第3132話 2023/10/05

藤原京「長谷田土壇」の理論考古学 (三)

 藤原宮下層から出土した「先行条坊」により、藤原宮(京)研究は新たな問題に直面しました。それは、藤原宮(大宮土壇、橿原市高殿)よりも藤原京条坊都市が先行して造営されていたことを意味し、それならば条坊造営時には別の場所に「先行王宮」があったのではないかという可能性です。この「先行王宮」候補地として、喜田貞吉が提唱していた長谷田土壇(橿原市醍醐)をわたしは作業仮説として「洛中洛外日記」で提案しました。

 〝藤原宮には考古学的に大きな疑問点が残されています。それは、あの大規模な朝堂院様式を持つ藤原宮遺構の下層から、藤原京の条坊道路やその側溝が出土していることです。すなわち、藤原宮は藤原京造営にあたり計画的に造られた条坊道路・側溝を埋め立てて、その上に造られているのです。
この考古学的事実は王都王宮の造営としては何ともちぐはぐで不自然なことです。「都」を造営するにあたっては当然のこととして、まず最初に王宮の位置を決めるのが「常識」というものでしょう。そしてその場所(宮殿内)には条坊道路や側溝は不要ですから、最初から造らないはずです。ところが、現・藤原宮はそうではなかったのです。この考古学的事実からうかがえることは、条坊都市藤原京の造営当初は、現・藤原宮(大宮土壇)とは別の場所に本来の王宮が創建されていたのではないかという可能性です。
実は藤原宮の候補地として、大宮土壇とは別にその北西にある長谷田土壇も有力候補とされ、戦前から論争が続けられてきました。〟(注①)
〝藤原宮を「長谷田土壇」とした喜田貞吉説の主たる根拠は、大宮土壇を藤原宮とした場合、その京域(条坊都市)の左京のかなりの部分が香久山丘陵にかかるという点でした。ちなみに、この指摘は現在でも「有効」な疑問です。現在の定説に基づき復元された「藤原京」は、その南東部分が香久山丘陵にかかり、いびつな京域となっています。ですから、喜田貞吉が主張したように、大宮土壇より北西に位置する長谷田土壇を藤原宮(南北の中心線)とした方が、京域がきれいな長方形となり、すっきりとした条坊都市になるのです。〟(注②)

 他方、一元史観の通説に基づく考古学者たちは、藤原宮下層先行条坊の存在理由に〝苦肉〟の解釈(注③)を試みましたが、いずれも矛盾をかかえており、成功していません。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」544話(2013/03/28)〝二つの藤原宮〟
②同「洛中洛外日記」545話(2013/03/29)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟
③藤原宮造営予定地に条坊を施工した理由の説明として、藤原宮の位置が条坊敷設当初には決まっていなかったとする説がある(宮地未定説)。先行条坊が宮外の藤原京条坊と同規格で作られており、藤原宮の下層に建物や塀が建てられ、宮外と同じように坪内が利用された時期があり、当初その場所が藤原宮になることが決定していなかったと考える説。しかし、京の造営という国家的計画が、宮地未定のまま進められたというのは不自然。
これに対し、藤原宮は先行条坊を基準に設計されており、先行条坊は宮・京を設計するための測量成果を土地に記すという意味もあり、宮建設予定地に条坊施工がなされていることは不自然ではないとする説もある(測量基準説)。この説では、宮内にくまなく条坊側溝を掘削した理由を説明できない。藤原宮造営時、既に先行条坊の側溝は埋め立てられており、埋め立てから藤原宮の建設開始までには数年の時間があくことも、測量基準説には不都合な事実である。


第3131話 2023/10/04

『東京古田会ニュース』No.212の紹介

 『東京古田会ニュース』212号が届きました。拙稿「数学の証明と歴史学の証明 ―荻上紘一先生との対話―」を掲載していただきました。これは古代史研究ではなく、学問論に関するものです。昨年の八王子セミナーのおり、追加でもう一泊したので、数学者の荻上先生と対話する機会をいただき、そのやりとりを紹介した論稿です。

