したようです。
 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.191に松中祐二さんの秀逸の論稿「『赤村古墳』を検証する」が掲載されていました。本年三月、西日本新聞で報道された「卑弥呼の墓」「日本最大に迫る全長450メートル」「巨大な前方後円墳」発見かとされたニュースに対して、松中さんは現地(福岡県田川郡赤村内田)調査や国土地理院の地形データを丹念に検証され、結論として前方後円墳とは認め難く、自然丘陵であるとの合理的な結論を導き出されました。
 松中さんは北九州市で医師をされており、古くからの古田ファンです。その研究スタイルは理系らしく、エビデンスに基づかれた論理的で合理的なもので、以前から注目されていた研究者のお一人です。今回の論稿でも国土地理院の等高線からその地形が前方後円墳の形状をなしておらず(後円部と前方部の面積や高さのアンバランス、断面図から“くびれ”部分がない、前方部が左右非対称など)、上空からみたときの道路が「前方後円」形状となっているに過ぎないことを見事に説明されました。
 当地の自治体の文化財担当者の見解も、新聞報道によれば「丘陵を『自然地形』として、前方後円墳との見方を明確に否定している」とのことで、そもそもこの丘陵を前方後円墳とか卑弥呼の墓とか言っている時点で“まゆつばもの”だったようです。自治体のプロの学芸員であれば、当丘陵が地山か築山かぐらいは表面観察だけでも判断できます。日本の考古学者の発掘調査等の技術レベルはかなりのものですから、その意見を尊重せずに「興味本位の記事」とする姿勢に、わが国の新聞社の“劣化”が見て取れるといったら言い過ぎでしょうか。新聞を読まない若者が増えるのも当然かもしれません。
 松中さんは論稿を次の言葉で締めくくっておられますが、古田学派であれば深く同意できるところです。
 「なお、赤村丘陵の後円部だけを取り出し、『卑弥呼の墓』だとする意見もあるようだが、本会会員にとっては、この説は長里に基づく謬説である、という見解に異論はないところであろう。」


第1709話 2018/07/19

「東山道十五国」の成立時期

 9月1日(土)の『発見された倭京』出版記念東京講演会(東京家政学院大学・千代田三番町キャンパス)に向けて、講演者の準備も着々と進められています。中でも、「九州王朝の古代官道」について講演される肥沼孝治さんと山田春廣さんの講演内容の目次や当日使用されるパワーポイントの画像作成状況が、両氏のブログにリアルタイムで紹介されており、その内容が面白く、ますます講演会が待ち遠しくなってきました。
 特に山田さんが講演される「東山道十五国」(『日本書紀』景行紀55年条)を九州王朝の「東山道」とするテーマは画期的な発見であり、多くの皆さんにお聴きいただきたい研究です。もちろん、まだまだ研究・検証が必要な仮説で、その「東山道十五国」記事がなぜ『日本書紀』景行紀55年条に記されているのかなど重要な課題も残されています。この点については、山田さんご自身も「『東山道十五國』の比定」(『発見された倭京』所収)の末尾で次のように述べられています。

 「また、『古事記』にはない“以彦狭嶋王、拝『東山道十五國』都督”記事がなぜ『日本書紀』景行紀にあるのかも未解明です。これらは今後の研究に委ねたいと思います。」(145頁)

 『日本書紀』景行55年の実年代をいつ頃とするかという問題もありますが、この時代に九州王朝が「東山道十五国」を制定したとするには早いような気がします。しかし、『日本書紀』編者は何らかの根拠に基づいてこの記事を景行紀に記したわけですから、頭から否定することもできません。
 他方、『常陸国風土記』冒頭には次のような記事があり、この記事を「是」とするのであれば、九州王朝「東山道十五国」の成立は7世紀中頃の評制施行時期の頃となります。

 「國郡の舊事を問ふに、古老答へていへらく、古は、相模の國足柄の岳坂より東の諸縣は、惣べて我姫(あづま)の國と称(い)ひき。(中略)其の後、難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇のみ世に至り、高向臣・中臣幡織田連等を遣はして、坂より東の國を惣領(すべをさ)めしめき。時に、我姫の道、分かれて八つ國と爲(な)り、常陸の國、其の一に居れり。」(日本古典文学大系『風土記』35頁)

 岩波の頭注によれば、「分かれて八つ國」とは、相模・武蔵・上総・下総・上野・下野・常陸・陸奥とされています。山田説によれば「東山道十五国」とは九州王朝の都、太宰府を起点として次の国々とされています。

