第1768話 2018/10/06

土器と瓦による遺構編年の難しさ(5)

 瓦の編年も土器と同様に軒丸瓦や軒平瓦の文様などにより行うのですが、製法の違いも編年に利用されます。たとえば「紐造り」「板造り」などの製造技術によっても相対編年が可能とされています。ただ土器編年と異なり、瓦が古代建築に使用された歴史は新しく、国内では6世紀末頃からですので編年に利用できるのはそれ以後と限定されます。しかし、6世紀末頃からですと『日本書紀』など文献史料による記事と対応できるケースが増えますので、場合によってはピンポイントで創建年(暦年)と瓦の編年がリンクできるという長所になります。
 国内における瓦の使用は主に寺院とされていますから、文献史料にその創建年の記録が残されていれば、創建瓦の暦年とのリンクが可能となる長所があるのですが、瓦の葺き替えというケースもあって、異なる年代と編年された瓦が同じ場所(層位)から出土するという現象が発生します。このことが瓦による遺構の編年(創建年判定)を難しくする要因となるのです。
 有名な例で説明しますと、法隆寺若草伽藍(7世紀初頭の創建法隆寺)出土瓦の事例が顕著にこの問題を現しています。この「創建法隆寺」は考古学的には若草伽藍と呼ばれており、『日本書紀』によれば606年(推古14年)の創建、670年(天智19年)に焼失したとされています。その若草伽藍跡から異なる時代と編年された瓦が出土しているのですが、その理由として考えられるのが瓦の葺き替え、あるいは部分的取り替えというケースです。
 若草伽藍は創建から焼失まで約60年間存続しており、仮に10年に一度のペースで葺き替えや部分修理が行われた場合では、最大で約50年ほどの時代が異なる瓦が併存することとなります。その結果、大きく編年の異なる瓦が焼失時に同じ場所の同じ層位に埋まるという遺構状況が発生するのです。こうした現象が瓦による遺構編年の難しさの一因としてあげられます。(つづく)


第1767話 2018/10/06

土器と瓦による遺構編年の難しさ(4)

 土器編年で思い出すことに古田先生からお聞きした次のような編年方法があります。三十年ほど以前のことと記憶していますが、当時、ある発掘現場で出土土器の編年の際に学芸員が様式別に振り分けていたそうで、そこからは編年が異なる複数の土器が出土していたので、様式別に土器の出土量の比率を計算し、その比率の違いによって遺跡の編年を行うべきではないかと古田先生は提案されたそうです。ところが学芸員はそのようなことは行ったことがなく困った顔をされたそうです。
 恐らく当時は出土した土器の中で一番新しいものの編年から遺跡の年代(上限)を推定されていたと思います。土器は多くが割れた状態で出土しますから、編年毎の個数を割り出すということは大変です。従って、異なる編年毎の出土数分布の差異を相対編年に利用するという考えは普及していなかったと思われます。近年の発掘調査報告書などにはそうした視点も取り入れて遺跡の編年に利用するという事例もありますので、30年前に古田先生が提案された方法が正しかったことがわかります。
 このような研究対象物の特性分布を二次元解析や三次元解析する方法は自然科学の世界では必要であれば当然のように行いますから、ようやく日本の考古学界もその水準に到達しつつあるのかもしれません。他方、近畿以外の地方での発掘調査は予算も時間も人員も十分ではないため、懸命に発掘調査に従事している考古学者や地方自治体の学芸員にそこまで求めるのは酷かもしれません。
 次回からは「瓦による遺構編年の難しさ」に入りますが、土器とはまた異なった難しさを持っています。(つづく)


第1766話 2018/10/05

土器と瓦による遺構編年の難しさ(3)