 わたしが専攻した化学(有機合成・錯体化学)は〝間違いを繰り返し、新説を積み重ねながら「真理」に近づいてきた。したがって自説もいずれは間違いとされ、乗り越えられるはずだと科学者は考え、自説が時代遅れになることを望む領域〟でしたが、数学は〝一旦証明されたことは未来に渡って真実であり、変わることはなく、そのことを全ての数学者が認め、ある人は認め、別の人は反対するということはあり得ない〟領域とのこと。このような化学・歴史学と数学の性格の違いを知り、とても刺激的な対談でした。

 当号の一面には讃井優子さんの「三多摩の荒覇吐神社巡り」が掲載されており、関東にある研究団体だけに、和田家文書や荒覇吐神への強い関心がうかがえます。安彦会長からも「和田家文書備忘録2 阿部比羅夫の蝦夷侵攻」という『北鑑』の研究が発表されています。『北鑑』は『東日流外三郡誌』の続編的性格を持つ和田家文書で、わたしも基礎的な史料批判を進めているところです。ちなみに、安彦さんのご協力も得て、『東日流外三郡誌の逆襲』(仮題)という本の発行に向けて執筆と編集作業を進めています。順調に運べば、来春にも八幡書店から発刊予定です。ご期待下さい。


第3130話 2023/10/03

藤原京「長谷田土壇」の理論考古学 (二)

 〝もうひとつの藤原宮〟の可能性を持つ「長谷田土壇」(橿原市醍醐)ですが、長谷田土壇説を提起した喜田貞吉の根拠や論理性は優れたものです。喜田の長谷田土壇説について、木下正史さんは著書『藤原京』(注①)で次のように紹介しています。

〝一九一三(大正二)年、喜田は藤原宮と京に関する優れた問題意識と理論を背景に斬新な新説を打ち出す。まず大宝令職員令にみえる左・右両京職の下に「坊令」一二人を置く、という規定に注目する。坊令は四坊ごとに一人置く規定だから、藤原京は南北一二単位、東西は朱雀大路を中心に左右両京をそれぞれ四単位に分割する碁盤目状の街区からなっており、その「坊」の一単位は令大尺の七五〇尺(約二六五メートル)になるはずだ、と考えた。(中略)
大宮土壇を中心として、南北一二条、左右京各四坊の京の範囲を現地に当てはめると、左京のかなりの部分が香具山などの丘陵地にかかってしまう。喜田は、藤原京=大宮土壇説は不都合だと考え、『扶桑略記』などが記す「鷺巣坂」に注目する(注②)。(中略)式内社鷺巣神社は、畝傍・香具山両山のほぼ中央にあり、ここに朱雀大路が通っていたのではないか。神社の北にある小字「門の脇」は朱雀門に関わる地名だろう。鷺巣神社の真北約一キロ、醍醐町集落の西はずれの小字「長谷田」に、周囲約一八メートル、高さ約一・五メートルの土壇がある。古瓦が出土し、近くで礎石も発見されている。「長谷田土壇」は藤原宮の建物跡で、大宮土壇は記録に残っていない寺院跡とみるべきだろう。〟『藤原京』14~16頁

 このように喜田の長谷田土壇説を説明し、木下さんは次のように絶賛します。

 〝喜田説は、地形や地名、古代の道路、文献史料などを綿密に、また多角的に検討し、それらを総合して打ち出した説得力ある論考であった。(中略)藤原京の構造復元に果たした意義は大きく、今なお光彩を放つ研究成果である。〟『藤原京』18頁

 わたしもこの見解に賛成です。そしてこの喜田の長谷田土壇説の再評価をうながす発見がありました。それは大宮土壇の藤原宮下層から出土した「先行条坊」です。この発見は、決着を見たはずの「藤原宮」所在地論争の新たな出発点となりました。(つづく)

(注)
①木下正史『藤原京 よみがえる日本最初の都城』中公新書、2003年。
②『扶桑略記』や『釈日本紀』によると、藤原宮は「鷺巣坂」の北にあると記されている。


第3129話 2023/10/02

藤原京「長谷田土壇」の理論考古学(一)

八王子セミナー(11月11~12日、注①)の開催日が近づいてきました。同セミナーで討議予定の藤原宮(京)研究において、特に注目されている〝もうひとつの藤原宮〟問題、「長谷田土壇」について論究することにします。

