第1804話 2018/12/19

不彌国の所在地(2)

 長垂山の南側を抜けた早良区にある「上山門」「下山門」という地名は「山(やま)」という領域の入り口を意味する「山門(やまと)」であり、その「山(やま)」とは邪馬壹国の「邪馬」ではないかということにわたしは気づきました(既に先行説があるかもしれません)。
 倭国の中心国名について、熱心な古田ファンにも十分には知られていないようですので、説明します。倭人伝には女王卑弥呼が倭国の都とした国の名前は「邪馬壹国」と表記されているのですが、正式な名称は「邪馬」の部分であり、言わば「邪馬国」なのです。そして「壹」(it)は「倭国」の「倭」(wi)の「当て字」であり、本来なら「邪馬倭国(やまゐ国)」です。これは倭国の中の「邪馬」という領域にある国を表現した呼称と理解されます。このことを古田先生は『「邪馬台国」はなかった』で解説されました。同じく倭人伝に見える狗邪韓国も「韓国(韓半島)」内の「狗邪」という領域にある国を意味しています。これと同類の国名表記方法が「邪馬壹国」なのです。
 このような理解から、倭人伝に記された卑弥呼が倭国の都としていた国は「邪馬国」であり、その西の入り口が福岡市早良区の「上山門」「下山門」という地名に残っていたと考えられます。従って、早良区は邪馬壹国の領域内であり、今津湾付近を不彌国とする正木説をこの「山門」地名は支持することになるわけです。更に付け加えれば、福岡県南部に位置する旧「山門郡」(現・柳川市、みやま市)も同じく「邪馬国」の南の入り口と考えることができそうです。そうであれば、筑後地方も「邪馬国」(邪馬壹国)の領域に含まれることになりますが、これは今後の研究課題です。


第1803話 2018/12/18

不彌国の所在地(1)

 「洛中洛外日記」1791話「西新町遺跡(福岡市早良区)ですずり片五個出土」で、その地を魏志倭人伝に見える不彌国(ふみ国)とする作業仮説(思いつき)を紹介しました。そのことをFACEBOOKでも紹介し、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)にすずりが出土した早良地域を不彌国とすることの当否についてたずねたところ、当地は邪馬壹国内に相当し、不彌国は今津湾付近とのご意見が寄せられました。
 わたしは1791話で次のように不彌国の位置を考えていました。

 〝古田説では、糸島半島方面から博多湾岸に入り、不彌国に至り、その南に邪馬壹国があるとされています。その邪馬壹国の中心地域は春日市の須玖岡本遺跡付近と考えられていますから、博多湾岸に位置する西新町遺跡が邪馬壹国の北の玄関口に相当する不彌国の有力候補と考えられるのです。〟

 ですから、今津湾付近では西過ぎるのではないかと感じたのですが、正木さんの説明によれば、福岡市西区今宿付近から長垂山の南側を通って吉武高木遺跡がある早良方面に抜ける道が当時の主要ルートなので、倭人伝の「南到る邪馬壹国」とある行程記事と見なして問題ないということでした。この正木説に説得力を感じましたので、今津湾や今宿付近を不彌国とできる痕跡が地名などに残っていないか検討しました。たとえば「ふみ」という地名が当地に残っていないかを調べてみました。
 その結果、長垂山の南側を抜けた早良区に「上山門」「下山門」という地名があることを見いだしました。江戸時代の史料にも「下山門郷」という地名が記されていることを知ってはいたのですが、その地名の意味することに今回気づくことができました。それは「山(やま)」という領域の入り口を意味する「山門(やまと)」であるということです。そしてその「山(やま)」とは邪馬壹国の「邪馬」ではないかという問題です。(つづく)


