第1756話 2018/09/22

7世紀の編年基準と方法(4)

 太宰府出土の「戸籍」木簡の成立年を685〜700年まで絞り込むことができると説明しましたが、それは二つの先行研究の成果によっています。一つは木簡に記された「嶋評」という「評制」が7世紀中頃に始まり700年まで続いたとする通説が多くの先行研究の結果により成立していること、二つ目は「進大弐」という位階が『日本書紀』天武14年条(685年)に制定(48等の位階)されたとする記事があり、この記事が信頼できるとする先行研究です。
 「評制」が7世紀中頃に開始されたとする根拠については拙論「『評』を論ず -評制施行時期について-」(『多元』145号、2018年4月)で詳述していますので、ご参照ください。また、「評制」が700年に終わり、翌701年から「郡制」に替わったことは、藤原宮などからの出土木簡により確認されています。
 『日本書紀』天武14年条(685年)の位階制定記事が信頼できるとする理由についても諸研究がありますが、次の出土木簡を紹介し、説明します。市大樹著『飛鳥の木簡 古代史の新たな解明』によると、藤原宮から大量出土した8世紀初頭の木簡に、次のような記載があります(210頁)。
 「本位進大壱 今追従八位下 山部宿祢乎夜部 / 冠」
 山部乎夜部(やまべのおやべ)の昇進記事で、旧位階「進大壱」から大宝律令による新位階「従八位下」に昇進したことが記されています。この「進大壱」も天武14年に制定された位階制度です。この木簡から、大宝元年(701年)〜二年に制定された『大宝律令』による新位階制度へ変更されたことがわかります。従って、「進大弐」の位階が記された太宰府市出土「戸籍」木簡も7世紀末頃のものと判断できるのです。
 更に那須国造碑に記された「永昌元年己丑四月」(689年)の「追大壹」叙位記事も天武14年(685年)制定の位階であり、7世紀末にこれら位階が採用されていたことがわかります。このように、藤原宮出土木簡や那須国造碑などのような同時代史料により、『日本書紀』天武14年の位階制度制定記事が歴史事実と見なして問題ないとする通説が成立しています。
 こうした先行研究の成果により、太宰府出土「戸籍」木簡の編年を685〜700年とする判断が妥当とできるわけです。一元史観の「戦後実証史学」は、決して『日本書紀』の記述を無批判に受け入れて「成立」しているケースだけではないのです。
 なお、付言しますと、一元史観では以上の編年や考察で一段落するのですが、多元史観・古田説ではここから更にこの位階制度の制定主体が『日本書紀』にあるように近畿天皇家の天武でよいのか、九州王朝の天子によるものなのかという研究課題が待ち構えています。(つづく)


第1755話 2018/09/21

7世紀の編年基準と方法(3)

 太宰府から出土した「戸籍」木簡は「記録木簡」とも言えるほどの情報が記載されており、作成年次の編年もかなり絞り込むことができました。その際のキーワードは木簡に記された「嶋評」と「進大弐」という文字でした。同木簡には次の文字が記されています。

《表側》
嶋評 戸主 建ア身麻呂戸 又附加□□□[?]
政丁 次得□□ 兵士 次伊支麻呂 政丁□□
嶋ー□□ 占ア恵□[?] 川ア里 占ア赤足□□□□[?]
少子之母 占ア真□女 老女之子 得[?]
穴□ア加奈代 戸 附有

《裏側》
并十一人 同里人進大弐 建ア成 戸有一 戸主 建[?]
同里人 建ア昨 戸有 戸主妹 夜乎女 同戸有[?]
麻呂 □戸 又依去 同ア得麻女 丁女 同里□[?]
白髪ア伊止布 □戸 二戸別 戸主 建ア小麻呂[?]
(注記:ア=部、□=判読不能文字、[?]=破損で欠如)

