第1634話 2018/03/29

『発見された倭京 太宰府都城と官道』

  書評(2)

 『発見された倭京 太宰府都城と官道』は各執筆者の論稿により成り立っていますが、その論稿執筆過程では古田学派研究者のサポートや先駆的研究に支えられていることも特長の一つです。たとえば次のような記述が論稿中に見えます。

○古賀達也「太宰府都城と羅城」
 「筑紫野市で発見された太宰府防衛の土塁(羅城)の現地説明会が十二月三日に開催され、参加された犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)から報告メールと写真が送られてきました。」(11頁)
○古賀達也「太宰府都城の年代観」
 「久留米市の犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員)よりいただいた『第9回 西海道古代官衙研究会資料集』(西海道古代官衙研究会編、二〇一七年一月二二日)に前畑遺跡筑紫土塁の盛土から出土した炭片の炭素同位体比年代測定値が掲載されていました。」(75頁)
 「久富直子さん(古田史学の会・会員、京都市)からお借りしている『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 -発表資料集-』を何度も熟読しています。同書は二〇一七年二月十八〜十九日に開催された「九州国立博物館『大宰府学研究』事業、熊本県『古代山城に関する研究会』事業、合同シンポジウム」の資料集で、久富さんがわざわざ参加されて入手された貴重なものです。」(79頁)
○西村秀己「南海道の付け替え」
 「筆者は三年ほど前に古田史学の会・四国の例会で今井久氏(愛媛県西条市・本会会員)から本稿と同様の内容の話をお伺いしたことがある。その際今井氏のお話の出典がよくわからなかったのだが、今回別役政光氏(高知県高知市・本会会員)との対話中に『続日本紀』に見いだしたものである。従って『南海道の付け替え』の功績は今井氏に帰することを明記する。」(152頁)
○肥沼孝治「古代日本ハイウェーは九州王朝が建設した軍用道路か?」
 「これらの道が軍用道路といってもいいと多元的『国分寺』研究サークルで共同研究して下さっている山田春廣さんからアドバイスをいただいた。(中略)同サークルの川瀬健一さんより、仮説(3)の問題点も指摘していただき、このように直してみた。」(174頁)

 更に表紙の写真は「古田史学の会」会員の茂山憲史さん(水城)と犬塚幹夫さん(前畑遺跡・筑紫土塁)の撮影によるものです。四隅の絵は原幸子さん(古田史学の会・会員)が描かれました。改めて御礼申し上げます。(つづく)


第1633話 2018/03/28

『発見された倭京 太宰府都城と官道』

  書評(1)

 発刊されたばかりの「古田史学の会」の会誌『古代に真実を求めて』21集『発見された倭京 太宰府都城と官道』を読んでいます。収録論稿の採用や編集に関わったわたしが言うのもなんですが、かなりの学問水準に達した一冊となっています。「古田史学の会」も古田先生亡き後、「弟子」らによってようやくこのレベルの論集を出せるようになったのかと思うと、感無量です。そこで、同書の収録論文について、わたしの感想や評価点を「書評」として連載したいと思います。
 本書には太宰府条坊や水城の編年等に関する拙稿も何編か収録されたのですが、直近のものでも執筆後一年近くを経ており、その後に増えた知見や深まった認識により、現時点では不十分で「腰が引けた」表現もあります。これは日々進化発展するという学問が有する性格上仕方がないことであり、ある意味では当然発生することでもあります。そうした一例を紹介します。
 拙稿「太宰府条坊と水城の造営時期」の最末尾に次の一文を記しました。

 「サンプルの資料性格から考えると、年輪数が少ない敷粗朶の測定値が木樋より適切であり、しかも発掘条件の良さから、最上層の敷粗朶の年代中央値六六〇年を最も重視すべきと思います。そうすると水城の造営年代は七世紀後半頃となり、『日本書紀』の天智三年(六六四)造営記事も荒唐無稽とはできず、九州王朝説の立場から再検討する必要があります。」(72頁)

