第3204話 2024/01/19

〝名にしほふ龍の都〟の由来

 『新修福岡市史 資料編中世1 市内所在文書』に次の細川幽斎(藤孝)の和歌が掲載されています(注①)。

「名にしほふたつの都の跡とめて
なミをわけゆくうミの中道  (細川)玄旨」

 「本短冊は『九州道の記』の記述から天正十五年五月のものと考えられる。」との説明文が付記されています。天正十五年は西暦1587年に当たり、当時、志賀島や当地を含む領域がその昔に「たつ(龍)の都」と呼ばれていたことがうかがえます。

 「名にしほふ、たつ(龍)の都」とあることから、〝あの有名な「龍の都」という名前〟の〝跡をとめて〟、〝波をわけ行く海の中道〟という意味と解せます。
細川幽斎(1534~1610年)は戦国武将であり、当時一流の歌人としても知られています。その幽斎が志賀島を訪れたときにこの和歌を詠んだとされていることから、当地が「龍の都」と呼ばれていたことを前提としてこの和歌が詠まれたと考えざるを得ません。しかし、この和歌以外に志賀島が「龍の都」と呼ばれていた史料が見つかりません。例えば『万葉集』には志賀島を歌ったものがありますが、その地を「龍の都」とするものは見えません。

 この和歌の〝名にしほふ龍の都〟の一節から、『古今和歌集』や『伊勢物語』の次の和歌を思い出しました。

「名にし負はば いざ事問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」
(『伊勢物語』九段、『古今和歌集』にも収録)

 この歌は在原業平の作と伝えられており、「都鳥」の名を持つ鳥が詠み込まれています。通説ではこの都鳥をユリカモメとしますが、当時、平安京(京都)にユリカモメはいなかったと考えられています。そこで、冬になると博多湾岸に飛来する千鳥科の都鳥のこととする説をわたしは発表しました(注②)。細川幽斎の「龍の都」、在原業平の「都鳥」、そして「漢委奴国王」金印、これら全てが博多湾の志賀島という接点を有しており、それは偶然の一致ではなく、九州王朝の都が当地にあった痕跡と思われます。(つづく)

(注)
①『新修福岡市史 資料編中世1 市内所在文書』「東区志賀海神社文書 九―二(掛軸一―二)細川幽斎(藤孝)和歌短冊」、191頁。福岡市史編集委員会、平成二二年。
②古賀達也「洛中洛外日記」1550話(2017/12/08~)〝九州王朝の都鳥〟
同「洛中洛外日記」2231~2258話(2020/09/15~10/11)〝古典の中の「都鳥」(1)~(5)
同「古典の中の「都鳥」考」『九州倭国通信』202号、2021年。


第3203話 2024/01/18

新春古代史講演会で花氈・フェルトを展示

 新春古代史講演会(1月21日(日)、キャンパスプラザ京都)のレジュメ印刷を本日行いました。今朝も参加問い合わせの電話が4名の方からあり、前評判は良いようです。

 講師の本出ますみさんも、当日は花氈(かせん)やウールフェルトの現物を会場に持ち込み、参加者に見ていただくとのことで、意欲満々です。これらは滅多に見る機会がないと思います。講演内容も初めて一般に公表されるもので、正倉院を管理している宮内庁の了解がようやく得られたものです。

 わたしの講演では、邪馬壹国の女王卑弥呼のお墓について、考古学や現地伝承に基づき、最有力候補地を紹介します。多くの皆さんのご参加をお待ちしています。

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新春古代史講演会 2024年1月21日(日)
第一講演13:40〜15:00
正倉院花氈の素材の定説がくつがえる — それはカシミヤではなくウールだった 本出ますみ
https://www.youtube.com/watch?v=GoR9DbWtGHY&t=4s

第二講演15:10〜16:30
吉野ヶ里出土石棺と卑弥呼の墓 ―国内史料に見える卑弥呼伝承 古賀達也
https://www.youtube.com/watch?v=FfvudMFs6bs

2024年1月21日(日)
会場:キャンバスプラザ京都 5階演習室
主催古田史学の会
協力:市民古代史の会・京都/古代大和史研究会/和泉史談会/古代史水曜セミナー/市民古代史の会・八尾

2024.02.05 YouTube講演を作成しました。
竹村氏が、本出ますみ氏に講演を公開することに了解を得ました。
古田史学会インターネット事務局が,講演記録を一本化し、サムネイルとチャプターを設置しました。


第3202話 2024/01/17

『倭国から日本国へ』の

     表紙デザイン検討中

 現在、『古代に真実を求めて』27集の四月発刊を目指して初校ゲラ校正作業を進めています。同書のタイトルは編集部が提案した『倭国から日本国へ』とすることで明石書店と合意し、表紙デザインについて明石書店と相談してきました。写真の使用権承諾手続きや、なかなか良い写真が見つからないことなどの問題もあって難航しましたが、ようやく第二案で合意方向となり、明石書店の担当部署で検討が続けられています。