 表面冒頭に見える「嶋評」とは糸島半島にあった地名で、行政区画が「評」表記ですので、701年に全国一斉に「郡」表記となる以前の木簡であることがわかります。従ってこの「戸籍」木簡は九州王朝時代の7世紀後半のものとまずは編年できました。次いで注目すべきが裏面に記された「進大弐」という位階名です。『日本書紀』によればこの「進大弐」は天武14年条(685年)に制定記事(48等の位階)があることから、この木簡の成立時期を685〜700年まで絞り込むことができます。(つづく)


第1754話 2018/09/20

7世紀の編年基準と方法(2)

 前期難波宮の編年については多くの根拠による複数のクロスチェックが可能であり、比較的安定した編年ができました。編年研究としては恵まれたケースでした。
 次に紹介する木簡の事例は、当該木簡の記述内容とその他の史料や編年研究の成果を利用して、より精緻な編年が可能となったケースです。歴史学では安定して成立している先行研究との対応検討は重要です。学会誌などでの投稿論文も先行研究に対する理解や対応が不十分なものは通常不採用となります。それまでに積み上げられてきた先行研究に対して、それを否定・批判する論稿であればなおさら厳しくこの点を査読されます。残念ながら古田学派内の論稿には、この先行研究の成果に対する不勉強や誤解に基づくものが少なくありません。わたし自身も、こうした不勉強や理解不足により、若い頃に誤った論稿を発表した苦い経験がありますので、今も自戒を込めてこのことを指摘しておきたいと思います。
 2012年6月13日に新聞報道された、太宰府市出土の「戸籍」木簡を今回は取り上げます。同木簡は最古の「戸籍」木簡と報道されましたが、その編年手法は、木簡に記された内容を先行研究の成果により詳細に検討するというものでした。なお、同木簡は他の木簡とともに水路(川の跡)から出土したため、出土層位毎の伴出土器などによる編年は困難でした。
 現地説明会資料などによれば、出土した木簡は13点で、その中の1枚が注目されている「嶋評」と記された「戸籍」木簡です。出土場所は大宰府政庁の北西1.2kmの地点で、国分寺跡と国分尼寺跡の間を流れていた川の堆積層で、その堆積層の上の部分から出土した別の木簡には「天平十一年十一月」(739年)の紀年が記されており、評制の時期(650年頃〜700年)から少なくとも天平十一年までの木簡が出土したことになりそうです。なお、この「天平十一年」木簡のみが広葉樹で、他の12枚は針葉樹だそうです。
 このように7世紀後半「評制」時代の木簡(後述します)と「天平十一年十一月」(739年)に書かれたと考えられる木簡が同じ所から出土しています。使い捨ての荷札木簡とは異なり、長期保管が必要な戸籍に関する木簡が出土していることから、戸籍管理に関わる役所の倉庫などから天災などにより文字通り川に流出したのではないでしょうか。(つづく)


第1753話 2018/09/19

7世紀の編年基準と方法(1)

 歴史研究において遺跡・遺物や史料の編年は不可欠の作業で、年代が不明では歴史学の対象になりにくい場合があります。わたしも九州王朝史研究において、いつも悩まされるのがその研究対象の編年の基準と編年方法についてです。そこでこの問題について、比較的研究が進んでいる7世紀について改めて論じることにしますが、一般論や抽象論ではなく、なるべく具体的事例をあげて説明します。

 最初に紹介する事例は前期難波宮です。前期難波宮の編年についてはこの10年間わたしが最も研究したテーマですから、かなり自信を持って説明できます。前期難波宮の造営年代については一元史観の古代史学界でも孝徳期か天武期かで永く論争が続いてきましたが、現在ではほとんどの考古学者が孝徳期(7世紀中頃)とすることを支持しており、事実上決着がついています。その根拠となったのが次の基準や研究結果によるものでした。私見も交えて説明します。