 古田説では水城の築造を白村江敗戦(663年)よりも前とするのが常でした。わたしもそうした見解に立っていたのですが、同論稿執筆のために水城関連の発掘調査報告書を精査した結果、白村江戦後の水城完成もありうるのではないかと考えるようになりました。そうしたときに記したのがこの一文でした。しかし、その時点ではそれ以上の考察には至っていませんでした。そして、最近発表した「洛中洛外日記」1627・1629・1630話(2018/03/13〜03/18)「水城築造は白村江戦の前か後か(1)〜(3)」に至り、ようやく水城完成を『日本書紀』に記された白村江戦後の天智三年(六六四)の完成の方がより適切とする認識に到達できました。もちろん、その当否は古田学派内での論争や検討を経て確認されることになりますが、現時点ではわたしはそのように考えています。
 こうした見解の変更や認識の進展は、仮に誤っていたとしても学問研究に貢献することができますので、わたし自身は良いことと思っています。(つづく)


第1632話 2018/03/25

向井一雄『よみがえる古代山城』を読む

 今日は久しぶりに用事がなかったので、向井一雄さんの『よみがえる古代山城 国際戦争と防衛ライン』(吉川弘文館。2016年)を読みました。同書は書店で立ち読みしたことはあったのですが、まだ購入していませんでした。ところが過日の久留米大学での講演会で、菊池市から見えられた吉田正一さんから同書中の「九州王朝築城説」部分のコピーをいただき、そこに古田説の紹介と批判がありましたので、先週末、名古屋出張のときに購入しました。
 著者の向井さんは古代山城研究会の代表で、その分野を代表する研究者です。従って、考古学的知見だけではなく文献にも詳しく、とても勉強になる好著です。しかしながら、同書は終始一貫して近畿天皇家一元史観に貫かれており、それにあうように古代山城の考古学的事実を解釈されています。そのため古代山城研究の第一人者としての説得力ある部分と、一元史観に依拠したための避け難い弱点が併存しています。
 これから同書を精読し、多元史観・九州王朝説による批判的対比と検討を進めていく予定です。(つづく)


第1631話 2018/03/24

『発見された倭京 太宰府都城と官道』発刊

 「古田史学の会」の会誌『古代に真実を求めて』21集『発見された倭京 太宰府都城と官道』が明石書店から発刊されました。「古田史学の会」2017年度賛助会員へは明石書店から順次発送されますので、しばらくお待ちください。一般会員は書店やアマゾンでお取り寄せください。「古田史学の会」でも会員特価販売しますので、注文方法等については『古田史学会報』4月号をご参照ください。
 ご参考までに、同書「巻頭言」を転載します。

〔巻頭言〕
真実は頑固である
      古田史学の会・代表 古賀達也

 「真実は頑固である」。恩師、古田武彦先生が生前に語っておられた言葉だ。その意味するところは明確である。いかなる権力者であっても、あるいは学界の権威とされる学者であろうとも、歴史の真実を隠し通すことはできない。失われたかに見える歴史の真実は、姿や場所を変えながらも、時を得て、人々の眼前に復活する。古田先生はかたくそう信じておられた。わたしも信じている。
 たとえば、『日本書紀』。養老四年(七二〇)に近畿天皇家が自らの歴史的正統性を宣言した「史書」だ。いわく、わが王朝は天孫降臨に淵源を持ち、初代の神武天皇は奈良の橿原宮で天下に君臨した、とする。しかし、その内実は先在した九州王朝(倭国)の存在を隠し、自らが神代の時代から日本列島内唯一無二の王朝であるという歴史造作の「史書」であった。この歴史の真実を隠蔽した「史書」の目的は達成されたかに見えた。その歴史観が千数百年の永きにわたり日本古代史の「真実」とされてきたからだ。
 それでも、真実は頑固である。古田武彦という希代の歴史学者の登場により、『日本書紀』が隠し通そうとした九州王朝(倭国)の真実の姿が明らかにされたのである。そして、古田先生が没した翌年の二〇一六年、九州王朝の都(太宰府)を防衛する巨大羅城(筑紫土塁)がその片鱗を現した。当地では平野部を横断する水城、国内最大の山城である大野城を始め基肄城や阿志岐山城の存在が知られていた。いずれも太宰府防衛のための軍事施設である。これだけの巨大防衛施設群に囲まれた都城は、日本列島内では太宰府だけだ。もちろん、近畿天皇家が居した大和からは、このような巨大防衛施設は発見されていない。太宰府が九州王朝(倭国)の首都であることを、これら巨大遺跡は示し続けていたのだ。そして今回の筑紫土塁の出現は、歴史の真実を隠し通すことは不可能であることを改めて示したものといえよう。
 他方、人間はときに愚かである。九州王朝実在の歴史的証言者たる筑紫土塁は、こともあろうに九州王朝の末裔ともいえる当地の行政(筑紫野市)により破壊される運命となった。わたしたちは歴史の証言者(筑紫土塁)を護ることができなかった。真実を愛する後世の人々に対して、このことをわたしたちの世代は恥じねばならず、土塁を築いた古代の筑紫の人々に対して詫びなければならない。無念である。
 しかし、それでもいう。真実は頑固である。破壊された筑紫土塁になり代わって、その存在と土塁が護ろうとした九州王朝(倭国)の都、太宰府都城の真実を解明し、後世に語り継ぐべく、一冊の書籍をわたしたちは世に残した。それが本書『発見された倭京 太宰府都城と官道』である。本書には「古田史学の会」の研究者により著された「太宰府新論」とも言うべき論稿を収録した。それは従来の大和朝廷支配下の一地方都市としての「大宰府」論ではない。日本列島の代表者として紀元前から七世紀末まで中国の歴代王朝と交流した九州王朝(倭国)の首都としての太宰府の真実を明らかにするべく著された研究論文群である。
 更に、その太宰府を起点として全国に張り巡らされた官道に関する先駆的かつ秀逸の論稿も収録し得た。これら多元的古代官道研究の進展により、九州王朝研究の裾野は広がりを持ち、その権力範囲や統治機構についても立体的に把握することが可能となるであろう。
 この真実の歴史の証言である一冊を、現代と後世の古代史ファンと研究者に贈りたい。そして、「真実は頑固である」との古田武彦先生の言葉が“嘘”ではなかったことを読者は知るであろう。わたしたち多元史観・古田学派の研究者は、これからも真実に頑固であり続けたいと願っている。(平成三十年一月二八日、筆了)