第1802話 2018/12/15

服部さんの太宰府条坊研究の画期

 今日、「古田史学の会」関西例会がi-siteなんばで開催されました。1月、2月はi-siteなんば、3月は府立労働センター(エル大阪)で開催します。
 恒例の新春古代史講演会は2月3日(日)に大阪府立ドーンセンターで開催します。皆さんのご参加をお願いします。
 今月の例会では服部さんの太宰府条坊都市に関する発表が特に優れていました。おそらく、古田学派における太宰府条坊研究では五指に入る内容でした。一元史観の通説では、難波を監督する摂津職と並んで、大宰府は九州を監督する大宝律令下の特別な地方官衙と位置付けられ、朝堂院様式の政庁Ⅱ期遺構や条坊の規模はそれに対応する規模であると考えられてきました。九州王朝説の立場からは首都に相応しい条坊都市とされてきたのですが、服部さんは『養老律令』などに記された冠位毎の家地面積規定を根拠に、大和朝廷の平城京の律令官人の人数に必要な面積に匹敵することを明らかにされました。その論証に用いられた方法論は誰でも検証可能な単純明瞭なものであり説得力を感じました。論文発表が楽しみな研究です。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔12月度関西例会の内容〕
①飛ぶ鳥の「アスカ」は「安宿」(その2)-奈良時代の飛鳥姓、安宿姓-(京都市・岡下英男)
②県風土記から九州王朝を見る(茨木市・満田正賢)
③大宰府条坊の存在はそこが首都だったことを証明する(八尾市・服部静尚)
④「干支一年のズレ」仮説に関する批評について(神戸市・谷本 茂)
⑤「埴土」の神事について再考(奈良市・原 幸子)
⑥平成三十年(2018年)の総括(東大阪市・萩野秀公)
⑦ヤマトの神武と欠史八代 -銅矛圏(筑紫)から銅鐸圏へ-(川西市・正木 裕)

○事務局長報告(川西市・正木 裕)
 新入会員、会費納入状況の報告・『古代に真実を求めて』22集編集状況・2019/02/03新春古代史講演会(大阪府立ドーンセンター)の案内、講師:山田春廣氏(会員・千葉県鴨川市)、清水邦彦氏(茨木市立文化財資料館学芸員)・01/08「古代大和史研究会(原幸子代表)」講演会(講師:正木裕さん)・12/26「水曜研究会」の案内(最終水曜日に開催、豊中倶楽部自治会館。連絡先:服部静尚さん)・12/21「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の案内・「古田史学の会」関西例会会場、1月、2月はi-siteなんば、3月は府立労働センター(エル大阪)・ホームページ「新・古代学の扉」掲載の古田先生の原稿等削除の報告・新たな講演会、研究会の展開(京都市、和泉史談会)・漢詩の研究会・その他


第1801話 2018/12/11

『古田史学会報』149号のご案内

『古田史学会報』149号が発行されましたので、ご紹介します。正木さんによる古田万葉論の発展を試みた「新・万葉の覚醒(Ⅰ)」の連載がスタートしました。『万葉集』を歴史史料として使用することは、自らの恣意的解釈に対しての戦いとも言えます。果たしてどのような展開を見せるのか楽しみです。
高知市の別役さんは久しぶりの登場です。珍しいテーマでもあり、興味深く読みました。考古学に強い大原さんによる吉野ヶ里遺跡の「虚構」についての指摘は意表を突くもので、弥生の環濠集落全体の再検証をも促すものです。服部さんの評制研究史に対する批判は専門的なテーマですが、古田学派においてもこの分野への研究が本格的に開始されたものとして注目されます。
わたしからは、最近滋賀県から出土した法隆寺式瓦の同笵問題を多元史観により考察した論稿と、水城築造時期について古田説への異見を発表しました。多くのご批判が出されることは覚悟しています。
今号に掲載された論稿は次の通りです。

『古田史学会報』149号の内容
○「古田史学の会」新春古代史講演会(2月3日)のお知らせ
○新・万葉の覚醒(Ⅰ) 川西市 正木 裕
○滋賀県出土法隆寺式瓦の予察 京都市 古賀達也
○裸国・国歯国の伝承は失われたのか? =侏儒国と少彦名と補陀落渡海- 高知市 別役政光
○弥生環濠施設を防衛的側面で見ることへの疑問点 京都府大山崎町 大原重雄
○評制研究批判 八尾市 服部静尚
○水城築造は白村江戦の前か後か 京都市 古賀達也
○盗まれた氏姓改革と律令制定 川西市 正木 裕
○『古田史学会報』原稿募集
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○編集後記 西村秀己