 第一案は、平城京出土の「隼人の盾」を表紙デザインとして使用するものでしたが、第二案は『旧唐書』日本国伝版本の「日本國者倭國之別種也」の部分をデフォルメ・強調し、表紙の背景に使用するデザインです。特集テーマが、倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への王朝交代ですので、そのことを象徴したデザインにしたいと考えた結果のアイデアです。明石書店でのデザイン作成と同社ボードの決裁がおりれば正式決定となります。刊行までもう一息です。価格や発行日が決まれば、改めて報告します。なお、同27集は「古田史学の会」2023年度の賛助会員(年会費5000円)には、本年四月頃に本会より発送予定です。ご期待下さい。


第3201話 2024/01/16

『九州倭国通信』No.213の紹介

友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.213を14日の講演会のおりにいただきました。同号には拙稿「孝徳紀・天智紀・天武紀の倭京」を掲載していただきました。『日本書紀』に見える「倭京」とは、九州王朝の倭京(太宰府)や東都難波京、あるいは通説の「飛鳥京」とするのか、『日本書紀』編者の認識に迫った論稿です。これは王朝交代期の権力構造や、九州王朝(倭国)と大和朝廷(日本国)との力関係をどのように理解するのかという、古田学派での最新研究テーマに関わる問題提起であり、まだ結論が出たわけではありません。
また、今村義則さんの「天子と九州年号」や鹿島孝夫さんの「隋使は阿蘇山を見なかった」など、九州王朝研究に関する論稿が掲載されていました。その結論への賛否は別にして、こうした研究論文を興味深く拝読しました。「九州古代史の会」の研究者との学問交流が進めばと願っています。


第3200話 2024/01/15

志賀島は〝たつの都〟

 昨日は九州古代史の会の月例会で講演させていただきました。テーマは「吉野ヶ里出土石棺と卑弥呼の墓」と「九州年号金石文・棟札の紹介」です。会場のももち文化センターで50名ほどの参加者に聞いていただきました。発表の概要については同会機関紙『九州倭国通信』に投稿予定です。

 当地へは前日(13日)に入りましたが、大学受験期間と重なり、福岡市内のホテルが満室のため、新幹線で一駅手前の小倉で一泊しました。当日は会場近くの藤崎駅に三時間ほど早く到着しましたので、隣接する図書館で郷土資料を閲覧しました。同会の講演会に参加するときは、この図書館で時間待ちを兼ねて当地の歴史資料を読むことにしており、数々の知見に触れることができ、重宝しています。今回も思わぬ「発見」ができました。

 『新修福岡市史 資料編中世1 市内所在文書』(福岡市史編集委員会、平成二二年)という分厚い本を読んでいたら、次の不思議な和歌に目がとまりました。

「名にしほふたつの都の跡とめて
なミをわけゆくうミの中道  (細川)玄旨」

 同書「東区志賀海神社文書」191頁に見える「九―二(掛軸一―二)細川幽斎(藤孝)和歌短冊」で、「本短冊は『九州道の記』の記述から天正十五年五月のものと考えられる。」との説明文が付記されています。天正十五年は西暦1587年に当たり、当時、志賀島や当地を含む領域がその昔に「たつの都」と呼ばれていたことを示唆しています。

 わたしはこの和歌のことを初めて知ったのですが、当地が「たつの都」と呼ばれていたなどとは全く知りませんでした。当然、九州王朝説の視点に立てば、九州王朝の都がこの領域にあった時代(邪馬壹国時代から古墳時代前期頃)がありますから、当地がその時代に「たつの都」と呼ばれていた可能性があることに、理屈の上ではなります。そこで、細川幽斎の和歌以外の史料に同様の痕跡が遺されていないかWEB検索しましたが、この和歌以外にはヒットしませんでした。