藤原宮の所在地については江戸時代ら大宮土壇(橿原市高殿)が有力視されてきましたが、喜田貞吉(注②)が長谷田土壇説(橿原市醍醐)を発表し、その根拠や論理性が優れていたため、論争へと発展しました。その後、大宮土壇の発掘が開始され、大型宮殿遺構が出土したことにより、この論争は決着がつき、今日に至っています。

しかし、わたしは喜田貞吉の指摘した論理性は今でも有力とする見解を「洛中洛外日記」(注③)で表明しました。

〝藤原宮を「長谷田土壇」とした喜田貞吉説の主たる根拠は、大宮土壇を藤原宮とした場合、その京域(条坊都市)の左京のかなりの部分が香久山丘陵にかかるという点でした。ちなみに、この指摘は現在でも「有効」な疑問です。現在の定説に基づき復元された「藤原京」は、その南東部分が香久山丘陵にかかり、いびつな京域となっています。ですから、喜田貞吉が主張したように、大宮土壇より北西に位置する長谷田土壇を藤原宮(南北の中心線)とした方が、京域がきれいな長方形となり、すっきりとした条坊都市になるのです。
こうして「長谷田土壇」説を掲げて喜田貞吉は「大宮土壇」説の学者と激しい論争を繰り広げます。しかし、この論争は1934年(昭和九年)から続けられた大宮土壇の発掘調査により、「大宮土壇」説が裏付けられ、決着を見ました。そして、現在の定説が確定したのです。しかしそれでも、大宮土壇が中心点では条坊都市がいびつな形状となるという喜田貞吉の指摘自体は「有効」だと、わたしには思われるのです。〟(つづく)

(注)
①正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」。公益財団法人大学セミナーハウスの主催。実行委員会に「古田史学の会」(冨川ケイ子氏)が参画している。
②喜田貞吉(きた・さだきち、1871~1939年)は、第二次世界大戦前の日本の歴史学者、文学博士。考古学、民俗学も取り入れ、学問研究を進めた。法隆寺再建論争で、再建説を主張したことは有名。
③古賀達也「洛中洛外日記」544話(2013/03/28)〝二つの藤原宮〟
同「洛中洛外日記」545話(2013/03/29)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟


第3128話 2023/10/01

「そこまで言って委員会NP」(読売テレビ)

      で古田説を紹介

 本日の午後、散歩から帰ってテレビをつけると、「そこまで言って委員会NP」(読売テレビ、注①)の特集「古代史スペシャル」が放送されていました。「邪馬台国」の所在地をテーマに、八名のバネリストが討論するのですが、明治天皇の玄孫の竹田恆泰さん(注②)が、古田説を古田武彦という名前も出して紹介され、テロップにも「古田武彦 (日本の思想史学者・古代史家)」と記されており驚きました。幸い、妻が気を利かして同番組を録画していましたので、再確認もできました。

 それは、古田先生が『「邪馬台国」はなかった』で発表した〝倭人伝の部分里程の合計が総里程の「一万二千余里」になる〟ことを計算式を出して説明し、「邪馬台国」は九州で決まりとするものでした。更に、井沢元彦さんのトンチンカンな「邪馬台国」東遷説や「邪馬台」を当時の発音で「やまど」とする主張を厳しく批判し、『三国志』倭人伝の原文は「邪馬台国」ではなく邪馬壹国(やまいちこく)であり、ヤマドとは読めないと指摘しました。限られた発言時間枠での、わかりやすい古田説の説明でした。以前、竹田さんは倭人伝など中国史書は信用できないとされていたはずですが、倭人伝の原文(邪馬壹国)や里程記事を前提として成立した古田説を支持していることを自らテレビで公言されたのです。わたしのなかで、竹田さんの〝好感度〟は一気に上がりました。

 映画「Fukushima 50」の原作者、門田隆勝さん(注③)も『隋書』俀国伝の「阿蘇山噴火」記事を紹介され、九州説を支持されました。恐らくは古田先生の九州王朝説もご存じのことと思われ、古田説が世に広がっていることに感動しました。先生がご健在であれば、どれほど喜ばれたことでしょう。