①宮殿に隣接した谷(ゴミ捨て場)から「戊申年」(648年)木簡が出土。
②井戸がなかった前期難波宮に水を供給したと考えられている水利施設遺構の造成時に埋められた7世紀前半から中頃に編年されている土器(須恵器坏G)が大量に出土した。
③その水利施設から出土した木樋の年輪年代測定値が634年だった。その木材には再利用の痕跡が見当たらず、伐採後それほど期間を経ずに前期難波宮の水利施設の桶に使用されたと考えられる。
④宮殿を囲んでいた塀の木柱が出土し、その最外層の年輪セルロース酸素同位体比年代測定値が583年・612年であった。
⑤出土した前期難波宮の巨大な規模と様式(日本初の朝堂院)は、『日本書紀』孝徳紀の白雉三年条(652年、九州年号の白雉元年に相当)に記されている〝言葉に表すことができないような宮殿が完成した〟という記事に対応している。
⑥天武期に造営が開始され、持統天皇が694年に遷都したと『日本書紀』に記されている藤原宮の整地層から出土した主流土器は須恵器坏Bであり、前期難波宮整地層から出土した主流土器須恵器坏Gよりも1〜2様式新しいとされている。すなわち、整地層からの出土土器は天武期造営の藤原宮より前期難波宮の方が数十年古い様相を示している。
⑦瓦葺きで礎石造りの藤原宮よりも、板葺きで掘立柱造りの前期難波宮の方が古いと考えるのが、王宮の変遷として妥当である。

 以上のような多くの根拠や論理性により前期難波宮の創建は孝徳期とする通説が成立したのですが、ここでの編年決定において重要な方法が自然科学ではクロスチェックと呼ばれる方法です。すなわち、異なる実験方法・測定方法や異なる研究者が別々に行った実験結果(再現性試験)が同じ結論を示した場合、その仮説はより確かであるとする方法です。

 今回紹介した前期難波宮の編年も、それぞれ別の根拠でありながら、いずれも天武期ではなく孝徳期を是とする、あるいはより妥当とする結論を示したことが、自然科学でのクロスチェックと同じ効果を発揮したものです。

 これが例えば根拠が①の「戊申年」木簡だけですと、〝たまたま古い木簡がどこかに保管されており、何故か30〜40年後に廃棄された〟という「屁理屈」のような反論が可能です。同様に③④の木材の年代にしても〝たまたま数十年前に伐採した木材がどこかに保管されており、なぜかそれを使用した〟というような「屁理屈」も言って言えないことはないのです。しかし、上記のように多数の根拠によるクロスチェックがなされていると、それらを否定するためには〝すべてのケースにおいて、古いものがなぜか数十年後に使用された、捨てられた結果である。『日本書紀』の記事も何かの間違い〟というような根拠を示せない「屁理屈」を連発せざるを得ません。もちろん「学問の自由」ですからどのような主張・反論・「屁理屈」でもかまいませんが、そのような研究者は自然科学の世界では、研究者生命を瞬時に失うことでしょう。ことは歴史学でも同様です。(つづく)


第1752話 2018/09/18

紀伊國屋書店大阪本町店の調査

 今日は大阪で仕事をしましたが、お昼の休憩時間に紀伊國屋本町店を訪れ、古代史コーナーのマーケットリサーチをしました。同店のロケーションがビジネス街ということもあり、ビジネス書や趣味の関連書籍に多くのスペースが割かれています。古代史コーナーは「日本史」の棚の最上段とその下の二段のみで、約120冊ほどしか並んでいません。従って、古代史関連書籍の棚は激戦区です。
 幸い、その最上段の一番右端に『発見された倭京』(古田史学の会編、明石書店刊。2018年3月)が一冊だけおかれていました。残念ながらその他の『古代に真実を求めて』や古田先生や古田説関連書籍は一冊も置かれていませんでした。その意味では、『発見された倭京』は大阪のビジネス街で善戦しているほうかもしれません。
 同店の日本古代史コーナーは「日本考古学」「縄文時代」「古墳」「邪馬台国」「古代」「記紀」という小コーナーに分類されており、『発見された倭京』は「古代」に分類されていました。9月15日に開催した『古代に真実を求めて』編集会議では、ちょうど『日本書紀』成立1300年に当たる2020年に発行する『古代に真実を求めて』23集の特集テーマとして『日本書紀』を取り上げることを検討していますが、紀伊國屋書店に「記紀」のコーナーがあることからも、この特集テーマはマーケティングの視点からも良いかもしれません。
 『古代に真実を求めて』のタイトルにご批判をいただくこともあるのですが、もし売れなかったら論文を投稿していただいた会員に申し訳ありませんし、「古田史学の会」の財政基盤にも悪影響(単年度赤字決算)を及ぼします。もちろん、売れなければ明石書店も発行を引き受けてくれなくなるかもしれませんし、それは編集部員を任命した「古田史学の会」代表のわたしの責任です。売れる本作りのために編集部の皆さんが特集内容や論文の学問的レベルだけではなく、タイトル選考にも苦心惨憺していることをご理解いただければ幸いです。


