第1226話 2016/07/09

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(6)

 わたしは「前期難波宮は九州王朝の副都」という論文を2008年に発表しました(『古田史学会報』85号、「古田史学の会」ホームページ「新・古代学の扉」に掲載)。九州王朝説に突き刺さった《三の矢》から九州王朝説を守るにはこの仮説しかないと、考え抜いた末の結論でした。

 しかし、古田先生からは賛同していただけない月日が永く続き、前期難波宮から九州の土器は出土しているのか、神籠石のような防御施設がない、副都の定義が不明確と次々とダメ出しをいただきました。また、各地で開催される講演会で、わたしの「前期難波宮九州王朝副都説」に対する見解を問う質問が参加者から出されるたびに、古田先生からは否定的見解が表明されるという状況でした。

 そうした中でわたしにできることはただ一つ、論文を書き続けることだけでした。もちろん古田先生に読んでいただくこと、そして納得していただきたいと願って研究と発表を続けました。次の論文がそうです。想定した第一読者は全て古田先生です。

《前期難波宮関連論文》※「古田史学の会」ホームページ「新・古代学の扉」に掲載
前期難波宮は九州王朝の副都(『古田史学会報』八五号、二〇〇八年四月)
「白鳳以来、朱雀以前」の新理解(『古田史学会報』八六号、二〇〇八年六月)
「白雉改元儀式」盗用の理由(『古田史学会報』九〇号、二〇〇九年二月)
前期難波宮の考古学(1)ーここに九州王朝の副都ありきー(『古田史学会報』一〇二号、二〇一一年二月)
前期難波宮の考古学(2)ーここに九州王朝の副都ありきー(『古田史学会報』一〇三号、二〇一一年四月)
前期難波宮の考古学(3)ーここに九州王朝の副都ありきー(『古田史学会報』一〇八号、二〇一二年二月)
前期難波宮の学習(『古田史学会報』一一三号、二〇一二年十二月)
続・前期難波宮の学習(『古田史学会報』一一四号、二〇一三年二月)
七世紀の須恵器編年 ー前期難波宮・藤原宮・大宰府政庁ー(『古田史学会報』一一五号、二〇一三年四月)
白雉改元の宮殿ー「賀正礼」の史料批判ー(『古田史学会報』一一六号、二〇一三年六月)
○難波と近江の出土土器の考察(『古田史学会報』一一八号、二〇一三年十月)
○前期難波宮の論理(『古田史学会報』一二二号、二〇一四年六月)
○条坊都市「難波京」の論理(『古田史学会報』一二三号、二〇一四年八月)

 論文発表と平行して「古田史学の会」関西例会でも研究報告を続けました。そうしたところ、参加者から徐々に賛成する意見が出され始めました。西村秀己さん、不二井伸平さん、そして正木裕さんは『日本書紀』の史料批判に基づいてわたしを支持する研究発表をされるようになり、近年では服部静尚さんも新たな視点(難波宮防衛の関)から前期難波宮副都説支持の研究を開始されました。

 そして2014年11月8日の八王子セミナーの日を迎えました。古田先生との質疑応答の時間に参加者からいつものように「前期難波宮副都説をどう思うか」との質問が出されました。わたしは先生を凝視し、どのような批判をされるのかと身構えました。ところが、古田先生の返答は「今後、検討しなければならない問題」というものでした。6年間、論文を書き続け、ついに古田先生から「否定」ではなく、検討しなければならないの一言を得るに至ったのです。検討対象としての「仮説」と認めていただいた瞬間でした。その日の夜は、うれしくて眠れませんでした。しかしその一年後、検討結果をお聞きすることなく、先生は他界されました。(つづく)

 


第1225話 2016/07/09

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(5)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の《三の矢》に悩んでいたわたしは、難波宮に関する先行論文の調査を続けました。その過程で、大和朝廷一元史観内でも前期難波宮の隔絶した規模に困惑している状況があることを知りました。

 たとえば中尾芳治著『難波京』(ニュー・サイエンス社、昭和61年)では、前期難波宮がその前後の近畿天皇家の宮殿(飛鳥板葺宮、飛鳥浄御原宮)とは規模も様式も隔絶していると指摘されています。

 「前期難波宮、すなわち長柄豊碕宮そのものが前後に隔絶した宮室となり、歴史上の大化改新の評価そのものに影響を及ぼすことになる。」(p.93)

