第3166話 2023/11/27

飛鳥宮内郭から長大な塀跡出土(2)

 飛鳥宮跡は三期の遺構からなっており、今回のⅠ期に属する長大な塀跡の出土を知り、〝やはりあったのか〟とわたしは思いました。Ⅰ期は舒明天皇の飛鳥岡本宮と考えられており、七世紀前半に遡る王宮遺構となるのですが、これまでは飛鳥宮跡からはあまり出土していませんでした(上層のⅡ期・Ⅲ期の遺跡保存のため、下層のⅠ期遺構の調査が進んでいない)。今回の出土は、文献史学や金石文の解釈にも影響を及ぼす、重要な発見です。このことについて説明します。

 報道やその後入手した橿原考古学研究所の報告にある、塀跡が45m以上という長大で、その向きが南北正方位ではなく、東に対して北に25°の振れを持っている点に、わたしは注目しています。これは、Ⅰ期の宮域が広域であり、当地の権力者の宮殿の規模にふさわしいことと、南北正方位ではないことは七世紀前半の特徴を示しています。ちなみにⅡ期・Ⅲ期の遺構は南北正方位であり、七世紀中頃から後半の特徴を示しています。

 こうした出土事実から、この塀跡を舒明天皇の飛鳥岡本宮に関わるものと判断されています。また、柱を据える穴は一辺1m以上あり、重要な建物などを区画する堅牢な塀跡とみられることも、この判断の根拠の一つとなっているようです。更に、柱穴には焼けた土や炭化物(灰)が残り、飛鳥岡本宮が636年に火災で焼けたという『日本書紀』の記述(注)と対応していることも、こうした判断を裏付けています。

 文献史学の視点からしても、法隆寺火災記事(670年)、前期難波宮火災記事(686年)と同様に、焼けてもいない飛鳥岡本宮が焼けたなどと『日本書紀』編者が記す必要性はなく、『日本書紀』の火災記事と今回の出土事実が一致していることは重要です。なぜなら、七世紀前半の飛鳥宮に関する『日本書紀』の記事の信憑性が、低くはないことを示唆するからです。

 木下正史さん(東京学芸大名誉教授・考古学)が、「舒明天皇の飛鳥岡本宮はこれまで状況が分からなかったが、長大な塀跡が見つかったことで宮がかなり広範囲に及んでいたことが考えられる。塀全体に焼けた痕跡があり、宮の大部分が焼けるほどの火災だったのではないか」とするのも、無理のない解釈と思われます。(つづく)

(注)『日本書紀』舒明八年条に次の記事が見える。
「六月、岡本宮に災(ひつ)けり。天皇、遷(うつ)りて田中宮に居(ま)します。」


第3165話 2023/11/26

飛鳥宮内郭から長大な塀跡出土(1)

 「飛鳥からすごい遺構が出た」との一報に接したのは、多元的古代研究会主催の古代史研究会(2023.11.24)でのこと。司会の藤田隆一さんから教えて頂いたものです。その後、WEBで調べたところ、産経ニュース(2023/11/22)が最も詳しく報道されていたようですので、要約して、転載します。

【以下、要約して転載】
2023/11/22 産経ニュース
飛鳥で長大な塀跡発掘
舒明天皇の「飛鳥岡本宮」か
歴代天皇の宮も一括で出土

 飛鳥時代に歴代天皇の宮が相次いで築かれた飛鳥宮跡で、7世紀前半の長さ45mにわたる塀跡が見つかり、橿原考古学研究所が22日、発表した。舒明天皇が政治を行った「飛鳥岡本宮」の内部を区切る塀と判明。同宮で大型の遺構が見つかったのは初めて。皇極天皇の「飛鳥板蓋宮」や天武・持統天皇の「飛鳥浄御原宮」に関わる大型建物跡なども出土。天皇の代替わりごとに建て替えられた宮が一括して見つかるのは、極めて珍しい。

 飛鳥岡本宮に関わる塀跡は、柱の穴が南西から北東へ長さ45mにわたって延びているのを確認。柱を据える穴は一辺1m以上あり、重要な建物などを区画する堅牢な塀跡とみられる。同宮は、西側を流れる飛鳥川の地形に合わせて、東西軸に対して北へ20度ほど斜めに設計され、今回の塀跡も同じ方向に延びていた(注)。柱穴には焼けた土や灰が残り、同宮が636年に火災で焼けたという日本書紀の記述と合致した。

 飛鳥宮跡は、飛鳥岡本宮(Ⅰ期)、蘇我入鹿が暗殺された乙巳の変(645年)の舞台の飛鳥板蓋宮(Ⅱ期)、斉明・天智天皇の後飛鳥岡本宮、同宮を拡張した飛鳥浄御原宮(Ⅲ期)がほぼ同じ場所に築かれたのが特徴。この一帯は昭和35年から約190回にわたって発掘されてきたが、Ⅰ~Ⅲ期の宮の遺構が同時に見つかる例はほとんどなかった。飛鳥板蓋宮以降は、建物がすべて南北方向に並ぶように統一されており、今回の発掘では、飛鳥板蓋宮に設けられた石組み溝(長さ6m)、飛鳥浄御原宮に関わる大型建物跡(東西21m、南北6m)などが出土した。

 木下正史・東京学芸大名誉教授(考古学)の話 「舒明天皇の飛鳥岡本宮はこれまで状況が分からなかったが、長大な塀跡が見つかったことで宮がかなり広範囲に及んでいたことが考えられる。塀全体に焼けた痕跡があり、宮の大部分が焼けるほどの火災だったのではないか」
【転載終わり】

