第1722話 2018/08/15

「都市」官職名の先行説

 『古田史学会報』147号に掲載された古谷弘美さん(『古代に真実を求めて』編集部)の「長沙走馬楼呉簡の研究」によれば中国長沙市から発見された三国時代の「長沙走馬楼呉簡」に記された「都市史」という官職名を根拠に、『三国志』倭人伝に見える「都市牛利」の「都市」も官職名ではないかとされました。説得力ある見解と思います。
 古谷さんは「長沙走馬楼呉簡」を史料根拠としてそうした仮説を提起されたのですが、別の論点から「都市」を官職名とする先行説があります。よい機会ですので、ご紹介することにします。それは吉田孝氏の「魏志倭人伝の『都市』」(『日本歴史』567号、1995年8月)という論文です。
 同論文において吉田氏は「都市」が姓とは考えにくいとし、漢から魏にかけた頃に用いられた官職名として次の例をあげられ、「都市」という官職名もあったのではないかとされています。

 都水 水利のことを主(つかさど)る。
 都船 船水利のことを主る。
 都官 官の不法の検察を主る。
 都司空 刑獄のことを主る。
 都候 巡察のことを主る。
 都講 講学のことを主る。
 都督 軍を督することを主る。
 都護 地方の守護をを主る。

 更に「伝世の二つの印『都市』(『十鐘山房印挙』官印、五八頁)も、市を総管する官と解されている(王人聡・葉其峯『秦漢魏晋南北朝官印研究』)」として、「『魏志倭人伝』の『都市』も、大夫難升米の『大夫』が倭の大官の中国風の呼称であるのと同じように、倭の官を中国風に表記したものではなかろうか。」とされました。
 今回、古谷さんが紹介された「長沙走馬楼呉簡」にあった「都市史」の表記により、吉田氏の論証が正しかったことが証明されました。また、「伝世の二つの印『都市』」も興味深いので、『十鐘山房印挙』を実見したいものです。


第1721話 2018/08/13

『古田史学会報』147号のご案内

『古田史学会報』147号が発行されましたので、ご紹介します。

 本号冒頭には茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)による論理学から見た「論証」と「実証」に関する論稿が掲載されました。こうした分野の本格的論稿の掲載は『古田史学会報』では初めてのことと思います。なお、茂山さんは会報初登場です。関西例会で11回に及ぶアウグスト・ベークのフィロロギーの解説をされた茂山さんによる総まとめともいうべき論稿です。論理学に慣れていない方にはちょっと難解かもしれませんが、ぜひしっかりと読んでみて下さい。

 同じく『古代に真実を求めて』編集員の古谷さんからは久しぶりの投稿です。中国長沙市から発見された三国時代の「長沙走馬楼呉簡」の研究です。そこに記された「都市史」いう官職名から、『三国志』倭人伝に見える「都市牛利」の「都市」も官職名ではないかとされました。文字史料に強い古谷さんならではの研究です。

 わたしは、古田先生との長期にわたった論争的対話「都城論」についての経緯と互いの説の論理構造の違いについてまとめた論稿を発表しました。先生が亡くなられて三年が過ぎましたので、研究史的意義もあるかと思い、書き残したものです。

 掲載された第24回会員総会の決算報告を見て、ようやく会員数400名に手が届くところまで来たことを実感しました。毎年、会員数は増加していますが、これも無給(手弁当と交通費自腹)で献身的に会を支えていただいている役員や会員の皆様のおかげと深く感謝しています。

 今号に掲載された論稿は次の通りです。

『古田史学会報』147号の内容
○「実証」と「論証」について 吹田市 茂山憲史
○よみがえる古伝承
大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その3) 川西市 正木裕
○長沙走馬楼呉簡の研究 枚方市 古谷弘美
○古田先生との論争的対話 -「都城論」の論理構造- 京都市 古賀達也
○古田史学の会 第二十四回会員総会の報告
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○編集後記 西村秀己


