第3154話 2023/11/08

三十年前の論稿「二つの日本国」 (9)

 「洛中洛外日記」前話に続いて、「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」から、「四、新羅と近畿天皇家」(後半)を転載します。
『三国史記』新羅本紀では九州王朝の後裔を日本国と記述し、大和朝廷を倭国と表している事例(哀荘王三年十二月条)があるなど、『旧唐書』の倭国(九州王朝)・日本国(大和朝廷)とは真逆の国名表記となっていることには、どのような歴史背景があったのか、それとも『三国史記』編纂時の認識や情報の混乱によるものなのか、興味深い問題です。もしかするとこれは、『旧唐書』と『新唐書』での倭国と日本国の併合関係、すなわち、どちらの国がどちらの国を併合したのかという、その関係が両書では逆転しているように見えることとも関係するのかもしれません。

 【以下転載】
四、新羅と近畿天皇家(後半)

 『三国史記』『続日本紀』ともに、相手の無礼を主張しているが、具体的には何を意味するのか。おそらく、その一つは列島代表者としての近畿天皇家の認知に関することと想像される。『三国史記』の記述から見る限り、新羅は九州王朝のみを日本国として認知し、近畿天皇家に対しては、実際には使節が往来しているにもかかわらず、それを記さないという態度をとっている。ようするに、日本国の代表とは認めていないのである。先にあげた、国書不在の口頭外交もそのことの現れではあるまいか。かかる対応は『旧唐書』の記す所の、中国側の態度とは正反対である。したがって、近畿天皇家にすれば、中国から認知されているにもかかわらず、新羅が認知しないことを「礼を欠く」としたのではないか。

 こうした一連の新羅と近畿天皇家、および東アジアの緊張状態を視野に入れた時、新羅が王族の一人、均貞を仮の王子として「倭国」へ人質に差し出そうとして本人の拒絶にあうという、先の『三国史記』の記事の内実が理解できるのである。これら『続日本紀』に記された近畿天皇家と新羅の国交記事からも、『三国史記』八〇二年条の「倭国」が、「日本国」=九州王朝との別国表記とすれば、それは近畿天皇家を指すという理解が妥当性を持つと考えられるのである。また、次節でふれるが、九州王朝は「倭」の字を嫌い、逆に近畿天皇家は自らの都を「大倭(やまと)」としていることから、この「倭」は「やまと」の意であるとの思量も可能であろう。

 さて、これら一連の論証は必然的に次のテーマを明らかとする。それは古田氏が倭国(九州王朝)から日本国(近畿天皇家)への中心権力の移動時期を論証する際の根拠とされた。『三国史記』文武王十年(六七〇)の記事は、その文面が示すとおり九州王朝の国号変更、すなわち倭国から日本国への変更記事と見るべきあったこと、これである。なぜなら、『三国史記』における倭国(六七〇年以前)と日本国(六七〇年以後)が同じ国である以上、文武王十年条の記事はそのまま国号変更記事と見るのが道理だからだ。古田氏は『旧唐書』の文脈によって倭国=九州王朝、日本国=近畿天皇家とされ、その定理を『三国史記』にまで援用されたのだが、その方法が否であること、これが一連の論証の帰結であった。次章ではこの帰結に立脚して、日本国という国号成立について論を進める。

 【転載おわり】(つづく)


第3153話 2023/11/07

三十年前の論稿「二つの日本国」 (8)

 今回は、「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」から、「四、新羅と近畿天皇家」(前半)を転載します。ここでは、九州王朝の後裔を日本国とする『三国史記』新羅本紀には、大和朝廷を倭国と表している事例(哀荘王三年十二月条)があることを紹介しました。すなわち、『旧唐書』の倭国と日本国とは真逆の国名表記が出現するのです。なぜこのような史料情況が発生したのか、理由はよくわかりませんが、不思議な現象です。

 【以下転載】
四、新羅と近畿天皇家

 それでは『三国史記』に新羅と近畿天皇家との関係を示す記事はないのであろうか。実はそれらしき記事がある。『失われた九州王朝』でも紹介された次の記事だ。

 均貞に大阿飡を授け、仮に王子と為し、倭国に質と以さんと欲す。均貞、之を辞す。〈新羅本紀、哀荘王三年(八〇二)十二月条〉

 この記事は八〇二年の事件であり、倭国が日本国へと国号変更した後のできごとだ。にもかかわらず、ここには旧国名の「倭国」と記されている。古田氏はこの倭国を九州王朝の後裔のこととされたが、これまでの論証の帰結からすれば事態は逆転する。この倭国こそ近畿天皇家を指し示す事例と考えられるのだ。