第1800話 2018/12/07

「須恵器坏B」の編年再検討について(5)

 藤井巧・亀井明徳著『西都大宰府』に記された大宰府政庁Ⅰ期整地層から出土した須恵器坏Bの存在を知ったとき、わたしは太宰府条坊都市の造営を九州年号「倭京元年(618)」とする研究を発表していたこともあり、須恵器坏Bを7世紀前半とできるだろうかと真剣に考えました。その研究過程で知ったのが前期難波宮整地層出土の坏Bの存在でした。7世紀中頃(孝徳期)に造営された前期難波宮の整地層からの出土ですから、その頃以前に同坏Bは製造されたことになり、従来は7世紀後半の出現と考えられてきた須恵器坏Bの編年の再考を促すものでした。
 もし、前期難波宮整地層出土須恵器坏Bと同様に大宰府政庁Ⅰ期出土坏Bも7世紀中頃以前までに遡ることができれば、太宰府条坊都市も7世紀前半頃とできるかもしれません。九州王朝史研究において、その都の造営年代の研究は不可欠です。今回の検討の結果、須恵器坏Bの編年見直しが九州王朝説にとって重要なテーマとして浮かび上がってきました。太宰府出土須恵器の本格的な見直しが必要です。


第1799話 2018/12/06

「須恵器坏B」の編年再検討について(4)

 本連載では、佐藤隆さんによる「難波編年」とそれに基づく前期難波宮孝徳期造営説が最有力説としてほとんどの考古学者に支持されていることと、天武期造営説を発表された小森俊寬さんの論法や論証が学問的に成立していないことを縷々説明してきました。その結果、7世紀後半の指標土器とされてきた須恵器坏Bの発生時期についての再検討が必要となったことを明らかにしました。この点について具体的事例により説明します。
 小森俊寬さんが『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』で紹介された『難波宮址の研究』(昭和36年大阪市教育委員会1961年)記載の前期難波宮整地層出土須恵器坏Bにより、その発生時期が7世紀中頃以前にまで遡る可能性に気づいたわたしは、大宰府政庁Ⅰ期から出土した須恵器坏Bのことを思い出しました。
 7世紀における九州王朝(倭国)の都がおかれた太宰府には条坊都市の北端に大宰府政庁遺構があります。政庁遺構は3段階にわかれており、最も古い政庁Ⅰ期遺構は比較的小規模な掘っ立て柱建物で、通説では天智期(662〜671年)の造営とされています。Ⅱ期は礎石を持つ瓦葺きの朝堂院様式の宮殿で、通説では『大宝律令』による「大宰府」とされ、8世紀初頭の造営とされています。現在、地表に残されている礎石はⅢ期のもので、平安時代(10世紀)の造営とされています。なお、Ⅰ期は「新・古」の二段階があります。
 政庁Ⅰ期が天智期とさた考古学的根拠はその整地層から出土した須恵器坏Bでした。他方、太宰府市の考古学者、井上信正さんの研究などから太宰府条坊は政庁Ⅰ期の時代(天智期〜8世紀初頭)の造営と見られており、7世紀末頃の藤原京造営と同時期とされました。すなわち、政庁Ⅰ期や条坊都市の造営は7世紀末頃であり、7世紀前半には遡らないというのが考古学者の判断です。
 他方、古田学派内では大宰府政庁や条坊都市を古く考える研究者が多く、わたしも文献史学の分野から太宰府条坊都市の造営開始時期を7世紀前半頃、政庁Ⅱ期の宮殿や観世音寺の創建を670年頃(白鳳年間、661〜684年)とする研究を発表してきました。しかし、この説には出土土器編年と対応していないという弱点がありました。その象徴的土器が政庁Ⅰ期整地層から出土した須恵器坏Bでした。7世紀後半の指標とされてきた須恵器坏Bの存在は自説にとって不都合な出土事実でした。ちなみにその坏Bは藤井巧・亀井明徳著『西都大宰府』(NHKブックス、昭和52年)の出土土器の図(229頁)に紹介されています。(つづく)