 本件については調査を続けますが、実は九州王朝の都の名前はほとんど分かっていません。卑弥呼の都が博多湾岸(中枢領域は比恵那珂遺跡・須玖遺跡)の邪馬壹国にあったことは倭人伝に見えますが、その都が何とよばれていたのかは未詳です。七世紀初頭には、『隋書』俀国伝に「都於邪靡堆」とありますが、「邪靡堆(ヤヒタイ)」が都の名称ではなく、地名の可能性も高く、断定出来ません。七世紀前半には太宰府条坊都市が成立したと考えられ、九州年号の「倭京」(618~622年)の存在から、同都市は「倭京」と呼ばれていたと理解できますが、それを和訓で何と呼んでいたのかは諸説あり、検討が必要です。古田説では「倭」を「ちくし」と理解していますから、「ちくしの京(みやこ)」と呼ばれていたとすることもできそうです。七世紀中頃(652年)には、両京制(注)を採用した九州王朝の東都「難波京(前期難波宮)」が造営されており、恐らく「なにわの都」と呼ばれていたと推定しています(太宰府条坊都市は「西都」)。

 他方、大野城から出土した木柱に「孚石都」と読める文字が刻まれていることから、その読解が正しければ、大野城下に広がる太宰府条坊都市が「うきいしの都」と呼ばれていたかもしれません。また、この刻字を「孚右都」と読む説を飯田満麿氏(古田史学の会・元副代表、故人)が発表しています。それであれば、「ふゆの都」と読めそうです。

 このように、九州王朝(倭国)の都の名前の候補として、「たつの都」(龍の都)について研究したいと思います。九州王朝の故地にはまだまだ多くの九州王朝の痕跡や史料が眠っているのではないでしょうか。

(注)隋や唐が長安(西都)と洛陽(東都)の両京制を採用した時期があり、その制度に倣って、九州王朝(倭国)は天孫降臨以来の「伝統と権威の都」として筑前太宰府に「西都」を、評制による全国支配を行うための「権力の都」として難波に「東都」を置く、両京制を採用したとする仮説をわたしは次の論稿で発表した。
○「洛中洛外日記」2675話(2022/02/04)〝難波宮の複都制と副都(4)〟
○「洛中洛外日記」2735話(2022/05/02)〝九州王朝の権威と権力の機能分担〟
○「柿本人麿が謡った両京制 ―大王の遠の朝庭と難波京―」 『九州王朝の興亡』(『古代に真実を求めて』二六集、二〇二三年)
○「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」『多元』176号、二〇二三年。


第3199話 2024/01/12

古田史学の万葉論 (5)

  ―天香具山豊後説の論証―

 古田万葉論の中でも、際だった新説が天香具山=豊後国の鶴見岳説でした。従来の万葉学では、天香具山とあれば大和飛鳥の香具山のこととして歌を解釈してきました。その結果、万葉歌(巻一、二番歌)に見える天の香具山はかなり無理無茶な解釈が横行していました。

大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鷗(かまめ)立ち立つ うまし国そ 蜻蛉(あきづ)島 大和の国は 《『万葉集』巻一、二番歌》

 古田先生は万葉歌理解の基本的認識に基づいて、「歌」と「題詞」を切り離し、「歌」そのものの内容から、この歌の舞台を豊後の別府湾近辺(旧名は『和名抄』に「海部郡 安萬」とある)とされ、天の香具山を鶴見岳(標高1375m)とする新説に至りました。詳細は『古代史の十字路』(注①)の第三章「豊後なる『天の香具山』の歌」に記されていますので、興味のある方は同書をご覧下さい。古田先生の疑問点は次のようでした。

〈1〉「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山」とあるが、大和の他の諸山と比べて、飛鳥の香具山は特段に「群山あれど とりよろふ」(意味不詳)と歌うほどの特徴ある山ではない。むしろ周囲との比高約50メートルに過ぎない低山(標高152メートル)である。従って、同歌の「天の香具山」を奈良県飛鳥の香具山とするのは無理だ。
〈2〉しかも、飛鳥の香具山は、「天の香具山 登り立ち 国見をすれば」とあるような、国見をするに相応しい山とは言い難い。
〈3〉「海原は 鷗(かまめ)立ち立つ」とあるのも、不審。香具山に登っても海は見えないし、鷗が飛んでいるとも思えない。奈良盆地に海はなく、当地で詠めるような内容ではないのだ。従来の解釈では、「鷗」をユリカモメのこととするが、様々な池で「鷗」の存在を歌う例は『万葉集』にはない。
〈4〉従来説では、「海原」を香具山の近くの埴安池(1200㎡)と解釈するが、そのような〝ため池〟を「海原」と歌う例も『万葉集』にない。

以上のことから、この歌の「天の香具山」は奈良県飛鳥の香具山ではないとされ、この歌の情景に相応しい地を探されました。そして、次の論証と傍証により、豊後の鶴見岳が最も相応しいとする仮説に至ります。