 土器の相対編年はその様式(スタイル)や大きさの変化に基づいて行われており、先後関係は出土層位の差を利用したり、遺構の成立年を文献(主に『日本書紀』)の記述にリンクすることにより定められています。その結果、『日本書紀』に記述されている畿内(飛鳥地方)の遺構の暦年とのリンクで成立した「飛鳥編年」を基本にして、全国の遺跡から出土した土器や遺構を編年するという手法が一般的にとられています。近年ではそれを基本にしながらも地域差に配慮した補正も行われるようになりましたが、根本は近畿天皇家一元史観に基づく『日本書紀』リンク編年(飛鳥編年)が一元的に採用されているのが実態のようです。
 「飛鳥編年」はその基礎データの数値や認識が間違っており、信頼性に疑問があることを服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が既に発表されています。更に10年単位で7世紀の土器編年が可能とする「飛鳥編年」に対して、そこまで厳密に断定することはできず、逆に編年を間違ってしまう可能性があるという意見をある考古学者からお聞きしたことがあります。わたしもこの意見に賛成です。
 そもそも土器に製造年が書いてあるわけでもありませんし、土器そのものも破損するまで長期間使用されるのが普通と思われますから、ある様式の土器が出土したからといって、その出土層位や遺構の編年を土器の「飛鳥編年」にリンクするというのは危険です。更には土器様式そのものにも発生期から流行期・衰退期・生産中止期という恐らく数十年という変遷(ライフサイクル)をたどりますから、「飛鳥編年」により10年単位で遺構を編年できると考える方がおかしいと思います。
 その具体的事例を紹介しましょう。前期難波宮整地層から極少数出土した「須恵器坏Bと思われる土器」を根拠に、それが「飛鳥編年」では660年頃と編年されていることから、前期難波宮造営は660年を遡らないとする批判が少数の考古学者から出されたことがありました。そこで難波宮発掘に関わってこられた複数の考古学者の見解を聞いてみたところ、大阪府文化財センターの考古学者は「その土器はやや大きな須恵器であり、いわゆる須恵器坏Bの範疇には入らない」とのご意見でした。また大阪歴博の考古学者の見解は「須恵器坏B発生の初期段階のものであり、7世紀中頃と見なせる」というものでした。その上で、前期難波宮整地層や前期難波宮の水利施設から大量に出土した土器が7世紀前半から中頃とされる須恵器坏Gであることが決定的証拠となり、前期難波宮を孝徳期の造営とする説がほとんどの考古学者に支持されるに至ったと説明されました。(つづく)


第1765話 2018/10/02

土器と瓦による遺構編年の難しさ(2)

 土器編年には長所と短所があり、そのことをよく理解した上で利用することが必要です。その長所は、日本列島の遺跡の年代を編年するうえで、古くは縄文時代から現代まで使用されてきた土器ですから、その様式比較により時代を区分するようなおおまかな相対編年が可能であるという点です。
 これまでの全国の考古学者の努力により、土器の相対編年は地域毎にかなり綿密になされ、かつ大量の報告書が出されています。むしろ、その出土量が膨大すぎて考古学者個々人では処理や理解に限界があり、データを活かし切れていないようにも見えます。ただ、今後は人工知能の発達によりデジタルデータとして瞬時に各地の遺跡の土器と比較したり、先後関係を判断できるようになることが期待できます。
 次に短所というか、その原理的な限界というべきか、土器間の相対編年はできても、その土器の暦年とのリンクが難しいことがあります。古代の土器に製造年が書かれているわけでもありませんし、土器の主成分であるシリカなどの理化学的年代測定方法も確立されていません。従って、暦年を確定できる別の出土物とのリンクが必要なのですが、そのような出土物もそれほど多いわけではありません。
 たとえば数十年から百年単位での大雑把な編年であれば、土器に付着している煤や一緒に出土した木材・植物の炭素同位体比年代測定によりリンクが可能な場合があります。その場合でも、それらカーボン類が間違いなく土器と同時代のものであることの証明が要求されます。出土層位が乱れていたり、後からの紛れ込みというケースもあるからです。
 更には、木材の樹齢が大きいと、その年輪の内外差だけ誤差が発生します。米などの一年性植物の場合はその点では有利です。または敷粗朶のように小枝の場合も年輪が少ないので比較的有利です。大型の木材の場合は、再利用という可能性もあって、伐採時と再利用時の年代が離れていると、やはり遺構の編年に使用する際は注意が必要です。
 最近では年輪年代測定や年輪セルロース酸素同位体比年代測定法などが発達してきましたので、条件がよければ伐採年がピンポイントでわかります。具体的事例としては大阪府狭山池の築造年代が、年輪年代測定により判明した最下層木樋の伐採年616年(推古24年)頃と判定できたことが有名です。これにより、木樋と一緒に出土した須恵器の相対編年が暦年とリンクでき、須恵器編年の精度が高まりました。
 今後、これらの理化学的方法などはますます重視されることでしょう。しかしそれでも木材の再利用などの不安定要素がありますので、やはりサンプルの信頼性や編年の原理的限界は把握しておかなければなりません。測定した炭素同位体測定による年代値をそのまま遺跡の年代と即断するのは危険です。ましてや土器の編年に間接的に利用する場合はなおさら用心深く取り扱う必要があるのです。この点、古田学派の研究者の論稿にも不用心な「測定値」の利用(誤用)が散見されますので注意を促しておきたいと思います。わたし自身も若い頃にこうした編年の失敗をしてきましたので、あたらためて自戒したいと思います。(つづく)