 なお、竹田さんも門田さんも保守系言論人として有名ですが、40~50年前はどちらかというと、左派系・リベラル系のメディア(朝日新聞)や言論人(筑紫哲也さん・他)に古田説支持者が多かったことを考えると、時代が大きく変化しつつあるようで興味深く思われます。「市民の古代研究会」時代は、共産党の国会議員が古田先生の講演会に参加されていたほどです。わたしが知る限りでは、この二十年は産経新聞(古田先生による書評を連載。先生も同紙を講読)をはじめ保守系言論人(百田尚樹さん、注④)、保守系国会議員に古田説支持が見られるようになりました(古田説すべての支持ではないが)。この変化は現代日本思想史のテーマでもあり、今後、どのようなメディアや人々が、どのような理由で古田説を支持・紹介するのか注目したいと思います。

(注)
①『そこまで言って委員会NP』(そこまでいっていいんかい エヌピー)は読売テレビのバラエティ番組。放送開始時は『たかじんのそこまで言って委員会』で司会を務めていたやしきたかじんの冠番組。没後の2015年に改題。
②竹田恒泰(たけだ・つねやす)氏は政治評論家・作家・実業家。旧皇族(竹田宮家)出身で、男系では北朝第三代崇光天皇の十九世、女系では明治天皇の玄孫。今上天皇の三従兄弟にあたる。
③門田隆将(かどた・りゅうしょう)氏はノンフィクション作家・ジャーナリスト。福島原発事故後の状況を現地で取材し、『死の淵を見た男 ―吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日―』(2012年)、『記者たちは海に向かった ―津波と放射能と福島民友新聞―』(2014年)を刊行。前書は2020年に映画化(Fukushima50)された。
④古賀達也「洛中洛外日記」1784話(2018/11/13)〝百田尚樹著『日本国紀』に「古田武彦・九州王朝」


第3127話 2023/09/30

『朝倉村誌』の「天皇」地名を考える (3)

 各地に遺る「天皇」地名の多くは牛頭天王(牛頭天皇)信仰に由来すると考えてもよいように思うのですが、それにしても愛媛県東部地域に最濃密分布する理由をうまく説明できません。これには何らかの歴史的背景があったとわたしは推察しています。そのことを説明できる一つの作業仮説として、七世紀の九州王朝の時代、当地に天皇号を称した有力者がいたのではないかと考えました。すなわち、九州王朝の天子(倭国のナンバーワン権力者)の下、当地の有力者がナンバーツーとしての「天皇」を名乗っていたとする仮説です。

 従来の古田説(旧説)では、九州王朝下のナンバーツーとしての「天皇」は近畿天皇家のこととされてきました。他方、ナンバーツー「天皇」が、近畿天皇家以外にも多元的に存在(併存)したのではないかとわたしは考えるようになりました(注①)。その具体例として、『大安寺伽藍縁起』の「袁智天皇」に注目しました。すなわち、九州王朝から許された「袁智天皇」の称号が由来となって、当地(越智国)に「紫宸殿」や「天皇」地名が遺存したのではないか。そして、701年以後、「天皇」号を大和朝廷から剥奪された越智氏はそれを地名や伝承として遺したのではないでしょうか。

 このことの傍証として、越智氏関連史料中に一族の人物に対して、「伊予皇子」(注②)、「伊予ノ大皇」「伊予土佐ノ国皇」「玉興皇」(注③)という、「王」ではなく、天皇の「皇」の字を用いた呼称が散見されます。こうした史料事実や「天皇」地名の存在から、九州王朝配下の大豪族、越智氏が「天皇」を名乗ることを許されたと考えることができそうです。同時に、近畿の大豪族、近畿天皇家(後の大和朝廷)もナンバーツー「天皇」を名乗ることが許された、あるいは任命されたものと推定しています。この多元的「天皇」の併存という仮説であれば、野中寺彌勒菩薩台座銘の「中宮天皇」や、『大安寺伽藍縁起』の「袁智天皇」「仲天皇」という史料情況を無理なく説明できるのではないでしょうか。(おわり)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2996~3003話(2023/04/25~05/02)〝多元的「天皇」併存の新試案 (1)~(4)〟
②「両足山安養院車無寺(無量寺の旧名)」『朝倉村誌 下巻』朝倉村誌編さん委員会、1986年(昭和61年)、1464頁。
③「玉興越智郡拝志新館ニ移事(抄)」『朝倉村誌 下巻』朝倉村誌編さん委員会、1986年(昭和61年)、1754頁。