 「豊前・長門・周防・安芸・吉備・播磨・摂津・山城・近江・美濃・飛騨・信濃・上野・武蔵・下野」

 ですから、『常陸國風土記』の記事を信用すれば、「上野・武蔵・下野」」の成立は「難波の長柄の豊前の大宮に臨軒しめしし天皇(孝徳天皇)のみ世」の7世紀中頃ですから、「東山道十五国」の成立もそれ以後となってしまいます。
 九州王朝の「東山道十五国」の成立が7世紀中頃では逆にちょっと遅いような気もしますが、景行天皇の時代とするのか孝徳天皇の時代とするのか、引き続き検討したいと思います。


第1708話 2018/07/18

所功さんの九州年号史料への誤解

 所功さんらの新著『元号 年号から読み解く日本史』には、一元史観による「建元」と「改元」の矛盾などが露呈していることを指摘しましたが、その他にも、『二中歴』や同時代九州年号史料に対する誤解や認識の無さが散見されます。最後にこのことについて改めて指摘しておきます。
 拙稿「九州年号偽作説の誤謬 所功『日本年号史大事典』『年号の歴史』批判」(『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』)においても既に指摘したことですが、九州年号群史料として現存最古の『二中歴』を所さんは「鎌倉末期(十四世紀前半)成立」(53頁)とされています。しかし、これは所さんの誤解で、現存『二中歴』には後代における追記をともなう再写の痕跡があり、その再写時期の一つである鎌倉末期を成立時期と勘違いされています。現存最古の『二中歴』写本のコロタイプ本解説(尊経閣文庫)にも、『二中歴』の成立を鎌倉初頭としています。このような所さんの史料理解の誤りが、九州年号偽作説の「根拠」の一つとなり、その他の九州年号偽作説論者は所さんの誤解に基づき古田説を批判する、あるいは無視するという学界の悲しむべき現状を招いています。
 更に、わたしが繰り返し紹介してきた同時代九州年号史料についても未だにご存じないのか、次のように述べられています。

 「かような“古代年号”には、平安時代以前まで遡る確実な史料がない。」(54頁)

 『二中歴』の成立が鎌倉初頭ですから、当然のこととしてそこに記された九州年号は鎌倉初頭よりも前、すなわち平安時代以前の史料に基づいているわけですから、「平安時代以前まで遡る確実な史料がない。」とするのは誤解です。また、わたしが『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房)などでも紹介した次の同時代九州年号史料の存在も無視(無知?)されています。

○茨城県岩井市出土「大化五子年(六九九)」土器
○滋賀県日野町「朱鳥三年戊子(六八八)」鬼室集斯墓碑
○芦屋市三条九ノ坪遺跡出土「元壬子年(六五二)」木簡

 たとえば、この「元壬子年」木簡の発見により、「白雉元年」が「壬子」の年となる『二中歴』などに記されている九州年号「白雉」が実在していたことが明白となりました。そのため、大和朝廷一元史観の研究者たちはこの木簡の存在に触れなくなりました。触れたとしても「壬子年」木簡と紹介するようになり、九州年号「白雉元年」を意味する「元」の一字を故意に伏せ始めたようです。すなわち、学界はこの「元壬子年」木簡の存在が一元史観にとって致命的であることに気づいているのです。
 年号研究の大家で誠実な学者として知られる所さんが、「建元」と「改元」の論理や同時代九州年号史料の存在を真正面から受け止められ、多元史観に目覚められることを願うばかりです。そのとき、日本の古代史学は「学問の夜明け」を迎えることでしょう。


第1707話 2018/07/17

大化改元の真実と改元の論理

 「九州年号偽作説の誤謬 所功『日本年号史大事典』『年号の歴史』批判」(『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』)において、わたしは所功さんが編集された『日本年号史大事典』(雄山閣)の「大化建元」とする次の記事を批判しました。

 「日本の年号(元号)は、周知のごとく「大化」建元(六四五)にはじまり、「大宝」改元(七〇一)から昭和の今日まで千三百年以上にわたり連綿と続いている。」(第三章、五四頁)

 このように大和朝廷最初の年号制定を意味する「建元」が「大化」年号とされ、『続日本紀』に「建元」と記されている「大宝」を「改元」と記されていました。しかし、『日本書紀』に見える「大化」年号制定記事は次の二ヶ所で、いずれも「建元」ではなく、「改めて」「改元」と表記されています。すなわち「大化」は「改元」とされているのです。

 「天豊財重日足姫天皇(皇極天皇)の四年を改めて大化元年とする」(孝徳天皇即位前紀)
 「皇后(皇極天皇)、天皇位に即(つ)く。改元する。四年六月に天萬豊日天皇(孝徳天皇)に讓位し、天豊財重日足姫天皇曰皇祖母尊と稱す。」(斉明天皇即位前期)