第1764話 2018/09/30

土器と瓦による遺構編年の難しさ(1)

 わたしは古田先生から主に文献史学の方法論を学んで来ました。古代史学の関連分野である考古学については体系的に勉強する機会がありませんでしたので、この10年ほどは7世紀の土器編年や瓦の変遷について専門書や考古学者から学ぶようにしてきました。そうした経験から、思っていたよりも土器や瓦による遺構の編年が難しいこと、7世紀における「難波編年」が比較的正確であることなどを知りました。そこで今回はその難しさについて説明することにします。
 土器による遺構の編年について、大阪歴博の考古学者から基礎的な編年方法について教えていただいたことがあります。まず前提として、出土土器により遺構の年代を編年する場合の条件として、対象遺構の整地層の中とその上から土器が出土しないと正確な編年ができないことです。
 たとえば整地層から7世紀中頃の土器が出土しても、そのことから導き出せるのはその遺跡が7世紀中頃以後に造営されたということだけで、それ以上の年代編年は原理的にできません。ところが整地層の上の層位から7世紀後半の土器も出土していれば、その遺構は7世紀中頃から後半の造営とする編年が可能となります。
 逆に整地層からは編年できるような土器が出土せず、その上の層位から7世紀中頃の土器が出土している場合は、その遺構は7世紀中頃以前の造営とすることはできますが、それ以上のことは判断できません。
 このように遺構の層位を挟むように整地層の中と上からの出土土器が揃ったときに造営年代の編年が可能となります。この原理をしっかりと押さえておくことが重要です。遺構から「何世紀の土器が出土した」という情報に対しては、それが遺構のどの層位から出土したのか、遺構の層位を挟むように複数の土器が出土したのかを見極めることが重要であり、そうした情報がない報道や論稿は要注意です。(つづく)


第1763話 2018/09/30

9月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 9月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。今月は台風で拙宅の瓦が飛ばされたり、〝親知らず〟が炎症を起こしたりと散々な月でした。他方、仕事では担当事業の製品価格改定交渉や新製品の開発・採用と技術サポートなどのハードワークが続き、「洛中洛外日記【号外】」執筆も三報にとどまりました。
 配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記」「同【号外】」のメール配信は「古田史学の会」会員限定サービスです。

《9月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル》
2018/09/02 『多元』147号のご紹介
2018/09/15 『古代に真実を求めて』22集の編集会議を開催
2018/09/27 九州歴史資料館で井上信正説を展示