 『続日本紀』によれば、八世紀後半に至って近畿天皇家は対新羅強硬姿勢をとりはじめる。それは天平勝宝四年(七五二)六月条の記事からも推定できる。この時、新羅から王子金泰廉ら三百七十余名の大使節団が訪れているが、その内容は口頭での外交に留まり、国書を渡すことはなかった。こうした新羅使節の対応に対し孝謙天皇は、今後は新羅国王自ら来朝するか、代理であれば必ず上表文を持参するように申し渡している。いわば、新羅側の国書なき口頭外交を不満としているのだ。また、前節(二、すれちがう国交記事)にて指摘した『三国史記』と『続日本紀』に唯一対応可能な(7)の記事だが、具体的には『続日本紀』天平勝宝五年(七五三)二月条の「従五位下小野朝臣田守を以って遣新羅大使と為す。」という記事と対応しうる。そして、この田守の外交が失敗に終わったことが『続日本紀』天平宝字四年(七六〇)九月条の新羅の国使とのやりとりの中、近畿天皇家側の「小野の田守を派遣したとき、彼の国は礼を欠いた。故に田守は使事を行わず帰還した。」という発言により明らかとなる。他方、こうした外交上の失敗とは裏腹に、あるいはそれを見通した上で、この時期近畿天皇家は新羅との戦争準備を着々と推し進めている。

 たとえば、『続日本紀』天平宝字三年(七五九)八月には、大宰帥船親王を香椎廟に派遣して、新羅征伐の状を奉納している。翌九月には諸国に命じて五百艘の船を造営させ、三年以内に新羅を征伐する為とその目的を記している。このような近畿天皇家の圧力を感じてか、天平宝字七年(七六三)二月に新羅は二百十一名からなる大使節団を近畿天皇家に送っている。しかし、そこでも近畿天皇家は「今後は王子か、さもなければ執政大夫を派遣せよ」と強圧的な対応に終始している。こうして新羅と近畿天皇家は抜き差しならぬ緊張関係へと入っていく。しかも、近畿天皇家は渤海とは緊密な友好関係を作っており、新羅は北の渤海と南の近畿天皇家(あるいは九州王朝ともか)の挟撃を受ける危機的な状態に陥ったものと推定される。
【転載おわり】(つづく)


第3152話 2023/11/05

八王子セミナー発表資料集を精読

 今月11~12日に開催される八王子セミナー(注①)発表資料集「倭国から日本国へ」が届き、精読しています。発表テーマは次の通りです。

【古田武彦氏の業績に基づく論点整理】
大越邦生 そうだったのか「倭国から日本国へ」

【セッションⅠ】理系から見た「倭国から日本国へ」
谷川清隆 「地天泰」分類の進展 ―倭国から日本国へ―
川端俊一郎 法隆寺(南朝尺2等材)は太宰府法興寺の移築
谷本 茂 国名変遷の基本問題 ―倭国・扶桑国・日本国の関係―

【セッションⅡ】遺構に見る「倭国から日本国へ」
新庄宗昭 飛鳥時代(7世紀後半)の遺構解釈 ―飛鳥浄御原宮と藤原京―
古賀達也 律令制都城論と藤原京の成立 ―中央官僚群と律令制土器―

 いずれも古田学派論客にふさわしい内容です。なかでも谷本さん(古田史学の会・会員、神戸市)の資料に見える「旧新両唐書の“国名変更”解説の再検討」は、『新唐書』日本国伝の新読解を提起し、通説も古田説も誤読に基づいているとするものです。漢文解釈のハイレベルで難解な同仮説を、初めて聞くことになる参加者に短時間(30分)でどのように谷本さんが説明されるのだろうかと注目しています。

 セッションⅡでは、新庄さんとわたしの発表に基づいて、谷本さん・和田昌美さん(多元的古代研究会・事務局長)と司会の橘高修さん(東京古田会・副会長)も交えてパネルディスカッションが行われます。おそらく論点は、藤原京・藤原宮の造営時期と造営主体を、エビデンスに基づいてどのように理解するのかに集約されるものと思います。ちなみに、新庄さんとわたしの見解は八割方同じなのですが、藤原京(先行条坊)造営を孝徳期頃と古く見る新庄さんと(注②)、天武期頃とするわたしとで論議が進むことと思います。