(注)橿原考古学研究所の報告書には、「柱筋は東に対して北に25°の振れを持っている」とある。


第3164話 2023/11/24

深津栄美さんの思い出と遺品

 多元的古代研究会の会誌『多元』178号に深津栄美さんの訃報が掲載されていました。古田先生のご紹介で深津さんとは昭和薬科大学で一度だけお会いしたことがあります。また、『古田史学会報』に小説「彩神(カリスマ)」を十年にわたり連載していただきました(3~62号)。同連載は古田先生のお薦めによるものでした。論文だけではなく、九州王朝説をテーマにした読み物も掲載するようにとのことで、執筆者として深津さんを推薦されました。そうした御縁により、度々、お手紙や、春にはご近所の桜の写真を送っていただきました。
昨年十月には、古田先生との初めての出会いなどが記された日記二冊(「1989~91」、「平成3年~5年」)と「古田先生聴講記① 平成3年4月~5年12月」一冊が送られてきて、それらは深津さんの遺品となりました。おそらく、自らの死期を悟り、わたしに託したのではないかと思っています。

 訃報に接し、遺品の整理をしていましたら、平成3年(1991)8月に開催された〝「邪馬台国」徹底論争 ―邪馬壹国問題を起点として― 古代史討論シンポジウム〟の案内ポスター(B4版)と同「趣意書」がありました。同シンポジウムは古田先生(東方史学会)が主催したもので、資金集めから企画立案、関係者との交渉など、先生が押し進められたものです。「趣意書」はわたしが持っていなかったもので、今では貴重な資料です。古田先生や深津さんのご遺志に応えることにもなると思いますので、ここに同文の一部を抜粋し、その要旨を紹介します。

 「邪馬台国」徹底論争 古代史討論シンポジウム 趣意書(抜粋)

 わが国の先祖の歴史は晦冥の中にある。――研究の途次、そのように感ずること、稀ではありません。
その原因の一焦点が、いわゆる「邪馬台国」問題にあること、周知の通りです。近畿説・九州説その他各説競いながら、なお、日本国民の歴史教養の一致点を見出せずにいること、後代に対して、わたしたちの時代の責務を果たしていると、敢然として言いうるでしょうか。
〔中略〕

 けれども、遺憾なことに、歴史学界の名において、純学術的に当問題を一定期間、討議する、そういう機会を見なくなって、すでに久しいのです。
かつて故長沼賢海氏(九州大学名誉教授)は、次のように指摘されました。
「昔、志賀島出土の金印について、偽作説がでた。そこで真偽対立をめぐって大学内外の学者、一般の書家、金工細工師の方々をお招きして、朝から晩まで連日にわたって討論した。そして真作への帰趨を得たのである。今、なぜ、「邪馬台国」についても、それをやらぬか」

 九十歳の明治人の気迫あふれる叱咤とお聞きしました。〔中略〕立論の正面きっての対立を尊び、在官・在野を一切問わず、その身分(職業・性、等)を片鱗も区別せず、連日徹底した討論を行い、記録して永遠の後世に残す。この切実な企画を、ささやかな一隅の力にすぎませんが、敢えて今回も行うことを決意致しました。〔後略〕

 平成三年二月十五日
昭和薬科大学文化史研究室(東方史学会)
教授 古田武彦
助手 原田 実


第3163話 2023/11/21

三十年前の論稿「二つの日本国」 (14)

 「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」から、「七、結び」を転載します。本稿最後の部分になります。本稿は横田幸男さん(「古田史学の会」インターネット担当)により、「古田史学の会」のアーカイブに収録されることと思います。拙稿に限らず、古田学派の論文はデジタルアーカイブとして後世に伝えたいと願っています。

 【以下転載】
七、結び

 以上、本稿において私は『三国史記』の記述を信じて、そこから得た日本国=九州王朝という視点から、他史料への読解を試みた。かかる方法が真に有効かどうか、検証すべき論点はまだ残されていよう。たとえば『三国史記』新羅本紀そのものの検証もその一つかもしれない。しかし、私は次のような理由から新羅本紀の信憑性は低くないと考えている。すなわち、新羅と九州王朝は永く交戦状態にあり、互いに相手国に対する情報の正否は国家にとって死活問題であったはずだ。この要求、相手国の正確な情報収集は、隣国であるがゆえに緊急かつ重要であり、この点においては中国以上の切実さを帯びていたこと、これを疑えないのである。更に細かくこの関係を新羅側から見れば、大和なる近畿天皇家よりも九州王朝こそ、地理的にも直面する最大の宿敵であり国難の根源であった。そうした意識は『三国史記』『三国遺事』の随所に見られる。一例を示そう。

 海東の名賢安弘が撰せる東都成立記に云わく。新羅の第二十七代は、女王が主と為る。道有りといえども威なし。九韓、侵労す。若し竜宮の南の皇竜寺に九層の塔を建てれば、則ち隣国の災を鎮む可からん。第一の層は日本、第二の層は中華、第三の層は呉越。〈『三国遺事』塔像第四、皇竜寺九層塔条〉

 ここでいう女王とは善徳女王(六三二~六四六)である。この時代、新羅にとって日本はアジアの大国中国よりも国家の災いとされていたのであろう。こうした認識が、近畿天皇家が列島の代表者となった八世紀以後においても、九州王朝を自らの史書に記し続けた遠因となったのではなかったか。してみると、『三国史記』と『旧唐書』における日本国の実態の違いは、その国がおかれた切実な状況の反映であったとも言える。かかる理由において、わたしは新羅本紀における倭国・日本国記事、その史実性を明確な根拠なくして拒否してはならないと考えたのである。
史料はその史料の文脈で理解すること、この格率こそ、本稿の因ってたった規範であったが、その帰結として本稿で主張したところを再度記す。