 「建元」とは、ある王朝が初めて年号を建てることを意味し、その後に年号を改めることを「改元」といいます。すなわち、近畿天皇家は自らの史書で「大化」は改元であり、近畿天皇家にとっての最初の年号は「大宝」(建元)と主張しているのです。
 所さんは旧著『日本年号史大事典』では“「大化」建元”とされていたのですが、新著『元号 年号から読み解く日本史』では、どうしたことか「大化」について「建元」という表現を用心深く避けておられます。例えば次のような表現に変更されているのです。

 「改新の先駆け『大化』創建」(55頁)
 「日本で初めての公年号『大化』が創建された意味は、きわめて大きい。」(56頁)
 「この『大化』が、日本で最初の公年号だとみなされている。」(57頁)
 「『大化』という公年号を初めて定めたのである。」(58頁)
 「前述の『大化』は代始(天皇の代替わり初め)による改元の初例」(60頁)

 このように「大化」に対して「建元」という表記に代えて、「創建」「最初の公年号」「改元の初例」という表現を使用されています。恐らく、新著で「大宝」を正しく「建元」とされたため、旧著のように「大化」に対して「建元」を使用することの矛盾に気づかれたものと思われます。しかし、ある王朝が「最初公年号」を「創建」することを「建元」というのであり、新著での表記変更によっても、『日本書紀』の「大化改元」記事と『続日本紀』の「大宝建元」記事が近畿天皇家一元史観では説明できないことがますます露呈したと言わざるを得ません。(つづく)


第1706話 2018/07/15

大宝建元の真実と建元の論理

 わたしは「九州年号偽作説の誤謬 所功『日本年号史大事典』『年号の歴史』批判」(『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』古田史学の会編・明石書店)において、次のように所功さんの論稿を批判しました。

【以下、転載】
 「建元」と「改元」の論理
 面白い本を読みました。所功編『日本年号史大事典』(平成二六年一月刊、雄山閣)です。所さんといえばテレビにもよく出られている温厚で誠実な学者ですが(その学説への賛否とは別に、人間としては立派な方だと思っています)、残念ながら大和朝廷一元史観にたっておられ、今回の著書も一元史観に貫かれています。しかし、約八百頁にも及ぶ大作であり、年号研究の大家にふさわしい労作だと思います。
 〈中略〉
 同書中、わたしが最も注目したのが「建元」と「改元」の扱いについてでした。まず、所さんは我が国の年号について次のように概説されています。
 「日本の年号(元号)は、周知のごとく「大化」建元(六四五)にはじまり、「大宝」改元(七〇一)から昭和の今日まで千三百年以上にわたり連綿と続いている。」(第三章、五四頁)
 すなわち大和朝廷最初の年号を意味する「建元」が「大化」とされ、『続日本紀』に「建元」と記されている「大宝」を「改元」と理解されています。そして、具体的な年号の解説が「各論 日本公年号の総合解説」(執筆者は久禮旦雄氏ら)でなされるのですが、その「大宝」の項には次のような「改元の経緯及び特記事項」が記されています。
 「『続日本紀』大宝元年三月甲午条に「対馬嶋、金を貢ぐ。元を建てて大宝元年としたまふ」としており、対馬より金が献上されたことを祥瑞として、建元(改元)が行われたことがわかる。」(一二七頁)
 この解説を見て、失礼ながら苦笑を禁じ得ませんでした。『続日本紀』の原文「建元(元を建てて)」を正しく紹介した直後に「建元(改元)」と記されたのですから。いったい「大宝」は建元なのでしょうか、それとも改元なのでしょうか。原文改訂の手段としてカッコ書きにすればよいというものではないと思うのですが。
【転載終わり】(27〜28頁)

 「建元」とはある王朝が初めて年号を建てることを意味し、その後に年号を改めることを「改元」といいます(より正確に言えば、中国では前王朝からの「禅譲」を受けたとする次王朝の最初の年号制定は「改元」と表現されます)。日本国(近畿天皇家の王朝)でいえば、「建元」は『続日本紀』に記された大宝元年(701)であり、以後、現在の平成まで「改元」が繰り返されています。この単純自明の理屈「建元と改元の論理」に基づき、所さんの著書を批判したものですが、今年発行された所功さん等(久禮旦雄さん・吉野健一さん)の新著『元号 年号から読み解く日本史』(文春新書、2018年3月刊)では、この『日本書紀』の“大化改元”と『続日本紀』の“大宝建元”の解説が“「大宝」建元の画期的意義”の項で次のように変更されているのです。