第1720話 2018/08/12

肥後と信州の共通遺伝性疾患分布

 九州と信州が古代から交流があったことを「洛中洛外日記」でも紹介してきました。本稿末尾にそのタイトルを転載しています。それらの記事を読まれた読者のSさんから興味深い情報がメールで寄せられました。
 Sさんは長崎県在住の医師で、家族性アミロイドポリニューロパチーという遺伝性の病気の集積地が熊本県と長野県にあり、このことは両地域の交流を示す痕跡ではないかとお知らせいただいたのです。それは専門家の間ではよく知られた分布状況とのことです。アミロイドポリニューロパチーは難病の一つで、患者さんは同じ遺伝子異常を持っていることがわかっており、長野のかたは熊本から移住したひとたちの子孫の可能性があるのではないかとSさんは考えておられました。
 この疾患は、常染色体優性遺伝形式をとり、お父さんかお母さんのどちらかにその遺伝子があれば50%の確率で子供に遺伝するそうです。実際に発症するのはそれほど多くはないそうです。
 送っていただいた分布図を見ても、熊本県と長野県に大きな分布が見られ、両者に血縁的関係があることを示唆していました。もっとも遺伝子情報だけではどちらからどちらへ伝播したのか、その時代が現在からどのくらいまで遡るのかは未詳です。歴史研究に遺伝子情報がどの程度有効なのか、その分野の進展が期待されます。今回、アミロイドポリニューロパチーの分布情報をお知らせいただいたSさんにお礼申し上げます。

「洛中洛外日記」の信州と九州関連記事タイトル

422話 2012/06/10 「十五社神社」と「十六天神社」
483話 2012/10/16 岡谷市の「十五社神社」
484話 2012/10/17 「十五社神社」の分布
1065話 2015/09/30 長野県内の「高良社」の考察
1240話 2016/07/31 長野県内の「高良社」の考察(2)
1248話 2016/08/08 信州と九州を繋ぐ「異本阿蘇氏系図」
1260話 2016/08/21 神稲(くましろ)と高良神社


第1719話 2018/08/11

『発見された倭京』出版記念講演会の準備

 9月には『発見された倭京 太宰府都城と官道』出版記念講演会を東京(9/01、東京家政学院大学千代田キャンパス)と大阪(9/09、i-siteなんば)で、10月14日(日)には久留米大学(御井キャンパス)で開催します。東京講演会は講師の肥沼孝治さん・山田春廣さん、そして正木裕さん(古田史学の会・事務局長)により、講演で使用するパワーポイントの準備やレジュメの作成が着々と進められています。
 大阪ではわたしも講演しますので、その準備を進めています。36枚のシートを使用して太宰府と前期難波宮について、全国支配に必要な規模と様式を持つ都城という視点で発表します。かなり完成度の高い研究発表になりそうです。多くの皆さんのご参加をお願いします。

9月1日『発見された倭京』東京講演会済み

9月9日『発見された倭京』大阪講演会済み

10月14日『発見された倭京』九州講演会済み


第1718話 2018/08/05

大行事八幡社の「大化」書写史料

 「洛中洛外日記」1716話(2018/07/29)「大行事八幡社(豊後大野市)の『大化』」で紹介した豊後大野市の大行事八幡社の「大化元年」銘獣像ですが、久留米市の犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)から貴重な情報と史料が送られてきました。今日はわたしの誕生日なのですが、素晴らしいプレゼントとなりました。
 『太宰管内志』(豊後之四・大野郡)には「大行事八幡社ノ社に木にて造れる獣三雙あり其一つの背面に年號を記せり大化元年と云までは見えたれど其下は消て見えず」としか記されていないのですが、犬塚さんは『豊後国志』と『豊後史蹟考』を調査され、その当該部分をお知らせいただきました。いただいたメールを転載します。