 ①『三国史記』に見える倭国と日本国は同一国である。
②その国号変更時期は同書の記すとおり六七〇年であり、これを倭国(九州王朝)から日本国(近畿天皇家)への中心権力交替記事と見なすことは不当である。
③『三国史記』によれば八~九世紀においても九州王朝(日本国)は新羅にとって無視しえぬ国家として存在していたと考えられる。
④ ③の事実を認めなければ理解できない記事が内外の史料に存在すること。

 以上のとおりであるが、同時に、八~九世紀における九州王朝が「国家」の体をなしていたかどうか、近畿天皇家による九州支配との二重権力構造をどのように表現あるいは理解すべかきなど、なお検討を要することが少なくない。更に、『続日本紀』における新羅との国交記事などの分析は今後の課題として残されたままである。この様に弱点を含んだ拙稿ではあるが、未だ古田武彦氏も深く論究されていない未踏の研究分野でもあることから、あえて一試論として蛮勇をもって記した次第である。
「孤立を恐れず、論理に従いて悔いず。一寸の権威化も喜ばず」とは古田武彦氏の言である。思うに、この言葉に導かれて本稿は成立し得た。学恩に感謝しつつ筆を擱くこととする。(おわり)
【転載おわり】


第3162話 2023/11/20

三十年前の論稿「二つの日本国」 (13)

 「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」から、「六、九州王朝の末裔たち」の後半部分を転載します。『八幡宇佐宮御託宣集』に見える「筑紫九国の王・阿知根王」説話を紹介し、八世紀における九州王朝の王ではないかとしました。

【以下転載】
六、九州王朝の末裔たち(後半)

 次に国内史料に眼を転じてみよう。『八幡宇佐宮御託宣集』(神吽編、一三一三年成立)第十四巻に、朱雀天皇承平七年(九三七)の託宣中に次のような記事がある。

昔、神亀五年(七二八)より始まりて、筑紫九国を領せる王有りき。阿知根王と云う。

 そしてこの後に、神がかり的な説話が記された後、編者による解説が次のように記されている。

私に云う。聖武天皇神亀五年、大宰府少貳藤原廣継、軍兵一万五千人を率いて、国王を自称し、九州を押領、謀叛をおこす。(中略)この筑紫九国を領する王、阿知根王は廣継か。彼の託宣とこの廣継とは時代は同じ。故に之を載す。之を尋ぬべし。

 『八幡宇佐宮御託宣集』には、九三七年の託宣中に九州の王、阿知根王の存在が記され、同書編纂時の十四世紀ではその実態が理解できず、編者の私見として藤原廣継のことではないかと解説を加えているのだ。そして、その根拠として挙げているのは、ともに聖武天皇の時代であるという点だ。しかし、編者は自信がないらしく、率直に「之を尋ぬべし」と困惑した様子を記している。
編者の困惑は当然である。世に言う「広嗣の乱」は天平十二年(七四〇)のことであり、託宣に記された神亀五年(七二八)とは年次が一致しないのだ。また、阿知根王の説話に登場する人物に、酒井常基・酒井有基・宇佐千基・三高朝臣左大臣などが見えるが、広嗣の乱においてはかかる人物の名前は見えない。こうしたことからも、阿知根王は藤原広嗣とは別人としなければならない。とすれば、筑紫九国の王とされた阿知根も九州王朝の王である可能性は少なくないと思われる。

 このように、九州王朝が八~九世紀においても存続していたとする視点からすれば、その痕跡や伝承が中国や朝鮮、そして九州内に残っていたとしても何ら不思議ではない。これらの厳密な分析、そして更なる史料探索は今後の課題とするが、我々の眼前にありながら、そのことに気づかないということも少なくないのではなかろうか。本稿にて提起した「二つの日本国」という概念の導入により、多くの史料が真実の輝きを増して、我々に訴えかけてくる、そのように思われてならない。(つづく)
【転載おわり】


第3161話 2023/11/19

藤原京と太宰府の朱雀大路

 八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2023)での発表時間が30分でしたので、藤原京造営主体についての研究結果を詳述できませんでした。そこで、「洛中洛外日記」で説明することにします。

 セッションⅡ〝遺構に見る「倭国から日本国へ」〟の司会をされた橘高修さん(東京古田会・副会長)のご配慮により、論点整理が事前に届き、問題意識を共有することができました。提示された三つの論点(注①)についての私見を橘高さんに返信しました。なかでも《論点Ⅲ》はパネルディスカッションでの中心テーマでしたので、わたしも再検討を続け、下記のような私見(1)(2)(3)をまとめました。

《論点Ⅲ》先行条坊は何のために造られたか?造ったのは倭国か天武かそれとも・・?
(1) 藤原京整地層出土土器編年(須恵器坏B出土)と藤原宮下層出土の井戸ヒノキ板の年輪年代測定(682年伐採)などから天武期の造営とするのが最有力。
(2) 飛鳥池出土の「天皇」・(天武の子供たち)「大津皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」・「詔」木簡により、天皇と皇子を称し、「詔」を発していた天武ら(近畿天皇家、後の大和朝廷)による造営とするのが妥当。その他の勢力によるとできるエビデンスはない。
(3) これらの史料事実に基づけば、王朝交代の準備として天武・持統らが全国統治のために造営したとする理解が最も穏当である。

 出土事実に基づく限り、以上の考察が最有力と思われますが、もう一つ重要な考古学的エビデンスとして〝朱雀大路の幅〟がありました。「洛中洛外日記」(注②)でも指摘しましたが、難波京・太宰府(倭京)・藤原京・平城京の朱雀大路幅についての比較・考察です。