 「そこで、文武天皇五年(七〇一)三月二十一日、『対馬嶋より金を貢』したことにして、それを祥瑞とみなし『元を建てて大宝元年と為された』(『続日本紀』)。ここに『元を建て』と記すのは、単に改元するというだけではなく、従来断続的であった年号を、新たに制度化して永続させるスタートに立ったことを意味する。」(65頁)

 このように『続日本紀』の「大宝建元」記事の新「定義」として、「単に改元するというだけではなく、従来断続的であった年号を、新たに制度化して永続させるスタートに立ったことを意味する。」を提示されています。これはかなり苦しい強引な解釈と言わざるを得ません。もしこのような「定義」が正しいとされるのであれば、たとえば中国史書における「建元」に同様の使用例があることを史料根拠として提示することが学問研究としては不可欠でしょう。
 今回の所さんの「大宝建元」の「定義」は、近畿天皇家一元史観を「是」と先に決めてから、それにあうように近畿天皇家が編纂した史書の史料事実を解釈するという手法です。所さんは皇室を敬愛されるがあまり、学問として古代史料を見る目が曇られたと言っては、高名な碩学に対して失礼でしょうか。(つづく)


第1705話 2018/07/14

年号候補になっていた「大長」

 暑さと体調不良により、この一週間ほど古代史の勉強や研究が進みません。仕事の方も、中国の原材料メーカーの操業停止続発により、製品在庫が無くなり、対策検討とお客様への釈明に追われる日々が続いています。悪いときには悪いことが重なるものです。
 そんな中で少しずつ読んでいるのが所功さんらが書かれた『元号 年号から読み解く日本史』(文春新書、2018年3月刊)です。古代から現代までの日本の年号の歴史を解説した好著ですが、7世紀の古代年号部分の解説は、執筆された所さんには失礼ですが、かなり「残念」な内容でした。ただ、九州年号について後代偽作とされながらも『二中歴』なども紹介されており、古田説を無視する他の一元史観論者とは異なり、誠実な学者と思いました。
 九州年号の説明について次のような表現があり、これはわたしたち古田学派のことを言っておられると思われます。

 「一部の論者が“古代年号”とか“九州年号”と呼んで、実在したに違いないと熱烈に主張する年号らしきもの」(33頁)

 熱烈に九州年号や九州王朝の実在を主張する「一部の論者」とは、おそらくわたしたちのことに違いないと、思わずにやりとしました(この一節があったので、同書を購入しました)。昨年、発行した『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(古田史学の会編・明石書店)には所さんの著書を批判した拙稿「九州年号偽作説の誤謬 所功『日本年号史大事典』『年号の歴史』批判」が掲載されていますから、もしかするとわたしからの批判を意識して書かれたのではないかと思われる箇所もありました。
 このことについては別途紹介する予定ですが、今回、紹介するのは同書末尾に付されている「日本の年号候補・未採用文字案」です。古代から現代までの改元時に提案された未採用年号候補の一覧なのですが、その中に最後の九州年号「大長」(704〜712年)があり、1回だけ候補に挙がっているとされています。候補になった時代など詳細はわかりません。他の九州年号は未採用候補には見あたりませんでした。
 この「大長」を年号候補とした学者は九州年号の存在を知らなかったか、偽作として実在していなかったと考えていたものと思われます。古代における国内の別王朝(九州王朝)の年号と知っていたら、絶対に候補には挙げなかったはずだからです。(つづく)


第1704話 2018/07/08

古田武彦記念 古代史セミナーのお知らせ

 「古田記念古代史セミナー2018」が八王子の大学セミナーハウスにて開催されます。詳細は同ホームページをご参照ください。正木裕さん(古田史学の会・事務局長)も研究発表されます。主催は大学セミナーハウスで、東京古田会・多元的古代研究会・古田史学の会の共催です。参加お申し込みは、大学セミナーハウスHPから可能です。