【犬塚さんからのメール】
古賀様
 豊後大野市緒方町の大行事八幡社の「大化」年号については、洛中洛外日記でご紹介のあった太宰管内志の他に豊後国志と豊後史蹟考に記載がありますので参考までにご紹介します。
 まず豊後国志(1803年)によれば、「社記曰。孝徳天皇大化元年八月。有降臨之徴。建祠。神前有木造獣三雙。其一雙題紀年於背。大化元年。某月日。文字漫滅。其奇古可信。」
 また豊後史蹟考(1905年)は、「大行事八幡社 緒方郷今山村に在り、孝徳天皇大化元年八月の創建にして古昔は、本郡緒方郷二十四ヶ村の鎮守とし、社坊八ヶ寺を置き、毎歳八回の大祭を行ふを例とす、乃て大行事と称すと云ふ、天正中、兵火の為め、社殿旧記悉く烏有に帰したるも、今尚ほ三雙の木造獣を存し、其中一雙の底部には『大化元十一月十八日』の文字を刻し、一雙には豊後国緒方今山大行事神前応永三十一年甲辰秋大願主云々と記し、今一雙のものには題書なし」として、底部に大化元年の文字を刻した木造獣の図を掲げています。(別添ファイル参照)
 干支がないため倭国年号であるとの判断は難しいようです。干支は最初から書かれていなかったのか消えてしまったのか、またこの図が、いつ頃誰によって描かれたのかについてはなにも記載がありません。
 ところで、「大化」年号と地名の関係ですが、「角川日本地名辞典44 大分県」に次のような記載がありました。
 「たいか 大化〈緒方町〉 大野川の支流緒方川下流右岸の丘陵地帯に位置する。地名は大行事八幡の木造獣に大化元年の銘文があることによる。」
 やはり年号と関係があったようです。
 さて、「大化」年号ですが、九州には長崎県を除く各県の史料に存在しますが、倭国年号である可能性があるのは、今のところ宮崎県日南市の駒宮神社の縁起に見えるものだけのようです。
 日向地誌(1929年)に「社記云文武天皇ノ大化元年乙未創建シテ神武天皇ヲ祭ルト」とあり干支が一致しますので、倭国年号の大化元年乙未(持統天皇十年)(695年)と考えて間違いないと思われます。
(1927年の宮崎県史蹟調査は、文武天皇の時代には大化という元号がないこと、また孝徳天皇の大化元年としても干支が合わないことから、元年とは文武天皇元年であり「最初建立者、文武天皇元年丁酉」とした元禄二年の棟札の記載が正しいとし、縁起にある大化元年乙未を誤りとしている。)
 以上、「大化」年号に関する情報です。
 久留米市 犬塚幹夫
【転載おわり】

 この報告によりますと、江戸時代には「大化元 十一月十八日」と彫られた獣像が存在していたわけですから、今も残されている可能性がありそうです。木製ですから放射性炭素同位体年代測定で分析すれば、7世紀頃のものかどうかぐらいは判明するのではないでしょうか。もし同時代のものであればこの「大化」は同時代九州年号史料とみて問題ないと思います。


第1717話 2018/08/01

7月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 7月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。
 配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記」「同【号外】」のメール配信は「古田史学の会」会員限定サービスです。

《7月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル》
2018/07/03 荊木美行著『東アジア金石文と日本古代史』斜め読み(1)
2018/07/04 荊木美行著『東アジア金石文と日本古代史』斜め読み(2)
2018/07/07 『多元』146号のご紹介
2018/07/08 荊木美行著『東アジア金石文と日本古代史』斜め読み(3)
2018/07/21 『九州倭国通信』No.191のご紹介
2018/07/27 「郡家」「智頭」の訓み
2018/07/31 『東京古田会ニュース』181号のご紹介


第1716話 2018/07/29

大行事八幡社(豊後大野市)の「大化」

 同時代九州年号史料について「洛中洛外日記」810話(2014/10/25)「同時代『九州年号』史料の行方」という一文を書き、『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(古田史学の会編、明石書店。2017年)に転載しました。その中で紹介したのが次の三つの九州年号史料で、いずれも江戸時代の地誌に記されていたものです。

(1)「白鳳壬申」骨蔵器。『筑前国続風土記附録』(巻之六 博多 下)の「官内町・海元寺」に次のように記されており、現在では行方不明になっています。
 「近年濡衣の塔の邊より石龕(かん)一箇掘出せり。白鳳壬申と云文字あり。龕中に骨あり。いかなる人を葬りしにや知れず。此石龕を當寺に蔵め置る由縁をつまびらかにせず。」

(2)「大化元年」獣像。『太宰管内志』(豊後之四・大野郡)の「大行事八幡社」に次の記事があります。今も現存している可能性があります。
 「大行事八幡社ノ社に木にて造れる獣三雙あり其一つの背面に年號を記せり大化元年と云までは見えたれど其下は消て見えず」