第1750話 2018/09/15

『後漢書』の「倭國之極南界也」

 本日、「古田史学の会」関西例会が「i-siteなんば」で開催されました。なお、10月の会場が「大阪府社会福祉会館」506号室(谷町7丁目)に変更となりました。初めて使用する会場でもあり、場所などご注意ください。11月は「福島区民センター」、12月は「i-siteなんば」に戻ります。
 谷本さんから、『後漢書』の「倭國之極南界也」の古田先生の読み「倭國の南界を極むるや」は間違いであり、従来説「倭國の極南界なり」の方が妥当とする理由の説明がなされ、参加者との論争が続きました。谷本さんの理詰めの説明は確かに反論しにくく、古田説の方が良いと考えるわたしとしては困っています。
 正木さんからは11月の八王子セミナーで発表されるテーマ等についての報告がありました。九州王朝から大和朝廷への王朝交代の概要が示されたもので、九州王朝説から見た「大化改新詔(公地公民・皇太子奏請)」研究において参考になるものでした。
 なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレスへ)か電話で発表申請を行ってください。今回の発表は次の通りでした。

〔9月度関西例会の内容〕
①古事記の継体没年について(茨木市・満田正賢)
②孝徳紀の倭習から天群を探る(八尾市・服部静尚)
③講演会の案内と、その中の土偶論の紹介(大山崎町・大原重雄)
④NHKカルチャー梅田教室「弥生時代の大阪湾周辺と出雲〜銅鐸文化圏の謎を考える〜」の案内(神戸市・谷本茂)
⑤『後漢書』「倭國之極南界也」の理解をめぐって(神戸市・谷本茂)
⑥倭人伝の「女王国」は都ではない(姫路市・野田利郎)
⑦「文字使用について」の批判回答(東大阪市・萩野秀公)
⑧九州王朝から大和朝廷への王朝交代と「大化改新詔」(川西市・正木裕)
⑨万葉歌の伊勢と糸島の伊勢(川西市・正木裕)

○事務局長報告(川西市・正木裕)
 新入会員の報告・『発見された倭京 太宰府都城と官道』出版記念講演会(10/14久留米大学)の案内・『古代に真実を求めて』22集原稿募集・10/02「古代大和史研究会(原幸子代表)」講演会(講師:正木裕さん)・9/26「水曜研究会」の案内(第四水曜日に開催、豊中倶楽部自治会館。連絡先:服部静尚さん)・11/10-11「古田武彦記念新八王子セミナー」・9/28「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の案内・「古田史学の会」関西例会会場、10月は大阪府社会福祉会館、11月は福島区民センター・その他

 


第1749話 2018/09/11

飛鳥浄御原宮=太宰府説の登場(2)

 飛鳥浄御原宮を太宰府とする服部新説ですが、もしこの仮説が正しければどのような論理展開が可能となるかについて考察してみました。もちろん、わたしは服部新説を是としているわけではありませんが、有力説となる可能性を秘めていますので、より深く考察を進めることは有益です。
 『日本書紀』では飛鳥浄御原宮を天武と持統の宮殿としていますが、その現れ方は奇妙です。天武二年(672)二月条では、「飛鳥浄御原宮に即帝位す」とあるのですが、朱鳥元年(686)七月条には次のような記事があります。