■日程 2018年11月10日(土)〜11日(日)
■参加対象 このセミナーに関心のある方ならどなたでも参加できます。
■定員 60名(先着順)
■参加費 15,000円・学生7,500円(宿泊・食事・資料代、消費税を含みます。)
■会場 大学セミナーハウス(東京都八王子市下柚木1987-1)
■申込方法 WEB上の申込フォームからお申し込みください。なお、他の申込方法を希望される方は、下記までお電話ください。
■申込締切 2018年11月2日(金)
■お問い合わせ公益財団法人
大学セミナーハウス・セミナー事業部
TEL:042-677-0141(直)FAX:042-676-1220(代)
E-mail:seminar@seminarhouse.or.jp
URL:https://iush.jp/
〒192-0372 東京都八王子市下柚木1987-1
■趣旨
 2004年から2014年まで、毎年11月上旬に、八王子の大学セミナーハウスに古田武彦先生をお招きして、1泊2日の「古代史セミナー 古田武彦先生を囲んで 日本古代史新考 自由自在」を開催致しました。その内容は、『TAGEN』、『東京古田会ニュース』、『古田史学会報』等に報告されています。更に、2004年から2012年までの内容は、平松健氏によってテーマ別に整理し直して編集され『古田武彦が語る多元史観』(ミネルヴァ書房)として刊行されています。その「はしがき」において古田先生は、「我が国の歴史教育を真実に戻すことが、この一書の役割である」と絶賛していらっしゃいます。また、セミナーの様子は西坂久和氏により完全収録され、西坂ビデオライブラリーに収められており、古田先生のあの情熱溢れるセミナーの様子はいつでも再現することが出来ます。
 あのセミナーの内容は、研究者達から「八王子セミナー」として頻繁に引用され続けています。このことは、あのセミナーの内容が豊富であり、学術的に重要であったことの証です。主催した者としては、これに勝る喜びはありません。
 古田武彦先生がお亡くなりになって2年半が経過しましたが、この間も、古田先生に学んだ古代史学の研究者達による研究が活発に進展し続けていることは悦ばしい限りです。
 あの「八王子セミナー」と同じ場所で、同じ時期に、同じ日程で古代史セミナーを開催することを企画致しました。今回のセミナーは、タイトルを「古田武彦記念古代史セミナー」としました。その趣旨は、「古田武彦先生を囲んで」、つまり、古代史学の研究を進めるに当たっては、古田先生の方法論と業績を踏まえることが重要であると考えるからです。このセミナーにおいて、「古代史学における古田先生の方法論と業績を再確認」しながら、活発な研究交流が行われることを期待しております。
 このセミナーの企画に当たり、学術的な部分については多元的古代研究会、東京古田会及び古田史学の会に御検討頂き、大学セミナーハウスと共同で開催することに致しました。(実行委員長・荻上紘一)
■特別講演
ユーラシア世界史と倭人
山田宗睦先生(哲学者)
■スケジュール
11月10日(土)
 11:30〜 受付・昼食
 13:00〜 開会(挨拶・古田光河様)
13:30〜 特別講演(山田宗睦先生)
15:30〜 記念撮影、チェックイン
 16:00〜 研究発表Ⅰ(和田家文書の世界)
17:30〜 夕食、休憩
18:30〜 情報交換会
11月11日(日)
9:00〜 研究発表Ⅱ(倭国から日本国へ)
12:00〜 昼食、休憩
13:00〜 研究発表Ⅱ(質疑応答)
14:10〜 研究発表Ⅲ(自由テーマ)
16:10〜 閉会
16:30 解散

■研究発表
Ⅰ 和田家文書の世界
 西坂 久和 秋田孝季の妹である和田りくの筆跡について
 菊地 栄吾 研究ノート「アラハバキ考」
 安彦 克己 浄土宗知恩院発行 金光上人関係伝承資料集を批判する
Ⅱ 倭国から日本国へ
 合田 洋一 『葬られた驚愕の古代史』―越智国に“九州王朝の首都”紫宸殿ありや
 鈴岡 潤一 西暦700年の〈倭国溶暗〉と地方政治の展開
 正木  裕 7世紀末の倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への権力移行
 中村 通敏 郭務ソウはどこにいたか?
 橋本 正浩 日本書紀編纂の目的と古事記の役割―九州と近畿における地名の類似性から見えてくる大和政権の思惑
 上城  誠 古田先生の史料批判について(大宰府出土戸籍木簡に関連して)
Ⅲ 自由テーマ
 藤井 政昭 関東の日本武尊
 鈴木   浩 ユーラシア大陸の縄文語地名
 平松 幸一 虚大古墳の時代
 大下 隆司 古田武彦氏の学問の方法について
 角田 彰男 大分県の国宝 臼杵石仏は九州王朝時代に彫られた大規模磨崖仏遺跡である
 吉村八洲男 「しなの」の国から見る「磐井の乱」


第1703話 2018/07/01

佐藤弘夫『アマテラスの変貌』を再読

 この数日、佐藤弘夫さんの『アマテラスの変貌 -中世神仏交渉史の視座-』(法蔵館、2000年)を再読しています。著者の佐藤さんは東北大学で日本思想史を学ばれ、特に中世思想史・宗教史の分野では多くの業績をあげられている著名な研究者です。その佐藤先生との出会いについて、「洛中洛外日記」1104話(2015/12/10)で触れていますので再掲します。