【前期難波宮道路幅】(652年創建) 側溝芯々間距離
▷朱雀大路幅 約33m ※時期(前期か後期か)についてはまだ絞り込めていないようなので、今のところ参考値に留まるが、前期難波宮の時代に朱雀大路は存在していたと考えられている。
【大宰府政庁Ⅱ期道路幅】(670年頃創建。通説は八世紀初頭)
▷朱雀大路(路面幅)約36m (側溝芯々間)約37.8m
【藤原京道路幅】(694年遷都) 側溝芯々間距離
▷朱雀大路 24m
【平城京道路幅】(710年遷都)
▷朱雀大路 約75m

 この四つの都城の朱雀大路を比較すると、藤原京は難波京よりも太宰府政庁Ⅱ期よりも規模が小さいことが注目されます。これは何とも説明しにくい出土事実です。すなわち、九州王朝の東西の都城(難波京・太宰府倭京)よりも小さいことは、701年の王朝交代に先だって造営された藤原京が、天武・持統ら大和朝廷のために造営されたとしても、あるいは九州王朝の天子のために造営されたとしても、その理由(動機)が説明しにくいのです。

 今のところ、わたしは次のように推察しています。天武らが造営した藤原京は、王朝交代以前(九州王朝の時代)の王宮であったため、九州王朝の天子の王都よりも朱雀大路を小規模にせざるを得なかったが、王朝交代後に造営した平城京では、誰はばかることなく最大規模(太宰府の二倍)の朱雀大路を造営したのではないでしょうか。他に、もっと良い推察が可能かもしれませんので、断定は控えますが、九州王朝が自らの天子のために藤原京を造営したとする仮説では、この朱雀大路がかなり小規模という出土事実の説明が困難なように思います。ちなみに、長谷田土壇のある右郭二坊大路の幅は約16mであり、朱雀大路(24m)よりも更に小規模です。

(注)
①橘高氏からは次の三点が提示された。
《論点Ⅰ》7世紀前半における倭国と日本国の関係:従属関係か並列関係か
《論点Ⅱ》倭国の近畿進出はあったか? あったとすればいつ頃か?
《論点Ⅲ》先行条坊は何のために造られたか? 造ったのは倭国か天武かそれとも・・?
②古賀達也「洛中洛外日記」3138話(2023/10/17)〝七世紀の都城の朱雀大路の幅〟

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8,古代史セミナー2023セッション Ⅱ
遺構に見る「倭国から日本国へ」 次第 古賀達也
 
解説

https://www.youtube.com/watch?v=-CtvQ0eC8MA

このYouTube動画のみ、アドレスの「限定公開」です。


第3160話 2023/11/18

初めての関西例会の司会

 本日、浪速区民センターで「古田史学の会」関西例会が開催されました。司会担当(リモート参加)の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)がお仕事で出張中なので、わたしが代役を務めました。「古田史学の会」関西例会は30年の歴史を持ちますが、わたしが司会を担当したのは初めてのように思います。次回、12月例会の会場は東淀川区民会館です。

 今回は慣れない司会に集中するため、研究発表は遠慮しました。それに代えて、先週参加した八王子セミナーについて少々紹介しました。一つは、橘高修さん(東京古田会・副会長)が、パネルディスカッションの論点整理ために事前に提示された「タイムテーブル」記載の論点に対する、わたしの見解の紹介(注①)。もう一つは千葉県からセミナーに初参加されたKさんの挨拶を紹介しました。

 Kさんは「古田史学の会」の新会員で、ホームページを見て入会されたようです。初参加者の〝自己紹介・挨拶コーナー〟で、Kさんは「会場参加者が老人ばかりで若い人がいない。わたしは中学生の家庭教師もしているが、その子が古代史(古田説)に興味をもってくれており、〝試験の回答には書いてはいけない〟と断って教えています。その子が高校生になったら二人で八王子セミナーに参加します。」と述べられ、参加者から拍手がおくられました。

 今回の発表で注目されたのが、大原さんによる九州年号を持つ当麻寺縁起の紹介でした。大原さんの研究によれば、当麻寺(奈良県葛城市)の前身寺院の創建を、推古の時代の定光二年とする史料があり、この「定光二年」は九州年号の「定居二年」((612年))とのこと。そうであれば、『二中歴』に見える倭京二年(619年)の難波天王寺の創建よりも早く、「当麻寺」が九州王朝により創建された可能性をも示すことから、注目すべきものと思われました。なお、定居二年と言えば、泉佐野市日根野慈眼院所蔵の棟札冒頭に記された九州年号「定居二年(612年)」における当地への新羅国太子「修明正覚王」渡来伝承が思い起こされます(注②)。

 11月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔11月度関西例会の内容〕
①裴世清は十余国を陸行した (京都市・岡下英男)
②大国主譜(二)と大年神譜 (大阪市・西井健一郎)
③西井氏の「筑紫後期王朝説への疑問」に答える(1) (八尾市・満田正賢)
④続「倭京」と多利思北孤 倭(ワ)王朝の列島制覇戦略 (東大阪市・萩野秀公)
⑤「邪靡堆(ヤビタイ)」とは何か 唐の李賢の証言 (姫路市・野田利郎)
⑥當麻寺の年代 (大山崎町・大原重雄)
⑦鍵穴を通る神の説話の謎 (大山崎町・大原重雄)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
12/16(土) 会場:東淀川区民会館。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3157話(2023/11/11)〝八王子セミナー・セッションⅡの論点整理〟
②同「洛中洛外日記」2796話(2022/07/24)〝慈眼院「定居二年」棟札の紹介〟
同「洛中洛外日記」2797話(2022/07/26)〝慈眼院「定居二年」棟札の古代史〟
同「洛中洛外日記」2798話(2022/07/29)〝後代成立「九州年号棟札」の論理〟
同「蝦夷国への仏教東流伝承 ―羽黒山「勝照四年」棟札の証言―」『古田史学会報』173号、2022年。

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古田史学の会浪速区民センター第5会議室 2023.11.18