 わたしは『日本書紀』などの文献解釈の前に、重要な考古学的史料事実を明らかにし、その有力エビデンスの存在を論者間で合意することから始めて、それらエビデンスの全てと矛盾なく整合する解釈(論証)とはどのようなものか、という順序で対話を進めたいと考えています。この方法は同セミナーの趣旨(evidence-based)にふさわしいと思います。

(注)
①正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」、公益財団法人大学セミナーハウスの主催。実行委員会に「古田史学の会」(冨川ケイ子氏)も参画している。
②新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。


第3151話 2023/11/04

『多元』No.178の紹介

 友好団体「多元的古代研究会」の会誌『多元』No.178が届きました。同号には拙稿「『宇曽利』地名とウスリー川」を掲載していただきました。

 同会の令和四年五月例会で、赤尾恭司さん(佐倉市)が「古代の蝦夷を探る 考古遺跡から見た古代の北東北(北奥)」を発表されました。東北地方の縄文遺跡の紹介をはじめ、沿海州やユーラシア大陸に及ぶ各種データや諸研究分野の解説がなされ、言語学やDNA解析による、古代人の移動や交流に関する研究は刺激的でした。

 そのとき、赤司さんが説明で使用された沿海州の地図にウスリー川があり、その中国語表記「烏蘇里江」の「烏蘇里」がウソリと読めることから、和田家文書『東日流外三郡誌』に見える地名の「宇曽利」と言語的に共通するのではないかと思い、同稿で言素論による考察を試みたものです。

 同号一面には、野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)の「『自A以東』等の用法」が掲載されており、会誌冒頭にふさわしい論稿と評価されたものと思われます。『三国志』倭人伝の「自女王国以北」や『隋書』俀国伝に見える「自竹斯国以東」など、「自A以東(北)」という文型について論じたもので、この文型においては、Aは「以東(北)」には含まれないことを論証したものです。「古田史学の会」関西例会でも発表されたテーマで、中国古典の読解における重要な提起です。


第3150話 2023/11/03

三十年前の論稿「二つの日本国」 (7)

 今回は、「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」から、「三、倭国の特産品、明珠の証言」を転載します。倭国は古くから特産物の宝石(珠類)を中国に献上してきたことが知られています。たとえば『三国志』倭人伝に倭国の産物として「真珠・青玉」が見え、壹與が白珠や孔青大句珠を献上したことが記されています。

 「出真珠、青玉。其山有丹。」
「壹與、遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人、送政等還、因詣臺。獻上男女生口三十人、貢白珠五千、孔青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。」『三国志』倭人伝

 『隋書』や『旧唐書』にも同類の記事があり、『三国史記』新羅本紀の次の記事に見える「明珠一十箇」に対応しています。

 日本国王、使を遣わし、黄金三百両、明珠一十箇進ず。〈憲康王八年(八八二)四月条〉

 こうした倭国(九州王朝)の特産物と『三国史記』に見える「明珠」との対応を、新羅本紀の国交記事に登場する日本国は近畿天皇家ではなく、九州王朝の後裔であることの傍証としました。

 【以下転載】
三、倭国の特産品、明珠の証言

 『三国史記』に表れた日本国から新羅への献上品は黄金と明珠だ。これと対応するのが同じく『三国史記』の倭国記事である。倭国からの献上品、あるいは特産物が記された記事は次の通りだ。

 使を倭国に遣わして、大珠を求めしむ。〈百済本紀、阿莘王十一年(四〇二)五月条〉
倭国、使を遣わして夜明珠を贈る。王、優礼して之を待う。〈百済本紀、腆支王五年(四〇九)条〉

 これらの記事から、九州王朝倭国の特産品に「大珠」「夜明珠」が記されており、先の日本国の献上品「明珠」と対応していることがわかる。それに比して、「六国史」などに記された近畿天皇家から新羅への献上品は「錦」「絁」などであり、その趣を異にしている。このように献上品・特産物といった点からも『三国史記』の倭国と日本国はともに九州王朝であるとする本仮説を支持するのである。
余談ながら、倭国の献上品・特産品については『旧唐書』にも次の記述がある。

 倭国、琥珀、瑪瑙を献ず。琥珀は大なること斗の如く、瑪瑙は大なること五斗器の如し。〈帝紀、永徴五年(六五四)十二月条〉

 ここでは倭国の献上品として具体的に琥珀と瑪瑙を記し、その大きさについても特筆している。これなども、先の「大珠」に通じるものと言えよう。次に「明珠」「夜明珠」で思い起こされるのが、『隋書』俀国伝の次の記事だ。