〈5〉「天の香具山」とあることから、そこは「アマ」と呼ばれた領域である。
〈6〉「蜻蛉(あきづ)島 大和の国は」とあり、これは『古事記』の国生み神話に出現する「大倭豊秋津島」ではないか。「豊」は豊国であり、大分県。秋津は「安岐」の津であり、別府湾に相当する。豊後国の古名が「安萬(あま)」である。こうしたことを『盗まれた神話』(注②)で論証した。別府市内には「天間(あまま)区」(旧、天間村)という地名もある。
〈7〉「海原は 鷗(かまめ)立ち立つ」という表現も別府湾岸であれば、問題ない。
〈8〉この地であれば、別府温泉の湯が「煙」となって立ち上っており、「国原は 煙立ち立つ」という表現がピッタリである。
〈9〉当地には国見をするに相応しい山がある。鶴見岳だ(標高1375メートル)。「天の香具山 登り立ち 国見をすれば」と歌われているように、「国見」が可能な名山である。更に、別府市天間区には「登り立(のぼりたて)」という小字地名も遺存しており、鶴見岳を「天の香具山」とする理解の傍証となっている。
〈10〉鶴見岳には「火男火女(ほのおほのめ)神社」があり、ご祭神は主に「火(ほ)の迦具土(かぐつち)命」である。「火(ほ)」は鶴見岳が火山であることに由来し、「土(つち)」は「津」(港)の「ち」(神の古名)を意味する。語幹は「迦具(かぐ)」であり、この神を祭る鶴見岳は「天(安萬)の香具(かぐ)山」と呼ばれるに相応しい。

 古田先生の論証は更に詳細を究めるのですが、これほどの論証を尽くして、 「天の香具山」豊後国鶴見岳説を提唱されたのです。従来の万葉学では、「天の香具山」とあれば条件反射の如く、奈良県飛鳥の香具山と理解し、それにあわせるためには無理無茶な解釈もいとわなかったことと比べれば、古田万葉論がいかに学問的に優れた、ある意味で極めて常識的・合理的な文献理解に立ったものであるかがわかります。

 この「天の香具山」多元説が一旦成立すると、『万葉集』などに見える「天の香具山」が、どの山を指しているのかという基本作業(史料批判)が全ての研究者に要求され、新たな万葉学(文献史学としての万葉歌の新解釈)がここから成立します。まさに〝新時代の万葉学〟誕生です。(つづく)

(注)
①古田武彦『古代史の十字路 ―万葉批判―』東洋書林、平成十三年(二〇〇一)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古田武彦『盗まれた神話 記・紀の秘密』朝日新聞社、昭和五十年(一九七五)。ミネルヴァ書房より復刻。


第3198話 2024/01/09

新年の読書、松本清張「古代史疑」 (3)

 卑弥呼=ヒミカ説の濫觴(らんしょう)

 『古代史疑・古代探求 松本清張全集33』は、当時(昭和四十年頃)の邪馬台国論争の状況・諸説を要領よく紹介されており、勉強になりました。同時に著者による自説の紹介もあるのですが、その中で邪馬壹国の女王、卑弥呼の訓みを「ヒミカ」としており、驚きました。卑弥呼=ヒミカ説は古田先生も発表されていますが、その濫觴(らんしょう)が松本清張氏だったことを知りました。松本氏の論旨は次のようです。

 〝そこで、私は「卑弥呼」も「台与」も、「卑弥弓呼素」(そう読むとして)も、やはり地名からきている名ではないかと思うのである。
そう考えるなら、卑弥呼は「ヒミカ」と訓んでもよさそうである。
「呼」の正確な訓みようはない。大森説では前記のように「ヲ」をあげているが、八世紀の読み方を私はあまり信用しない。通説では「コ」と訓んでいるが、あるいは「カ」という音を写した文字かも分からないのである。「ヒミカ」と訓んでも「ヒミコ」と訓んでも同じような気がする。
もし「ヒミカ」なら、すなわち「ヒムカ」(日向)になる。つまり卑弥呼は日向にいた巫女かもしれないのである。「ヒムカ」といっても八世紀に区分された日向国ではない。当時の九州のどこかにヒミカといわれる土地があったのではあるまいか。〟83頁

 このように、松本説は「ヒミカ」地名淵源説とでもいうべきものです。一つの解釈(作業仮説・思いつき)としては成立していますが、そう考えざるを得ない(他の仮説は成立しない)、あるいは他の仮説よりも有力とする〝論証の末に成立した仮説〟とまでは言い難いものです。

 この点、古田先生のヒミカ説は次のような論証と傍証により、他の説よりも優れた仮説として成立しています。松本説との違いは、学問の方法(論証の優越性とエビデンスの確かさ)に関することであり、この点重要です。