第1762話 2018/09/29

7世紀の編年基準と方法(10)

 井上信正説により、わたしの太宰府都城編年研究は大きな進展を見せることができました。そこで学問的方法論から見たその編年精度についての解説を最後にしておきたいと思います。太宰府都城の編年はそのまま7世紀における九州王朝史の復元研究に直結しますから、その編年方法と編年精度は重要です。
 太宰府都城を形成する遺構は数多くあり、今回テーマとして取り上げた政庁Ⅱ期・観世音寺・条坊都市の他にも、水城・大野城・基肄城・筑紫土塁(前畑遺跡)などがあります。わたしはそれぞれの編年について仮説を発表してきましたが、比較的安定した編年ができたのが観世音寺でした。創建瓦が老司Ⅰ式瓦でしたので7世紀中頃から後半であろうと推定できましたし、『二中歴』「年代歴」に白鳳年間(661-683)の創建とする記事がありましたので、瓦と文献によるクロスチェックが成立していました。更により具体的に「白鳳10年(670)の創建」とする史料(『勝山記』『日本帝皇年代記』)も新たに発見でき、ピンポイントで創建年を押さえることができました。ここまで具体的年次が文献により押さえられるというのは古代史研究においてとても恵まれたケースです。しかし、寺域からの出土土器が少ないこともあり、土器によるクロスチェックは今のところ成功していません(明確に7世紀後半に遡るような古い土器は確認されていない)。この点がやや弱点と言えるでしょう。なお、観世音寺は近畿天皇家による造営(拡充)が8世紀に至っても続けられており、留意が必要です。
 ところが、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から、観世音寺寺域から7世紀初頭に編年できる百済系素弁瓦が集中して出土していることを教えていただきました。この百済系素弁瓦は観世音寺創建以前に同地にあった建物の瓦と理解されており、その建物を取り壊して観世音寺が創建されたことになり、観世音寺造営が7世紀後半であることを指し示しています。このことも観世音寺創建年の編年に有効な根拠となりました。
 次に観世音寺と同時期と推定した政庁Ⅱ期の宮殿ですが、創建瓦(老司Ⅰ式・Ⅱ式)の他に、同一の尺度で造営(区画整備)されているという根拠で7世紀後半頃と編年したものです。しかし出土土器の編年が8世紀のものとされており、この点が整合していません。こうした未解決の問題があるため、政庁Ⅱ期の編年は不完全と言わざるを得ません。
 条坊都市を7世紀初頭頃とする編年に至っては、多利思北孤の時代に太宰府遷都したとする論証が中世文献を史料根拠として成立しているだけで、出土土器とは今のところ全く対応していません。当地の著名な考古学者の赤司善彦さんにもおたずねしたのですが、条坊からは7世紀前半の土器は出土しておらず、もともと土器の出土そのものが少ないとのことでした。
 以上のように、九州王朝の王都・太宰府都城の編年研究も学問的には不十分と言わざるを得ないのです。土器や瓦の編年、そして当地の発掘調査報告書をもっと深く勉強する必要があります。


第1761話 2018/09/29

7世紀の編年基準と方法(9)

 井上信正さん(太宰府市教育委員会)の政庁Ⅱ期・観世音寺よりも条坊都市が先行して造営されたという新説の根拠は、主に政庁の南北中心軸が条坊(朱雀大路)中心軸とずれていることを正確な測量により明らかにされ、一辺約90mの条坊とその北側部分の政庁・観世音寺の造営尺が異なっていることの発見でした。両者の厳密な比較により、井上さんは政庁Ⅱ期・観世音寺などの北側エリアよりも南に拡がる条坊が先行したとされたのです。
 この井上新説のおかげで、わたしの仮説(太宰府政庁・条坊都市7世紀初頭造営説)の修正が可能となり、不完全な仮説をより安定な仮説へと変更することができました。すなわち、太宰府の編年を次のように改めたのです。