 如意宝珠有り。其の色青く、大きさ鶏卵の如し。夜は則ち光有り、と云う。魚の眼精なり。

 また有名な『魏志』倭人伝にも「真珠・青玉を出だす」「白珠五千孔・青大句珠二枚、異文雜錦二十匹を貢す」という記事が見えることから、三世紀から九世紀に至るまで、倭国は「珠」を献上品とする伝統を持っていたようである。また、おそらくは他国もこうした倭国の「珠」を珍品として重宝したものと思われる。
【転載おわり】(つづく)


第3149話 2023/11/02

三十年前の論稿「二つの日本国」 (6)

 前話に続いて、「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」の「二、すれちがう国交記事」後半部分を転載します。

 『三国史記』列伝に見える日本国記事(七七九年)と、それに対応するかのような同年の『続日本紀』記事との比較により、日本国王がいたのは大宰府であり、近畿天皇家の光仁天皇は平城京にいたことから、日本国王と記されたこの人物は九州王朝の後裔であるとしました。この論証は『三国史記』と『続日本紀』というエビデンスに基づいて成立しており、有力ではないでしょうか。

 【以下転載】
二、すれちがう国交記事 〔後半〕

 次に、雑志・列伝部分の記事も検討してみよう。まず(15)に見える日本国、これは近畿天皇家と思われる。新羅の東南とあるのだから九州とは見なしにくい。この記事は「宋祁の新書に云く」と、引用記事であることが銘記されているように、宋祁の新書すなわち『新唐書』からの引用なのである。したがってこの日本国が『新唐書』日本国伝の日本国=近畿天皇家を指すことは当然のことだ。しかし、これをもって『三国史記』の他の日本国も近畿天皇家とすることは妥当ではない。なぜなら、他の日本国記事は朝鮮半島の国、新羅で記された史料に基づいており、中国側の認識で記された『新唐書』からの引用記事とは史料性格が基本的に異なるのである。

 (17)の大暦十四年(七七九)の記事は『続日本紀』に見えることから、近畿天皇家との国交記事とすることも一応可能であるが、記事の内容に大きな問題点が存在する。『三国史記』の記事によれば、金厳はその能力を欲した日本国王から抑留されかかったところをたまたま同じ時期に日本国に来た唐の国使、高鶴林との出会いにより釈放されたという内容である。ところが『続日本紀』の次の記事から明らかなように唐使の高鶴林と金厳らは大宰府で出会っており、その後、近畿へと出向いているのだ。

 大宰府に勅す。唐客高鶴林等五人と新羅の貢朝使を共に入京させよ。〈宝亀十年(七七九)十月条〉

 このことから、金厳と高鶴林とが「相い見えて甚だ懽ぶ」という舞台は近畿ではありえず、最初に遭遇した大宰府と見るほかない。とすれば、金厳の才能を欲した日本国王は大宰府にいなければならないが、近畿天皇家の時の光仁天皇が大宰府にいたという記事はない。むしろ国使たちが近畿に赴いて天皇に拝賀したことが『続日本紀』には記されている。更に、『東国通鑑』によれば、金厳らの日本への遣使は七七九年三月とされており、同年十月に大宰府へ入京の勅がなされていることから、数ヶ月にわたり大宰府に留まっていたことになろう。とすれば、金厳は大宰府にいた日本国王により抑留され、太宰府に来た唐使高鶴林との出会いにより釈放されたと見るべきである。したがって、一見近畿天皇家との国交記事と思われた(17)の記事は、九州大宰府にいた日本国王、すなわち九州王朝との国交記事と見なすべき内実を持っていたのである。なお、雑志・列伝の他の日本国記事はその内容からはいずれとも判断しがたい。
以上、検証してきたとおり、『三国史記』に見える日本国は近畿天皇家にはあらず、九州王朝とするほうが妥当との結論を得たのであるが、更に傍証を固めたい。それは国交記事に表れる日本国の献上品(両国の上下関係は不明だがとりあえずプレゼントの意としてこの言葉を使用する)の問題である。
【転載おわり】(つづく)


第3148話 2023/11/01

三十年前の論稿「二つの日本国」 (5)

 今回は、「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」から、「二、すれちがう国交記事」の前半部分を転載します。『三国史記』新羅本紀に散見する日本国記事が日本側史料「六国史」とほとんど対応していないことを指摘し、新羅本紀に記された日本国を近畿天皇家とすることは困難であるとしました。この日本国記事が拙論成立の主要エビデンス(決め手)となりました。