〔追補〕「太宰府」の表記については、現地地名の「太宰府」と『日本書紀』の「大宰府」があるが、本書においては、どちらの表記を使用するかは各執筆者の判断に委ねた。古田学派としては、古田武彦氏の使用例に倣い、九州王朝(倭国)の都を意味する場合は「太宰府」を用いることが慣例である。


第1630話 2018/03/18

水城築造は白村江戦の前か後か(3)

 水城築造年次を考察するあたり、その築造開始年と完成年など築造期間年数についても最後に触れておきたいと思います。
 水城基底部から出土した敷粗朶は土と交互に何層も積み上げられ、その上に版築層がまた積み上げられています。こうした遺構の状況から、当初、わたしは何十年もかけて水城が築造されたと漠然と理解していました。しかし、発掘調査報告書を精査することより、水城は数年という短期間で完成したのではないかと考えるようになりました。既に「洛中洛外日記」などで紹介してきましたが、このことについて改めて説明します。

①敷粗朶は、地山の上に水城を築造するため、基底部強化を目的としての「敷粗朶工法」に使用されていた。
②平成13年の発掘調査では、発掘地の地表から2〜3.4m下位に厚さ約1.5mの積土中に11面の敷粗朶層が発見された。それは敷粗朶と積土(10cm)を交互に敷き詰めたもの。
③その統一された工法(積土幅や敷粗朶の方向)による1.5mの敷粗朶層は短期間で築造されたと考えられる。
④基底部を形成する敷粗朶層の上の積土層部分(1.4〜1.5m)の築造もそれほど長期間を必要としない。
⑤その基底部の上に形成された版築層も1年以内で完成したと考えられる。版築は梅雨や台風の大雨の時期を挟んでの工事は困難である。従って秋の収穫期を終えた農閑期に行わなければならず、翌年の梅雨の季節前に完成する必要がある。従って、版築工事は1年以内の短期間に完了したと考えざるを得ない。

 以上の諸点を考えると、水城築造は数年で完成したと考えるべきですし、それは可能と思われます。従って、築造開始は唐・新羅との開戦を目前にして、白村江戦前から始まり、白村江戦敗北の翌年に完成したと考えても問題ないと思います。(了)


第1629話 2018/03/18

水城築造は白村江戦の前か後か(2)