11月度関西例会発表一覧(ファイル・参照動画)

ファイル公開は古賀達也のみです。 他はYouTube公開動画のみです。


1,裴世清は十余国を陸行した (京都市・岡下英男)
岡下英男@裴世清は十余国を陸行した231118@古田史学会関西例会

https://www.youtube.com/watch?v=Rozs26ZEdTw

2,大国主譜(二)と大年神譜 (大阪市・西井健一郎)

西井健一郎@大国主譜(二)と大年神譜231118@古田史学会関西例会

https://www.youtube.com/watch?v=zU_6W7LokhQ

3,西井氏の「筑紫後期王朝説への疑問」に答える() (八尾市・満田正賢)

満田正賢@西井氏の「筑紫後期王朝説への疑問」に答える(1) 231118@古田史学会関西例会

https://www.youtube.com/watch?v=YMLr1rxfy-A

4,続「倭京」と多利思北孤 倭()王朝の列島制覇戦略 (東大阪市・萩野秀公)

萩野秀公@続「倭京」と多利思北孤 — 倭()王朝の列島制覇戦略231118@古田史学会関西例会

https://www.youtube.com/watch?v=R8Bwu8ygfEw

5,「邪靡堆(ヤビタイ)」とは何か — 唐の李賢の証言 (姫路市・野田利郎)

野田利郎@「邪靡堆(ヤビタイ)」とは何か 唐の李賢の証言231118@古田史学会関西例会

https://www.youtube.com/watch?v=wLBOfnaGr0I

6,當麻寺の年代 (大山崎町・大原重雄)

7,當麻寺など見学・鍵穴を通る神の説話の謎 (大山崎町・大原重雄)

大原重雄@當麻寺の年代・鍵穴を通る神の説話の謎231118@古田史学会関西例会

https://www.youtube.com/watch?v=d6ENs4SriHY

8,古代史セミナー2023セッション Ⅱ
遺構に見る「倭国から日本国へ」 次第 古賀達也
 
解説

https://www.youtube.com/watch?v=-CtvQ0eC8MA

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第3159話 2023/11/13

三十年前の論稿「二つの日本国」 (12)

 「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」から、「六、九州王朝の末裔たち」の前半部分を転載します。国外史料(『旧唐書』『三国遺事』など)に見える謎の日本国王記事を紹介しました。

 【以下転載】
六、九州王朝の末裔たち(前半)

 『旧唐書』本紀には日本国に関して不思議な記事が二つある。
①日本国王幷妻還蕃、賜物遺之。〈順宗貞元二一年(八〇五)二月条〉
②日本国王子入朝貢方物。王子善碁、帝令待詔顧師言與之對手。〈宣宗大中二年(八四八)三月条〉

 ①は日本国王夫妻の帰国記事、②は日本国王子の来朝記事だが、ともに日本側史料には対応する人物、記事は見えない。従来これらの記事はどのように学界で扱われてきたのだろうか。管見では②の記事について、貞観四年(唐咸通三年、八六二)に入唐した真如親王とする説(宮崎市定氏)や、新羅人とする説(池田温氏)などが見受けられる。しかしながら、いずれの説も、年次が違っていたり、日本国王子を新羅人としたりで、およそ万人を首肯させうる論証とは言い難いようだ。なお、①を本格的に論究した論文には未だ探しえていない。

 両記事は『新唐書』には見えないが、②は『旧唐書』の他に『杜陽雑編』(九世紀末成立)、『冊府元亀』(十一世紀初頭成立)、その他にも記載されており、かなり注目をあびた事件であったようだ。にもかかわらず、近畿天皇家にこれに対応する伝承がないのは、どういうわけか。『旧唐書』の記事なのだから、この場合の日本国は近畿天皇家とするのが古田説の立場であるが、八世紀以後の二つの日本国という概念を援用できれば、これに二例の日本国記事を九州王朝の国王夫妻と王子のことと理解することが一応可能である。しかし史料批判上、こうした方法が許されるのかという問題もあるので、一試論として提起するにとどめておきたい。

 次に紹介するのは朝鮮半島側の文献『三国遺事』にある、これも謎とされる日本国記事である。

 貞元二年丙寅(七八六)十月十一日、日本王文慶{日本帝紀を按ずるに、第五十五主は文徳王なり。疑うらくは是れか。余に文慶なし。或る本に云わく。是の王の太子なりと。}、兵を挙げて新羅を伐たんと欲す。新羅に万波息笛有りと聞きて、兵を退かせ、金五十両を以て、使を遣わして、其の笛を請えり。〈紀異第二、元聖大王条〉 ※{ }内は細注。

 七八六年は桓武天皇の時代であり、文慶などという天皇は近畿天皇家にはいない。そこで『三国遺事』の編者も困ったらしく、細注にて二つの説を記している。一つは五十五代文徳天皇のことではないか。もう一つは或る本の説として文徳天皇の太子ではないか、という二説だ。しかし、これらいずれも否であることは明白だ。文徳天皇の在位は八五〇年から八五八年であり、時代的に一致しない。王子としても文慶という名は見えない(是の王を桓武とすれば、その時の皇太子は安殿親王、後の平城天皇でこれも文慶ではない。)
したがって、この文慶王は九州王朝の王と見るべきではあるまいか。となれば、筑紫の君薩夜麻以来、歴史の表舞台から姿を消した九州王朝の王の名前が一人明らかとなったわけである。(つづく)
【転載おわり】