第1798話 2018/12/05

「須恵器坏B」の編年再検討について(3)

 著書『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』において天武期造営説を提起された小森俊寬さんですが、そこに前期難波宮整地層出土として紹介された須恵器坏Bにわたしは強く関心を抱き、その出典を調査しました。それらは次の報告書とされ、幸いにも大阪歴博の図書室(なにわ歴史塾)にてすべて閲覧することができました(同館担当者の方が親身になって出典を探してくださいました。有り難いことです)。

『難波宮址の研究』昭和36年大阪市教育委員会1961年
『難波宮址の研究』昭和40年大阪市教育委員会1965年
『難波宮址の研究 第七』大阪市文化財協会1981年
『難波宮址の研究 第八』大阪市文化財協会1984年

 収録された図版を中心に調査したのですが、なかなか問題の坏Bが見つかりませんでした。ようやく見つけたのが『難波宮址の研究』(昭和36年大阪市教育委員会1961年)にあった「実測図第十一 整地層下並竪穴内出土遺物実測図(Ⅱ)」の「Ⅱ層(難波宮整地層)出土」と解説されている1個の坏B「35」でした。高台(脚)があり、底部が丸みを帯びている比較的初期の須恵器坏Bでした。念のため、大阪歴博学芸員の寺井誠さん(土器の専門家)にも見ていただいたところ、間違いなく坏Bであり、比較的古いもので奈良時代までは下らないとのことでした。
 この出土事実が正確であれば、先に説明したように7世紀中頃造営の前期難波宮整地層から出土したことになり、これまで7世紀後半の指標土器とされてきた須恵器坏Bの発生時期の見直しが必要となります。もし、坏Bの発生時期が7世紀中頃以前にまで遡ることになれば、坏B出土を根拠に7世紀後半以後と編年されてきた諸遺構の見直しも必要となる可能性があります。(つづく)


第1797話 2018/12/04

「須恵器坏B」の編年再検討について(2)

 ほとんどの考古学者が「難波編年」による前期難波宮孝徳期造営説を支持しているのですが、少数の反対意見も出されました。天武期造営説を提起された小森俊寬さん(元・京都市埋蔵文化財研究所)もその一人でした。小森さんは著書『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』(京都編集工房、2005年11月)で、次のように述べられています。

 「考古学的方法で、これらの土器類が出土している整地土層の年代を特定するのであれば、量の多少はあっても、土器群では年代の下限を示す新相側の年代観を採用することが原則である。(中略)遺構理解の原則に立脚するならば、新相の土器群を根拠として、整地土層の形成年代は、7世紀後葉頃と位置付けざるをえない。」(92〜93頁)

 これを簡略にまとめると、次のような主張となります。

①遺構から出土した最も新相の土器の編年をその遺構の時代とするのが考古学的原則である。
②前期難波宮整地層から天武期の須恵器坏Bが出土している。
③従って、前期難波宮造営は天武期である。

 しかし、この論が成立するためには、当該須恵器坏Bが天武期より前には存在しないという不存在の証明(悪魔の証明)が必要です。しかし、そのような証明はなされていませんし、そもそもできないでしょう。従って、小森さんの上記の三段論法は論理的に成立していないのです。
 更に指摘するならば、現代の考古学土器編年において採用されている方法は、小森さんの「量の多少はあっても、土器群では年代の下限を示す新相側の年代観を採用することが原則」というような単純なものではありません。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)も指摘されたことですが、通常、7世紀の遺構からは新旧の様式の土器が併存して出土することが一般的であるため、各様式の土器の「量の多少」によって比較編年する方法が採用されています。しかもこの場合、各土器に「製造年月日」が記されているわけではありませんから、遺構間の相対編年とならざるを得ません。この点について具体例を示して説明します。