 「戊午(20日)に、改元し朱鳥元年と曰う。朱鳥、此を阿訶美苔利という。仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮と曰う。」

 飛鳥浄御原宮で即位したと記しながら、その宮殿名が付けられたのは14年後というのです。それまでは名無しの宮殿だったのでしょうか。また、朱鳥(阿訶美苔利)の改元により飛鳥浄御原宮と名づけたとありますが、「苔利」と「鳥」の訓読みが同じというだけで、両者の因果関係も説得力がありません。年号に阿訶美苔利という訓があるというのも変な話です。このように不審だらけの記事なのです。
 他方、「飛鳥浄御原令」という名称は『日本書紀』には見えません。天武紀や持統紀には単に「令」と記すだけです。例えば次の通りです。

「詔して曰く、『朕、今より更(また)律令を定め、法式を改めむと欲(おも)う。故、倶(とも)に是の事を修めよ。然も頓(にわか)に是のみを就(な)さば、公事闕くこと有らむ。人を分けて行うべし』とのたまう。」天武十年(682)二月条
 「庚戌(29日)に、諸司に令一部二十二巻班(わか)ち賜う。」持統三年(689)六月条
 「四等より以上は、考仕令の依(まま)に、善最・功能、氏姓の大小を以て、量りて冠位授けむ。」持統四年(690)四月条
「諸国司等に詔して曰わく、『凡(おおよ)そ戸籍を造ることは、戸令に依れ』とのたまう。」持統四年(690)九月条

 これらの「令」が飛鳥浄御原令と呼ばれている根拠の一つが『続日本紀』の『大宝律令』制定に関する次の記事です。

 「癸卯、三品刑部親王、正三位藤原朝臣不比等、従四位下下毛野朝臣古麻呂、従五位下伊吉連博徳、伊余部連馬養等をして律令を選びしむること、是を以て始めて成る。大略、浄御原朝庭を以て准正となす。」『続日本紀』大宝元年(701)八月条

 「浄御原朝庭」が制定した律令を「准正」して『大宝律令』を作成したとする記事ですが、この「准正」という言葉を巡って、古代史学界では論争が続いてきました。この問題についてはここでは深入りせず、別の機会に触れることにします。
 服部さんの新説「飛鳥浄御原宮=太宰府」によるならば、飛鳥浄御原令が制定された飛鳥浄御原宮は天武の末年から持統天皇の時代の宮殿となりますから、それに時期的に対応するのは大宰府政庁Ⅱ期の宮殿となります。大宰府政庁Ⅱ期の造営と機能した時期は観世音寺が創建された白鳳10年(670)頃以降と考えられますから、ちょうど天武期から持統期に相当します。
 久冨直子さんが指摘されたように、観世音寺の山号「清水山」の語源が「きよみ」という地名に関係していたとすれば、大宰府政庁Ⅱ期の宮殿も「きよみはら宮」と呼ばれても不思議ではありません。しかし、この地域が「きよみ」「きよみはら」と呼ばれていた痕跡がありませんので、この点こそ服部新説にとって最大の難関ではないかと、わたしは思っています。(つづく)


第1748話 2018/09/09

飛鳥浄御原宮=太宰府説の登場(1)

 本日、i-siteなんば(大阪府立大学なんばキャンパス)で『発見された倭京』出版記念大阪講演会を開催しました。今回は福島区歴史研究会様(末廣訂会長)と和泉史談会様(矢野太一会長)の後援をいただき、両会の会長様よりご挨拶も賜りました。改めて御礼申し上げます。わたしは「九州王朝の新証言」、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は「大宰府に来たペルシャの姫・薩摩に帰ったチクシ(九州王朝)の姫」というテーマで講演しました。おかげさまて好評のようでした。
 講演会終了後、近くのお店で小林副代表・正木事務局長・竹村事務局次長ら「古田史学の会・役員」7名により二次会を行いました。そこでは「古田史学の会」の運営や飛鳥浄御原についての学問的意見交換などが行われたのですが、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から、飛鳥浄御原宮=太宰府説ともいうべき見解が示されました。服部さんによれば次のような理由から、飛鳥浄御原宮を太宰府と考えざるを得ないとされました。