第3126話 2023/09/29

全国の「天皇」地名

 「洛中洛外日記」連載中の〝『朝倉村誌』の「天皇」地名を考える〟をFaceBookで紹介したところ、Yoshio Kojimaさん(宝塚市)から、国内に現存する「天皇」地名について、次のコメントをいただきました。

〝古賀様 富山県にも有ります。「砺波市 安川 字天皇」です。徳島県にもあるようです。「美馬郡 つるぎ町 半田 天皇」〟

 わたしは両「天皇」地名のことを知りませんでしたので、この情報に驚きました。そして、もしかすると他にも「天皇」地名が在るのでないかと思い、webなどで調査したところ、本日時点で、次の「天皇」地名が見つかりました。この中には、市町村合併や地名変更により、現在の地図では確認できないものもありますが、明治期には存在していたと思われます。

【国内の「天皇」地名】
※〔未確認〕とあるものは、web上の地図では確認できなったもので、存在しないということでは無い。

《四国以外》
宮城県仙台市泉区実沢細椚天皇 ※当地に須賀神社がある。
宮城県仙台市泉区野村天皇  ※当地に須賀神社がある。
福島県喜多方市塩川町小府根午頭天皇 ※当地に牛頭天皇神社がある。
愛知県安城市古井町天皇
京都府綴喜郡宇治田原町荒木天皇 ※当地に大宮神社がある。

《四国》
徳島県美馬郡つるぎ町半田天皇 ※近隣に式内建神社がある。

香川県高松市林町天皇
香川県仲多度郡まんのう町四條天皇

愛媛県西条市福武甲天皇 ※当地に天皇神社(スサノオと崇徳上皇を祭神とする)がある。崇徳上皇来訪伝承があり、それにより「天皇」地名が付けられたとされているようである。
愛媛県西条市明理川(天皇) ※〔未確認〕
愛媛県西条市丹原町長野天皇 ※近隣に無量寺がある。
愛媛県今治市朝倉天皇

高知県高知市春野町弘岡上天皇 ※当地に天皇神社がある。
高知県香南市香我美町徳王子天皇 ※〔未確認〕
高知県香南市夜須町国光天皇

 それぞれに由来があり、その是非や、「天皇」地名成立がどの時代なのかは検証が必要ですが、四国に濃密分布していることは注目されます。また、仙台市の二つの「天皇」の地に須賀神社があることは、愛媛県今治市朝倉の「天皇」に須賀神社があるここと関係があるのかもしれません(注)。以上、現時点での調査結果を紹介しました。引き続き、調査します。Yoshio Kojimaさんのご教示に感謝いたします。

(注)各地の須賀神社は牛頭天皇やスサノオを祭神としており、この牛頭天皇により「天皇」地名が成立したとするのが一般的な見解と思われる。この解釈は有力とは思われるが、それだけでは、なぜ四国に「天皇」地名が濃密分布するのかの説明が困難である。なお、ウィキペディアの「須賀神社」の項によれば、四国地方は高知県のみ須賀神社が集中(13社)している。


第3125話 2023/09/28

『朝倉村誌』の「天皇」地名を考える (2)

 九州王朝の故地、北部九州でも神功皇后や斉明天皇、天智天皇の伝承が少なからずありますが、当地の地名に「天皇」という表記が使われている例をわたしは知りません。ところが、愛媛県東部地域には「天皇」地名が少なからず遺っています。これは偶然ではなく、何らかの歴史的背景があったとわたしは推察しています。このことを多元史観・九州王朝説の視点で考察してみます。
まず「天皇」地名成立のケースとして、次の可能性が考えられます。

(A)須佐之男命を祭神とする「牛頭天王」社が、後に「天皇」と表記され、その地の地名になった。
(B)近畿天皇家の天皇が当地を訪問したことなどにより、「天皇」地名が付けられた。
(C)九州王朝の天子(天皇)が当地を訪問したことなどにより、「天皇」地名が付けられた。
(D)九州王朝の天子(倭国のナンバーワン権力者)の下の当地の有力者がナンバーツーとしての「天皇」を名乗ったことにより、「天皇」地名が付けられた。
(E)当地の権力者の意思とは関係なく、あるとき誰かが勝手に「天皇」地名を付け、周囲の人々もその地を「天皇」と呼ぶようになった。