 【以下転載】
二、すれちがう国交記事 〔前半〕

 『三国史記』新羅本紀に表れる日本国記事は次の通りだ。年代順に示す。なお検索と訳にあたっては佐伯有清編訳『三国史記倭人伝』を参照した。

(1) 倭国、更めて日本と号す。自ら言う。日出づる所に近し。以に名と為すと。〈文武王十年(六七〇)十二月条〉
(2) 日本国使、至る。王、崇礼殿に引見す。〈孝昭王七年(六九八)三月条〉
(3) 日本国使、至る。惣じて二百四人なり。〈聖徳王二年(七〇三)七月条〉
(4) 毛抜郡城を築き、以って日本の賊の路を遮る。〈聖徳王二十一年(七二二)十月条〉
(5) 日本国の兵船三百艘、海を越えて吾が東辺を襲えり。王、將に命じて兵を出さしめ、大いに之を破る。〈聖徳王三十年条(七三一)四月条〉
(6) 日本国使、至るも、納れず。〈景徳王元年(七四二)十月条〉
(7) 日本国使、至る。慢りて礼無し。王、之に見えず。乃ち廻る。〈景徳王十二年(七五三)八月条〉
(8) 日本国と交聘し、好を結ぶ。〈哀荘王四年(八〇三)十月条〉
(9) 日本国、使を遣わし、黄金三百両を進ず。〈哀荘王五年(八〇四)十月条〉
(10) 日本国使、至る。朝元殿に引見す。〈哀荘王七年(八〇六)三月条〉
(11) 日本国使、至る。王、厚く之を礼待す。〈哀荘王九年(八〇八)二月条〉
(12) 日本国使、至る。〈景文王四年(八六四)四月条〉
(13) 日本国使、至る。朝元殿に引見す。〈憲康王四年(八七八)八月条〉
(14) 日本国王、使を遣わし、黄金三百両、明珠一十箇進ず。〈憲康王八年(八八二)四月条〉

 次に雑志、列伝に記された日本国記事を挙げる。

(15) 宋祁の新書に云く。東南は日本。西は百済。北は高麗。南は海に浜う。〈地理一、新羅疆界条〉
(16) 臨関郡は、本の毛火(一に蚊伐に作る)郡なり。聖徳王、城を築き、以て日本の賊を遮る。景徳王、名を改む。今、慶州に合属す。〈地理一、良州条〉
(17) 大暦十四年己未、命を受けて日本国に聘えり。其の国王、其の賢なるを知りて、之を勒留せんと欲す。たまたま大唐の使臣高鶴林来たり、相い見えて甚だ懽ぶ。倭人、厳の大国の知る所為るを認めて、故に敢えて留めることをせず。乃ち還る。〈列伝第三、金庾信、下条〉
(18) 世に伝わる日本国の真人が新羅使の薛判官に贈る詩の序に云わく。(以下略)〈列伝第六、薛聡条〉

 以上が『三国史記』に記された「日本」関連の記事だ。新羅本紀中の国交記事の中で日本側正史「六国史」に年月ともに明確に対応しうる記事が存在するのはなんと(7)の七五三年の記事だけである。「六国史」には少なからぬ新羅への遣使記事や、新羅からの国使来朝記事が記されているにもかかわらず、『三国史記』に表れた日本との国交記事のほとんどに対応しないという史料事実が存在するのだ。はたしてこれだけの不一致が同じ国との国交記事と言えるのだろうか。
【転載おわり】(つづく)


第3147話 2023/10/31

三十年前の論稿「二つの日本国」 (4)

 拙論「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」は次の項目からなっています。

 序
一、消えた艦隊、九州王朝水軍のゆくえ
二、すれちがう国交記事
三、倭国の特産品、明珠の証言
四、新羅と近畿天皇家
五、二つの日本国
六、九州王朝の末裔たち
七、結び

 前話の「序」に続き、「一、消えた艦隊、九州王朝水軍のゆくえ」を転載します。白村江戦で大敗北を喫した倭国(九州王朝)水軍のその後について、『三国史記』新羅本紀の記事を紹介し、論じたものです。

 【以下転載】
一、消えた艦隊、九州王朝水軍のゆくえ

 九州王朝滅亡の直接の引金となったのが、白村江における敗戦であろうことは疑いがないところだが、ここにも一つの疑問がある。というのも『三国史記』や『旧唐書』によれば、白村江には千艘の倭国艦隊が投入されたが、内四百艘が焚かれたとある。とすれば半数以上の六百艘が残っていることとなり、敗戦とは言え戦力全てを失ったわけではなさそうだ。にもかかわらず、以後これら残存倭国艦隊は『続日本紀』などには見えず、その行方は不明であった。また、この時期近畿天皇家が水軍を擁していた痕跡も見あたらない。九州王朝の滅亡とともに、これら六百艘の倭国艦隊は雲散霧消してしまったのだろうか。