①太宰府条坊都市(倭京)の成立は7世紀初頭。九州王朝の天子・多利思北孤による。倭京元年(618)に筑後から太宰府に遷都。
②白鳳10年(670)に観世音寺が創建される(『二中歴』『勝山記』『日本帝皇年代記』による)。白村江戦の戦没者を弔うためか。
③その同時期に、九州王朝(倭国)は唐に倣って太宰府を北闕型の王都とするため、条坊都市の北側に政庁Ⅱ期の宮殿とそこから南に延びる朱雀大路を造営した。唐から帰国した九州王朝の天子・薩野馬の王宮か。
④政庁Ⅱ期と観世音寺の創建は同時期と推定されるが(共に同時期の老司式瓦を使用)、厳密な先後関係は今のところ不詳。政庁Ⅱ期の創建を記す史料がなく、判断が困難なため。

 以上の編年修正により、当初の編年が持っていた難点のうち、政庁Ⅱ期と観世音寺の創建年のずれの問題が解決できました。しかし、土器編年との不一致という問題は依然として存在しています。
 この自説修正についても当時の「洛中洛外日記」に記していますので、転載します。(つづく)

【以下、転載】
古賀達也の洛中洛外日記
第219話 2009/08/09
観世音寺創建瓦「老司1式」の論理

 太宰府条坊と政庁・観世音寺の中心軸はずれており、政庁や観世音寺よりも条坊が先行して構築されたという井上信正氏(太宰府市教育委員会)の調査研究を知るまで、わたしは条坊都市太宰府は政庁(九州王朝天子の宮殿)を中心軸として7世紀初頭(九州年号の倭京年間618〜623)に成立したと考えていました。すなわち、条坊と政庁は同時期の建設と見ていたのでした。
 しかし、この仮説には避けがたい難題がありました。それは観世音寺の創建時期との整合性です。観世音寺は、『二中歴』年代歴に白鳳年間(661〜683)とする記述「観世音寺を東院が造る」があること、更に創建瓦の老司1式が藤原宮のものよりも古く、むしろ川原寺と同時期とする考古学的編年から、その創建時期を7世紀中頃としていました。その結果、条坊都市太宰府ができてから、観世音寺が創建されるまで20〜40年の差があり、その間、政庁の東にある観世音寺の寺域が「更地」だったこととなり、ありえないことではないかもしれませんが、何とも気持ちの悪い問題点としてわたしの脳裏に残っていたのです。
 ところが、井上氏の研究のように、条坊が先で政庁と観世音寺が後なら、この問題は生じません。およそ次のような順序で太宰府は成立したことになるからです。
 通古賀地区の宮域を中心とした条坊都市が7世紀初頭に成立。次いで7世紀中頃に条坊の北東部に観世音寺が創建され、その後に政庁(第Ⅱ期)が完成。
 もちろん、これはまだ検討途中の仮説ですが、この場合、条坊の右郭中央部にあった宮域が、後に北部中心部に新設されたことになり、「天子は南面」するという思想に基づいて、宮域の新設移動が行われたのではないでしょうか。
 このように、井上氏の研究は、九州王朝の首都太宰府の建都と変遷を考察する上で大変有益なものなのですが、大和朝廷一元史観側にすると、とんでもない大問題が発生します。それは、藤原宮に先行するとされる老司1式の創建瓦を持つ観世音寺よりも太宰府条坊は古いということになり、日本最初の条坊都市は通説の藤原京ではなく太宰府ということに論理的必然的になってしまうからです。
 九州王朝説からすれば、これは当然の帰結ですが、九州王朝を認めたくない一元史観(日本古代史学界・考古学界)からすれば、とんでもない話しなのです。大和朝廷のお膝元の藤原京よりも早く、九州太宰府に条坊都市ができたことになるのですから。
 このように通説にとって致命的な「毒」を含んでいる井上氏の研究が、これから一元史観の学界の中でどのように遇されるのか興味津々といったところです。(つづく)