 以上のような可能性を考えられますが、恐らくは一元史観に基づく(A)の解釈が有力視にされていると思われます。たとえば、『朝倉村誌』(注①)には、「野田・野々瀬の須賀神社 朝倉天皇(須佐之男命を牛頭天王というため)」と説明されています。〝大和朝廷の天皇以外に天皇はなし〟という一元史観では、こうした解釈を採用するしかないのでしょう。

 (B)のケースは、同じく『朝倉村誌』に見える「與陽越智郡日吉郷南光坊由来之事 (中略)車無寺と号す 開祖は天皇に供奉し玉う大現の弟子無量上人也 朝倉両足山天皇院無量寺也」(下巻、1731頁)があります。しかし、この説明は後代の大和朝廷の時代になってから造作されたものではないでしょうか。この点、後述します。

 (C)のケースとしては、久留米市の大善寺玉垂宮にあったと記録されている「天皇屋敷」があります。
「〔御船山ノ社官屋敷ノ古圖〕に開祖安泰東林坊〈大善寺等覺院座主職なり今は絶て其跡天皇屋敷といふなり〉(後略)」『太宰管内志』(注②) ※〈〉内は細注。

 この「天皇屋敷」の由来は未調査ですが、筑後地方は九州王朝の中枢領域であり、「倭の五王」時代には筑後地方に遷宮していたと思われますので(注③)、九州王朝の天子(天皇)との関係を想定してもよいかと思います。しかし、この場合でも地名が「天皇」と名付けられたわけではありませんので、朝倉村の地名としての「天皇」のケースと同じではありません。

 (D)のケースに相当するのが、朝倉村など愛媛県東部地域に散見する「天皇」地名ではないかと考えています。この点、後述します。

 (E)は検証困難な仮説ですし、一介の人物が権力称号「天皇」を地名に採用し、それを周囲も使用するということは起こりえない現象と思われますので、今回の検証作業からは除外することにします。(つづく)

(注)
①伊藤常足『太宰管内志』天保十二年(1841)〈歴史図書社、1969年(昭和44年)、中巻162頁〉
②『朝倉村誌』朝倉村誌編さん委員会、1986年(昭和61年)。
③古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。


第3124話 2023/09/27

TV番組「パリピ孔明」に想う

 今日から始まったフジテレビの番組「パリピ孔明」(注①)を見ました。五丈原の戦いで没した諸葛亮孔明(向井理さん)が現代日本に現れ、上白石萌歌さん演じる無名の歌手・月見映子を権謀術策でスターにしていくというドラマのようです。その中で三国志の名場面や名言が効果的に用いられ、ついつい最後まで見てしまいました。

 わたしが注目したのは、「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」で有名な馬謖の話が主人公らの会話に登場したことでした。これは三国志の中でも印象的なシーンの一つで、軍事行動(街亭の戦)のさい、孔明の作戦に従わず、自軍を敗戦に導いた罪により、孔明が愛する部下、馬謖を処刑したという話です。この経緯を古田先生が『邪馬一国の道標』(注②)で解説し、馬謖が死に臨んで、孔明に送ったと伝えられている手紙を紹介されました。

「あなたは、わたしを自分の子供のように可愛がってくれ、わたしもあなたを父のように慕ってきた。だから、わたしは、今回処刑されてあの世へ行っても恨むところはない」(襄陽記)

 ちなみに、『三国志』の著者陳寿の父は、馬謖の参謀(参軍)だったとのことです。陳寿にとって、孔明は郷土・蜀の英雄であり、『三国志』に「諸葛亮伝」を設けています。しかし、孔明への評価は、「諸葛亮の相国たるや…(略)…識治の良才と謂う可し。管・蕭(注③)の亞匹(あひつ)なり。然るに連年衆を動かして未だ成功する能わず。蓋(けだ)し応変の将略、其の長とするに非ざるか。」とあり、その人柄や見識を絶賛すると同時に、〝長年にわたって出兵し、魏軍と戦いながら勝てなかったのは、臨機応変の才能に長けていないからだ〟と手厳しい言葉で締めくくっています。