 〝俾弥呼(注①)の訓み

 では、この「俾弥呼」の“訓み”は何か。これは、通説のような「ヒミコ」では「否(ノウ)」だ。「ヒミカ」なのである。このテーマについて子細に検証してみよう。

 第一に、「コ」は“男子の敬称”である。倭人伝の中にも「ヒコ(卑狗)」という用語が現れている。「対海国」と「一大国」の長官名である。この「コ」は男子を示す用語なのである。明治以後、女性に「~子」という名前が流行したけれど、それとこれを“ゴッチャ”にしてはならない。古代においては女性を「~コ」とは呼ばないのである。

 第二に、倭人伝では、右にあげたように「コ」の音は「狗」という文字で現している。だから、もし「ヒミコ」なら「卑弥狗」となるはずである。しかし、そのような“文字使い”にはなっていないのである。

 「ヒミカ」とよむ

 では、「俾弥呼」は何と“訓む”か。――「ヒミカ」である。

 「呼」には「コ」と「カ」の両者の読み方がある。先にのべたように、「コ」の“適用漢字”が「狗」であるとすれば、こちらの「呼」はもう一方の「カ」音として使われている。その可能性が高いのである。
「呼(カ)」とは、何物か。“傷(きず)”である。「犠牲」の上に“きずつけられた”切り口の呼び名なのである。中国では、神への供え物として“生身の動物”を奉納する場合、これに多くの「切り口」をつける。鹿や熊など、“生き物”を神に捧げる場合、“神様が食べやすい”ようにするためである。それが「呼(カ)」である。古い用語である。そして古代的信仰の上に立つ、宗教的な用語なのである。「鬼道に事(つか)えた」という、俾弥呼にはピッタリの用語ではあるまいか。

 「ヒミカ」の意味

 「ヒミカ」とはどういう意味か。
「ヒ」は当然「日」、太陽である。次の「ミカ」は「甕」。“神に捧げる酒や水を入れる器”である。通例の「カメ」は、人間が煮炊きする水の入れ物である。日用品なのである。これに対して「ミカ」の場合、“神に捧げるための用途”に対して使われる。こちらの方が「ヒミカ」の「ミカ」である。

 すなわち、「太陽の神に捧げる、酒や水の器」、それが「ヒミカ」なのである。彼女の「鬼道に事(つか)える」仕事に、ピッタリだ。「鬼道」とは、あとで詳しくのべるように「祖先の霊を祭る方法」であり、それに“長じている”女性が俾弥呼だったのである。〟(注②)

 松本氏のヒミカ地名起源説よりも、古田先生のヒミカ論が際立っている。このことがご理解いただけるのではなないでしょうか。(おわり)

(注)
①『三国志』倭人伝では「卑弥呼」の字が使われ、本紀では「俾弥呼」が使われている。古田説では「俾弥呼」が本来の用字、すなわち自署名とする。
②古田武彦『俾弥呼』ミネルヴァ書房、平成二三年(二〇一一)。


第3197話 2024/01/08

新年の読書、松本清張「古代史疑」 (2)

   ―「邪馬台国」の原文改定―

 年始に古書店で購入した『古代史疑・古代探求 松本清張全集33』(注①)には、倭人伝の原文改定について次の三例が紹介されていました。

Ⅰ.「南、邪馬壱(台の誤り)国に至る。」13頁
Ⅱ.「景初三年(二三九。原文、二年)」14頁
Ⅲ.「台与(原文、壹與。『梁書』と『北史』を参照して臺與の誤りとされている)」15頁

 Ⅲについては、一応、原文改定の根拠らしきことが示されていますが、なぜか邪馬壱国についてはそれがありません。古田先生は、この「古代史疑」で紹介された邪馬壱国から邪馬台国への原文改定の事実を、松本清張氏が最後まで説明されなかったことを不審として、自らが『三国志』の「壹」と「臺」の悉皆調査を行われ、原文改定が否であることを証明されました。そのことを東京大学の『史学雑誌』(注②)に発表され、古田武彦の名前と邪馬壹国説は古代史学界で、一躍注目されるに至ったことは有名です。

 それではなぜ松本氏は邪馬台国への原文改定を、何の説明も論証も無いまま採用したのでしょうか。というのも、氏自身が同書で次のように、原文改定を誡められているだけに、不審と言うほかありません。