「佐藤弘夫先生からの追悼文」
 東北大学の古田先生の後輩にあたる佐藤弘夫さん(東北大学教授)から古田先生の追悼文をいただきました。とても立派な追悼文で、古田先生との出会いから、その学問の影響についても綴られていました。中でも古田先生の『親鸞思想』(冨山房)を大学4年生のとき初めて読まれた感想を次のように記されています。
 「ひとたび読み始めると、まさに驚きの連続でした。飽くなき執念をもって史料を渉猟し、そこに沈潜していく求道の姿勢。一切の先入観を排し、既存の学問の常識を超えた発想にもとづく方法論の追求。精緻な論証を踏まえて提唱される大胆な仮説。そして、それらのすべての作業に命を吹き込む、文章に込められた熱い気迫。--『親鸞思想』は私に、それまで知らなかった研究の魅力を示してくれました。読了したあとの興奮と感動を、私はいまでもありありと思い出すことができます。学問が人を感動させる力を持つことを、その力を持たなければならないことを、私はこの本を通じて知ることができたのです。」
 佐藤先生のこの感動こそ、わたしたち古田学派の多くが『「邪馬台国」はなかった』を初めて読んだときのものと同じではないでしょうか。
 わたしが初めて佐藤先生を知ったのは、京都府立総合資料館で佐藤先生の日蓮遺文に関する研究論文を偶然読んだときのことでした。それは「国主」という言葉を日蓮は「天皇」の意味で使用しているのか、「将軍」の意味で使用しているのかを、膨大な日蓮遺文の中から全ての「国主」の用例を調査して、結論を求めるという論文でした。その学問の方法が古田先生の『三国志』の中の「壹」と「臺」を全て抜き出すという方法と酷似していたため、古田先生にその論文を報告したのです。そうしたら、佐藤先生は東北大学の後輩であり、日本思想史学会などで旧知の間柄だと、古田先生は言われたのです。それでわたしは「なるほど」と納得したのでした。佐藤先生も古田先生の学問の方法論を受け継がれていたのです。
 その後、わたしは古田先生のご紹介で日本思想史学会に入会し、京都大学などで開催された同学会で佐藤先生とお会いすることとなりました。佐藤先生は同学会の会長も歴任され、押しも押されぬ日本思想史学の重鎮となられ、日蓮研究では日本を代表する研究者です。【以下略】

 今回、佐藤さんの『アマテラスの変貌』を改めて読みはじめたのは、中世における「神仏習合」「本地垂迹」思想について詳しく知りたかったからです。というのも、現在、取り組んでいる太宰府観世音寺研究において精査した「観世音寺古図」に描かれた鳥居に強い興味を抱いたためです。この「古図」が創建時の観世音寺の姿を描いたものであれば、九州王朝の時代に仏教寺院の正門前に鳥居が付設されたこととなり、平安時代後期から盛んになる「本地垂迹」思想の淵源が古代の九州王朝にまで遡るかもしれないのです。
 この「観世音寺古図」の書写は室町時代の大永六年(1526)であることが判明しており、平安時代の観世音寺の姿が描かれているとされています。わたしは更に遡り、部分的には8世紀初頭の「養老絵図」を書写したのではいかと考えていますので、もし鳥居部分がそうであれば、九州王朝の宗教思想を探る手がかりとなるかもしれません。
 こうした九州王朝の宗教思想研究に入るに当たり、まず中世の「神仏習合」「本地垂迹」思想について勉強しておく必要を感じ、その分野の専門家である佐藤さんの著書を書棚から探し出し、再読を始めたものです。(つづく)


第1702話 2018/07/01

6月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 6月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。
 配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記」「同【号外】」のメール配信は「古田史学の会」会員限定サービスです。

《7月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル》
2018/06/02 岡崎の京都府立図書館を偵察
2018/06/12 和歌山県海南市を初訪問
2018/06/21 『古代に真実を求めて』初版増部の交渉
2018/06/30 「観世音寺古図」に描かれた鳥居


第1701話 2018/06/29

『風土記』の中の利歌彌多弗利(聖徳王)

 九州年号研究の進展により、『二中歴』には見えない「聖徳(629〜634年)」という九州年号は利歌彌多弗利の「法号」とする説が正木裕さん(古田史学の会・事務局長)より発表されました。今のところ、この正木説が最有力とわたしは考えていますが、この正木説に立つと新たな展開が見えてきます。今回、ご紹介する『播磨風土記』に見える「聖徳王」を九州王朝の利歌彌多弗利(多利思北孤の太子)とする理解です。
 『風土記』(日本古典文学大系、岩波書店)所収「播磨風土記」には次のような「聖徳王」という表記が見えます。

(印南郡)
 「原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈、廣さ一丈五尺、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり。」(265頁)
 『風土記』(日本古典文学大系、岩波書店)