(3)「白雉二年」棟札・木材。『太宰管内志』(豊後之四・直入郡)の「建男霜凝日子神社」に次の記事があります。今も現存している可能性があります。
 「此社白雉二年創造の由、棟札に明らかなり。又白雉の舊材、今も尚残れり」「又其初の社を解く時、臍の合口に白雉二年に造営する由、書付けてありしと云」

 この中で「白鳳壬申」骨蔵器については福岡市や久留米市での講演会で紹介し、地元の方々で調査してほしいと協力要請してきたところです。
 今日、たまたまこれらの九州年号史料のことが気になって、「大化元年」獣像があるとされる大野郡の大行事八幡社についてネット検索したところ、とても興味深いことがわかりましたので、ご紹介します。
 『太宰管内志』(豊後之四・大野郡)「大行事八幡社」の記録を頼りに、「大分県」「大野」「大行事八幡」で検索したところ、一発で目的とする神社がヒットしました。わたしが最初に驚いたのが大行事八幡社の所在地名でした。「大分県豊後大野市緒方町大化」といい、なんと字地名が九州年号の「大化」と同じなのです。「木にて造れる獣三雙あり其一つの背面に年號を記せり大化元年と云までは見え」と『太宰管内志』には紹介されており、この銘文の「大化元年」と地名の「大化」が無関係は思われません。
 同神社を紹介した「大分県豊後大野市から気ままなblog」に掲載されている写真に神社前の石柱があり、そこには「大化創祀 大行事八幡社」と彫られています。おそらく、木製の獣に彫られた「大化元年」とは同神社創建年次のことと思われます。
 このように地名に九州年号「大化」があり、石柱には「大化創祀 大行事八幡社」とあることから、同神社が大化元年に創建され、そのことにより字地名も「大化」とされたとする理解でよいと思われますが、この「大化」が九州年号「大化」(695〜703年)なのか、『日本書紀』の「大化」(645〜649年)の影響を受けて後世に「大化元年(645)創祀」と表記されたのかという問題が残されています。引き続き調査したいと思いますが、地元の方のご協力が得られれば幸いです。


第1715話 2018/07/29

「佐用」は「さよ」か「さよう」か

 先週、仕事で鳥取を訪問したのですが、そのとき乗った特急電車の停車駅名の訓みについての小文を「洛中洛外日記【号外】」にて配信したところ、二名の方からメールが届きました。まず配信した「洛中洛外日記【号外】」を下記に部分転載します。

古賀達也の洛中洛外日記【号外】
2018/07/27
「郡家」「智頭」の訓み
 鳥取から京都に向かう特急スーパーはくと12号の車中で書いています。(中略)途中の駅名の訓みが珍しく、車内アナウンスがなければわからない駅名がいくつもありました。たとえば「郡家」。当然、「ぐんけ」と訓むものと思っていたのですが、車内アナウンスは「こうげ」でした。何故、「こうげ」という地名に「郡家」という漢字を当てたのか気になりました。
 「智頭」も「ちとう」だろうか「ちがしら」だろうかと勘ぐっていたら、これは単純に「ちず(づ)」でした(駅のローマ字表記は“chizu”)。「ちず(づ)」とは何を意味するのでしょうか。おそらく「ち」は古い時代の神様の名前のことと思われますが、「ず(づ)」は文字通り「あたま」のことか、港を意味する「つ(津)」なのか、よくわかりません。
 「大原」駅はそのものずばり「おおはら」駅なのですが、その大原駅から見える風景は山中の狭い盆地であり、とても「大草原」のようなイメージの「大原」ではないことに疑問を抱きました。しかし、三千院で有名な京都の大原も山間の集落であり、「大草原」ではありません。従って、本来「はら(原)」という日本語は狭い領域を示す用語ではないでしょうか。その狭い「原」にしては広い所なので「大原」と呼ばれたのではないかと考えています。もしこの理解が当たっていたら、「高天原(たかまがはら)」という地名も本来は比較的小領域に対するものであったのかもしれません。
 水害被害で有名になった「佐用」駅もありました。訓みは「さよ」であって、「さよう」ではないことも今回知りました。
 佐用駅の次は「上郡」駅です。こちらは普通に「かみごおり」駅で、ちょっと安心しました。(後略。転載終わり)