第3158話 2023/11/12

八王子セミナー、深夜の編集会議

 昨日の午後から、待望の八王子セミナーに参加しました。特別講演(若井敏明さん)やその他の発表については別途紹介したいと思います。

 当日のイベントが終わった午後九時半から、わたしの部屋に集まり〝深夜の編集会議〟を開催しました。来春、八幡書店から発行予定の『東日流外三郡誌の逆襲』の企画会議で、安彦克己さん(東京古田会・会長)、皆川恵子さん(東京古田会・松山市)、冨川ケイ子さん(古田史学の会・相模原市)とわたしの四名で、企画コンセプトや収録論文、追加テーマ、2冊目の企画方針などについて話し合いました。夜遅くまで意見を出し合い、その結論として「これはきっと面白い本になる」と全員が確信しました。この企画案を明日八幡書店に提案します。若干の変更はあるかもしれませんが、その概要を紹介します。

【タイトル案】
東日流外三郡誌の逆襲

【構成案】
Ⅰ 序   ※執筆者肩書きとタイトルは仮りのもの。
○東日流外三郡誌とは何か 古田史学の会 代表 古賀達也
○和田家文書から見える世界 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
○和田家文書デジタルアーカイブへの招待 多元的古代研究会 藤田隆一
○和田家文書を伝えた人々 秋田孝季集史研究会 会長 竹田侑子
○東日流の新時代を迎えて 弘前市議会議員 石岡ちづ子
○東日流外三郡誌の逆襲 八幡書店 社長 武田崇元

Ⅱ 真実を証言する人々
○『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見― 古賀達也
○松橋徳夫氏(山王日吉神社宮司)の証言
○青山兼四郎氏(中里町)書簡の証言
○藤本光幸氏(藤崎町)書簡の証言
○白川治三郎氏(青森県・市浦村元村長)書簡の証言
○佐藤堅瑞氏(淨円寺住職・青森県仏教会元会長)の証言
○永田富智氏(北海道史編纂委員)の証言
○和田章子さん(和田家長女)の証言

Ⅲ 偽作説への反証
○知的犯罪の構造 ―偽作論者の手口をめぐって― 古賀達也
○『東日流外三郡誌』の考古学 古賀達也
○伏せられた「埋蔵金」記事 ―「東日流外三郡誌」諸本の異同― 古賀達也
○和田家文書に使用された和紙 古賀達也
○和田家文書に使用された美濃和紙 竹内強
○「偽書」を論ず ―「東日流外三郡誌」偽作説の本質―(仮題) 日野智貴
〇和田家文書裁判の真相 付:仙台高裁への陳述書2通 古賀達也

Ⅳ 資料と遺物の紹介
○『東日流外三郡誌』公開以前の史料 古賀達也
○『飯詰村史』(昭和二五年)に掲載された和田家文書
○福士貞蔵「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」『陸奥史談』(昭和二六年)で発表された和田家史料
○福士貞蔵文庫に収録された和田家史料
○昭和二十年代の東奥日報記事
○昭和三一~三二年の青森民友新聞に連載
大泉寺の開米智鎧氏「中山修験宗の開祖役行者伝」十一月一日~翌年二月十三日まで六八回、「中山修験宗の開祖文化物語」六月三日まで八十回の連載の紹介。
○開米智鎧『金光上人の研究』の紹介
○佐藤堅瑞『金光上人』の紹介
○役の小角史料「銅板銘」全文の紹介

Ⅴ 和田家文書から見える史実 ※論文タイトルは仮題
○宮沢遺跡は中央政庁跡 安彦克己
○二戸(にのへ)天台寺の前身寺院「浄法寺」 安彦克己
○中尊寺の前身寺院「仏頂寺」 安彦克己
○『和田家文書』から「日蓮聖人の母」を探る 安彦克己
〇浅草キリシタン療養所の所在地 安彦克己
○浄土宗の『和田家文書』批判を糺す 金光上人の入寂日を巡って 安彦克己
○大神(おおみわ)神社の三つ鳥居の由来 玉川 宏
○〇石塔山レポート 秋田孝季集史研究会
○田沼意次と秋田孝季in『和田家文書』その1 皆川恵子

Ⅵ 資料編

Ⅶ あとがき
〇「東日流外三郡誌」の証言 ―令和の和田家文書調査― 古賀達也
○謝辞  和田家文書史料批判の視点 古賀達也


第3157話 2023/11/11

八王子セミナー・セッションⅡの論点整理

 今朝は久しぶりに東京に向かう新幹線車中でこの「洛中洛外日記」を書いています。窓側のE席を取れましたので、富士山(注①)が見えることを願っています。ちなみに東海道新幹線から見える名山の一つに、滋賀県と岐阜県に跨がる伊吹山(1,377m)がありますが、今日は青空の下に映えていました。富士山のような秀麗さとは異なり、そのゴツゴツとした威容は、荒ぶる神々を齋くに相応しい名山ではないでしょうか。

 旅の目的地はもちろん八王子市の大学セミナーハウスです。今日、明日と二日間にわたって開催される八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2023)に参加するためです。2015年に古田先生が亡くなられて以降「古田武彦記念」と銘打って、はやいもので6回目のセミナーとなりました。

 わたしは明日の午後に行われるセッションⅡ〝遺構に見る「倭国から日本国へ」〟で研究発表「律令制都城論と藤原京の成立 ―中央官僚群と律令制土器―」とパネルディスカッションに参加します。先日、同セッションの司会をされる橘高修さん(東京古田会・副会長)より、論点整理を兼ねたタイムテーブルが送られてきました。セミナーを有意義なものとするためのご配慮です。そうしたお気持ちに応えるべく、提示された三つの論点ごとにわたしの見解を付記し、返信しました。その部分を転載します。〝エビデンス重視〟を念頭に置いたものですが、いかがでしょうか。