第1760話 2018/09/28

7世紀の編年基準と方法(8)

 「よみがえる倭京〈太宰府〉」において、わたしが太宰府条坊都市と一体として造営された北闕型王都の王宮である政庁Ⅱ期も7世紀初頭の造営とした理由は、太宰府条坊研究の先学、鏡山猛さん(九州歴史資料館初代館長)の条坊復元図でした。鏡山さんの復元案によれば条坊と政庁や観世音寺の中心軸などが一致しており、その復元案は太宰府条坊研究において有力説とされてきました。わたしも鏡山説に基づき政庁Ⅱ期と条坊の造営を同時期と見なし、通説の8世紀初頭に対して、九州王朝の天子・多利思北孤による7世紀初頭(倭京元年〈618〉が有力)の造営とする仮説を発表したのです。
 ところがその自説は出土土器の考古学編年と一致せず、観世音寺創建年とのずれという問題もあって、わたし自身も不完全な仮説と感じていました。そうしたとき、「古田史学の会」関西例会で驚くべき報告が伊東義彰(古田史学の会・会員、元会計監査)さんからなされました。2009年7月の関西例会で、伊東さんは井上信正さん(太宰府市教育委員会)の新説を紹介され、それは政庁Ⅱ期や観世音寺よりも条坊都市が先行して造営されていたというものでした。そのときのことを「洛中洛外日記」に紹介していますので転載します。(つづく)

【以下、転載】
古賀達也の洛中洛外日記
第216話 2009/07/19
太宰府条坊の再考
(前略) 
 伊東さんからも、太宰府条坊研究の最新状況が報告されました。その中でも特に興味をひかれたのが、大宰府政庁遺構や観世音寺遺構の中心軸が条坊とずれているという報告でした。すなわち、大宰府政庁や観世音寺よりも条坊の方が先に造られたという、井上信正氏の研究が紹介されたのですが、この考古学的事実は九州王朝の太宰府建都に関する私の説(「よみがえる倭京(大宰府)」『古田史学会報』No.50、2002年6月)の修正を迫るもののようでした。
 その後、伊東さんの資料をコピーさせていただき、井上論文などを読みましたが、大変重要な問題を発見しました。今後、研究を深めて発表したいと思います。
(後略)


第1759話 2018/09/26

7世紀の編年基準と方法(7)

 拙論「よみがえる倭京〈太宰府〉」(『古田史学会報』50号、2002年6月)では大宰府政庁Ⅱ期や条坊都市の造営を7世紀初頭としたのですが、それは出土土器の考古学編年と一致せず、観世音寺創建年とのずれという問題もありました。今回はこの政庁と観世音寺創建時期のずれについて紹介し、わたしの当初の編年の誤りについて説明します。
 政庁Ⅱ期の造営を条坊と同時期の7世紀初頭頃と推定していたのですが、その東側に位置する観世音寺の創建は『二中歴』「年代歴」の記事から白鳳年間(661-683)と理解していました。創建瓦が7世紀後半頃とされていた老司Ⅰ式であることもこの年代観を支持していましたので、この点については今でも妥当と考えています。その後、『二中歴』以外にも『勝山記』や『日本帝皇年代記』にはより具体的に「白鳳10年(670)の創建」とする記事が見つかり、観世音寺創建年は確かなものとなりました。
 その結果、政庁Ⅱ期と観世音寺の創建年に約50年ほどのずれが発生することになり、政庁Ⅱ期が7世紀初頭頃に造営された後、その東側に位置する観世音寺の場所が半世紀もの間「更地」だった可能性が発生しました。あり得ないことではないかもしれませんが、やはりそのような状態は不自然と感じていました。
 さらにより決定的な矛盾もありました。当時は気がつかなかったのですが、観世音寺創建瓦は老司Ⅰ式でその白鳳10年創建とする史料と対応しているのですが、政庁Ⅱ期の宮殿の創建瓦も老司Ⅰ式・Ⅱ式であり、観世音寺創建瓦と同時期のものだったのです。複弁蓮華文と称される老司式瓦を7世紀初頭頃に編年するのは無理で、両者の創建瓦が共に老司式なのですから、政庁Ⅱ期も7世紀後半頃と編年しなければならなかったのでした。
 しかし、太宰府条坊都市の造営を7世紀初頭頃とする自説に立つ限り、その条坊都市と一体として造営された北闕型王都の王宮である政庁Ⅱ期を7世紀後半に編年することが、当時のわたしにはできなかったのです。(つづく)