 この記事を読まれた茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)より、次のメールをいただきました。貴重な情報と思われ、茂山さんのご了解を得て、転載します。

【以下。メールを転載】
古賀様
 JR命名の佐用駅は「さよ」ですが行政区分は佐用(さよう)郡佐用(さよう)町です。僕は駅名の読みが古称ではないかと思っています。播磨国風土記に遡る地名で、風土記では「讃容」です。しかし、僕はさらに古く出雲王朝時代に淵源をもつ地名ではないかと考えます。九州王朝の途中までは「吉備国」だったようです。「讃」の用字は讃岐とも関係があったのでしょうか?
 風土記では、伊和大神と競った玉津日女命が勝利ののち「賛容都比売命」と名を改めたことになっていますが、地元では「佐用姫さん」と親しまれる「佐用都姫」で、佐用都姫神社があります。創建年不詳なのは、それほど古いのだ(九州年号以前)と想像します。ですから、「佐用都姫」の方が地名のもとではないかとも考えます。
 玉津日女命が賛容都比売命に改名する説話は稲作開始の伝承のような話しです。同じモチーフの伝承が製鉄の開始にもつながるようで、佐用都姫神社の近くは精錬の遺跡が広範囲に広がっており、今でも鉄滓(のろ)が地表に転がっています。こちらは、風土記ではずっと時代が下って孝徳期の製鉄開始とされていますが・・・。 茂山
【メール転載終わり】

 「洛中洛外日記」の校正チェックしていただいている加藤健先生(古田史学の会・会員、交野市。元高校教諭)からは、「郡」を「こう」と訓む地名が交野市にもあることをお知らせいただきました。「郡津」と書いて「こうづ」と訓むそうです。こうした情報が即座にいただけることは、有り難いことと感謝しています。


第1714話 2018/07/28

7世紀における九州王朝の勢力範囲

 多元的古代研究会主催の「万葉集と漢文を読む会」に参加させていただく機会があり、様々なテーマでディスカッションさせていただきました。そのとき7世紀における九州王朝の勢力範囲について意見交換したのですが、7世紀中頃には九州王朝は九州島と山口県程度までになっているとする見解があることを知りました。その根拠や論証内容については知りませんが、わたしの認識とはかなり異なっており、驚きました。

 九州王朝は7世紀初頭の天子多利思北孤の時代から評制を施行した中頃までは最盛期であり、黄金時代とわたしは考えています。663年の白村江戦の敗北により、急速に国力を低下させたと思われますが、それでも九州年号が筑紫から関東まで広範囲に使用されていた痕跡があり、列島の代表王朝としての権威は保っていたようです。たとえば7世紀後半の次の同時代九州年号史料の存在が知られています。

○芦屋市三条九ノ坪遺跡出土「(白雉)元壬子年(六五二)」木簡
○福岡市出土「白鳳壬申年(六七二)」骨蔵器(江戸時代出土、行方不明)
○滋賀県日野町「朱鳥三年戊子(六八八)」鬼室集斯墓碑
○茨城県岩井市出土「大化五子年(六九九)」土器

 このように白雉元年から九州王朝最末期の大化五年まで、筑紫から関西・関東まで広範囲で九州年号が使用されている事実は重要です。白村江敗戦以後も九州王朝の権威(九州年号の公布と使用)が保たれていたと考えられます。

 他方、藤原宮や飛鳥宮からの出土木簡などからは、7世紀後半頃(天武期以後)になると近畿天皇家も実力的には九州王朝を凌ぎつつあると推定できます。王朝交代時の複雑な状況については史料根拠に基づいた丁寧な理解と研究が必要です。