 有名な「石の宝殿」のことを記した記事ですが、ここに見える「聖徳王」や「弓削大連」について、岩波の頭注では次のように解説されています。

 頭注二五「推古天皇の皇太子で摂政であったから、天皇に準じていう。太子の摂政は物部守屋滅亡後で時代が前後する。伝承の年代錯誤。」(265頁)
 頭注二六「物部守屋。排仏を主張して聖徳太子に攻め滅ぼされた(五八七没)。」(265頁)

 ここでは「聖徳の王の御世」の説明として「推古天皇の皇太子で摂政であったから、天皇に準じていう」とされていますが、本当でしょうか。『播磨風土記』では時代を特定する記述方法としては次のように近畿天皇家の「○○天皇の御世」という表記が採用されています。同じ「印南郡」に見える三例を紹介します。

 「難波の高津の御宮の天皇の御世(仁徳天皇)」
 「大帯日子の天皇の御世(景行天皇)」
 「志我の高穴穂の宮に御宇しめし天皇の御世(成務天皇)」
 ※( )内は古賀による付記。

 これらと比較しても「聖徳の王の御世」という表記は異質です。いわゆる聖徳太子の摂政時代であれば推古天皇が存在するのですから、例えば「飛鳥の治田宮の天皇の御世」という表記が可能であるにもかかわらず「聖徳の王の御世」とあるのは不審です。しかも、頭注で指摘されているように、「太子の摂政は物部守屋滅亡後で時代が前後する。伝承の年代錯誤。」であり、『日本書紀』の内容と一致しません。
 ところがこの記事を多元史観・九州王朝説で解釈すれば、先の正木説に基づき「聖徳王の御世」とは九州王朝の利歌彌多弗利の時代となり、それは前代の多利思北孤崩御後の九州年号「仁王元年(623)」から恐らく「命長七年(646)」の頃を意味します。
 さらに、同記事に見える「弓削の大連」も、物部守屋とは別人となります。ですから、時代もいわゆる聖徳太子よりも後となり、「弓削の大連の造れる石」とされた「石の宝殿」も当地の有力者と思われる「弓削の大連」が造らせたものと理解すべきでしょう。
 わたしはこの「石の宝殿」がある生石神社(おうしこじんじゃ)を訪問したことがあり、そのときに九州年号「白雉」が案内板の御由緒に使用されていることを知りました。そのことを「洛中洛外日記」1348話(2017/03/07)で次のように記しました。

【以下転載】
石の宝殿(生石神社)の九州年号「白雉五年」

 今日は仕事で兵庫県加古川市に行ってきました。お昼休みに時間が空きましたので、出張先近くにある石の宝殿で有名な生石神社(おうしこじんじゃ)を訪問しました。どうしても行っておきたい所でしたので、短時間でしたが石の宝殿を見学しました。
 有名な史跡ですので説明の必要もないかと思いますが、同神社の案内板に書かれた御由緒によれば、御祭神は大穴牟遅と少毘古那の二神で、創建は崇神天皇の御代(97年)とのことです。
 特に興味が引かれたのが、孝徳天皇より白雉五年に社領地千石が与えられたという伝承です。この白雉五年が九州年号による伝承であれば656年のこととなります。この「白雉五年」伝承を記した出典があるはずですので、これから調査することにします。
【転載終わり】

 九州王朝が難波副都(前期難波宮)を造営した時代の白雉五年の伝承ということですから、利歌彌多弗利の次の時代です(正木説では「伊勢王」の時代)。従って『播磨国風土記』に記された「弓削の大連」も社領地千石が与えらるほどの九州王朝系の有力氏族であったと考えるべきでしょう。
 以上のように、『播磨国風土記』に見える「聖徳王」を利歌彌多弗利のこととする仮説(やや思いつき)を提起しましたが、いかがでしょうか。


第1700話 2018/06/28

『風土記』の中の九州王朝「国分(府)寺」

 九州王朝の「国府寺」建立の史料的痕跡として『聖徳太子伝記』や『日本書紀』推古2年条などを紹介してきましたが、『風土記』にもその痕跡を見いだしました。『豊後国風土記』の次の記事です。

「風土記 豊後の国
郡は八所〔郷は四十、里は一百一十〕、驛は九所〔並に小路〕、烽は五所〔並に下国〕、寺は二所なり〔僧の寺と尼の寺なり。〕」(357頁)
頭注九「大分郡の条に見える二寺」(356頁)
「大分の郡 郷は九所〔里は廿五〕、驛は一所、烽は一所、寺は二所なり〔一つは僧の寺、一つは尼の寺なり〕。」(367頁)
頭注二一「箋釈は天平十三年の勅命による国分寺及び国分尼寺としているが恐らくは不可。国分寺以前のものであろう。肥前風土記の寺の記載(三九一頁頭注一三)参照。」(367頁)
『豊後国風土記』(日本古典文学大系、岩波書店)※〔 〕内は小文字。