 ①前期難波宮整地層から出土する指標となる須恵器坏は古墳時代から続く古いタイプの坏Hとその後に出現した坏Gからなります。小森さんの指摘によっても最新型の坏Bあるいは坏Bの蓋の可能性がある土器の出土は数えるほどしかありません。この各坏の「量の多少」の状況(比率)が前期難波宮整地層(造営時期)の「様相」となります。
 ②次いで前期難波宮完成後のゴミ捨て場の第16層(前期難波宮の時代)の出土土器は坏Hと坏Gと共に坏Bが見られるようになります。この各坏の共伴状況が前期難波宮が存在していた時代(『日本書紀』によれば652〜686年)の「様相」となります。
 ③更に新しい藤原宮整地層からの出土須恵器は坏Bが主流です。同整地層から出土した干支木簡により、その整地時期が天武期(672〜686年)の後半頃(680年代)であることが判明しています。従って、「坏B主流」がその頃の「様相」となります。
 ④このように7世紀の遺構から併存して出土する各須恵器坏の「量の多少」(比率)に着目して各遺構の相対編年を行うのが現在の考古学の原則であり方法です。ちなみに、古田先生は30年ほど前からこの編年方法を採用すべきと主張されていました。
 ⑤小森さんのように「量の多少はあっても、土器群では年代の下限を示す新相側の年代観を採用」するという方法は、今回のケースでは、坏Bの発生が天武期からと確定しており、孝徳期には存在しないという不存在証明(悪魔の証明)が可能であって始めて成立することです。このような証明ができるはずもなく、小森さんの方法とその結果としての前期難波宮天武期造営説は学問的に成立しません。

 しかし、真の問題はここから始まります。それでは須恵器坏Bの発生時期はいつ頃なのか、坏Bの出土を根拠として7世紀後半とされてきた諸遺構の編年は妥当なのかという問題です。(つづく)


第1796話 2018/12/03

「須恵器坏B」の編年再検討について(1)

 連載した前期難波宮と大宰府政庁出土「須恵器坏B」(1〜3)の結論として、従来7世紀後半の指標とされてきた「須恵器坏B」の編年再検討が必要であり、7世紀中頃か前半頃まで遡る可能性について論究しました。
その説明について、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)より、わかりにくいとのご指摘がありました。読み直して見ると、確かにわかりにくいので、改めてその論理展開の道筋を説明したいと思います。わかりやすいように箇条書きにします。

 ①大規模な水利施設が難波宮の西側の谷から出土し、井戸がない難波宮のための水利施設とされた。
 ②同水利施設整地層や造営時の層位から大量の須恵器が出土し、それは坏Hと坏Gであり、7世紀後半と編年される坏Bは出土しなかった。
 ③その出土須恵器の編年と全体的な様相(GとHの出土量の割合など)から、水利施設の造営は従来の土器編年によって7世紀中頃とされた。
 ④それらの土器は兵庫県芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「白雉元(三)壬子年(652)」木簡に共伴した土器と同段階である。このことにより土器と暦年がリンクでき、7世紀中頃造営説は説得力を増した。
 ⑤水利施設から出土した木枠(桶)の年輪年代測定値により、伐採年が634年とされ、出土土器の編年と一致した。このことも土器と暦年とのリンクを支持し、7世紀中頃造営説は更に説得力を増した。
 ⑥これら水利施設の出土事実と暦年とのリンクにより、前期難波宮の造営時期も7世紀中頃とされた。
 ⑦前期難波宮完成後のゴミ捨て場として使用された北側の谷から「戊申年(648)」木簡が出土した。この干支木簡の出土により、前期難波宮の造営が7世紀中頃であり、完成後に同木簡が廃棄されたと理解された。「戊申年(648)」は天武期(672〜686年)とは20年以上離れており、どこかで20年以上保管されていた「戊申年(648)」木簡が天武期になって廃棄されたとしなければならない天武期造営説では説明しにくく、同木簡の出土は孝徳期造営説に有利である。
 ⑧その後、前期難波宮北側から出土した柱の最外層の年輪セルロース酸素同位体年代測定値(583年、612年)が7世紀前半造営説に有利であることも判明した。これら理化学的年代測定はいずれも7世中頃造営を支持し、理化学的年代測定による7世紀後半(天武期)とする遺物は今日に到るまで出土していない。
 ⑨こうして考古学的に確立した前期難波宮7世紀中頃造営説に対応する文献事実として、『日本書紀』孝徳紀白雉三年条に見える「巨大宮殿」完成記事と前期難波宮を結びつけることが可能となった。通説ではこれを「難波長柄豊碕宮」のこととする。
 ⑩こうした経緯から、ほとんどの考古学者が「難波編年」とそれに基づく前期難波宮孝徳期造営説を支持するに到った。