 この消えた倭国艦隊の行方を示唆する興味深い記事が他ならぬ『三国史記』に見える。新羅本紀、聖徳王三十年条(七三一)の次の記事だ。

 日本国の兵船三百艘、海を越えて吾が東辺を襲えり。王、將に命じて兵を出さしめ、大いに之を破る。(訳文は『三国史記倭人伝』佐伯有清編訳・岩波文庫による)

 古田説によれば『三国史記』において、倭国とあれば九州王朝で、日本国とあれば近畿天皇家であると、『旧唐書』の倭国伝および日本国伝の用例に従って区別されている。したがって、この記事中の日本国の兵船は近畿天皇家の軍隊ということになるのであろうが、この時期、近畿天皇家と新羅が交戦状態にあったとは『続日本紀』の記載からはうかがえない。とすれば、『三国史記』のこの記事は何かの間違いか、あるいは別のところから誤って紛れ込んだものであろうか。この答えも『三国史記』の次の記事により明らかである。

 毛抜郡城を築き、以って日本の賊の路を遮る。〈聖徳王二十一年(七二二)十月条〉

 これと同じ記事が『三国遺事』にも見えることから、まずは史実としなければならないが、この記事からも新羅と日本国とが武力衝突寸前の緊迫した事態であることが読み取れる。そしてこの九年後、先の日本国の兵船三百艘による新羅への軍事行動へとつながっていくのである。これらの記事から、この八世紀前半に新羅と日本国が事実上の交戦状態であったこと、これを疑えないのである。にもかかわらず、日本側の史書『続日本紀』にはかかる事態を示唆するような記載はない。とすれば、ここに記された日本国とは古田氏が言うように本当に近畿天皇家のことなのか、疑問はこの一点に収斂する。

 先にも指摘したが、この時期近畿天皇家が水軍を擁していた痕跡はない。また、この時期、新羅と交戦状態にあったという記事も『続日本紀』には見えない。にもかかわらず、『三国史記』には日本国の兵船による侵略行為を伝えている。この矛盾を解くために次の作業仮説を導入してみよう。すなわち、『三国史記』に記すところの日本国は九州王朝のことである。この仮説だ。もしこの仮説が正しければ、白村江での敗戦後姿を消した残存倭国艦隊の一部、あるいはそれを継承した水軍が『三国史記』に記されていたことになる。次章ではこの作業仮説を検証する。
【転載おわり】(つづく)


第3146話 2023/10/30

三十年前の論稿「二つの日本国」 (3)

 拙論「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」冒頭の「序」を転載します。執筆当時(1988年)の雰囲気やわたしの認識がうかがえます。

【以下転載】

一つの国家が地球上から姿を消した。ソビエト連邦の崩壊という現代史の一区画をなす時代に我々はいる。おそらくこの時代の評価は後世の史家によりくだされるであろうが、日本古代史においても、長く日本列島の代表者であった一国家の崩壊が、古田武彦氏の手により歴史の闇の中から白日の下にさらされた。九州王朝の興亡、これである。

 『魏志』倭人伝に見える邪馬壹国から七世紀に至るまで、中国史書に表れた倭国は北部九州を中心に連綿と存続した王朝、すなわち九州王朝であったことは、氏の著書『失われた九州王朝』などに詳しい。

 また、氏の説によれば、白村江での敗戦後、倭国(九州王朝)は急速に没落滅亡し、列島代表者の地位を近畿天皇家にとって代わられたという。その権力交替の時期を古田氏は『三国史記』の記事により六七〇年とされた。また、その実態が『旧唐書』における倭国伝と日本国伝に反映されていることも論証された(1)。

 これら一連の古田説の展開は瞠目すべき内容であるが、白村江以後八~九世紀における、いわゆる「滅亡」後の九州王朝について、氏はまだ十分に言及されていないようだ。よって、私は「滅亡」後の九州王朝についてこれまで少なからず論じ(2)、八~九世紀における九州王朝の存続説を提起してきた。これら拙稿の論点は作業仮説の提示に留まった点も多く、その論証上いま一つ安定感を欠いていたように思う。また、それらは主に国内史料に基づいた立論であった。