 水城基底部出土の敷粗朶の理化学的年代測定値からすると、水城造営年(完成年)を白村江戦後とする理解が比較的妥当であることがわかるのですが、わたしが白村江戦後とする理由で最も重視したのは『日本書紀』編纂の論理性でした。『日本書紀』には次のように水城築造が記されています。
 「筑紫国に大堤を築き水を貯へ、名づけて水城と曰う。」『日本書紀』天智三年(664)条
 『日本書紀』編纂において、近畿天皇家は自らの大義名分に沿った書き換えや削除は行うかもしれません。水城築造記事においても築造主体について九州王朝ではなく「近畿天皇家の天智」と書き換えることはあっても、その築造年次を白村江戦後へ数年ずらさなければならない理由や動機がわたしには見あたらないのです。ですから天智紀の築造年次については疑わなければならない積極的理由がありません。
 古田先生は、白村江戦後の唐軍に制圧された筑紫で水城のような巨大防衛施設を造れるはずがないということを水城築造を白村江戦以前とする根拠にされたのですが、これも厳密に考えるとあまり説得力がありません。というのも『日本書紀』天智紀によれば唐の集団二千人が最初に来倭(筑紫)したのは天智八年(669)です。従って、水城を築造したとする天智三年(664)は唐軍二千人の筑紫進駐以前であり、白村江戦敗北(663)の後に太宰府防衛のために水城を築造したとする理解は穏当なものです。すなわち白村江戦敗北後の天智三年(664)に水城築造ができないとする理解にはそもそも根拠がなかったのです。
 この件について「古田史学の会」の研究者とも意見交換していますが、今のところ賛成意見はなく、古田学派内ではわたし一人だけの極少数説です。かつ研究途上のテーマであり、わたし自身ももっと深く検討を続けるつもりです。その結果、もし間違っているとなれば、もちろんこの説は撤回します。(つづく)


第1628話 2018/03/17

斉明紀「狂心の渠」は隈ノ上川(うきは市)

 本日、「古田史学の会」関西例会がエル大阪で開催されました。谷本茂さんからは拙論「『論語』の二倍年暦」についてのご批判をいただきました。残念ながら質疑応答の時間がとれませんでしたので、次回例会でわたしから拙論の論理構造の説明と反論を行いたいと思います。
 今回の発表の中では、正木裕さんの斉明紀「狂心(たぶれごころ)の渠(みぞ)」は隈ノ上川(うきは市。くまのうえ川)とする研究に驚きました。『日本書紀』斉明紀には九州王朝の歴史記事が転用されており、「狂心の渠」記事もその一例と、古田先生は指摘されていました。その指摘を受けて、わたしは「狂心の渠」を、福岡県浮羽郡で「天の長者」が造ったと伝承されている「天の一朝堀」という巨大な堀跡(現在は埋められている)とする説を発表したことがあります(「天の長者伝承と狂心の渠」、『古田史学会報』40号所収。2000年10月)。今回の正木説では同じく現うきは市を東南から北西へ流れ、筑後川に合流する隈ノ上川を「狂心の渠」とされました。当地の有名な山北石の産地から杷木神籠石や高良山神籠石に石材を運搬するために構築された運河が隈ノ上川(「狂心の渠」)とするもので、わたしの説よりも有力な仮説と思いました。『古田史学会報』での発表が待たれます。
 3月例会の発表は次の通りでした。発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレスへ)か電話で発表申請を行ってください。

〔3月度関西例会の内容〕
①評制の展開 -堀川徹氏の論考を検証する-(八尾市・服部静尚)
②大国主の袋と土偶の頭部表現について(大山崎町・大原重雄)
③倭の国々の王(姫路市・野田利郎)
④『江嶋縁起』に見る倭国(九州)年号(相模原市・冨川ケイ子)
⑤『書紀』斉明紀の「田身嶺と狂心(たぶれごころ)の渠」の検証(川西市・正木裕)
⑥ホデリの正体(東大阪市・萩野秀公)
⑦倭人伝・投馬国はどこか(宝塚市・藤田 敦)
⑧『論語』の「二倍年暦」をめぐって(神戸市・谷本茂)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 3/18久留米大学講演会(講師派遣:正木、服部、古賀)・「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)3/23服部静尚さん「ポルトガルの宣教師が見た安土桃山時代の日本」の案内、2/23安村俊史さん(柏原市歴史資料館館長)「七世紀の難波から飛鳥への道」の報告・新入会員の紹介・『古代に真実を求めて』21集「発見された倭京 太宰府都城と官道」の発行記念講演会の準備(9/09大阪i-siteなんば、他)、5/25プレ記念セッション(森ノ宮)・東京古田会、多元的古代研究会で「八王子セミナー」企画中・6/17「古田史学の会」会員総会と記念講演会(講師:東京天文台の谷川清隆氏)・3/13和泉史談会で服部さんが講演「邪馬台国はどこだ」・「古田史学の会」関西例会会場、4月は福島区民センター、5月はドーンセンター、6〜9月はi-siteなんば・その他