 以上のような緻密な考古学的・理化学的知見の積み上げにより、前期難波宮孝徳期造営説が成立しました。この説が『日本書紀』孝徳紀白雉三年の造営記事を無批判に「是」として、その立場から出発したものではないことが、「難波編年」の最大の強みだとわたしは理解しています。(つづく)


第1795話 2018/12/01

前期難波宮と大宰府政庁出土「須恵器坏B」(3)

 小森俊寬さんが『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』に記された前期難波宮整地層出土土器の図38(91頁)に見える須恵器坏Bが『難波宮址の研究』(昭和36年大阪市教育委員会1961年)に掲載されていることを確認したわたしは、その須恵器坏Bが7世紀後半に編年されてきたものであることに驚くとともに、それとよく似た須恵器が大宰府政庁Ⅰ期整地層から出土していたことを思い出しました。
 藤井巧・亀井明徳著『西都大宰府』(NHKブックス、昭和52年)に掲載されている出土土器の図(229頁)によれば、大宰府政庁Ⅰ期古段階の整地層から須恵器坏Bが出土しています。この土器が前期難波宮整地層出土とされた『難波宮址の研究』記載の土器とよく似ているのです。この前期難波宮整地層出土須恵器坏Bにより、坏Bの発生が7世紀中頃か前半にまで遡ることになるのですが、大宰府政庁Ⅰ期古段階の整地層から出土した坏Bがそれによく似ていることから、従来は7世紀第3四半期頃とされていた大宰府政庁Ⅰ期古段階が第2四半期頃まで遡るかもしれないのです。
 大宰府政庁遺構は三期に分かれており、最も古い掘立て柱建物からなる政庁Ⅰ期は天智期(7世紀第3四半期)、礎石造りの朝堂院様式のⅡ期は8世紀初頭の造営とされてきました。その上で、観世音寺や政庁Ⅱ期よりも条坊都市の成立が早いとする井上信正説の登場により、条坊の造営は藤原京と同時期の七世紀末頃となりました。
 文献史学によるわたしの研究では、太宰府条坊都市の成立は7世紀前半頃なのですが、出土する土器は古くても7世紀後半のものでした。ですから、文献史学による7世紀前半説と考古学による7世紀後半とする出土事実が対応していないという問題がありました。ところが、前期難波宮整地層から出土した坏Bの存在により、整地層から同類の坏Bが出土した大宰府政庁Ⅰ期古段階を7世紀前半にできる可能性が生まれたのです。この大宰府政庁Ⅰ期は条坊と同時期の造営とする井上信正説によれば、条坊成立も7世紀前半とできる可能性があることになります。
 須恵器坏Bの発生時期をどこまで遡らせることができるのか、現時点では不明ですが、従来、7世紀の第3四半期頃の発生とされてきた坏Bが第2四半期まで遡ることは、7世紀の須恵器編年の見直しが必要であることを意味します。とても重要な問題ですので、結論を急がず、引き続き調査検討することにします。


第1794話 2018/11/30

前期難波宮と大宰府政庁出土「須恵器坏B」(2)