 豊後国国府のあった大分郡に僧寺と尼寺の存在が記されています。『風土記』成立時の8世紀前半頃ですから豊後国に寺院が二つしかないということはありえません。ですから、国府にあるこの二つの寺は豊後国を代表する寺院と考えざるをえません。従って、九州王朝による多元的「国分寺」説に立てば、豊後国の「国分寺(国府寺)」と「国分尼寺(国府尼寺)」の可能性が高いと思われます。「頭注二一」でも「(聖武天皇による)国分寺以前のものであろう」としています。

 同様の例が次の『肥前国風土記』にも見えます。

「肥前の国
郡は二十一所〔郷は七十、里は一百八十七〕、驛は一十八所〔小路〕、烽は二十所〔下国〕、城は一所、寺は二所〔僧の寺なり〕。」(379頁)
「神埼の郡 郷は九所〔里は廿六〕、驛は一所、烽は一所、寺は一所〔僧の寺〕なり。」(389頁)
頭注七「背振山霊仙寺に擬している。」(388頁)
「佐嘉の郡 郷は六所〔里は一十九〕、驛は一所、寺は一所なり。」(391頁)
頭注一三「佐嘉駅(延喜式・和名抄)。佐賀市の北方、大和村尼寺の東方の国分附近が肥前国府の遺蹟地で、駅も同地にあったのであろう。」(391頁)
頭注一四「巻首の注によれば、これも僧寺であり、『僧寺』と注書のあるべきところである。大和村尼寺真島の国分寺趾にあった寺であろう。国分寺と称せられる以前の寺である。」(391頁)
『肥前国風土記』(日本古典文学大系、岩波書店)

 肥前国府があった佐嘉郡に「僧寺」があったと記されており、地名には「大和村尼寺」と「尼寺」があった痕跡も見え、豊後国府と同様に肥前国府にも「国分寺(国府寺)」と「国分尼寺(国府尼寺)」があったと思われます。ここでも「頭注一四」では「国分寺と称せられる以前の寺である」と解説されており、7世紀以前に遡る九州王朝時代の寺院と考えざるを得ません。

 これら九州島内の二つの現存『風土記』に見える「国分寺(国府寺)」「国分尼寺(国府尼寺)」と思われる記事は、九州王朝による多元的「国分寺」建立の史料根拠としてもよいのではないでしょうか。


第1699話 2018/06/27

五重塔「創建基壇」の階段

 「観世音寺古図」と『観世音寺資財帳』や出土遺構の不一致について説明してきましたが、それでも伽藍配置の一致や五重塔の二重基壇など「古図」が創建観世音寺の姿を伝えていると思われる部分があり、わたしは「古図」を重視しています。従って、塔基壇の階段についても創建五重塔には「古図」と同様に四面にそれぞれ階段が付設されていたのではないかと推定しています。
 というのも、東西に階段があったとした発掘調査に基づく見解は有力ですが、それはⅡ期の基壇とされており、創建時のⅠ期基壇については考古学的調査では階段の数は解明されていません。そこで創建時の五重塔基壇の階段の数を推定できるのは、『観世音寺資財帳』に記された五重塔の「戸」の数を四カ所とする記録です。すなわち五重塔には東西南北に「戸」があったと考えられ、そうであれば各「戸」の前にはそれぞれ出入りのための階段があったと考えるのが穏当のように思われるのです。この推定は「古図」に描かれた五重塔の姿と一致しますから、このことは「古図」に描かれた五重塔は創建時の姿を示していることを意味します。
 観世音寺の各伽藍は破損と再建を繰り返した考古学的痕跡やそのことを記した史料があります。しかし五重塔だけは基壇に修復した痕跡(地覆石)が出土していますが、建物は火災で焼失した後に再建されたとする史料や考古学的痕跡はありません。基壇には修復されたⅡ期があることから、恐らくⅠ期基壇の外側部分が何らかの事情で破損し、修復されたものと思われます。そしてその修復時に四つあった階段は1箇所(西辺)か2箇所(東辺と西辺)に減らされたのではないでしょうか。
 五重塔基壇の面積が建物よりも大きく不自然であることを指摘され、広い基壇に対応した大きな五重塔が創建時にあったとする大越説に対して、わたしは「古図」に描かれた二重基壇の五重塔を根拠に、基壇と建物の面積のアンバランスを二重基壇説によって説明できるとしました。いずれの説も仮説として成立(問題点を説明できる)していますから、これからの研究の進展に期待したいと思います。