第1627話 2018/03/13

水城築造は白村江戦の前か後か(1)

 「洛中洛外日記」で連載した「九州王朝の高安城」を読まれた「古田史学の会」の何名かの会員さんから、「水城の築造は白村江戦より前ではないのですか」というご質問を頂いています。古田先生から“白村江敗戦後の唐軍に制圧された筑紫で水城のような巨大防衛施設を造れるはずがない。『日本書紀』には水城築造を天智3(664)年と記されているが、実際は白村江戦以前の築造である。”との指摘がなされてからは、古田学派では水城築造を白村江戦以前とする理解が大勢となりました。わたしもそのように考えてきました。
 ところが、近年、水城の考古学発掘調査報告書を精査する機会があり、水城築造は『日本書紀』の記述通り664年としても問題なく、むしろ白村江戦以前と理解する方が困難ではないかと考えるようになったのです。そうしたわたしの意識の変化を敏感に感じ取られた「洛中洛外日記」読者から、先の質問を頂いたものと思います。そこで、わたしの水城築造年次についての見解が変化した理由について説明したいと思います。
 わたしの水城築造を白村江戦後と考えるに至った道筋は次のようなものでした。わかりやすく箇条書きで説明します。

①水城は基底部とその上の版築部、そしてそれに付随する城門や道路などからなる。その基底部から出土した敷粗朶工法の敷粗朶の炭素同位体比年代測定によれば、最上層の敷粗朶の中央値が660年である。
②その基底部の上に版築土塁が築造されていることから、水城土塁部の完成は660年+αとなる。
③さらに城門などの建築、道路の敷設を含めると全体の完成は更に遅れると思われる。
④炭素同位体比年代測定には幅や誤差が含まれるため、完成推定年も幅を持つが、白村江戦(663年)よりも後と見た方が穏当であるが、白村江戦以前の可能性もないわけではない。
⑤少なくとも、こうした理化学的年代測定による年代推定値と『日本書紀』の天智3年(664)の造営記事は矛盾しない。

 以上のように、理化学的年代測定値は『日本書紀』の記事を否定せず、むしろより整合していると考えられるのです。もちろん、測定誤差や測定年次幅があることを考えると、白村江戦以前とする古田説も成立する余地があります。(つづく)


第1626話 2018/03/12

九州王朝の高安城(6)

 『日本書紀』天智6年(667)条の記事を初見とする高安城ですが、次の記事が『日本書紀』や『続日本紀』に見えます。

①「是月(十一月)、倭国に高安城、讃吉国山田郡に屋嶋城、對馬国に金田城を築く。」天智六年(667)
②「天皇、高安嶺に登りて、議(はか)りて城を修めんとす。仍(なお)、民の疲れたるを恤(めぐ)みたまいて、止(や)めて作らず。」『日本書紀』天智八年(669)八月条
③「高安城を修(つく)りて、穀と塩とを積む。」『日本書紀』天智九年(670)二月条
④「是の日に、坂本臣財等、平石野に次(やど)れり。時に、近江軍高安城にありと聞きて登る。乃ち近江軍、財等が来たるを知りて、悉くに税倉を焚(や)きて、皆散亡す。仍(よ)りて城の中に宿りぬ。會明(あけぼの)に、西の方を臨み見れば、大津・丹比の両道より、軍衆多(さわ)に至る。顕(あきらか)に旗幟見ゆ。」『日本書紀』天武元年(672)七月条
⑤「天皇、高安城に幸(いでま)す。」『日本書紀』天武四年(676)二月条
⑥「天皇、高安城に幸す。」『日本書紀』持統三年(689)十月条
⑦「高安城を修理す。」『続日本紀』文武二年(698)八月条
⑧「高安城を修理す。」『続日本紀』文武三年(699)九月条
⑨「高安城を廃(や)めて、その舎屋、雑の儲物を大倭国と河内国の二国に移し貯える。」『続日本紀』大宝元年(701)八月条
⑩「河内国の高安烽を廃め、始めて高見烽と大倭国の春日烽とを置き、もって平城に通せしむ。」『続日本紀』和銅五年(712)正月条
⑪「天皇、高安城へ行幸す。」『続日本紀』和銅五年(712)八月条