 そしてこの前期難波宮の朝堂院様式が前後の宮殿となぜ異なったのかという説明に非常に苦しんでいる様子が吉田晶著『古代の難波』(教育社、1982年)にも記されています。

 「残る問題は、その宮室構造と規模がその後の天智の大津宮や天武の飛鳥浄御原宮に継承されたとは考えがたいのに対して、持統朝に完成する藤原宮に継承関係がみられることを、どう説明するか、(中略)宮室構造と規模などはすぐれてイデオロギー的要素をふくむ政治的構造物であり、考古学上の遺物たとえば土器の編年と同様に考えることはできず、物自体については「後戻り現象」(横山浩一氏の表現)も生じうる。その意味で形式変化における断絶性をそれほど重視する必要はない。」(p.167〜168)

 わたしは大和朝廷一元論者の困惑したこれらの文章を見て驚きました。それにしても「後戻り現象」なる奇妙な解釈を持ち込んでまで「形式変化における断絶性をそれほど重視する必要はない」というに及んでは、これは「思考停止」であり、学問的敗北です。すなわち、彼らも前期難波宮の隔絶した規模と様式を、大和朝廷一元史観の中で処理(理解)できないことを「告白」しているのでした。

 この学問的状況を知ったとき、わたしの脳裏に、前期難波宮は大和朝廷ではなく九州王朝の宮殿ではないかとする作業仮説(思いつき)が稲妻のようにひらめきました。と同時に、古田学派にとってもあまりに常識から外れたこの新概念に、学問的恐怖を覚えました。こんな非常識な仮説を発表して、もし間違っていたらどうしようと、わたしは呻吟したのです。真っ暗闇の中で、誰も行ったことのない場所に一歩踏み出すという最先端研究が持つ恐怖にかられた瞬間でした。(つづく)


第1224話 2016/07/08

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(4)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の最後《三の矢》についての解説です。実はこの《三の矢》こそ、わたしが最初に気づいた九州王朝説にとっての最大の難関でした。そして同時に「三本の矢」を跳ね返すヒントが秘められていたテーマでもありました。

《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 今から10年以上前のことです。わたしは古田先生の下で主に九州王朝史と九州年号研究に没頭していました。そうした中で悩み抜いた問題がありました。それは大阪市法円坂から出土していた孝徳天皇の前期難波宮址(『日本書紀』に見える難波長柄豊碕宮とされている)が7世紀中頃の宮殿として国内最大規模で最古の朝堂院様式であり、九州王朝の宮殿と考えてきた大宰府政庁2期の宮殿とは比較にならないほどの大きさだったことです。朝堂院部分の面積比だけでも前期難波宮は大宰府政庁の数倍は大きく、「大極殿」や「内裏」を含めるとその差は更に広がります。

  これではどちらが日本列島の代表者かわからず、大和朝廷一元論者だけではなく九州王朝説を知らない普通の人々が見れば、倭国王の宮殿としてどちらがふさわしいかという質問に対して、おそらく全員が前期難波宮と答えることでしょう。この考古学的出土事実は九州王朝説にとって「致命傷」になりかねない重要問題であることに気づいて以来、わたしは何年も悩みました。この悩みこそ、九州王朝説に突き刺さった《三の矢》なのです。

 古田先生も最晩年まで前期難波宮について悩んでおられたようで、当初は『日本書紀』に記されていない「近畿天皇家の宮殿」と言われていましたが、繰り返し問い続けると「わからない」とされました。古田先生さえ悩まれるほど、難解かつ重要なテーマだったのです。(つづく)


第1223話 2016/07/07

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(3)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」の《二の矢》について解説します。

《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。

 6〜7世紀における九州王朝で仏教が崇敬されていたことは、『隋書』に記された多利思北孤の記事や、九州年号に仏教色の強い漢字(僧要・僧聴・和僧・法清・仁王、他)が用いられていることからもうかがえます。このことはほとんどの九州王朝説論者が賛成するところでしょう。したがって、九州王朝説が正しければ、日本列島を代表する九州王朝の中心領域である北部九州に仏教寺院などの痕跡が日本列島中最多であるはずです。ところが考古学的出土事実は「6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿」なのです。これが九州王朝説に突き刺さった《二の矢》です。