 本稿では国外史料とりわけ『三国史記』における倭国・日本国記事の史料批判により、八~九世紀における九州王朝の実像解明を試み、これまで主張してきたところの九州王朝存続説を補強したいと思う。そして白村江以後の列島における、「二つの日本国」という概念を提起することとなった。更には九州王朝と近畿天皇家がそれぞれどの時点において「日本国」を国号としたのかというテーマにも触れるが、この点に関して、九州王朝から近畿天皇家への中心権力の移動年次において古田説(六七〇年)と異なる結論に達したのでここに発表する。諸賢の御教正を切に願う。

(註)
(1)『失われた九州王朝』角川文庫、「新唐書日本伝の史料批判」『昭和薬科大学紀要二二号/一九八八年』
(2)「最後の九州王朝」『市民の古代・十集』所収。「九州王朝の末裔たち」『市民の古代・十二集』所収。「空海は九州王朝を知っていた」『市民の古代・十三集』所収。
【転載おわり】(つづく)


第3145話 2023/10/29

三十年前の論稿「二つの日本国」 (2)

 三十年前(1993年)に発表した拙論「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」(注①)の構成は次のようです。古田史学に入門して5年目頃に書いたものですが、論証や結論の当否は別として、一応、論文の体をなしているようです。

 二つの日本国
―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―

 序
一、消えた艦隊、九州王朝水軍のゆくえ
二、すれちがう国交記事
三、倭国の特産品、明珠の証言
四、新羅と近畿天皇家
五、二つの日本国
六、九州王朝の末裔たち
七、結び

 拙論の内容は古田説とは異なるものでしたが、『古代史徹底論争 「邪馬台国」シンポジウム以後』に採用していただきました。当時、わたしの関心事は、701年の王朝交代後の九州王朝がどうなったのかということでした。それまでにも関連論文を発表しており、古田先生から励ましやお褒めの言葉をいただいていましたので、夢中になって研究していました(注②)。若き日の懐かしい思い出です。(つづく)

(注)
①古賀達也「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」『古代史徹底論争 「邪馬台国」シンポジウム以後』古田武彦編著、駸々堂出版、1993年。
「最後の九州王朝 ―鹿児島県『大宮姫伝説』の分析―」『市民の古代』10集、新泉社、1988年。
「九州王朝の末裔たち ―『続日本後紀』にいた筑紫の君―」『市民の古代』12集、市民の古代研究会編、1990年。
「空海は九州王朝を知っていた ―多元史観による『御遺告』真贋論争へのアプローチ―」『市民の古代』13集、1991年、新泉社。


第3144話 2023/10/28

三十年前の論稿「二つの日本国」 (1)

 「洛中洛外日記」(注①)で紹介した、『旧唐書』に見える「日本国王夫妻」「日本国王子」を九州王朝王族の末裔ではないかと考えたことがありました。しかし、701年の王朝交代により倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)に列島の代表者が替わって百年から百五十年も後のことですから、ありえないことのように思いますが、なぜわたしがそのように考えたのかについて説明します。

 それは三十年前(1993年)に発表した「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」という論文にまで遡ります(注②)。拙稿を収録した古田武彦編著『古代史徹底論争』は入手困難のようでしたので、「洛中洛外日記」で紹介したこともありました(注③)。次の通りです。

〝同稿の主論点は『三国史記』新羅本紀に見える八~九世紀の日本国記事の日本は大和朝廷ではなく王朝交代後の“九州王朝”のことであるとするものです。すなわち、列島の代表王朝の地位を大和朝廷に取って代わられた後も、“九州王朝”は完全に滅亡したわけではなく、新羅と〝交流〟〝交戦〟していたとする仮説です。その根拠として、新羅本紀に記された日本国記事の内容が大和朝廷(近畿天皇家)の『続日本紀』の記事とほとんど対応していないことを指摘しました。

 一旦、この理解に立つと、新羅本紀の文武王十年(670年)の記事に見える倭国から日本国への国号変更記事(注④)は、九州王朝が国名を倭国から日本国に変更したと見なさざるを得ないとしました。〟(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」864話(2015/02/06)〝中華書局本『旧唐書』の原文改訂〟
同「洛中洛外日記」1174話(2016/04/24)〝日本国王子の囲碁対局〟
同「洛中洛外日記」1175話(2016/04/29)〝日本国王子の囲碁対局の勝敗〟
同「洛中洛外日記」3142話(2023/10/24)〝唐から帰国した「日本国王夫妻」記事〟
同「洛中洛外日記」3143話(2023/10/26)〝唐で囲碁を打った「日本国王子」〟
②古賀達也「二つの日本国 ―『三国史記』に見える倭国・日本国の実像―」『古代史徹底論争 「邪馬台国」シンポジウム以後』古田武彦編著、駸々堂出版、1993年。
③古賀達也「洛中洛外日記」3055話(2023/06/28)〝30年ぶりに拙論「二つの日本国」を読む〟
④「文武十年(670年)十二月、倭国、更(か)えて日本と号す。自ら言う「日の出づる所に近し。」と。以て名と為す。」『三国史記』新羅本紀第六、文武王紀。