 小森俊寬さんの著書『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』(京都編集工房、2005年11月)に記された前期難波宮整地層出土土器の図38(91頁)には、明確に須恵器坏Bと思われるものが5点あります。この他に同蓋とされるものが4点記されていますが、本当に坏Bの蓋かどうか図からは判断しにくいように思われました。そこで容器本体部分の図を調査しました。同書の文献一覧によれば、図示された須恵器坏Bの出典は次の四書です。

『難波宮址の研究』昭和36年大阪市教育委員会1961年
『難波宮址の研究』昭和40年大阪市教育委員会1965年
『難波宮址の研究 第七』大阪市文化財協会1981年
『難波宮址の研究 第八』大阪市文化財協会1984年

 大阪歴博の図書室「なにわ歴史塾」にてこれら全てを閲覧することができましたが、小森さんが示された須恵器坏Bの図がなかなか見つかりませんでした。わたしの調査が不十分だったのかもしれませんが、『難波宮址の研究』(昭和36年大阪市教育委員会1961年)の図版に記された一つだけを見つけることができました。それは「実測図第十一 整地層下並竪穴内出土遺物実測図(Ⅱ)」の最下段にあり、「35」とナンバリングされた土器です。「Ⅱ層(難波宮整地層)出土」と説明されていますから、難波宮整地層から出土した須恵器坏Bと見て問題ありません。掲載された他の須恵器は坏HかGのようでした。念のため、同館学芸員の寺井誠さんに見ていただいたところ、須恵器坏Bで間違いなく、その形状からみて比較的古いタイプで、奈良時代までは下がらないとのことでした。
 この昭和36年の報告書に記された須恵器坏Bを見て、わたしはとても驚きました。従来の須恵器編年によればどう見ても7世紀後半に属する様式だったからです。そして、わたしはこの須恵器坏Bに似た土器をどこかで見たことがあることに気づきました。もしかすると、この土器は7世紀の遺構の編年に大きな見直しを迫るかもしれないと思ったのです。(つづく)


第1793話 2018/11/30

前期難波宮と大宰府政庁出土「須恵器坏B」(1)

 前期難波宮の造営を天武朝期とした研究者のお一人が小森俊寬さん(元・京都市埋蔵文化財研究所)でした。小森さんの著書『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』(京都編集工房、2005年11月)には、次の論法により前期難波宮を天武朝期の造営とされました。

①遺構から出土した最も新相の土器の編年をその遺構の時代とするのが考古学的原則である。
②前期難波宮整地層から天武朝期の須恵器坏Bが出土している。
③従って、前期難波宮造営は天武朝期である。

 このように簡単明瞭な論法により小森説は成り立っていますが、わたしの目から見ると、①の論が成立するためには、当該土器の発生時期を科学的学問的に証明しなければなりませんし、それ以前には存在しないという不存在の証明(悪魔の証明)も必要です。しかし、そのような証明などできないと思います。従って、小森さんの三段論法はその初めからして成立していないのです。
 他方、難波編年を提起された佐藤隆さん(大阪文化財研究所)は『難波宮址の研究 第十一 -前期難波宮内裏西方官衙地域の調査-』(2000年3月、大阪市文化財協会)において次のように結論づけられています。

 「難波Ⅲ中段階には前段階の土器様相がいっそう明らかになる。(中略)年代は前後の土器様相が新しい資料の増加によって明らかになってきており、7世紀中葉から動くことはない。前期難波宮の造営はまさにこの段階に行われたものであり、『日本書紀』の記載に基づいてこの時期に起こった最も重大な出来事と結びつければ、前期難波宮=難波長柄豊碕宮説がもっとも有力であることを今回あらためて確認することができた。」(264頁)

 わたしは佐藤さんの難波編年と前期難波宮孝徳期造営説を支持していますが、それでは小森さんの説は学問的に無意味かというと、そうではありません。小森さんが『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』で紹介された前期難波宮整地層の須恵器坏B出土が事実なら、それはそれで学問的に大きな意味を持つのではないかと考えられるからです。(つづく)