 わたしがこの問題の深刻性にはっきりと気づいたのは、ある聖徳太子研究者のブログ中のやりとりで、九州王朝説支持者からの批判に対して、この《二の矢》の考古学的事実をもって九州王朝説に反論されている記事を読んだときでした。この九州王朝説反対論に対する九州王朝説側からの有効な再反論をわたしはまだ知りません。すなわち、この問題に関して九州王朝説側は大和朝廷一元史観との論争において「敗北」しているというよりも、まともな論争にさえなっていない「不戦敗」を喫しているとしても過言ではないのです。

 この《二の矢》については古田先生も問題意識を持っておられましたし、少数ですが検討を試みた研究者もありました。わたしの見るところ、それは次のようなアプローチでした。

1.北部九州の寺院遺跡の編年を50年ほど古く編年する。たとえば太宰府の観世音寺を7世紀初頭の創建と見なす。

2.近畿の古い寺院を北部九州から移築されたものと見なし、それにより、北部九州に古い寺院遺跡がないことの理由とする。

 主にこの二点を主張する論者がありました。しかし、この主張の前提には「北部九州には6世紀末から7世紀前半にかけての寺院の痕跡が無い」という考古学的事実を認めざるを得ないという「事実」認識があります。そして結論から言えば、これら二点のアプローチは成功していません。それは次の理由からも明らかです。

1.観世音寺の創建が白鳳時代(7世紀後半)であることは、史料事実(『二中歴』『勝山記』『日本帝皇年代記』に白鳳期あるいは白鳳10年〔670〕の創建とある)と考古学的出土事実(創建瓦が老司1式)からみても動きません。7世紀初頭創建説の論者からはこのような史料根拠や論証の明示がなく、「自分がこう思うからこうだ」あるいは「九州王朝説にとって不都合な事実は間違っているはずだから解釈変更によって否定してもよい」とする「思いつきや願望の強要」の域を出ていません。

2.現・法隆寺は別の寺院を移築したものとする見解にはわたしも賛成なのですが、それが北部九州から移築されたとする考古学的・文献史学的根拠が示されていません。その説明は史料事実の誤認・曲解や、論証を経ていない「どうとでも言える」程度の「思いつき」の域を出ていません。

 九州王朝説論者からはこの程度の「解釈」しか提示できていなかったため、大和朝廷一元史観論者を説得することもできず、彼らの「6〜7世紀を通じて日本列島内で最も仏教文化の痕跡が濃密に残っているのは近畿であり、その事実は当時の倭国の代表者は大和朝廷であることを示しており、九州王朝など存在しない」という頑固で強力な反論が「成立」しているのです。わたしたち古田学派が大和朝廷一元史観論者との「他流試合」で勝つためにはこの頑固で強力な《二の矢》から逃げることはできません。

 この《二の矢》に対する学問的反論の検討は主に「古田史学の会」関西例会の研究者により続けられてきました。たとえば難波天王寺(四天王寺)を九州王朝による創建とする見解を、わたしや服部静尚さん正木裕さんが発表してきましたし、難波や河内が6世紀末頃から九州王朝の直轄支配領域になったとする研究も報告されてきました。

 また別の角度からの研究として、従来は8世紀中頃に聖武天皇の命令により造営されたとする各地の国分寺ですが、その中に九州王朝により7世紀に創建された「国府寺」があるとする多元的「国分寺」研究が関東の肥沼孝治さんらにより精力的に進められています。多元的「国分寺」研究サークルのホームページにはこの調査報告が大量に記されています。

 こうした研究は、ようやくその研究成果が現れ始めた段階です。このテーマは7世紀における土器編年の再検討という問題にも発展しており、古田学派にとって考古学も避けては通れない重要な研究テーマとなっているのです。(つづく)


第1222話 2016/07/03

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(2)

 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」とわたしが名付けた考古学的出土事実から、九州王朝説論者は逃げることはできません。自説に不利な事実やデータを無視したり軽視しすることは学問的態度ではないからです。これが九州王朝説論者同士の論争なら、「考古学についてはわからない」などと言って逃げられるかもしれませんが(本当は逃げられません)、大和朝廷一元史観論者に対しては「敗北宣言」に等しく、「他流試合」ではそうした「逃げ」や言いわけは全く通用しません。
 こうしたことを踏まえて、この「三本の矢」について具体的に、その持つ意味について説明します。最初に《一の矢》を考察します。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。