①「浄御原令」のような法令を公布するということは、飛鳥浄御原宮にはその法令を運用(全国支配)するために必要な数千人規模の官僚群が政務に就いていなければならない。
②当時、そうした規模の官僚群を収容できる規模の宮殿・官衙・都市は太宰府である。奈良の飛鳥は宮殿の規模が小さく、条坊都市でもない。
③そうすると「飛鳥浄御原宮」と呼ばれた宮殿は太宰府のことと考えざるを得ない。

 概ねこのような論理により、飛鳥浄御原宮=太宰府説を主張されました。正木さんの説も「広域飛鳥」説であり、太宰府の「阿志岐」や筑後の「阿志岐」地名の存在などを根拠に「アシキ」は本来は「アスカ」ではなかったかとされています。今回の服部新説はこの正木説とも対応しています。
 この対話を聞いておられた久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)から、太宰府の観世音寺の山号は「清水山」であり、これも「浄御原」と関係してるのではないかという意見が出されました。
 こうした見解に対して、わたしは「なるほど」と思う反面、それなら当地にずばり「アスカ」という地名が遺存していてもよいと思うが、そうした地名はないことから、ただちに服部新説や正木説に賛成できないと述べました。なお、古田先生が紹介された小郡市の小字「飛鳥(ヒチョウ)」は規模が小さすぎて、『日本書紀』などに記された広域地名の「飛鳥」とは違いすぎるという理由から、「飛鳥浄御原宮」がそこにあったとする根拠にはできないということで意見が一致しました。
 わたしの見解とは異なりますが、この服部新説は論理に無理や矛盾がなく論証が成立していますから、これからは注目したいと考えています。やはり、学問研究には異なる意見が出され、真摯な批判・検証・論争が大切だと改めて思いました。(つづく)


第1747話 2018/09/06

古代建築物の南北方位軸のぶれ

 先日の東京講演会(『発見された倭京』出版記念)の終了後、後援していただいた東京古田会・多元的古代研究会の役員の皆さんと夕食をご一緒し、親睦を深めました。講師の山田春廣さん・肥沼孝治さんもご同席いただき、講演冒頭で披露された手品のタネあかしを肥沼さんにしていただいたりしました。

 懇親会散会後も喫茶店で肥沼さん和田さん(多元的古代研究会・事務局長)と研究テーマなどについて情報交換しました。特に肥沼さんが精力的に調査されている古代建築物や官衙・道路の「南北軸の東偏」現象について詳しく教えていただきました。

 古代建築には南北軸が正方位のものや西偏や東偏するものがあることが知られており、7世紀初頭頃から九州王朝の太宰府条坊都市を筆頭に南北軸が正方位の遺構が出現し、その設計思想は前期難波宮の副都造営に引き継がれています。他方、西偏や東偏するものもあり、都市の設計思想の変化(差異)が想定されます。肥沼さんはこの東偏する遺跡が東山道沿いに分布していることを発見され、その分布図をご自身のブログ(肥さんの夢ブログ)に掲載されています。人気のブログですので、ぜひご覧ください。

 肥沼さんの見解では東偏は中国南朝の影響ではないかとのことで、南朝の都城の方位軸の精査を進められています。この仮説が妥当であれば、東偏した遺跡は少なくとも5〜6世紀まで遡る可能性があり、それは正方位や西偏の古代建築物や遺構よりも古いことになり、古代遺跡の相対編年にも使用できそうです。

 わたしからは土器編年による遺構相対年代のクロスチェックを提案しました。土器編年がそれらの相対編年に対応していれば、学問的にも信頼性の高い相対編年が可能となるからです。このように肥沼さんの研究は、その新規性や古代史学に貢献する進歩性の両面で優れたものです。期待を込めて研究の進展を注目したいと思います。