第1713話 2018/07/24

律令と評制で全国支配が可能な王宮

 孝徳紀から出現し始める「封戸」記事などに着目された服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の研究により、わたしの認識も一歩進むことができました。律令制による中央集権的国家体制維持に不可欠な地方官僚の俸禄を「現地調達」するという「封戸」などの徴税権の中央集約という問題の重要性に気づくことができたからです。この問題も、当時の人々の認識を再認識するというフィロロギーによる研究や論証が有効です。7世紀中頃における九州王朝の評制による全国支配を可能とするために論理的に考えて何が必要であり、そのことに対応した実証的な証拠として何が存在するのかについて論じることにします。
 まず「封戸」制度に必要な公地公民制と律令制にとって不可欠な「律令」そのものについて考えてみます。近畿天皇家の最初の律令は「大宝律令」ですから、それ以前の7世紀の評制施行時の律令は九州王朝「律令」と理解せざるを得ません。
 次に律令に規定された大規模な中央官僚(服部静尚さんの試算によれば約8000人)を収容できる王宮・官衙が必要です。古田学派であれば、ここまでは反対する人はいないでしょう。
 次にその宮殿の規模はどのくらいかについて考えてみます。これにも参考とすべき「後例」があります。それは701年以降九州王朝に替わり、文字通りの「大和朝廷」として大宝律令で全国支配を行った近畿天皇家の王宮、平城宮です。あるいはその直前までの藤原宮です。これら「大和」にあった朝堂院(朝廷)様式の巨大宮殿の規模こそ、全国支配に必要な規模の「後例(8世紀)」となります。このことにも異論は出されないでしょう。
 それでは平城宮や藤原宮と同規模・同様式の7世紀中頃の宮殿・官衙遺構はあるでしょうか。日本列島内でひとつだけあります。言うまでもなく大阪市中央区法円坂から出土した前期難波宮です。規模も両宮殿に匹敵し、様式も国内初の朝堂院様式です。宮殿の南方からは条坊跡も出土していることから、それは北闕様式の「難波京」でもあります。
 その造営年代が7世紀中頃(孝徳期)であることも、整地層・水利施設出土主要土器(須恵器坏G)編年・水利施設出土木製品の年輪年代測定(634年)・出土「戊申年(648年)」木簡・出土木柱の年輪セルロース酸素同位体比年代測定値(583年、612年)などを実証的根拠として、わが国のほぼ全ての考古学者・歴史学者が認めています。
 以上の出土事実・理化学的測定事実から、7世紀中頃に施行された評制により全国支配した律令制の宮殿・官衙は前期難波宮であるとの結論が導き出されます。このことをもって、近畿天皇家一元史観の論者は前期難波宮は『日本書紀』の記述通り孝徳天皇の難波長柄豊碕宮であり、全国を評制支配した宮殿である、九州王朝など無かったと主張します。
 わたしたち多元史観・九州王朝説(古田史学)の支持者であれば、評制は九州王朝が施行した制度と考えますから、そうであるならば前期難波宮は九州王朝の宮殿であると言わざるを得ません。この一点こそ、わたしが前期難波宮九州王朝副都説に至らざるを得なかった最大の理由なのです。もし九州王朝説に基づく代替案(前期難波宮以外の律令制による全国支配が可能な規模と様式を持つ7世紀中頃の宮殿官衙遺構)があるのなら出してください。わたしはその代替案の当否について真剣に検討します。学問研究とはそうした真摯な営みなのですから。


第1712話 2018/07/23

孝徳紀から出現する「封戸」記事

 先日の「古田史学の会」7月度関西例会では、竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)からの捕鳥部萬(ととりべのよろず)の墓守(塚元家・岸和田市)訪問報告の他にも、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から重要な研究発表がありました。「天武五年の封戸入れ替え」です。『日本書紀』に見える「封戸」関連記事に着目されたもので、『日本書紀』天武五年条に見える「封戸入れ替え」記事はこの時期としては不自然であり、約30年遡った孝徳期の頃の事績を天武紀に転載されたとする仮説です。
 「封戸(ふこ)」とは古代における官人や貴族への俸禄制度で、与えられた封戸からの税収(食封)が官人らへの俸禄とされます。従って、公地公民制と律令制を前提として成り立つ制度です。
 服部さんの発表の中で特に重要と感じたことは、『日本書紀』で封戸記事が現れるのが孝徳紀からという史料事実の指摘でした。孝徳期(7世紀中頃)は九州王朝(倭国)が全国に評制を施行した時期であり、そのことと『日本書紀』に封戸記事が孝徳紀から現れることは無関係ではないと考えられます。中央集権的評制により、諸国の国宰・評督の任命や派遣が九州王朝によりなされますから、それらの官人の俸禄を封戸制度という「現地調達」で賄ったことになります。このことは、それまで現地の豪族などの支配下にあった「徴税権」が公地公民制と律令の規定により、部分的とは思われますが中央政府に取りあげられることを意味し、中央政府(九州王朝)の強大な権力(軍事力)がなければ成立し得ない制度であることは論を待たないでしょう。
 前期難波宮九州王朝副都説に反対する論者に、7世紀中頃の九州王朝の勢力(評制による全国支配力)を過小に評価する意見もあるようですが、今回、服部さんが指摘された「封戸」問題を見ても、九州王朝説(古田説)に立つ限り、7世紀中頃には九州王朝の全国支配力が最盛期を迎えていたことを疑えません。そうした意味でも服部さんの九州王朝説による「封戸」研究は貴重なものと思われます。