 「要するに、距離(里数、日数)の点では大和説が有利である。ただし、『魏志』の原文にある南を東としたのは、「自説に都合のいい、勝手な解釈」といわれても仕方がなく、大和説の欠陥である。」24頁
「私はやはり『魏志』の通りに帯方郡から邪馬台国までの方向をすべて「南」としたい。原典はなるべくその通りに読むべきだと思う。」37頁

 このように、松本氏は原文尊重を主張していながら、邪馬壹国については、何の疑いもなく原文改定された「邪馬台国」を採用しています。何とも不思議なことです。その後、1969年に古田先生の論文「邪馬壹国」が発表されると、次のように述べています。

 「この問題を、これほど科学的態度で追跡した研究は、他に例がないだろう。十分に説得力もあり、何もあやしまずにきた学会は、大きな盲点をつかれたわけで、虚心に反省すべきだと思う。ヤマタイではなくヤマイだとしたら、それはどこに、どんな形で存在したのか、非常に興味深い問題提起で、私自身、根本的に再検討を加えたい」(注③)

 残念ながら、古代史学界では今も原文改定した「邪馬台国」が、なに憚ることなく使われ続けています。そして、教科書もまた。(つづく)

(注)
①「古代史疑」の初出は『中央公論』の連載(昭和41年6月~42年3月〔1966年〕)。
②古田武彦「邪馬壹国」『史学雑誌』78-9、1969年。
③「読売新聞」昭和44年11月12日〔1969年〕。
古賀達也「洛中洛外日記」1084話(2015/10/29)〝「邪馬壹国」説、昭和44年「読売新聞」が紹介〟


第3196話 2024/01/07

新年の読書、松本清張「古代史疑」 (1)

 ―古田古代史誕生の契機―

 毎年、年始には新たに数冊の本を読むことを「新年の読書」と称して、年頭の行事としてきましたが、今年は書籍の編集・執筆のため1冊しか読めませんでした。それも年明けの三が日が済んでからになりました。ご近所の枡形商店街の古書店が五日に開きましたので、のぞいたところ、松本清張全集(注①)が売りに出ており、ばら売りで1冊百円のお買い得価格。その中に『古代史疑・古代探求』があり、迷わず購入しました。

 コアな古田ファンであればご存じのはずですが、親鸞研究を専門としていた古田先生が古代史に参入されるきっかけとなったのが、松本清張氏の「古代史疑」という『中央公論』の連載(昭和41年6月~42年3月)でした。同連載は主に邪馬台国をテーマとしており、その最初の方に、「邪馬台国」という国名が倭人伝の原文には「邪馬壱国」であることが記されており、古田先生はそのことを松本清張氏が連載の中でどのように説明されるのかを楽しみにしていたとのこと。ところが、最後まで説明はなかったので、自ら調べてみたことが、名著『「邪馬台国」はなかった』(注②)の発刊に至ったと先生は語っていました。
そうした経緯を聞いていたので、五十年前に同連載が全集に収録され、その全集を古書店で偶然に発見し、新年に入手できたのは幸いでした。同書の外見や紙はやや変色していますが、書き込みなど全くなく、読まれた痕跡もない新品同様の良本でした。恐らく、清張ファンの方が全集を購入したものの、全ては読めずに書棚に飾ったままのものが、所蔵者の没後に古書店に流れたのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①松本清張『古代史疑・古代探求 松本清張全集33』文藝春秋、1974年。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。


第3195話 2024/01/06

中小路俊逸先生からの提言(遺告)

 ―「一元通念」は学理上「非」なり―

 この五十年間、日本古代史学界で古田先生の多元史観・九州王朝説を公然と支持したプロの学者は一人として現れませんでした。他方、理系ではそうそうたる学者が古田説を支持してきました。わたしが知るところ、人文系では日本古典文学の学者、中小路俊逸先生(追手門学院大学教授。故人)が公然と古田説を支持し、ご自身も多元史観による研究論文を発表されてきました(注①)。

 中小路先生は、より本質的な視点で一元史観(氏は「一元通念」と呼ぶ)に対して古田説の決定的に勝(まさ)った点をとらえ、そのことを次のように指摘しています。

〝古田氏の言説が「近畿大和なる天皇家の王権は、七世紀よりも前から日本列島内で唯一の卓越して尊貴な中心的権力であった」という「一元通念」を学理上「非」なりとしている一点で古田説は通念に対して決定的に勝(まさ)ったのである。〟
〝何よりも、肝心カナメのカンどころ、「一元通念」を「論証を経ざるもの」とした古田氏の指摘こそ、日本古代史の研究史のなかで古田氏の学の位置を決定した理論上の「定礎」である。〟(注②)