 最後に、肥沼さんから『よみがえる古代武蔵国府』(府中郷土の森博物館発行)というオールカラーの小冊子をいただきました。これがなかなかの優れもので、当地の遺跡や遺物、その解説がカラー写真で載せられています。これからしっかりと読みます。


第1746話 2018/09/05

「船王後墓誌」の宮殿名(6)

 古田先生が晩年において、近畿から出土した金石文に見える「天皇」や「朝廷」を九州王朝の天皇(天子)のこととする仮説を発表された前提として、近畿天皇家は7世紀中頃において「天皇」を名乗っていないとされていたことを説明しましたが、わたしは飛鳥池遺跡出土木簡を根拠に、天武の時代には近畿天皇家は「天皇」を名乗るだけではなく、自称ナンバーワンとしての「天皇」らしく振る舞っていたと考えていました。そのことを2012年の「洛中洛外日記」444話に記していますので、抜粋転載します。

【以下、転載】
第444話 2012/07/20
飛鳥の「天皇」「皇子」木簡

 (前略)古田史学では、九州王朝の「天子」と近畿天皇家の「天皇」の呼称について、その位置づけや時期について検討が進められてきました。もちろん、倭国のトップとしての「天子」と、ナンバー2としての「天皇」という位置づけが基本ですが、それでは近畿天皇家が「天皇」を称したのはいつからかという問題も論じられてきました。

 もちろん、金石文や木簡から判断するのが基本で、『日本書紀』の記述をそのまま信用するのは学問的ではありません。古田先生が注目されたのが、法隆寺の薬師仏光背銘にある「大王天皇」という表記で、これを根拠に近畿天皇家は推古天皇の時代(7世紀初頭)には「天皇」を称していたとされました。
近年では飛鳥池から出土した「天皇」木簡により、天武の時代に「天皇」を称したとする見解が「定説」となっているようです。(中略)

 他方、飛鳥池遺跡からは天武天皇の子供の名前の「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(大伯皇女のこと)「大津皇」「大友」などが書かれた木簡も出土しています。こうした史料事実から、近畿天皇家では推古から天武の時代において、「天皇」や「皇子」を称していたことがうかがえます。
さらに飛鳥池遺跡からは、天皇の命令を意味する「詔」という字が書かれた木簡も出土しており、当時の近畿天皇家の実勢や「意識」がうかがえ、興味深い史料です。九州王朝末期にあたる時代ですので、列島内の力関係を考えるうえでも、飛鳥の木簡は貴重な史料群です。
【転載終わり】

 7世紀中頃の前期難波宮の巨大宮殿・官衙遺跡と並んで、7世紀後半の飛鳥池遺跡出土木簡(考古学的事実)は『日本書紀』の記事(史料事実)に対応(実証)しているとして、近畿天皇家一元史観(戦後実証史学に基づく戦後型皇国史観)にとっての強固な根拠の一つになっています。

 古田史学を支持する古田学派の研究者にとって、飛鳥池木簡は避けて通れない重要史料群ですが、これらの木簡を直視した研究や論文が少ないことは残念です。「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡典嗣先生の言葉を繰り返しわたしたち(「弟子」)に語られてきた古田先生の御遺志を胸に、わたしはこの「戦後実証史学」の「岩盤規制」にこれからも挑戦します。

〈注〉「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡先生や古田先生の遺訓を他者に強要するものではありません。「論証よりも実証を重んじる」という研究方法に立つのも「学問の自由」ですから。また、「学問は実証よりも論証を重んずる」とは、実証を軽視してもよいという意味では全くありません。念のため繰り返し付記します。


第1745話 2018/09/04

「九州王朝律令」儀制令の推定(2)