 古田先生によれば、諸葛孔明は馬謖亡き後、人材が乏しい蜀にあって、自らが元気なうちに魏と雌雄を決するのか、それとも和平に向かうのかを決断できなかったとのことです。そうであれば、一度の失敗で有能な馬謖を断罪したことこそ、孔明の大きな判断ミスだったのではないでしょうか。それに比べて、魏の曹操は、戦いに負けた将軍を〝勝敗は時の運〟と許しています。このリーダーシップの差が、魏と蜀の命運を分けたようにも思います。

 「パリピ孔明」を見ながら、このときの古田先生との会話を思い出しました。ちなみに、『邪馬一国の道標』はわたしが最も好きな先生の著作の一つです。

(注)
①原作は四葉タト。小川亮により漫画化され、『コミックDAYS』に連載後、現在は『週刊ヤングマガジン』(講談社)で連載中。
②古田武彦『邪馬一国の道標』講談社、1978年。ミネルヴァ書房から復刊。
③中国史上名宰相と言われた管仲と蕭何のこと。


第3123話 2023/09/25

『朝倉村誌』の「天皇」地名を考える (1)

 合田洋一さんの調査(注①)により、愛媛県東部地域に「天皇」地名が散見されることは知られていますが、今回入手した『朝倉村誌』(注②)にも記されていました。愛媛県越智郡の朝倉村(現・今治市)に遺された「天皇」地名類が次のように紹介されています。

○車無寺(後の無量寺)建立のこと (中略)院号を斉明天皇の祈願所なるが故に、天皇院と呼び、また年月を経て後、伊予皇子を御養育申し上げたため、安養院ともいった。(上巻、198頁)
○須賀神社(天王宮) 旧村社
〔由緒沿革〕斉明天皇の御宇に創立されたという。(中略)もと朝倉天皇又は野田宮とも称した。(下巻、1312~1313頁)
○野田・野々瀬の須賀神社
・朝倉天皇(須佐之男命を牛頭天王というため)。または野田宮ともいう。
・丸亀市本島の寺に「朝倉天皇宮」の鰐口がある。(下巻、1505~1506頁)
○與陽越智郡日吉郷南光坊由来之事
(中略)車無寺と号す 開祖は天皇に供奉し玉う大現の弟子無量上人也 朝倉両足山天皇院無量寺也 (下巻、1731頁)
○伊予国越智郡朝倉南村地誌
(中略)本郡孫兵衛作村ニ界ス其ヨリ天皇溝上流ニ至ル(中略)
西ハ天皇溝上流ニ起線シ風呂本拾六番地ニ至ル川ヲ以テ朝倉北村ニ界シ(後略) (下巻、1792頁)
○橋 天王橋 (下巻、1795頁)
○実報寺往還ノ選位朝倉北村飛地天皇橋ニ起リ(中略)同天皇橋前ニテ左右ヘ桜井往還ヲ岐ス (下巻、1796頁)
○社 須賀社村社ニシテ(中略)笠松山尾端字天皇ニアリ (下巻、1797頁)

 以上のように、車無寺(後の無量寺)の「天皇院」、朝倉南村の「天皇溝」「天皇橋」と字地名「天皇」の記事が見えます。斉明天皇との関係で由来が書かれている「天皇院」と、具体的な天皇名を付されていない「天皇溝」「天皇橋」「天皇」とがあり、なぜ朝倉村にこうした名称が現在まで伝わっているのか不思議です。北部九州でも神功皇后や斉明天皇、天智天皇の伝承が少なからずありますが、地名に「天皇」という表記が使われている例をわたしは知りません。701年、大和朝廷が成立した後に、こうした最高権力者の名称を大和から遠く離れた地で、誰かが勝手に命名使用するということはちょっと考えにくいのです。ですから、朝倉村など愛媛県東部地域に、こうした「天皇」地名が少なからず遺っているのは偶然ではなく、他地域とは異なる何らかの歴史的背景があったと考えるべきではないでしょうか。(つづく)