【以下転載】
《論点Ⅰ》7世紀前半における倭国と日本国の関係:従属関係か並列関係か
(1) 七世紀前半に「日本国」という名称・領域はなかったと思うので、設問の表現がやや不適切だが、わかりやすく表現したものとのこと。
(2) 七世紀前半の近畿天皇家(ヤマト王権)の実態を示すエビデンスが『日本書紀』に限られ、恣意的な文献解釈による論議となるのではないか。
(3) 九州王朝(倭国)は『隋書』と法隆寺釈迦三尊光背銘などがエビデンスとなる。従って、年号(九州年号)を持ち「天子」「法皇」を名乗る九州王朝と、年号を持たず「大王」「大王天皇」を名乗ったと考えられる近畿天皇家とでは、両者は対等ではなく従属関係と考えるほかない。

《論点Ⅱ》倭国の近畿進出はあったか?あったとすればいつ頃か?
(1) エビデンスは考古学と『宋書』倭国伝(注②)くらいで、いずれもが5世紀における九州王朝(倭国)の東方浸出を示唆している。
(2) 難波(上町台地)は列島支配の拠点である。5世紀における列島最大規模の倉庫群が出土し、王権あるいはその出先機関の倉庫群と考えられている(注③)。九州は博多湾岸の比恵・那珂遺跡が拠点。
(3) 倭京二年(619)に難波に天王寺を創建したと『二中歴』年代歴の細注(注④)に見える。この年代は出土創建瓦の編年による考古学的見解(620年頃)と見事に対応している。九州年号による記事であり、造営主体の「聖徳」は九州王朝の有力者(利歌弥多弗利か)と思われる。
(4) 652年(白雉元年)に前期難波宮が創建され、その規模(列島最大)と様式(国内初の朝堂院様式)から、当時の列島の頂点となる遺構である。その地で、評制による全国の律令制統治が開始された(「難波朝廷、天下立評給時」『皇太神宮儀式帳』注⑤)。
(5) 列島最大規模の条坊都市難波京に食料を増産供給するための巨大灌漑施設「狭山池」(古代で最大規模)が築造されるが、狭山池北堤で検出されたコウヤマキの伐採年が年輪年代測定により616年とされ、狭山池築造年代の根拠となった。築造には水城と同じ敷粗朶工法が採用されており、九州王朝の勢力による、複都難波京造営のための長期的計画的な食糧増産体制が準備されたと考えられる(注⑥)。

《論点Ⅲ》先行条坊は何のために造られたか?造ったのは倭国か天武かそれとも・・?
(1) 藤原京整地層出土土器編年(須恵器坏B出土)と藤原宮下層出土の井戸ヒノキ板の年輪年代測定(682年伐採)などから天武期の造営とするのが最有力(注⑦)。
(2) 飛鳥池出土の「天皇」・皇子(天武の子供たち。大津皇子、舎人皇子、穂積皇子、大伯皇子)・「詔」木簡により、天皇と皇子を称し、「詔」を発していた天武ら(近畿天皇家、後の大和朝廷)による造営とするのが妥当(注⑧)。その他の勢力によるとできるエビデンスはない。
(3) (1)と(2)の史料事実に基づけば、王朝交代の準備として天武・持統らが全国統治のために造営したとする理解が最も穏当である。
【転載おわり】

追伸 今、富士駅を通過しました。富士山は雲に隠れて見えません。残念。復路に期待します。

(注)
①富士山の名前の由来について、下記の「洛中洛外日記」で論じたことがある。
「洛中洛外日記」694話(2014/04/15)〝JR中央線から富士山を見る〟
「洛中洛外日記」882話(2015/02/25)〝雲仙普賢岳と布津〟
「洛中洛外日記」2673話(2022/02/02)〝言素論による富士山名考〟
②『宋書』倭国伝の倭王武上表文中に次の記事が見える。
「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」
③南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」『研究紀要』第19号、大阪文化財研究所、2018年。
古賀達也「洛中洛外日記」1927話(2019/06/20)〝法円坂巨大倉庫群の論理(5)〟
④「倭京 二年難波天王寺聖徳造」
⑤古賀達也「洛中洛外日記」601話(2013/09/29)〝文字史料による「評」論(3)〟
同「文字史料による『評』論 ―『評制』の施行時期について―」『古田史学会報』119号、2013年。
同「『評』を論ず ―評制施行時期について―」『多元』、145号、2018年。
⑥同「洛中洛外日記」418話(2012/05/27)〝土器「相対編年」と「絶対年代」〟
同「洛中洛外日記」1268話(2016/09/07)〝九州王朝の難波進出と狭山池築造〟
⑦同「洛中洛外日記」2726話(2022/04/22)〝藤原宮内先行条坊の論理 (3) ―下層条坊遺構の年代観―〟
同「洛中洛外日記」3037話(2023/06/09)〝律令制都城論と藤原京の成立(3)〟
⑧同「洛中洛外日記」444話(2012/07/20)〝飛鳥の「天皇」「皇子」木簡〟
同「洛中洛外日記」689話(2014/04/03)〝近畿天皇家の称号〟
同「七世紀の『天皇』号 ―新・旧古田説の比較検証―」『多元』、155号、2019年。

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8,古代史セミナー2023セッション Ⅱ
遺構に見る「倭国から日本国へ」 次第 古賀達也
 
解説

https://www.youtube.com/watch?v=-CtvQ0eC8MA

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第3156話 2023/11/10

三十年前の論稿「二つの日本国」 (11)

 「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」から、「五、二つの日本国」の後半部分を転載します。ここでは、これまでの『三国史記』の国名表記の史料批判の結果、七〇一年の王朝交代後の八世紀~九世紀における、「二つの日本国」(九州王朝と近畿天皇家)という新たな概念が必要としました。

【以下転載】
五、二つの日本国(後半)