 九州王朝が木簡への年号使用を規制していたとわたしは推定していますが、その律令の条文は『大宝律令』に受け継がれたと考えています。従って、九州王朝律令の「儀制令」にも「凡そ公文に年記すべくは、皆年号を用いよ。」(『養老律令』儀制令)のような条文があったのではないでしょうか。そうしますと、「公文」の範囲を「式」(条令)で指定し、そこに指定された「公文」に九州年号が使用されたと推定しています。
 それでは「九州王朝律令」で九州年号の使用が許された「公文」などの範囲について、史料事実に基づいて推定してみます。まず、後代にまで残すことが前提である墓碑銘の没年などについては60年毎に廻ってくる干支表記では不適切ですから、九州年号の使用が認められたと思われます。その史料根拠としては「白鳳壬申年(672)」骨蔵器、「大化五子年(699)」土器(骨蔵器)、「朱鳥三年(688)」鬼室集斯墓碑があげられます。法隆寺の釈迦三尊像光背銘の「法興元卅一年」もその類いでしょう。
 戸籍や公式の記録文書には当然と思われますが九州年号が使用されたのは確実と思います。その根拠は『続日本紀』に記された聖武天皇の詔報とされる次の九州年号記事です。

 「白鳳以来朱雀以前、年代玄遠にして尋問明め難し。亦所司の記注、多く粗略有り。一に見名を定めてよりて公験を給へ」『続日本紀』神亀元年(724)十月条

 これは治部省からの諸国の僧尼の名籍についての問い合わせに対して、聖武天皇の回答です。九州年号の白鳳(661-683年)から朱雀(684-685年)の時代は昔のことであり、その記録には粗略があるので、新たに公験を与えよという「詔報」です。すなわち、九州王朝時代の僧尼の名簿に九州年号の白鳳や朱雀が記されていたことが前提にあって成立する問答です。従って、九州王朝では僧尼の名簿や戸籍などの公文書(公文)に九州年号が使用されていたことが推定できるのです。
 こうした公文書には年次記録が必要ですし、60年を超える長期保管が必要な書類であれば、干支だけではなく年号表記が必要であることは当然と思われます。たとえば「庚午年籍」は『養老律令』においても永久保管が命じられていますから、いつの庚午の年かを特定できるように年号(「白鳳十年」、670年)が付記されていたと推定できるのです。
 以上のように、「九州王朝律令」には年号使用を定めた儀制令があり、その運用が「式」などで決められていたと推定できるのですが、本格的な研究はこれからです。


第1744話 2018/09/04

「九州王朝律令」儀制令の推定(1)

 現在、大型台風21号の強風に揺れる拙宅にて「洛中洛外日記」を書いています。築百年以上のおんぼろ家屋ですので、とても不安です。初めて聞くような轟音と家の振動に怯えています。なんとか無事に通り過ぎてほしいものです。

 「古田史学の会」HP読者のSさん(東京都)から九州年号に関する重要な質問をいただきました。「元壬子年」木簡になぜ九州年号が記されていないのかという質問です。この問題は以前からの検討課題ですが、よくわからないままでした。そのため、一週間ほど考えてから、「九州王朝律令に年号使用に関する規制があったのではないか」と返信しました。良い機会ですので、年号使用に関する「九州王朝律令」について考察することにします。

 木簡に関して年次表記を見てみると、701年以降は「大宝」などの年号使用が一般的ですが、700年以前は干支が使用されており、九州年号が使用されているものはありません。この史料事実から、近畿天皇家は公文書に限らず木簡も含めて広範囲での年号使用を指定していたと思われます。ちなみに『養老律令』儀制令には次のように年号使用を指定しています。

 「凡そ公文に年記すべくは、皆年号を用いよ。」

 使い捨ての荷札木簡が「公文」に属するのかはよくわかりませんが、出土木簡には年号が記されていますから、運用上は木簡も年号使用を命じていたと考えられます。そうした近畿天皇家の時代(701年以後)とは異なり、700年以前の九州王朝時代の木簡には干支で年次が記されています。従って、九州王朝律令には年号使用範囲が指定されていたか、それとは別の「式」などの法令で年号使用範囲を制限していたのではないでしょうか。(つづく)