第3143話 2023/10/26

唐で囲碁を打った「日本国王子」

 「洛中洛外日記」前話で、中華書局本『旧唐書』貞元二十一年(805)条に見える、「日本国王ならびに妻蕃に還る」という記事が中華書局本の誤読、句読点のミス(文章の区切り方の誤り)であり、正しくは「方(まさ)に釋(ゆる)すの日、本国王(吐蕃国王)ならびに妻(め)とり蕃(吐蕃)に還る。」とする、古田先生の読解を紹介しました。

 この〝日本国王夫妻〟に見える記事の他にも、『旧唐書』には不思議な記事があります。「洛中洛外日記」でも紹介しましたが(注①)、九世紀に日本国王子が唐で囲碁を打ったという次の記事です。

 「日本国の王子が来朝し、方物を貢じた。王子は碁を善くする。帝(宣帝)は棋待詔(囲碁をもって仕える官職)の顧師言(囲碁の名手)に命じて王子と対局させた。」『旧唐書』宣帝本紀・大中二年(848) ※意訳。

 唐の大中二年(848)は平安時代ですが、そのときに天皇家の皇子が唐に渡ったという記録が日本側にはありません。そこで、九州王朝の末裔の「皇子」が唐に渡り、『旧唐書』に記録されたのではないかとも考えました。しかし、九州王朝が滅んで約百五十年後に「日本国王子」を名乗って唐に行ったとしても、本物の日本国王子かどうか唐側が気づかないはずもなく、それは成立困難な思いつきでした。

 この日本国王子は「方物を貢じ」とあることから、日本国からの公式な使節として認識されています。その上、宣帝が囲碁の名人(顧師言)との対局を命じたとありますから、こうした出来事があったことを疑えません。この囲碁の対局については『杜陽雑編』(九世紀末成立)にも次の逸話があります(注②)。

 「皇帝の命で対局する顧師言はプレッシャーがかかる中、三十数手目に鎮神頭という妙手を打ち、勝ちました。日本国王子は唐の役人に顧師言は唐で何番目に強いのかとたずねると、三番目とのこと。実際は一番だったのですが、これを聞いた日本国王子は小国の一番は大国の三番に勝てないのかと嘆きました。」『杜陽雑編』巻下 ※要約。

 日本列島に囲碁が伝来したのはいつ頃かはわかりませんが、『隋書』俀国伝には「棊博を好む」との記事が見えますから(注③)、その頃には九州王朝(倭国)では囲碁が盛んだったと思われます。『旧唐書』の「日本国王子」記事も多元史観で検証したいのですが、史料(エビデンス)が限定されており、学問的仮説として提起できる段階には至っていません。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1174話(2016/04/24)〝日本国王子の囲碁対局〟
②『杜陽雑編』巻下に次の記事が見える。
「大中中、日本國王子來朝、獻寶器音樂、上設百戲珍饌以禮焉。王子善圍棋、上勅顧師言待詔為對手。王子出楸玉局、冷暖玉棋子、云本國之東三萬里有集真島、島上有凝霞臺、臺上有手談池、池中產玉棋子、不由制度、自然黑白分焉。冬溫夏冷、故謂之冷暖玉。又產如楸玉、狀類楸木、琢之為棋局、光潔可鑒。及師言與之敵手、至三十三下、勝負未決。師言懼辱君命、而汗手凝思、方敢落指、則謂之鎮神頭、乃是解兩征勢也。王子瞪目縮臂、已伏不勝、迴語鴻臚曰「待詔第幾手耶?」鴻臚詭對曰「第三手也。」師言實第一國手矣。王子曰「願見第一。」曰「王子勝第三、方得見第二 勝第二、方得見第一。今欲躁見第一、其可得乎」王子掩局而吁曰「小國之一不如大國之三、信矣」今好事者尚有《顧師言三十三鎮神頭圖》。」(「維基文庫」による)
古賀達也「洛中洛外日記」1175話(2016/04/29)〝日本国王子の囲碁対局の勝敗〟で紹介した。
③『隋書』俀国伝に次の記事が見える。
「毎至正月一日、必射戲飮酒。其餘節畧與華同。好棊博握槊檽浦之戲。」