 そして、「古田史学の会」を立ち上げた当時のわたしに、次のように忠告されました。

〝一元通念のプロの学者との対話や論争において、各論(例えば九州年号や評制問題など)だけを論じても徒労に終わるであろう。彼らは文献史学のプロであり、素人を相手にして、多くの史料(エビデンス)や様々な解釈(ロジック)を持ち出し、いくらでも古田説に「反論」することができる。その結果、九州王朝説は邪馬台国論争と同様に、百年経っても決着がつかない〝永遠の水掛け論〟に持ち込まれる。そうしているうちに、古田説は隠され、無視され、忘れられてしまい、結果は「学理上無効な一元通念が無期限に安泰」となることは明白である。〟

 残念ながら、中小路先生の指摘通りに、学界の状況は今日まで進んで来ました。
ここに、中小路先生が遺された提言(遺告)を紹介します。わたしが聞いたのは三十年前のことであり、表現は少し異なるかもしれませんが、それは次のようなことでした。

〝一元通念の学者との対話や論争での要点は、「一元通念は論証を経ていない」ので「学理上無効」ということであり、これを曖昧にしたり、伏せてはならない。このことを最初から最後まで問わねばなりません。〟

 ちなみに、「古田史学の会」会則には〝本会は、旧来の一元通念を否定した古田武彦氏の多元史観に基づいて歴史研究を行い〟と銘記しています。これは中小路先生の提言に従ったものです。

(注)
①中小路駿逸「旧・新唐書の倭国・日本国像」『市民の古代』9集、新泉社、1987年。
同(遺稿集)『九州王権と大和王権』海鳥社、2017年。
②中小路駿逸「古田史学の会のために」(『古田史学会報』8号、1995年)で同様の主張がなされている。そこでは一元通念を次のように説明している。
〝この「名分に関する、信仰を含む宣言」を「史実宣言」へと横滑りさせ、この「名分」に合うように歴史のワク組みを構想した「錯乱」の所産が「一元通念」なのだった。――私は今、そう考えているのである。古田氏の指摘はこの「錯乱」を非なりとし、その裏づけを提示した私も、同様これを非とし、歴史像を通念型から古代の文献の示しているものに返せ、と要求している。たとえこの通念が数百年、あるいは千年余、日本人の心を規制し、文化の深部に根付いているように思われていようとも、より深い基層にあるものが真実ならば、そこに復帰して当然ではないか。「一元通念を非とする。」――この一句に私が固執する意味がおわかり願えようか。日本の文化が、精神が、ほんとに確かな基礎に立ったものになれるかなれないか、その分かれ目がこの一句にある。私はそう思っているのである。〟


第3194話 2024/01/05

和田昌美さんから

「結集(けつじゅう)」の呼びかけ

 本日、開催された新年最初のリモートによる古代史研究会(多元的古代研究会主催)で、和田昌美さん(同会事務局長)から、〝釈迦の弟子等が釈迦入滅後に行った「結集(けつじゅう)」を私達も行おう〟という提案がなされました。釈迦の直弟子等が集まり、釈迦から聞いたことを皆で出し合い、その記憶を確認し、合意形成して、阿含経を編纂したことを「第一回結集」とされています。それと同様に、古田先生没後の現在、その教えを受けた者、学んだ者が一堂に会して「結集」しようという提案で、時宜に適ったものです。

 実は、わたしも「結集」を呼びかけたことがありました。2001年10月8日、東京の朝日新聞社ホールで開催された『「邪馬台国」はなかった』発刊三十周年紀年講演会で祝賀講演を谷本茂さん(『古代に真実を求めて』編集部)とわたし(当時、古田史学の会・事務局長)が行うことになり、わたしは「古田史学の誕生と未来」というテーマで講演しました(注①)。その冒頭と締めくくりに次のように述べました。

 〝(前略)
従いまして今日、私がお話しするのは「私は、このように聞いた」ということで、有名な釈迦の「結集(けつじゅう)」というのがございますね、釈迦の没後に弟子等五百人が集まって結集し、「私は、このように聞いた」と、要するに「如是我聞」と仏教の経典では最初にそれが入って、聞いた内容を口伝で伝える、という有名な「結集」というのがございます。
この「第一回結集」は王舎城(ラージャグリハ)郊外に五百人の比丘が集まってやったと、で、長老格の迦葉(かしょう)が座長を務めて、弟子の阿難陀(アーナンダ)とか優波離(ウパーリ)というのが、それぞれ先導を切って「そのように聞いた」と。それからずっと第二回結集、第三回結集と何百年と続いて釈迦の教えが伝えられ、世界に広まったという有名な話がございます。