 この考古学的事実は「邪馬台国」畿内説の隠れた「精神的支柱」となっているようです。すなわち、弥生時代の遺跡や遺物(主に金属器)については北部九州にかなわないが、その後の古墳時代は圧倒的に畿内や近畿に巨大な前方後円墳が分布しており、だから弥生時代の「邪馬台国」も畿内にあったと考えてもよい、という「理屈」が「邪馬台国」畿内説論者や大和朝廷一元史観を支えているのです。
 この難題に対して九州王朝説論者からは、当時、朝鮮半島諸国と交戦していたのは大和朝廷ではなく九州王朝であり、だから戦時に巨大な古墳など造営できないのは当然であると説明や反論をしてきました。しかし、この説明は九州王朝説論者内部には説得力を有しますが、大和朝廷一元論者に対しては全く無力です。なぜなら、全国を統一支配していた大和朝廷は近畿に巨大古墳を造営するだけの富と権力を持っており、大和朝廷の命令で朝鮮半島に出兵させられていた北部九州の豪族に巨大古墳を造れないのは当然と彼らは考えているからです。
 ですから九州王朝説を持ち出さなくても一元史観で説明可能であり、むしろ巨大古墳が近畿に濃密分布しているという事実そのものからは、北部九州よりも近畿に日本列島を代表する王朝があったとする理解を否定できないのです。この論理性はかなり頑固で強力であることを、九州王朝説論者はまず認識する必要があります。
 その上で、この近畿に巨大古墳が濃密分布するという事実を、九州王朝説の立場から合理的に説明しようとする試みが、「古田史学の会」関西例会で服部静尚さんが果敢に挑戦されており、わたしは期待を持ってそれを見守っている状況です。(つづく)


第1221話 2016/07/03九州王朝説に突き刺さった三本の矢(1)

九州王朝説に突き刺さった三本の矢(1)

 わたしたち古田学派にとって九州王朝の実在は自明のことですが、実は九州王朝説にとって今なお越えなければならない三つの難題があります。しかし残念ながらほとんどの研究者はその問題の重要性に気づいていないか、あるいは曖昧に「解釈」しているようで、ごく一部の研究者だけがその難題に果敢に挑戦してます。
 わたしはそれを「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」と表現していますが、7月23日(土)に東京家政学院大学で開催する『邪馬壹国の歴史学』出版記念講演会でこの問題を取り上げますので、それに先だってこの「三本の矢」について説明することにします。
 「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」とは次の三つの「考古学的出土事実」のことです。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 7月23日(土)の東京講演会では《三の矢》に関してのシンポジウムも開催しますので、ふるってご参加ください。(つづく)


第1220話 2016/07/02

日本学術振興会で講演しました

 昨日は午前中に大阪で代理店社長さんと面談した後、午後は京都に戻り、京都駅前のキャンパスプラザ京都で開催された日本学術振興会(学振)繊維・高分子機能加工第120委員会で講演しました。
 学振での講演は初めてなので、会場受付で参加者リストを入念にチェックし、コンペティター企業の名前が無いことを確認しました。先週、大阪の森ノ宮で行った「誰も知らなかった古代史セッション」とほぼ同じジャンルを取り扱うのですが、発表の仕方は全く異なります。「機能性色素」の歴史や概要、今後の展開など、同じようなテーマですが、一般参加者向けには、なるべくわかりやすく面白く話すように心がけるのですが、学会や業界の関係者相手の場合は、学術的に正確な発表が求められます。同時に企業機密を守りながら、会社や製品をさりげなく宣伝しなければなりませんから、かなり神経を使います。ですから、最初に必ず参加者リストをチェックしなければならないのです。
 冒頭、第120委員会の大内秋比古先生(日本大学教授)のご挨拶の後、村田機械・ホーユーなどの企業研究者、仕事でご協力いただいている椙山女学園大学の桑原里実さんや京都市産業技術研究所の早水さんらが講演され、わたしは一番最後に「機能性色素の概要とテキスタイルへの展開」という演題で講演しました。おかげさまで、「面白かった」と好評でした。
 講演会後の懇親会では多くの方と名刺交換したのですが、湘南工科大学教授の幾多信生先生から、「古賀さんの洛中洛外日記はいつも拝見しています」といきなり言われ驚きました。幾多先生は古田先生の大ファンで著作はほとんど読んだとのこと。更に、大阪府立大学の黒木宣彦先生から染色化学を学ばれたとのことで、わたしも社内研修で最晩年の黒木先生の講義を受けており、化学でも黒木研の同門であることがわかり、一気にうち解けることができました。更にとどめとして、幾多先生が湘南工科大学付属高校の校長をされていたとき、わたしが開発した近赤外線吸収染料を使用した赤外線透撮防止スクール水着を同校指定水着に採用されたとのことで、わたしは感謝感激でした。本当に二重三重の不思議なご縁でした。
 幾多先生との歓談は二次会でも続き、隣に座られていた学振120委員会委員長の大内秋比古先生(日本大学教授)に対して、わたしと幾多先生の二人がかりで古田説(短里・二倍年暦など)の説明を続けました。最後はお酒の勢いもあり、三人とも有機合成化学の専攻でしたから学生時代の実験の失敗談(ジアゾ化反応時の爆発事故、有機溶剤の火災事故など)に花が咲きました。わたしのfacebookにそのときの写真を掲載していますのでご覧ください。
 こうして初めの学振講演会は忘れ難い一日となりました。いろんな分野で古田先生の熱烈なファンとお会いした経験は少なくないのですが、わたしの関わっている学会や業界にもおられたことに、嬉しさもひとしおでした。