(注)
①合田洋一『葬られた驚愕の古代史』創風社出版、2018年。
②『朝倉村誌』朝倉村誌編さん委員会、1986年(昭和61年)。


第3122話 2023/09/24

『朝倉村誌』(愛媛県越智郡)を購入

 今日は久しぶりにご近所にある枡形商店街の古書店巡りをしました。あるお店の書棚の上の方に『朝倉村誌』の表題を持つ上下2巻セットの分厚い本を見つけました。どこの朝倉村だろうかと気になり、手にとって確認すると、愛媛県越智郡の朝倉村(現・今治市)でした。古田学派内では斉明天皇伝承で注目されている地です。価格も二千円と格安で、新品同様の良本ですので迷わず購入しました。同書は昭和61年(1986年)に出版されたもので、地元の伝承や寺社仏閣の史料などが収録されているのか心配でしたが、そこそこ掲載されていたので、お買い得でした。

 ざっと目を通したところ、朝倉村の字地名一覧が下巻末にありました。「ほのぎ」(注①)という一覧表で、その中の「朝倉上之村」に次の字地名がありました。

○「才明」  地番:1835 1836 地目:田
○「西明」  地番:1900 1901 1902 1903 地目:田
○「才明」  地番:2126 2127 地目:田
○「才明上」 地番:2128 2129 2130 2131 2132 地目:田

合田洋一氏の見解(注②)によれば、この字地名は九州王朝の天子、「斉明(サイミョウ)」が当地に来た痕跡とされています。

 末尾に「みょう(名・明)」がつく地名は、九州や四国を中心に西日本各地に分布し(注③)、関東や青森県にも見えます。明治政府が作成した「筑前国字小名聞取帳」(注④)によれば、「国」―「郡」―「町・村」―「小名」―「字」と区分けされ、「名」は「村」と「字」の中間にあるような行政単位です。表記例から判断すると、「名」の中に「字」があるというよりも、両者は併存しているようです。わたしは『朝倉村誌』に収録された「才明」「西明」は、この「みょう」地名ではないかと考えています。

(注)
①「ほのぎ」とは次のように説明されている。
「人の住む所には、おのずからその所有をはっきりするために、自分の持ち地を区画して、そこへ杭を立てて名をつけた。昔はこれをほのぎ(保乃木・穂乃木)といった。明治時代のはじめにほのぎを小字とし、小字を集めて村や町とした。」(愛媛県生涯学習センターHPによる)
②合田洋一『葬られた驚愕の古代史』創風社出版、2018年。
③古賀達也「洛中洛外日記」969話(2015/06/04)〝「みょう」地名の分布〟
同「九州・四国に多い『みょう』地名」『古田史学会報』129号、2015年。
④『明治前期 全国村名小字調査書』第4巻 九州、ゆまに書房、1986年。


第3121話 2023/09/23

中国史書「百済伝」に見える百済王の姓 (4)

 中国史書「百済伝」の百済王の名前を精査していて不思議に思ったのが、「扶餘」や「餘」の姓を持たない次の二人の百済王でした。

○『南斉書』:「百済王牟大」、「牟都」(牟大の亡祖父)。
○『梁書』:「牟都」(慶の子)、「牟太」(牟都の子)。
○『南史』:「牟都」(慶の子)、「牟大」(牟都の子)。

 理由はわかりませんが、この牟都(慶の子)と牟大(太)は姓が記されていません。また、牟都の父である百済王「慶」も何故か当該「百済伝」には姓が見えません。しかし、「慶」の父は「百済王餘映」(『宋書』)とあり、姓は「餘」です。そして、「牟太」の次に見える百済王は「王餘隆」(『梁書』『南史』)とあり、「餘」姓に戻っています。この件、引き続き中国史書を精査したいと思いますが、これら百済伝の記述を信用すれば、同一血族王権内での王位継承者(百済王)であっても、史書に「姓」が掲載されなかったり、中国風の名称表記と百済語名の漢字表記とで、史書上での扱いが異なるということかもしれません。

 百済王の名称表記や王統系図については異説もあり、今回の調査をもって、倭国の王姓理解について結論が出るわけではありません。古田学派での検証や論争、史料精査の動向に注目したいと思います。