 そういう意味から考えますと、本日のこの場所というのは、ある意味では、「古田史学の第一回結集」であると、そのようにも思うわけでございます。

 ただ違うのは、古田先生がお元気で三十年前と変わらず、今も多元史観の先頭を切って新しい学説を次から次へと発表されておられること、これが釈迦の結集とは一番違う、そういうところではないかと思っておるわけでございます。〟

 このように、わたしは講演を始め、最後を次のように締めくくりました。

 〝私たちが今、生きている時代というのは、日本の歴史学、古代史が天皇家一元史観というイデオロギーから、古田武彦という人物により、初めて学問として成立しつつある、ある意味では、成立した同時代に生きていると言って良いかと思います。おそらく百年後、二百年後、この国の若者、新しい探求者は、「あの時代が日本の古代史、歴史学が、イデオロギーから本当の学問へ変わろうとしている、日本の歴史学の『ルネッサンス』であったんだ」と、そう言われる時代が来ることを私は、確信しております。

 西洋のフィレンツェを中心とするレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロを輩出したあの「ルネッサンス」も、あの時代は「ルネッサンス」だとは分からなかった。分かったのは、百年後、二百年後の後だ。そして、「あの時代が、ああ、ルネッサンスだったんだ」と後で分かったという風に聞いております。おそらく、今のこの時代が「日本の古代史のルネッサンスである」と百年後、二百年後の青年、若き探求者から、そう呼ばれることを私は、疑いません。

 そして、私たちの学問は、そのためにあるべきであると、当然、体制に認められようとか、私利私欲、出世のためにやる学問ではございません。真実と人間の理性にのみに依拠し、百年後、二百年後の青年のために真実を追求する。この学問をやって参りたいという風に思うわけでございます。
今回は「第一回結集」と申しましたが、是非、十年後もまた、古田先生をお招きして「第二回結集」をやりたいと思っております。それまで、また、皆さんとお会い出来ることを楽しみにいたしまして、私からのご報告といたします。ご静聴ありがとうございました。〟(注②)

 和田さんの呼びかけに応えて、古田史学の「結集」を、新時代に相応しくリモートで行うのも良いでしょう。偶然ですが、わたしも三十年前の和田家文書偽作キャンペーンに対して、古田先生と一緒に闘った日々のことを、記憶が鮮明なうちに書籍として残し伝えるべく、青森や関東の皆さんと共に、『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)の発刊に向けて「結集」を行っています。

 また、この年末年始には、「喜田貞吉と古田武彦の学問と批判精神」という、研究史に関する論文を書き上げました。これも、古田先生の業績を後世に伝えるための、わたし一人だけのささやかな「結集」かもしれません。

(注)
①谷本茂氏の演題は「史料読解法の画期」。
②『東方の史料批判 ―「正直な歴史」からの挑戦―』(『「邪馬台国」はなかった』発刊三十周年紀年講演会講演録) 新・東方史学会編、2001年11月27日。


第3193話 2024/01/04

1月13日(土)、和田家文書研究会で発表

 ―興国二年(1341)、津軽大津波伝承―

 新年1月の講演会(1/14 福岡市、1/21 京都市)の前に、東京古田会主催の和田家文書研究会(1/13 14:00~)でリモートで研究発表します。テーマは、『東日流外三郡誌』や津軽藩系史料に記された〝興国の津軽大津波伝承の考察〟です。
和田家文書偽作キャンペーンで偽作の根拠の一つとして、『東日流外三郡誌』に見える〝興国二年(1341)、津軽大津波〟はなかったというものがありました。興国の大津波は考古学的痕跡も無く、和田家文書にしか記されていないことを偽作の根拠としました。しかし、興国の大津波は津軽藩系史料にも記されており(注)、偽作キャンペーンがここでも虚偽情報を流していたことが明らかとなりました。こうしたことを和田家文書研究会で発表させていただきます。
なお、この発表の後すぐに、翌日に控えた九州古代史研究会での講演のために福岡へ向かいます。

(注)
○古賀達也「洛中洛外日記」3107~3109話(2023/09/08~10)〝地震学者、羽鳥徳太郎さんの言葉 (1)~(3)〟
○同「洛中洛外日記」3110話(2023/09/11)〝興国二年大津波の伝承史料「津軽系図略」〟
○同「洛中洛外日記」3111話(2023/09/12)〝“興国の大津波”の伝承史料「津軽古系譜類聚」〟
○同「洛中洛外日記」3112話(2023/09/13)〝“興国の大津波”の伝承史料「前代御系譜」〟
○同「洛中洛外日記」3113話(2023/09/14)〝“興国の大津波”は元年か二年か〟