 以上の高安城関係記事によれば、白村江戦(663)の敗北を受けて、近江朝にいた天智により築城され、九州王朝から大和朝廷へ王朝交代が起こった大宝元年(701)に廃城になったことがわかります。こうした築城と廃城記事の年次が正しければ、次のことが推測できます。

①九州王朝が難波に前期難波宮(副都)を造営したとき、海上監視のための施設を高安山に造営しなかった。
②このことから、三方が海や湖で囲まれている前期難波宮の地勢のみで副都防衛は可能と九州王朝は判断していたと考えられる。
③すなわち、前期難波宮では瀬戸内海側からの敵勢力(唐・新羅)侵入を現実的脅威とは感じていなかった。あるいは前期難波宮造営当時(白雉年間、伊勢王の時代)は唐や新羅との対決政策は採っていなかった。
④白村江戦の敗北後に金田城・屋嶋城・高安城を築造したとあることから、その時期(白鳳年間、薩夜麻の時代)は唐・新羅との対決姿勢へと九州王朝は方針転換していたと考えられる。この白雉年間から白鳳年間にわたる九州王朝(倭国)の外交方針(対唐政策)の転換については正木裕さんが既に指摘されている(注)。
⑤文武天皇の時代になっても高安城は修理されていたが、王朝交代直後の大宝元年に廃城とされていることから、近畿天皇家は高安城による海上監視の必要性がないと判断したと考えられる。しかも、前期難波宮は朱鳥元年(686)に焼失しており、守るべき「副都」もこのとき難波には無かった。
⑥廃城後の高安山には「烽」が置かれていたが、それも廃止され、他の「烽」に置き換わった。このことから、海上監視よりも連絡網としての「烽」で藤原京防衛は事足りると大和朝廷は判断したことがわかる。

 以上のような推論が可能ですが、そうであれば高安城は九州王朝系近江朝により築城され、701年に王朝交代した大和朝廷により廃城されたとする理解が成立します。これ以外の理解も可能かもしれませんが、現時点ではこのような結論に至りました。(了)

(注)正木裕「王朝交代 倭国から日本国へ (2)白村江敗戦への道」『多元』一四四号(二〇一八年三月)


第1625話 2018/03/09

九州王朝の高安城(5)

 「九州王朝の高安城」と銘打った本テーマを文献史学の視点から深く考察してみますと、新たな問題点が見えてきます。その一つは高安城の初見が『日本書紀』天智6年(667)条の次の記事であることです。

 「是月(十一月)、倭国に高安城、讃吉国山田郡に屋嶋城、對馬国に金田城を築く。」

 通説では白村江戦(663年)の敗北により、大和朝廷が防衛の為に高安城など三城を築城したとされています。九州王朝説によれば九州王朝(倭国)が自国防衛のために築城したと理解するのですが、従来の九州王朝説では首都太宰府防衛とは無関係な屋嶋城や高安城の築城はほとんど取り上げられてきませんでした。ところが、わたしの前期難波宮九州王朝副都説に基づき、屋嶋城や高安城も九州王朝による難波副都防衛のための九州王朝による築城とする正木説が登場したわけです。
 ここで着目すべきは、天智6年(667)という築城年次です。近年、正木さんが発表された「九州王朝系近江朝廷」説によれば、このとき九州王朝の天子薩夜麻は唐に囚われており、高安城築城の翌年(668)に天智は九州王朝(倭国)の姫と思われる倭姫王を皇后に迎え、九州王朝の権威を継承した九州王朝系近江朝廷の天皇に即位します。そうすると、高安城の築城は天智によるものとなり、それは難波副都の防衛にとどまらず、近江「新都」の防衛も間接的に兼ねているのではないかと思われるのです。
 その結果、高安城築城主体について、太宰府(倭京)を首都とする九州王朝(倭国)とするよりも、九州王朝系近江朝廷(日本国)の天智によるものではないかという結論に至ります。そしてこの論理性は、同じく天智紀に造営記事が見える水城や大野城などの造営主体についても近江朝の天智ではないかとする可能性をうかがわせるのです。(つづく)


第1624話 2018/03/09

九州王朝の高安城(4)

 高安城が難波副都防衛のための、大阪平野・大阪湾から明石海峡まで見通せる「監視施設(物見櫓)」とする仮説を支持する史料根拠があります。『日本書紀』天武紀に見える次の記事です。