第1219話 2016/07/01

6月に配信した

「洛中洛外日記【号外】」のご紹介

 6月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記【号外】」は「古田史学の会」会員限定サービスです。

 6月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル

2016/06/01 今秋、「古田史学の会」福岡講演会を検討
2016/06/05 今年も愛知サマーセミナーに参加します
2016/06/06 冨川ケイ子さんを全国世話人に推薦
2016/06/13 「白雉七年 始国分寺」史料の紹介
2016/06/18 橘高修著『「百王相続」と「削偽定実」』
2016/06/22 「宮崎県史」古代史料編を斜め読み
2016/06/23 鹿児島県伊佐市の「ひしかり」地名
2016/06/24 「九州古代史の会」と交流再開


第1218話 2016/07/01

第1234話 2016/07/17 大盛況!東海学園高校でのサマーセミナー

愛知サマーセミナー2016に参加します

終了しました。

 「古田史学の会・東海」が毎年参加されている「愛知サマーセミナー2016」に今年も参加し、高校生に古田史学・多元史観の講義を行います。
 わたしは昨年初めて参加したのですが、高校生(社会人・中学生も参加)を相手に楽しく講義できました。何よりも参加された高校生・中学生の意識の高さに驚かされました。受講後に書いていただいたアンケート結果(感想文)を見ても、子供たちが古田史学や邪馬壹国説・九州王朝説を学校では習わない新しい古代史として真面目に受け止めていたことがよくわかりました。(昨年のアンケート結果は「洛中洛外日記【号外】2015/07/19 愛知サマーセミナー受講者の感想文」でご紹介しました。)
 「愛知サマーセミナー2016」の日時・会場などは次の通りです。詳細は主催者のホームページをご覧ください。

 「古田史学の会・東海」担当の講義
■日時 7月17日(日) 13:10〜14:30 14:50〜16:10
■会場 東海学園高校 2号館3階104教室(定員42人)
  地下鉄鶴舞線「原」駅下車 2番出口から徒歩約12分
  または市バス「平針南住宅」下車、徒歩約3分
 ※東海学園大学の門からは入場できません。高校側から入場してください。
■テーマ 教科書が教えない古代史「邪馬台国の真実」
■講師 古賀達也(古田史学の会・代表)、「古田史学の会・東海」のメンバー

第1002話 2015/07/19 愛知サマーセミナーで講義

第1005話 2015/07/22「愛知サマーセミナー」の成果と特長

第1006話 2015/07/22「愛知サマーセミナー」の反省点


第1217話 2016/06/30

愛知県一宮市馬見塚出土の甕棺墓

 図書館で『尾張史料の新研究』(森徳一郎著、昭和12年発行、昭和63年復刻)を閲覧したのですが、その中にある「尾張馬見塚甕棺群の真相(1)」によれば、愛知県一宮市馬見塚から大量の甕棺が出土していたことが記されていました(facebookに写真掲載)。
 甕棺墓と言えば北部九州の弥生時代の代表的墓制で、吉野ヶ里遺跡からも大量に出土しています。それと酷似した甕棺群が一宮市から出土していたとのことで、北部九州以外の地からこれほどの量の甕棺が出土するのは珍しいのではないでしょうか。
 説明によれば、金属器は出土しておらず、石器が一緒に出土しており、土器も弥生と縄文の中間の様相を示しているとのことですから、北部九州の甕棺墓よりも時代が古いのかもしれません。北部九州の甕棺墓と偶然の一致なのか、両者に何らかの関係があるのかはわかりませんが、とても興味深く思われました。おそらく、私が勉強不足で知らないだけで、他の地域からも同様の甕棺墓が発見されているかもしれません。引き続き、勉強したいと思います。詳しい方がおられれば、ご教示ください。