第1758話 2018/09/23

7世紀の編年基準と方法(6)

 これまで紹介してきた前期難波宮や太宰府出土「戸籍」木簡の場合は、必要な情報や安定した先行研究があり、編年が比較的うまく進みました。次に紹介する事例は、九州王朝の中枢遺構でありながらその編年が難しく、クロスチェックも今のところ不成立というものです。その遺構とは九州王朝の首都太宰府の王宮と目されている大宰府政庁Ⅱ期の宮殿です。

 わたしが太宰府編年研究に取り組み始めた当初は、大宰府政庁Ⅱ期の宮殿とその南に拡がる条坊都市を同時期造営の北闕型王都と認識し、その造営時期を7世紀初頭の多利思北孤の時代と考えていました。その視点で書いた論文が「よみがえる倭京〈太宰府〉」(『古田史学会報』50号、2002年6月)でした。そしてその造営年は九州年号の倭京元年(618)がその字義(倭京とは倭国の都の意)から有力としました。しかし、この説にはいくつかの弱点がありました。それは出土土器の考古学編年と一致しないという問題と、観世音寺創建年とのずれという問題でした。

 土器編年については深く勉強することもなく、通説の根拠となっている従来の土器編年に疑問を抱いていましたので、根拠を示すこともせず「信用できない」と否定する、あまり学問的とは言えない対応で済ませていました。というのも、通説では出土土器や『続日本紀』『大宝律令』などを根拠として、大宰府政庁Ⅱ期や太宰府条坊都市の造営を8世紀初頭としており、7世紀初頭の造営とするわたしの説とは100年ほど編年が異なっていたからです。(つづく)


第1757話 2018/09/23

7世紀の編年基準と方法(5)

 太宰府出土「戸籍」木簡の編年について、7世紀初頭の多利思北孤の時代のものとする見解もあるようですので、この仮説が成立しないことを最後に説明します。

 まず「戸籍」木簡には「嶋評」とあり、7世紀後半に採用された行政区画「評」の時代であることが明確で、もし7世紀前半頃であれば評制以前の行政区画「県(あがた)」を用いて、「嶋県」とあるはずです。この一点からも同木簡を7世紀初頭や前半のものとするのは無理です。

 更に7世紀初頭の九州王朝の位階については『隋書』倭国伝(原文は「国」)に次のように記されています。

 「内官有十二等、一曰大徳、次小徳、次大仁、次小仁、次大義、次小義、次大禮、次小禮、次大智、次小智、次大信、次小信、員無定數。」『隋書』国伝

 『日本書紀』にも次のような「冠位十二階」が記されています。

 「始めて冠位を行う。大徳・小徳・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智、併せて十二階、並びに當(あた)れる色の絁(きぬ)を以て縫えり。」『日本書紀』推古11年(603)12月条

 このように、7世紀初頭の日本列島における冠位は儒教の徳目とされている漢字(徳・仁・義・禮・智・信)が採用されていることがわかります。いずれも7世紀末頃に採用された位階とは明確に異なっています。従って、「嶋評」という行政区画や「進大弐」という位階が記されている「戸籍」木簡を7世紀初頭や前半頃のものとする仮説は史料事実に反しており、学問的に成立しないことをご理解いただけると思います。(つづく)