 「是の日に、坂本臣財等、平石野に次(やど)れり。時に、近江軍高安城にありと聞きて登る。乃ち近江軍、財等が来たるを知りて、悉くに税倉を焚(や)きて、皆散亡す。仍(よ)りて城の中に宿りぬ。會明(あけぼの)に、西の方を臨み見れば、大津・丹比の両道より、軍衆多(さわ)に至る。顕(あきらか)に旗幟見ゆ。」『日本書紀』天武元年(672)七月条

 「壬申の乱」の一場面ですが、高安城を制圧した天武軍(坂本臣財ら)が翌朝に大津道と丹比道から進軍する近江朝軍を発見したことが記されています。この記事から高安城が「監視施設(物見櫓)」の機能を有する位置にあることがわかります。
 なお、この記事には続きがあり、進軍する近江朝軍に対して坂本臣財は高安城を下山して交戦しますが、「衆少なくして距(ふせ)ぐこと能わず」退いたと記されています。すなわち、高安城には大軍がいなかった、宿営できなかったようです。せいぜい「守備隊」程度の兵士が高安城に「見張り番」として、通常は置かれていたと推定できます。この推定が正しければ、高安城は、大規模な大野城や「神籠石」山城とは目的が異なっていることになります。恐らく高安城の性格は難波副都の地勢に対応したものと思われます。
 拙論「『要衝の都』前期難波宮」(『古田史学会報』一三三号)にて詳述しましたが、九州王朝の副都として前期難波宮が造営された上町台地は、後に摂津石山本願寺や大阪城が置かれたように、歴史的にも有名な要衝の地です。三方を海や河内湖に囲まれているため、南側の防御を固めればよく、しかも上町台地北端の最高地付近に造営された前期難波宮は、周囲からその巨大な容貌を見上げる位置にあり、王朝の権威を見せつけるのにも適しています。
 したがって、このような難波副都防衛のために高安城に「見張り番」を常駐させれば、瀬戸内海からの海上船団や南から難波大道を北上する集団を発見することが可能です。すなわち、三方を海や湖で囲まれた難波副都にとって必須である南の守りの一環として高安城を築城したと考えることができるのです。(つづく)


第1623話 2018/03/08

九州王朝の高安城(3)

 『日本書紀』天智6年(667)条に見える高安城が九州王朝の難波副都防衛を目的として築城されたのであれば、太宰府を防衛する大野城や阿志岐山城のように、神籠石列石や百間石垣、あるいは土塁が出土してほしいところですが、高安山付近には今のところそうした遺構は発見されていません。現在まで多くの地元研究者らにより探索が続けられてきたにもかかわらず、倉庫跡の礎石しか発見されていないことから、高安城の性格は大野城や阿志岐山城等とは異なるのかもしれません。
 九州王朝における典型的な山城に「神籠石」山城があります。その特徴は次のような点にあり、首都(太宰府)や国府の近傍、交通の要衝に位置し、軍事要塞としてだけではなく、「逃げ城」としての機能を併せ持っています。

〔神籠石山城の特徴〕
①一段列石により山頂や中腹を囲繞している。
②その内部に水源を持ち、その排水施設として水門が列石に付随している。
③内部から倉庫遺跡が発見される例が多い。
④『日本書紀』など近畿天皇家側史書に、その存在が記載されていない。

 「神籠石」山城ではありませんが、大野城は②③の特徴を持ち、国内最大というその規模から、太宰府の人々(都民)をも収容することを目的としていると思われます。
 ところが、こうした「神籠石」山城の特徴を高安城は有していないのではないでしょうか。そもそも、難波副都からは距離があり、数万人ともいわれる「副都民」が大挙して避難できる場所とは考えにくいのです。したがって、高安城の目的は要塞的軍事施設というよりも、正木裕さんが指摘されたように、「高安の城は生駒山地の高安山(標高四八七m)の頂にあり大阪平野・大阪湾から明石海峡まで見通せる。
 これは唐・新羅が『筑紫から瀬戸内を超え、難波まで攻め込んでくる』ことを想定した防衛施設」であり、「逃げ城」というよりも「監視施設(物見櫓)」だったのではないでしょうか。従って、防御のための城壁や籠城のための水源も必要なかったので、それらの遺構が発見されていないのではないかと思われるのです。(つづく)