 そうすると次に問題となるのが、近畿天皇家の日本国への更号の時期であるが、直接そのことを記した史料はないので、総合的な判断が必要となる。それでは検討してみよう。まず、その上限であるが、『新唐書』の次の記述「或は云ふ、日本は乃ち小国、倭の併す所と為る。故にその号を冒せり、と。」を信用するならば、その更号は九州王朝から列島の代表権を奪って以後と考えられる。そうすると、その候補としてまず指摘できるのは、九州年号が終わって、近畿天皇家最初の年号「大宝」が建元された年、七〇一年だ。次に下限は明白だ。『日本書紀』が成立した年、七二〇年である。なぜならその書名が示すとおり、自らの国名を日本国としてその歴史を編纂したものだからだ。また、七一二年に成立した『古事記』で、天皇名などに使用されていた「倭」の字が、『日本書紀』では「日本」と改められていることからも、当時の近畿天皇家が日本国を名乗っていたことは自明である。

 こうして上限は一応七〇一年が有力、そして下限は七二〇年とできるが、『旧唐書』帝紀長安二年(七〇二)に「冬十月、日本国遣使貢方物。」という記事が見えることから、七〇二年には日本国という国号が中国から承認されていたとも考えられよう。

 以上の考えをまとめると、六七〇年に倭国(九州王朝)は国号を日本国と改めた。その後、列島の中心権力者となった近畿天皇家は日本国(九州王朝)の国号を受け継ぎ、遅くとも七〇二年には中国からも日本国の代表者であることを承認された(国際承認)。こうした一連の動きが、『旧唐書』では倭国(九州王朝)・日本国(近畿天皇家)という別国表記として、『新唐書』では日本国(近畿天皇家)のみの立伝として表現された。また、『三国史記』では倭国、日本国とも九州王朝のこととして記されており、例外的に近畿天皇家も顔を出していた、このように言えそうだ。したがって、これら外国史書を理解する場合、二つの日本国(九州王朝と近畿天皇家)という新たな概念が必要となろう。そして、この「二つの日本国」という概念導入により、従来謎とされてきた、いくつかの問題の解決が可能と思われる。(つづく)
【転載おわり】


第3155話 2023/11/09

三十年前の論稿「二つの日本国」 (10)

 「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」から、「五、二つの日本国」の前半部分を転載します。
ここでの要点は、倭国が日本国に国号変更した時期を六七〇年としたこと、国名の「倭」を忌避したのは九州王朝であって、大和朝廷ではないとしたことです。〝「倭名を悪んだ」のが近畿天皇家ではなく、九州王朝であることは次の点からも明らかであろう。すなわち、『続日本紀』の宣命には天皇の修飾語として「倭根子」「大倭根子」という文字がたびたび出現する。また、みずからの都の名前に「大倭」という字を当てていることから、「倭」という字を嫌ったという痕跡、これを見いだせないのである。〟と、三十年前にわたしは考えたわけです。

 【以下転載】
五、二つの日本国(前半)

 前節までで、『三国史記』における日本国と『旧唐書』にある日本国の概念は一致しないことを論証してきたが、ここではそれぞれの日本国という国号がどの時点で成立したのかについて論究する。

 中小路俊逸氏によれば、『旧唐書』と『新唐書』の史料批判から、日本列島には併合した国と併合された国とがあり、ともにある時点で国号を日本と名乗ったとされる。そして、その更号の時期は、併合された国(九州王朝)は併合される以前でしかありえず、併合した方の国(近畿天皇家)は併合して以後という場合がありうるとされた(3)。こうした捉え方は概括的において妥当と考えられる。そこで、こうした大局観に立ちつつ、具体的な年次を検討してみよう。
まず、九州王朝が倭国から日本国へと国号を変更したのは『三国史記』に記された六七〇年と考えられる。ただし、それ以前に「自称」として倭国が日本国をも名乗っていた可能性は、『日本書紀』に引用された朝鮮半島側により否定できないが、「自称」と「国際認知」とは一応区別すべきものと考える。また、国名の変更はその国が勝手にできるというものでもないようだ。東アジアにおいては、やはり中国の承認が不可欠であったと考えるべきであろう。たとえば、『続日本紀』天平七年(七三五)二月条には、新羅が国号を無断で王城国と変えたという理由で、新羅使節を追い返したりしている。おそらくこの場合も近畿天皇家が更号を認めなかったというよりも、中国が認めていないという事実が先行していたのではないか。

 したがって、九州王朝の更号は六七〇年と考えられるが、『新唐書』日本伝もそのことを支持しているように見える。たとえば「咸亨元年(六七〇)、遣使賀平高麗」の直後に「後にやや夏音を習い、倭の名を悪み、更えて日本と号す」とある。この記事は長安元年(七〇一)の前にあることから、その更号の時期が六七〇から七〇一の間となる。よって六七〇年もその範囲に入っている。なお、付言すれば、「倭名を悪んだ」のが近畿天皇家ではなく、九州王朝であることは次の点からも明らかであろう。すなわち、『続日本紀』の宣命には天皇の修飾語として「倭根子」「大倭根子」という文字がたびたび出現する。また、みずからの都の名前に「大倭」という字を当てていることから、「倭」という字を嫌ったという痕跡、これを見いだせないのである(4)。よって、この点からも「倭」の字を嫌ったのは九州王朝としなければならない。このように『三国史記』と『新唐書』の双方が九州王朝の日本国への更号を六七〇年とすることを支持する、あるいは否定しないのである。(つづく)

〈註〉
(3)「旧・新唐書の倭国・日本国像」『市民の古代・九集』所収。
(4)この視点は、井上秀雄著『倭・倭人・倭国』(人文書院)より得た。同書は大和朝廷一元史観を否とし、北部九州および朝鮮半島南岸に倭が存在したことを論証されている。ただし九州王朝説のように独自の国家が存在したとはされていない。
【転載おわり】