第1711話 2018/07/21

日田市から弥生時代のすずり出土

 本日、「古田史学の会」関西例会がi-siteなんばで開催されました。8〜10月もi-siteなんば会場です。竹村さん(古田史学の会・事務局次長)から『日本書紀』に見える捕鳥部萬(ととりべのよろず)の墓守を64代にわたって続けてこられた塚元家(岸和田市)訪問と捕鳥部萬とその忠犬シロのお墓参詣の報告がありました。「河内戦争」により「朝敵」となり八つ裂きにされた捕鳥部萬のお墓を千四百年にわたり守ってこられた墓守の御子孫が現代まで続いているというのは驚きでした。また、その主人の墓を守った犬の名前が「シロ」というのも興味深い伝承です。ちなみに『日本書紀』には「白狗」と記されています。
 関西例会としては珍しいことに、発表時間が余りましたので、急遽、わたしから友好団体の九州古代史の会から送られてきた機関紙『九州倭国通信』191号の掲載記事についての解説をさせていただきました。主に松中祐二さんの「『赤村古墳』を検証する」と「古代史スクラップ 弥生時代のすずり日田でも出土確認」(西日本新聞、2018年6月2日付)を紹介したのですが、特に日田市から弥生時代のすずりが出土していたことの学問的意義と今後の論理展開について説明しました。
 近年、弥生時代のすずりの出土報告が続いていますが、日田市のような山奥からの出土には驚きました。この発見により、弥生時代の倭国では中枢領域の筑前だけではなく、倭人伝に国名が記された広い範囲で文字使用がなされていたと考えることも可能となり、その結果、倭人伝に見える国名・官職名などの漢字表記は倭国側で成立していたとする理解が有力となりました。このように倭国での広範囲な文字使用が弥生時代にまで遡ることになれば、例えば記紀に記された神代の時代の神様の名前の漢字表記の成立も弥生時代まで遡るのではないかという問題さえ出てきます。このように、文字使用の開始時期に関する新たな状況は、古代史研究において従来説の見直しを迫っていると解説しました。
 7月例会の発表は次の通りでした。
 なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレスへ)か電話で発表申請を行ってください。

〔7月度関西例会の内容〕
①『水滸後伝』の「里」(高松市・西村秀己)
②天武五年の封戸入れ替え(八尾市・服部静尚)
③刀剣と祈雨祈晴の祀り事(大山崎町・大原重雄)
④捕鳥部萬と忠犬シロの墓を訪ねて(木津川市・竹村順弘)
⑤新・万葉の覚醒(川西市・正木裕)
⑥『古事記』の文字使用について(東大阪市・萩野秀公)
⑦『九州倭国通信』191号の紹介(京都市・古賀達也)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 捕鳥部萬の墓守の御子孫へインタビュー報告・『古代に真実を求めて』21集「発見された倭京 太宰府都城と官道」の発行記念講演会(9/09大阪i-siteなんば、9/01東京家政学院大学千代田キャンパス、10/13久留米大学)の案内・『古代に真実を求めて』22集原稿募集・「古代大和史研究会(原幸子代表)」講演会(講師:正木裕さん「よみがえる日本の神話と伝承」)・11/10-11「古田武彦記念新八王子セミナー」発表者募集・7/27「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の案内・「古田史学の会」関西例会会場、8〜10月はi-siteなんば、11月は福島区民センター・その他