第1216話 2016/06/26

阿志岐山神籠石の列石は折れ線構造

 一昨日、九州出張から帰宅すると、八王子市の前田嘉彦さんから郵送物が届いており、その中に筑紫野市教育委員会発行の「ちくしの散歩 国指定史跡 阿志岐山城跡」という説明書がありました。前田さんは、わたしの久留米大学での講演などにも遠くから参加される熱心な研究者です。
 阿志岐山城跡とは平成11年に発見された、太宰府の東南に位置する神籠石山城(宮地岳)で、山頂部(標高338m)付近は列石が見あたらず未完成とのことです。いただいた説明書によれば、その列石は直線に並べた列石線を連続させていく「折れ構造」であり、北部九州の他の神籠石の「曲線構造」とは異なっており、瀬戸内地方にある神籠石に類似しているとのこと(瀬戸内型)。また、列石の積み上げ技術も石材の一部を切り欠く「切り欠き技法」という高度な技術が採用されているそうです。
 こうした形状や年代、そして神籠石内部の建築物遺構や土器の発見と調査が期待されます。なお、大野城・基肄城・阿志岐山城を太宰府鎮護の三山と理解する仮説「三山鎮護の都、太宰府」(「洛中洛外日記」第815話 2014/11/01)を発表していますので、ご覧ください。前田さんからいただいた説明書はFacebookに掲載しています。


第1215話 2016/06/21

健軍社縁起の九州年号「兄弟」

 熊本から島原に向かう高速フェリーの中で書いています。午前中に熊本駅に着きましたので、駅の近くの図書館で時間待ちをしました。地震で図書館も被災したようで、開架されているスペースが制限されており、歴史書や地誌はほとんど閲覧できませんでしたが、幸いにも『熊本市史』が並んでいましたので、「史料編 第三巻 近世1」(平成6年発刊)を大急ぎで調べたところ、探していた健軍社縁起「文化五年辰 詫摩健軍社縁起控」が収録されていました。
 その冒頭に次のような興味深い記事が、予想に違わず記されていました。

「健軍大明神縁起
一 天照大神六代之孫神、神武天皇第二之王子阿蘇大明神是也、兄弟天正五年十二月廿四日、十戊寅ノ歳、保昌国司、阿蘇大明神四社之一社、健軍ニ御建立被成候、」

 この「兄弟天正五年十二月廿四日、十戊寅ノ歳」の右横に細字で「是年号考ルニ、天平十年ナラン」と書き加えられています。活字本ではなく原文を見てみないと断定はできませんが、「兄弟天正五年」という表記について、干支の「戊寅ノ歳」から「天平十年(738年)」のことではないかと書き加えられたのと思われます。この冒頭の一見意味不明の「兄弟」こそ九州年号であり、558年に相当します。
 この「詫摩健軍社縁起控」は書写が繰り返されたようですので、本来は九州年号の「兄弟元年」とあったものが、書写段階で誤写誤伝されたようです。ちなみに「天正十五年」という表記が同縁起中に散見されることから、別の記事の「天正十五年」という表記が九州年号「兄弟元年」部分に書写段階で混ざり合ったものと思われます。
 他方、健軍神社の創建は欽明19年(558)と紹介されることが一般的ですから、これも本来の伝承は九州年号の「兄弟元年」であったものが、『日本書紀』成立以後に近畿天皇家の『日本書紀』紀年による表記「欽明天皇の19年」に置き換わったことがわかります。
 熊本駅でのわずかな待ち時間を利用しての図書閲覧でしたが、やはり健軍神社は九州王朝により「兄弟元年」に創建されたと考えてよいようです。健軍神社の縁起は他にも残されているはずですから、引き続き調査したいと思います。熊本県在住の方のご協力をいただければ幸いです。

 これからまたフェリーで天草に向かいます。大雨が心配です。